『浪合記』の世界の終焉の地は愛知県津島市2022年12月18日

 津島市の良王神社に参拝に行った。

・津島神社神主始まりは良王親王の御子良新様、良新様御子無き故、中島郡(稲沢市)に領地を持つ定嗣が跡を継ぎ、代々氷室を名乗り、津島神社神主として明治初期まで続く。

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 津島の歴史を語る上で外すことが出来ないのが浪合記と言う書物です。
 この浪合記は南北朝時代、後醍醐天皇の皇子である宗良親王の子の尹良(ゆきよし)親王、尹良親王の嫡子である良王(よしたか)君が東国で奮戦し、信濃、三河を通り尾張の津島に来るまでを描いた書物です。
 浪合とは三河から伊那谷に至る三州街道(現在の国道153号線)の飯田市の手前にある小さな村の名前で、現在は隣の阿智村に併合されています。寒原峠と治部坂峠に挟まれた寒村で、標高は約一千メートル。寒原峠を下りきったところが昼神温泉です。

・宗良親王 (1311年~1385年)


 後醍醐天皇の皇子の一人で、母は和歌の家である二条氏の出であり、幼い頃から和歌に秀でていた。
 南北朝時代、1338年、北畠親房と共に伊勢、大湊から陸奥国府に渡る際に、乗船していた舟が遠江沖で座礁し、井伊谷(浜名湖の北側)の井伊道政の元に身を寄せる。しかし1340年、足利方の高師泰、仁木義長らに井伊谷を攻められ落城し、宗良親王は越後寺泊、越中放生津などに身を寄せる。
 信濃、伊那谷の豪族、香坂高宗に招かれ、伊那谷の東、大河原(大鹿村)に入る。大河原は信濃宮と呼ばれ、1373年までこの大河原を根拠地に上野、武蔵を転戦。一時期は鎌倉を占領し、1352年には征夷大将軍となる。しかし、足利方に攻められ、鎌倉を手放し大河原に戻る。
 1355年、諏訪氏、仁科氏と諏訪の桔梗ヶ原で信濃守護の小笠原長基と戦うが敗退し、以後諏訪氏、仁科氏も守護方に寝返られる。
 1369年、関東管領、上杉朝房に攻められる。そして勢力の挽回も出来ず、1374年に大河原を離れ吉野に戻る。吉野では南朝方の歌人の和歌を集め、新葉和歌集を編纂し、1381年に完成する。1385年に亡くなったと言われている。

・浪合記
 
 南北朝時代、応永4年、(1397年)上野(群馬県)の南朝方の武士団、世良田、桃川両氏が後醍醐天皇の皇子で、東国で奮戦した宗長親王の皇子である尹良(ゆきよし)親王を、吉野より迎えることになりました。このとき尹良親王と共に吉野から伴ったのが、後に津島四家七名字と呼ばれる武士団でした。
 四家とは新田系の大橋、恒川、岡本、山川氏。七名字とは公家庶流の堀田、平野、服部、光賀、鈴木、真野、河村氏です。
 吉野を発った尹良親王たちは、駿河、甲斐を通り応永5年(1398年)上野の寺尾城に入りました。しかし時と共に南朝方は劣勢となり、尹良親王たちは、信濃に向かい、諏訪の豪族、千野頼憲を頼ります。そして応永31年(1424年)、尹良親王は子の良王(よしたか)君を下野(栃木県)の落合城に行かせて、自らは三河の山里に隠棲している南朝方の武士団の応援を求め、三河の足助に向かいます。その途中、飯田を越え、浪合村にさしかかる大野という土地で、飯田太郎、駒場小次郎という盗賊団と遭遇、両者に間で戦になります。尹良親王方は多くの供の侍を失い、尹良親王は大河原まで落ち延びますが、そこで自害をしました。

・時代は10年ほど下り、永享5年(1433年)、下野落合城の良王君は信濃に入り、永享7年(1435年)12月に、尾張津島に向かうことになります。良王君の供として世良田政義、桃井貞綱と津島四家七名字が同行しました。
 飯田を通り三河に向かう途中の浪合村で飯田、駒場の山賊団と遭遇し合戦となりました。この戦いで世良田、桃井の両氏は命を落としましたが、良王君は津島四家七名字に付き添われ、無事三河を通り、永享7年12月29日に尾張津島に到着、津島四家七名字の長である大橋定省(さだみ)の城である、奴野(ぬのや)城に入りました。
 奴野城は津島の北西に隣接し、現在の西方寺辺りになります。このとき津島四家七名字の他に、宇佐見、宇都宮、開田、野々村の四家が随行。この四家を四姓と呼び、十一家合わせて、津島十五家と呼ばれています。
 良王君は永享8年(1436年)に信濃で自害した亡き父、尹良親王の菩提を弔うために大龍寺を建立しました。良王君には桜姫という娘がいるが、大橋定省に元に嫁ぎ、大橋修理亮貞元、大橋三河守信吉など、男子多数を産んでいます。
 そして明応元年(1492年)に七十八歳で亡くなられます。逆算すれば1414年(応永19年)生まれと言うことになります。瑞泉寺が良王君の菩提寺となっています。

・天王祭


 浪合記には、後の天王祭の起源となる出来事の、説話も書かれています。
 天王川の下流の佐屋に、台尻大隅守という豪族がいて、良王と敵対していました。
 天王祭の夜、台尻大隅守は一族のものを引き連れ、舟を出し天王祭を見物に天王川を上ってきました。
 津島十一党のうち大橋を除く十艘が津島に有り、大橋の舟が市江にありました。そして大橋の舟が来たのを合図に、大隅守の舟を討つという謀を企てました。
 何も知らない大隅守たちは、舟を飾り立て天王祭を見物していました。頃合いを見て大橋が舟を出し、津島にやってくると、待ち構えていた十艘の舟が大隅の舟を散る囲み、討ち沈めました。乗っていた大隅の一族はみな舟から落ち、おぼれ死ぬ者も多数いました。
 このとき、宇佐見、宇都宮、開田、野々村の四姓は陸にいて、這い上がってくる大隅の一族を討ち果たしました。このため、四姓から舟は出しません。
 6月14日の夜の出来事でした。それから毎年6月14日に祭が行われるようになったと言われています。

・ 浪合記というものは、後世の書物で、その真偽ははっきりしません。後醍醐天皇の皇子である、宗良親王は実在の人物ですが、その子供である尹良親王、孫の良王君は実在の人物かわからないようです。
 しかし津島四家七名字は実在し、彼らが津島を納めていたのは紛れもない事実です。
 浪合記からわかることは、津島が南朝と深く関わっていたことです。
 伊勢湾の入り口の南伊勢には、伊勢神宮の門前町である宇治や山田があり、伊勢湾岸で最大の街で大消費地でした。そして神宮の外港である伊勢大湊は、伊勢湾の水運の要でした。
 この辺りは南朝の名門、北畠氏が治めていました。南伊勢は吉野と隣り合わせで、南朝の影響力の強い土地です。
 尾張は足利一門である斯波氏が治めていました。もちろんこちらは北朝です。
 津島は南朝ということで、南伊勢の人々と深く繋がり、尾張の他の地域よりも商売を有利に持って行き、新興の湊町でありながら大きく発展したのではないでしょうか。

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