『浪合記』ノート①2022年12月18日

良王神社に建っていた石碑
 2020年に津島神社へ自転車で参拝して以来2年ぶりに、尹良親王をめぐる歴史の調査で津島市へ行った。まづは良王神社へ参拝した。目的の神社がナビを使っても中々辿り着けなかった。津島市内は碁盤の目のような整然とした街づくりではない。人一人分の路地の道が錯綜していたからマイカーに乗ったままでは埒が明かない。そこで天王川公園の無料のPに止めて歩いて行って参拝を果たした。
 御醍醐天皇の子が宗良親王、その子が尹良(ゆきよし)親王、その子が良王(よしたか)親王である。参拝後は夕暮れの迫る中を津島図書館に急いだ。閉館は18時でまだ2時間はあるが目的物が見つかるか、探す時間がある。
 幸い司書さんの導きですぐに「『浪合記』天野信景偽作説弁駁」という薄い冊子が見つかった。ちょっと読むと平成27年というから『浪合記』の最新の情報である。
 著者は一宮市の元高校教員の廣瀬重見氏である。弁駁というように「他人の言論の誤りを攻撃すること。他人の説を言いやぶろうとして攻撃すること。」今も流布している偽作説、伝説に対する反論であった。内容的にアマチュアの域を出ている。ネットの検索で、昭和22年生まれ、岐阜県、皇學館大學文学部国史を卒業。福岡大学付属大濠高校、愛知県立一宮北高、江南高、一宮高の教諭を務めたとある。大川周明『列聖伝』の翻刻。
 天野信景とは尾張藩の学者である。この人の写本が出回ることで偽作説が広まったという。江戸時代の学者が南朝の時代の戦記を創作したとする説は東大の歴史学者から出ている。これへの弁駁である。天野信景は実証的な態度だからと擁護するように著者も実証的である。
 旧浪合村の宮の原の現存する尹良神社を見るととても偽作ではないと思う。これを書いた人は当時のことなので口承と記憶だけに頼ったのだ。言わば、『古事記』の成り立ちと同じである。

古事記(こじき)について
http://www15.plala.or.jp/kojiki/aboutkojiki.html

「古事記は、古代の日本人の先祖が、文字のない時代から口承(こうしょう)、つまり人から人へ語り継いで、頭の中に記憶してきた日本の神様たちの物語です。その豊かで大らかな想像力と日本人とはどういう民族が集まってできたのか(最初から、日本列島に日本という国があったわけではありません。)、また日本語という言葉や、現代まで伝えられている礼儀作法や生活習慣、宗教や道徳観などの日本人の伝統文化のルーツについての多くを知ることができます。」

 御醍醐天皇の皇子たち三代が遠州の井伊宮から始まり、伊那谷に出て大鹿村で信濃宮を陣取った。尹良親王は遠州の井伊で生まれた。三河の稲武で三河宮と呼ばれた。その子の良王親王は最終的に津島市に落ち延びた。それを支えた人々がいたのである。

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