ちはやぶる神の御坂に幣奉り 斎ふいのちは母父がため2022年12月14日

20221210神坂峠遺跡
愛国百人一首
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<歌意・鑑賞>
 「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞。「神の御坂」(かみのみさか)は、神を祭って行路の 平安を祈って越える坂のことで、いわゆる「峠」である。信濃国伊那郡から美濃国恵那郡に越え る現在の神坂峠と呼ばれる地であると言われている。「母父」は「おもちち」と読む。
 神を祀ってある山坂に、幣を捧げて平安を祈る命は私のためではなく、父母のためである。
<コメント>
 防人の歌。作者は信濃国の埴科郡の出身で、主張(ふみひと)という郡の書記職にあったといわ れる。しかし、郡の中でのそれだけの地位にある人物が防人になったのかという疑問もあり、 主張丁の「丁」の字が落ちたのではないかとも言われている。「主張丁」ならば、主張が差し 出した丁ということになる。正丁といえば成人男子をさす。その丁である。
 しかし、郡司の主張ではなく防人部領使に所属した主張があったも考えられる。そう考えれば 部領使の下で書記役を務めることができた防人とも考えられる。
 いずれにしても、これだけの歌を詠めたのであるから、書記をつとめられるくらいの素養が あったとしてもおかしくない人物であったのであろう。

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歴史
神坂峠は遺跡の出土品から畿内と東国とをつなぐ道として古代からの通行の要所となっていた。

古事記 (712年/奈良) において日本武尊やまとたけるのみことの東方遠征で「科野の坂の神を言向けて尾張国に還り来て」とは東山道の神坂峠と言われている。
また 755年 (天平勝宝7年/奈良)、防人に立った信濃国埴科郡神人部子忍男かむとべのこおしおが

「ちはやぶる 神の御坂に幣奉り 斎ふ命は母父のため」

と旅の無事を祈った歌が「万葉集」(巻20) に納められている。

815年 (弘仁6年/平安) には天台宗の開祖である伝教大師 (最澄) が東国巡化の折に神坂峠を通行したが、このあまりの難所ぶりを目の当たりにし、通行人の難儀を救うために広済院 (中津川側) と広拯院 (阿智側) という布施屋を建てた。