干支に因んだ山名の駒山を歩く ― 2026年01月25日
豊田市矢並町の医王寺で前泊。朝の勤行を聴いてありがたい法話を拝聴した。かつて七面山の敬慎院での冬の勤行はもっと厳しい体験だった。だが今回も寒波の中で低温下でミニ修行となった。
医王寺を出発。R153で稲武の入り口の水別峠で左折。凍結した積雪路の坂道を登って富永調整池のPに停める。
出発は11時過ぎになった。登山口への車道は雪を利用して急斜面の山林内をショートカット。大きなスポーツ施設の上に到達。そこから植林の中の山道に入る。雪はずっと続き途切れがない。上質の粉雪の道だ。林道と出合ったり離れたりして進む。ハイキングコースの案内板もあって雪の中でも見失うことはない。そのうち、床几の峠に着く。ここから右旋回して下ると又林道に出合う。しばらく林道上を歩くと東に展望が開けた。恵那山は見えないが多数の風力発電の山が見える。あれは上矢作町の大船山か。一方で少ない方の風力発電の山は稲武の井山だ。何となく茶臼山も特定出来た。
林道の傍らの石仏を見て駒山への信仰の道だったことを思う。そのうち神杉が林立する境内へと登る。かつて朽ちた堂宇があったが最終的には屋根が倒壊、今は撤去された。最高点に回って山頂票を確認。帰路は雪の中で埋もれる墓石群に詣でた。この社を守っていた住職の墓だ。物知りの話では厳しい修行ゆえに40歳台で死んだと言う。手を合わせて辞した。
屋根付きの休み所で小休止。その後1段下の崩壊の過程にある建物を見学。立派な構えだが朽ちるに任せる。
久々の駒山を辞して林道を戻った。途中、867mの三角点峰も登った。展望はないが最高点である。以後は往路を戻った。スポーツ施設では雪の斜面で子どもらがソリ遊びに興じていた。調整池のPで散会。
医王寺を出発。R153で稲武の入り口の水別峠で左折。凍結した積雪路の坂道を登って富永調整池のPに停める。
出発は11時過ぎになった。登山口への車道は雪を利用して急斜面の山林内をショートカット。大きなスポーツ施設の上に到達。そこから植林の中の山道に入る。雪はずっと続き途切れがない。上質の粉雪の道だ。林道と出合ったり離れたりして進む。ハイキングコースの案内板もあって雪の中でも見失うことはない。そのうち、床几の峠に着く。ここから右旋回して下ると又林道に出合う。しばらく林道上を歩くと東に展望が開けた。恵那山は見えないが多数の風力発電の山が見える。あれは上矢作町の大船山か。一方で少ない方の風力発電の山は稲武の井山だ。何となく茶臼山も特定出来た。
林道の傍らの石仏を見て駒山への信仰の道だったことを思う。そのうち神杉が林立する境内へと登る。かつて朽ちた堂宇があったが最終的には屋根が倒壊、今は撤去された。最高点に回って山頂票を確認。帰路は雪の中で埋もれる墓石群に詣でた。この社を守っていた住職の墓だ。物知りの話では厳しい修行ゆえに40歳台で死んだと言う。手を合わせて辞した。
屋根付きの休み所で小休止。その後1段下の崩壊の過程にある建物を見学。立派な構えだが朽ちるに任せる。
久々の駒山を辞して林道を戻った。途中、867mの三角点峰も登った。展望はないが最高点である。以後は往路を戻った。スポーツ施設では雪の斜面で子どもらがソリ遊びに興じていた。調整池のPで散会。
大谷山山麓の古寺に泊まる ― 2026年01月24日
山仲間に大谷山の山懐にある矢並町の古刹・医王寺の住職がいる。何年か前に名古屋市の日泰寺で長期間の修行を経て僧職の道に入った。檀家は居ないので現在は無住であるが以前から勤行を所望していたらこの程実現した。1月24日夜から25日の朝のお勤めを実現してもらった。
24日の昼間は自由なので2年ぶりに大谷山に登った。鞍ケ池公園のPは満車で止むなく登山口付近の林道の三叉路から往復した。冬の高曇りで展望は今一だが5日に登った村積山が見えている。下山後は医王寺に向かうと住職が既に居て準備中だった。
医王寺は鈴木正三(1579〜1655)由来である。どんな人物か。「昔から僧侶は多く、それぞれ宗派もあるが、どの僧侶もよく修めてその道に深くなりその派の権威者には成ろうと励むが、世間のすべての衆生にたいして法に照らして当てはめよう・掬い取ろうとする人は一人も居ない。
存在したかも知れないが、私はそのような僧侶は聞いたことがない。ざ~と観て、私がその始めかな」
「私は、80年近くの年月生き(教道の)苦労してきたけれども、誰も、真に耳を傾けて私の話を聞くものは居なかった。時流に合わなかったようだ。このままふり返られないまま、わたしは死にこれまでの苦労は徒労となるだろう。
そう思うと空しい。・・が、今、このように私の話に耳を貸さないとはいえ、後の世に書き記しておけば、ご縁によってこの気持ちに答えてくれる人が居ると信じている。そう思ってこれを書いているのだ。<これこそが、「不退転」の体現者である>
以上。
と言うわけです。異次元の山歩きになった。
24日の昼間は自由なので2年ぶりに大谷山に登った。鞍ケ池公園のPは満車で止むなく登山口付近の林道の三叉路から往復した。冬の高曇りで展望は今一だが5日に登った村積山が見えている。下山後は医王寺に向かうと住職が既に居て準備中だった。
医王寺は鈴木正三(1579〜1655)由来である。どんな人物か。「昔から僧侶は多く、それぞれ宗派もあるが、どの僧侶もよく修めてその道に深くなりその派の権威者には成ろうと励むが、世間のすべての衆生にたいして法に照らして当てはめよう・掬い取ろうとする人は一人も居ない。
存在したかも知れないが、私はそのような僧侶は聞いたことがない。ざ~と観て、私がその始めかな」
「私は、80年近くの年月生き(教道の)苦労してきたけれども、誰も、真に耳を傾けて私の話を聞くものは居なかった。時流に合わなかったようだ。このままふり返られないまま、わたしは死にこれまでの苦労は徒労となるだろう。
そう思うと空しい。・・が、今、このように私の話に耳を貸さないとはいえ、後の世に書き記しておけば、ご縁によってこの気持ちに答えてくれる人が居ると信じている。そう思ってこれを書いているのだ。<これこそが、「不退転」の体現者である>
以上。
と言うわけです。異次元の山歩きになった。
雪とグルメと温泉の釜ヶ谷山 ― 2026年01月11日
気象予報では雨が降るようで芳しくない。今回は久々に2名になったので冬の雨は嫌だな、と思いつつ出かけた。名古屋を5時には出る。すき家で朝定をかき込んで名二環に入り、名古屋高速一宮線で北上、R22に降りてR156へ、岩戸トンネルを抜けてすぐ左折、鵜飼い大橋で長良川を渡ると百々ヶ峰に突き当たる。R256に入って如来ヶ岳山麓を北上、県道79号を西へ行くと伊自良川と交差するので県道91号に右折。集合はてんこもり農産物直売所へ午前7時だがチエーンがあっては入れない。まだ薄暗いが相棒はコンビニで待っていていた。すぐ伊自良湖へ向かった。立ち寄りたいたい所があったが下山後だ。
下山後に江戸時代の地誌『新撰美濃志』を読んでみた。伊自良郷と呼ばれていたが伊自良村はなく、長瀧村の項目があった。伊自良は十郷あってそれぞれ字があった。・・・『釜嶽』は濃陽志略に「里民呼曰釜溪ト連互數里ニ絶頂有池四時不涸、此山雑樹葱岩石岣最爲奇也」と見えたり。『長瀧山、岸見山』伊自良の高山なり。伊自良川は此の山中より出づ。常は水なく、砂川にて洪雨の時水出づ。略。『甘南美寺』は臨済宗にて白華山と號す。開基は高阿彌、名知阿彌。本尊は千手十一面観音、脇立不動毘沙門なり。當國三十三所十三番に配す。引用は以上。
長瀧村の名残りは伊自良湖のすぐ下流の里の地名に見る。伊自良湖の湖面が見えると多数のボートが浮かんでいた。恋人同士が朝早くからデート?多分公魚釣りか、疑問のまま登山口の臨時Pに着いた。地形図で116m地点。あいにく小雨模様だ。オーバーヤッケで防寒と小雨対応の身支度を整えて出発。最初は舗装路を分け入ると杉の高木が生える森の中である。番号入りの観音の石仏が立っている。バンガローのような施設は今は冬のもの寂しい雰囲気である。しばらくは車道を歩くと二又に別れる。右は釜ヶ谷に沿う林道で赤谷の出合い迄続く。堰堤記号が三か所連続してあった。我々は釜ヶ谷本流に沿いながら直進。左へ上がって四阿などの施設で舗装路は終わった。ここからは未舗装の林道歩きだが次第に山路になった。途端に谷が立って来て傾斜が強まる。岩がごろごろした歩きにくい山路をこなしてゆくと優しい道になり、山頂からの南東尾根の端に立つ四阿に着いた。残念ながら展望はない。途中から小雨が降雪になった。一種の感動とともに不安も伴う。ここで雪に備えて雨具でザックをカバー。尾根の道からみぞれ谷の枝谷の源流を迂回すると奥の院に着いた。社殿は穴だらけだ。中をのぞくと座禅した板間があった。穴は多分風通しを良くして腐食を避けるためか、人が使わない建物は内にこもった湿気で腐る。雨の時は膨張して外からの湿気を防ぎ、乾燥した時は縮んで隙間風を入れてやる校倉造が理想ですが高額の建設費がかかる。
さて出発だ。左に丁度33番目の石仏が建っていた。美濃三十三観音霊場の十三番目の霊場だ。ここを後に登るとすぐに神社が建っていた。ここはおそらく明治維新で「仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する」という仏教の信仰や施設を否定する運動の影響か。説明を読むと明治3年とある。祖神は皇祖神のアマテラスだった。
地形図で等高線が密にになり、急登を強いられた。行者岩に到達、上に登ると、最近登った百々ヶ峰と金華山が見えた。ちょっと荒れ気味の登山道を登ると龍神コースへの分岐に着いた。降ったり止んだりしていたが標高640mまで来ると冷気が違う。一面真っ白になった。小さなコブを巻くと待望の山頂だった。千把小屋という避難小屋まである。扉がないので雪が吹き込んで床は白い。小屋の四隅の角は丁度腰掛に良いのがあって少し休めた。
休憩中にもどんどん降って来る。眺めもなく止みそうにないので往路の下山を決めた。連続的に降雪路を下る。桧の林に下っても断続的に雪がある。滑落しないようにゆっくり慎重に下った。東屋まで下るとやっと落ち葉の道になり安定的に歩ける。車道に着いてほっと一安心。そこから余裕で石仏の番号を見ながら下ってPに戻った。
帰りは甘南美寺に寄って参拝。池の鯉の大きさに見とれた。もう一ヶ所、「伊自良湖 FISHIG & ADVENTURE PARK」に寄った。公魚(わかさぎ)の天ぷらはあるか、聞いたらフライはあるとの回答。13時だったがラーメンと公魚のフライ(二人で一つ)を注文。朝6時半から釣りボートを営業するから恋人のデートではなかった。疑問が解けた。待っている間にも車にどんどん積もって来た。雪とグルメの冬日和を楽しめた。
もう一つおまけに帰りがけに約30分の所にある武芸川温泉に寄って入湯した。900円と高くなったにもかかわらず、そして大雪というのに大勢のお客が詰めかけて来た。これには驚いた。
下山後に江戸時代の地誌『新撰美濃志』を読んでみた。伊自良郷と呼ばれていたが伊自良村はなく、長瀧村の項目があった。伊自良は十郷あってそれぞれ字があった。・・・『釜嶽』は濃陽志略に「里民呼曰釜溪ト連互數里ニ絶頂有池四時不涸、此山雑樹葱岩石岣最爲奇也」と見えたり。『長瀧山、岸見山』伊自良の高山なり。伊自良川は此の山中より出づ。常は水なく、砂川にて洪雨の時水出づ。略。『甘南美寺』は臨済宗にて白華山と號す。開基は高阿彌、名知阿彌。本尊は千手十一面観音、脇立不動毘沙門なり。當國三十三所十三番に配す。引用は以上。
長瀧村の名残りは伊自良湖のすぐ下流の里の地名に見る。伊自良湖の湖面が見えると多数のボートが浮かんでいた。恋人同士が朝早くからデート?多分公魚釣りか、疑問のまま登山口の臨時Pに着いた。地形図で116m地点。あいにく小雨模様だ。オーバーヤッケで防寒と小雨対応の身支度を整えて出発。最初は舗装路を分け入ると杉の高木が生える森の中である。番号入りの観音の石仏が立っている。バンガローのような施設は今は冬のもの寂しい雰囲気である。しばらくは車道を歩くと二又に別れる。右は釜ヶ谷に沿う林道で赤谷の出合い迄続く。堰堤記号が三か所連続してあった。我々は釜ヶ谷本流に沿いながら直進。左へ上がって四阿などの施設で舗装路は終わった。ここからは未舗装の林道歩きだが次第に山路になった。途端に谷が立って来て傾斜が強まる。岩がごろごろした歩きにくい山路をこなしてゆくと優しい道になり、山頂からの南東尾根の端に立つ四阿に着いた。残念ながら展望はない。途中から小雨が降雪になった。一種の感動とともに不安も伴う。ここで雪に備えて雨具でザックをカバー。尾根の道からみぞれ谷の枝谷の源流を迂回すると奥の院に着いた。社殿は穴だらけだ。中をのぞくと座禅した板間があった。穴は多分風通しを良くして腐食を避けるためか、人が使わない建物は内にこもった湿気で腐る。雨の時は膨張して外からの湿気を防ぎ、乾燥した時は縮んで隙間風を入れてやる校倉造が理想ですが高額の建設費がかかる。
さて出発だ。左に丁度33番目の石仏が建っていた。美濃三十三観音霊場の十三番目の霊場だ。ここを後に登るとすぐに神社が建っていた。ここはおそらく明治維新で「仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する」という仏教の信仰や施設を否定する運動の影響か。説明を読むと明治3年とある。祖神は皇祖神のアマテラスだった。
地形図で等高線が密にになり、急登を強いられた。行者岩に到達、上に登ると、最近登った百々ヶ峰と金華山が見えた。ちょっと荒れ気味の登山道を登ると龍神コースへの分岐に着いた。降ったり止んだりしていたが標高640mまで来ると冷気が違う。一面真っ白になった。小さなコブを巻くと待望の山頂だった。千把小屋という避難小屋まである。扉がないので雪が吹き込んで床は白い。小屋の四隅の角は丁度腰掛に良いのがあって少し休めた。
休憩中にもどんどん降って来る。眺めもなく止みそうにないので往路の下山を決めた。連続的に降雪路を下る。桧の林に下っても断続的に雪がある。滑落しないようにゆっくり慎重に下った。東屋まで下るとやっと落ち葉の道になり安定的に歩ける。車道に着いてほっと一安心。そこから余裕で石仏の番号を見ながら下ってPに戻った。
帰りは甘南美寺に寄って参拝。池の鯉の大きさに見とれた。もう一ヶ所、「伊自良湖 FISHIG & ADVENTURE PARK」に寄った。公魚(わかさぎ)の天ぷらはあるか、聞いたらフライはあるとの回答。13時だったがラーメンと公魚のフライ(二人で一つ)を注文。朝6時半から釣りボートを営業するから恋人のデートではなかった。疑問が解けた。待っている間にも車にどんどん積もって来た。雪とグルメの冬日和を楽しめた。
もう一つおまけに帰りがけに約30分の所にある武芸川温泉に寄って入湯した。900円と高くなったにもかかわらず、そして大雪というのに大勢のお客が詰めかけて来た。これには驚いた。
遠望峰山から桑谷山へ ― 2025年12月06日
11/29の岡崎市の帰路、三河湾スカイライン経由で登ろうとしたが日没が迫り、且つ着いた山上のホテルの駐車場の賑わいにモチベーションがだだ下がりになって撤退した。きちんと山路を歩いて登ろうとヤマップで調べた。不動ヶ池公園を起点に幸田町側から周回して見た。
今日は冬日和で絶好の登山日和になった。名古屋からR23バイパスを辿って東三河へのアクセスは一段と楽になった。
ナビに指定しておいた貴嶺宮に着く。Pの一角に停めさせてもらう。車道に出ると貴嶺宮の植樹に赤い椿が冬日を浴びて美しい。しばらくはやや傾斜のある車道を歩く。すると水飲み場が整備されている。よほど伏流水が多い山なのだろう。標高250m超の車道の急カーブでよく注意すると踏み跡が奥へと続き、赤テープのマーキングも見えるので車道から離れる。等高線300mの末端に坂野峠の道標が建っている。地元山岳会の活動であろう。ここから蒲郡市と幸田町の境界尾根に取り付く。左は植林、右は常緑樹の混じる雑木林で下にはスカイラインが見える。
尾根には四角いコンクリートの箱がある。水の流れる音がするので山上ホテルの排水だろうか。上部へ登ると常緑樹の原生林も見えて来る。
山上に建つ天の丸が近づくと山路は右へやや下り尾根の中心から外れて迂回する。樹林越しにホテルの一角も見えている。天の丸をやり過ごすと等高線がきつくなって落葉で滑りやすい。滑落を注意しながら喘ぐと傾斜が弱まり冬黄葉の見える山頂の一角に着く。
三差路に着く。左から登って来る天の丸からの登山はセメントで舗装されている。右へ行くと遠望峰山の山頂だった。しかし山名通りとはならず何も展望はない。明治時代はこの辺りに大阪の堂島で行われていた米相場の情報を中継する「旗振り」の岩室があったらしい。ちょっと探ってもそれらしい雰囲気はない。
お茶を飲んでから展望台へ行ってみた。途中にはやはり常緑樹の大木が残っている。足元には冬苺も群生している。ゆるやかに下るとカヤトの広場で三河湾に開けていた。三河大島が見え、少し右に移動すると渥美半島の田原市の蔵王山から衣笠山も見える。トヨタの田原工場も見える。後ろには椿の大樹の向こうに電波塔が建っている。赤い椿白い椿の花が美しい。
小春日和でカヤトが微風にそよぐ。ぼーっとするのも良い場所だが先がある。山頂に登り返して天の丸ホテルへの道を辿るが、行き過ぎるのでGPSでチエックすると途中に右の尾根の山路に入る。植林内の道を辿るとスカイラインの三差路に下る。
しばらくスカイラインを歩いて目印で山路に迂回、最明山は地形図上の遠望峰山という看板のピークを通過。確かに最高点の443mも遠望峰山であるが、地形図の記載は総称としての名称であってピークを命名したものではない。
またスカイラインに出て、GPSを見ながら桑谷山への入り口を目指す。一番近い接点から斜面を登ると踏み跡に合流した。桑谷山は40年以上前に車で登ってさっさと一等三角点の標石を往復しただけだから山路は歩いていない。若い女性の2人連れとすれ違い、山路を辿ると久々の一等三角点に登頂できた。
午後3時を回った。冬日はまだ高い。追いかけるように下山路は日の沈む西の方へずっと山道を辿り、最明山のピークを踏んで未舗装の林道に降り立つ。途中で左右に分かれるが左は不動ヶ池公園につながる。右は大井池に下る林道である。急カーブ後の318mの標高点から真西への尾根道に入る。ずっと落葉広葉樹の尾根通しの道を下る。明るい良い道だがフィックスロープのある急斜面もあって滑落しないように注意深くくだった。
下部では鉄塔巡視路を辿りながら不動ヶ池公園への車道に降りたつとPは近い。午後4時過ぎ、冬日は勢いよく三河湾に落ちて行く。今日の幸田町の日没は16時39分、西側の尾根だからいつまでも明るいとはいえぎりぎりだった。Pには2~3台だけになった。R23で帰名。
今日は冬日和で絶好の登山日和になった。名古屋からR23バイパスを辿って東三河へのアクセスは一段と楽になった。
ナビに指定しておいた貴嶺宮に着く。Pの一角に停めさせてもらう。車道に出ると貴嶺宮の植樹に赤い椿が冬日を浴びて美しい。しばらくはやや傾斜のある車道を歩く。すると水飲み場が整備されている。よほど伏流水が多い山なのだろう。標高250m超の車道の急カーブでよく注意すると踏み跡が奥へと続き、赤テープのマーキングも見えるので車道から離れる。等高線300mの末端に坂野峠の道標が建っている。地元山岳会の活動であろう。ここから蒲郡市と幸田町の境界尾根に取り付く。左は植林、右は常緑樹の混じる雑木林で下にはスカイラインが見える。
尾根には四角いコンクリートの箱がある。水の流れる音がするので山上ホテルの排水だろうか。上部へ登ると常緑樹の原生林も見えて来る。
山上に建つ天の丸が近づくと山路は右へやや下り尾根の中心から外れて迂回する。樹林越しにホテルの一角も見えている。天の丸をやり過ごすと等高線がきつくなって落葉で滑りやすい。滑落を注意しながら喘ぐと傾斜が弱まり冬黄葉の見える山頂の一角に着く。
三差路に着く。左から登って来る天の丸からの登山はセメントで舗装されている。右へ行くと遠望峰山の山頂だった。しかし山名通りとはならず何も展望はない。明治時代はこの辺りに大阪の堂島で行われていた米相場の情報を中継する「旗振り」の岩室があったらしい。ちょっと探ってもそれらしい雰囲気はない。
お茶を飲んでから展望台へ行ってみた。途中にはやはり常緑樹の大木が残っている。足元には冬苺も群生している。ゆるやかに下るとカヤトの広場で三河湾に開けていた。三河大島が見え、少し右に移動すると渥美半島の田原市の蔵王山から衣笠山も見える。トヨタの田原工場も見える。後ろには椿の大樹の向こうに電波塔が建っている。赤い椿白い椿の花が美しい。
小春日和でカヤトが微風にそよぐ。ぼーっとするのも良い場所だが先がある。山頂に登り返して天の丸ホテルへの道を辿るが、行き過ぎるのでGPSでチエックすると途中に右の尾根の山路に入る。植林内の道を辿るとスカイラインの三差路に下る。
しばらくスカイラインを歩いて目印で山路に迂回、最明山は地形図上の遠望峰山という看板のピークを通過。確かに最高点の443mも遠望峰山であるが、地形図の記載は総称としての名称であってピークを命名したものではない。
またスカイラインに出て、GPSを見ながら桑谷山への入り口を目指す。一番近い接点から斜面を登ると踏み跡に合流した。桑谷山は40年以上前に車で登ってさっさと一等三角点の標石を往復しただけだから山路は歩いていない。若い女性の2人連れとすれ違い、山路を辿ると久々の一等三角点に登頂できた。
午後3時を回った。冬日はまだ高い。追いかけるように下山路は日の沈む西の方へずっと山道を辿り、最明山のピークを踏んで未舗装の林道に降り立つ。途中で左右に分かれるが左は不動ヶ池公園につながる。右は大井池に下る林道である。急カーブ後の318mの標高点から真西への尾根道に入る。ずっと落葉広葉樹の尾根通しの道を下る。明るい良い道だがフィックスロープのある急斜面もあって滑落しないように注意深くくだった。
下部では鉄塔巡視路を辿りながら不動ヶ池公園への車道に降りたつとPは近い。午後4時過ぎ、冬日は勢いよく三河湾に落ちて行く。今日の幸田町の日没は16時39分、西側の尾根だからいつまでも明るいとはいえぎりぎりだった。Pには2~3台だけになった。R23で帰名。
緑濃き毘沙門天や神の留守 ― 2025年10月27日
名古屋市緑区の徳重熊野社の奥に毘沙門の名称の最高点85mがある。地形図では独立標高点に表記されている。
土日ともぐずついた天気だったが本日は秋晴れが広がった。
緑区の毘沙門天を目標に自宅からウォーキングを開始。天白川の堤高15m地点から天白公園の近くを抜けてR302の交差点で標高70m、比高55mの緩斜面の車道を登った。さわやかな空気で汗はかかない。ゆるりと下って三叉路で熊野社の境内に突き当たるので細道を探しながら半周した。結局神社とのフェンスで参詣路は無く、反対側にある毘沙門天王参拝路の石碑から直登した。
ヤマトタケルの様な石像が建っている。今回で2回目の登頂である。社叢は密集していて景色は隙間も無い。但し小鳥の鳴き声が盛んに聞こえる。野鳥の営巣地だろうか。
ヤマップの高度計は80m、カシオの高度計は100mとバラツキが出た。近くには国土地理院の標柱が落ちているので計測はしたのだろう。
良い道が熊野社へ向かって下っている。社叢の密な光の差さない道を下ると熊野社の社殿に着いた。毘沙門天への道標まであった。
社殿に参拝後長い階段を下って街に出て、喫茶店の支留比亜でウォーキングを打ち切った。自宅までは原行きのバスで戻る。1時間50分のウォーキングもバスなら15分で原駅。
土日ともぐずついた天気だったが本日は秋晴れが広がった。
緑区の毘沙門天を目標に自宅からウォーキングを開始。天白川の堤高15m地点から天白公園の近くを抜けてR302の交差点で標高70m、比高55mの緩斜面の車道を登った。さわやかな空気で汗はかかない。ゆるりと下って三叉路で熊野社の境内に突き当たるので細道を探しながら半周した。結局神社とのフェンスで参詣路は無く、反対側にある毘沙門天王参拝路の石碑から直登した。
ヤマトタケルの様な石像が建っている。今回で2回目の登頂である。社叢は密集していて景色は隙間も無い。但し小鳥の鳴き声が盛んに聞こえる。野鳥の営巣地だろうか。
ヤマップの高度計は80m、カシオの高度計は100mとバラツキが出た。近くには国土地理院の標柱が落ちているので計測はしたのだろう。
良い道が熊野社へ向かって下っている。社叢の密な光の差さない道を下ると熊野社の社殿に着いた。毘沙門天への道標まであった。
社殿に参拝後長い階段を下って街に出て、喫茶店の支留比亜でウォーキングを打ち切った。自宅までは原行きのバスで戻る。1時間50分のウォーキングもバスなら15分で原駅。
大峰山脈・山上ヶ岳に登る。 ― 2025年10月10日
10/9の夜は大淀町の道の駅吉野路大淀センターで仮眠。軽自動車なので窮屈だったが丸まって寝た。
10/10の午前5時に出発、R169からR370,R309とナビ任せで泥川温泉に導かれた。ごろごろ茶屋駐車場に着いたがまだ奥があると走ると913.1mの三角点のあるPが広がっていた。店舗はあったが無人、封筒に1日1000円を入れて投函する仕組みだった。支度を整えておにぎり1個をお茶で流し込んで出発。橋を渡ると女人結界の石柱が建っている。1300年の歴史があるから前近代的とは言うなかれ。
登山道はゆるやかに整備されている。一の世茶屋はすぐに着く。一本松茶屋までは山腹を縫う道で歩き易い。更に先の洞辻茶屋で稜線に上がる。谷間から尾根上に登って明るい。吉野方面から大峰奥駈け道が合わさる。この道は熊のへ続き世界遺産ともなった奥駈け道である。小屋で休んでいたら一人東京から来て奥駈け道を目指したが雨で引き返す途中だった。世間話に花を咲かせていると1時間の長休みになった。
稜線になると自然も豊になる。左右二手に分かれた道は左へ。先の人が慎重に、とアドバイスしてくれたが、重装備だから慎重になったのだろう。我々は日帰りで軽いから心配はいらない。
鐘掛岩には鎖場まで立ち寄ったが霧で引き返す。登山道は平坦になった。西ノ覗岩も霧でパス。平坦ながら岩場の通過があるので捗らない。その内宿坊の立ち並ぶ一角に着いた。大峰山寺の手前まで来たのだ。古い宿坊の軒先にザックを置いて空身で山上に登った。境内に着くと左が本堂だった。右の高まりがあるので細道を行くと背の低い笹原の中にお花畑と山頂の看板が立つ。左折して笹の小径を歩くと一等三角点のある山頂だった。その奥は聖蹟、右は湧出岩の石柱が建つ。どうやらこれがシンボルらしい。
登山者としては一等三角点の大峰山上に関心がある。1887(明治20)年埋設。補点である。奈良県の一等三角点は8座あり、これで6座登った。大峰山系では釈迦ヶ岳、玉置山に次ぐ三座目になる。釈迦ヶ岳は東のコブシ嶺から眺めると三角錐の立派な山容だがこの山は望岳した覚えがない。それも今になった理由である。
釈迦ヶ岳は三十代に登った。西行法師が小夜の中山で詠んだ和歌
年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山
私もまた後期高齢者になってから登りに来れるとは。命があればこそこうして霧を突いて登山出来た。
霧の中で長居は出来ない。霧しょんべんといってずぶぬれになりそうだ。先の宿坊へ戻ってザックからおにぎりを出して食う。冷涼な自然の中では喉の渇きもないからお茶もまだある。来た道を戻った。二手の道は板の階段道で滑りやすいので慎重に下る。洞辻茶屋で休憩。ここで稜線から谷筋の道へ入る。雰囲気が随分変わる。水飲み場にはソーメンが落ちている。これが不潔感を誘うので手を洗うにとどめた。きれいに使って欲しい。
歩き易い道になるが先は長い。そんな倦んだ気分を変えてくれたのは鹿の啼き声だった。
遠くよりな滑りそと啼く鹿の声 拙作
※な~その間に連用形、未然形の動詞を入れると軽い禁止になる。
足もとに気を付けて滑らないように下りなさい、と山の主のような鹿が導いてくれるかに聞こえる。最後の茶屋を見て一段と歩き易い山路まで来るとPに出た。やっぱり我々の車だけあった。支度して動き始めると軽自動車のパトカーが来て我々を見るとUターンしていった。誰かが6時頃から15時30分ごろまで動かない車があうるよ、と警察に通報したんだろうか。ごろごろ茶屋には多数の観光客が居た。さらにくだると昭和レトロな洞川の商店街に出て帰りたくなくなった。結果、柿の葉寿司を購入、洞川温泉に入湯したりとミニ観光で余韻を楽しんだ。
R309に戻ると奈良の複雑な道路網を抜けてようやく名阪道路に入れた。
10/10の午前5時に出発、R169からR370,R309とナビ任せで泥川温泉に導かれた。ごろごろ茶屋駐車場に着いたがまだ奥があると走ると913.1mの三角点のあるPが広がっていた。店舗はあったが無人、封筒に1日1000円を入れて投函する仕組みだった。支度を整えておにぎり1個をお茶で流し込んで出発。橋を渡ると女人結界の石柱が建っている。1300年の歴史があるから前近代的とは言うなかれ。
登山道はゆるやかに整備されている。一の世茶屋はすぐに着く。一本松茶屋までは山腹を縫う道で歩き易い。更に先の洞辻茶屋で稜線に上がる。谷間から尾根上に登って明るい。吉野方面から大峰奥駈け道が合わさる。この道は熊のへ続き世界遺産ともなった奥駈け道である。小屋で休んでいたら一人東京から来て奥駈け道を目指したが雨で引き返す途中だった。世間話に花を咲かせていると1時間の長休みになった。
稜線になると自然も豊になる。左右二手に分かれた道は左へ。先の人が慎重に、とアドバイスしてくれたが、重装備だから慎重になったのだろう。我々は日帰りで軽いから心配はいらない。
鐘掛岩には鎖場まで立ち寄ったが霧で引き返す。登山道は平坦になった。西ノ覗岩も霧でパス。平坦ながら岩場の通過があるので捗らない。その内宿坊の立ち並ぶ一角に着いた。大峰山寺の手前まで来たのだ。古い宿坊の軒先にザックを置いて空身で山上に登った。境内に着くと左が本堂だった。右の高まりがあるので細道を行くと背の低い笹原の中にお花畑と山頂の看板が立つ。左折して笹の小径を歩くと一等三角点のある山頂だった。その奥は聖蹟、右は湧出岩の石柱が建つ。どうやらこれがシンボルらしい。
登山者としては一等三角点の大峰山上に関心がある。1887(明治20)年埋設。補点である。奈良県の一等三角点は8座あり、これで6座登った。大峰山系では釈迦ヶ岳、玉置山に次ぐ三座目になる。釈迦ヶ岳は東のコブシ嶺から眺めると三角錐の立派な山容だがこの山は望岳した覚えがない。それも今になった理由である。
釈迦ヶ岳は三十代に登った。西行法師が小夜の中山で詠んだ和歌
年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山
私もまた後期高齢者になってから登りに来れるとは。命があればこそこうして霧を突いて登山出来た。
霧の中で長居は出来ない。霧しょんべんといってずぶぬれになりそうだ。先の宿坊へ戻ってザックからおにぎりを出して食う。冷涼な自然の中では喉の渇きもないからお茶もまだある。来た道を戻った。二手の道は板の階段道で滑りやすいので慎重に下る。洞辻茶屋で休憩。ここで稜線から谷筋の道へ入る。雰囲気が随分変わる。水飲み場にはソーメンが落ちている。これが不潔感を誘うので手を洗うにとどめた。きれいに使って欲しい。
歩き易い道になるが先は長い。そんな倦んだ気分を変えてくれたのは鹿の啼き声だった。
遠くよりな滑りそと啼く鹿の声 拙作
※な~その間に連用形、未然形の動詞を入れると軽い禁止になる。
足もとに気を付けて滑らないように下りなさい、と山の主のような鹿が導いてくれるかに聞こえる。最後の茶屋を見て一段と歩き易い山路まで来るとPに出た。やっぱり我々の車だけあった。支度して動き始めると軽自動車のパトカーが来て我々を見るとUターンしていった。誰かが6時頃から15時30分ごろまで動かない車があうるよ、と警察に通報したんだろうか。ごろごろ茶屋には多数の観光客が居た。さらにくだると昭和レトロな洞川の商店街に出て帰りたくなくなった。結果、柿の葉寿司を購入、洞川温泉に入湯したりとミニ観光で余韻を楽しんだ。
R309に戻ると奈良の複雑な道路網を抜けてようやく名阪道路に入れた。
安祥城址へ行く ― 2025年09月21日
今日も朝遅く起きてしまった。県内なら急ぐこともあるまいと正午前に出発した。目的地は安祥城祉を目指す。天白からはR153から県道56号に入りしばらく東郷町を走ると境川の橋を渡ると三河入りする。県道56号を東進すると矢作川を渡って岩津に行く。今日はナビに安祥城址を仕掛けて在り南下を始めた。昨日と違って丘すらもない平野部で刺激が少ない。
それでも西尾線南安城駅に近いところに安祥城址はあった。但し大乗寺の境内に飲み込まれているから城らしい雰囲気はない。砦ですらない。安城歴史博物館へ回り込んでP。だだっ広い中に停めて入口を探しながら歩くと安祥公民館に入って見たがここは会合の場だった。出て博物館に入り直すが子供らが大勢屯している。何やら来るところではない気がする。土産物コーナーをのぞくと書籍も展示してあるので『家康と松平一族』(令和3年開館30周年記念の発行)が目に付いた。これが今日来た目的だったので1600円で購入した。
博物館を出て大乗寺の境内を散策してみたが城らしさはない。学芸員、地元ボランティアガイドでもあればありがたい。とにかくこことが松平町に興った初代松平親氏から初代松平乗元が治めた大給城(おぎゅうじょう)、初代は松平信光の岩津城と岡崎平野に進出してきた。安祥城は信光の子の親忠が初代城主である。
松平家初代松平親氏、二代目松平泰親、三代目松平信光(岩津)、四代目松平親忠は信光の三男で安城城主、五代目松平長親は親忠の子で安城松平の二代目、六代目松平信忠は長親の子で安城松平の三代目、七代目松平清康は信忠の子で安城松平の四代目、八代目松平広忠は清康の子。
清康は家康の祖父で「天文4年(1535)に織田信秀を攻略するために尾張守山に出陣したところ、家臣の阿部弥七郎に殺され、松平氏の三河領国支配は瓦解した。」とある。家康の父の広忠も「広忠は天文10年水野忠政の娘である於大と結婚し、翌年家康が生まれた。しかし、同12年水野氏が織田方になったために於大を離縁、翌年 田原城主戸田康光の娘真喜姫と結婚した。同18年織田方の佐久間全孝の刺客岩松八弥に岡崎城内で殺された。」と波乱の生涯を生きた。
応仁の乱は人の世は空し、で1467年から10年間争いが続き、京都の町は焼け野原になったという。京都だけにとどまらず、三河でも永正三河の大乱があって地方へと拡散された。そのまま戦国時代となって1615年の徳川幕府開府で決着した。
家康の祖父の清康(1511~1535)は25歳で家臣に殺された。父の広忠(1526~1549)は24歳で刺客に殺されている。
それでも西尾線南安城駅に近いところに安祥城址はあった。但し大乗寺の境内に飲み込まれているから城らしい雰囲気はない。砦ですらない。安城歴史博物館へ回り込んでP。だだっ広い中に停めて入口を探しながら歩くと安祥公民館に入って見たがここは会合の場だった。出て博物館に入り直すが子供らが大勢屯している。何やら来るところではない気がする。土産物コーナーをのぞくと書籍も展示してあるので『家康と松平一族』(令和3年開館30周年記念の発行)が目に付いた。これが今日来た目的だったので1600円で購入した。
博物館を出て大乗寺の境内を散策してみたが城らしさはない。学芸員、地元ボランティアガイドでもあればありがたい。とにかくこことが松平町に興った初代松平親氏から初代松平乗元が治めた大給城(おぎゅうじょう)、初代は松平信光の岩津城と岡崎平野に進出してきた。安祥城は信光の子の親忠が初代城主である。
松平家初代松平親氏、二代目松平泰親、三代目松平信光(岩津)、四代目松平親忠は信光の三男で安城城主、五代目松平長親は親忠の子で安城松平の二代目、六代目松平信忠は長親の子で安城松平の三代目、七代目松平清康は信忠の子で安城松平の四代目、八代目松平広忠は清康の子。
清康は家康の祖父で「天文4年(1535)に織田信秀を攻略するために尾張守山に出陣したところ、家臣の阿部弥七郎に殺され、松平氏の三河領国支配は瓦解した。」とある。家康の父の広忠も「広忠は天文10年水野忠政の娘である於大と結婚し、翌年家康が生まれた。しかし、同12年水野氏が織田方になったために於大を離縁、翌年 田原城主戸田康光の娘真喜姫と結婚した。同18年織田方の佐久間全孝の刺客岩松八弥に岡崎城内で殺された。」と波乱の生涯を生きた。
応仁の乱は人の世は空し、で1467年から10年間争いが続き、京都の町は焼け野原になったという。京都だけにとどまらず、三河でも永正三河の大乱があって地方へと拡散された。そのまま戦国時代となって1615年の徳川幕府開府で決着した。
家康の祖父の清康(1511~1535)は25歳で家臣に殺された。父の広忠(1526~1549)は24歳で刺客に殺されている。
参道に銀杏落葉や定光寺 拙作 ― 2024年12月15日
猿投山に凍て雲がかかるような寒い一日であった。午後から気になっていた定光寺にドライブしてきた。
計画ではJR定光寺駅から山星山を経て高根山を踏み、愛環中水野駅で乗車。高蔵寺駅乗り換えで帰名の予定だった。さらに足を延ばして東谷山を登って高蔵寺駅へ歩くプランもある。最大5時間程度だから短日の今でも無理はない。
しかし、どうも行く気がしないのでドライブに留めた。市中は年末とあって車が多い。午後発なので東名名古屋ICから春日井ICを経てR155から庄内川を渡り、愛岐道路から県道へ走った。案内板に従って急カーブの多い登り坂を登りきると定光寺に着く。指定のPへ止める。
境内は年末とあって閑散としている。冬紅葉も今日は高曇りで冴えない。スロープを下ると鶏小屋がある。6羽飼われている。家人は居ると思うが気配はない。
愛知県の公式観光ガイドのHPには「定光寺は、尾張の鬼門封じの役を担い「参詣すれば災難はたちどころに消えて多くの福が授かる」と広く信仰を集めてきました。尾張藩祖徳川義直公の廟所と室町時代後期の建築である本堂「無為殿」はともに国の文化財に指定」とある。
瀬戸市のHPで本堂は「
一重裳(も)階(こし)付・入母屋造、柿葺
室町時代後期
所在地:定光寺町 所有者:定光寺
定光寺は建武3年(1336)に平心処斎によって開かれた禅宗寺院です。
その後火災や地震等の災害があったため、創建当初の建物は残されていません。現在の本堂も天文元年(1532)の炎上後、同三年に再建されたもので、定光寺に残る一番古い建物になります。
本堂は桁行(けたゆき)五間、梁間(はりま)五間の正方形で、裳階(もこし)がついているため、二階建てのように見えますが、実際は一階建ての建物です。
昭和12年(1937)の解体修理の際に、屋根の形を変更し、現在の禅宗様の入母屋造りに復元しました。屋根は厚さ三ミリの薄い板を重ねて葺く柿(こけら)葺きです。組物や桟唐戸(さんからど)、本尊が納められている厨子などに典型的な室町時代中期の禅宗様式がみられます。
(広報せと平成18年2月15日号「瀬戸の文化財第2回」より)」と紹介されている。
同「源敬公墓 1棟、唐門(からもん) 1棟、焼香(しょうこう)殿(祭文(さいもん)殿)1棟、宝蔵(ほうぞう)(祭(さい)器(き)庫)1棟、龍(りゅう)の門 1棟、築地(ついじ)塀 1棟、獅子(しし)の門 1棟 計7棟
江戸時代前期(慶安4年(1651)~承応元年(1652))
所在地:定光寺町 所有者:個人
慶安3年(1650)に没した尾張藩祖徳川義直(源敬公)の廟(墓)で、義直の遺命により定光寺の北東に隣接して築かれたものです。
廟は中国の渡来人陳元贇(ちんげんぴん)の設計により日本でも数少ない儒教式の配置を取っています。
死亡した翌年の慶安4年(1651)に墳墓と石標を造立し、その翌年の承応元年(1652)に焼香殿、宝蔵、門、築地塀などが完成しました。焼香殿の敷瓦は、瀬戸市域で焼かれたものです。同時期の諸大名の廟建築が仏寺式や神道式となっているのに対して、注目される構造です。
(広報せと平成18年3月15日号「瀬戸の文化財第3回」より(一部加筆修正)」
※「源敬公」は徳川義直の諡号(しごう:高貴な身分の人に死後贈られる美称)。2020/03/17
※源敬公(徳川義直)廟(げんけいこう(とくがわよしなお)びょう) 慶安3年(1650)に没した尾張藩祖徳川義直(源敬公)の廟(墓)で、義直の遺命により定光寺の北東に隣接して築かれたものです。2011/03/28
より詳細な紹介文は
「応夢山定光寺は、臨済宗妙心寺派に属し、地蔵菩薩を本尊とする。建武3(1336) 年に覚源禅師( 平心処斎) により開山された。
里人の協力によって本堂を建立する際に雲水たちが定光仏と言う霊像を掘り出した夢を見たので、山号を応夢山、寺号を定光寺とした。
本堂は国指定重要文化財である。本堂( 仏殿) は、暦応3(1340) 年に建立され、火災にあったが明応2(1493) 年に再建された。本尊を安置する宮殿は明応9(1500) 年に完成している。
本堂の上層部分は、明治13(1880) 年以前には板葺きの切妻造の仮屋根となっていたが、昭和13(1938) 年には本堂全体の解体修理が行われ、上層仮屋根は同様の建築様式の事例や宮殿の構造を基にこけら葺の入母屋造に復元された。本堂は、方三間の主屋の周囲に裳階をとりつけた構造で、下層の斗や桟唐戸、外壁の花頭窓、内部の海老虹梁や大虹梁・大瓶束の特徴は、典型的な禅宗様をなしている。」
Pの奥からは雑木林が伐開されて見晴らしがよい。遠くには名古屋駅前の巨大ビル群が見えた。伊吹山辺りは雪雲に覆われていた。
計画ではJR定光寺駅から山星山を経て高根山を踏み、愛環中水野駅で乗車。高蔵寺駅乗り換えで帰名の予定だった。さらに足を延ばして東谷山を登って高蔵寺駅へ歩くプランもある。最大5時間程度だから短日の今でも無理はない。
しかし、どうも行く気がしないのでドライブに留めた。市中は年末とあって車が多い。午後発なので東名名古屋ICから春日井ICを経てR155から庄内川を渡り、愛岐道路から県道へ走った。案内板に従って急カーブの多い登り坂を登りきると定光寺に着く。指定のPへ止める。
境内は年末とあって閑散としている。冬紅葉も今日は高曇りで冴えない。スロープを下ると鶏小屋がある。6羽飼われている。家人は居ると思うが気配はない。
愛知県の公式観光ガイドのHPには「定光寺は、尾張の鬼門封じの役を担い「参詣すれば災難はたちどころに消えて多くの福が授かる」と広く信仰を集めてきました。尾張藩祖徳川義直公の廟所と室町時代後期の建築である本堂「無為殿」はともに国の文化財に指定」とある。
瀬戸市のHPで本堂は「
一重裳(も)階(こし)付・入母屋造、柿葺
室町時代後期
所在地:定光寺町 所有者:定光寺
定光寺は建武3年(1336)に平心処斎によって開かれた禅宗寺院です。
その後火災や地震等の災害があったため、創建当初の建物は残されていません。現在の本堂も天文元年(1532)の炎上後、同三年に再建されたもので、定光寺に残る一番古い建物になります。
本堂は桁行(けたゆき)五間、梁間(はりま)五間の正方形で、裳階(もこし)がついているため、二階建てのように見えますが、実際は一階建ての建物です。
昭和12年(1937)の解体修理の際に、屋根の形を変更し、現在の禅宗様の入母屋造りに復元しました。屋根は厚さ三ミリの薄い板を重ねて葺く柿(こけら)葺きです。組物や桟唐戸(さんからど)、本尊が納められている厨子などに典型的な室町時代中期の禅宗様式がみられます。
(広報せと平成18年2月15日号「瀬戸の文化財第2回」より)」と紹介されている。
同「源敬公墓 1棟、唐門(からもん) 1棟、焼香(しょうこう)殿(祭文(さいもん)殿)1棟、宝蔵(ほうぞう)(祭(さい)器(き)庫)1棟、龍(りゅう)の門 1棟、築地(ついじ)塀 1棟、獅子(しし)の門 1棟 計7棟
江戸時代前期(慶安4年(1651)~承応元年(1652))
所在地:定光寺町 所有者:個人
慶安3年(1650)に没した尾張藩祖徳川義直(源敬公)の廟(墓)で、義直の遺命により定光寺の北東に隣接して築かれたものです。
廟は中国の渡来人陳元贇(ちんげんぴん)の設計により日本でも数少ない儒教式の配置を取っています。
死亡した翌年の慶安4年(1651)に墳墓と石標を造立し、その翌年の承応元年(1652)に焼香殿、宝蔵、門、築地塀などが完成しました。焼香殿の敷瓦は、瀬戸市域で焼かれたものです。同時期の諸大名の廟建築が仏寺式や神道式となっているのに対して、注目される構造です。
(広報せと平成18年3月15日号「瀬戸の文化財第3回」より(一部加筆修正)」
※「源敬公」は徳川義直の諡号(しごう:高貴な身分の人に死後贈られる美称)。2020/03/17
※源敬公(徳川義直)廟(げんけいこう(とくがわよしなお)びょう) 慶安3年(1650)に没した尾張藩祖徳川義直(源敬公)の廟(墓)で、義直の遺命により定光寺の北東に隣接して築かれたものです。2011/03/28
より詳細な紹介文は
「応夢山定光寺は、臨済宗妙心寺派に属し、地蔵菩薩を本尊とする。建武3(1336) 年に覚源禅師( 平心処斎) により開山された。
里人の協力によって本堂を建立する際に雲水たちが定光仏と言う霊像を掘り出した夢を見たので、山号を応夢山、寺号を定光寺とした。
本堂は国指定重要文化財である。本堂( 仏殿) は、暦応3(1340) 年に建立され、火災にあったが明応2(1493) 年に再建された。本尊を安置する宮殿は明応9(1500) 年に完成している。
本堂の上層部分は、明治13(1880) 年以前には板葺きの切妻造の仮屋根となっていたが、昭和13(1938) 年には本堂全体の解体修理が行われ、上層仮屋根は同様の建築様式の事例や宮殿の構造を基にこけら葺の入母屋造に復元された。本堂は、方三間の主屋の周囲に裳階をとりつけた構造で、下層の斗や桟唐戸、外壁の花頭窓、内部の海老虹梁や大虹梁・大瓶束の特徴は、典型的な禅宗様をなしている。」
Pの奥からは雑木林が伐開されて見晴らしがよい。遠くには名古屋駅前の巨大ビル群が見えた。伊吹山辺りは雪雲に覆われていた。
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