休日は疲れを癒す冬日和 拙作2022年12月11日

 12/10の登山は久々に朝7時半から15時まで休みを入れて7時間以上のアルバイトになった。下山後は温泉に入るなどして疲労回復に努めたが日曜日は何もやる気が起きなかった。12/9のタイヤ交換で腰の疲れも少しはあるからだろう。これが加齢によるものだろう。

東京へ行きて小津忌を偲びたし 拙作2022年12月12日

 今日は映画監督の小津安二郎の誕生日で且つ命日である。東京の映画館でいくつか作品を鑑賞してみたい。
 紀子三部作といわれる
1 東京物語

2 麦秋

3 晩春

 その他に岸恵子主演の
4 早春

5 彼岸花

6 小早川家の秋

7 秋刀魚の味

8 浮草

9 秋日和

10 戸田家の兄弟

訃報2022年12月13日

 朝早く弟から電話があった。母方の叔父の妻の死亡だった。今夜は通夜、明日は葬式という。2020年の4月の伯母の死亡もコロナで葬式には行かなかった。今回も相談で行かないことにした。叔父には電話で弔意を知らせた。もう87歳だとい。声は元気だが。これからは寂しくなるね、と。

ちはやぶる神の御坂に幣奉り 斎ふいのちは母父がため2022年12月14日

20221210神坂峠遺跡
愛国百人一首
http://nagaraushi.g1.xrea.com/ai-kooshio.html

<歌意・鑑賞>
 「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞。「神の御坂」(かみのみさか)は、神を祭って行路の 平安を祈って越える坂のことで、いわゆる「峠」である。信濃国伊那郡から美濃国恵那郡に越え る現在の神坂峠と呼ばれる地であると言われている。「母父」は「おもちち」と読む。
 神を祀ってある山坂に、幣を捧げて平安を祈る命は私のためではなく、父母のためである。
<コメント>
 防人の歌。作者は信濃国の埴科郡の出身で、主張(ふみひと)という郡の書記職にあったといわ れる。しかし、郡の中でのそれだけの地位にある人物が防人になったのかという疑問もあり、 主張丁の「丁」の字が落ちたのではないかとも言われている。「主張丁」ならば、主張が差し 出した丁ということになる。正丁といえば成人男子をさす。その丁である。
 しかし、郡司の主張ではなく防人部領使に所属した主張があったも考えられる。そう考えれば 部領使の下で書記役を務めることができた防人とも考えられる。
 いずれにしても、これだけの歌を詠めたのであるから、書記をつとめられるくらいの素養が あったとしてもおかしくない人物であったのであろう。

http://agimura.net/index.php5/%E7%A5%9E%E5%9D%82%E5%B3%A0
歴史
神坂峠は遺跡の出土品から畿内と東国とをつなぐ道として古代からの通行の要所となっていた。

古事記 (712年/奈良) において日本武尊やまとたけるのみことの東方遠征で「科野の坂の神を言向けて尾張国に還り来て」とは東山道の神坂峠と言われている。
また 755年 (天平勝宝7年/奈良)、防人に立った信濃国埴科郡神人部子忍男かむとべのこおしおが

「ちはやぶる 神の御坂に幣奉り 斎ふ命は母父のため」

と旅の無事を祈った歌が「万葉集」(巻20) に納められている。

815年 (弘仁6年/平安) には天台宗の開祖である伝教大師 (最澄) が東国巡化の折に神坂峠を通行したが、このあまりの難所ぶりを目の当たりにし、通行人の難儀を救うために広済院 (中津川側) と広拯院 (阿智側) という布施屋を建てた。

スマホ買い換え2022年12月15日

 2017年に購入したスマホの老朽化が著しいので買い換えた。今年5月にバッテリーを交換したがしばらくは良かったものの最近は立ち上がりが遅くなりイラつくことが多い。それではスマートではないから新品にした。これからいろいろ使い込んで行きたい。
 友人のクルマで山に行った際に夜でも見知らぬ道にどんどん誘い込んでいく。スマホのナビの威力をしってからこちらもフルに使ってきた。ヤマップをしってからも使い込んだ。
 要するにこの3年くらいのうちにGPSの活用が頻繁になった。携帯電話の延長でしかなかったスマホから急速に活躍の機会が増えてきたわけだ。だからくたびれたんだろう。
 古いスマホよご苦労様でした。

面談1社2022年12月16日

 久々に仕事での面談の機会が得られた。午後1番で出かけてきた。これまでのキャリアを生かせて中小企業の経営のサポートになれば良い。

映画「土を喰らう十二カ月」を鑑賞2022年12月17日

午後から天気が悪くなる予報。見たかった映画に行くことにした。「土を喰らう十二カ月」は以前に水上勉の原作を読んでいたので、料理の内容をどんな内容で画像化した飲んだろうという興味深々だった。
 当初はあちこちでかかっていたが今はミリオン座くらいになった。しかも1日1回の上映という。余り評価が高く無さそうだ。主演は沢田研二と松たか子という華のある俳優なので期待した。
 信州が舞台なのでロケーションは良かったと思う。山家の老作家の独り住まいに東京かららしい松たか子の原稿を催促に訪ねる。そこから料理の数々が展開されてゆく。精進料理である。
 原作にある言葉をセリフに差し込みながらそれなりに退屈はしなかった。但し鳩は映画では山鳩と言っていたがあれは伝書鳩だ。姿、鳴き方、習性を見てもわざとらしい場面だった。
 購入した作品又は映画の原作になった作品
①『土を喰ふ日々』文化出版局 1978 のち新潮文庫(随筆集)

②『精進百撰』岩波書店 1997 のち現代文庫(写真随筆集)、田畑書店 2022に復刊

③『五番町夕霧楼』文藝春秋新社 1963(『別冊文藝春秋』1962年9月号) のち角川文庫、新潮文庫、小学館
『枯野の人』光風社 1963

④『湖の琴』講談社 1966(角川文庫 1968年)(『読売新聞』1965年7月23日-66年6月8日)

⑤『湖北の女』集英社(コンパクト・ブックス)1966(『週刊女性』1965年3-12月) のち文庫

⑥『はなれ瞽女おりん』新潮社 1975(「はなれ瞽女おりん」『小説新潮』1974年2月号、「はなれ瞽女口伝」『小説新潮』1974年8月号)、のち文庫、新編「越後つついし親不知・はなれ瞽女おりん」

⑦『良寛を歩く』日本放送出版協会 1986 のち集英社文庫(紀行文集)

 他に映画作品では「飢餓海峡」などいい作品の原作を手掛けている。

 映画の場面では焼き物の窯に入っているところで心筋梗塞になる。実際は「1989年(平成元年)、訪中作家団の団長として訪れた北京において天安門事件を目の当たりにし、市内の交通が途絶して北京飯店に三日間足止めになるが、東京からの救援機第1号にて帰国。直後に心筋梗塞で倒れ、集中治療室に三日間入り、心臓の三分の二が壊死、1993年「蛍」など療養とリハビリを背景とした作品を執筆、北京滞在時、および闘病の体験は『心筋梗塞の前後』として刊行されている。心筋梗塞後は軽井沢の別荘を売って、長野県北御牧村に家を買い、仕事場を移した。」
 『土を喰う日々』は1978年なので心筋梗塞以前の発刊になる。したがって映画「土を喰らう十二カ月」では創作してある。どちらかと言えば、1989年の心筋梗塞に罹病後の1997年の『精進百撰』に近い。2022年10月28日に復刊したのも映画のベースにしたからだろう。
 田畑書店のHPから
「心筋梗塞で倒れ心臓の3分の2を壊死し失った著者。病身に適した食生活を求めたとき、蘇ったのは少年時代禅寺の侍者として触れた精進料理の世界であった…。

本書は水上勉がすべての料理を手がけ、器は北御牧在住の陶芸家角りわ子が制作した。

今回全写真をリフレッシュし、料理とそれを盛る器の魅力がいっそう楽しめるようになりました。

誰でも何歳からでもここから始められる、精進料理入門の名著復刊。」

 映画でも器を長時間写していた気がする。あれはそんな背景があったのかと、今更思った。器とともに楽しむ映画だったのだ。

『浪合記』の世界の終焉の地は愛知県津島市2022年12月18日

 津島市の良王神社に参拝に行った。

・津島神社神主始まりは良王親王の御子良新様、良新様御子無き故、中島郡(稲沢市)に領地を持つ定嗣が跡を継ぎ、代々氷室を名乗り、津島神社神主として明治初期まで続く。

https://ameblo.jp/mini1575a3/entry-11900653850.html
 津島の歴史を語る上で外すことが出来ないのが浪合記と言う書物です。
 この浪合記は南北朝時代、後醍醐天皇の皇子である宗良親王の子の尹良(ゆきよし)親王、尹良親王の嫡子である良王(よしたか)君が東国で奮戦し、信濃、三河を通り尾張の津島に来るまでを描いた書物です。
 浪合とは三河から伊那谷に至る三州街道(現在の国道153号線)の飯田市の手前にある小さな村の名前で、現在は隣の阿智村に併合されています。寒原峠と治部坂峠に挟まれた寒村で、標高は約一千メートル。寒原峠を下りきったところが昼神温泉です。

・宗良親王 (1311年~1385年)


 後醍醐天皇の皇子の一人で、母は和歌の家である二条氏の出であり、幼い頃から和歌に秀でていた。
 南北朝時代、1338年、北畠親房と共に伊勢、大湊から陸奥国府に渡る際に、乗船していた舟が遠江沖で座礁し、井伊谷(浜名湖の北側)の井伊道政の元に身を寄せる。しかし1340年、足利方の高師泰、仁木義長らに井伊谷を攻められ落城し、宗良親王は越後寺泊、越中放生津などに身を寄せる。
 信濃、伊那谷の豪族、香坂高宗に招かれ、伊那谷の東、大河原(大鹿村)に入る。大河原は信濃宮と呼ばれ、1373年までこの大河原を根拠地に上野、武蔵を転戦。一時期は鎌倉を占領し、1352年には征夷大将軍となる。しかし、足利方に攻められ、鎌倉を手放し大河原に戻る。
 1355年、諏訪氏、仁科氏と諏訪の桔梗ヶ原で信濃守護の小笠原長基と戦うが敗退し、以後諏訪氏、仁科氏も守護方に寝返られる。
 1369年、関東管領、上杉朝房に攻められる。そして勢力の挽回も出来ず、1374年に大河原を離れ吉野に戻る。吉野では南朝方の歌人の和歌を集め、新葉和歌集を編纂し、1381年に完成する。1385年に亡くなったと言われている。

・浪合記
 
 南北朝時代、応永4年、(1397年)上野(群馬県)の南朝方の武士団、世良田、桃川両氏が後醍醐天皇の皇子で、東国で奮戦した宗長親王の皇子である尹良(ゆきよし)親王を、吉野より迎えることになりました。このとき尹良親王と共に吉野から伴ったのが、後に津島四家七名字と呼ばれる武士団でした。
 四家とは新田系の大橋、恒川、岡本、山川氏。七名字とは公家庶流の堀田、平野、服部、光賀、鈴木、真野、河村氏です。
 吉野を発った尹良親王たちは、駿河、甲斐を通り応永5年(1398年)上野の寺尾城に入りました。しかし時と共に南朝方は劣勢となり、尹良親王たちは、信濃に向かい、諏訪の豪族、千野頼憲を頼ります。そして応永31年(1424年)、尹良親王は子の良王(よしたか)君を下野(栃木県)の落合城に行かせて、自らは三河の山里に隠棲している南朝方の武士団の応援を求め、三河の足助に向かいます。その途中、飯田を越え、浪合村にさしかかる大野という土地で、飯田太郎、駒場小次郎という盗賊団と遭遇、両者に間で戦になります。尹良親王方は多くの供の侍を失い、尹良親王は大河原まで落ち延びますが、そこで自害をしました。

・時代は10年ほど下り、永享5年(1433年)、下野落合城の良王君は信濃に入り、永享7年(1435年)12月に、尾張津島に向かうことになります。良王君の供として世良田政義、桃井貞綱と津島四家七名字が同行しました。
 飯田を通り三河に向かう途中の浪合村で飯田、駒場の山賊団と遭遇し合戦となりました。この戦いで世良田、桃井の両氏は命を落としましたが、良王君は津島四家七名字に付き添われ、無事三河を通り、永享7年12月29日に尾張津島に到着、津島四家七名字の長である大橋定省(さだみ)の城である、奴野(ぬのや)城に入りました。
 奴野城は津島の北西に隣接し、現在の西方寺辺りになります。このとき津島四家七名字の他に、宇佐見、宇都宮、開田、野々村の四家が随行。この四家を四姓と呼び、十一家合わせて、津島十五家と呼ばれています。
 良王君は永享8年(1436年)に信濃で自害した亡き父、尹良親王の菩提を弔うために大龍寺を建立しました。良王君には桜姫という娘がいるが、大橋定省に元に嫁ぎ、大橋修理亮貞元、大橋三河守信吉など、男子多数を産んでいます。
 そして明応元年(1492年)に七十八歳で亡くなられます。逆算すれば1414年(応永19年)生まれと言うことになります。瑞泉寺が良王君の菩提寺となっています。

・天王祭


 浪合記には、後の天王祭の起源となる出来事の、説話も書かれています。
 天王川の下流の佐屋に、台尻大隅守という豪族がいて、良王と敵対していました。
 天王祭の夜、台尻大隅守は一族のものを引き連れ、舟を出し天王祭を見物に天王川を上ってきました。
 津島十一党のうち大橋を除く十艘が津島に有り、大橋の舟が市江にありました。そして大橋の舟が来たのを合図に、大隅守の舟を討つという謀を企てました。
 何も知らない大隅守たちは、舟を飾り立て天王祭を見物していました。頃合いを見て大橋が舟を出し、津島にやってくると、待ち構えていた十艘の舟が大隅の舟を散る囲み、討ち沈めました。乗っていた大隅の一族はみな舟から落ち、おぼれ死ぬ者も多数いました。
 このとき、宇佐見、宇都宮、開田、野々村の四姓は陸にいて、這い上がってくる大隅の一族を討ち果たしました。このため、四姓から舟は出しません。
 6月14日の夜の出来事でした。それから毎年6月14日に祭が行われるようになったと言われています。

・ 浪合記というものは、後世の書物で、その真偽ははっきりしません。後醍醐天皇の皇子である、宗良親王は実在の人物ですが、その子供である尹良親王、孫の良王君は実在の人物かわからないようです。
 しかし津島四家七名字は実在し、彼らが津島を納めていたのは紛れもない事実です。
 浪合記からわかることは、津島が南朝と深く関わっていたことです。
 伊勢湾の入り口の南伊勢には、伊勢神宮の門前町である宇治や山田があり、伊勢湾岸で最大の街で大消費地でした。そして神宮の外港である伊勢大湊は、伊勢湾の水運の要でした。
 この辺りは南朝の名門、北畠氏が治めていました。南伊勢は吉野と隣り合わせで、南朝の影響力の強い土地です。
 尾張は足利一門である斯波氏が治めていました。もちろんこちらは北朝です。
 津島は南朝ということで、南伊勢の人々と深く繋がり、尾張の他の地域よりも商売を有利に持って行き、新興の湊町でありながら大きく発展したのではないでしょうか。

『浪合記』ノート①2022年12月18日

良王神社に建っていた石碑
 2020年に津島神社へ自転車で参拝して以来2年ぶりに、尹良親王をめぐる歴史の調査で津島市へ行った。まづは良王神社へ参拝した。目的の神社がナビを使っても中々辿り着けなかった。津島市内は碁盤の目のような整然とした街づくりではない。人一人分の路地の道が錯綜していたからマイカーに乗ったままでは埒が明かない。そこで天王川公園の無料のPに止めて歩いて行って参拝を果たした。
 御醍醐天皇の子が宗良親王、その子が尹良(ゆきよし)親王、その子が良王(よしたか)親王である。参拝後は夕暮れの迫る中を津島図書館に急いだ。閉館は18時でまだ2時間はあるが目的物が見つかるか、探す時間がある。
 幸い司書さんの導きですぐに「『浪合記』天野信景偽作説弁駁」という薄い冊子が見つかった。ちょっと読むと平成27年というから『浪合記』の最新の情報である。
 著者は一宮市の元高校教員の廣瀬重見氏である。弁駁というように「他人の言論の誤りを攻撃すること。他人の説を言いやぶろうとして攻撃すること。」今も流布している偽作説、伝説に対する反論であった。内容的にアマチュアの域を出ている。ネットの検索で、昭和22年生まれ、岐阜県、皇學館大學文学部国史を卒業。福岡大学付属大濠高校、愛知県立一宮北高、江南高、一宮高の教諭を務めたとある。大川周明『列聖伝』の翻刻。
 天野信景とは尾張藩の学者である。この人の写本が出回ることで偽作説が広まったという。江戸時代の学者が南朝の時代の戦記を創作したとする説は東大の歴史学者から出ている。これへの弁駁である。天野信景は実証的な態度だからと擁護するように著者も実証的である。
 旧浪合村の宮の原の現存する尹良神社を見るととても偽作ではないと思う。これを書いた人は当時のことなので口承と記憶だけに頼ったのだ。言わば、『古事記』の成り立ちと同じである。

古事記(こじき)について
http://www15.plala.or.jp/kojiki/aboutkojiki.html

「古事記は、古代の日本人の先祖が、文字のない時代から口承(こうしょう)、つまり人から人へ語り継いで、頭の中に記憶してきた日本の神様たちの物語です。その豊かで大らかな想像力と日本人とはどういう民族が集まってできたのか(最初から、日本列島に日本という国があったわけではありません。)、また日本語という言葉や、現代まで伝えられている礼儀作法や生活習慣、宗教や道徳観などの日本人の伝統文化のルーツについての多くを知ることができます。」

 御醍醐天皇の皇子たち三代が遠州の井伊宮から始まり、伊那谷に出て大鹿村で信濃宮を陣取った。尹良親王は遠州の井伊で生まれた。三河の稲武で三河宮と呼ばれた。その子の良王親王は最終的に津島市に落ち延びた。それを支えた人々がいたのである。

『浪合記』ノート②2022年12月19日

 津島市図書館で気になったのは『浪合記・桜雲記』という本だった。コピーに時間を取られて閲覧もできなかった。横断検索しても津島市にしかないのでまた再訪するか。
 ウィキペディアにもあった。
『桜雲記』(おううんき)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立で、作者は書物奉行浅羽成儀と推測されている。書名は、南朝の舞台が吉野であることからして、雲かと見紛うばかりに咲き誇る吉野の桜花の叙景を念頭に置いて付けられたものと考えられる。

『南方紀伝』(なんぽうきでん)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立とみられるが、作者は不詳である。書名に「紀伝」とあるとおり、あたかも天皇列伝の如き形態を採るが、内実は全て編年体の構成である。類書に『桜雲記』がある。南朝紀伝・南朝記とも。

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http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/namiai1.htm
南北朝動乱期の抹殺された宮将軍・尹良親王
              -『浪合記』の再検討-
                                   宝賀 寿男 

一 はじめに
 
 東大史料編纂所である系図史料を見ていたところ、南北朝動乱期に活動した人についての記事がかなり詳しくあり、それを見て、浪合合戦とそれを記す軍記『浪合記』について見直す必要を感じたので、種々検討のうえ、本稿を記した次第である。
 具体的には、その系図は『穂積姓井出氏系図前書』という駿河国富士郡の井出氏の江戸前期までの史料であり、そのなかの井出小源二郎重注(「注」は「経」のくずし字を誤読誤記したものではないかと推されるが、ここではそのママに記しておく)についての記事である。また、『浪合記』とは、南北朝末期ないし室町前期における後南朝の皇族尹良親王・良王親子二代の信濃国伊那郡浪合での遭難事件(「浪合合戦」と表示されることが多い)を中心にその前後の流浪の経緯や関係する南朝遺臣の後裔まで及ぶ軍記物である。
 
 『浪合記』のこれまでの取り扱われ方は、総じていうと、偽作か価値の乏しい史料とされ、浪合合戦自体も実際にあった事件のか疑問とされてきた。そうした評価をいくつかあげてみると、「現存本は、良王に従った者の子孫と称する天野信景が一七〇九年(宝永六)に書写したとされる本にもとづくが、史料としての信憑性には疑いがあり、史実または伝説をもとに信景が偽作したものと思われる。」(『日本史広辞典』山川出版社、1997年)、「本書は1488(長享二)年の著作となっており、1709(宝永六)年天野信景が美濃高須の松平家の本を写したというが、おそらくは信景が偽作したもので、その記事内容は信用できないというのが渡辺世祐の論文にみえる」(村田正志氏執筆。『日本歴史大辞典』河出書房新社、1985年)というのが代表的なところであろう。
 長野県の歴史研究者である小林計一郎氏は、多少トーンが違っていて、『浪合記』の根底に史実があったこと・南信濃・三河の国境地帯の各地に「ユキヨシ様」伝説が残っていることを認めつつも、同書の「記事は矛盾が多く信用できない。…(中略)…これらの伝説をもとにして、良王供奉の士の子孫と称する天野信景が偽作した可能性が強い」と記されており(『国史大辞典』)、偽作説ということではほぼ同様である。
 浪合村には戦死したと伝える地・宮の原に、尹良親王を祀る浪合神社が鎮座するが、その祭神の変遷過程などから、尹良親王の実在性については、『浪合記』等による作為・捏造だとみられている(平凡社『長野県の地名』463頁)。なお、神社の西に接して尹良親王陵(円墳)があり、現在、宮内庁書陵部の管理下にある。
 これらの事情のせいか、日本史の全集的な刊行物や『長野県史』など歴史学界の書物では、浪合合戦はまったくといってよいくらい取り上げられない。森茂暁氏の『闇の歴史、後南朝』でも言及がない事情にある。
 
 こうして『浪合記』とその研究状況について概観してみると、問題点は多少重複するが、次の四点ほどになってくると思われる。
 ① 『浪合記』の史料的価値はどのようなものか。天野信景の偽作か、たんなる写本か。
 ② 根底に史実があったのか、まったくの虚構か。
 ③ 浪合合戦があったとしたら、それは何時起きた事件だったのか、合戦は何度あったのか(『浪合記』では尹良親王親子が各々経験したとある)。
 ④ 事件関係者の具体的な名前は解明できるのか(尹良親王の実在性などの問題も絡む)。それらの後裔はどうなったのか(三河、尾張などに残って繁衍したのか)。
 こうした問題意識を持ちつつ、以下に具体的な検討を加えていきたい。上記の問題は、徳川家やその譜代家臣諸氏の起源問題とも深く絡んでおり、江戸期に新井白石も注目した書物であったのが、偽書説が広く知られるようになって、大正期の大著『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』(信濃教育会著、1939年)より後では、『浪合記』についても浪合合戦についても十分な検討がなされてこなかった事情にもある。従って、本稿でも『信濃勤王史攷』の記事を基礎に考えていきたい。
 
 最近、インターネットで『浪合記』がいくつか取り上げられ、同書の内容やこの関係の情報が提供されているので、注意をもたれる読者がおられるかもしれない。管見に入った代表的なHPをあげておくと、次のようなものがあり、適宜参照されたい(両HPのご教示等にも感謝申し上げます)。

 a 志岐専弘氏による「中世日本紀略」のなかの 「俗書類従」の「『浪合記』(原初本)」
     http://f25.aaa.livedoor.jp/~zflag/mirrors/kiryaku/namiaiindex.html

 b 芝蘭堂さんによる「軍記で読む南北朝・室町」のなかの「浪合記」
     http://homepage1.nifty.com/sira/

中略

(今後、さらに補記すべき点が出てきたときは、追加を考えたいと思っています)
 
   (06.8.14掲上。9.13追補修正)
 
 ウィキペディアによると
宝賀 寿男(寶賀 壽男、ほうが としお、1946年4月17日 - )は、日本及び北東アジアの古代史・系譜の研究者。日本家系図学会及び家系研究協議会の会長。元大蔵省(現財務省)の官僚。2003年から弁護士(第一東京弁護士会、第二東京弁護士会等)。正式な歴史学者ではなく、古代史のアマチュア研究者である。

※2006年は平成18年なので、廣瀬重見氏の平成27年の論考は2015年になるから9年間の研究の差がある。