秋深むひと日ひと日を飯炊いて 岡本眸 ― 2018年09月27日
逃れ得ぬ老いなればいざ冬木の芽
・・・冬木でさえ芽を出す。限られた人生ではあるが老いの春を楽しむ。
きびきびと枯れ行くすべて手放して
・・・終活とは手放すことだったのか。
仮の世やときどきは斯く風邪引いて
・・・生身の内はね。
病む夫をかばう日傘を高くしぬ
・・・句友が「今はもう日傘もさせず歩行器を」という句を読んだ。日傘の季語も自在に使えるのだ。
喪主という妻の終の座秋袷
・・・確かに終の座。
襟巻や亡夫の義理は欠くまじく
・・・近年は夫の墓に入りたくないと、姻族関係終了届(死後離婚)を出す妻もいるらしい。でも遺族年金は、再婚しない限り、受給できる。だから結婚しても籍を入れず、事実婚という高齢者の結婚事情。既婚者には死後も貞操観念は要るのだがもう古いのか。
膝に置く供養の菊の軽さかな
・・・原句はかろさ、だがあえて漢字にする。この軽さは精神的なもの。
姪の目に気楽な叔母の冬帽子
・・・・喪主は姪が勤めたから、子がいなかったのだろう。気楽な叔母に見えて実は過酷な人生を歩んだ。
読売新聞朝刊は俳人・岡本眸の死去を報じた。享年90歳というから昭和3年生れ。私の母親と同じ世代の人である。母は37歳で早世したが岡本さんは長命を得た。
終戦時の17歳のころを想い、
雑炊や戦後寒かりし若かりし
と詠んだ。
終戦をはさんで十代だった人は栄養事情によって運命が分かれる。最近も相続人調査で昭和16年生れの人が50歳代で病死した事例をみて考えたことがあった。母も充分な栄養が取れなかったのだろう。一方で岡本さんは丈夫でないことを自覚して「自愛」されたのだろう。自身も病弱、夫も病死の過酷な人生。兄も病気なのに献血できないというのだ。
寒むやわれ病歴ありて血を遣れぬ
書架から取り出したのは岡本眸句集『自愛』(ふらんす堂、1992年)である。その中の栞をめくったら最初の紹介記事の句が掲載の俳句だった。
折しも秋冷の今、ちょうど時節にあう。岡本さんは身辺の日常を句材として詠まれた俳人だった。
前田普羅は風土と人が一帯になった地貌を愛した。岡本眸は女性らしく自分を愛した。世が世なら歌人の仕事である。
新聞各紙の評伝を読んで見よう。
毎日俳壇選者だったので毎日新聞は
「訃報 岡本眸さん 90歳=元毎日俳壇選者
会員限定有料記事 毎日新聞2018年9月27日 東京朝刊
日常に根差した生命感に富む俳句で知られた俳人で、元毎日俳壇選者の岡本眸(おかもと・ひとみ、本名・曽根朝子=そね・あさこ)さんが15日、老衰のため死去した。90歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主はめいの横川信子(よこかわ・のぶこ)さん。
戦時中に勤労動員や、東京の自宅が空襲で焼失するなどの体験を経て、戦後、聖心女子学院(現聖心女子大)で学んだ。勤務先の職場句会で富安風生に会い、俳誌「若葉」に入会。岸風三楼(ふうさんろう)にも師事した。1972年、第1句集「朝」で俳人協会賞を受賞。30代での子宮がん手術や、句友でもあった夫の急逝を乗り越え、80年に俳誌「朝」を創刊、主宰した。「俳句は日記」「俳句は愛」が信条で、代表句の<夫愛すはうれん草の紅愛す><初電車待つといつもの位置に立つ>に見られるように、身辺の生活から詩をすくい上げ、深みのある言葉に結晶させた。
句集「母系」で現代俳句女流賞、「午後の椅子」で蛇笏賞と毎日芸術賞。紫綬褒章も受けた。89年から2008年まで毎日俳壇選者。俳人協会副会長も務めた。」
「詩歌の森へ
岡本眸の「朝」が終刊=酒井佐忠
毎日新聞2017年1月9日 東京朝刊
毎日俳壇選者を長く務め、毎日芸術賞も受賞した岡本眸の俳誌「朝」が昨年12月号で終刊になった。<鈴のごと星鳴る買物籠に柚子><霧冷や秘書のつとめに鍵多く>など、新鮮な感覚で日常から詩を生む第一句集『朝』の名をとった俳誌は創刊以来36年余。「俳句は日記」という確固とした理念に基づいて、俳壇に大きな力を与え続けて来た。その後の病の影響で終刊となったが、その理念はまだ生きている。
岡本眸は東京・日本橋の社長秘書の仕事がきっかけで俳句を始め、富安風生に師事。幸せな新婚生活を描いた…」
朝日新聞は
「岡本眸さんに第41回蛇笏賞 日常の息遣い詠み込む
2007年06月14日11時46分
岡本眸(ひとみ)さん(79)が、句集『午後の椅子(いす)』で俳壇の最高賞の第41回蛇笏賞を受ける。「師の富安風生先生宅の日当たりのいい2階にあった椅子の景がふと浮かんで」題にとった。
写真
会社の職場句会が俳句との出あいだった。「俳句は詠もうと思えば、誰でも、どこでも出来るもの。勝手人間で好きなことをしてきましたが、師や仲間に恵まれました」と語る。
最近、エッセーで「〈霧冷や秘書のつとめに鍵多く〉〈更けて書く鉛筆くさき春厨〉〈柚子湯出て夫の遺影の前通る〉一句目はOL、二句目は主婦、最後は寡婦になっての作で、平凡に見える私の人生にもそれなりの起伏があった」と振り返っている。
〈初電車待つといつもの位置に立つ〉、近くの駅の風景だ。読んだ人が「そう、そうだわ、と思ってくれたらうれしい」。日常の何げない所作、息遣いのひとつひとつを詠み込んできた句は深まり、さらに精彩を帯びてきた。
今、東京の下町で一人で暮らす。「夫を亡くしてからは風来坊」と笑うが、「俳句は生涯の道づれ」になった。」
・・・冬木でさえ芽を出す。限られた人生ではあるが老いの春を楽しむ。
きびきびと枯れ行くすべて手放して
・・・終活とは手放すことだったのか。
仮の世やときどきは斯く風邪引いて
・・・生身の内はね。
病む夫をかばう日傘を高くしぬ
・・・句友が「今はもう日傘もさせず歩行器を」という句を読んだ。日傘の季語も自在に使えるのだ。
喪主という妻の終の座秋袷
・・・確かに終の座。
襟巻や亡夫の義理は欠くまじく
・・・近年は夫の墓に入りたくないと、姻族関係終了届(死後離婚)を出す妻もいるらしい。でも遺族年金は、再婚しない限り、受給できる。だから結婚しても籍を入れず、事実婚という高齢者の結婚事情。既婚者には死後も貞操観念は要るのだがもう古いのか。
膝に置く供養の菊の軽さかな
・・・原句はかろさ、だがあえて漢字にする。この軽さは精神的なもの。
姪の目に気楽な叔母の冬帽子
・・・・喪主は姪が勤めたから、子がいなかったのだろう。気楽な叔母に見えて実は過酷な人生を歩んだ。
読売新聞朝刊は俳人・岡本眸の死去を報じた。享年90歳というから昭和3年生れ。私の母親と同じ世代の人である。母は37歳で早世したが岡本さんは長命を得た。
終戦時の17歳のころを想い、
雑炊や戦後寒かりし若かりし
と詠んだ。
終戦をはさんで十代だった人は栄養事情によって運命が分かれる。最近も相続人調査で昭和16年生れの人が50歳代で病死した事例をみて考えたことがあった。母も充分な栄養が取れなかったのだろう。一方で岡本さんは丈夫でないことを自覚して「自愛」されたのだろう。自身も病弱、夫も病死の過酷な人生。兄も病気なのに献血できないというのだ。
寒むやわれ病歴ありて血を遣れぬ
書架から取り出したのは岡本眸句集『自愛』(ふらんす堂、1992年)である。その中の栞をめくったら最初の紹介記事の句が掲載の俳句だった。
折しも秋冷の今、ちょうど時節にあう。岡本さんは身辺の日常を句材として詠まれた俳人だった。
前田普羅は風土と人が一帯になった地貌を愛した。岡本眸は女性らしく自分を愛した。世が世なら歌人の仕事である。
新聞各紙の評伝を読んで見よう。
毎日俳壇選者だったので毎日新聞は
「訃報 岡本眸さん 90歳=元毎日俳壇選者
会員限定有料記事 毎日新聞2018年9月27日 東京朝刊
日常に根差した生命感に富む俳句で知られた俳人で、元毎日俳壇選者の岡本眸(おかもと・ひとみ、本名・曽根朝子=そね・あさこ)さんが15日、老衰のため死去した。90歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主はめいの横川信子(よこかわ・のぶこ)さん。
戦時中に勤労動員や、東京の自宅が空襲で焼失するなどの体験を経て、戦後、聖心女子学院(現聖心女子大)で学んだ。勤務先の職場句会で富安風生に会い、俳誌「若葉」に入会。岸風三楼(ふうさんろう)にも師事した。1972年、第1句集「朝」で俳人協会賞を受賞。30代での子宮がん手術や、句友でもあった夫の急逝を乗り越え、80年に俳誌「朝」を創刊、主宰した。「俳句は日記」「俳句は愛」が信条で、代表句の<夫愛すはうれん草の紅愛す><初電車待つといつもの位置に立つ>に見られるように、身辺の生活から詩をすくい上げ、深みのある言葉に結晶させた。
句集「母系」で現代俳句女流賞、「午後の椅子」で蛇笏賞と毎日芸術賞。紫綬褒章も受けた。89年から2008年まで毎日俳壇選者。俳人協会副会長も務めた。」
「詩歌の森へ
岡本眸の「朝」が終刊=酒井佐忠
毎日新聞2017年1月9日 東京朝刊
毎日俳壇選者を長く務め、毎日芸術賞も受賞した岡本眸の俳誌「朝」が昨年12月号で終刊になった。<鈴のごと星鳴る買物籠に柚子><霧冷や秘書のつとめに鍵多く>など、新鮮な感覚で日常から詩を生む第一句集『朝』の名をとった俳誌は創刊以来36年余。「俳句は日記」という確固とした理念に基づいて、俳壇に大きな力を与え続けて来た。その後の病の影響で終刊となったが、その理念はまだ生きている。
岡本眸は東京・日本橋の社長秘書の仕事がきっかけで俳句を始め、富安風生に師事。幸せな新婚生活を描いた…」
朝日新聞は
「岡本眸さんに第41回蛇笏賞 日常の息遣い詠み込む
2007年06月14日11時46分
岡本眸(ひとみ)さん(79)が、句集『午後の椅子(いす)』で俳壇の最高賞の第41回蛇笏賞を受ける。「師の富安風生先生宅の日当たりのいい2階にあった椅子の景がふと浮かんで」題にとった。
写真
会社の職場句会が俳句との出あいだった。「俳句は詠もうと思えば、誰でも、どこでも出来るもの。勝手人間で好きなことをしてきましたが、師や仲間に恵まれました」と語る。
最近、エッセーで「〈霧冷や秘書のつとめに鍵多く〉〈更けて書く鉛筆くさき春厨〉〈柚子湯出て夫の遺影の前通る〉一句目はOL、二句目は主婦、最後は寡婦になっての作で、平凡に見える私の人生にもそれなりの起伏があった」と振り返っている。
〈初電車待つといつもの位置に立つ〉、近くの駅の風景だ。読んだ人が「そう、そうだわ、と思ってくれたらうれしい」。日常の何げない所作、息遣いのひとつひとつを詠み込んできた句は深まり、さらに精彩を帯びてきた。
今、東京の下町で一人で暮らす。「夫を亡くしてからは風来坊」と笑うが、「俳句は生涯の道づれ」になった。」
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