焼酎をホッピーで割る愉しさよ2018年08月02日

 焼酎は夏の季語。
 今日の名古屋は気温39.6℃だったとか。
 朝から役所を回って相続に必要な戸籍謄本等を集めた。また別の役所で手続きの指導をうけながら進めている。
 なるだけ外の気温に当らないように地下鉄を利用するが、自宅から駅までは炎熱地獄のような暑さである。今日は昼に自宅に戻って1時間の昼寝をとった。
 魔法瓶に氷を詰めて、麦茶を注ぐ。行動中に度々飲む。さらに熱中症対策に、はちみつの携帯型のパックを持参していつでも舐めることにした。効能は素晴らしい食べ物である。

「はちみつには、各種有機酸や酵素、ビタミンBをはじめとしたビタミン類、アミノ酸20種類、ミネラル27種類、ポリフェノールなどの各種抗酸化物など、たっぷりの有効成分がからだに吸収されやすいかたちで含まれています。ビタミン、ミネラルの宝庫であると同時にすばやくエネルギー源となるのが特徴なので、はちみつは夏場の疲れや発汗の際のイオン飲料の材料として、まさに理想的であるといえます。」

 役所から丸の内の事務所入りするが冷房が効くまではサウナ室である。頭がぼっとして集中力ゼロ。アイスクリームを食べながら体を冷やす。遅々として進まない仕事であるが、それでも形は見えてきた。

 帰宅途中、駅まで歩くうちに焼き鳥屋に入った。以前にホッピーというビール系飲料で焼酎を割る飲み方を教えてもらったので、キンミヤ焼酎にホッピーを割る逸品を注文した。まずグラスにオンザロックの焼酎が入っている。そこへビールの小瓶に入ったホッピーを注ぐ。
 何とも不思議な味わいがある。焼酎の酔いにビールテイストの味わいである。この商品はここで初めて見た。色んな居酒屋に入ったが置いてなかったか、気が付かなかった。

 ググって見ると、結構古くから飲まれている。こっちが知らなかっただけであった。

https://www.nomooo.jp/blog/16343/
皆さんこんにちは。
皆さんはキンミヤ焼酎についてご存知でしょうか?大衆居酒屋にてカルト的な人気を誇る、下町焼酎のカリスマ的存在である「キンミヤ焼酎」。今回はそんなキンミヤ焼酎の魅力についてご紹介します。

キンミヤ焼酎は三重県の株式会社宮崎本店の甲類焼酎。クセのないスッキリとしたまろやかな味わいで、関東地方の下町居酒屋では割材として定番の焼酎となっています。添加物、増量剤などを全く使用していない甲類焼酎であるキンミヤ焼酎。クセはほとんどないのですが、ほんのりとした甘みも感じることが出来るので、そのままロックで飲んで頂いても美味しく頂けますよ。

 もうキンミヤ焼酎と言えばコレですよね。ビールの代用品として広まったホッピー。今では気軽にビールを飲めるようになりましたが、昔はビールと言えば、庶民にとっては高値の華だったのですね。氷とキンミヤ焼酎の入ったグラスにホッピーを勢い良く注いで、定番の味を楽しんじゃいましょう。
出典:キンミヤ焼酎×ホッピー

 キンミヤ焼酎に出会うと他の焼酎が飲めなくなります。居酒屋で飲むときも事前にキンミヤ焼酎があるかどうか確認してから行きます。無ければ行きません。他の焼酎では翌日頭が痛くなるし体調も狂います。添加物、増量剤の無いキンミヤ焼酎こそが本当の焼酎だと思います。もちろん、芋・麦等の焼酎は別です。甲乙分類して金宮は一番です。

 晩酌用としてホッピー白で割って飲んでます。キンミヤ焼酎+ホッピーを冷蔵庫で冷やし、ホッピージョッキを冷凍庫で冷やしておきます。キンミヤ焼酎をジョッキの☆2まで入れ、一気にホッピーを注ぎいれます。キンミヤ焼酎はホッピーとの相性が良く、ホッピーの味を損ねないのでお奨めです。また、飲みすぎた朝でも頭痛や吐き気などが無く、目覚めもスッキリです。なので、ついつい飲みすぎてしまいます。
 以上。焼き鳥7品、皮ポンとキンミヤ焼酎のホッピー割を〆て2300円でした。これは愉しい飲み物です。ハイボールとかチューハイは口当たりが良すぎてぐいぐい飲んでしまうが、ホッピー割は水っぽくないからいい。

猛暑対策にアルミシートを窓に貼る2018年08月02日

 以前にベランダにヨシズを貼ったら結構な効果があった。正面だけでなく、東北の面にも小さめのよしずを貼ってかなり日差しが和らいだ。
 東南の角に面する我が家は朝一で日の出が射し込んで来る。ガラス窓に直射日光はかなりきつい。カーテンだけでは容赦なく炙られる。そこで今日はクルマの窓にアルミの日除けを貼るように、登山用テントマットをリビングルームの窓のカーテンとの間に挟んだ。明日以降どれだけ直射日光をはねつける効果があるがチエックできる。

竹屋谷遡行2018年08月06日

栃の大木の森を流れる滑滝を溯る
 7月半ばから山行計画がみな流れた。7/14の小秀山の沢は道路決壊で、7/21は猛暑で避暑に切り替え、7/31は台風で中止。8月の第1週は沢登りだなと提案し、山岳会でまとまった。
 この時期に、近場で、蛭がいなくて、そこそこ楽しめる。となれば竹屋谷が脳裏に浮かんだ。前夜発で提案したが、猫を飼っている人が朝発を希望。こちらも3週間以上のブランクで体力減退の懸念があってレベルダウンした。朝発ではブンゲンに登頂できないから、1095mを迂回して同じルートをたどらない計画をした。
 8/5の6時30分に金山駅前を出発、今回は3月に供用開始された安八スマートインターチエンジを経由。大垣大橋を渡るとすぐに揖斐川堤防の県道を経て粕川へ。現地には8時30分くらいに到着。こんなに早かったのは安八効果です。
 沢の方は水量は充分、沢の流れに足を浸すと冷気が全身を包んだ。最初はやぶっぽい灌木の中を流れを溯った。流れが広くなり、空間が広まった。滑滝に来た。樹高20m以上はある栃の大木が集中的に生えている。核心部の栃の原生林の中の滑滝に圧倒されながら遡行を楽しんだ。滑滝では本当に涼しい。北海道のツアー登山から帰ったばかりのKさんは北海道より涼しいと感激。北海道の夏は涼しいというイメージでいたからその暑さに裏切られた思いだったらしい。次々と現れる滝を登ったり巻いたりした。
 出発は9時前で,ブンゲンの登頂を狙うには遅いので最初から、隣の小沢に乗り換えて、地形図で1095mのコルを目指す計画だった。小沢へ乗り越す尾根を意識しながら溯った。地形図では尾根が最もくびれた箇所になる。
 二股を過ぎて観音滝を越えると左に竹屋谷と並行する尾根が沢に最も近づくところがあり、そこを乗り越すと1095のコルへの小沢になる。規模は小さいながら滑の連続する美しい谷であり、小滝が連続する。最期の方で大きく巻いた後、谷に戻らず尾根をそのまま辿った。尾根は風が無く暑いので余計なアルバイトを強いられたが、1095mに登れてしまった。
 そこからは以前にたどった踏み跡を頼りに尾根を下った。RFの失敗で双門の滝の少し上流へ下った。左岸の藪をこぎながら瀧の遊歩道入口までは大岩谷を下る。クルマへはすぐに戻れた。15時30分。まだまだ暑い時間帯だ。帰りは薬草風呂に入って汗を流して帰名した。
 帰りも安八SIC経由で走る。するとすぐに渋滞した。一宮JCTがあるためだ。一宮ICまではいつもこの有様だ。帰りは名古屋ICまで走った。970円だった。往きは1450円だったから480円の差額がある。
 反省。今日は久々の山行だった。3週間のブランクのうちに体重は2kg増となり切れが悪かった。もともと悪いうえに今日はいつもWさんが持ってくれるザイル、ハーケンの類いがプラスされたから尚重かった。それでも沢登りの醍醐味を味わった。
 日本の夏山はこれで良い。

天才的な少女歌手・東 亜樹ちゃんの歌を聴く2018年08月07日

 偶然ですが、久々にユーチューブの歌を聴こうとして検索中に東 亜樹なる少女の歌を聴いた。
https://www.youtube.com/watch?v=B9_yz-E_Ycc
 聴いた歌は有名な「お月さんこんばんわ」でした。こんな難しい歌を楽々と歌いこなしており、本来の目的を忘れて他の歌にも飛んで聴くうちにファンになってしまった。美空ひばりの「裏町酒場」もうまい。次々とネットサーフィンしたら午前様になった。
 きっかけは島津亜矢の「裏町酒場」だったように思う。右の次の動画の中に亜樹ちゃんの動画が待っていた。
 まず島津亜矢を聴く。
 https://www.youtube.com/watch?v=4qUN3IRbdAI
 この唄いぶりで、島津亜矢のファンになったのは2010年秋のことだった。翌年3月に御園座に来ると分かって生で聴いてはまった。島津さんも小学生時代からふるさとの九州ののど自慢大会で受賞を勝ち取り13歳でプロになった。
 続いて東亜樹ちゃんの歌
https://www.youtube.com/watch?v=871wYUu3cjQ
 素人の歌という気がしない。高名な作曲家に弟子入りしてこんな唄い方を覚えたんでしょうか。
 あちこちからひっぱりだこになっているらしい。しかも外国からの招待もあるという。韓国語、中国語、ロシア語などでも唄うから世界の歌姫になる可能性を秘めている。自分でもそう語るから空恐ろしい。
https://www.youtube.com/watch?v=oNGZ4jHLdRs
こんな「長良川艶歌」を聴いたら五木ひろしもにっこりだろう。首を振りながら熱唱する姿も島津亜矢に似ている。よく声が出ている証拠である。
 しかも名古屋市瑞穂区に在住という。福岡県博多市出身だから島津亜矢の再来かと思う。名前も1字同じだ。どんな歌手になるのか楽しみなことである。ライブに行きたいな。

日盛に読む青葉松事件の碑 拙作2018年08月08日

 連日の猛暑もちょっと一服の7日夕方、クラブ愛知のイベントで約20名が本丸御殿を見学。総桧造りの立派な御殿に時の権力者の財力を思う。この辺の事情は、林董一の『尾張藩漫筆』に詳しい。家康の肝いりで建立したから名城の誉れが高い。見学後は少し時間があったので、青葉松事件の記念碑にも立ち寄った。
 事件の真相は謎というのだが・・・。慶勝は江戸へ向う勢力をスムーズに通らせる役目を果たしたというのだ。これって、ロシア革命前夜の状況に酷似しているではないか。
 革命家・レーニンが列車でオーストリアからドイツを通過してロシアに行くのを妨害しなかったというのだ。ということはドイツにレーニンを通過させる勢力がいた。それはドイツ内のユダヤ金融資本か。欧州ではロシア革命はユダヤ・クーデターという見方が常識だという。ソ連はユダヤ人が支配した国家だった。
 薩摩・長州の軍が江戸へ下り易くなるように計らった慶勝とは何者だったのか。徳川幕府は自らを解体していった。慶喜と示し合わせたか。日本が欧州の植民地にならないようにするには徳川幕藩体制ではほころびがあり過ぎた。中央集権しかも立憲君主制で隙のない国家運営に目覚めていた。二人ともそれに気づいていたとしか思えない。
 アジアの植民地にされた国は、多民族、他宗教、多文化、他言語の国ばかり。タイと日本だけは植民地にならなかった。タイは仏教国として国がまとまっていたから植民地にならずに済んだ。
 
 その後金シャチ横丁の義直ゾーンで飲み放題食べ放題の暑気払い(懇親会)を開催。約40名が集まったとか。

山のセミナー「はじめてみよう登山、東海近郊の山々の魅力」2018年08月09日

 今日は名古屋駅前の名古屋銀行ハートフルプラザにおいて、初心者向けの山のセミナー「はじめてみよう登山、東海近郊の山々の魅力」を開催しました。出席者は18名くらい。
 レジュメは第一に良いリーダー(指導者)に当ること。良い指導者がいなくて単独になる場合でも登山計画書はしっかり届出すること。計画書を作ることが山を知ることになること。参考には登山のガイドブックも紹介。良いリーダーとはピンチを招かないことが第一ですが、動じないで的確な判断ができること。
 登山計画書の見本と書き方そして届出の義務化、WEBから印刷した地形図の読み方、山岳保険加入の勧め、信州の山のグレーディング表、私の特製の名古屋近郊の山のグレーディング表も添えて、東海地方の四季の山々の紹介を1時間たっぷり話をさせてもらいました。自分の力量に合った山を探して登ろうということ。
 最後は遭難しても山で死なない方法、ビバークをすること、携帯電話のGPS機能、ヘッドランプのLEDを点灯して、ヘリコプターに向かって照らすと視認性が良いという話、迷っても川、谷、沢は下らないことなど。
 想定外の質疑も多く出た。ためになった、面白かった、また開講して、との希望も出て、良い反応でした。

奥越・笹ヶ峰の長トコ谷敗退2018年08月13日

 8/11の朝6時にリーダーのWさん宅を出発。お盆休みの渋滞が始まっているので高速には入らず、地道で行く。木曽三川を渡り、関ヶ原、木之本を通過、栃の木峠越えで南越前町に入った。やがて広野ダムから廃村・大河内に着く。ここまではほとんど渋滞は無く、3時間で来れた。高速とそんなに違わない。
 さてここからどこまで行けるか。土砂の押し出しでやや傾斜面があったので、空車でも2300kgもある重量の重いマイカーがずるっと行く可能性がある。そこでマイカーの入山はストップ。徒歩で行く。
 いくばくもなく砂防ダムの手前の広場まで来れた。軽いクルマなら無難に走れるだろう。ここまでは実は整備されていたのだ。その先は草深い林道が続いていた。入渓地点まで歩いてみた。踏み跡があるので明日の偵察は終わった。先の整備された広場まで戻ると、大河内川を渡る橋があるので入って見た。入り口には笹ヶ峰登山口という消えそうな道標があって、ああ、これがロボットへの尾根コースの入り口であった。橋を渡ってみて偵察すると杉の幹に白っぽい紐が結んである。これが多分ロボットの尾根ルートであろう。予定では下山にとることになっている。
 入山情報の少なさに、湛水のはじまる二ツ家付近で車止め、そこから徒歩も覚悟していた。心配は解消した。
 まだ昼前なので今庄の宿まで行き、おろし蕎麦を食べた。久々に美味い本場の今庄のおろし蕎麦を味わう。また大河内に戻り、車の置いてあった出作り小屋の主人Y氏に声を掛けた。突然の珍客に驚かれたが、笹ヶ峰の登山に来たことを告げると気安く話に応じてくれた。
 大河内の村の歴史から笹ヶ峰一帯の山守をしていたこと、22歳まで村にいたこと、そして山が好きなこと。増永迪男氏の山の本の話もしていくらでも話が続き止まなかった。こちらも林道脇にテントを張って仮眠の予定もあり、離れがたくも話を打ち切って別れた。
 テント適地は特になく、林道脇に張った。近くを小川が流れて炊事が楽である。小さな焚火もした。こんな山なので蚊が多く、蚊取り線香を焚いた。
 8/12の朝4時起床、朝食をかきこむ。テントを片付けて出発すると5時30分になった。林道終点まで歩いて6時入渓。平凡な谷相であるが、周囲は落葉広葉樹に覆われている。ここも奥美濃の沢と同じ雰囲気を持った樹林の山旅の世界である。
 小さな滝を越え、直登のできない滝は左から巻いた。いくらもしないうちに滝谷と長トコ谷との出合に着く。滝谷を見送り、長トコ谷へ入る。うわっと見上げたのは魚止めの滝であった。10mくらいはあり滝壺に落ち、更に小さな滝で2段目の滝壺に落ちている。全体で70mとも言う。
 岩質は一枚岩が浸食されて後退したような滝で見事である。取り付くしまが無い気がする。
 Wは右岸の岩溝をたどって攻めた。そこもスラブの小さな溝になっているらしく高巻を試みるうちに滑落したという。幸い木の枝にスリングでビレイをとってあったので滝壺に落ちずには済んだという。
 いつもより時間がかかり過ぎており、岩場を様子見に攀じ登る。Wに近づけないこともないが、もし下降する場合は厄介だ。待つこと1時間も経過しただろうか。突然後退を告げて、ザイルが投げられた。それに確保して微妙なバランスの岩場を下りた。その後Wも下って来た。途中で岩のスリットにハーケンを1枚打ち、更に下降する。Wはハーケンを抜いて尻を滑らせて下って来た。高巻は困難な状況と知った。
 事前の調べてでは白崎重雄・前川宏隆『屛風山脈の旅ー越美県境稜線の山と渓谷を行く』(1978(昭和53)年)は左岸の高巻で突破している。左岸の方が傾斜が緩く、樹木も生えている。右岸は垂壁に近い。
 Wは高巻に大いにてこずって、続行のモチベーションを無くしてしまったようだ。何分、4週連続で計画が流れ、今日こそはという気が優り過ぎてしまったのだろう。体力や技術もあるのに気が優ると妙に同じ場所にこだわって時間を空費する。
 結果、敗退を決めた。
 しかし、このまま沢を下るよりは、次につなげるようにと、出合からロボットの尾根の722mを目指して北尾根を登った。少し人が歩いた跡はあり、ゴミもあった。激藪でもない。左へ滝上に下る踏み跡も捜しながらヤブ尾根を登った。上から眺める長トコ谷は緑のトンネルに覆われて、流れは見えない。
 懸垂下降2回で降りれそうな気がする。但し大高巻になるが・・・。Wは谷から離れるな、という主義なので首肯しないだろう。
 途中からシャクナゲがからまるようになり全力で登った。そこを過ぎるとしっかりした踏み跡が現れた。またコンクリートの小さな標石もあるし、なた目もある。標高700m付近の平らなところでロボットのコースに着いた。約1時間30分を費やした。
 そこで1時間ほど、涼しい風を楽しむように休んだ。その後、右ブナ等の落葉広葉樹の二次林、左は杉の植林の細道を下った。昨日の偵察の場所に出た。
 昨日の大河内のYさんの話では2年前に白谷の頭(約1000m)までコース整備をしたという。その先は武生山岳会がやったとか。ロボットまでなんとか今も行けるだろう。
 私自身は30歳代に2回GWに登っている。2回目は3人パーティでロボットにツエルトを張り、笹ヶ峰を往復、翌日は大河内山(から美濃俣丸?)を往復した。だから30年ぶりで再訪したのである。
 下山後、片付けてからまたYさんの小屋に寄って報告した。残念ながら敗退でした、と。
 いろいろ質問すると、722mの尾根の要旨を話すとあれは自分が付けた道だという。ロボットの尾根から北尾根の間に広がる山を売ったという。そのための山道の名残だった。天草山から五葉坂の間にも道を付けた。そこも売ったという。それで町で生活する資金を得たのだろう。五葉とは五葉松の意味で、北尾根にも五葉松が若干みつかった。壁小屋谷は岩壁が屹立するところがあると言う。大河内の生き字引みたいに知っていた。
 さて、再び挑戦することはあるだろうか。長トコ谷は遡行に値する気がする。何より、地名に興味がある。長トコは床であろう。滑を想像する。上杉喜寿『続 山々のルーツ』(1987(昭和62)年)には、笹ヶ峰の別称の焼小屋丸の焼小屋とはたたら製鉄の場所ではないかと想像する。Yさんはマンガン鉱山があったとも。しかも戦後のことらしい。鉱物が豊富なのだろう。
 私見では夏小屋丸の夏小屋とは夏になってから蕎麦を蒔いても収穫できるとの意味で木地師の小屋があったのではないか。長トコ谷から大倉谷を経て夏小屋谷になることからの推測である。大倉とは木地師に多い名前である。
 木地師の村には夏焼という地名が散見する。奥三河の稲武の夏焼、三重県松阪の夏明も同じ意味か。同書には大河内は木地師の村だったとの記述がある。これはYさんも認めている。Yさんの話では徳山村の枝郷という説が興味深い。徳山村自体が越前の国に属していたからだ。婚姻関係もあったらしい。下流から来て出来た村ではなかったのである。
 帰路、大河内を離れてすぐに、日露戦争出征の記念碑があった。地形図にも記載されている。まだあったのだ。Yさんの話では数名が出征し、戦死した人もいたらしい。昔は二ツ屋とは山越えでつながっていたから峠道を越える戦士を姿の消えるまで見送ったであろう。
 今庄の宿に戻った。暑い暑い。ドリンクを1本飲み干す。そして、また冷水仕立ての下ろし蕎麦を食べて同じ道を名古屋へ帰った。

尾畠春夫さんへの賞賛相次ぐ2018年08月17日

 「不明2歳男児発見、ボランティアの尾畠さんに称賛相次ぐ 幾多の被災地で活躍、「師匠」と呼ばれ」
http://www.sankei.com/west/news/180817/wst1808170036-n1.html

 山口県周防大島町で帰省中に行方不明となり3日ぶりに保護された同県防府市の藤本理稀ちゃん(2)を発見した捜索ボランティアの尾畠春夫さん(78)は、これまで全国で被災地支援や行方不明者の捜索に参加してきた。一緒に活動したことがある人からは「さすが尾畠さんだ」と称賛の声が相次いだ。

 尾畠さんは平成28年の熊本地震や今年7月の西日本豪雨など、多くの災害でボランティアとして被災地に足を運んだ。28年12月には、大分県佐伯市で行方不明になり、約21時間後に発見された当時2歳の女児の捜索にも参加した。

▼不明2歳男児「ぼく、ここ!」発見時、元気に飴かみ砕く

 23年3月には、東日本大震災で被害を受けた宮城県南三陸町を訪れ、がれきの中に埋もれた思い出の写真などを拾い集める「思い出探し隊」の隊長に。ベテランとして、他の参加者らから「師匠」と呼ばれ慕われた。

 「いつも笑っていて、元気をもらうような存在。ニュースを見てびっくりした。やっぱりあの尾畠さん、すごいなと思った」と話すのは、ボランティアセンターの立ち上げに関わった南三陸町社会福祉協議会の三浦真悦さん(53)。捜索前に家族に伝えた通り、理稀ちゃんを家族に直接引き渡したと聞いて「約束を守るのが尾畠さんらしいな」と感じたという。
 西日本豪雨のボランティアで出会った越智美幸さん(34)は尾畠さんについて「ボランティアの経験が豊富な人。相手を思いやる気持ちも強く、その心が理稀ちゃんの発見につながったのではないか」と喜んだ。
・・・・山岳会のブログも昨日はランキング5位から今日は1位に上昇して驚いた。
「尾畠春夫さんへの賛歌」
http://tss1962.blog.fc2.com/blog-entry-762.html

 産経新聞の記事も同じ趣旨で尾畠さんを称えた。

 私もこれまでに山岳遭難の捜索に協力してきた。中々成果の上がるものではない。事情痛が言うにはもしも行方不明者を発見しても自分の手柄にせず、警察に知らせて、警察の手柄にしてくれということであった。
 今回でも画像を見ると保護した子どもを抱えて、警察から警察に渡すように言われても「嫌だ」といってはねつけている。警察の面子丸つぶれである。
 尾畠さんはみんなの行かないところへ行くと言って発見した。だから警察の大掛かりな捜索は無駄ではなかった。しかも一度ならず捜索した場所だったという。しかし、警察の目が節穴ということではない。
 尾畠さんの立場では親と約束したことを守ったに過ぎない。子どもは動き回っていたのだろう。多分水だけ飲んで命を永らえていた。今日のニュースには胃の中はからっぽだったらしい。
 尾畠さんへの賞賛は関わった警察への賞賛でもあろう。

さわやかな残暑2018年08月17日

 今日は暑いが湿気の少ないからっとした空気を感じた。何といっても暦の上では秋である。お盆を過ぎると一気に秋に向かう。
 16日から西穂から奥穂の縦走に向かう予定だったが天候不順で中止し、計画は延期した。昨日一昨日だけが悪くて17日以降は回復したので行けば良かった。15日は延期の相談で終わり、宙ぶらりんになった17日は年金事務所へ行って未支給年金の申請を済ませた。3回目の訪問でやっと受け付けてもらった。仕事の前倒しである。
 事務所のメールには生活保護の相談が入っていた。住所も電話も分からず、区役所と相談。区役所に対応させた。区の担当者からの電話では、幸い、すでに他の区役所で保護されているとのこと。餓死する恐れはないので一安心した。
 どんな事情かは知らないが、何事も全力投球しないで欲しい。雇用者は生産性の向上をねらって、長時間働かせ、労働密度の高い仕事を望む。これに真面目に応じすぎると心を病み、身体に無理を強いる。やがて病気になる。すると失業、無収入になり、蓄えが尽きると賃貸のアパートを追い出される。
 そもそも福祉とは共産主義のソ連のことば。ノルマ=課業という言葉も同じである。ソ連はアメリカからのユダヤ移民がロシアを乗っ取り、支配者となった国。ロシア人の労働者が支配したわけではない。先進的な思想ではなかったのだ。共産主義に夢を持つ人はいまはもういないと思う。
 健康保険は社員が病気なるまで働かせる制度と心得ておきたい。そのために50%は会社負担になっている。労災保険は労働者を死ぬまで働かせる制度である。だから100%会社負担である。
 だから全力投球するなということ。これは登山で得た考えだ。遭難は登りよりも下りで圧倒的に多い。安全に下山するためには余力を残すことである。スポーツなら管理されているので全力でもいいだろう。
 昔のように労働者を使い捨てする時代ではない。資本主義が社会福祉を受け入れてストレートな労働強化は緩和した。ストは聞かなくなったが、心を病む人は増えているという。
 心身の自己管理をしっかりやることである。食事と体の手入れ、心の管理など普段やることをきちんとやる。生活保護の受給者、および考慮中の人はこのことを考えておきたい。

はつあきの花2018年08月20日

節黒仙翁
 昨日は遅掛けに出発。どの道路も時間帯のせいか、或いは夏休みも終盤ということか、車が多かった。いつもの茶臼山高原へ向かう。稲武まで来るともう24℃まで下がっている。面ノ木峠までは一気に登る80号を行く。峠から面ノ木園地のPへ。狙っていたのはレンゲショウマと言う花。東京の御嶽山で咲き始めたというニュースでこちらも?と来てみたが。
http://rengeshoma.guidebook.jp/
 園地のPから湿地帯へ下るが、花はほとんど見当たらない。わずかにサワギキョウが数株残っていただけだった。残念。そのまま引き返すのも芸がないのであちこち歩き回ると、フシグロセンノウが見つかった。やっぱり人の目から離れた場所でないと花は残らないのか。一株くらいいいや、と盗掘するマニアとか山野草の業者が虎視眈々と狙っているから油断も隙もない。ここも盗掘されたのだろう。
 諦めて、下って来た遊歩道を離れて山林内の尾根道を登り返す。すると上から老人が2人下って来た。山林パトロールだとか。そういえば、湿地につながる林道入り口に廃棄物の不法投棄を警戒する看板があった。何度かはあったのだろう。
 聞くと、周辺では鹿が増えているという。食べたのだろうという推測を述べた。するとサワギキョウだけがなぜ残っているのかの説明にもなる。あれは猛毒で知られる。さすがの鹿にも毒草は味が悪いのだろう。

 ウィキペディアには「サワギキョウは毒草としても知られる。麻酔などの効能を薬草として利用された例もあるが、危険が大きいようである。
横溝正史の長編推理小説『悪魔の手毬唄』では「お庄屋殺し」の名で登場し、場面を盛り上げた。」と説明される。

 先だって、アテビ平にも花は何もなかったが、バイケイソウの花は咲いていた。これも毒草である。鹿は食えるものは食いつくして行く。結果、毒草も食べ始めるそうだ。そして妊娠中の鹿は中絶する。よやく固体が増えるのが自然に止まる。毒の回った鹿を人間が食べると発狂するという書き込みがあった。鹿肉は注意が要る。
 かつて三河で息子が獲ったまむしを焼酎に漬けてまむし酒を飲んだら死んだ。そんな馬鹿なことはないと、祖父が飲んだら祖父も死んだ。そんな事件があった。原因はまむしの食べた蜥蜴にあったらしい。

 と言うわけで、レンゲショウマも以前はあったが、鹿に食われたのだろうというこになった。成果はフシグロセンノウとサワギョウだけでした。
 追記
稲武の80号線を走った際、夏焼城ヶ山の登山口付近でキツネノカミソリが開花期を迎えたという看板があった。ヒガンバナの仲間で、これも毒草である。昔は囃すほども生えていなかったように思う。鹿が増えて毒草しか残らなくなり、群生するようになったのか。