茶の花を心に灯し帰郷せり 村越化石2017年03月31日

 一読、明快な句意である。しかし、村越化石が全盲と知れば驚くだろう。

 故郷の静岡県藤枝市のホームページを見てみると
「村越化石(本名・村越英彦)は、大正11年(1922)12月17日、静岡県志太郡朝比奈村(現・藤枝市)新舟(にゅうぶね)に生まれました。16歳の時、ハンセン病罹患が発覚し、旧制志太中(現・藤枝東高校)を中退、離郷します。昭和16年、群馬県草津町の国立療養所栗生楽泉園(くりゅうらくせんえん)に妻と共に入園。死と隣り合わせの時期を過ごし、戦後、特効薬プロミンにより病が完治した後も、後遺症を抱えることになった化石の心のよりどころとなったのが俳句でした。
 昭和18年、ホトトギス同人の本田一杉(ほんだいっさん)に指導を仰ぎ、俳誌『鴫野(しぎの)』に入会、「栗の花句会」(現・高原俳句会)の浅香甲陽(あさかこうよう)の影響を受けます。昭和24年、大野林火(おおのりんか)の『冬雁』に感銘を受け、林火に手紙を送り「濱」に入会。以降、林火の教えを自身の魂に刻み続け、光を失った眼、自由のきかない身体にもかかわらず、魂の俳句を詠み続けました。その句作からいつしか「魂の俳人」と呼ばれるようになりました。
 平成14年、60年ぶりに故郷岡部町新舟に帰郷。実家に近い「玉露の里」に建てられた村越化石句碑除幕式に立ち会いました。
 化石の師・林火は、ハンセン病文学の三本柱として、「小説の北条民雄(ほうじょうたみお)、短歌の明石海人(あかしかいじん)、俳句の村越化石」をあげました。
 「北条民雄や明石海人がハンセン氏病の悲惨さ、怖しさの中に命を終わったのに対し、化石にはその後の長い歳月があった。化石の特色はそこにある。いえば、民雄・海人の知らなかった無菌になってからの生きざまである」(大野林火「松虫草」より)
 群馬県草津の大自然の中で己の生を見つめながら句作に努めた化石は、蛇笏(だこつ)賞、詩歌文学館賞、山本健吉賞、紫綬褒章など多くの栄誉を受けました。」と丁寧な紹介が割かれている。
http://www.city.fujieda.shizuoka.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/25/pdfkoho-2010-7-kaseki.pdf
 掲載の句は平成14年作。句碑除幕式への旅の途次に詠まれたのだろう。全盲なので、茶の花を心に灯し、と詠んだ。
 化石の師のホトトギスの本田一杉はハンセン病で全盲の弟子に「肉眼はものを見る。心眼は仏を見る。俳句は心眼あるところに生ず」 と教えて励ましたという。水原秋桜子の有名な俳論「自然上の真と文芸上の真」に倣えば、文芸上の真である。
 ちなみにハンセン病はライ病とも呼ばれ、レプラとも書かれる。差別用語といわれるが、今では完治する病気とされる。松本清張の「砂の器」がハンセン病をテーマにした小説として有名。「砂の器」は映画化された。岸惠子主演の「ここに泉あり」でも草津のハンセン病療養施設が出てくる。レプラと言う語彙は森下雨村のつり随筆『猿猴川に死す』で知った。しかし、罹患者がハンセン病文学の主役になったことは初めてではないが、永く生きて、俳句で社会とのつながりを得たのは初めてだ。魂の俳人と言われる故だろう。

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