中島正文の俳句 ― 2013年10月07日
中島正文小伝
明治31(1898)年に富山県西砺波郡津沢町(現小矢部市)に誕生
大正13(1924)年6月日本山岳会に入会(会員番号857)
大正15(1926)年 俳句を作り始め、前田普羅に師事(号 杏子(きょうし))
昭和12~14年 「黒部奥山と奥山廻り役」を日本山岳会の機関紙「山岳」に発表
昭和16(1941)年 「神河内誌」を「山岳」に発表
昭和23~27年 「白馬岳雑攷」を「山岳」に発表
昭和37(1962)年 「山の恩人」として厚生大臣表彰
昭和43(1968)年 岐阜県神岡町円城寺境内に句碑建立
”鈴蘭の雨に遊杖巡し去る”
昭和48(1973)年 日本山岳会永年会員に推挙(在籍50年)
昭和55(1980)年死去
昭和59(1984)年 富山県立図書館内に句碑建立
”夏山に地獄を抱きて紺青に”
昭和60(1985)年 小矢部市津沢町遺宅址に句碑建立
”おほらかに堰のり越すや春の水”
中島杏子180句の中から趣くままに選句
夏山の峰谷々に名ありけり
・・・無名の沢、ピークというのはありえない。知らないだけである。山岳史家を自認する杏子の面目躍如。
山の上に光る海見ゆななかまど
・・・太郎平辺りから富山市の夜景が見える。目を凝らせば見えるかも知れない。秋ならば大気も澄んでいる。
夏山や地獄を抱きて紺青に
・・・おそらく立山の一角でしょう。何ら技巧を用いず、直叙する。
真っ黒に山暮れてゆく端居かな
・・・自宅と言わず、どこでもいい。背後に高い山を借景にできる富山県人ならではの句。
山々の色あざやかに台風来
・・・折角、錦秋の山に登ってきたのに台風が来ている。この紅葉も台風後は見られないだろう。目に焼き付けておきたい。装う山々。
飛騨山の根雪にかざす濃山吹
・・・昭和27年の作。普羅の地域別句集『飛騨紬』の世界を彷彿する。飛騨、根雪、山吹は普羅の大好きなキーワードだった。普羅の嗜好に忠実に詠まれた。富山市を去った普羅の死去が昭和29年ということを考えると師への恩から生まれたのだろう。オマージュという言葉が適当か。
雪山のかぶさる下の花の山
・・・かぶさる、というと普羅の”立山のかぶさる町や水を打つ”を思う。オマージュというでもないが、思慕の念を感じる。
玲瓏とつらら束ねて瀑立てり
・・・玲瓏とは「玉などが透き通るように美しいさま。」という。結氷した滝の氷柱を表現した。氷柱を束ねて滝の水が立っている、というのだ。そこに居ないと詠めない。演歌歌手の島津亜矢は今年のコンサートの名称に「玲瓏」を用いた。こちらは「玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま。「―たる笛の音」の意味だろう。なるほど。
栃の実をゆさぶる熊に月漏れし
・・・熊の大好物という。揺さぶって実を落す熊の知恵である。揺さぶった際に、枝が折れたか、梢が開いて月が見えた、というのだ。
奥越の屏風山へ遡行した際にビバークした箇所からブナの森の梢から白い月が見えた。そんなイメージだろう。
腹いっぱい食べて冬眠中に子供を産んで育てる。食べられないと冬でも里に出て山家の柿などを食い荒らす。
石橋辰之助にも”白樺の葉漏れの月に径を得ぬ”がある。月が漏れるか、葉から(月)が漏れるか、どちらも同じことだが、月明かりに熊が見えたと解するとしたらちょっと恐い風景である。
弥陀ヶ原夏逝く餓鬼田水落す
・・・まるで水耕の田んぼのような描写である。行く夏を惜しむ。寂寥感溢れる句。冬になれば広大な弥陀ヶ原もやがては20mもの厚い雪の下になる。
百百重(いほへ)なす山脈閉ざす大冬木
・・・五百重のミスかも知れない。百重でも”ももえ”でいくつもの重なりあいを表現する。更に多くの重なりを言うのだろう。すっかり落葉した後も派手さはないが好きな風景である。
葛垂れて秋急ぐなり深山櫨
・・・昭和35年の作。秋の深まる直前であろうか。もの侘びた風景が心理的に「急がせる」のだろう。昭和2年に水原秋桜子が、”啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々” を詠んでいる。これは赤城山での作。秋は心急く。
百合咲いて立山日々に青きかな
・・・百合の花の華やかさと荘厳な立山との対比。春から夏へ移り行く富山平野の季節感が横溢する。把握が見事。
雷過ぐる剣岳は八峰よりなだれ
・・・剣岳に登った。折悪しく雷様が通り過ぎる。大音響で雪渓を刺激したのだろうか、雪崩を誘発した。目の前で見ているのだろう。恐ろしい風景である。山岳俳句の典型。
立山の雪も少な目去年今年
・・・お元日を迎えての静謐な句。毎年、何十年と長い間立山を見続けてきた人ならではの句。
両界岳と古地図に名あり雷起こる(両界岳=白馬岳の古名)
・・・新潟県側からは大蓮華という。長野県側からは西山、代馬岳の名称は知っていた。越中側の名称だろう。こんな古名があるとは初耳である。これも山岳史家ならではの句。
明治31(1898)年に富山県西砺波郡津沢町(現小矢部市)に誕生
大正13(1924)年6月日本山岳会に入会(会員番号857)
大正15(1926)年 俳句を作り始め、前田普羅に師事(号 杏子(きょうし))
昭和12~14年 「黒部奥山と奥山廻り役」を日本山岳会の機関紙「山岳」に発表
昭和16(1941)年 「神河内誌」を「山岳」に発表
昭和23~27年 「白馬岳雑攷」を「山岳」に発表
昭和37(1962)年 「山の恩人」として厚生大臣表彰
昭和43(1968)年 岐阜県神岡町円城寺境内に句碑建立
”鈴蘭の雨に遊杖巡し去る”
昭和48(1973)年 日本山岳会永年会員に推挙(在籍50年)
昭和55(1980)年死去
昭和59(1984)年 富山県立図書館内に句碑建立
”夏山に地獄を抱きて紺青に”
昭和60(1985)年 小矢部市津沢町遺宅址に句碑建立
”おほらかに堰のり越すや春の水”
中島杏子180句の中から趣くままに選句
夏山の峰谷々に名ありけり
・・・無名の沢、ピークというのはありえない。知らないだけである。山岳史家を自認する杏子の面目躍如。
山の上に光る海見ゆななかまど
・・・太郎平辺りから富山市の夜景が見える。目を凝らせば見えるかも知れない。秋ならば大気も澄んでいる。
夏山や地獄を抱きて紺青に
・・・おそらく立山の一角でしょう。何ら技巧を用いず、直叙する。
真っ黒に山暮れてゆく端居かな
・・・自宅と言わず、どこでもいい。背後に高い山を借景にできる富山県人ならではの句。
山々の色あざやかに台風来
・・・折角、錦秋の山に登ってきたのに台風が来ている。この紅葉も台風後は見られないだろう。目に焼き付けておきたい。装う山々。
飛騨山の根雪にかざす濃山吹
・・・昭和27年の作。普羅の地域別句集『飛騨紬』の世界を彷彿する。飛騨、根雪、山吹は普羅の大好きなキーワードだった。普羅の嗜好に忠実に詠まれた。富山市を去った普羅の死去が昭和29年ということを考えると師への恩から生まれたのだろう。オマージュという言葉が適当か。
雪山のかぶさる下の花の山
・・・かぶさる、というと普羅の”立山のかぶさる町や水を打つ”を思う。オマージュというでもないが、思慕の念を感じる。
玲瓏とつらら束ねて瀑立てり
・・・玲瓏とは「玉などが透き通るように美しいさま。」という。結氷した滝の氷柱を表現した。氷柱を束ねて滝の水が立っている、というのだ。そこに居ないと詠めない。演歌歌手の島津亜矢は今年のコンサートの名称に「玲瓏」を用いた。こちらは「玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま。「―たる笛の音」の意味だろう。なるほど。
栃の実をゆさぶる熊に月漏れし
・・・熊の大好物という。揺さぶって実を落す熊の知恵である。揺さぶった際に、枝が折れたか、梢が開いて月が見えた、というのだ。
奥越の屏風山へ遡行した際にビバークした箇所からブナの森の梢から白い月が見えた。そんなイメージだろう。
腹いっぱい食べて冬眠中に子供を産んで育てる。食べられないと冬でも里に出て山家の柿などを食い荒らす。
石橋辰之助にも”白樺の葉漏れの月に径を得ぬ”がある。月が漏れるか、葉から(月)が漏れるか、どちらも同じことだが、月明かりに熊が見えたと解するとしたらちょっと恐い風景である。
弥陀ヶ原夏逝く餓鬼田水落す
・・・まるで水耕の田んぼのような描写である。行く夏を惜しむ。寂寥感溢れる句。冬になれば広大な弥陀ヶ原もやがては20mもの厚い雪の下になる。
百百重(いほへ)なす山脈閉ざす大冬木
・・・五百重のミスかも知れない。百重でも”ももえ”でいくつもの重なりあいを表現する。更に多くの重なりを言うのだろう。すっかり落葉した後も派手さはないが好きな風景である。
葛垂れて秋急ぐなり深山櫨
・・・昭和35年の作。秋の深まる直前であろうか。もの侘びた風景が心理的に「急がせる」のだろう。昭和2年に水原秋桜子が、”啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々” を詠んでいる。これは赤城山での作。秋は心急く。
百合咲いて立山日々に青きかな
・・・百合の花の華やかさと荘厳な立山との対比。春から夏へ移り行く富山平野の季節感が横溢する。把握が見事。
雷過ぐる剣岳は八峰よりなだれ
・・・剣岳に登った。折悪しく雷様が通り過ぎる。大音響で雪渓を刺激したのだろうか、雪崩を誘発した。目の前で見ているのだろう。恐ろしい風景である。山岳俳句の典型。
立山の雪も少な目去年今年
・・・お元日を迎えての静謐な句。毎年、何十年と長い間立山を見続けてきた人ならではの句。
両界岳と古地図に名あり雷起こる(両界岳=白馬岳の古名)
・・・新潟県側からは大蓮華という。長野県側からは西山、代馬岳の名称は知っていた。越中側の名称だろう。こんな古名があるとは初耳である。これも山岳史家ならではの句。
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