磯谷栄一著『消えゆく松平往還を歩く』を入手2026年01月18日

 元旦には名古屋市から鶴舞線・豊田線豊田市駅経由おいでんバスで松平郷へ。そこから岡崎城までウォーキング。中岡崎駅から愛環で帰名の予定。ところが思わぬ風邪でダウン。
 5日に親戚の親子を連れて村積山ハイキング。あいにく奥殿陣屋はまだ休業。メールで本の在庫の有無を確認してあったので18日に書院を訪ねて磯谷栄一氏の労作である『消えゆく松平往還を歩く』を入手。その後渡通津町から滝山寺をドライブで偵察しました。
 当初は大給城址、岩津城址、信光明寺を絡めて歩く予定でしたが松平往還の方が山岳古道の趣きがある。
 さて何時歩こうか。

地形図に残された交通史~森林鉄道2025年12月26日

 設楽町の資源は森林と水である。昭和の初めの地形図には明治時代にはなかった田口鉄道のトンネルが印刷される。後には豊橋鉄道田口線に変わる。戦後の石油輸入が盛んになると自働車用に改良されて稲目トンネルに変わった。1958年頃にはスバルのテントウ虫が発売、続いてトヨタのパブリカ、日産のサニー、トヨタのカローラでモータリゼーションの波が来ると鉄道は衰退する。
 田口線の終点は田口から寒狭川に下ったところに田口駅があった。昔は津具村で算出した金鉱山も運んでいた。田口線田峯駅から当貝津川沿いに森林鉄道の支線が張り巡らされた。更に栃洞線、最奥の鰻沢線が伸びた。鰻沢の源流は出来山という。鰻沢を遡行して出来山に登った。この時も源流部には森林軌道の跡が残置されていた。橋脚、沢沿いの軌道は美しいアーチを描く石垣が続いていた。これを見ると伐採作業員、鉄道の機関士、石工等多くの働き口を提供したであろう。
 トラックの時代になるとこれらは一気に何事も無かったかのごとく消え去った。古いトンネルだけは壊さずに残っている。

地形図に残された交通史~伊那街道2025年12月25日

 あいにくの小雨模様だが三の丸のPに停めて、愛知県図書館に向かう。三の丸の道路は南へはしばらく歩かない。これまでは幕で閉ざされていたが知らない内に白いビルが姿を現して来た。耐震補強をしたのかどうか。
 城跡の蔓性の植物も枯れている。そんな風景が枯れ葎の季語を引き出す。小雨で暗い感じが如何にも生命力の衰えた感じを引き出している。
 さて、久々の愛知県図書館に来た。警備員が以前から居たとは思うが強い警戒心を感じさせるのは不審な入館者をチエックしているのだろうか。
 目的は戦前戦後の地形図の閲覧である。3階に上がって地域資料のコーナーに行く。ここには明治時代からの地形図が閲覧できるのでたまに来る。今日はこの前歩いた新城市から設楽町を貫く歴史の山路である伊那街道の資料探しだった。
 まずは設楽町誌の絵図だけを集めた書籍を調べた。明治時代初期までの本格測量の地形図がなかった時代は鳥観図のような手書きの絵図で村の様子を記録していた。以前にも名倉の仏庫裡の古名を調べたら「ぶくりこや」となっていた。段戸山も後に鷹ノ巣山に変更されたが根拠は古名の「たかのす」である。宇連山の古名は「がんどぅ」であり、振草村誌の古名は「がんぞもちふで」というわけである。鳳来湖の奥地は振草村だったが合併で最奥は設楽町に編入、外は東栄町とまたがって整理された。
 つまり地図は散文ではないが、歴史が凝縮されている。見たのは五万図の「田口」。明治44年版、昭和の戦前、戦後の4枚を見た。
 与良木峠は記載されていたが、設楽町側に下った辺りから・412の南の鞍部を越えて、四谷の大代と小代を結んだ旧伊那街道に連絡する破線路がつながっていた。かしやげ峠を経ないで海老へ行く近道のイメージである。四谷には仏坂峠付近に古宿という地名があった。ここは宿場があったのだろう。小代から塩津、荒尾までも険しい山路である。与良木峠経由清崎経由の新道もすでにあって現在のR257の道に伊那街道とルビが降ってある。なおかつ隣の破線路は石畳の道も残っている。
 江戸時代から明治時代になると人口も増えた。輸送する塩の運搬の回数や量が増えてなるだけ楽なルートへと改良が続けられたと読める。

昨日の回想・・・疲労回復2025年12月14日

 今朝は疲労が抜けず、そろそろと起き出し、まずは汚れ物を洗濯した。外は雨だが明日は良いらしい。奥目の朝食を取り、山行記録をまとめる。
 昨日は連ちゃんで右ひざに痛みが走った。ちょっと歩きすぎたか。半日程度の軽登山だが老骨には響くのだろう。久々にアリナミンも飲んで疲労回復を心掛ける。
 下山後は本巣市へ行って恵贈の本を受領した。狭い地域だが歴史と文化を書いてある。山へ行く動機になる。今朝はお礼のメッセージを送信しておいた。
 本巣からの帰路はR22経由だと大渋滞するので来た道を戻ってR156からR22へ南進した。岐阜市内のGSで1リットル120円の軽油が見つかったので40リットルほどを補給した。どんどん安くなっている。名古屋市近郊でも127円だった。岐阜市内でも最安値126円だからここは破格の安さだ。 
 昨日夕、喫茶店で休んでいたら。姪から電話があった。姪の娘への入学祝いが届いたので礼の電話だった。来年は6歳の入学児へのささやかな贈り物を送って置いた。来年1/5はファミリーで軽登山と岩津天神への初詣に誘って置いた。
 最後の一宮線では大失態をしてしまった。都心環状線は時計回りなので明道町JCTで左折したは良いが、東片端JCTでうっかり左折してしまったようだ。おかしいと、間違いに気が付いた時は楠JCTに来てしまい、豊山で降りて地道を走って帰宅するはめになった。高速料金は無駄になった。通いなれたはずの名古屋でもナビを設定しておくべきだった。

渡部昇一『名将言行録』2025年11月25日

 P330~349
徳川家康についての考察が書いてある。
小見出しを列挙すると
 柔軟な発想の持ち主
 ・・・臨機応変に考えた
 大阪冬の陣の講和を引き出した偽書
 ・・・人の長所をよく見た
 家康が編みだした守成の法則
 ・・・戦国時代は能力重視、幕藩体制の下では長子相続を重視
 大名の心得と天下を取るものの心得は違う
 ・・・長子相続を重く見た
 家康の経済センス
 ・・・経済のことが分かっていた
 勇猛から温和へ
 ・・・秀吉は家康を畏怖していた
 恐るべきは家康のつくり馬鹿
 ・・・本末をわきまえること

(ビル・パーキンス著・児島修訳)『DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール』2025年11月01日

 ダイヤモンドオンラインから
 本書の目次
【本書のもくじ】
ルール1――「今しかできないこと」に投資する
ルール2――一刻も早く経験に投資する
ルール3――ゼロで死ぬ
ルール4――人生最後の日を意識する
ルール5――子どもには死ぬ「前」に与える
ルール6――金、健康、時間のバランスを最適化する
ルール7――やりたいことの「賞味期限」を意識する
ルール8――40~60歳に資産を取り崩し始める
ルール9――大胆にリスクを取る

  「老後への備えすぎ」は、「安心」ではなく「後悔」をもたらす
『DIE WITH ZERO』のなかに、緩和ケアの介護者として数多くの患者を看取ってきた知人から著者が聞いた、余命数週間となった患者たちが語る「人生で後悔していることトップ2」を紹介している一節がある。

 後悔の第1位は「勇気を出して、もっと自分に忠実に生きればよかった」。他人が望む人生を生きるのではなく、自分の心の赴くままに夢を追い求めればよかったという後悔だ。そして第2位は「働きすぎなかったらよかった」。働きすぎた結果、子どもやパートナーと一緒に時間を過ごせなかったという後悔だ。

  「2大後悔」の根っこは、実は同じところにある。

 なぜ、自分に忠実に生きられなかったのか。なぜ、働きすぎてしまったのか。それはともに、安定した収入を得続けるためである。なぜ安定した収入を得続ける必要があったのかといえば、それは日々生活をしながら貯蓄をするためである。何のために貯蓄をするのかといえば、それは老後のためだ。

 しかし、「老後のため」にあくせく働き、せっせとお金を貯めた結果はどうだろう。満を持して訪れた老後、抱くのは後悔である。こんなに残念なことがあるだろうか。

  「今しかできないことに、惜しみなく金を使え」

  著者であるパーキンスはこう語っている。

 私たちはつい、「老後の安心」を求めるがあまり、「確かに生きている今日」を削りすぎてしまう。その「削りすぎ」が老後、「あんなに削らなければよかった」「もっとあのときを大切にしていればよかった」という後悔をもたらす。

 本当に後悔しないのは、「安心して老後を迎えられる人生」より、「今しかできない経験を、そのときそのときで目一杯に積み重ねてきた人生」なのだろう。
引用は以上
 ・・・洋の東西を問わず、これまでに異口同音に語られてきたことがらではある。著者は「ビル・パーキンス(Bill Perkins)は、アメリカ合衆国のヘッジファンドマネージャー、作家、起業家など多岐に渡る分野で活躍している人物です。
 彼は、プリンストン大学で経済学の学位を取得した後、金融業界に入り、ヘッジファンドで働くようになりました。その後、自らのファンドを設立し、成功を収めています。」というから成功者は何とでも言えると言えばそうだ。
 他人が敷いたレールを信用し過ぎなのかも知れない。或いはその逆に年金制度もいつしか崩壊するかも知れないと、波乱に備えて、ビジネスや貯蓄に励む。心配したことの90%は起きない、という題名の本もあった。取越し苦労または杞憂である。
 日本史の場合は室町時代以後の中世で応仁の乱が起きて、すべての仕組みが一旦は崩壊し、下剋上という時代すなわち戦国時代が150年も続いた。家康は勝ち抜いて天下人になった。いかに人間を丸め込むか、の仕組みとして朱子学を採用した。今もこの残骸の上で生きている人が多い。

地の塩となりて逝くなり年の暮 拙作2025年10月29日

 午後5時から次号の編集会議でルームに赴く。連載も滞りがちだが、会の功労者として逝ったNさんの列伝を書くことにした。テーマはクリスチャンらしく「地の塩」とした。

岳人を読む2025年10月15日

 10月15日発売の『岳人』11月号を買った。今月の特集は京都・奈良の山。
 10日に山上ヶ岳に登った際洞川の商店街の店頭に岳人が置いてあった。付箋がしてあった箇所は馬上寛さんが執筆した洞川のガイド文だった。山上ヶ岳がなぜ女人禁制になったのかの経緯が理解できた。日本三百名山の一つなのにヤマップのアプリはカウントしていない理由もこれだ。「※ 山上ヶ岳については宗教上の理由で女人禁制である(女性が立ち入ることができない)ため対象から外しています。」とあった。地元の精通者の増谷英樹氏に取材して「女性差別」ではなく、母の遭難を心配して登らせなかったと断っている。
 女性の三百名山志向の人は代わりに隣の稲村ヶ岳を女人大峰として登られているそうな。稲村ヶ岳はガイドされるが山上ヶ岳は書いていない。
 もう一つ気になる記事は服部文祥さんの台高山脈縦走記である。記事は一気に縦走しているが私は2回にわたって縦走した。1回目は高見山からハッピのタワを往復。2回目は50歳の体力試験としてクルマで大又へ行って伊勢辻山を起点に縦走した。ツエルト2泊で迷走しながら大台のpに着いた時は傘がハッタケになる風雨で大荒れになった。バスで上市駅へ戻りバスを乗換て大又へ周回した。ハッピのタワと伊勢辻山の間が空白なので登りに行く予定だ。
 2023年5月1日には大台ヶ原の駐車場からコブシ嶺(マブシ嶺)でツエルトビバーク、尾鷲古道を下って県道へ着いた。これで高見山から尾鷲市の県道までつながった。
 大台に比べて大峰山脈は玉置山、釈迦ヶ岳、山上ヶ岳をピストンしただけの登山で終わっている。未踏の八経ヶ岳につながる縦走もしてみたい。大峰奥駈道の踏破も視野に入れて。

保坂正康『なぜ日本人は間違えたのか』(新潮新書)2025年10月13日

 こんなテーマの本が以前から出版される傾向にある。戦後80年の切の良さでまたまた反省をさせられる。
 今日の中共の喧しさはR・F・ジョンストン『紫禁城の黄昏』を読んでいないことで歴史認識の違いからくるものであろう。1945年の敗戦まで中国大陸の国家は
1 満州国
2 中華民国
3 チベット
4 モンゴル
5 ウイグル
に分かれていた。
 1949年10月1日にこれらを包含した中華人民共和国が成立した。以後我々の認識は統一中国に従う。さらに1972年の日中国交正常化で中華民国は無くなった。一つの中国の言い分に従った結果だ。
 日本がこうだから中国もこうだろうとの認識の違いでずれていく。日本は侵略戦争で中国大陸を奪ったなどと批判を真に受けてしまう。満州国は中華民国とは違う国だったのである。
 中華民国は毛沢東と蒋介石の戦争の結果として負けた蒋介石は台湾に逃げた。台湾は中華民国を名乗り、本土は毛沢東が支配する中華人民共和国になった。満州国は日本の敗戦で中華民国に引き継がれて、更に中華民国との内戦で敗れて中華人民共和国の領土になった。
 歴史認識としては日本はシナ保全の理念で大陸に行った。すなわち欧米列強を中国大陸から追放する狙いである。大東亜戦争という。ところが現代の中国はこれを認めない。

疲労回復2025年10月11日

 10/9から10/10の大峰山への登山でさすがに疲れてしまった。10日の夜遅く帰った。泥川で温泉に入っているので体は清潔だ。手土産に買ったあ柿の葉寿司を夜食に食べた。10日作ったばかりなので少し酸味がある。衣類を着替えてすぐに布団に潜り込んだ。枕元には『修験の世界』を置いたが疲労で寝てしまった。

 今朝は遅くに起きた。昨日の登山に着たズボン、シャツ、下着などを洗濯した。あいにく外は小雨模様で出かける気にはならない。生乾きの衣類を取り込んで新たな洗濯物を干した。

 泥川の商店の店頭で見た『岳人11号』が奈良の山の特集号で泥川のことが書いてあった。名古屋でも販売しているのか、と書店に行ったが15日発売になっていた。泥川の取材先で特別に早く届いたのだろうか。