安祥城址へ行く ― 2025年09月21日
今日も朝遅く起きてしまった。県内なら急ぐこともあるまいと正午前に出発した。目的地は安祥城祉を目指す。天白からはR153から県道56号に入りしばらく東郷町を走ると境川の橋を渡ると三河入りする。県道56号を東進すると矢作川を渡って岩津に行く。今日はナビに安祥城址を仕掛けて在り南下を始めた。昨日と違って丘すらもない平野部で刺激が少ない。
それでも西尾線南安城駅に近いところに安祥城址はあった。但し大乗寺の境内に飲み込まれているから城らしい雰囲気はない。砦ですらない。安城歴史博物館へ回り込んでP。だだっ広い中に停めて入口を探しながら歩くと安祥公民館に入って見たがここは会合の場だった。出て博物館に入り直すが子供らが大勢屯している。何やら来るところではない気がする。土産物コーナーをのぞくと書籍も展示してあるので『家康と松平一族』(令和3年開館30周年記念の発行)が目に付いた。これが今日来た目的だったので1600円で購入した。
博物館を出て大乗寺の境内を散策してみたが城らしさはない。学芸員、地元ボランティアガイドでもあればありがたい。とにかくこことが松平町に興った初代松平親氏から初代松平乗元が治めた大給城(おぎゅうじょう)、初代は松平信光の岩津城と岡崎平野に進出してきた。安祥城は信光の子の親忠が初代城主である。
松平家初代松平親氏、二代目松平泰親、三代目松平信光(岩津)、四代目松平親忠は信光の三男で安城城主、五代目松平長親は親忠の子で安城松平の二代目、六代目松平信忠は長親の子で安城松平の三代目、七代目松平清康は信忠の子で安城松平の四代目、八代目松平広忠は清康の子。
清康は家康の祖父で「天文4年(1535)に織田信秀を攻略するために尾張守山に出陣したところ、家臣の阿部弥七郎に殺され、松平氏の三河領国支配は瓦解した。」とある。家康の父の広忠も「広忠は天文10年水野忠政の娘である於大と結婚し、翌年家康が生まれた。しかし、同12年水野氏が織田方になったために於大を離縁、翌年 田原城主戸田康光の娘真喜姫と結婚した。同18年織田方の佐久間全孝の刺客岩松八弥に岡崎城内で殺された。」と波乱の生涯を生きた。
応仁の乱は人の世は空し、で1467年から10年間争いが続き、京都の町は焼け野原になったという。京都だけにとどまらず、三河でも永正三河の大乱があって地方へと拡散された。そのまま戦国時代となって1615年の徳川幕府開府で決着した。
家康の祖父の清康(1511~1535)は25歳で家臣に殺された。父の広忠(1526~1549)は24歳で刺客に殺されている。
それでも西尾線南安城駅に近いところに安祥城址はあった。但し大乗寺の境内に飲み込まれているから城らしい雰囲気はない。砦ですらない。安城歴史博物館へ回り込んでP。だだっ広い中に停めて入口を探しながら歩くと安祥公民館に入って見たがここは会合の場だった。出て博物館に入り直すが子供らが大勢屯している。何やら来るところではない気がする。土産物コーナーをのぞくと書籍も展示してあるので『家康と松平一族』(令和3年開館30周年記念の発行)が目に付いた。これが今日来た目的だったので1600円で購入した。
博物館を出て大乗寺の境内を散策してみたが城らしさはない。学芸員、地元ボランティアガイドでもあればありがたい。とにかくこことが松平町に興った初代松平親氏から初代松平乗元が治めた大給城(おぎゅうじょう)、初代は松平信光の岩津城と岡崎平野に進出してきた。安祥城は信光の子の親忠が初代城主である。
松平家初代松平親氏、二代目松平泰親、三代目松平信光(岩津)、四代目松平親忠は信光の三男で安城城主、五代目松平長親は親忠の子で安城松平の二代目、六代目松平信忠は長親の子で安城松平の三代目、七代目松平清康は信忠の子で安城松平の四代目、八代目松平広忠は清康の子。
清康は家康の祖父で「天文4年(1535)に織田信秀を攻略するために尾張守山に出陣したところ、家臣の阿部弥七郎に殺され、松平氏の三河領国支配は瓦解した。」とある。家康の父の広忠も「広忠は天文10年水野忠政の娘である於大と結婚し、翌年家康が生まれた。しかし、同12年水野氏が織田方になったために於大を離縁、翌年 田原城主戸田康光の娘真喜姫と結婚した。同18年織田方の佐久間全孝の刺客岩松八弥に岡崎城内で殺された。」と波乱の生涯を生きた。
応仁の乱は人の世は空し、で1467年から10年間争いが続き、京都の町は焼け野原になったという。京都だけにとどまらず、三河でも永正三河の大乱があって地方へと拡散された。そのまま戦国時代となって1615年の徳川幕府開府で決着した。
家康の祖父の清康(1511~1535)は25歳で家臣に殺された。父の広忠(1526~1549)は24歳で刺客に殺されている。
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