第9回 三遠研発表会2-12025年09月06日

 新城市で研究発表会を開催。今日はいつものR153からR301のドライブではなく、県道56号線を岡崎市まで走った。行きがけに岩津天満宮に寄って参拝した。この近くに岩津城跡があると聞いたが、道路案内があるだろうと事前に調べて行かなかったので分からず仕舞い。地理感を得ただけで終わった。
 R1に出て豊川市方面へ。R23開通のお陰で長距離のトラックが無くなりスイスイ走れるようになった。途中から近道で新城市文化会館へ。
 13時に到着。13時30分から大会議室がほぼ埋まる37名が参加して活況を見せた。白井会長のあいさつで始まった。
 第一部は新城支部の富安秀直氏の「武田信玄の終焉地は今水寺か?」。
1 信玄の終焉の地は
①阿智村の駒場「長岳寺」・・・・信玄を火葬に付した寺
②根羽村の横畑の信玄塚
③阿智村(旧浪合村)

2  野田城攻めの際の今水寺の地理的条件と規模
3 厳冬期に一ヶ月以上の滞陣
4 双方に多大な戦死者が出ていない
5 野田城攻めの不可解な戦の収め方
6 今水寺の残留遺物の様子
7 武田軍の退路について
順次話された。
 配布された地図を見るとかつて登ったことがある吉祥山の北西の山麓だった。ここなら一度行った記憶もあるが予備知識がないためさらっと見ただけに終わった。
 また西の金沢町は俳人の富安風生の生家がある。風生には子がいないために別の相続人に渡った。家の近くには風生の生家である石碑が建っていた。
 世に知られた有名な句は”まさをなる空よりしだれざくらかな”


 終焉の地は他に
④奥三河から信州にかけての何箇所かに、武田信玄の死にまつわる伝承地が残されており、福田寺にある墓はその中のひとつ。伝承では、天正元(1573)年武田信玄が野田城攻略中に病に侵され甲州へ戻る途中、この寺に立ち寄ったが、ここでさらに重篤となって病没したとされています。本堂脇の池のほとりに墓が建てられており、これは屈指の戦国大名のものとは思えないほど小さく簡素なものです。(設楽町HP)

 ネットでも歴史街道のHPで「野田城を攻城中に重態に陥った武田信玄。その終焉地の謎に迫る!
 遠江の三方原の戦いに勝利した後、野田城を攻城中に重態に陥った武田信玄が、伊那街道から三州街道を経て本国の甲斐に引き揚げる道すがらの元亀4年(天正元=1573年)4月、一体どこで死んだのか、その謎は解明されずに今日にいたる。

そして信玄塚や死亡伝承地が沿道の随所に点在する。

 信玄は風林火山の旗を都に掲げる野望を抱いた。将軍・義昭の求めに応じ、本願寺、朝倉義景、浅井長政らと呼応して、比叡山焼打ちなど仏法を軽視する織田信長に対して、上洛の兵を動かしたのだ。
 元亀3年12月22日、2万5千の軍勢は天竜川を渡り、三方原台地に上がり、家康の浜松城を無視して、姫街道を通り三河に向かう姿勢をみせた。これに家康は自分の庭を土足で踏み荒らすのは許せぬとして、1万1千の兵を率いて追跡した。31歳と若い家康の心理を読み切っていた信玄は、計算通りに軍勢を返し、三方原で家康軍に痛烈な打撃を与えて大勝利をおさめた。
歴史街道のURL
https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4942
以上

第9回 三遠研発表会2-22025年09月06日

 第二部は石黒 妙氏の「永正三河(の)大乱」について
 
1 永正三河の大乱の背景
~京における混乱の影響~

 ・・・応仁の乱は一夜空しい、と覚える。1467年から始まり約11年続いた。呉座勇一『応仁の乱』のはじめにも書いてある。
”応仁の乱勃発当初は京都のみが戦場であったが、やがて戦乱は地方に波及し、全国各地で合戦が行われた。”とあるから石黒さんは三河を掘り下げたというわけです。

2 永正三河大乱における戦い
a"今橋城の戦い→永正三年(1506年)
 今川氏親、伊勢宗端VS牧野古白

b"岩津合戦→永正五年(1508年) 
 今川、東三河連合軍VS松平親長、岩津松平

 ※奥平氏率いたのは、奥平貞昌
 ※戸田氏率いたのは、戸田堯光

 ◎今川氏の目的は
    そもそも三河を手に入れることではなかった!
                 ↑」
    京に復帰した、義材(足利義稙か)に接近した本家、
    吉良義信が、松平一族の動きを封じたかったから、
    今川氏親へ遠見守護を確約し、義材の命令により
    今川軍を動かしたい狙いがあったから  

3 今川氏親はこの戦いで何を得たのか
以上を順次話された。予備知識がないために頭が混乱してしまった。

 新城市からの帰路はやはりR1に戻り、岡崎市の岩津城址を探し当てた。GPSでは竹藪に覆われた丘というイメージだが、歩いて行くときちんと入口もあり歩道も整備されている。次の機会に探訪して見たい。
 司馬遼太郎『覇王の家』が参考になる。豊田市松平の地から松平親氏から広忠まで8代。約200年をかけて1603年に徳川幕府成立し、徳川家康につないだ。その間に永正三河の大乱もあるわけだ。
 岩津城のHP「 まもなく松平宗家二代泰親、三代信光の手によって岩津城が築城されて600年を迎えようとしています。岩津城は家康(九代)誕生に繋がる松平氏発展の礎となった極めて歴史的価値の高い城郭です。」
 岡崎おでかけのHP「築城は、松平2代泰親が応永28年(1421)に加茂郡松平郷から岩津に進出を果たしたことに始まると伝えられています。
山城跡は戦国時代の様相を示す優れた縄張構成をもつ城郭で、中世城郭のほぼすべての要素が揃っている重要な遺構。
 南側にある信光明寺とあわせ、松平氏の三河平定の歴史を語る際、欠かせない場所の一つです。」
 2025-1421=604年という計算なわけです。