『山岳』N0107・支部報・個人誌等続々届く2012年10月01日

 A先生から「安曇野だより」第6号を恵贈。定年後、しばらくしてから、愛知県を出て、安曇野の一角へ別宅を建設。文によると愛知県の本宅を処分されたらしい。別宅がもう終の棲家になったわけだ。登山の方もお元気で継続中である。何よりである。それにしても十国山を知らなかったなんてねえ。それだけに新鮮味があって楽しめたのではないか。
 京都支部報、東海支部報と続々届いた。京都は国内山行中心の交流誌、東海は登山報告は海外以外は掲載せず、活動報告的な趣がある。これがカラーというものか。京都支部は今西錦司の肝煎りで設立されたから山好きでは人後に落ちない。東海支部はヒマラヤを目指す登山家の集団として設立されたから違って当然である。
 『山岳』N0107は中々読みでがあった。終戦直後、日本山岳会富山支部の会員だった棟方志功の交流譚の趣向である。私がN0105に投稿した「山恋の俳人 前田普羅」の時は、編集担当から、編集委員には文学を解する人がいない、とか長いとかで一旦掲載を断わられた。それでも何とか短縮して掲載にこぎつけた。その内容の前田普羅、小島烏水と関連する論文が掲載されたことで『山岳』も少しは文学の味がする読物になった。
 執筆者・五十嶋一晃氏の論考によると棟方志功が日本山岳会の富山支部会員だったことを掘り出されたわけで、前田普羅と登山をともにしたようだ。普羅死去後の葬儀にも参列し、普羅を偲ぶラジオ番組にも出演した。私の粗雑な文と違い、綿密に取材されて、富山県における交流の風景を再現された。ちなみに、五十嶋氏は太郎平小屋のオーナー・五十嶋博文氏の実兄である。『山案内人 宇治長次郎』の著書もある。
 もう1本は四国支部を立ち上げて、支部長になられた尾野益大氏の小島烏水に関する論考である。日本山岳会の初代会長でありながらこれまで故郷の四国での研究はなされてこなかったようだ。その嚆矢となる論考ではないか。来年4月14日には烏水のイベントも行うようだ。是非行きたいものだ。
 するとわが愛知の偉人・志賀 重昂の研究も進めねばなるまい。この人の『日本風景論』が烏水、普羅に登山を教えたのであるから。全集を購入して少しづつ読み込んでいるところだ。日清戦争に勝利した当時を背景にベストセラーになったという。日本の風景称賛の本である。欧米の植民地になるまいとして近代化を進めていた日本人の何に受けたのか。『日本百名山』の先輩格にあたるが、郷土愛ということか。それが高じてナショナリズムへと。

にはか雨2012年10月06日

 明日は二つ兼ねて御在所山へ行くことにした。先月12日から行方不明のままという人の捜索と初心者を連れての登山入門である。こういう動機でもないと中々山に行く機会がない。
 登山の荷物をマイカーに入れに行くとパラパラとにはわか雨が来た。天気予報では晴れなのに、気圧の谷の通過だそうだ。明日は快晴の予報となっている。
 単独では躊躇していたのだが、ちょうど、取引先の人と商談中に山に行きたいと希望するので、よっしゃ、御在所へいかが、と誘い水をしたらすぐ決まった。相手は登山初心者であるし、ノーマルなコースを歩いてみよう。初心者でもあり、ゆっくり歩くから捜索にもいい。
 三重岳連の知人に電話するとさっぱり手がかりなし。ネット上の情報と変わりない状況である。長石谷を歩いているのを目撃されて、集中捜索されたらしいが、見つかっていない。この前の台風で何か見つからないかと、思ったが何もなかった。どこに居るんでしょう。多分意表を突くようなところかも知れませんね。

御在所山に登る2012年10月08日

 10/7朝9時半前、御在所山の登山口には多くの車が駐車して、入り込む隙間もない。だから上部へ追い上げられて、やっと駐車できた。若干下って、一の谷の登山道から入山する。今日は快晴。登山日和、秋日和である。
 最近、商談中にお知り合いになったHさんも同行してくれた。Hさんはマラソンのランナーが本職であるが、登山にも興味津々であった。単独ではモチベーションが上がらないから同行者があるのは助かる。
 この尾根は痩せ尾根で、急な登り一辺倒の道である。木の根っこがむき出し、風化花崗岩の脆い岩に手を掛け、落石に注意しながら登る。尾根には秋の風が吹いて、少し立ち止まっても、すーっと汗が乾いて行く。急登に次ぐ急登をこなしつつ、今回は行方不明者の捜索もあったので、斜面の砂地に不自然な変化が無いか気を配って歩いた。
 およそ2時間ほどで山頂の一角に着いた。非常に多くのハイカーや観光客が居た。やっぱり今日は秋日和である。
 一等三角点の座す山頂に歩いて行く。ここにも多くのハイカーの群れと観光客がいた。東屋で弁当を取り、山頂に寄って、下山した。ルートは表道である。この道も一の谷道に劣らず、急でガレの多い道だった。一旦車道にでるがまた登山道に戻る。橋のところからは車道を下った。駐車場へはかなり歩いたが、予定していた時刻より早く着いた。その足で希望荘へ寄り、一風呂浴びる。R1を走り、Hさんを最寄の場所まで送って今度はW君の家に向かった。
 今日、行方不明者の手がかりを得られなかった。どこに居るんでしょう。

白山・妙法山1776mへ小谷から溯る2012年10月09日

 10/7、御在所山を終えてHさんを送ってから、あま市のW君の家に直行した。再び、山に向かうためだ。今度は白山北部の妙法山だ。『ぎふ百山』124座へ沢か山スキーで登山するW君の挑戦に同行支援する。いや支援になっているかどうか。
 白川郷ICを降りてすぐに道の駅の裏の広大な駐車場の一角に陣取ってささやかな宴会をやる。久々にコンロに炭火を熾し、秋刀魚を焼こうという企てである。先着のKさんとども集まって山談義に夜も更けたところで就寝。
 4時非情のベルに起される。昨夜の野菜なしのつまみの所為か胃がおかしく食欲がない。いつもは無くても無理に詰め込むのだが、その気力もないのでテントを片付けて暗い内から出発だ。Kさんは単独で鶴平新道経由で妙法山を目指すので先に出発だ。山頂で落ち合う予定だ。R156を平瀬に向かい、荒谷の橋の手前で林道に入る。
 林道にかかる谷の特定に注意しながらここだ、と思ったところで停車。まだ暗いので仮眠した。6:45、身支度後出発。本流の名前の荒れ谷の名前に劣らず、枝沢も相当の荒れ様だった。瓦礫と砕石が重なり、谷を埋めている如くだ。
 気温は道路では11℃だった。水はもっと冷たいのでなるだけ濡れないように溯る。地形図で確かめながら登る。崖のマークのところが地滑りになっていて、谷の全体をせき止めるように埋まっている。そこを過ぎても滝、滑、といった渓谷美は一切ない。そのうちに分岐に着いた。水流のある右俣をふって左俣に入る。そのうちに伏流水が出てくると期待したが水は二度と現れなかった。
 まるで廃道同然の荒れた登山道を登るように溯った。源流部に近づくと薊が増えた。薊の種子が風に吹かれて飛んでゆく。周囲のヤブも出てきた。右から左から枝が伸びる。そこを掻き分けるように歩く。地形図で緩斜面に着いたが、左へ振り過ぎた。修正しながら妙法山の鞍部を目指した。クマの糞があった。人糞のように匂いはしない。悪臭がなく、色も緑っぽいから糞かどうかも分からない。青いドングリを一杯食べているんだろう。
 ヤブと格闘し、ジャングルを潜り抜けて、急斜面を這い上がって、ついに登山道と合流した。ここからは両足を交互に動かすだけで頂上に行ける。何と楽なことか。
 頂上にはKさんはおらず、石川の岳人3人が休んでいた。JACの会員だった。
 頂上からの展望は素晴らしかった。谷間からみた槍ヶ岳もここからは横一列に連なる北アルプスの一つに過ぎない。白山は頂上部に雲がかかり見えない。奥三方山、三方崩山は見える。猿ヶ馬場山、笈ヶ岳、大笠山、奈良岳は大笠山に隠れるように座す。大門山は加賀富士の別名の通り端正な姿である。
 石川の人らと話したのは登山道の多さだった。かつて石徹白から野谷荘司山まで縦走したこと、お花松原の高山植物の素晴らしかったこと、ゴマ平避難小屋の素晴らしかったことなど。
 Kさんは待っても来ない。予定では谷を下るのだったが、Kさんと合流する機会もあろうかと縦走路を辿ることにした。妙法山の北斜面の紅葉は綺麗だった。しかし、この下りはとてもきつい。鞍部から登り返し、妙法山を見返すと、ここで下山したくなるだろう。
 重い足を引っ張るように歩いた。フエルトシューズは土との摩擦は少ないのでロスが出やすい。その分疲れる。登り、下りを繰り返しもうせん平に来るとほっとする。ここらは今までに増して熊の糞だらけだ。相当数棲息しているらしい。岐阜県側の斜面が広範囲に崩れて赤っぽい地面が丸見えだ。ここらも昔はブナの原生林ではなかったか。皆伐した結果だろうと思う。
 野谷荘司山はまだ遠い。やっとの思いで着くと福井県から来た若い単独の登山者が居た。若い登山者を見るとほっとする。
 野谷荘司に別れを告げて、鶴平新道を下る。典型的な痩せ尾根の登山道である。両側とも切れ落ちてバランスが入る。徐々に高度を落とすとブナ林が現れる。傾斜の緩い道を歩いたかと思うと急なくだりになった。ブナの原生林に刻まれた道はいい環境であろう。
 登山道の途中で蜂の巣があった。そこをW君が指指したので刺激したらしい。黒ずくめの我々を熊と間違えて襲われた。W君は手に2回さされた。私は腹に一回刺された。ちくっと痛む。薬は無く、そのまま何も手当てできず。衣をめくって調べるとまた別の蜂が襲ってきたので逃げるしかない。
 黄葉になれば素晴らしいだろうな、と想像しながらブナ林内の道を下った。鶴平さんの墓を右に見るとすぐに車道であった。Kさんが待っていてくれた。Kさんの車で荒れ谷の林道を走ってもらい、マイカーに戻った。平瀬温泉で一風呂浴びて帰名した。

初見・歌舞伎ってこんなに面白かったの!2012年10月10日

 10/2から始まった御園座の顔見世興行。プログラムを見ると「中村勘太郎改め六代目中村勘九郎襲名披露『第四十八回吉例顔見世』」とある。この前9月末に大須観音界隈で「お練り」が行われたばかり。そこへ行ったこともある。要するに歌舞伎界の世代交代である。
 13:30から「伊勢音頭恋寝刃」は伊勢参りで賑わった古市で起きた刃傷事件を題材にした演目である。これは御園座主催のバスツアーで故地を巡ってきたのであらすじは分かった。
 勘九郎扮する貢と遊郭の人間模様を描く。名刀を差替えるなど、段々、悪巧みに嵌められてゆく勘九郎の心理描写と大胆な動作、演出が際立つ。そして、妖刀を以って万野に当てるが鞘が割れて、真剣がむき出しになるところから、核心部(クライマックス)に入ってゆく。刀の妖しい力で次々、殺傷してゆく。
 舞台設定は役者の着るものが浴衣だから夏であろう。白い浴衣が血染めになって、舞台狭しと乱闘する。しかし、そこは歌舞伎であって、時代劇のような殺陣にはなっていない。オーバーアクションで切った逃げたの場面が分かる。幕切れはあっけなく終わる。この言葉も歌舞伎由来でしょうか。そこに江戸文化がある、博多人形のような役者が喋っている、まさに非日常の世界に遊んだ感じでした。

 16:00から「鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)」は「菊畑」の副題がある。雰囲気ががらりと変って浄瑠璃とかいう出し物。琵琶を鳴らす。菊を飾り立てて華やかな舞台が際立つ。様式美を意識する。これは秋の演目。

役者が勢ぞろいしての「口上」も迫力がありましたね。

「義経千本桜」は「道行初音旅」でこれも様式美が素敵だった。舞台には吉野山にふさわしく春爛漫とした桜で彩られた。華やかな感じがする。
 能、狂言、浄瑠璃が渾然となった出し物である。初音はウグイスの初鳴きのことで俳句では春の季語になっている。源氏物語の第23帖「初音」に由来する。
 WIKIにも「江戸時代の教養人の子女は『源氏物語』を「初音」から学んでいった。3代将軍徳川家光の長女千代姫(当時数え3歳)の婚礼調度の一つ、国宝「初音蒔絵調度」は、初音の巻に取材したものである。」とある。国学者・本居宣長は町の衆に「源氏物語」を教えていたというからこの作品の成立も江戸時代末期であろう。

「川連法眼館」は勘九郎が狐に扮して、舞台狭しと、大活躍。舞台装置をあるだけ使っての熱演に観客も大喜びだった。
 御園座を出ると「ああ!良かったわね」と女性客の声が漏れた。もっと予備知識が欲しいと思う私です。

恵贈!寺崎杜詩緒句画集Ⅱ『四季悠遊』2012年10月12日

 先日、所属結社「辛夷」の先輩・寺崎氏より贈られて来た。富山市の方なので投稿と言う以外は交友らしいものはない。親しくお話をした記憶もない。
 読ませていただくと私が雑誌「辛夷」に連載中の「好句考」に氏の一句採りあげたことが機縁になったかと思う。
   春霞北信五岳見えぬまま
わが拙文も掲載されていて、汗顔の至りである。あとがきには「若かりし頃は山が好きで、山キチと山岳会を幾つか創りました。立山も50回まで登ったのを覚えて」いるそうだから並の山好きではない。
 作者は昭和3年生まれというから84歳の高齢である。それでも「辛夷」誌へ「一期一絵」を連載しておられるから大した創作意欲である。自作の絵と説明する短文とで一ページを構成する。辛夷歴は25年、俳句歴は昭和26年以来というから60年を数える。その間、自由律の時代もあったらしい。
 その並外れた体力と気力はと立山登山で鍛えられたものに違いない。「旅行は三十七都道府県は全部」巡り、京都は百五十回以上」という。歌舞伎もご趣味で「平成7年、南座の顔見世以来虜に」なったそうである。ということは67歳ごろが初見だから私の初見よりも遅い。「東京、京都は勿論、大阪、名古屋、博多まで足を伸ばした」とか。
 人間、足から衰えるという。何ごとにもモチベーションが湧かなくなり、興味、好奇心が無くなると老化の一途になるのだろう。その点、この作者は大丈夫である。ではいくつかの好きな句を思いつくままに採りあげて見たい。
 
 佐渡ヶ島晩夏の海の果に見ゆ

・・・芭蕉のイメージが強すぎて佐渡ヶ島を詠むのは難しいことになった。晩夏の寂しさがでている。普羅にも”眠る山佐渡見ゆるまで路のあり”がある。

 立山の峰メロンのごとき寒の月

・・・地元では立山を”たち”と呼ぶ。立山ヶ峰で”たちがね”という。句は”たちのみね”と読ませる。メロンのような白くてまん丸な月の取り合わせである。

 無垢のまま落ちて重なる白椿

・・・椿の句といえば、自由律の俳人・河東碧梧桐の”赤い椿白い椿と落ちにけり”が人口に膾炙している。作者も自由律に傾倒された時代があったが、伝統俳句に戻った。それでも頭の中に印象明瞭な河東碧梧桐の俳句が残った。何度も挑戦してこの句に落ちついたのだろう。
 江戸時代の座の文芸であった俳諧のホ句が子規によって、改革され、座がなくなって個人で詠む俳句となった。河東碧梧桐は更に五七五まで壊そうとしたところに無理があった。小説や詩は個人で完成してしまうが、俳句は誰かに読まれて、選句、披講を受けることで完成する。未だに座の文芸の名残がある。これが日本文学の船の底荷といった人がいる。

 葉隠れに朱を灯したる辛夷の実

・・・辛夷は白い幹だけは誰にも目に浮かぶが、赤い実などは見たこともない人が多かろう。辛夷の花も、ある人と10人ばかりで、一杯やっていて、いきなり、花を見せて何の花か、という。誰も答えられなかった。それが辛夷の花である。一度は実を見ておかねばなるまい。

 六月尽千秋楽の歌舞伎座へ

・・・千秋楽となれば大勢のお客が詰め掛けるだろう。そこに独特の雰囲気が生まれると思う。

 リュックにも熊除けの鈴山歩き

・・・秋山では常識になった習慣である。

 足湯する飛騨の山々風は初夏

・・・集名のように悠遊の風情がある。

 初芝居宙乗りに声成駒屋

・・・成駒屋の由来はWIKIによれば「四代目中村歌右衛門が、公私にわたって親交を暖めていた四代目市川團十郎から「成駒柄」の着物を贈られたことに感謝して、それまでの屋号・加賀屋を改め、将棋の「成駒」に團十郎の「成田屋」をかけて、成駒屋としたのがその名の由来。」


 顔見世や娘道成寺喜寿の舞(御園座)

・・・これも一度は観ておきたい芝居である。

 顔見世の夜の部までを祇園小路

・・・昼の部と夜の部の休憩時間に祇園小路をぶらつく。

 登りきり滝のイオンを浴びにけり

・・・まさか沢登りの末ではあるまい。滝見の歩道を登りきり、と解釈した。称名の滝をイメージする。

 寒日和あと百日の歌舞伎座へ

・・・歌舞伎座初日まで後三ヶ月あるというのだ。その間にチケットを手配し、交通の時刻も調べたり、宿の予約もある。事前に結構やることが多く、それも楽しみなことである。

 四月尽御名残歌舞伎あと二日

・・・折角慣れてきた芝居見物もあと二日で終わり、折りしも四月も終わった。晩春のまた常住坐臥の日常に戻る寂しさ。

 海老蔵の抜けし顔見世外郎売

・・・海老蔵とかいう役者は事件で一辺に有名になってしまった。痛い目に遭ったが、歌舞伎を衆目を集めるのには役立ったことは間違いない。期待したファンを裏切っては明日はない。
外郎売りとはWIKIによれば「外郎売(ういろう うり)は歌舞伎十八番の一つ。いわゆる「曾我物」のひとつ『若緑勢曾我』(わかみどり いきおい そが)の一幕を一部独立させたものである。享保3年 (1718) 正月、江戸 森田座で初演。「外郎売実ハ曾我五郎」は二代目市川團十郎が勤めた。
 今日では「外郎売」と言えばその劇中に出てくる外郎売の長科白を指すことが多い。俳優やタレントなどの養成所で発声練習や滑舌の練習に使われているが、漢字の読みやアクセントは幾種類かある。これは出典を何処から引用したかによる違いである。」
 俳句と同様に奥が深い。それゆえに病みつきになるのだろう。俳句にも歌舞伎にも様々な文芸のエッセンスが溶け込んでおり、老年の嗜みとはいえる。 


 寒茜立山(たち)に向かいて言葉なし

・・・・啄木の「ふるさとの山に向かひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな 」を思い浮かべる。
一見の観光客ではなく、日々、立山を見つめる暮らしがある。喜怒哀楽を受け止めてくれるありがたい存在である立山であることよ。
 
 初芝居待つ間水掛不動尊

・・・今日は初芝居である。少しの時間に水掛不動尊に寄った。何かを念願するというのでもない。落ち着かない心を紛らわすために。

 芝居了え道頓堀の寒月夜

・・・芝居が終わった。さて次はと、道頓堀を歩く。

 梅雨空を吹っとばす千両役者かな

・・・鬱陶しい梅雨空である。千両役者とは「かぶきのおはなし」によると「「大根役者」の反対です。芸に優れた名優、立派で人気も高く一座の中心となる役者のことを「千両役者」と呼びます。
 江戸時代では、役者は中村座や市村座、守田座などの興行元と、1年単位 で専属の出演契約を結んでいました。 毎年11月から始まって、翌年10月迄の1年契約です。
 新年度が4月からではなく、11月から始まるというのが歌舞伎の世界の慣行です。ですから、今日になっても、歌舞伎座では11月を「顔見世興行」として、特別 の意味合いを持たせています。
 中略、当然良い役者、客を取れる役者の年俸は高くなります。そして、年俸1千両の役者のことを「千両役者」と称したのが、この言葉の始まりです。 年俸1千両の高給を稼げる役者=良い役者=千両役者という図式です。」
 ちなみに現代では8000万円に値するとか。世襲を維持してゆくには高給でないと、持たないかも知れません。
 


うち、十句は歌舞伎関係になってしまった。なるほどこんな風に把握するのかというお手本である。わが山の俳句の師と仰ぐ前田普羅も演劇が好きだった。

 面体を包めど二月役者かな     普羅

 今ならマスクかサングラスでカムフラージュするが、昔は手ぬぐいか何かで頬かむりしていたのだろう。(5月の御園座の出待ちで島津亜矢さんはマスクをしていた。)それでもそこはかと匂う役者のオーラは隠せない。贔屓の役者を見ての所見だろうか。

 十月や顔見世の主は勘九郎  拙作

白山の秋吟2012年10月13日

   10/7 御在所山

秋風の心地よき尾根道を行く

尋ねびとのごとくに消ゆる穴惑い

成果なき捜索登山秋さびし

   10/8 白山北方・妙法山

秋澄むやどこから見ても槍ヶ岳

秋山やところかまわず熊の糞

友を待つ妙法山や秋日和

白山はいつも秋雲まとわりぬ

赤や黄でもてなすごとく山装う

秋の暮工事現場の車行く

   10/10 御園座・顔見世

顔見世は秋の御園座より始まる

十月や口上を述ぶ勘九郎

秋風に役者の幟翻る

中村屋!と呼ぶ声高し秋の夜

福光町を訪ねる2012年10月14日

 今日は所属結社「辛夷」の年次大会だった。以前から福光町の棟方志功の記念館「愛染苑」を訪ねる希望を今日こそはと早起きして行く。東海北陸経由でも良いのだが、白山と日本海を眺められる北陸道を走った。金沢東で降りてR304を行く。道の駅で福光産の米、野菜など買う。愛染苑はそこからすぐだった。
http://fukumitsu-art.city.nanto.toyama.jp/aizenen.html
 Pには先客がいて、団体さんもいるようだ。受付を済ませて館内を巡る。次は支援者だった石崎俊彦の家、当時の住居だった「鯉雨画斎」を見学した。その中で団体さんが説明を受けている最中だった。普羅、と当時の交友を示す記念写真もあり、一級の資料と分かった。
 団体さんが出て行った後、説明されていた湯浅氏と少しお話を聞いた。独特の富山弁でことを話されたが、すべては「辛夷」に中島杏子が書いているよ、と教えてくれた。やっぱり、弟子の目から見た普羅と棟方の交友は当時の「辛夷」が第一級の資料になるようだ。
 定本『普羅句集』(辛夷社、昭和47年)の序文は棟方志功が書いている。
     前田普羅先生
                      棟方志功

 前田普羅は、正に関東武士といふ気宇で立って居た様です。
 あゝいふ、心から、オソロシイほど、本物ばかりで生き、活きた人間といふか、あるいは化物の様に凄まじい本性を、いつも、かつも、見せっぱなし、出しっぱなしの人間は知りません。正直以上に、「正直で、剛直なほど剛直で、あるいはゴウジョウなほどゴウジョウといっても噓にならない程で、正に曲者でもありました。そして立派でした。誰がナンと言っても立派な程立派さを持ってゐました。美事な立派さでありました。
 心の心まで交ぜ返しをしない人でした。ただ一本に自分の生涯を槍の様に貫き通したといってもよいのではないでせうか。
 思ふ存分に、自分を振舞ひながら、静かに静かに囃しをおさめた様にー秋風の吹き来る方に帰るなりーそういふ人でありました。
 全々に、他の合点を持ち合わせのないところから前田普羅は寂然と立って居たり、妙絶と気を吐き続けたようでした。あゝいふ大きいわがままを会釈もなしに振舞した影に、案外に前田普羅の深情があったのかも知れません。ナンとなく、ナンとなく、やれ切れない淋しさを連れて居るような影もあった様です。それが、大事で大切な面でもあったかも知れません。
 カーキ色の洋服の上下に同じ色の巻げいとるをして、重い大きい軍靴に鋲をして、足をかため、同じ色と地の外套を羽織り帽子を冠り、門を出る前田普羅の門出の様な、また何か、不思議で妙な夢の様な、気配のやり切れない一期をこの場に感じるのでした。-普羅っーと答いる声が、聞こえて止みません。どこまでも何回も答いるまで言っている声のようです。
  ----花深処無行跡ーーーー
      昭和四十四年 師走 二十七日 風宵
以上
    富山大空襲に焼け出されて福光近辺に疎開
 仮の世に仮の宿とて爽やかに   昭和20年
    句会を中止したが、志功からはがきが来る
 ぬれ縁に置きし手紙も凍てにけり 昭和22年

秋深し!2012年10月21日

 外にでると風がさわやかである。秋深しの思いがする。
 夕方、携帯に入っていた友人に電話すると恵那山から下山中だった。紅葉も始まっているらしい。さては朝の電話は入山届けだったのだろう。
 昨日から今日まで殆ど部屋の中に篭りきりで溜まっていた書籍、雑誌を読みふけった。中韓の読み物を中心に思いは東亜の近現代史ということになる。古い号も一通りは読んでいるが改めて目を通すと、当時の論考もまだ過去になっていない。すべてはこれから起こることだらけである。小さな動きに目を留めると大局を失う。大局だけを把握してきた積もりでも、認識が未熟だったりする。時事は難しい。
 ふっと気分を変えたくて、永井荷風の『濹東綺譚』を探したのだが、見つからない。この2日間探して今日やっと見つかった。パラパラと読むが、続かない。そこで外に出て、レンタル店でDVDを見直すことにした。
 D店で買い物し、行く途中、軽自動車同士の激突事故があったばかりであった。一方は車室が大破していた。もう一台はフロントが凹んで衝撃の大きさを語る。警察官の主導で、ガラスの破片を踏みながらソロソロ通過する。
 目的の店にDVDはあった。ついでに4枚を追加した。「地上の星」の歌で知られるプロジェクトXのDVDだ。戦前、世界有数の航空機メーカーだった中島飛行機の後継の富士重工業が開発したスバルの誕生、今は信じられないような経営の苦境にあるシャープの液晶の開発、無事故で世界に誇る鉄道日本のシンボルの新幹線の物語、他に「風雪流れ旅」の元になった高橋竹山のものの5枚。一週間は楽しめる。60歳以上は1000円のところ、400円でいいという。
 帰るときはガソリンスタンドの値下がりに気づいた。当方は軽油の価格に敏感であるが、118円まで落ちている。10月上旬まではどこを回っても127円だった。そのくせ、長野県では121円だったり、富山県でも120円だった。地方の方が高いのはやむを得ないと先入観があったが、都会の方が割高になっていたのである。
 3.11以来、原発停止の流れから原油が高止まりしていたが、どうやら商品市場からもマネーが逃げているようだ。日本は超円高だからもっと安くなって良いのにと思っていた。
 プリウスなどHBの普及促進、マツダのディーゼルRVがクラストップの売れ行きを示す。日本の車は世界一燃料効率が高い。これで原発が一部再開したり、太陽光電、風力発電が普及してゆくと日本は、益々原油消費が減る。世界経済にも秋風が吹いている。

映画『濹東綺譚』鑑賞2012年10月25日

 1992年近代映画社制作。原作:永井荷風著『濹東綺譚』(岩波文庫1947年)。監督+脚本=新藤兼人。主演:津川雅彦、墨田ユキなど。

 以前に一度観たから2回目の鑑賞になる。きっかけは、新藤監督の著作『『断腸亭日乗』を読む』(2009年、岩波現代文庫)を読んでから、気になっていた。実は、1960年の豊田四郎監督、山本富士子主演バージョンもある。これはレンタルされないので已む無く購入した。こちらの方が原作に忠実である。そうではあるが、いらいらするような長さを感じる。
 しかし、リメーク版は、新藤さんは『断腸亭日乗』を読むことで、『濹東綺譚』の成立の背景を知り、小説の中の小説家という設定を省いて、脚本化された。だから比較するととてもシンプルであり、展開が速い。観ていて楽しいと思う。それに女優が日本一の美人が主演では、陋巷の私娼窟(玉の井)で春を鬻ぐ女、つまり汚れ役を演じさせるのは適役ではない。
 リメイク版では、墨田ユキという無名のAV女優を公募で発掘して、起用した。これは当たったと思う。性交シーン、陰毛まで見せてくれるからサービス満点である。それだけなら、ポルノ映画になるが、きわどいところで文芸映画の面目を保つのは、津川雅彦が演じる主人公の演技である。これを母役・杉村春子や新藤さんの妻の乙羽信子が、売春宿の女将役で支える。
 文芸上の真と自然上の真(秋桜子)という言葉があるが、この作品は限りなく、自然上の真、つまり永井荷風の日記から生活を切り取って、映画に投影されたから、映画の題名も本当は『昭和11年の断腸亭日乗から』とする方が良いと思うほどである。
 新藤監督の狙いは、作品の虚構を剥ぎ取って、映画に出ているのは、実在した永井荷風その人だった、と表現したかったのであろう。墨田ユキは虚構の女性であるが、掃き溜めに鶴のような、裏表のない、打算のない、荷風が心を許し、通いたくなる、恋心を抱き続けた女性が実在したのだろう。
 そして悲しいことに作品の完成とともにその恋も破局を迎えたことだ。妻にして欲しい、と嘆願するお雪さんであるが、冷静な作家・荷風としての人生の処し方が最後に頭をもたげる。若いお雪さんには年齢にふさわしい相手がいる、と応じなかった。作家としての矜持が許さなかった。
 作品が成立したのは1937年、生誕が1879年だから58歳の時だった。20歳代の女性を妻にするには年を取りすぎていた。セリフの中で津川雅彦に「もう10年若ければ・・・」と言わしめる。それは新藤さんが代弁者であったかも知れない。