恵贈!寺崎杜詩緒句画集Ⅱ『四季悠遊』2012年10月12日

 先日、所属結社「辛夷」の先輩・寺崎氏より贈られて来た。富山市の方なので投稿と言う以外は交友らしいものはない。親しくお話をした記憶もない。
 読ませていただくと私が雑誌「辛夷」に連載中の「好句考」に氏の一句採りあげたことが機縁になったかと思う。
   春霞北信五岳見えぬまま
わが拙文も掲載されていて、汗顔の至りである。あとがきには「若かりし頃は山が好きで、山キチと山岳会を幾つか創りました。立山も50回まで登ったのを覚えて」いるそうだから並の山好きではない。
 作者は昭和3年生まれというから84歳の高齢である。それでも「辛夷」誌へ「一期一絵」を連載しておられるから大した創作意欲である。自作の絵と説明する短文とで一ページを構成する。辛夷歴は25年、俳句歴は昭和26年以来というから60年を数える。その間、自由律の時代もあったらしい。
 その並外れた体力と気力はと立山登山で鍛えられたものに違いない。「旅行は三十七都道府県は全部」巡り、京都は百五十回以上」という。歌舞伎もご趣味で「平成7年、南座の顔見世以来虜に」なったそうである。ということは67歳ごろが初見だから私の初見よりも遅い。「東京、京都は勿論、大阪、名古屋、博多まで足を伸ばした」とか。
 人間、足から衰えるという。何ごとにもモチベーションが湧かなくなり、興味、好奇心が無くなると老化の一途になるのだろう。その点、この作者は大丈夫である。ではいくつかの好きな句を思いつくままに採りあげて見たい。
 
 佐渡ヶ島晩夏の海の果に見ゆ

・・・芭蕉のイメージが強すぎて佐渡ヶ島を詠むのは難しいことになった。晩夏の寂しさがでている。普羅にも”眠る山佐渡見ゆるまで路のあり”がある。

 立山の峰メロンのごとき寒の月

・・・地元では立山を”たち”と呼ぶ。立山ヶ峰で”たちがね”という。句は”たちのみね”と読ませる。メロンのような白くてまん丸な月の取り合わせである。

 無垢のまま落ちて重なる白椿

・・・椿の句といえば、自由律の俳人・河東碧梧桐の”赤い椿白い椿と落ちにけり”が人口に膾炙している。作者も自由律に傾倒された時代があったが、伝統俳句に戻った。それでも頭の中に印象明瞭な河東碧梧桐の俳句が残った。何度も挑戦してこの句に落ちついたのだろう。
 江戸時代の座の文芸であった俳諧のホ句が子規によって、改革され、座がなくなって個人で詠む俳句となった。河東碧梧桐は更に五七五まで壊そうとしたところに無理があった。小説や詩は個人で完成してしまうが、俳句は誰かに読まれて、選句、披講を受けることで完成する。未だに座の文芸の名残がある。これが日本文学の船の底荷といった人がいる。

 葉隠れに朱を灯したる辛夷の実

・・・辛夷は白い幹だけは誰にも目に浮かぶが、赤い実などは見たこともない人が多かろう。辛夷の花も、ある人と10人ばかりで、一杯やっていて、いきなり、花を見せて何の花か、という。誰も答えられなかった。それが辛夷の花である。一度は実を見ておかねばなるまい。

 六月尽千秋楽の歌舞伎座へ

・・・千秋楽となれば大勢のお客が詰め掛けるだろう。そこに独特の雰囲気が生まれると思う。

 リュックにも熊除けの鈴山歩き

・・・秋山では常識になった習慣である。

 足湯する飛騨の山々風は初夏

・・・集名のように悠遊の風情がある。

 初芝居宙乗りに声成駒屋

・・・成駒屋の由来はWIKIによれば「四代目中村歌右衛門が、公私にわたって親交を暖めていた四代目市川團十郎から「成駒柄」の着物を贈られたことに感謝して、それまでの屋号・加賀屋を改め、将棋の「成駒」に團十郎の「成田屋」をかけて、成駒屋としたのがその名の由来。」


 顔見世や娘道成寺喜寿の舞(御園座)

・・・これも一度は観ておきたい芝居である。

 顔見世の夜の部までを祇園小路

・・・昼の部と夜の部の休憩時間に祇園小路をぶらつく。

 登りきり滝のイオンを浴びにけり

・・・まさか沢登りの末ではあるまい。滝見の歩道を登りきり、と解釈した。称名の滝をイメージする。

 寒日和あと百日の歌舞伎座へ

・・・歌舞伎座初日まで後三ヶ月あるというのだ。その間にチケットを手配し、交通の時刻も調べたり、宿の予約もある。事前に結構やることが多く、それも楽しみなことである。

 四月尽御名残歌舞伎あと二日

・・・折角慣れてきた芝居見物もあと二日で終わり、折りしも四月も終わった。晩春のまた常住坐臥の日常に戻る寂しさ。

 海老蔵の抜けし顔見世外郎売

・・・海老蔵とかいう役者は事件で一辺に有名になってしまった。痛い目に遭ったが、歌舞伎を衆目を集めるのには役立ったことは間違いない。期待したファンを裏切っては明日はない。
外郎売りとはWIKIによれば「外郎売(ういろう うり)は歌舞伎十八番の一つ。いわゆる「曾我物」のひとつ『若緑勢曾我』(わかみどり いきおい そが)の一幕を一部独立させたものである。享保3年 (1718) 正月、江戸 森田座で初演。「外郎売実ハ曾我五郎」は二代目市川團十郎が勤めた。
 今日では「外郎売」と言えばその劇中に出てくる外郎売の長科白を指すことが多い。俳優やタレントなどの養成所で発声練習や滑舌の練習に使われているが、漢字の読みやアクセントは幾種類かある。これは出典を何処から引用したかによる違いである。」
 俳句と同様に奥が深い。それゆえに病みつきになるのだろう。俳句にも歌舞伎にも様々な文芸のエッセンスが溶け込んでおり、老年の嗜みとはいえる。 


 寒茜立山(たち)に向かいて言葉なし

・・・・啄木の「ふるさとの山に向かひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな 」を思い浮かべる。
一見の観光客ではなく、日々、立山を見つめる暮らしがある。喜怒哀楽を受け止めてくれるありがたい存在である立山であることよ。
 
 初芝居待つ間水掛不動尊

・・・今日は初芝居である。少しの時間に水掛不動尊に寄った。何かを念願するというのでもない。落ち着かない心を紛らわすために。

 芝居了え道頓堀の寒月夜

・・・芝居が終わった。さて次はと、道頓堀を歩く。

 梅雨空を吹っとばす千両役者かな

・・・鬱陶しい梅雨空である。千両役者とは「かぶきのおはなし」によると「「大根役者」の反対です。芸に優れた名優、立派で人気も高く一座の中心となる役者のことを「千両役者」と呼びます。
 江戸時代では、役者は中村座や市村座、守田座などの興行元と、1年単位 で専属の出演契約を結んでいました。 毎年11月から始まって、翌年10月迄の1年契約です。
 新年度が4月からではなく、11月から始まるというのが歌舞伎の世界の慣行です。ですから、今日になっても、歌舞伎座では11月を「顔見世興行」として、特別 の意味合いを持たせています。
 中略、当然良い役者、客を取れる役者の年俸は高くなります。そして、年俸1千両の役者のことを「千両役者」と称したのが、この言葉の始まりです。 年俸1千両の高給を稼げる役者=良い役者=千両役者という図式です。」
 ちなみに現代では8000万円に値するとか。世襲を維持してゆくには高給でないと、持たないかも知れません。
 


うち、十句は歌舞伎関係になってしまった。なるほどこんな風に把握するのかというお手本である。わが山の俳句の師と仰ぐ前田普羅も演劇が好きだった。

 面体を包めど二月役者かな     普羅

 今ならマスクかサングラスでカムフラージュするが、昔は手ぬぐいか何かで頬かむりしていたのだろう。(5月の御園座の出待ちで島津亜矢さんはマスクをしていた。)それでもそこはかと匂う役者のオーラは隠せない。贔屓の役者を見ての所見だろうか。

 十月や顔見世の主は勘九郎  拙作