福光町を訪ねる2012年10月14日

 今日は所属結社「辛夷」の年次大会だった。以前から福光町の棟方志功の記念館「愛染苑」を訪ねる希望を今日こそはと早起きして行く。東海北陸経由でも良いのだが、白山と日本海を眺められる北陸道を走った。金沢東で降りてR304を行く。道の駅で福光産の米、野菜など買う。愛染苑はそこからすぐだった。
http://fukumitsu-art.city.nanto.toyama.jp/aizenen.html
 Pには先客がいて、団体さんもいるようだ。受付を済ませて館内を巡る。次は支援者だった石崎俊彦の家、当時の住居だった「鯉雨画斎」を見学した。その中で団体さんが説明を受けている最中だった。普羅、と当時の交友を示す記念写真もあり、一級の資料と分かった。
 団体さんが出て行った後、説明されていた湯浅氏と少しお話を聞いた。独特の富山弁でことを話されたが、すべては「辛夷」に中島杏子が書いているよ、と教えてくれた。やっぱり、弟子の目から見た普羅と棟方の交友は当時の「辛夷」が第一級の資料になるようだ。
 定本『普羅句集』(辛夷社、昭和47年)の序文は棟方志功が書いている。
     前田普羅先生
                      棟方志功

 前田普羅は、正に関東武士といふ気宇で立って居た様です。
 あゝいふ、心から、オソロシイほど、本物ばかりで生き、活きた人間といふか、あるいは化物の様に凄まじい本性を、いつも、かつも、見せっぱなし、出しっぱなしの人間は知りません。正直以上に、「正直で、剛直なほど剛直で、あるいはゴウジョウなほどゴウジョウといっても噓にならない程で、正に曲者でもありました。そして立派でした。誰がナンと言っても立派な程立派さを持ってゐました。美事な立派さでありました。
 心の心まで交ぜ返しをしない人でした。ただ一本に自分の生涯を槍の様に貫き通したといってもよいのではないでせうか。
 思ふ存分に、自分を振舞ひながら、静かに静かに囃しをおさめた様にー秋風の吹き来る方に帰るなりーそういふ人でありました。
 全々に、他の合点を持ち合わせのないところから前田普羅は寂然と立って居たり、妙絶と気を吐き続けたようでした。あゝいふ大きいわがままを会釈もなしに振舞した影に、案外に前田普羅の深情があったのかも知れません。ナンとなく、ナンとなく、やれ切れない淋しさを連れて居るような影もあった様です。それが、大事で大切な面でもあったかも知れません。
 カーキ色の洋服の上下に同じ色の巻げいとるをして、重い大きい軍靴に鋲をして、足をかため、同じ色と地の外套を羽織り帽子を冠り、門を出る前田普羅の門出の様な、また何か、不思議で妙な夢の様な、気配のやり切れない一期をこの場に感じるのでした。-普羅っーと答いる声が、聞こえて止みません。どこまでも何回も答いるまで言っている声のようです。
  ----花深処無行跡ーーーー
      昭和四十四年 師走 二十七日 風宵
以上
    富山大空襲に焼け出されて福光近辺に疎開
 仮の世に仮の宿とて爽やかに   昭和20年
    句会を中止したが、志功からはがきが来る
 ぬれ縁に置きし手紙も凍てにけり 昭和22年