熟柿を食う ― 2025年11月17日
買い置きしていた柿を食い忘れているうちに熟柿になっていた。木に連なっている内に熟柿になるのもある。鳥に突かれて落ちることも多い。
さて自宅で保管中に熟してしまった。皮を剥くわけにもいかないから、そっと皮を手で剥きながらお椀にいれてスプーンでゼリーのような感じで食った。甘い甘い。
さて自宅で保管中に熟してしまった。皮を剥くわけにもいかないから、そっと皮を手で剥きながらお椀にいれてスプーンでゼリーのような感じで食った。甘い甘い。
最後の秋刀魚だよ! ― 2025年10月23日
久々に秋晴れの天気。少し高い場所から木曽の御嶽山が見えた。冠雪は未だ。スマホで解像度は悪いが肉眼でははっきり。
給油に出たがいつもの近場のGSの価格が高止まりしていると思い、日進市に行った。何と名古屋市内の軽油は143円だが日進市は134.8円とディスカウント価格。8円以上安い。往復で19kmなので320円位かかるが40リットル以上給油し、買い物ついでならペイする。
日進市にオープンしたまちテラスに寄った。パン売り場には行列ができていた。品揃えが不統一で買い気をそそる商品はない。
近場の鮮魚スーパーに寄った。最後だよ、のキャッチコピーのある秋刀魚売り場で2尾購入。2021年の秋から続いた不漁は今年は豊漁で太目で美味い。
秋刀魚の不漁との因果関係は分からないが2021年以来続いた虚血性大腸炎は今年は無難に終わった。飽きるほど食べてビタミンAを補給した効果だろうか。当たり前とは言え、食べ物が身体を養っていることがよく分かった。
給油に出たがいつもの近場のGSの価格が高止まりしていると思い、日進市に行った。何と名古屋市内の軽油は143円だが日進市は134.8円とディスカウント価格。8円以上安い。往復で19kmなので320円位かかるが40リットル以上給油し、買い物ついでならペイする。
日進市にオープンしたまちテラスに寄った。パン売り場には行列ができていた。品揃えが不統一で買い気をそそる商品はない。
近場の鮮魚スーパーに寄った。最後だよ、のキャッチコピーのある秋刀魚売り場で2尾購入。2021年の秋から続いた不漁は今年は豊漁で太目で美味い。
秋刀魚の不漁との因果関係は分からないが2021年以来続いた虚血性大腸炎は今年は無難に終わった。飽きるほど食べてビタミンAを補給した効果だろうか。当たり前とは言え、食べ物が身体を養っていることがよく分かった。
大峰山脈・山上ヶ岳に登る。 ― 2025年10月10日
10/9の夜は大淀町の道の駅吉野路大淀センターで仮眠。軽自動車なので窮屈だったが丸まって寝た。
10/10の午前5時に出発、R169からR370,R309とナビ任せで泥川温泉に導かれた。ごろごろ茶屋駐車場に着いたがまだ奥があると走ると913.1mの三角点のあるPが広がっていた。店舗はあったが無人、封筒に1日1000円を入れて投函する仕組みだった。支度を整えておにぎり1個をお茶で流し込んで出発。橋を渡ると女人結界の石柱が建っている。1300年の歴史があるから前近代的とは言うなかれ。
登山道はゆるやかに整備されている。一の世茶屋はすぐに着く。一本松茶屋までは山腹を縫う道で歩き易い。更に先の洞辻茶屋で稜線に上がる。谷間から尾根上に登って明るい。吉野方面から大峰奥駈け道が合わさる。この道は熊のへ続き世界遺産ともなった奥駈け道である。小屋で休んでいたら一人東京から来て奥駈け道を目指したが雨で引き返す途中だった。世間話に花を咲かせていると1時間の長休みになった。
稜線になると自然も豊になる。左右二手に分かれた道は左へ。先の人が慎重に、とアドバイスしてくれたが、重装備だから慎重になったのだろう。我々は日帰りで軽いから心配はいらない。
鐘掛岩には鎖場まで立ち寄ったが霧で引き返す。登山道は平坦になった。西ノ覗岩も霧でパス。平坦ながら岩場の通過があるので捗らない。その内宿坊の立ち並ぶ一角に着いた。大峰山寺の手前まで来たのだ。古い宿坊の軒先にザックを置いて空身で山上に登った。境内に着くと左が本堂だった。右の高まりがあるので細道を行くと背の低い笹原の中にお花畑と山頂の看板が立つ。左折して笹の小径を歩くと一等三角点のある山頂だった。その奥は聖蹟、右は湧出岩の石柱が建つ。どうやらこれがシンボルらしい。
登山者としては一等三角点の大峰山上に関心がある。1887(明治20)年埋設。補点である。奈良県の一等三角点は8座あり、これで6座登った。大峰山系では釈迦ヶ岳、玉置山に次ぐ三座目になる。釈迦ヶ岳は東のコブシ嶺から眺めると三角錐の立派な山容だがこの山は望岳した覚えがない。それも今になった理由である。
釈迦ヶ岳は三十代に登った。西行法師が小夜の中山で詠んだ和歌
年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山
私もまた後期高齢者になってから登りに来れるとは。命があればこそこうして霧を突いて登山出来た。
霧の中で長居は出来ない。霧しょんべんといってずぶぬれになりそうだ。先の宿坊へ戻ってザックからおにぎりを出して食う。冷涼な自然の中では喉の渇きもないからお茶もまだある。来た道を戻った。二手の道は板の階段道で滑りやすいので慎重に下る。洞辻茶屋で休憩。ここで稜線から谷筋の道へ入る。雰囲気が随分変わる。水飲み場にはソーメンが落ちている。これが不潔感を誘うので手を洗うにとどめた。きれいに使って欲しい。
歩き易い道になるが先は長い。そんな倦んだ気分を変えてくれたのは鹿の啼き声だった。
遠くよりな滑りそと啼く鹿の声 拙作
※な~その間に連用形、未然形の動詞を入れると軽い禁止になる。
足もとに気を付けて滑らないように下りなさい、と山の主のような鹿が導いてくれるかに聞こえる。最後の茶屋を見て一段と歩き易い山路まで来るとPに出た。やっぱり我々の車だけあった。支度して動き始めると軽自動車のパトカーが来て我々を見るとUターンしていった。誰かが6時頃から15時30分ごろまで動かない車があうるよ、と警察に通報したんだろうか。ごろごろ茶屋には多数の観光客が居た。さらにくだると昭和レトロな洞川の商店街に出て帰りたくなくなった。結果、柿の葉寿司を購入、洞川温泉に入湯したりとミニ観光で余韻を楽しんだ。
R309に戻ると奈良の複雑な道路網を抜けてようやく名阪道路に入れた。
10/10の午前5時に出発、R169からR370,R309とナビ任せで泥川温泉に導かれた。ごろごろ茶屋駐車場に着いたがまだ奥があると走ると913.1mの三角点のあるPが広がっていた。店舗はあったが無人、封筒に1日1000円を入れて投函する仕組みだった。支度を整えておにぎり1個をお茶で流し込んで出発。橋を渡ると女人結界の石柱が建っている。1300年の歴史があるから前近代的とは言うなかれ。
登山道はゆるやかに整備されている。一の世茶屋はすぐに着く。一本松茶屋までは山腹を縫う道で歩き易い。更に先の洞辻茶屋で稜線に上がる。谷間から尾根上に登って明るい。吉野方面から大峰奥駈け道が合わさる。この道は熊のへ続き世界遺産ともなった奥駈け道である。小屋で休んでいたら一人東京から来て奥駈け道を目指したが雨で引き返す途中だった。世間話に花を咲かせていると1時間の長休みになった。
稜線になると自然も豊になる。左右二手に分かれた道は左へ。先の人が慎重に、とアドバイスしてくれたが、重装備だから慎重になったのだろう。我々は日帰りで軽いから心配はいらない。
鐘掛岩には鎖場まで立ち寄ったが霧で引き返す。登山道は平坦になった。西ノ覗岩も霧でパス。平坦ながら岩場の通過があるので捗らない。その内宿坊の立ち並ぶ一角に着いた。大峰山寺の手前まで来たのだ。古い宿坊の軒先にザックを置いて空身で山上に登った。境内に着くと左が本堂だった。右の高まりがあるので細道を行くと背の低い笹原の中にお花畑と山頂の看板が立つ。左折して笹の小径を歩くと一等三角点のある山頂だった。その奥は聖蹟、右は湧出岩の石柱が建つ。どうやらこれがシンボルらしい。
登山者としては一等三角点の大峰山上に関心がある。1887(明治20)年埋設。補点である。奈良県の一等三角点は8座あり、これで6座登った。大峰山系では釈迦ヶ岳、玉置山に次ぐ三座目になる。釈迦ヶ岳は東のコブシ嶺から眺めると三角錐の立派な山容だがこの山は望岳した覚えがない。それも今になった理由である。
釈迦ヶ岳は三十代に登った。西行法師が小夜の中山で詠んだ和歌
年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山
私もまた後期高齢者になってから登りに来れるとは。命があればこそこうして霧を突いて登山出来た。
霧の中で長居は出来ない。霧しょんべんといってずぶぬれになりそうだ。先の宿坊へ戻ってザックからおにぎりを出して食う。冷涼な自然の中では喉の渇きもないからお茶もまだある。来た道を戻った。二手の道は板の階段道で滑りやすいので慎重に下る。洞辻茶屋で休憩。ここで稜線から谷筋の道へ入る。雰囲気が随分変わる。水飲み場にはソーメンが落ちている。これが不潔感を誘うので手を洗うにとどめた。きれいに使って欲しい。
歩き易い道になるが先は長い。そんな倦んだ気分を変えてくれたのは鹿の啼き声だった。
遠くよりな滑りそと啼く鹿の声 拙作
※な~その間に連用形、未然形の動詞を入れると軽い禁止になる。
足もとに気を付けて滑らないように下りなさい、と山の主のような鹿が導いてくれるかに聞こえる。最後の茶屋を見て一段と歩き易い山路まで来るとPに出た。やっぱり我々の車だけあった。支度して動き始めると軽自動車のパトカーが来て我々を見るとUターンしていった。誰かが6時頃から15時30分ごろまで動かない車があうるよ、と警察に通報したんだろうか。ごろごろ茶屋には多数の観光客が居た。さらにくだると昭和レトロな洞川の商店街に出て帰りたくなくなった。結果、柿の葉寿司を購入、洞川温泉に入湯したりとミニ観光で余韻を楽しんだ。
R309に戻ると奈良の複雑な道路網を抜けてようやく名阪道路に入れた。
安祥城址へ行く ― 2025年09月21日
今日も朝遅く起きてしまった。県内なら急ぐこともあるまいと正午前に出発した。目的地は安祥城祉を目指す。天白からはR153から県道56号に入りしばらく東郷町を走ると境川の橋を渡ると三河入りする。県道56号を東進すると矢作川を渡って岩津に行く。今日はナビに安祥城址を仕掛けて在り南下を始めた。昨日と違って丘すらもない平野部で刺激が少ない。
それでも西尾線南安城駅に近いところに安祥城址はあった。但し大乗寺の境内に飲み込まれているから城らしい雰囲気はない。砦ですらない。安城歴史博物館へ回り込んでP。だだっ広い中に停めて入口を探しながら歩くと安祥公民館に入って見たがここは会合の場だった。出て博物館に入り直すが子供らが大勢屯している。何やら来るところではない気がする。土産物コーナーをのぞくと書籍も展示してあるので『家康と松平一族』(令和3年開館30周年記念の発行)が目に付いた。これが今日来た目的だったので1600円で購入した。
博物館を出て大乗寺の境内を散策してみたが城らしさはない。学芸員、地元ボランティアガイドでもあればありがたい。とにかくこことが松平町に興った初代松平親氏から初代松平乗元が治めた大給城(おぎゅうじょう)、初代は松平信光の岩津城と岡崎平野に進出してきた。安祥城は信光の子の親忠が初代城主である。
松平家初代松平親氏、二代目松平泰親、三代目松平信光(岩津)、四代目松平親忠は信光の三男で安城城主、五代目松平長親は親忠の子で安城松平の二代目、六代目松平信忠は長親の子で安城松平の三代目、七代目松平清康は信忠の子で安城松平の四代目、八代目松平広忠は清康の子。
清康は家康の祖父で「天文4年(1535)に織田信秀を攻略するために尾張守山に出陣したところ、家臣の阿部弥七郎に殺され、松平氏の三河領国支配は瓦解した。」とある。家康の父の広忠も「広忠は天文10年水野忠政の娘である於大と結婚し、翌年家康が生まれた。しかし、同12年水野氏が織田方になったために於大を離縁、翌年 田原城主戸田康光の娘真喜姫と結婚した。同18年織田方の佐久間全孝の刺客岩松八弥に岡崎城内で殺された。」と波乱の生涯を生きた。
応仁の乱は人の世は空し、で1467年から10年間争いが続き、京都の町は焼け野原になったという。京都だけにとどまらず、三河でも永正三河の大乱があって地方へと拡散された。そのまま戦国時代となって1615年の徳川幕府開府で決着した。
家康の祖父の清康(1511~1535)は25歳で家臣に殺された。父の広忠(1526~1549)は24歳で刺客に殺されている。
それでも西尾線南安城駅に近いところに安祥城址はあった。但し大乗寺の境内に飲み込まれているから城らしい雰囲気はない。砦ですらない。安城歴史博物館へ回り込んでP。だだっ広い中に停めて入口を探しながら歩くと安祥公民館に入って見たがここは会合の場だった。出て博物館に入り直すが子供らが大勢屯している。何やら来るところではない気がする。土産物コーナーをのぞくと書籍も展示してあるので『家康と松平一族』(令和3年開館30周年記念の発行)が目に付いた。これが今日来た目的だったので1600円で購入した。
博物館を出て大乗寺の境内を散策してみたが城らしさはない。学芸員、地元ボランティアガイドでもあればありがたい。とにかくこことが松平町に興った初代松平親氏から初代松平乗元が治めた大給城(おぎゅうじょう)、初代は松平信光の岩津城と岡崎平野に進出してきた。安祥城は信光の子の親忠が初代城主である。
松平家初代松平親氏、二代目松平泰親、三代目松平信光(岩津)、四代目松平親忠は信光の三男で安城城主、五代目松平長親は親忠の子で安城松平の二代目、六代目松平信忠は長親の子で安城松平の三代目、七代目松平清康は信忠の子で安城松平の四代目、八代目松平広忠は清康の子。
清康は家康の祖父で「天文4年(1535)に織田信秀を攻略するために尾張守山に出陣したところ、家臣の阿部弥七郎に殺され、松平氏の三河領国支配は瓦解した。」とある。家康の父の広忠も「広忠は天文10年水野忠政の娘である於大と結婚し、翌年家康が生まれた。しかし、同12年水野氏が織田方になったために於大を離縁、翌年 田原城主戸田康光の娘真喜姫と結婚した。同18年織田方の佐久間全孝の刺客岩松八弥に岡崎城内で殺された。」と波乱の生涯を生きた。
応仁の乱は人の世は空し、で1467年から10年間争いが続き、京都の町は焼け野原になったという。京都だけにとどまらず、三河でも永正三河の大乱があって地方へと拡散された。そのまま戦国時代となって1615年の徳川幕府開府で決着した。
家康の祖父の清康(1511~1535)は25歳で家臣に殺された。父の広忠(1526~1549)は24歳で刺客に殺されている。
特大の秋刀魚を味わう ― 2025年09月04日
近所の食品スーパーで特大の秋刀魚が売られていた。一匹480円(税別)と値段も破格。標準的なバナナくらいの太さだった。普通のサイズでも例年よりは太い。それらは2匹、3匹のパックで1匹300円程度。
別のスーパーでもやや小ぶりの秋刀魚が1匹300円だったので追加で購入した。今夜焼いてしょうがを下ろしを添えて食った。脂ののりが最高に旨い。だからといってダイエットを心掛ける身にはご飯をもりもりというわけにもいかない。
別のスーパーでもやや小ぶりの秋刀魚が1匹300円だったので追加で購入した。今夜焼いてしょうがを下ろしを添えて食った。脂ののりが最高に旨い。だからといってダイエットを心掛ける身にはご飯をもりもりというわけにもいかない。
カレー曜日 ― 2025年09月02日
久々にカレーを作った。朝からニンニク、ジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、ピーマンなどの夏野菜をラードで炒める。後から鶏肉を混ぜて炒める。先日山の水を汲んできたのでカレー粉を投入後、煮込んだ。
半分は別の容器に移して冷まして冷蔵庫で保管。今朝はたっぷりのカレーライスを食した。
昨年6月以来の減量対策で自炊からカレーは糖質が多いというので除外していた。ごはんも進むから余計警戒した。すると便秘に悩まされた。農家育ちの身にはやはりごはんを食わないと腸内が不活発になってしまうようだ。ヨーグルトでも改善しない。ご飯を一日一食から二食にしたらスムーズな排便があった。これである。但し体重は68kgまで減らしたが今は72kgまでリバウンドした。一食当たりの量を減らすか。
半分は別の容器に移して冷まして冷蔵庫で保管。今朝はたっぷりのカレーライスを食した。
昨年6月以来の減量対策で自炊からカレーは糖質が多いというので除外していた。ごはんも進むから余計警戒した。すると便秘に悩まされた。農家育ちの身にはやはりごはんを食わないと腸内が不活発になってしまうようだ。ヨーグルトでも改善しない。ご飯を一日一食から二食にしたらスムーズな排便があった。これである。但し体重は68kgまで減らしたが今は72kgまでリバウンドした。一食当たりの量を減らすか。
大鹿村の山歩き・二児山を歩く ― 2025年08月31日
8月最後の日曜日は南アルプス前衛の二児山に登山した。深夜割引を使えるので午前2時半に名古屋を出た。松川ICを出て県道に向かう。大鹿村は山と谷の村で平地はほとんど無い。標高700mの谷底から1650mの登山口へクルマを走らせるがタイトなカーブの連続だった。涼しいのでエアコンは切った。
途中の山村は入沢野と言う。耕して天に至る。日本のチベット風な山村だった。入は奥の意味で沢野だからあちこちに天然の池があり沢もあるから水に不自由しない。だから耕作ができて食料を栽培できる。
6時30分に登山口を出発。涼しいを越して小寒いので長袖のシャツを重ね着する。ここは別天地なのだ。
牧場内の歩道と林道歩きの1時間ちょっとで天空の池に着く。空母の様に雲海に浮かぶ恵那山が素晴らしい。ここから二児山を目指す。村は遊歩道と宣伝している。実際ユンボで開削した遊歩道歩きが大半だった。終点に避難小屋があり近くには細流も流れる。
ここからは針葉樹林の中を歩き分岐ではまず左折して西峰に行く。途端に荒れた踏み跡に変わった。ピンクテープのマーキングに従い御料局三角点のピークに立つ。樹林で何も見えないので岩頭へ若干下る。岩頭からは恵那山、中央アルプス全景を見渡す。東寄りには同じく前衛の奥茶臼山がピラミダルな山容で睥睨する。あんなに立派な山だったのか。
分岐に戻ると二児山へ登る。さすがに登山道が整備されて歩きやすい。直下では若干の灌木が生い茂っていて抵抗があった。2等三角点が埋まる山頂も周囲は展望はないので少し移動して南アルプスの一部を見た。この山だけで満足だが欲を出して黒河山にも足を伸ばした。低灌木の開削が行き届き歩きやすい。が遊歩道と言うイメージでは無い。下ると倒木帯も通過する。行きの遊歩道が数メートル右下に見える。ここからエスケープもできるが堪えた。
針葉樹林の森の中の明るい芝生の様な苔類は美しい。アップダウンを繰り返ししながら黒河山の三角点も登頂できた。さらに南下してついに避難小屋を目印に右折、黒川牧場に向かう遊歩道を歩いた。天空の池では2名の男女にあったが山中では誰も居ない。下山中の遊歩道では2名の登山者にあった。避難小屋で宿泊してゆっくり楽しみたいパーティだろう。
無事天空の池に周回した。そのまま林道を下った。途中で地元の人が青いけしの花を栽培する段取りをしていた。現在ある畑では温暖化で良くないので標高1800mまで上げて見る試みらしい。下山中勢いの良い沢水を飲んだ。美味かったのでペットボトルの残りを捨てて汲んだ。
Pに戻った。谷底に下った際に温泉を探すがコロナ禍で日帰り入浴は止めてしまった。そんなに汗もかいていないし帰名することにした。
往きは午前4時までだったから割引が適用された。帰路は土岐周辺の一車線化で渋滞必須と見てR153にした。飯田名物の焼き肉屋で腹ごしらえもした。炭火焼きは一味違う。
午前6時半出発、下山は午後3時前で約8時間半(休みは約1時間ちょっと)歩いた。コロナ禍前の力にはいまいち足りないが減量したお陰でかなり回復は実感できた。過去5年間は2000m超の登山はしていなかった。少し希望が湧く。
クルマも老朽車ながら約371km走って燃費は9.7km/リットルだった。
途中の山村は入沢野と言う。耕して天に至る。日本のチベット風な山村だった。入は奥の意味で沢野だからあちこちに天然の池があり沢もあるから水に不自由しない。だから耕作ができて食料を栽培できる。
6時30分に登山口を出発。涼しいを越して小寒いので長袖のシャツを重ね着する。ここは別天地なのだ。
牧場内の歩道と林道歩きの1時間ちょっとで天空の池に着く。空母の様に雲海に浮かぶ恵那山が素晴らしい。ここから二児山を目指す。村は遊歩道と宣伝している。実際ユンボで開削した遊歩道歩きが大半だった。終点に避難小屋があり近くには細流も流れる。
ここからは針葉樹林の中を歩き分岐ではまず左折して西峰に行く。途端に荒れた踏み跡に変わった。ピンクテープのマーキングに従い御料局三角点のピークに立つ。樹林で何も見えないので岩頭へ若干下る。岩頭からは恵那山、中央アルプス全景を見渡す。東寄りには同じく前衛の奥茶臼山がピラミダルな山容で睥睨する。あんなに立派な山だったのか。
分岐に戻ると二児山へ登る。さすがに登山道が整備されて歩きやすい。直下では若干の灌木が生い茂っていて抵抗があった。2等三角点が埋まる山頂も周囲は展望はないので少し移動して南アルプスの一部を見た。この山だけで満足だが欲を出して黒河山にも足を伸ばした。低灌木の開削が行き届き歩きやすい。が遊歩道と言うイメージでは無い。下ると倒木帯も通過する。行きの遊歩道が数メートル右下に見える。ここからエスケープもできるが堪えた。
針葉樹林の森の中の明るい芝生の様な苔類は美しい。アップダウンを繰り返ししながら黒河山の三角点も登頂できた。さらに南下してついに避難小屋を目印に右折、黒川牧場に向かう遊歩道を歩いた。天空の池では2名の男女にあったが山中では誰も居ない。下山中の遊歩道では2名の登山者にあった。避難小屋で宿泊してゆっくり楽しみたいパーティだろう。
無事天空の池に周回した。そのまま林道を下った。途中で地元の人が青いけしの花を栽培する段取りをしていた。現在ある畑では温暖化で良くないので標高1800mまで上げて見る試みらしい。下山中勢いの良い沢水を飲んだ。美味かったのでペットボトルの残りを捨てて汲んだ。
Pに戻った。谷底に下った際に温泉を探すがコロナ禍で日帰り入浴は止めてしまった。そんなに汗もかいていないし帰名することにした。
往きは午前4時までだったから割引が適用された。帰路は土岐周辺の一車線化で渋滞必須と見てR153にした。飯田名物の焼き肉屋で腹ごしらえもした。炭火焼きは一味違う。
午前6時半出発、下山は午後3時前で約8時間半(休みは約1時間ちょっと)歩いた。コロナ禍前の力にはいまいち足りないが減量したお陰でかなり回復は実感できた。過去5年間は2000m超の登山はしていなかった。少し希望が湧く。
クルマも老朽車ながら約371km走って燃費は9.7km/リットルだった。
風越山に登る ― 2025年08月14日
中津川市から木曽谷へは小雨でしたが上松では徐々に雲があがって晴れそうな天気模様でした。
R19の萩原から懐かしさもあって東野の山里経由で風越山登山口まで走りました。(上松町は禁止。)枯れ枝、小石はあったが土砂崩れ等の障害はなく無事に通行できた。以前はちょくちょく来たが今は東野の集落は廃屋化が進んでいる感じでちょっと寂しい雰囲気です。
登山口には先着が5台あった。けっこう来ています。
9時5分前、出発。Aコースはほぼ直線的に等高線の詰まった斜面を急登させられる。落葉樹林の中ではヤマジノホトトギス、フシグロセンノウ、カワラナデシコ等の折々の花が咲いていて癒された。
御料局三角点と避難小屋もどきの仮小屋が建つ合流点に着くと草地から来るBコースと交わる。眺めも良くなり、木曽谷の様子が見える。御岳山は五合目以上は雲の中でした。
花はコオニユリ、フジバカマ、アザミが咲いている。風越の頭を越えて鞍部に下ると先行の登山者が何やら撮影中だった。何と木の根っ子の部分にレンゲショウマが咲いていた。群生地は比高200m下ってまた登り返すが今日はここで見られたから山頂だけで良しとした。カニコウモリを見るのも久しい。山頂は樹林の中で何も見えない。展望所もあるが雲が厚いのでパス。パンを食べてBコースを下山した。
下山後はねざめホテルに寄ったが日帰り入浴は盆休みで営業していなかった。久々に寝覚めの床の越前屋という蕎麦屋に寄った。R19はお盆帰りのクルマで渋滞中。クルマの量が多いだけではなく南木曽町の交通事故も原因か、車輪が外れるくらいの衝撃があったようだ。
R19の萩原から懐かしさもあって東野の山里経由で風越山登山口まで走りました。(上松町は禁止。)枯れ枝、小石はあったが土砂崩れ等の障害はなく無事に通行できた。以前はちょくちょく来たが今は東野の集落は廃屋化が進んでいる感じでちょっと寂しい雰囲気です。
登山口には先着が5台あった。けっこう来ています。
9時5分前、出発。Aコースはほぼ直線的に等高線の詰まった斜面を急登させられる。落葉樹林の中ではヤマジノホトトギス、フシグロセンノウ、カワラナデシコ等の折々の花が咲いていて癒された。
御料局三角点と避難小屋もどきの仮小屋が建つ合流点に着くと草地から来るBコースと交わる。眺めも良くなり、木曽谷の様子が見える。御岳山は五合目以上は雲の中でした。
花はコオニユリ、フジバカマ、アザミが咲いている。風越の頭を越えて鞍部に下ると先行の登山者が何やら撮影中だった。何と木の根っ子の部分にレンゲショウマが咲いていた。群生地は比高200m下ってまた登り返すが今日はここで見られたから山頂だけで良しとした。カニコウモリを見るのも久しい。山頂は樹林の中で何も見えない。展望所もあるが雲が厚いのでパス。パンを食べてBコースを下山した。
下山後はねざめホテルに寄ったが日帰り入浴は盆休みで営業していなかった。久々に寝覚めの床の越前屋という蕎麦屋に寄った。R19はお盆帰りのクルマで渋滞中。クルマの量が多いだけではなく南木曽町の交通事故も原因か、車輪が外れるくらいの衝撃があったようだ。
北アで山岳遭難相次ぐー台風9号が接近中 ― 2025年07月29日
台風9号が小笠原諸島付近にまで接近。週末の天気予報が気になる。8/1夜発で久々の北ア・唐松岳を計画している。前々日に計画の集合について交換したばかりだ。こっちは体調不良だったが鰻丼を食べたら治った気がする。暑さのせいで何となくだるいし、腰痛も出て来た。その上に台風ではモチベーションは下がる一方だ。
腰痛の原因は7/19から7/20の御嶽山の山岳ドライブかも知れん。木曽から飛騨へ約365kmも走ったからだ。特に疲れはなかったのに後で響いて来た。7/26から7/27もリベンジ山行を考えたが腰痛で実施は止めた。
そんな弱気なところへ
唐松岳でも、北アルプス唐松岳で東京都江戸川区の75歳の女性が滑落し、けがをして、長野県消防防災ヘリに救助。唐松岳で単独で登山をしていた名古屋市の59歳男性が27日、体調不良により行動不能になりました。翌28日、男性は長野県山岳遭難常駐隊と同行下山し、救助
とモチベーションは下がるばかり。
腰痛の原因は7/19から7/20の御嶽山の山岳ドライブかも知れん。木曽から飛騨へ約365kmも走ったからだ。特に疲れはなかったのに後で響いて来た。7/26から7/27もリベンジ山行を考えたが腰痛で実施は止めた。
そんな弱気なところへ
唐松岳でも、北アルプス唐松岳で東京都江戸川区の75歳の女性が滑落し、けがをして、長野県消防防災ヘリに救助。唐松岳で単独で登山をしていた名古屋市の59歳男性が27日、体調不良により行動不能になりました。翌28日、男性は長野県山岳遭難常駐隊と同行下山し、救助
とモチベーションは下がるばかり。
鰻丼を食う ― 2025年07月28日
先日買って置いた冷凍の鰻を天火で温めて鰻丼にして食べた。この時期は鰻の栄養が身に染みわたる感じがする。7/19~7/20の山岳地帯のロングドライブでどうも腰痛が出て来た。それが鰻丼一杯で解消した。
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