三遠歴研の研究発表会 ― 2025年03月08日
今朝は名古屋では傘が欲しいほどの小雨だった。午後から新城市で歴研の研究発表会があるので行きがけに里山登山を予定した。朝晴れなら早朝出発だったが雨ではモチベーションが下がる。ハイキングは中止。遅めにゆっくり出発。R153、R301で新城迄70km余りの約2時間程度。10時過ぎでも十分間に合う。
矢作川の橋を渡るとR301一本道だ。松平町からかなり急坂の根引峠を登る。旧下山村から旧作手村を快適に走る。時速50kmから70kmくらいの中低速域にはディーゼルエンジンは向いている。
道の駅でトイレ休憩。ついでに鶏卵を購入。5kgの米も3800円とリーズナブル。名古屋市内のスーパーでは5000円と狂乱物価である。いつか冷めるだろうが。
作手高原を過ぎると新城市街へ下る一方となる。タイトなカーブの連続するR301を走る。R151に出て左折、回転ずしの看板を見て12時ちょうどということもありちょっと食べて行く。会場の新城市文化会館には20分前に到着。会費も納付。
研究発表会の題目は豊橋・牟呂の大貝塚群。講師は森田勝三氏。豊橋支部の会員でもある。日本考古学協会員、石巻地区文化財保存会 代表、牟呂八幡宮神幸祭神事相撲保存会 会長、と多彩な経歴の持ち主だ。
総じていえば貝塚は人間の生活の歴史そのものではあるがだから何かを学びとるのは深奥な感じがする。むしろ地名のイメージに惹かれて参加したのであるが講師は民俗的な領域には踏み込むことはなかった。
かつて愛知県埋蔵文化センターを訪ねて素焼きの壷の民俗的な意義を問うたのであるが、愛知県職員(公務員)でもある彼らは壷と言う物質のみに関心を寄せて歴史や民俗にまでは解説がなかった。講師も同じことであろう。考古学では出土品が語る以外のことはない。
『地名の語源』(角川小辞典13)によれば、ムロは
①朝鮮語のmuro,maru(山)より。山に囲まれた所で、小さい入り江や河谷の小盆地をいう。室生、牟婁。
②神社またはその森(ブロ、ムロ)。御室、三室山
③古墳の石室、堅牢住居。室、氷室、日室、室野、室原、無路原
北海道以外の全国に多い。
以上
金達寿『日本の中の朝鮮文化4』(講談社文庫)の中で和歌山県の牟婁に触れて、朝鮮語由来と書いている。村または人々の集落という意味である。だから牟呂もやはり朝鮮語に由来していると考えると自然である。
そしてもう一つ、菅江真澄の出生地が書籍では愛知県豊橋市又は三河国渥美郡と記載されている。
検索すると、角館 総鎮守 神明社のHPでは
「菅江真澄は本名を白井秀雄、幼名は英二といい(知之、白超とも名乗った)、宝暦4年(1754)三河国渥美群牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)に生まれたと伝えられ、定住の地はなく、行脚に明け暮れる一生を送った。父の名は秀真、母は千枝といい、 家職は祈祷施薬、白太夫の家筋であった。少年時代は岡崎城下成就院の稚児となり、吉田藩の文化人植田義方に和学、和歌を学んだ。思春期に尾張へ移り、国学者で熱田神宮の祠官粟田知周の知遇を得、明和7年(1770)頃から尾張藩の薬草園で薬草栽培にたずさわり、本草学を修めるという経験をつみ、また、丹羽嘉信について漢学、画技を、浅井図南から本草学、医学を修得した。生家に戻ったのは安永9年(1780)であった。この頃から各地をしばしば巡って紀行を執筆した。天明3年(1783)のとき、30歳で故郷を出奔した。」
と紹介されている。
ここにきて現在の牟呂公文町と具体的になっている。JR豊橋駅のやや西南の位置、標高は5.1mと低地である。
菅江真澄は牟呂公文町に生まれたのは事実であろう。幼いころから無尽蔵にある貝塚を遊びの場として育ったに違いない。大波があれば飲み込まれそうなほどの低地であるから過去には被災して全滅したこともあったと思われる。或いは生活の根拠はないとも言われたから別の高台へ移り住んだだろう。少年の好奇心は日本人はどこから来たのだろうか、へ高まった。学問を積み上げていくうちに北へ関心が向いた。両親を置いて治部坂峠を越えて東国へ、陸奥へと旅立って行った。特に信濃国の茅野市、諏訪市周辺は縄文文化のメッカである。東山道もあった。当時の水準は分からないが考古学的な関心を向ける学者もいただろう。
帰路はR151からR257で設楽町へ走った。次に登る大野山の登山口の下見をした。名倉で県段戸山牧場を経て、小田木でR153に出合い、足助を経て帰名。
追記
1972年ごろ、豊橋市に住んでいた。ミシン会社の戸別訪問をして契約を取る仕事である。東三河一円を回った。はっきりした記憶はないが、海辺に近い牟呂近辺も回ったと思う。そんな中に在日朝鮮人の家を訪問した。家にあげてもらい家のミシンに油を指し、調子を見てあげて奥さんや娘さんに契約を促す。奥の部屋へ案内されるとまず、金日成主席の写真、別の部屋には朴正煕大統領の写真が掲げてあった。それで初めて在日朝鮮人の御宅と分かったのである。その家の生業は貝のむき身をやっていた。今思うと貝塚のある牟呂らしい風景ではある。
矢作川の橋を渡るとR301一本道だ。松平町からかなり急坂の根引峠を登る。旧下山村から旧作手村を快適に走る。時速50kmから70kmくらいの中低速域にはディーゼルエンジンは向いている。
道の駅でトイレ休憩。ついでに鶏卵を購入。5kgの米も3800円とリーズナブル。名古屋市内のスーパーでは5000円と狂乱物価である。いつか冷めるだろうが。
作手高原を過ぎると新城市街へ下る一方となる。タイトなカーブの連続するR301を走る。R151に出て左折、回転ずしの看板を見て12時ちょうどということもありちょっと食べて行く。会場の新城市文化会館には20分前に到着。会費も納付。
研究発表会の題目は豊橋・牟呂の大貝塚群。講師は森田勝三氏。豊橋支部の会員でもある。日本考古学協会員、石巻地区文化財保存会 代表、牟呂八幡宮神幸祭神事相撲保存会 会長、と多彩な経歴の持ち主だ。
総じていえば貝塚は人間の生活の歴史そのものではあるがだから何かを学びとるのは深奥な感じがする。むしろ地名のイメージに惹かれて参加したのであるが講師は民俗的な領域には踏み込むことはなかった。
かつて愛知県埋蔵文化センターを訪ねて素焼きの壷の民俗的な意義を問うたのであるが、愛知県職員(公務員)でもある彼らは壷と言う物質のみに関心を寄せて歴史や民俗にまでは解説がなかった。講師も同じことであろう。考古学では出土品が語る以外のことはない。
『地名の語源』(角川小辞典13)によれば、ムロは
①朝鮮語のmuro,maru(山)より。山に囲まれた所で、小さい入り江や河谷の小盆地をいう。室生、牟婁。
②神社またはその森(ブロ、ムロ)。御室、三室山
③古墳の石室、堅牢住居。室、氷室、日室、室野、室原、無路原
北海道以外の全国に多い。
以上
金達寿『日本の中の朝鮮文化4』(講談社文庫)の中で和歌山県の牟婁に触れて、朝鮮語由来と書いている。村または人々の集落という意味である。だから牟呂もやはり朝鮮語に由来していると考えると自然である。
そしてもう一つ、菅江真澄の出生地が書籍では愛知県豊橋市又は三河国渥美郡と記載されている。
検索すると、角館 総鎮守 神明社のHPでは
「菅江真澄は本名を白井秀雄、幼名は英二といい(知之、白超とも名乗った)、宝暦4年(1754)三河国渥美群牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)に生まれたと伝えられ、定住の地はなく、行脚に明け暮れる一生を送った。父の名は秀真、母は千枝といい、 家職は祈祷施薬、白太夫の家筋であった。少年時代は岡崎城下成就院の稚児となり、吉田藩の文化人植田義方に和学、和歌を学んだ。思春期に尾張へ移り、国学者で熱田神宮の祠官粟田知周の知遇を得、明和7年(1770)頃から尾張藩の薬草園で薬草栽培にたずさわり、本草学を修めるという経験をつみ、また、丹羽嘉信について漢学、画技を、浅井図南から本草学、医学を修得した。生家に戻ったのは安永9年(1780)であった。この頃から各地をしばしば巡って紀行を執筆した。天明3年(1783)のとき、30歳で故郷を出奔した。」
と紹介されている。
ここにきて現在の牟呂公文町と具体的になっている。JR豊橋駅のやや西南の位置、標高は5.1mと低地である。
菅江真澄は牟呂公文町に生まれたのは事実であろう。幼いころから無尽蔵にある貝塚を遊びの場として育ったに違いない。大波があれば飲み込まれそうなほどの低地であるから過去には被災して全滅したこともあったと思われる。或いは生活の根拠はないとも言われたから別の高台へ移り住んだだろう。少年の好奇心は日本人はどこから来たのだろうか、へ高まった。学問を積み上げていくうちに北へ関心が向いた。両親を置いて治部坂峠を越えて東国へ、陸奥へと旅立って行った。特に信濃国の茅野市、諏訪市周辺は縄文文化のメッカである。東山道もあった。当時の水準は分からないが考古学的な関心を向ける学者もいただろう。
帰路はR151からR257で設楽町へ走った。次に登る大野山の登山口の下見をした。名倉で県段戸山牧場を経て、小田木でR153に出合い、足助を経て帰名。
追記
1972年ごろ、豊橋市に住んでいた。ミシン会社の戸別訪問をして契約を取る仕事である。東三河一円を回った。はっきりした記憶はないが、海辺に近い牟呂近辺も回ったと思う。そんな中に在日朝鮮人の家を訪問した。家にあげてもらい家のミシンに油を指し、調子を見てあげて奥さんや娘さんに契約を促す。奥の部屋へ案内されるとまず、金日成主席の写真、別の部屋には朴正煕大統領の写真が掲げてあった。それで初めて在日朝鮮人の御宅と分かったのである。その家の生業は貝のむき身をやっていた。今思うと貝塚のある牟呂らしい風景ではある。
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