ほのぼのと 空けゆく空をながむれば 月ひとり住む 西のやまかげ 尹良親王2022年06月12日

・尹良(ゆきよし)親王供養塔
(豊田市御所貝津町)
信濃国と三河国の国境地帯の各地には、南北朝の動乱の悲劇として「ユキヨシ様」伝説が広まっており、ここ稲武にも伝わる。かの柳田國男翁も『東国古道記』で考察している。

・御所屋に建つ尹良親王の歌碑
(豊田市黒田町)

真弓山を詠われたという。

ほのぼのと
空けゆく空をながむれば
月ひとり住む
西のやまかげ

・ユキヨシ様
「ユキヨシ様」は伊那谷から北三河・北遠江にかけての国境地帯にて祀られる習俗が広く分布しており、この信仰に関して民俗学の側面から着目したのが柳田國男であった。柳田は「東国古道記」の中で、およそ次のように述べている。「かつて中部山岳地帯と海岸を結び付ける道は秋葉街道だけであったが、やがて浪合を通り飯田・根羽に連なる三州街道(飯田街道)が開けてきて、その段階で津島神社の御師たちが入り込み、土着的な山路の神『ユキヨシ様』を旅人の道中安全を守る守護神(一種の道祖神)へと変化させて山間に広く分布していった。これに加えて、浪合で戦死した南朝某宮に対する御霊信仰の要素が結合して尹良親王なるものが出現し、さらに津島神社や三河武士・徳川氏の起源伝承として存在意義が認められ、地元の口碑がその欲求に合うように内容まで多様に変型させられたのではなかろうか」。柳田の見解は伝説の史実化の過程を考える上で示唆するところが多く、特に津島信仰の絡み合いについては、柳田の洞察力が遺憾なく発揮されていると言えよう。「ユキヨシ様」は、近世の地方における南朝史受容の一コマを現代に語り伝えているのである。

もっとも、延宝から正徳頃までの浪合神社の棟札には、祭神を行義権現と記しているものがあるため、「ユキヨシ様」信仰は一元的ではないことがわかる。

・黒田正寿寺と尹良親王

 黒田の吉祥山正寿寺の開山は応永年間(一三九四~一四二七年)であり、尹良親王がこの地に滞在された時、お供の新田親氏が親王の言いつけで山号を吉祥山、寺号を正寿寺と名づけたといわれている。
 尹良親王は、お亡くなりになった妃の菩提を弔うために正寿寺を建立したといわれ、山門は『御所造り』になっている。(現在の山門の屋根は、平成になって葺き替えられている。)
 この正寿寺の建立の他にも、尹良親王にまつわる幾つかの伝説が伝えられている。
 正寿寺の裏山には御所屋(地元では尹良様と呼ぶ)という所がある。
現在は、尹良親王が読まれた歌の歌碑が建てられている。この歌の短冊は正寿寺にあり、親王の真筆と伝えられている。この他、正寿寺には、親王ご使用の『硯石』、親王ご筆写と伝えられる『大般若教三巻』、ご遊山の時お拾いになったという『鹿の玉』などがある。

2016. 5 No51 編集・発行 稲武地区コミュニティ会議広報部会豊田市稲武支所発行部数: 1,300 部
5P に交流館 Times:6P にゆいの輪を包括稲武地区人口状況(28 年 4 月 1 日現在)人口:2,461 人 世帯数: 1,009 世帯

・《稲武地区の尹良親王伝承一覧》

・尹良親王の腰掛石(御所貝津)
・地蔵峠の尹良社(御所貝津)
・正寿寺(黒田)
 ・尹良親王真筆の和歌が書かれた短冊
 ・尹良親王使用の硯石
 ・尹良親王筆写の『大般若経』(3巻)
 ・遊山(狩り)で見つけた鹿の玉
・尹良親王の歌碑(黒田)
・真弓橋(尹良親王が弓を杖に黒田川を渡った場所に架けられた橋)
・尹良親王の忠臣・青木の御子孫の家
 ・尹良親王の愛馬「龍の駒」の蹄の跡がついた石
 ・尹良親王使用の福州青磁の皿
 ・尹良親王使用の桑の木のお盆(お膳)
・地名「かんばあさ」:尹良親王の愛馬に草を食べさせた「神馬草」の転訛
・地名「御所貝津」:尹良親王の御所の垣内(かいと)

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