華蔵寺を訪ねる2011年12月14日

 今日は14日。元禄15年12月14日(西暦では1702年1月30日)に赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件は起きた。309年前のことだ。1年半前の3月14日に江戸城内松の廊下で起きた刃傷事件の意趣返しであった。
 吉良町の華蔵寺で毎年12月14日に開催される吉良公毎歳忌を見学にいったが自宅内の工事立会いのために出発が遅れて間に合わなかった。それでも地元NOの車が結構な台数停まっている。ちらほらと訪ねて来られたようだ。

http://hicbc.com/news/detail.asp?cl=c&id=00031419

 華蔵寺は小さな寺である。田園地帯の中の丘のような小山を背後に建っている。
 吉良公は名君だったと地元ではほめたたえる。黄金提の異名のある堤防を築いたことで治水に貢献した。これが後々まで名君の誉れを生んだようだ。

俳人の村上鬼城は

行く春や憎まれながら三百年  

と詠んだ。その句の句碑があった。

平成の世にも供養の毎歳忌

線香の煙る御墓や毎歳忌

吉良公の黄金堤や冬木立

長矩の肩もつばかり十二月

 東京は泉岳寺の墓と違ってこちらはたった一人で憎まれ役を引き受けて気の毒なご身分であった。徳川様もお裁きに困ったことだろうが結果は喧嘩両成敗と相成った。長矩にしてみればちょっとした怪我を負わせただけなのに心の整理もつかないままその日の内に切腹を命ぜられるなんて不公平という不満もあったか。時世の歌にはその心情がありありと詠まれている。
  風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん
 庶民感情としては即日切腹させられた長矩への同情、主君の恨みを晴らした赤穂浪士への賞賛が続く。組織への裏切りとは捉えなかったわけだ。
 しかし、地元では忠臣蔵の物語はおかしい、という話も上がっているようだ。一説には社長の殺人未遂を社員が敢行したという例が分かり易い。やはりその日に社長が死刑になったということなら未熟な時代だったと思う他ない。

年忘れ句会2011年12月18日

植田駅前「キャッツ」で句会の後、天白区相生山「鈴のれん」にて。

着膨れて三々五々と集まりぬ

さておいて忠臣蔵や年忘れ

年忘れ古き時代の話題にも

しぐるるや酔い覚ましにはよき湿り

それぞれの家に帰らん時雨かな

名古屋氷点下0.5℃2011年12月24日

 中日新聞が名古屋で氷点下の朝と報じた。道理で寒かったはずだ。昨夜は毛布をかけていても深々と冷えてくる。マンションの高層階ではサッシの隙間、窓のレールの隙間などからそれこそ冷風が吹き上がる。目貼りするより、普段は物置にする窓のない部屋に引越した。

仕事終え家路を急ぐ冬至の日

全身で受けとめ伊吹颪かな

また今日も火事のニュースを聞きしなり

クリスマス相談ありと昇降機

冴ゆる夜や読みかけの本数多あり

煮凝りの鍋のまま火にかけにけり

師走とて宛名書く気にまだなれず

ストーブに早も灯油を継ぎ足しぬ

ストーブにシチュー温め直すなり