増刊「キネマ旬報2月号 小津安二郎人と芸術」着荷2008年02月22日

 昨年冬、小津安二郎を偲ぶ集いで旅館が同室となり、親しくなったF氏が見せてくれた古雑誌である。ずっと気になっていたがふと思い出して検索で安いところを選び注文しておいたらもう着いた。奇しくも古書店はさいたま県でF氏に近いところである。昭和39年2月当時の定価250円はプレミアムがついて2500円也。手に入るだけありがたいと思って購入した。
 昭和38年12月12日に死去した小津さんの追悼集みたいであるが実は以前から計画されていたものだったらしい。小津さんの病状が思わしくなく伸び伸びになっていたら追悼集の体裁になってしまった。
 何といっても野田高梧(1893--1968)の「小津安二郎という男 交遊40年とりとめもなく」、という追悼文が貴重である。野田高梧は小津より10歳年上であった。函館生まれ、早大英文科卒であるが愛知一中を出ていることで東海とも縁がある。野田さんの目を通して見た小津安二郎の文は私にはこれしかない。戦後作品のすべては野田+小津コンビで脚本が練られている。小津調は野田調ともいわれる所以である。
 彼らは「奥の細道」における芭蕉と曽良の関係に似ている。芭蕉が右脳を働かせて俳句を作り、曽良は煩わしい旅の事務を担う左脳の役割。左脳は冗長さを嫌い合理的な思考をする。小津映画の台詞は俳句のように短いといわれる。それが快いテンポを生み出す。映画「早春」で小津さんは主役の池部良に「いいかい僕の台詞は一字一句てにおはまで直してはいけないよ」と念を押したという。どの映画にも「ちょいと」という台詞がかなりの頻度で出てくる。こうした背景には野田さんの左脳的な思考があったと思う。専門の脚本家ゆえに優先的にリードされたであろうと推測する。俳句は省略の文学ともいう。小津映画のショットや俳優達の演技にもそれは感じられる。
 芭蕉が入門した当時は俳諧と呼ばれ、言葉遊びに近いものだった。幾多の人生の試練を経て中国の杜甫、李白の影響を受けて俳句を人生の詩にまで高めた。俳聖とよばれるのはこのためだ。この点も青少年期に外国の映画に影響を受けて育ち、そこから娯楽の域を抜け出して芸術家とまで呼ばれるような高貴な映画を制作したところに共通項を見出す。芭蕉庵のある深川生まれということも少なからぬ縁がある。
  野田さんは大ヒットした「愛染かつら」の脚本家でもあった。数多くメロドラマも手がけて松竹に利益をもたらした人、と書かれた文をなにかで読んだことがある。影になりがちな野田さんを評論したものを読んでみたいもの。
 新藤兼人の「小津映画から何を学ぶか」、も読み応えがありそうだ。小津映画を遺産とする認識はさすがである。新藤さんは今年95歳で存命である。彼は著作も多いから2,3三冊は読んだがこの記事が基本になっているなと思う。