映画「黒部の太陽」鑑賞2013年09月01日

名古屋市・今池・名古屋シネマテークにて10:30~13:46まで。3時間15分のノーカット版を上映中。1000円。入りはほぼ満席で、多いとパイプ椅子が用意される。

概要はHPから転載。
黒部の太陽
‎190分‎‎ - G 指定‎‎ - 社会派ドラマ‎
監督: 熊井啓 - 出演者: 二谷英明, 宇野重吉, 辰巳柳太郎, 志村喬, 滝沢修, 三船敏郎, 佐野周二, 石原裕次郎, 芦田伸介
黒部川上流に第4発電所を建設するべく、関西電力は社運をかけてダム建設に取り組むことになった。現場責任者の北川の熱意に負けて、父親に代わってトンネル掘りの指揮をとることになった設計技師の岩岡だったが、増える一方の犠牲者と度重なる事故に頭を抱える毎日。それでも北川共々、難所を突破すべく、技 続き »術と努力の限りを尽くすのだった……。石原裕次郎が設計技師に扮した骨太な人間ドラマ。黒四ダムの完成に尽力した人々の姿を、社会派の熊井啓が見事に描ききった。現場責任者を演じた三船敏郎の存在感も素晴らしい秀作だが、石原の遺志により現在までビデオ化に至っていない。

とされてきたが、 ウィキペディアによると

「現在、版権は石原プロモーションが所有している。生前の石原裕次郎自身が「こういった作品は映画館の大迫力の画面・音声で見て欲しい」と言い残したという理由から、長年ビデオソフト化されていなかった。
中略
2012年ごろまでは、当初石原裕次郎が主張していた映画館などでのスクリーン上映もほとんど行われていなかった。とはいえ、裕次郎13回忌など、数年に1回程度、石原プロが関係するイベントで上映は行われている。ただし、「その際も、海外公開用に2時間十数分程度に編集された1時間短縮バージョンを公開している」と監督した熊井などは話している。2013年1月ごろより、ノーカット版の上映を行う映画館がいくつか現れている[4][5]。

2012年1月の石原プロモーション新年会にて、石原プロモーション会長の石原まき子が、「東日本大震災復興支援を目的として、『黒部の太陽』を全国各所でスクリーン上映する」ことを発表した[6]。また、同年3月17日にはBSプレミアムにて2時間20分の海外用短縮版がテレビ放送された。これは実に33年ぶりのテレビ放送であり、ハイビジョン放送は初のことである。創立50周年を迎える2013年3月には、ポニーキャニオンよりBlu-ray(特別版:PCXP50128、通常版:PCXP50129)とDVD(特別版:PCBP-52939、通常版:PCBP-52940)の発売も決定した。」

というわけで、ノーカット版の鑑賞は短縮版DVDのようにいつでも気楽に見られるわけではなさそうだ。

 昭和43(1968)年に上映というから小生は19歳のころだ。破砕帯突破の難工事をめぐるドラマとだけは記憶がある。今日改めて見直すと、まず北アルプスの厳冬期の写真が素晴らしい。
 主演の石原裕次郎は大学山岳部OBの登山家の設定になっている。そのため、イントロでは、裕次郎ら一行が春の立山登山?のショットがあるが、キスリング、8本か10本爪アイゼンがしっかり見える。ピッケルはウッドシャフトで、多分ビニロン製ウインドヤッケ、ニッカーズボンに皮革製登山靴はいまではもう見られない。
 映画の巻頭と巻末には常念岳の左肩に昇る朝明けを描いている。それを「黒部の太陽」としているみたいだが、地理的には少しずれがある。おそらく立山辺りから望遠レンズでのぞくとああ見えるのかな。
 折々挿入される黒部川の清流が美しい。一級の人間ドラマになっているが、画像的にも北アルプスの自然が洗練されて美しく仕上がっている。珠玉の映画作品といえる。

かがみがはら航空宇宙博物館見学2013年09月08日

 9/(土)は幸田町で開催された島津亜矢コンサート「玲瓏」に行く。夏休み明けで元気溌剌の歌声が炸裂するようなコンサートを堪能する。

 その後名古屋へ取って返して、夜9時、中区三の丸の一角でW君と落ち合う。行く先は岐阜県徳山ダム湖畔。釈迦嶺の沢登りの予定だったがすでに天気は崩れているから行ってもしょうがないのだが、揖斐川沿いに国道を溯る。
 夜12時、湖畔に近づくにつれて雨足が強くなる。ダム湖畔に出たら本降りである。降ってなければ湖畔の東屋で仮眠の積もりだった。仕方なく、徳山会館の軒先に雨に濡れないようにテントを張った。夜半は一旦小止みになったが、4時から5時頃、起きると土砂ぶりだった。せめて道谷と登る予定の沢の様子でも見たかったがモチベーションはダウン。テントを畳んで下山する。山の気を一杯吸うには吸えた。
 先月末、ご尊父を失い気苦労の多かったW君。喪の明けないW君だがちょっとした気分転換になった。

 さてと、このまま手ぶらで帰るわけにも参らず、だ。揖斐川町の喫茶店でモーニングコーヒーを飲みながら思案した結果、かがみがはら航空宇宙博物館見学を思いついた。以前も沢登りを中止した後、各務原市のアクア・トト・ぎふ(世界淡水魚園水族館)に寄り道して帰名した。
http://www.city.kakamigahara.lg.jp/museum/
 このところ、新聞等で、アニメ映画「風立ちぬ」が話題になり、堀越二郎が取り上げられていることも念頭にあったと思う。9/7の中日新聞夕刊に、「零戦見学じわり増加」の見出しで三菱重工小牧南工場の史料室が賑わっていると報じられていた。本物の零戦が展示してあるそうだ。ここにもひょっとすると見られるかも知れないとの期待で入館する。

 雨の中、先着の車は3台。9時半の開館まで時間待ちする。バス専用スペースも数台以上あり、産業観光巡りのルートになっているようだ。  東海地方は現在は自動車が主力であるが、戦前は航空機製造の拠点であった。名古屋市、小牧市の三菱、愛知航空機(現在の愛知機械工業)、半田市の中島飛行機(現在の富士重工業)、そしてここ各務ヶ原の川崎重工業などが集積する。
 最初は広い駐車場からゲートを入ると広場になっていて、3機の航空機が実物展示されている。その中の1機に注目する。

 「US-1A救難飛行艇」だ。能書きはHPから転載すると「US-1A RESCUE FLYING-BOAT

 この救難飛行艇は、屋内に展示されているUF-XS実験機の成果を基に開発された対潜哨戒艇PS-1を水陸両用型にしたものです。
 4発のプロペラ後流の利用と専用ジエットエンジン駆動による空気の吹き出しなどの高揚力装置や波消し装置によって波高3メートルの荒天の洋上にも安全に離着水できます。
 展示機は、海上自衛隊第31航空群第71飛行隊(山口県岩国市)に所属していた9078号機で、海難救助や離島間の輸送などに活躍した機です。
 西暦1995年(平成7年)12月12日に岐阜基地へ最終飛行したものです。」とあり、
 辛坊次郎の検索からブラインドセーリングに飛ぶと
「6月21日7時45分頃に宮城県・金華山の南東約1,200km沖合にてマッコウクジラと衝突して船体へ浸水し、人手およびポンプによる緊急排水を行っても浸水に追いつかない状況で、プロジェクト事務局を通じて第二管区海上保安本部に救助を要請した直後にヨットを放棄し、救命ボートへ避難した[8]。海保からの救助派遣要請により、海上自衛隊の救難飛行艇US-2と哨戒機P-3C計4機の航空機が相次いで出動。1機目の飛行艇は着水できずに引き返し、2機目が18時14分頃に現場海域で2人を救助した。救助時、現場は波高3〜4m、風速16〜18mという状況であった。」
 展示機の改良型であろう。辛坊さんを救助した機とほぼ同じだろう。ずんぐりむっくりしてて、決してスマートではないが、困難なときほど力を発揮する。両翼の下に下向きのジェット噴射口があるのが特徴である。辛坊さんの目ににはたくましい機体に見えたことだろう。
 他にYS-11機も実物展示されている。とにかく機体の線が美しい。零戦に通じるものがあるように思った。以前、スバルを購入した際、営業マンから富士重工(戦前は日本一の飛行機会社の中島飛行機)では「シンプルイズベスト」という言葉を聞いた。機体美は今も古くない。

 建物への入館は有料で、60歳以上は500円と安い。JAF会員は800円から100円引きである。双葉機というか複葉機の実物機、木製のプロペラ、航空技術の勃興期に活躍した人物評伝などを展示紹介するコーナーを歩く。天井の高い広いホールにも実物機が展示紹介されている。一角では紙飛行機の作り方を教えている。子どもらに人気のようだ。幼児から大人まで楽しめる人気の博物館のようだ。残念ながら零式戦闘機の展示はなかった。
 しかし、堀越二郎は天才というが、一人の天才だけで、飛行機産業の隆盛はありえないことも分かった。戦後のホンダ技研でも、トヨタの下請け会社の社長だった本田宗一郎を天才として崇めるように売り出しているが、中島飛行機他からリストラされた優秀な(東京帝大航空学科OBの)エンジニアを雇用して、その活躍は殆ど紹介されていない。
 宮崎駿さんは「地上の星」的な群像劇はお嫌いなんだろうな。

 一通り観て回る。外は雨降り止まず。3台しかなかったPには半分ほどのマイカーが埋まった。三河地方のナンバーが多い。続々入館者が来る。一応の満足を得て帰名。

 9/7の島津亜矢・幸田コンサート玲瓏では「地上の星」は歌われなかったので、ユーチューブでお聞きしたい。
http://www.youtube.com/watch?v=4gnmZ8SxzR0

2020年オリンピックの歌手には「島津亜矢」を!2013年09月09日

JOCのHPです。
http://www.joc.or.jp/news/detail.html?id=4439

2020東京開催決定記念Tシャツをプレゼント!
http://www.joc.or.jp/news/detail.html?id=4420
このHPの下に応募フォームがあり、「歌手名」には「島津亜矢」さんを記名しました。
理由は旬の歌手であり、開催年でも1971年生まれだから49歳と若いこと。
声量が豊富で、歌唱力が素晴らしいこと。
下に掲げる三波春夫の「元禄名槍譜 俵星玄蕃」をコンサートの最後に必ず歌うこと。
三波春夫はテイチクの大先輩であり、歌謡浪曲の継承者であることを自覚している。

以下は三波春夫(1923~2001)の「東京五輪音頭」です。三波は1923年生まれですから実に40歳の歳に歌っています。五輪年は41歳でした。

http://www.youtube.com/watch?v=NKeFmomZwmo

三波春夫のウィキペディアから抜粋 
人物[編集]

元浪曲師であり、浪曲に題材を取った歌謡浪曲を得意とした。特に「元禄名槍譜 俵星玄蕃」に代表される長編歌謡浪曲は、三波にしかできない芸当と評される事が多い。

戦後の、復興の象徴ともいえる二つの大きな平和の祭典でも三波の存在が光った。東京オリンピックの前年の1963年(昭和38年)に、テーマソングとして「東京五輪音頭」がレコード会社8社競作のもとで発表される。三波のほかに、北島三郎や三橋美智也、橋幸夫盤が存在したが、その中でもテイチクの三波盤が突出して大ヒット。250万枚を売り上げ、100万枚を突破した際には祝賀パーティーが開かれた。その際には、同曲を作曲した古賀政男も出席して古賀本人が指揮をし、三波による歌唱も行われている。
以上

 島津亜矢の歌唱力を楽しむには
http://www.youtube.com/watch?v=aUqW4_zzdek&feature=youtu.be

 三波春夫の継承者としての島津亜矢を知ろう!
http://www.youtube.com/watch?v=Xq3K1cFsbuk

 日本演歌界の申し子の島津亜矢さんがオリンピックで歌う姿を見たい。

小津安二郎生誕110年!2013年09月11日

数々の名作が生まれた無芸荘
 今朝の朝日新聞地域総合版22に生誕110年小津安二郎監督 上が掲載された。執筆者は小津ネットの藤田明氏。テーマは小津と戦争のことである。
 「だが、戦争の影も見せない「晩春」(49年)の後、「麦秋」「東京物語」では原節子の役などに戦争の影を伴わせたのである」という藤田明氏の論点は明解である。
 「東京物語」では戦死した次男の嫁役の原節子は籍を抜かないまま戦争未亡人であり続ける。一方で他の映画では戦争未亡人が口紅を塗って色気を出している云々のセリフが出てくる。あれじゃ、あいつも浮かばれないよ、という、戦友のセリフに小津の皮肉がこもる。いずれの映画も戦後10年くらいだから癒されている人は居なかっただろう。
 小津はまたこうも言った。戦後の映画に多い反戦という言葉を嫌った。これ見よがしの皮相、表装的な言葉を信じなかった。映画の中で反戦を主張するのではなく、人物を丁寧に描けばいい、と。
 例えば、『小津安二郎新発見』(講談社+α文庫)のP8に「社会性がないといけないと言う人がいる。人間を描けば社会が出てくるのに、テーマにも社会性を要求するのは性急すぎるんじゃないか。ぼくのテーマは”ものの哀れ”という極めて日本的なもので、日本人を描いているからにはこれで良いと思う。」がある。
 小津の映画には戦争を直接批判するセリフは出なかったように思う。人をして語らしめる。「東京物語」の終盤で「私ずるいんです、(貞淑そうに見えるが)いい人ではない」と原節子扮する戦争未亡人は言い、笠智衆扮する義父は「好きな人が居れば自由に(結婚)していいんだよ」と優しく諭す。二人をこんな会話に追い詰めたのは戦争である。充分な戦争批判になっている。ここが藤田氏がいう戦争の影である。
 小津はこれからも忘れられることなく語られ続けるだろう。
 次回は9/25掲載。

名古屋大学博物館 第28回企画展「氷壁を越えて ナイロンザイル事件と石岡繁雄の生涯」2013年09月13日

やぶこぎネットからの転載
http://www.yabukogi.net/index.php

名古屋大学博物館 第28回企画展

投稿記事by 落第忍者 » 2013年9月13日(金) 07:54

「氷壁を越えて ナイロンザイル事件と石岡繁雄の生涯」

2013年11月5日~2014年1月30日

まだ少し先の話ではありますが、お近くの方、興味のある方は是非お出かけください。
私にとっては母校の鈴鹿高専での、応用物理学と『山の話』という僅かなかかわりしかありませんが、まことに素朴で魅力的な先生でした。

http://www.geocities.jp/shigeoishioka/new17.html
以上

 石岡繁雄ノート
『東海山岳』No11 設立50周年記念
『日本山岳会東海支部50年史』から
 正統派アルピニズムの殿堂としてのあゆみ
    はじめに
 この50年史は故中世古隆司氏によって書かれねばならなかった。設立に関わり、支部通信の時代から一貫して歴史を把握していたのは中世古氏ただ一人だった。支部を誰よりも愛し、ピンチになると救世主のように支えてきた。50周年を前に他界されたことは痛恨の極みであった。ここに不十分ながら50年史を上梓し、まずは中世古氏に捧げたい。(編集委員一同)
   *       *       *
東海支部発足前夜 
   熱意有る若者たちの群像
 昭和33年の秋のことである。名古屋・伏見の広小路通りに面したワダコーヒーという店があった。大正7年に発足した老舗である。伏見の喫茶店は本店に併設する形で昭和二十二年にできた。
 戦後、娯楽に飢えていた人たちはミリオン座で映画を観たり、パチンコに興じていた。若者達向けには歌声喫茶も賑わっていた。喫茶店で一杯六十円(注1)のコーヒーを飲む習慣も戦後の洋風文化の進展の中で広まって行った風俗の一つであった。広小路通りには市電が往来していた時代である。
 そのお客の中に声の一段と大きな若者達がいた。中でも南山大学でスペイン語を学ぶ中世古隆司(5178)はラテン音楽が大好きで、この店の豆もブラジル産だったから中世古のお気に入りだった。その集会室での一夜でのことだった。
 若者たちが口角泡を飛ばしていた話題は冬の岩壁登攀のことだった。話題の中心には名古屋山岳会の加藤幸彦(5181、『絶対に死なない 最強の登山家の生き方』講談社)がいた。加藤は瀬戸市に生まれ、東海高校在学中から名古屋山岳会へ入会待ちをするような大の山好きだった。大学へは行かず、中小の貿易商社に入って誰よりも早く外国の事情に先んじていた。彼は東京で第二次R・C・Cが結成されたことに刺激を受けて、東海地方にもクライマ―の集りを持とうと呼びかけたのだった。
 クライマー同志の情報交換、協力、研究等を行おうということになった。名称は当時の世界的なアルピニストの集りであるフランスのグループ・ド・オート・モンターニュをそのまま真似て、G・H・Mと仮称した。
 メンバーは前園陽太郎(以下名古屋山岳会)、鈴木真吾、加藤幸彦、高田光政、高橋達雄(以下岐阜登高会)、青木寿、神谷恵文、二村嘉彦(名古屋ACC)、学生では名大の磯村思旡だった。
    ヒマラヤへ誘う石岡繁雄
 その噂を聞きつけて会合に顔を出したのが当時屏風岩初登攀(昭和30年1月)で有名になっていた岩稜会会長の石岡繁雄だった。同じく名大に勤めていた石原国利(岩稜会5180)を伴って訪れたのである。このムンムンする熱気は何だ、と石岡は思っただろう。彼らを彼らのエネルギーを良い方向に向けさせたいと考えたに違いない。石岡は言った。「国内における登攀よりも近い将来、是非ヒマラヤへ遠征しよう」と呼びかけられた。この発言が契機となって、ヒマラヤが目標に変わっていった。
 石岡の自宅がたまり場になり、登山論に花が開いた。自分が捨石になる覚悟で奔走したのである。G・H・Mは発展的に解消され、ヒマラヤ研究会の発足になった。昭和34年5月28日に第一回目の集会が行われた。昭和35年、東海地区山岳連盟で加藤、石原がビッグ・ホワイト・ピークに遠征したが一敗地にまみれた。帰国後、この反省から気心、技量も知れた仲間と行くべきだとの結論になった。山岳連盟は山岳会が単位の団体であるから個人として交流できる日本山岳会が良かろうという流れになっていった。
 昭和35年9月、日本山岳会本部へは石原国利、加藤幸彦、中世古隆司、原武、鈴木重彦、大口瑛司、須賀太郎、高橋達雄他8名が一度に入会した。この大量入会は本部の山崎安治(1919~1985、『日本登山史』)と石岡繁雄の推薦があった。東京の山崎と連絡を取り合い、東海地方在住の会員の意思を確認すると東海支部設立の賛意が得られた。
   設立への蹉跌
 昭和36年4月、鹿島槍ヶ岳北壁で支部の役員に予定していた原武が滑落で遭難死した。同行の石原国利も入院、鈴木重彦が急を知らせに走ったのであった。支部発足の出鼻を挫かれた思いであったと中世古は回想する。しかし、その事故処理が契機となって兄・原真と親しくなったのは歴史の皮肉というべきか。原真も翌年に入会することになる。
 設立発起人には岐阜登高会の篠田公平がいた。名古屋山岳会の跡部昌三がいた。名古屋山岳会は昭和十年に団体加盟していた。支部の基盤となる東海地方在住の会員は60名はいた。
    アルピニズムの殿堂への一歩
 1961年4月23日、鶴舞公園の桜もすっかり散ったころ、その隣の名古屋大学医学部の一角で東海支部は呱々の声を上げた。東海地方にヒマラヤを目指す志の高いアルピニストの拠点が出来たのだった。「エベレストは気高い心を持つ者だけが登る資格がある」という名言で知られた松方三郎会長が来名した。初代支部長には石岡の上司であり、山仲間でもあった名古屋大学教授の須賀太郎が選ばれた。
注1朝日文庫『戦後値段史年表』東京の値段を参考

   巨星墜つ!
 平成18年8月15日9:07、設立者の石岡繁雄が他界した。大動脈瘤破裂によるショックで名古屋第一赤十字病院にて永眠。一つの時代が終わったと思った支部員が多かった。2011年11月の50周年記念パーティーの席には娘の石岡あづみが招待された。バッカスの異名を自任し、飲むと陽気に安曇節を披露した。その姿はもう永遠に見られない。次女の名前にあづみと名づけた。彼女は語り部となって、「「石岡繁雄の志を伝える会」を主宰し、ホームページで昔を偲ぶことができる。
以上

 没年月日を見ると今年でもう5周年になる。

「遭難を防止するために」

http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/03/06/6361898

http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/03/06/6363060

http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/03/08/6367409

http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/03/12/6373308

大型台風18号、愛知県豊橋市付近に上陸!2013年09月16日

 tenki.jp 山岳と空と雪を愛する、永遠の山ガールの気象予報士・榊原淳子によると

2013年9月16日 7時58分

大型の台風18号は暴風域を伴ったまま、午前8時前に愛知県豊橋市付近に上陸。夕方にかけて関東から東北地方を通過する見込み。進行速度が速くなるため、急に雨や風が強まるのが特徴。大雨や暴風による交通機関への影響にも注意。

台風はスピードアップ、首都圏も暴風域に

台風は暴風域を伴ったまま、関東北部から東北南部を通過する見込み。台風が進行速度を速めるため、急に雨や風が強まるのが特徴。関東や北陸、東北で、まだ風や雨が強まっていない地域も、油断禁物です。

東京都や神奈川県、千葉県など首都圏は、台風の進行方向右側の特に強い風が吹くエリアに入る。立っていられないくらいの暴風が吹き荒れ、交通機関がストップする可能性も。なるべく外出は控えてください。
.
(2013年9月16日 7時58分)

 久々の大型台風の来襲です。朝8時頃、高度計では340mの高さ(現地の高さは標高15m、マンションは12Fなので+20m、位)、気圧計は973ヘクトパスカルを示していました。8時20分現在では975ヘクトパスカルに騰がっています。徐々に低気圧が遠のいていくのが分かります。8時30分現在は976ヘクトパスカルまで騰がりました。高さは315mまで下がりました。
 雲の動きの中心にいるのですが、3時現在の天気図で見ると970ヘクトパスカルとなっています。暴雨風圏内にいるのでしばらく我慢です。
 天白川は水位は中州の低木が見える程度、但し堤防の桜並木が激しく揺れています。
低気圧のせいか、マンションのドアの開閉が重く感じられました。それでもちゃんと新聞は届いていました。

 活き活きと天白川の秋出水

 台風来風圧で戸を叩きけり

 歓迎されざる熱帯低気圧ですが、8時53分現在979ヘクトパスカルに騰がりました。見る見ると言う感じで遠のいてゆきます。進行方向にお住まいの方ご注意ください。

風景写真展「奥三河 設楽うるわし」安江邦幸2013年09月22日

精霊の地、奥三河
設楽はその珠玉。
森・谷・里・樹・花・・・・・・
そして鳥たち。
設楽の四季を
ご覧ください。

入場無料

時:10/4(金)  11:00~16:30
   10/5(土)  9:00~20:00
   10/6(日)  9:00~15:00

場所:設楽町田口木屋3-1
    特産センター(田口特産物振興センター)

TeL:0536-62-0977

奥三河総合センターの手前の施設
http://map.yahoo.co.jp/maps?type=scroll&lat=35.093988509909&lon=137.57338800982&mode=map&pointer=on&z=16

周辺の奥三河の山の軽いハイキングと兼ねてお出かけしたいですね。
候補の山  登り1時間~1時間半程度

①鷹ノ巣山(段戸山) 
②岩岳       展望有
③碁盤石山
④寧比曽岳
⑤岩古谷山    展望有
⑥大鈴山      展望有
⑦平山明神山
⑧鞍掛山
⑨岩伏山
⑩中当城ヶ山

Dr.ウィリアム・デービス『小麦は食べるな』2013年09月25日

 中日新聞朝刊の広告欄にあった本。以前から気になっていた。モーニングサービスを目当てに喫茶店によく行く知人がいる。その知人は女性であるが、四肢がよく肥えている。見た目はアメリカ人的な太り方なので、何を食べているのか気になった。ちょくちょくモーニングサービスにお供するうちにパン食の所為ではないかと疑っていた。その疑問に答えるような本書である。

 読者の感想から
http://blog.goo.ne.jp/syokujikyouiku/e/64c3be78faa99435bbee3c379b077400

 アマゾンのレビューから拾ってみました。
1なるほど。。。という内容です。読んで損はないかな, 2013/9/5
By年子ママ (東京都) -
「どうしてアメリカでは恐ろしく太っている人をたくさん見かけるのだろう?」という長年の疑問が少し解決されたように思います。確かにアメリカ人の主食は小麦。日本人や中国人は小麦も食べますが、米など他の穀物比率が高いというのも、太り方に違いが出る理由なんだな、と納得できました。
 現在出回っている小麦は品種改良を重ねたもので、それ自体が危ない、という内容もありましたが、国産小麦もやはり同じなのかな。。。アメリカ人医師が書いた本の翻訳なので、その辺のことがイマイチはっきりとはつかめませんでした。

2 健康崩壊の根源なのか?, 2013/9/16
Byポーラーベア (川崎市) -
 精白小麦が体に悪いと言えば誰でも簡単にうなずけるでしょうが、全粒粉の小麦が悪いと言われてもにわかには納得できない。
しかし、読み進むうちに品種改良を繰り返され、遺伝子操作を受けた小麦そのものが、紀元前にあった小麦とは全く違う食べ物に変わってしまったことが分かる。
 高生産性矮性小麦が全世界の99%を占めるようになった今、時間を掛けて人間の体を蝕んでいる。
アミロペクチンAという恐ろしく吸収の早い炭水化物は、甘さと美味しさで人の舌を狂わす。
 そして外因性モルヒネ様化合物となって脳を虜にし、肥満を作り出す。急激な血糖上昇効果は、膵臓からインスリンを分泌させ、2時間後には低血糖を引き起こして、副腎からアドレナリンを分泌させ、脳を攻撃的性格に変身、キレやすくしてしまう。
 小麦タンパクのグルテンを引き金として抗グリアジン抗体が産生されると、小脳のプルキンエ細胞に結合して損傷してしまう。
今まで加齢による運動失調だと思われていたものが、小麦が誘発する小脳性運動失調かもしれない。
 次々と明かされる小麦と関連した疾患。自己免疫性疾患、アレルギー疾患、糖尿病、運動失調、肥満、高血圧、脂質異常症、関節リウマチ、結腸がん、セリアック病などなど。
 小麦によって小腸の細胞をつなぐタイトジャンクションが緩み、さまざまな高分子の抗原が血液中に侵入してしまい、多くの自己免疫性疾患を引き起こしているのではないか?
 アメリカでは既に100人に1人が、このセリアック病に罹患していると予想されている。(そして信州大学から、日本人でも抗トランスグリアジン抗体の陽性率が高い(0.7%)という報告が出ている。)
 医学の努力にもかかわらず激増するこれら慢性疾患の元凶は、小麦かもしれない。
 そんな空恐ろしい妄想を抱かせるに十分な資料を提供している。
糖質制限食の流行は、もしかしたら潜在的毒性のある小麦や白米を、食卓から一気に排除するための、本能的な防衛策かもしれない。
 主食(小麦や白米)という最も基本的な食材を投げ捨ててでも、体を守らなければならないところに、すでに私たちは来てしまったのではないか?
以上

 アメリカの小麦は日本の「農林10号」が親だという。検索すると小麦のお話がヒット。ねずきちさんの文です。長いのでアクセスして読みます。
http://www.yamatopress.com/beautifuljapanstory/5.html

 そんな日本人の弛みない改良の末に美味しい小麦ができたというのに病気になるから食べるな!というのです。
 私はほぼ米食です。たまにパンを食べますが、満腹感がないから沢山食べないと持たない。ご飯は粒食、パン、パスタ、ウドンなどは粉食といいますが、登山では朝食にご飯がないとすぐに腹が減って馬力が出なくなる。沢山食べる方であるが肥満ではない。
 かつて、飯豊連峰を縦走した際、山麓の避難小屋で同じ時間に起きた若者2人はラーメンを食べて出発していったが、私達は生米から炊いていたから1時間遅くなった。3泊4日の重装備を背負いつつ、それでも稜線直下でばてている若者2人に追いついてしまった。粒食と粉食の違いであろう。
 病気になる原因は小麦そのものにもあるでしょうが、小片でも高カロリーなのに何枚も食べ過ぎるからでしょう。その上にバター、マーガリン、ミルクと酸性化した食品を多食する。おまけに肉、肉加工製品の脂肪が追い討ちをかける。生野菜にもたっぷりのオリーブオイル入りのドレッシングをかける。アメリカの栄養学は日本より進んでいるという作家が居ましたが、アメリカ人は無知ゆえに病気が多いからでしょう。2000年の間、日本民族を育ててきた伝統的な日本食には知恵が詰まっています。
 日本人でもご飯を食べる感覚でパンを多食すれば病気に近づくでしょう。
 ここでいま一度確認したいのは、アメリカは必ずしも先進国ではないということだ。日本人は模倣ばかりというが、これはウソだろう。アメリカ人こそ日本から多くの重要な発見、知的財産を盗んでいった。高山正之『サンデルよ、「正義」を教えよう』(新潮社)に詳しい。

 かつては、米を食うと米偏に白は粕だから馬鹿になるというアメリカのプロパガンダがあった。

http://www.junkan.org/main/katsudo2/kyusyoku/americakomugi0307.txt

米を食べるとバカになる?【仕組まれた食の欧米化(12)】
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http://plaza.rakuten.co.jp/shokuikublog/diary/200808290000/

 話は飛ぶが、塩の取りすぎは良くない、という医学的見地も?だという。何でも取り過ぎは良くないに決まっている。その基準が問題だろう。すべての日本人に一律に適用できない。これも製薬会社の陰謀が潜んでいるのかな。メタボの基準も細めに設定を変えて、病気予備軍を増やした。
 日本人(日本市場)は中々アメリカの思い通りにならない。だからプロパガンダで囃す。お調子ものの学者を躍らせて一旦はそうなるが、すぐに化けの皮ははがれる。本書はアメリカ人向けの本で130万部のベストセラーという。アメリカもヘルシーと言われる日本食ブームになるでしょうか。