名古屋大学博物館 第28回企画展「氷壁を越えて ナイロンザイル事件と石岡繁雄の生涯」2013年09月13日

やぶこぎネットからの転載
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名古屋大学博物館 第28回企画展

投稿記事by 落第忍者 » 2013年9月13日(金) 07:54

「氷壁を越えて ナイロンザイル事件と石岡繁雄の生涯」

2013年11月5日~2014年1月30日

まだ少し先の話ではありますが、お近くの方、興味のある方は是非お出かけください。
私にとっては母校の鈴鹿高専での、応用物理学と『山の話』という僅かなかかわりしかありませんが、まことに素朴で魅力的な先生でした。

http://www.geocities.jp/shigeoishioka/new17.html
以上

 石岡繁雄ノート
『東海山岳』No11 設立50周年記念
『日本山岳会東海支部50年史』から
 正統派アルピニズムの殿堂としてのあゆみ
    はじめに
 この50年史は故中世古隆司氏によって書かれねばならなかった。設立に関わり、支部通信の時代から一貫して歴史を把握していたのは中世古氏ただ一人だった。支部を誰よりも愛し、ピンチになると救世主のように支えてきた。50周年を前に他界されたことは痛恨の極みであった。ここに不十分ながら50年史を上梓し、まずは中世古氏に捧げたい。(編集委員一同)
   *       *       *
東海支部発足前夜 
   熱意有る若者たちの群像
 昭和33年の秋のことである。名古屋・伏見の広小路通りに面したワダコーヒーという店があった。大正7年に発足した老舗である。伏見の喫茶店は本店に併設する形で昭和二十二年にできた。
 戦後、娯楽に飢えていた人たちはミリオン座で映画を観たり、パチンコに興じていた。若者達向けには歌声喫茶も賑わっていた。喫茶店で一杯六十円(注1)のコーヒーを飲む習慣も戦後の洋風文化の進展の中で広まって行った風俗の一つであった。広小路通りには市電が往来していた時代である。
 そのお客の中に声の一段と大きな若者達がいた。中でも南山大学でスペイン語を学ぶ中世古隆司(5178)はラテン音楽が大好きで、この店の豆もブラジル産だったから中世古のお気に入りだった。その集会室での一夜でのことだった。
 若者たちが口角泡を飛ばしていた話題は冬の岩壁登攀のことだった。話題の中心には名古屋山岳会の加藤幸彦(5181、『絶対に死なない 最強の登山家の生き方』講談社)がいた。加藤は瀬戸市に生まれ、東海高校在学中から名古屋山岳会へ入会待ちをするような大の山好きだった。大学へは行かず、中小の貿易商社に入って誰よりも早く外国の事情に先んじていた。彼は東京で第二次R・C・Cが結成されたことに刺激を受けて、東海地方にもクライマ―の集りを持とうと呼びかけたのだった。
 クライマー同志の情報交換、協力、研究等を行おうということになった。名称は当時の世界的なアルピニストの集りであるフランスのグループ・ド・オート・モンターニュをそのまま真似て、G・H・Mと仮称した。
 メンバーは前園陽太郎(以下名古屋山岳会)、鈴木真吾、加藤幸彦、高田光政、高橋達雄(以下岐阜登高会)、青木寿、神谷恵文、二村嘉彦(名古屋ACC)、学生では名大の磯村思旡だった。
    ヒマラヤへ誘う石岡繁雄
 その噂を聞きつけて会合に顔を出したのが当時屏風岩初登攀(昭和30年1月)で有名になっていた岩稜会会長の石岡繁雄だった。同じく名大に勤めていた石原国利(岩稜会5180)を伴って訪れたのである。このムンムンする熱気は何だ、と石岡は思っただろう。彼らを彼らのエネルギーを良い方向に向けさせたいと考えたに違いない。石岡は言った。「国内における登攀よりも近い将来、是非ヒマラヤへ遠征しよう」と呼びかけられた。この発言が契機となって、ヒマラヤが目標に変わっていった。
 石岡の自宅がたまり場になり、登山論に花が開いた。自分が捨石になる覚悟で奔走したのである。G・H・Mは発展的に解消され、ヒマラヤ研究会の発足になった。昭和34年5月28日に第一回目の集会が行われた。昭和35年、東海地区山岳連盟で加藤、石原がビッグ・ホワイト・ピークに遠征したが一敗地にまみれた。帰国後、この反省から気心、技量も知れた仲間と行くべきだとの結論になった。山岳連盟は山岳会が単位の団体であるから個人として交流できる日本山岳会が良かろうという流れになっていった。
 昭和35年9月、日本山岳会本部へは石原国利、加藤幸彦、中世古隆司、原武、鈴木重彦、大口瑛司、須賀太郎、高橋達雄他8名が一度に入会した。この大量入会は本部の山崎安治(1919~1985、『日本登山史』)と石岡繁雄の推薦があった。東京の山崎と連絡を取り合い、東海地方在住の会員の意思を確認すると東海支部設立の賛意が得られた。
   設立への蹉跌
 昭和36年4月、鹿島槍ヶ岳北壁で支部の役員に予定していた原武が滑落で遭難死した。同行の石原国利も入院、鈴木重彦が急を知らせに走ったのであった。支部発足の出鼻を挫かれた思いであったと中世古は回想する。しかし、その事故処理が契機となって兄・原真と親しくなったのは歴史の皮肉というべきか。原真も翌年に入会することになる。
 設立発起人には岐阜登高会の篠田公平がいた。名古屋山岳会の跡部昌三がいた。名古屋山岳会は昭和十年に団体加盟していた。支部の基盤となる東海地方在住の会員は60名はいた。
    アルピニズムの殿堂への一歩
 1961年4月23日、鶴舞公園の桜もすっかり散ったころ、その隣の名古屋大学医学部の一角で東海支部は呱々の声を上げた。東海地方にヒマラヤを目指す志の高いアルピニストの拠点が出来たのだった。「エベレストは気高い心を持つ者だけが登る資格がある」という名言で知られた松方三郎会長が来名した。初代支部長には石岡の上司であり、山仲間でもあった名古屋大学教授の須賀太郎が選ばれた。
注1朝日文庫『戦後値段史年表』東京の値段を参考

   巨星墜つ!
 平成18年8月15日9:07、設立者の石岡繁雄が他界した。大動脈瘤破裂によるショックで名古屋第一赤十字病院にて永眠。一つの時代が終わったと思った支部員が多かった。2011年11月の50周年記念パーティーの席には娘の石岡あづみが招待された。バッカスの異名を自任し、飲むと陽気に安曇節を披露した。その姿はもう永遠に見られない。次女の名前にあづみと名づけた。彼女は語り部となって、「「石岡繁雄の志を伝える会」を主宰し、ホームページで昔を偲ぶことができる。
以上

 没年月日を見ると今年でもう5周年になる。

「遭難を防止するために」

http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/03/06/6361898

http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/03/06/6363060

http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/03/08/6367409

http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/03/12/6373308

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