参道に銀杏落葉や定光寺 拙作2024年12月15日

 猿投山に凍て雲がかかるような寒い一日であった。午後から気になっていた定光寺にドライブしてきた。
 計画ではJR定光寺駅から山星山を経て高根山を踏み、愛環中水野駅で乗車。高蔵寺駅乗り換えで帰名の予定だった。さらに足を延ばして東谷山を登って高蔵寺駅へ歩くプランもある。最大5時間程度だから短日の今でも無理はない。
 しかし、どうも行く気がしないのでドライブに留めた。市中は年末とあって車が多い。午後発なので東名名古屋ICから春日井ICを経てR155から庄内川を渡り、愛岐道路から県道へ走った。案内板に従って急カーブの多い登り坂を登りきると定光寺に着く。指定のPへ止める。
 境内は年末とあって閑散としている。冬紅葉も今日は高曇りで冴えない。スロープを下ると鶏小屋がある。6羽飼われている。家人は居ると思うが気配はない。

 愛知県の公式観光ガイドのHPには「定光寺は、尾張の鬼門封じの役を担い「参詣すれば災難はたちどころに消えて多くの福が授かる」と広く信仰を集めてきました。尾張藩祖徳川義直公の廟所と室町時代後期の建築である本堂「無為殿」はともに国の文化財に指定」とある。

 瀬戸市のHPで本堂は「
一重裳(も)階(こし)付・入母屋造、柿葺
室町時代後期
所在地:定光寺町 所有者:定光寺
定光寺は建武3年(1336)に平心処斎によって開かれた禅宗寺院です。
 その後火災や地震等の災害があったため、創建当初の建物は残されていません。現在の本堂も天文元年(1532)の炎上後、同三年に再建されたもので、定光寺に残る一番古い建物になります。
 本堂は桁行(けたゆき)五間、梁間(はりま)五間の正方形で、裳階(もこし)がついているため、二階建てのように見えますが、実際は一階建ての建物です。
 昭和12年(1937)の解体修理の際に、屋根の形を変更し、現在の禅宗様の入母屋造りに復元しました。屋根は厚さ三ミリの薄い板を重ねて葺く柿(こけら)葺きです。組物や桟唐戸(さんからど)、本尊が納められている厨子などに典型的な室町時代中期の禅宗様式がみられます。
(広報せと平成18年2月15日号「瀬戸の文化財第2回」より)」と紹介されている。
 同「源敬公墓 1棟、唐門(からもん) 1棟、焼香(しょうこう)殿(祭文(さいもん)殿)1棟、宝蔵(ほうぞう)(祭(さい)器(き)庫)1棟、龍(りゅう)の門 1棟、築地(ついじ)塀 1棟、獅子(しし)の門 1棟 計7棟

江戸時代前期(慶安4年(1651)~承応元年(1652))
所在地:定光寺町 所有者:個人

 慶安3年(1650)に没した尾張藩祖徳川義直(源敬公)の廟(墓)で、義直の遺命により定光寺の北東に隣接して築かれたものです。
 廟は中国の渡来人陳元贇(ちんげんぴん)の設計により日本でも数少ない儒教式の配置を取っています。
 死亡した翌年の慶安4年(1651)に墳墓と石標を造立し、その翌年の承応元年(1652)に焼香殿、宝蔵、門、築地塀などが完成しました。焼香殿の敷瓦は、瀬戸市域で焼かれたものです。同時期の諸大名の廟建築が仏寺式や神道式となっているのに対して、注目される構造です。
(広報せと平成18年3月15日号「瀬戸の文化財第3回」より(一部加筆修正)」

※「源敬公」は徳川義直の諡号(しごう:高貴な身分の人に死後贈られる美称)。2020/03/17
※源敬公(徳川義直)廟(げんけいこう(とくがわよしなお)びょう) 慶安3年(1650)に没した尾張藩祖徳川義直(源敬公)の廟(墓)で、義直の遺命により定光寺の北東に隣接して築かれたものです。2011/03/28

 より詳細な紹介文は
「応夢山定光寺は、臨済宗妙心寺派に属し、地蔵菩薩を本尊とする。建武3(1336) 年に覚源禅師( 平心処斎) により開山された。
 里人の協力によって本堂を建立する際に雲水たちが定光仏と言う霊像を掘り出した夢を見たので、山号を応夢山、寺号を定光寺とした。
 本堂は国指定重要文化財である。本堂( 仏殿) は、暦応3(1340) 年に建立され、火災にあったが明応2(1493) 年に再建された。本尊を安置する宮殿は明応9(1500) 年に完成している。
 本堂の上層部分は、明治13(1880) 年以前には板葺きの切妻造の仮屋根となっていたが、昭和13(1938) 年には本堂全体の解体修理が行われ、上層仮屋根は同様の建築様式の事例や宮殿の構造を基にこけら葺の入母屋造に復元された。本堂は、方三間の主屋の周囲に裳階をとりつけた構造で、下層の斗や桟唐戸、外壁の花頭窓、内部の海老虹梁や大虹梁・大瓶束の特徴は、典型的な禅宗様をなしている。」
 Pの奥からは雑木林が伐開されて見晴らしがよい。遠くには名古屋駅前の巨大ビル群が見えた。伊吹山辺りは雪雲に覆われていた。