三月入り2025年03月01日

 2025年もあっと言う間に2ヶ月が経過してしまった。世界も日本も騒然としてニュースがあまた溢れる。これだから山に登って清浄な空気を吸いたい。
 体重は昨年6月の78kgから72.5kgと6kg減量した。この前の寧比曽岳では意外なほど体が軽かった。6kgはわずかだが侮れない。米袋5kg以上である。日帰りのハイキングであれだけの重さのザックを担ぐことはないので減量効果は大きい。

巴山は中止2025年03月02日

 S君と約束していた巴山のハイキングは雨模様と雲が厚いこともあり中止にした。一応自宅までお迎えに来てくれたのに無駄足になってしまった。9時ということもあり近くのレストランで朝食をともにして別れた。

原稿書き2025年03月03日

 支部報向けの原稿を書いて送信した。久々の起稿だが書き始めると案外すらすらとペンが進む。10年前に荒島岳で雪崩で死んだ山仲間なので記憶はある。当時書いたものを下敷きにしてページ分を書き上げて最小限の原稿量は確保できた。
 次は俳句雑誌の連載物の起稿に取り掛かる。これは長い。前主宰が死去して若い主宰に代わった。その時以来だから10年以上にもなる。なるべく同じ人の俳句を採らないようにしているがどうしてもリピートになることがある。採用する作者が偏ってきたら止めることになろう。

訃報 曽野綾子さん死去2025年03月04日

 曽野綾子さんが2/28に死去。
 知ったのは司馬遼太郎の『街道を行く 濃尾参州記』(朝日文庫)の中で藤田保健衛生大学(現藤田医科大学)のことにふれた文に曽野綾子『贈られた眼の記録』(朝日文庫 1986年)が引用されたことだった。この時馬嶋家は古い時代から続く眼科医と知った。
 早速取り寄せて読んだ。内容は「白内障、中心性網膜炎……失明を覚悟した著者が、奇跡的に視力を恢復するまでの感動の記録。」である。曽野綾子さんは51歳だった。入院先が同大学の付属病院だった。これを契機に作品も読み始めた。作品は小説ではなくエッセイのみだった。
謹んで曽野綾子さんの御冥福をお祈り申し上げます。

理事会2025年03月04日

 今期では最後の理事会になった。会場は名工大。WEBの出席者もいるが少ない。山岳会の退潮から連盟の脱退もある。しかし事業は多数こなさなくてはならず結構忙しい。今夜は事業年度も終わったことから報告事項は少ない。これから総会にかけては予算委員会と決算の監査、役員の人事などで忙しくなる。

例会2025年03月05日

 今夜は街の山岳会の定例会。共済保険の保険料6360円を支払う。年度末のこの時期は退会者も出て来る。また新人募集をしなくてはならん。

じねんじょ列車に乗る2025年03月06日

 山岳会の友人Wさんが明知鉄道企画の「じねんじょ列車」に乗ろうという話を持ち掛けて来た。明知鉄道は一度くらいは乗ったのか一部か記憶がない。モノは試しに計画に乗った。
 3/5の例会後にWさんの車に便乗して中津川市のビジネスホテルに一泊。朝早くは午前中は余裕があるので木曽川右岸の飯地高原の秋葉山にハイキングの予定でいた。朝食バイキングを食べた後出発。登山口に着いたがナビが下山口にガイド。おかしいと正規の登山口に着いたが時間的に遅いので止めた。ところがメンバーのSさんが行くと言いだして一人すたすたと登って行った。約30分くらいなのでそのうち戻るだろうと待機。
ぶつぶつ言いながら下って来た。今日は雲が厚いので展望はなかっただろう。結局計画通り登ったのはSさんだけだった。
 その後恵那駅に行ってPに駐車。明知鉄道の恵那駅に行くと時間が迫るにつれて予約客が続々集まって来た。中には着物姿のグループもいた。一列車27名、三両編成と聞いたので60名くらいは乗ったのであろう。
 我々は先頭車両に座った。机には折箱が並んでいた。ゆっくり動き出すと麦ごはんにじねんじょを掛けてくれる。お茶のサービスもある。地元の食材の寒天なども使った料理屋の仕出し弁当プラスじねんじょであった。
 東濃の約浜井場の標高350mから飯沼駅の標高450mまでで約100mもの登る。ゆっくり50分かけて明智駅に着いた。HPには「岐阜県恵那市大井町(中央線恵那駅)を起点に、日本大正村で有名になった恵那市明智町に至る東美濃地方の高原地帯を縫って南下する全長25.1kmの路線」とある。通常運行は始発から終点まで各駅停車で約50分かかるが12:25発の急行仕立てはビュッフェ形式なので駅を4ヶ所パスして54分で運行している。
 料理は運賃含みの5000円と高め。味は美味しかったが、昨夜は夜食の牛丼で食いながら深夜まで雑談していた。朝も6時に起こされてバイキングの朝食を楽しんでしまったのであまり食欲はなかった。それでも残すわけにはいかないので完食した。
 下車後は自由時間になり、初めて大正村を歩き、歴史を楽しんだ。明治村のような囲い込んだ博物館と違って、一般人が生活する場も含めて歴史を振り返る拠点を設けてある。私の実家を髣髴させる古い家屋もあった。春寒し大正は遠くなりにけり、である。
 大正ロマン館では懐かしい名前を二つ見た。一つは大正村創設の提案者の写真家・澤田正春と尾上 隆治((おのえ たかはる、1914年11月14日 - 2005年1月5日)は、株式会社尾上機械の3代目経営者。また様々なコレクターとしても有名である。)元日本山岳会会長の尾上昇の父である。
 駅前の土産物店で熱いコーヒーを飲んでまた列車で恵那駅へ。PからはR19、県道33、R363と走って瀬戸市経由で帰名。

余寒なお続く名古屋の夜の街 拙作2025年03月07日

 今日は通帳記入3件と資金移動を処理。確定申告作成の準備がもたつくので資料を自宅に持ち込む。久々に徹夜作業を覚悟する。

三遠歴研の研究発表会2025年03月08日

 今朝は名古屋では傘が欲しいほどの小雨だった。午後から新城市で歴研の研究発表会があるので行きがけに里山登山を予定した。朝晴れなら早朝出発だったが雨ではモチベーションが下がる。ハイキングは中止。遅めにゆっくり出発。R153、R301で新城迄70km余りの約2時間程度。10時過ぎでも十分間に合う。
 矢作川の橋を渡るとR301一本道だ。松平町からかなり急坂の根引峠を登る。旧下山村から旧作手村を快適に走る。時速50kmから70kmくらいの中低速域にはディーゼルエンジンは向いている。
 道の駅でトイレ休憩。ついでに鶏卵を購入。5kgの米も3800円とリーズナブル。名古屋市内のスーパーでは5000円と狂乱物価である。いつか冷めるだろうが。
 作手高原を過ぎると新城市街へ下る一方となる。タイトなカーブの連続するR301を走る。R151に出て左折、回転ずしの看板を見て12時ちょうどということもありちょっと食べて行く。会場の新城市文化会館には20分前に到着。会費も納付。
 研究発表会の題目は豊橋・牟呂の大貝塚群。講師は森田勝三氏。豊橋支部の会員でもある。日本考古学協会員、石巻地区文化財保存会 代表、牟呂八幡宮神幸祭神事相撲保存会 会長、と多彩な経歴の持ち主だ。
 総じていえば貝塚は人間の生活の歴史そのものではあるがだから何かを学びとるのは深奥な感じがする。むしろ地名のイメージに惹かれて参加したのであるが講師は民俗的な領域には踏み込むことはなかった。
 かつて愛知県埋蔵文化センターを訪ねて素焼きの壷の民俗的な意義を問うたのであるが、愛知県職員(公務員)でもある彼らは壷と言う物質のみに関心を寄せて歴史や民俗にまでは解説がなかった。講師も同じことであろう。考古学では出土品が語る以外のことはない。
 『地名の語源』(角川小辞典13)によれば、ムロは
①朝鮮語のmuro,maru(山)より。山に囲まれた所で、小さい入り江や河谷の小盆地をいう。室生、牟婁。
②神社またはその森(ブロ、ムロ)。御室、三室山
③古墳の石室、堅牢住居。室、氷室、日室、室野、室原、無路原
北海道以外の全国に多い。
以上
 金達寿『日本の中の朝鮮文化4』(講談社文庫)の中で和歌山県の牟婁に触れて、朝鮮語由来と書いている。村または人々の集落という意味である。だから牟呂もやはり朝鮮語に由来していると考えると自然である。
 そしてもう一つ、菅江真澄の出生地が書籍では愛知県豊橋市又は三河国渥美郡と記載されている。
 検索すると、角館 総鎮守 神明社のHPでは
 「菅江真澄は本名を白井秀雄、幼名は英二といい(知之、白超とも名乗った)、宝暦4年(1754)三河国渥美群牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)に生まれたと伝えられ、定住の地はなく、行脚に明け暮れる一生を送った。父の名は秀真、母は千枝といい、 家職は祈祷施薬、白太夫の家筋であった。少年時代は岡崎城下成就院の稚児となり、吉田藩の文化人植田義方に和学、和歌を学んだ。思春期に尾張へ移り、国学者で熱田神宮の祠官粟田知周の知遇を得、明和7年(1770)頃から尾張藩の薬草園で薬草栽培にたずさわり、本草学を修めるという経験をつみ、また、丹羽嘉信について漢学、画技を、浅井図南から本草学、医学を修得した。生家に戻ったのは安永9年(1780)であった。この頃から各地をしばしば巡って紀行を執筆した。天明3年(1783)のとき、30歳で故郷を出奔した。」
と紹介されている。
 ここにきて現在の牟呂公文町と具体的になっている。JR豊橋駅のやや西南の位置、標高は5.1mと低地である。
 菅江真澄は牟呂公文町に生まれたのは事実であろう。幼いころから無尽蔵にある貝塚を遊びの場として育ったに違いない。大波があれば飲み込まれそうなほどの低地であるから過去には被災して全滅したこともあったと思われる。或いは生活の根拠はないとも言われたから別の高台へ移り住んだだろう。少年の好奇心は日本人はどこから来たのだろうか、へ高まった。学問を積み上げていくうちに北へ関心が向いた。両親を置いて治部坂峠を越えて東国へ、陸奥へと旅立って行った。特に信濃国の茅野市、諏訪市周辺は縄文文化のメッカである。東山道もあった。当時の水準は分からないが考古学的な関心を向ける学者もいただろう。
 
 帰路はR151からR257で設楽町へ走った。次に登る大野山の登山口の下見をした。名倉で県段戸山牧場を経て、小田木でR153に出合い、足助を経て帰名。

 追記
1972年ごろ、豊橋市に住んでいた。ミシン会社の戸別訪問をして契約を取る仕事である。東三河一円を回った。はっきりした記憶はないが、海辺に近い牟呂近辺も回ったと思う。そんな中に在日朝鮮人の家を訪問した。家にあげてもらい家のミシンに油を指し、調子を見てあげて奥さんや娘さんに契約を促す。奥の部屋へ案内されるとまず、金日成主席の写真、別の部屋には朴正煕大統領の写真が掲げてあった。それで初めて在日朝鮮人の御宅と分かったのである。その家の生業は貝のむき身をやっていた。今思うと貝塚のある牟呂らしい風景ではある。

明知鉄道沿線の歴史①2025年03月09日

 『新撰美濃志』の恵奈郡から
阿木村
は富田の北にあり。和名類聚鈔に「恵那郡安岐」とある舊郷・・・以下略。

東野村
は飯沼の北にあり。『花無山』は鍋山の続きなり。西行法師ここに住みて
 思えただ花のなからむ木の本に何をかげにてわが身住まなむ
とよみしいひ伝えたれど、山家集この歌の詞書きに「落花のうたあまたよみにけるに」とありて、ここにてよみしといふ事見えず。また
 花無の峯にすみける鶯のおのれと鳴きて春をしらする
といふ古歌も此の山の歌なるよしいへど、共にただしきつたへなし。
花無山といふ名のふるければ付会せし物なるべし。以下略

 というわけで花無山は西行の歌に詠まれた伝説がある山らしい。機会があれば行きたい。できれば明知鉄道の飯沼駅下車で登り、東野駅へ下る。歌碑も見る。