花に嵐のたとえも・・・2017年04月17日

 今日は一日中荒れた。そこで思い出したのは「花に嵐のたとえも・・・」のフレーズである。調べると西行の和歌かと思ったが以下が原典であった。

 勘酒・・・酒を勧む
勧君金屈巵・・・君に勧む金屈巵
満酌不須辞・・・満酌辞するを須いず
花發多風雨・・・花發けば風雨多く
人生足別離・・・人生は別離に足る

井伏鱒二の訳は次のようになります。

この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ

 有名なさよならだけが人生さの言葉はこれが原典だったのか。一期一会ともいう。日本で花といえば桜と思うが、漢詩ならば花は梅という。

渡部昇一氏死去2017年04月18日

 産経新聞から
 本紙正論メンバーで第1回正論大賞を受賞した英語学者・評論家で上智大名誉教授の渡部昇一(わたなべ・しょういち)氏が17日午後1時55分、心不全のため東京都内の自宅で死去した。86歳だった。葬儀・告別式は親族で行う。喪主は妻、迪子(みちこ)さん。後日、お別れの会を開く。ここ数日、体調を崩していた。

 昭和5年、山形県鶴岡市生まれ。上智大大学院修士課程修了後、独ミュンスター大、英オックスフォード大に留学。帰国後、上智大講師、助教授をへて教授に。専門は英語学で、「英文法史」「英語学史」などの専門書を著した。

 48年ごろから評論活動を本格的に展開し、博学と鋭い洞察でさまざまな分野に健筆をふるった。51年に「腐敗の時代」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。同年に刊行された「知的生活の方法」は、読書を中心とした知的生活を築き上げるための具体的方法を論じ、100万部超のベストセラーとなった。
 57年の高校日本史教科書の検定で、当時の文部省が「侵略」を「進出」に書き換えさせたとする新聞・テレビ各社の報道を誤報だといちはやく指摘し、ロッキード事件裁判では田中角栄元首相を擁護するなど論壇で華々しく活躍。一連の言論活動で「正確な事実関係を発掘してわが国マスコミの持つ付和雷同性に挑戦し、報道機関を含む言論活動に一大変化をもたらす契機となった」として60年、第1回正論大賞を受賞。東京裁判の影響を色濃く受けた近現代史観の見直しを主張するなど、保守論壇の重鎮だった。平成27年、瑞宝中綬章。主な著書に「日本史から見た日本人」「ドイツ参謀本部」など。フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」など翻訳も多数手がけた。
以上
 哀悼の意を表する。
 享年86歳だった。若いころからTVなどの時事番組で知った。その後はベストセラーの『知的生活の方法』で改めてファンになった。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2016/12/14/8275366
 続々出版される本は大抵は購読してきたはずだ。驚くのは知的生活の提案者らしく蔵書が膨大で和英合わせて15万冊に及ぶらしい。
 渡部氏のやり方を知ってからは本を消耗品扱いするのをやめた。雑誌といえども何でこんなものを買ったのかと思うが後で読み直すと意味はあった。失敗と成功の積み重ねで失敗を減らしていくのだろう。的確な本の選択眼蔵書術も教わった気がする。
 蔵書専門のマンションの購入も夢見ているがそれを維持する収入がないことで実行できないでいる。夢で終わる公算大であるが、渡部氏から得たものは大きかった。
 梅棹忠夫からは行動のための読書術を教わり、渡部昇一氏からは知の計算外の蓄積の大切さを教わった。無用なものでも継続すれば無用でなくなり、体系が生まれると知った。専門家でないことが新鮮な発想を生むのである。
 渡部先生!やすらかにお眠りください。お別れ会には上京して出席したいものだ。

沓掛時次郎の歌詞の ♪浅間三筋♪とは2017年04月19日

 橋幸夫が歌う「沓掛時次郎」(昭和36(1961)年、作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)は長谷川伸が昭和3(1928)年に股旅物の戯曲で創作された人物だった。
音曲:https://www.youtube.com/watch?v=Tul_g3_oQeo
 その中の歌詞に歌いこまれた浅間三筋ってなんだろうと調べてみた。何のことはない。活火山の浅間山から立ち昇る三筋(本)の煙のことであった。
 浅間山に関することや沓掛時次郎に関することをさかのぼると、結構いろいろ分かった。この歌は佐伯孝夫のまったくの創作ではなかった。先駆する民謡「小諸馬子歌」に
♪小諸出てみよ浅間の山に今朝も煙が三筋立つ♪
と歌う。なかなか風情がある。
音曲 https://www.youtube.com/watch?v=jru-axzBJHQ
 続けて、「沓掛小唄」というのもヒットした。
音曲:https://www.youtube.com/watch?v=g9a_jKsOmzA
歌詞:http://www.tei3roh.com/kutsukakekouta.htm
物悲しい音色が時代を語る。おそらく大ヒットしたのである。これは昭和4年とあるのでもう長谷川伸の作詞となっている。1番から5番まであるが1番と最後のみコピーする。
1 意地の筋金 度胸のよさも

 人情からめば 涙癖

渡り鳥かよ 旅人ぐらし

 あれは 沓掛時次郎

5 千両万両に 曲げない意地も

 人情からめば 弱くなる

浅間三筋の 煙の下で

 男 沓掛時次郎
以上
 島津亜矢の歌う「沓掛時次郎」の歌詞(作詞:宮沢守夫、作曲:村沢良助)は1番の意地の筋金を引く。5番の男 沓掛時次郎の結びも引いてある。
https://www.youtube.com/watch?v=ub6-DIQfAtY
 この歌はシングルでは発売されず、2014年のアルバム「亜矢の股旅・任侠演歌セレクション」に収録。さらにさかのぼると2004年のアルバム「極めつけ 島津亜矢の名作歌謡劇場」に収録。1993年の名作歌謡劇場シリーズの中で「お梶/沓掛時次郎」があった。これが最初であろう。平成5年だから亜矢ちゃんが22歳のとき歌ったのだ。
 橋幸夫の歌う「沓掛時次郎」は「浅間三筋の煙の下で」とやはり「男 沓掛時次郎」は同じだ。橋幸夫は18歳で歌っている。

 ともに長谷川伸の作詞「沓掛小唄」を踏まえたいわゆるオマージュの作品と知った。やっぱりなあ、良い歌、いい言葉はい意味でのパクリなんだと思う。昭和4年以来、昭和36年の橋幸夫、平成5年の島津亜矢と、約30年の間をおいて、歌い継がれてきたのである。名作の由縁である。

 締めくくりにはっと思って前田普羅の句集「春寒浅間山」を繰ってみた。普羅の俳句にも浅間三筋が詠まれていやしまいか。さすがにそれはなかった。
  春星や女性浅間は夜も寝ねず
  春星を静かにつつむ噴煙か
  つかの間の春の霜置き浅間燃ゆ
  女性浅間春の寒さを浴びて立つ
・・・・浅間山のやわらかな山容に女性を見たという句意。普羅はごつごつした険しい山よりも女性的な山容の山が好きだった。富山県の金剛堂山にも久遠の恋の情を表すほどだった。  
しかし、
  榾を折る音ばかりして父と母
  母の顔父の顔ある榾火かな
・・・・普羅は若くして台湾に渡った両親との生き別れに寂しさを癒せなかった。15歳で山恋と書くほど山好きな少年になった。後記に「私は浅間が降り注ぐ女性に打ち勝てなくなった」とある。浅間山に母性を見たのである。生涯寂しさを漂わせた俳人であった。
 長谷川伸も幼くして母と生き別れの人生体験があった。これが作品の原点になっている。普羅も渡り鳥のように旅から旅へ、親の愛を受けられないまま、拗ねてやくざになってしまった時次郎に似ている。
 しかし、普羅は早稲田大の英文科を出たほどの教養人だったから身を持ち崩すことはなかった。意地もあっただろうが、俳句が人生の高みへの階段を登る手段となしたからだった。
4/23追記
 昭和14年の東海林太郎のヒット曲「名月赤城山」(矢島寵児作詞)にも「沓掛小唄」の歌詞中「意地の筋金」の部分が引用されていることが分かった。

4月句帳3 初音聞く2017年04月22日

原生林段戸裏谷初音聞く

段戸にも春告鳥や森の上

アブラチャン咲きて段戸の春を告ぐ

芽吹き山段戸裏谷原生林

せせらぎの水も温むやブナの森

筒鳥に耳傾けよ森の中

カモシカのじっと見てゐる春の山

春曇りそれでも猿投山見たり

山里の庭は桃色花盛り

4月句帳4 花の舟伏山2017年04月25日

舟伏山に咲く岩桜
イハザクラただそれだけを見るために

ふみあとはイハザクラ見る分れ道

しぶとさを見習うべしやすみればな

寄りあって一人静は群れ咲きぬ

筒鳥の哀しき声の寂しさよ

百千鳥林に風の出でにけり

若草や雑木林は芽も吹かず

萌へいでし林一面ヤブレガサ

シロモジの芽吹きを見つつ下りけり

残雪のしるき能郷白山よ

春山や大白木山のこと言へり

一羽の蟻クレーターなめり穴を出る

何処へと羽蟻飛んでしまひけり

春更けて諸鳥啼くや雲の上 前田普羅2017年04月27日

 晩春の山でしょう。夜明けと同時に小鳥も一斉に啼きだします。早朝の山の尾根を登っていると雲の上から小鳥の鳴き声が聞こえてくるというのです。
 4/26には舟伏山に登った際も雑木林から小鳥の鳴き声が盛んでした。雲の上というのは実際には山の高いところを強調しているとも解釈できます。
 4月初旬からびわくぼ峠、寧比曽岳と3回目の山歩きですが、試歩を重ねてようやく翌朝のひざの痛みもかなり軽減してきました。薬効著しいものがあります。運動するから薬効成分が体をめぐるのでしょう。
     春深し試歩の山路を重ねけり     拙作
小鳥たちの激励を受けてまた山に向かいましょう。GW後半に封印していた春スキーを1回はやれそうに思う。

NHKウィチュウ「ゆる山へGO」録画登山行2017年04月29日

 山岳会の先輩筋から「ゆる山」に出ないか、と話があったのはかなり前のことになる。漠然とした話なのでなかなかイメージもつかめなかった。
 平成7年に『ひと味違う名古屋からの山旅』の出版にちなんだ民放TV局出演の経験もあるにはある。あの時はまるっと2日間つきっきりだったが、本の宣伝をしてあげるのだから、と出演料もなくボランティアになった。
 今回も天下のNHK様であり、山岳会経由なのでまたボランティアのつもりで引き受けた。ゆる山の候補10座選定以上には打ち合わせも進まず、どうなることかと思っていたら4月中旬になって急速に進展した。
 ゆる山の候補は10座あげて2座に絞り、カメラマンのことを配慮して寧比曽岳を1番手で推薦。2番手に岩小谷山を推薦。展望と手軽さを優先して岩小谷山に変更、下見にびわくぼ峠に登山してみたが、重たいTVカメラを携えては危険と察したので再び寧比曽岳に変更した。
 下見登山は4月21日に制作会社の担当者と同行して無難に終えた。当初、4月29日に予定したが、天気が変わりやすいので28日に繰り上げてもらった。 
 28日は快晴になった。朝4時半起床。マンションの窓から見ると東の三河高原の方が朝焼けしている。北風でやや寒そうだ。熱いお茶を飲む。テルモスにも熱いお茶を入れた。お茶は橋幸夫大使推薦の静岡茶である。朝食と久々にメンパに弁当を詰めた。6時前に出発。NHK前にはすでに1台ごついランクルが止まっていた。歩荷役のHさんだった。舘谷キャスター、カメラ、音声、監督のスタッフ3名と揃い出発。東新町ICから高速をつないで、東海環状に入り、鞍ヶ池PAスマートICから県道にでて足助へ。少し買い物を済ます。県道33を遡ると大多賀峠はすぐだ。ここに歩荷さんと案内の私はマイカーをデポする。
 1台に同乗。段戸湖の登山口に着いた。するとマイカーが半分ほど埋まっている。釣り客でもないが・・・。

 録画撮りはここから始まった。27歳といううら若き舘谷春香キャスターをガイドするという役目でカメラに向かってなにやら台本も持たず台詞をしゃべる。もとよりしゃべるのは得意ではないが思いついたことを言う。道道歩きながらしゃべることになる。林道のゲートから先が裏谷原生林の領域になる。
 ゲートを入った途端、せせらぎの方に大きなカメラを抱えたバードウォッチャーさんが屯していた。ははん、車は彼らだったのだ。なにやら小鳥の営巣地があるらしい。
 そこを離れて少し先で超望遠レンズを持ったバードウォッチャーに出会った。スタッフが声をかける。小鳥談義をする。見せてもらうと鮮明な小鳥の画像にびっくりする。おそらく何十万円もするだろう超望遠レンズで撮影するのだろう。
 五六橋で右折、トイレの場所から山道へ入る。いよいよ核心部である。せせらぎに沿う山道はこころを癒される。細道がせせらぎに下りているので水辺に近づいた。下見では魚影があったが今日は見えない。ササやぶ越しに若草が見えた。対岸に渡るとバイケイソウだった。流れが変わったので湿地帯になり、少数ながらバイケイソウの群落になったのだ。日光に映えて若草が美しい。
 せせらぎを後に、道々樹木の大きさに圧倒される。樹齢200年から300年ともいう。明治維新の50年前からの樹齢になる。下見の際は芽吹きも少なかったが1週間で森林は若やぐ感じになり、芽吹き、花も増えた。但し、シロモジかアブラチャンなのか図鑑なしでは同定出来ないのが残念。小鳥のコロニーでもあるのか鳴き声も盛んだ。いくらも標高差はなく900mから1000mまでゆったりとした歩みを楽しむ。これが愛知県随一の原生林である。大迫力の映像になったのではないか。
 峠状(菜畑峠)の乗り越しで一服。今までは矢作川水系でここからは豊川水系になる。山腹を巻くように檜の植林帯の水平道を歩く。途中で林道と交差する。そこの枯れ枝の配置から道迷い防止への見知らぬ登山者同士の配慮について説明する。
 さらに進む。湧水は飲んでいいと説明。駒鳥に続いて筒鳥が聞こえてきた。やや小さいと音声さんが嘆く。峠状(富士見峠)の鞍部に着いた。小休止後、1140m峰へ最後の登りが始まる。以前はササをかき分けて登らされたが、刈り払いされて、明るい。比高200mもないのですぐ到着。トイレが更新された。中電反射板を見にゆく。休み場には御料局三角点があった。かつては皇室の御料林の名残だ。
 緩やかに下って少し登り返すと三角点の埋まる山頂である。ここでもカメラに向かって舘谷キャスターと並び登頂の喜びをしゃべる。録画はこれで完了。やっと終わった。
 今日は山頂からのパノラマも素晴らしい。御岳、恵那山、南アルプスの巨峰群、北に目を転じると山霞みの中にぼうーっと浮かんだのは名古屋駅前のビル群だった。舘谷さんも大喜びだった。
 ウィチューでは川柳を募っているので舘谷さんも一句ひねった。私は俳人なので俳句を即興で詠んだ。

  遥かなる(春香)名古屋のビルも霞みけり

 春香さんの名前を織り込むつもりはなかったが結果として織り込んだ。これはオフレコである。

 私はかつて正月休みに4回渡道した。いずれも山スキーが目的だった。その計画の中に春香山もあったがついに叶わぬ夢に終わった。北海道の山は気温が低く、低山でも山麓まで真っ白になる。但し天気も悪いので登頂の実績は少なかった。
 彼女は東京生まれだが、名前から両親のうちどちらかが北海道出身と推察して聞いてみたら図星だった。大抵は父親である。
 誕生して雪ん子のような真っ白な愛娘を抱いた。たちまち故郷の春香山の白皚々(しろがいがい)とした山容が目に浮かんだ。そうだ、春香と名づけよう、と。まったくの想像であるが・・・。

 舘谷春香さんはスレンダー美人である。去る3月のフルマラソンも4時間台で走るとか。ほっそりした体つきはアスリートゆえだった。それなら心肺機能は発達しており、日帰り登山ぐらいは楽にこなせる。今回は入道ヶ岳に続いて2回目になる。さらに登山の面白さを倍増させたようだ。
 舘谷春香さんは文学を志す。川柳以外に小説を書くし短歌も詠むとか。以前の赴任先の富山は万葉集の故地だ。北日本新聞は文学賞を募る。裏日本の人達は筆豆である。そんな土地で4年も住めば物書きになる素地ができるのだろう。実際、山の本でも福井、石川、富山、新潟の岳人は出版をよくする。
 録画は直ちに編集されて7分に集約されるそうな。映像の情報力は半端じゃないからきっと充実したものになるだろう。そうあってほしいもの。
   春更けて足助の山に登るなり

寧比曽岳余話2017年04月30日

点名:二タ宮
 昨日は寧比曽岳録画登山の宿題を片付けた。寧比曽岳の全景の写真が中々難しいと分かった。鈴鹿山系のように南北に長く山麓から見える山であれば撮影しやすい。ところが寧比曽岳は山の中の山で山麓といっても平野部はなく、山の一部を均してわずかな平地は田畑に利用して、家は山の斜面に建てている。寧比曽岳を直視する視点が少ない。
 4/28の録画行でも井山の山頂から撮影してもらったが鷹ノ巣山の右に出ているだけであり遠望過ぎるきらいがあった。担当からも全景写真の調達を依頼された。4/29は降雨率ゼロとあったので少し疲労気味であったがドライブなので出かけてみた。
 地形図で足助川の右岸側の山脈の稜線に林道竜岡伊勢神線が通じている。それを辿ってみた。竜岡町から旧愛知県憩いの村跡までつながっていた。この稜線は杉の幼木がびっしり植林されて一部の隙間も得られない。大多賀峠周辺の送電鉄塔順視路も歩いたが条件は好転しなかった。
 やむなく、東海自然歩道の一部からの撮影で妥協することにした。これは分県登山ガイド『愛知県の山』の寧比曽岳の写真の視点と同じ位置であった。
 あるサイトの写真も三角錐の立派な山容であった。この場所も探してみた。旧ねびそ魚苑の辺りからよく似た山容が見られた。地形図を吟味しながら考えてみると寧比曽岳の尾根は北に伸びている。等高線は下るにしたがいやせて細くなる。この傾向を峠近辺から見れば鋭角の山容になるわけだ。つまり寧比曽岳の写真には違いない。ただし山頂をとらえていないと分かれば推す訳にはいかない。
 御在所岳も東西に長く、近江側の1212mのコブと伊勢側の1200mの等高線を挟んで1209mの三角点がある。これを山麓から仰いで撮影するとロープウェイ駅舎のあるピークしか撮影できない。一応山頂をとらえているから大抵はこれで良しとして見ている。
 まだ時間はあるし天気も良い。段戸川右岸の林道にみな入ってみた。意外と前山が高く邪魔して良い写真にならない。以前、県道33号の開拓橋からとても立派な山が見えたので撮影した。ズームでアップすると何と中電の反射板が見えるではないか。寧比曽岳は1140mピークにすっぽり隠れていると分かった。
 R153に出て、稲武地区への水別峠を右折し黒田湖へ走った。しかし黒田湖からも何も見えなかった。湖岸道路を走ると県段戸山牧場へ出た。2車線の立派な道を下ると何と1140m峰と寧比曽岳の兄弟が2人並んでいた。これだこれだと喜んだ。
 地形図では1140mが主峰格で三角点のある寧比曽岳は主峰から北西に派生した尾根状の突起に過ぎないのだった。それがここからは兄弟のごとく並んでいる。来てみるものである。
 写真の手前の右側の930.4mの三角点は大多賀Ⅰ、大多賀峠の北の889.5mの三角点は大多賀Ⅱ、寧比曽岳の点名は大多賀Ⅲであった。きれいな三角測量と分かる。三等三角点は一方向に開けておればよく、それなら低い方がいい。
 1140mはガイドブックによれば富士見峠とするものがある。設楽町誌の江戸時代末期の古い絵図では石仏の名称が当てはまる。今のところ不明である。
 ともあれ、宿題は片付いた。まだ時間はあるので伊勢神トンネルを通過して伊勢神峠方向に走り林道竜岡伊勢神線を逆走した。そして、582.3mの三角点(点名:二タ宮(ふたみや))にタッチしたのを帰りがけの駄賃とした。