晩秋の蠅帽子嶺に登る ― 2015年11月01日
地元の本巣市で買い物
10/31から11/1にかけて旧根尾村の奥山に遊んだ。10/31の朝10時にIKさんと金山駅前で合流し、一路、美濃路へ向かう。R157へ入るのが一苦労で、何とか本巣市に着いた。ここでもう1人のINさんとも合流した。最初の寄り道先は本巣市の大きなスーパーに入る。今夜の夕食の食材の調達である。白菜一束、鶏肉、キノコ類、副食類を買う。3人分で2800円ほどになった。後はお好みでビール、行動食などを買う。名産の柿も美味しそうだが、帰路の土産に買うことにする。
根尾谷の奥へ
R157を2台で旧根尾村の能郷白山の麓の大河原に向かった。現在はうすずみ温泉までは二車線の立派な国道だ。その先は車の幅一杯の酷道に豹変する。根尾能郷を過ぎると、いつもの倉見七里の険路を走る。飛び石連休のせいか温見峠から来る車もかなり多く、すれ違いに冷や冷やする。難所を通過すると廃村黒津に着いた。屋根が抜けて朽ちて行くばかりの哀れな廃屋が点在する。そして最奥の廃村大河原も閑散としていた。もう出作りの旧村民も山を下りたのか。
その先の猫峠の道は全面通行止めだった。ハエ帽子峠の登山口の標示のある分岐に来た。今夜の寝場所探しになった。平地、水の確保、道路から隠れる、湿地でないこと、それに焚き火の枯木があることを条件に少し先まで走って見つかった。太い雑木林の木立の雰囲気が良い。早速、テントを張った。周辺から枯木や枯れ枝を集めた。枯れ枝を箒代わりにして落ち葉を掃きながらうずたかく盛り上げた。IKさんは川へ水汲みに行く。食材を並べて準備もした。少し早いが、落ち葉の山に古ダンボール紙をちぎって、着火した。湿り気はあるがすぐに着火してくれた。小枝を乗せ、火が乗り移ると、太い木や濡れた木もかぶせる。火力で湿気も蒸発する。何とか勢いがついた。
山猿の咆哮
近くで、山猿の、遠くには鹿の咆哮を聞いた。特に山猿は対岸の山腹がコロニーであるらしい。集団で吼えている。気味が悪い。火を使う我々を警戒中とも思う。鹿は妻恋の叫びだろう。
ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿 芭蕉
野生のプンプンする山奥の闇の中で、白菜、鶏肉、うどんを煮込んで食事を楽しんだ。どんな話も楽しい。
焚き火は寂しがり屋
時々は焚き火の火加減を見た。焚き火は寂しがり屋なのである。枯木を追加してやり、時にはウチワで仰いで酸素を強制的に送ってやらないと元気がなくなる。焚き火は何よりも人間の話を聞くのが好きなのである。焚き火を囲んで取り留めの無い話をするとまた勢いを取り返す。どんな話でも喜んで聞いてくれる。火力の衰えは話を催促するかのようだ。
そのうちに小型のパトカーが温見峠に向かって疾走していった。しばらくすると救急車、消防車が赤い回転灯を点けながら走ってゆく。何事か事故が起きたようだ。焚き火が終わりかけた頃、救急車が警笛を鳴らしながら町に向かって疾走していった。消防車などは回転灯は消灯して普通に還って行く。事故処理は終わったようだ。こんな人里離れた僻遠の地でどんな事故があったのか。
対岸の山腹から、再び山猿の咆哮が聞こえた。焚き火を処理してテントに入った。うるさいから早く寝ろ、と言わんばかりに聞こえる。
11/1は歴史の山路へ
寒い夜だった。テント内はびっしょり濡れている。冬用羽毛シュラフでも手を出していると寒い。もう初冬の寒さであろう。6時に起きてすぐに食事の支度に入る。昨夜の残り汁に白菜の残りなどを入れてまた煮込む。うどん汁の追加をすると味が良くなった。食べられるか心配したが殆ど残さずに平らげた。テントを撤収。ゴミともマイカーに積み込んで出発する。分岐付近の駐車地で準備中に尾張小牧ナンバーの単独登山者が着いた。早朝に出発したらしい。行先は同じだ。
登山口まではすすきや笹が刈り払われて4WD車なら何とか走れそうな車道を下る。難なく登山口に着いた。この切り開きは昨年の2014年は水戸天狗党の事件から150周年のイベントのためだったのだろうか。
ここから対岸まではロープが張ってある。事前に渡渉があることは伝えてあるのでそれぞれが工夫して渡渉した。名古屋市指定のゴミ袋を2重に登山靴の上から履いた人、ビニール製買い物袋を両足に掃いた人、単独の人は胸まである釣師御用達のゴム長、私は膝まであるゴム長だったが、渇水期なのでゴム長でも水は入らずに渡れた。
武田耕雲斎らの辿った山路
対岸で登山靴に履き替える。杉の大木の横の乳くれ地蔵を横目に長い尾根の末端に取り付く。全山自然林である。藪がややかぶさる程度の野生味のある登山道はかつての記憶そのままである。
水戸天狗党の武田耕雲斎ら800名は150年前の12月初旬にこの山路を乗り越して、越前国に入り、山伝いの村落をつなぎながら、敦賀市まで苦難の旅を続けた。800人というから先頭から最後尾まで1人分1m超の間隔とすると、ほぼ1kmの隊列になっただろう。馬もいたし、大砲も分解して運んだという。徒労といえば徒労の旅だった。苦労も空しく京都の徳川慶喜には会えず、越前藩は優遇してくれたが徳川幕府方に渡ると鯡倉に押し込められてその後は斬首にされた日本刑法史上最悪の結果になった。日本の夜明け前の暗さを反映したような事件だった。
シロブナの純林の道
ジグザグの急登が終わると、地形図に表現された尾根を忠実に辿る道と山腹を巻いてゆく道に分かれる。そこに朽木が横たわるが、知らないとそのまま山腹道を辿る。我々も往きは山腹を歩いた。標高が高まるとブナの自然林になった。木肌の奇麗なシロブナという。日本海側の樹種で純林を構成する。
気温が低いせいか、汗をかいているはずなのに爽やかな気分である。周囲は鮮やかな黄葉というわけではない。今年は雨が少なかったせいか、黄葉する前に枯れている葉も多い。十分な水分を吸いあげておればもっと美しいだろう。
シロブナの純林を堪能しながら歩いていくと、やがて、943mの道標を見た。傾斜が緩くなって歩きやすい。純林はここからが本番だった。そして県境に近づくと尾根がやせてきて、傾斜も急になった。峠道は尾根の左へ振る。すぐに稜線へ上がる近道の目印もあった。急な傾斜の山腹を横切るように歩く。すると谷にも道標があり県境へ行けるようだ。以前はここへ下りた記憶がある。
峠道は今までと違って、藪が繁り、歩きにくくなった。同行者らは野生味があると喜んではいたが・・・・。県境に沿うように横切って行くと地蔵が祀られている蠅帽子峠に着いた。水戸天狗党のことを書いた道標が立っていた。まだ新しい。そこで一休みした。峠に着く気分は格別である。
峠見ゆ十一月の空しさに 細見綾子
福井県側の山々は枯れ切っていた。IKさんが、あっ、あれは白山、と叫んだ。樹林越しに荒島岳も見えたが、冠雪した白山が見えて我々山旅人を喜ばせた。十一月の山ならでは風景である。空しいどころか、我々には嬉しい。部子山銀杏峰、姥ヶ岳、道斉山、堂ヶ辻山、屏風山も見える。越前側は完全な廃道らしい。かの天狗党は越前側に下るが、村々の家は焼かれていたという。係わり合いになるのを恐れたのか。
蠅帽子嶺の三角点へ
峠の越前側から尾根へ踏み跡が上がっている。これが三角点1037mに登る踏み跡だ。踏み跡はすぐに消える、又現れる、激しい藪に前途を阻まれながら3つばかりのピークを超えると三角点だった。先行の単独行者がいてあいさつした。落葉しているので見晴らしは良い。能郷白山が大きい。比高600mはあるから当然だ。
単独行者はコンロを片付けるとさっさと下山していった。又静寂が戻った。3人だけの世界になった。するとどこからか一頭の大型の蝶が飛来してきた。アサギマダラだった。まだこんな山奥に居るのかと驚いた。先だって三河の三ヶ根山で見たばかりである。秋の蝶は弱弱しいというが何のそのという感じだ。
我々も下山の時が来た。先ほど見つけた下山の尾根に下るポイントに戻り、激しいヤブ尾根を辿った。踏み跡程度だが結構な道のように思える。谷に直降するルートは見つからず、尾根を辿ると峠道に戻れた。地形図どおりである。漫歩気分でブナの純林の街道を下った。943mポイントをチエックした。IKさんが痙攣を起こして遅れたので休憩を取った。鞍部から右は先の方で倒木で塞がれていたから908mポイントへ軽く登った。誰もが記憶の無い道標だった。地形図の尾根を辿る旧来の道だった。広いために踏み跡が分散し、見失い勝ちになるが何とか凹んだ道形を探し、つないで下った。すると見覚えのある元の山腹道に合流できた。908mのピークを避ける道は後から付けられたのだろう。道の凹みは多くの旅人の足跡であろう。
合流地点からはしばらくでジグザグの道を下った。長い気がした。やがて谷の音が聞こえると、長い峠道も終わる。再び各自のやり方で渡渉した。車に戻ったのが14時10分。出発は8時10分だから丁度6時間のアルバイトだった。また膝の痛みがぶり返すかなと思いつつも充実した山旅を堪能した喜びが優った。
帰路は再び道の駅「綾部の里」に寄り、名産の柿の一袋を購入した。晩秋の美濃を後にした。
10/31から11/1にかけて旧根尾村の奥山に遊んだ。10/31の朝10時にIKさんと金山駅前で合流し、一路、美濃路へ向かう。R157へ入るのが一苦労で、何とか本巣市に着いた。ここでもう1人のINさんとも合流した。最初の寄り道先は本巣市の大きなスーパーに入る。今夜の夕食の食材の調達である。白菜一束、鶏肉、キノコ類、副食類を買う。3人分で2800円ほどになった。後はお好みでビール、行動食などを買う。名産の柿も美味しそうだが、帰路の土産に買うことにする。
根尾谷の奥へ
R157を2台で旧根尾村の能郷白山の麓の大河原に向かった。現在はうすずみ温泉までは二車線の立派な国道だ。その先は車の幅一杯の酷道に豹変する。根尾能郷を過ぎると、いつもの倉見七里の険路を走る。飛び石連休のせいか温見峠から来る車もかなり多く、すれ違いに冷や冷やする。難所を通過すると廃村黒津に着いた。屋根が抜けて朽ちて行くばかりの哀れな廃屋が点在する。そして最奥の廃村大河原も閑散としていた。もう出作りの旧村民も山を下りたのか。
その先の猫峠の道は全面通行止めだった。ハエ帽子峠の登山口の標示のある分岐に来た。今夜の寝場所探しになった。平地、水の確保、道路から隠れる、湿地でないこと、それに焚き火の枯木があることを条件に少し先まで走って見つかった。太い雑木林の木立の雰囲気が良い。早速、テントを張った。周辺から枯木や枯れ枝を集めた。枯れ枝を箒代わりにして落ち葉を掃きながらうずたかく盛り上げた。IKさんは川へ水汲みに行く。食材を並べて準備もした。少し早いが、落ち葉の山に古ダンボール紙をちぎって、着火した。湿り気はあるがすぐに着火してくれた。小枝を乗せ、火が乗り移ると、太い木や濡れた木もかぶせる。火力で湿気も蒸発する。何とか勢いがついた。
山猿の咆哮
近くで、山猿の、遠くには鹿の咆哮を聞いた。特に山猿は対岸の山腹がコロニーであるらしい。集団で吼えている。気味が悪い。火を使う我々を警戒中とも思う。鹿は妻恋の叫びだろう。
ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿 芭蕉
野生のプンプンする山奥の闇の中で、白菜、鶏肉、うどんを煮込んで食事を楽しんだ。どんな話も楽しい。
焚き火は寂しがり屋
時々は焚き火の火加減を見た。焚き火は寂しがり屋なのである。枯木を追加してやり、時にはウチワで仰いで酸素を強制的に送ってやらないと元気がなくなる。焚き火は何よりも人間の話を聞くのが好きなのである。焚き火を囲んで取り留めの無い話をするとまた勢いを取り返す。どんな話でも喜んで聞いてくれる。火力の衰えは話を催促するかのようだ。
そのうちに小型のパトカーが温見峠に向かって疾走していった。しばらくすると救急車、消防車が赤い回転灯を点けながら走ってゆく。何事か事故が起きたようだ。焚き火が終わりかけた頃、救急車が警笛を鳴らしながら町に向かって疾走していった。消防車などは回転灯は消灯して普通に還って行く。事故処理は終わったようだ。こんな人里離れた僻遠の地でどんな事故があったのか。
対岸の山腹から、再び山猿の咆哮が聞こえた。焚き火を処理してテントに入った。うるさいから早く寝ろ、と言わんばかりに聞こえる。
11/1は歴史の山路へ
寒い夜だった。テント内はびっしょり濡れている。冬用羽毛シュラフでも手を出していると寒い。もう初冬の寒さであろう。6時に起きてすぐに食事の支度に入る。昨夜の残り汁に白菜の残りなどを入れてまた煮込む。うどん汁の追加をすると味が良くなった。食べられるか心配したが殆ど残さずに平らげた。テントを撤収。ゴミともマイカーに積み込んで出発する。分岐付近の駐車地で準備中に尾張小牧ナンバーの単独登山者が着いた。早朝に出発したらしい。行先は同じだ。
登山口まではすすきや笹が刈り払われて4WD車なら何とか走れそうな車道を下る。難なく登山口に着いた。この切り開きは昨年の2014年は水戸天狗党の事件から150周年のイベントのためだったのだろうか。
ここから対岸まではロープが張ってある。事前に渡渉があることは伝えてあるのでそれぞれが工夫して渡渉した。名古屋市指定のゴミ袋を2重に登山靴の上から履いた人、ビニール製買い物袋を両足に掃いた人、単独の人は胸まである釣師御用達のゴム長、私は膝まであるゴム長だったが、渇水期なのでゴム長でも水は入らずに渡れた。
武田耕雲斎らの辿った山路
対岸で登山靴に履き替える。杉の大木の横の乳くれ地蔵を横目に長い尾根の末端に取り付く。全山自然林である。藪がややかぶさる程度の野生味のある登山道はかつての記憶そのままである。
水戸天狗党の武田耕雲斎ら800名は150年前の12月初旬にこの山路を乗り越して、越前国に入り、山伝いの村落をつなぎながら、敦賀市まで苦難の旅を続けた。800人というから先頭から最後尾まで1人分1m超の間隔とすると、ほぼ1kmの隊列になっただろう。馬もいたし、大砲も分解して運んだという。徒労といえば徒労の旅だった。苦労も空しく京都の徳川慶喜には会えず、越前藩は優遇してくれたが徳川幕府方に渡ると鯡倉に押し込められてその後は斬首にされた日本刑法史上最悪の結果になった。日本の夜明け前の暗さを反映したような事件だった。
シロブナの純林の道
ジグザグの急登が終わると、地形図に表現された尾根を忠実に辿る道と山腹を巻いてゆく道に分かれる。そこに朽木が横たわるが、知らないとそのまま山腹道を辿る。我々も往きは山腹を歩いた。標高が高まるとブナの自然林になった。木肌の奇麗なシロブナという。日本海側の樹種で純林を構成する。
気温が低いせいか、汗をかいているはずなのに爽やかな気分である。周囲は鮮やかな黄葉というわけではない。今年は雨が少なかったせいか、黄葉する前に枯れている葉も多い。十分な水分を吸いあげておればもっと美しいだろう。
シロブナの純林を堪能しながら歩いていくと、やがて、943mの道標を見た。傾斜が緩くなって歩きやすい。純林はここからが本番だった。そして県境に近づくと尾根がやせてきて、傾斜も急になった。峠道は尾根の左へ振る。すぐに稜線へ上がる近道の目印もあった。急な傾斜の山腹を横切るように歩く。すると谷にも道標があり県境へ行けるようだ。以前はここへ下りた記憶がある。
峠道は今までと違って、藪が繁り、歩きにくくなった。同行者らは野生味があると喜んではいたが・・・・。県境に沿うように横切って行くと地蔵が祀られている蠅帽子峠に着いた。水戸天狗党のことを書いた道標が立っていた。まだ新しい。そこで一休みした。峠に着く気分は格別である。
峠見ゆ十一月の空しさに 細見綾子
福井県側の山々は枯れ切っていた。IKさんが、あっ、あれは白山、と叫んだ。樹林越しに荒島岳も見えたが、冠雪した白山が見えて我々山旅人を喜ばせた。十一月の山ならでは風景である。空しいどころか、我々には嬉しい。部子山銀杏峰、姥ヶ岳、道斉山、堂ヶ辻山、屏風山も見える。越前側は完全な廃道らしい。かの天狗党は越前側に下るが、村々の家は焼かれていたという。係わり合いになるのを恐れたのか。
蠅帽子嶺の三角点へ
峠の越前側から尾根へ踏み跡が上がっている。これが三角点1037mに登る踏み跡だ。踏み跡はすぐに消える、又現れる、激しい藪に前途を阻まれながら3つばかりのピークを超えると三角点だった。先行の単独行者がいてあいさつした。落葉しているので見晴らしは良い。能郷白山が大きい。比高600mはあるから当然だ。
単独行者はコンロを片付けるとさっさと下山していった。又静寂が戻った。3人だけの世界になった。するとどこからか一頭の大型の蝶が飛来してきた。アサギマダラだった。まだこんな山奥に居るのかと驚いた。先だって三河の三ヶ根山で見たばかりである。秋の蝶は弱弱しいというが何のそのという感じだ。
我々も下山の時が来た。先ほど見つけた下山の尾根に下るポイントに戻り、激しいヤブ尾根を辿った。踏み跡程度だが結構な道のように思える。谷に直降するルートは見つからず、尾根を辿ると峠道に戻れた。地形図どおりである。漫歩気分でブナの純林の街道を下った。943mポイントをチエックした。IKさんが痙攣を起こして遅れたので休憩を取った。鞍部から右は先の方で倒木で塞がれていたから908mポイントへ軽く登った。誰もが記憶の無い道標だった。地形図の尾根を辿る旧来の道だった。広いために踏み跡が分散し、見失い勝ちになるが何とか凹んだ道形を探し、つないで下った。すると見覚えのある元の山腹道に合流できた。908mのピークを避ける道は後から付けられたのだろう。道の凹みは多くの旅人の足跡であろう。
合流地点からはしばらくでジグザグの道を下った。長い気がした。やがて谷の音が聞こえると、長い峠道も終わる。再び各自のやり方で渡渉した。車に戻ったのが14時10分。出発は8時10分だから丁度6時間のアルバイトだった。また膝の痛みがぶり返すかなと思いつつも充実した山旅を堪能した喜びが優った。
帰路は再び道の駅「綾部の里」に寄り、名産の柿の一袋を購入した。晩秋の美濃を後にした。
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