歴史街道・松平往還を行く2026年03月15日

  徳川家発祥の地である豊田市松平郷から菩提寺の大樹寺を結ぶ古道を松平往還という。墓参に利用されたらしい。平成30年に磯貝榮一氏が『消えゆく松平往還を歩く』という案内書にまとめて発刊された。奥殿陣屋で入手して読んでみてトレースを試みた。日本版ロングトレイルである。
 ピークは目指さず山里から山里へ歩く。順路は岡崎城または大樹寺から松平郷が終点になる。名鉄東岡崎駅から歩くと街歩きになることと時間の都合で名古屋からは標高270mの松平郷から同18mの大樹寺へ下る形の山旅になった。
 3月半ばになると午前5時半というのに明るくなった。地下鉄鶴舞線・豊田線の始発に乗車、豊田市駅には約30分の6時47分に着いた。豊田市駅はリニューアル工事でごった返していた。駅員に聞いてバス乗り場を教えてもらった。午前7時8分発の下山行きおいでんバスに乗車、R301を走って松平郷に7時38分に着いた。バス停から5分ほど歩いて松平東照宮と松平親氏像を拝観。本当は高月院に詣でたいが割愛してバス停へ戻った。
     松平往還の古道の入り口を迷走
 当初は林添(はやしぞれ)を経由して南下とイメージしていた。案内書の地図にR301を少しもどって稲荷大神を裾を経由して地形図では無名の高ノ山の山里を経由する赤線があった。しかも✖がある。稲荷大神の界隈へ戻って地図通りに行ってみたが沢筋までは古道を下れた。水田に当たって1mの鉄線のフェンスと2m以上ありそうなネットが張ってあり隙間はなく、戻るしかなかった。✖の意味は進めないということだった。
 R301から実線の車道に入った。舗装路ということで民家があるのだろう。狭い谷沿いの道はパッと開けて小さな中山間地に着いた。
 鶯の初鳴きが聞こえてきた。土場の先にマイカーを止めた家が一軒あったが無住という感じだ。さらに奥のどん詰まりに若い人がいて聞くと家人に伝えてくれた。地形図で数戸の人家の記号がある高ノ山は1戸のみだった。家人に聞くとここから松平郷までは歩道があり、また七売は子供の通学路だというのである。家人曰く東海自然歩道の道というが、調べると松平ウォーク「寅の径」というコースに絡んでいると分かった。
      高ノ山から古道を歩いて七売の里へ
 家人に教えてもらった道をたどると行き過ぎたので戻って水田記号との境の林道をたどるとまもなく尾根に登ってゆく印があった。ここが子供の通学路だったというのだ。踏み跡は消え入りそうだったが樹林下なので下草ややぶは茂っていない。すぐに神社記号の元神明神社に着いた。お堂は古びて倒壊しそうな気がした。石段を下ると七売の里だ。下る途中に寅の径の道標があった。これが松平自然歩道の独自のに設定された径だった。
    舗装路を歩いて滝脇へ(ここまでは豊田市)
 一旦は車道に下って淡々と歩く。石御堂、滝脇小学校は見聞したが、豊田市と岡崎市の市境の郡界川を渡る。下流に二畳が滝があるが割愛。案内書ではここまでがあおいの道であるがバスを下車してかなりのロスタイムがあった。
    渡通津町の山里へ松平往還の核心部を歩く
 郡界川からは岡崎市に入る。案内書の竹の道である。読みにくい難読地名だが「松平五代長親の歌の一部即ち「・・・渡り通い津・・・」から家康が名付けた地名」という。
 市道のどこかに渡通津町(わつづ)へ越える山道があるはずと思ったが何も目印はない。GPSの記号が示す所に多分送電線の巡視路と思われるセメントの道が登ってゆくのでそこに入ってみた。足元は荒廃しているが何とか登ってゆける。落ち葉の道について行くと広い巡視路に交わった。鉄塔巡視路の道標がある。下って見たが道路へ下る明瞭な山道は不明。この道を渡通津へ行くと確かに自然がよく残されていて新緑の頃は良いだろう。動画で見たのもこの辺だろう。地形図の実線の道が全コースを通じて自然度が高いという。やがて渡通津の中心地に下る。とはいえ、有人無人の数戸あるだけの過疎の山里である。
    新東名をくぐって米河内へ
 ここで少し腹ごしらえ。車道の急坂を歩いてマルタ園(レジャー施設)に向かう。途中から山の中へ入ってゆく。松平往還の案内板がある。この車道は中間地点で鎖がかかって車は通れない。駒立町に下り、また登り返す。唯生句碑が目印だったが見落とした。幸果園への目印を見落としてまた戻る。新東名の下を通過、幸香園を左に見てゆるり登ると射撃場へのゲートか。左の旧道(実線)へ行く。米河内までは荒廃しているがほぼセメントの道だった。
    大樹寺から愛環鉄道・大門駅へ
 米河内からは大樹寺まで立派な2車線の県道を歩く。今回は登山靴でもなく、スニーカーでもないがビブラム底の固い靴底で車道を歩いたから足裏が痛くなった。案内書では19kmとあるがヤマップの記録では喫茶店での休憩と道間違いの往復、道迷いのロスタイムを含めて、22.4km、8時間21分かかった。登山の原則である早立ち早着きを守って良かった。
 喫茶店で一服したりして無事に大樹寺に着いた。五平餅で小腹を満たし、愛環鉄道大門駅発16時17分の電車に乗れた。車窓からは愛知高原の山並みの突起である焙烙山と六所山が目立った。

与良木を走る2026年02月26日

 午後から新城市文化会館で会合。早めに出て、R153、R473、R420、R257から道の駅したらへ行く。天神山を歩いて見たかったがゆっくりもできないので又与良木トンネルを越えて与良木を走った。前回は急な左折をパスしたためにR257へ出る市道を走ったが古道の面影はなかった。
 今回は一旦パスして、やや広いところでUターン、やっと与良木の村落に入れた。赤い梅が満開だった。但し道路幅は4ナンバーでも一杯、しかも急坂だった。地形図の実線の道に入ろうとしたが、登りが急すぎて元の道にバック。すると後輪が空回りする。4駆に入れて脱出。その先でもヘアピンがあり一回では通過できなかった。
 後日下の道に車を置いて歩いて見たい。今回は後期伊那街道、先回は前期伊那街道になる。いずれも田口で合流する。一般道の崖にはかつての塩の道の馬頭観音がいくつも組み込まれて面影を残している。
 R257に出て新城市文化会館へ。4/18の総会へ向けて会の大綱を話し合った。新役員、規約の見直し等。帰路はR301.県道20.R1.県道39、同56を経て帰名。

磯谷栄一著『消えゆく松平往還を歩く』を入手2026年01月18日

 元旦には名古屋市から鶴舞線・豊田線豊田市駅経由おいでんバスで松平郷へ。そこから岡崎城までウォーキング。中岡崎駅から愛環で帰名の予定。ところが思わぬ風邪でダウン。
 5日に親戚の親子を連れて村積山ハイキング。あいにく奥殿陣屋はまだ休業。メールで本の在庫の有無を確認してあったので18日に書院を訪ねて磯谷栄一氏の労作である『消えゆく松平往還を歩く』を入手。その後渡通津町から滝山寺をドライブで偵察しました。
 当初は大給城址、岩津城址、信光明寺を絡めて歩く予定でしたが松平往還の方が山岳古道の趣きがある。
 さて何時歩こうか。

伊那街道の歩き方2026年01月15日

 年末に駆け込むように登った鞍掛山では多くのヒントが得られた。道の駅したらのPを拠点にして、まずは田口に向かって新しい伊那街道を歩いて登る。石畳もあるらしいので発見があると思う。田口からは荒尾、塩津に下って、小代、かしやげ峠、大代、四谷に下る。そこから216mポイントに下れば与良木峠へ登り返すだけだ。比高170m位なので大したギャップではない。峠を越えたら道の駅したらは近い。これで新旧の伊那街道を踏破できる。

厳寒の鞍掛山を歩く2025年12月27日

 名古屋を朝早く出発。ものすごく寒い。日進市で朝飯を食う。R153、R301、R420、R257と走った。新段戸トンネルを出てすぐの橋は凍結していた。他は順調に飛ばして道の駅したらに着いた。
 先週に引き続き、設楽町清崎の山を探って見たくなった。そこで図書館で明治時代、戦後、高度成長期の五万図をチエックして見た。清崎からかしやげ峠に突き上げる郷沢沿いの地形が緩斜面なので水田でもあろうか、記号が破線路なので歩けるならトレースして見たかった。かしやげ峠に突き上げて鞍掛山に登頂も悪くない。と大まかな案を立てて出発した。
 道の駅からしばらくは車道を歩く。野々瀬川沿いの道を行くと赤松神社を過ぎて郷沢に出合う。適度に踏み込まれた山道を想定していたが、なんだすべて舗装された林道である。橋を渡ると未舗装になる。あそこもここも水田の廃田が続く。
 林道の終点で郷沢沿いから離れて境界尾根と西尾根の間の緩斜面に作られた新しい林道を歩く。この林道からは立派な石組みが見えて来た。(下山後、地元の人に聞くと昔は渡邊いっけいさんの母親が住んでいたそうだ。)かつて生活があったという断片は一切なかった。石垣の上に入っても何も見当たらない。
 林道は石垣の下で終わった。そのまま散乱した上を行くと土管が見えて小代からの林道に突き当たった。白いガードレールも見える。林道歩きから境界尾根474に合うとかしやげ峠の道標があった。ここを登ると踏み跡があり辿ってゆくと鞍部を越えて左折。そのまま歩くと棒沢の源流部が見下ろせる。植林下、ゴーロはないので歩けるだろう。まもなくでかしやげ峠に着いた。
 ものすごく寒い中で一休み。早々休んでも居れず鞍掛山に向かう。ここから坂道が急峻になった。ゆっくりゆっくり高度を上げる。北風がまともに当たって寒い。足元には霜柱が立っている。急登をこなして883mに登頂。三角点が見当たらない。まあ良いか。最高所で一休みするが寒いのですぐに立つ。
 びわくぼ峠までも凍結で固い土をやり過ごしながら下る。峠からは荒れた山道を下る。断崖絶壁から氷柱が下がっている。下部に下っても傾斜がゆるくならず、東海自然歩道にしては手強い。やっと塩津の村に出た。あいにく県道、町道とも工事中だったが人間だけなら通れるよ、と地元民のアドバイスで車道を歩く。塩津温泉の宿が二ヶ所ひっそりと営んでいる。
 植林に囲まれてた車道歩きに飽きた頃、やっと清崎の外れに来た。棒沢の対岸の家に人が居たので聞いたら「郷沢」との回答。あそこが鞍掛山だよ、というので仰ぐとかぶさるような山容だった。郷沢から上って今、あそこから下って来たんです、と。再び道の駅へ歩み始めた。清崎まではいくらもない。

地形図に残された交通史~森林鉄道2025年12月26日

 設楽町の資源は森林と水である。昭和の初めの地形図には明治時代にはなかった田口鉄道のトンネルが印刷される。後には豊橋鉄道田口線に変わる。戦後の石油輸入が盛んになると自働車用に改良されて稲目トンネルに変わった。1958年頃にはスバルのテントウ虫が発売、続いてトヨタのパブリカ、日産のサニー、トヨタのカローラでモータリゼーションの波が来ると鉄道は衰退する。
 田口線の終点は田口から寒狭川に下ったところに田口駅があった。昔は津具村で算出した金鉱山も運んでいた。田口線田峯駅から当貝津川沿いに森林鉄道の支線が張り巡らされた。更に栃洞線、最奥の鰻沢線が伸びた。鰻沢の源流は出来山という。鰻沢を遡行して出来山に登った。この時も源流部には森林軌道の跡が残置されていた。橋脚、沢沿いの軌道は美しいアーチを描く石垣が続いていた。これを見ると伐採作業員、鉄道の機関士、石工等多くの働き口を提供したであろう。
 トラックの時代になるとこれらは一気に何事も無かったかのごとく消え去った。古いトンネルだけは壊さずに残っている。

奥三河・冬枯れの無名の山を歩く。2025年12月19日

 明日明後日は悪天候というので気になっていた三角点「連合」のピークハントに来た。与良木峠(370m)は伊那街道の古い峠道である。クルマでトンネル迄走って見た。
 生成AIの回答(一部編集)は「南設楽郡鳳来町(現新城市)の「与良木(よらぎ)」の地名由来は、「与良木」が元々、鳳来寺の氏子圏だった小野村(現在の連合地区)の別称」だそうです。与良木隧道は「明治27年(1894)に作られた。当時の原形を留めており、愛知県最古のトンネルである。長さ35m、道路幅5m、車幅4m、高さ5m。設楽町側の扁額には、草書体で上段に「北設楽」、下段に「よらき隧道」と記される。新城市側の扁額には、楷書体で上段に「南設楽」、下段に「與良木隧道」と記される。新城市側の坑門は明治の頃の姿を残している。内部はコンクリートで修復されているが、元々は素掘りだった。後略」
 三角点の点名の連合も「元々は別の集落や地名だったものが、明治の市町村制施行やその後の合併を経て、この地域一帯の集まり(連合体)のような意味合いで「連合」という名称が使われ、それが大字名として残った」と回答があった。
 設楽町側からトンネルを通過して旧鳳来町側の山側に杣道を探して見た。△494.8mの真東まで実線の林道を走ったが無いので設楽町側まで引き返す。
 峠まで登る山路は残っておらず、危うい踏み跡をたどった。馬頭観音の碑が確かに古い峠だった証を示す。設楽町と新城市の境界尾根に立った。峠から東へは明瞭な踏み跡が登ってゆくのに「連合」へはない。境界尾根は幸いに植林の疎林であり、ヤブもないのでそろそろ歩いていく。「連合」は南北に長い尾根の南端にあり、境界尾根が北端につながったところの獣道を急登すると460mの等高線に達する。ここで約40分なので水を飲もうとしたらペットボトルを忘れた。
 三角点までの約500mの尾根も疎林で多少の低灌木はあるが痩せ尾根のために障害はない。明るいので岩場からの展望を期待したが灌木に囲まれて見えない。東は樹林越しに仏坂峠から宇連山辺りの稜線が見える。西には龍頭山だろう。三角点は土に埋まっていた。地形図では無名なので誰も登って来る人がいないのだろう。しかし、無名であるはずはなく、地元では命名されているだろう。ヤクルトの空容器の分岐まで戻る。登った獣道がこんなに急だったか、と思わせるほどの急斜面を下って鞍部に立つ。峠まで戻っても良いが鞍部から谷を降りてみた。カール状の源流部の急斜面は杉の立木や灌木の根元を支点にゆっくり下る。間伐材が散乱する谷底まで来ると足元は安定する。林道に出て峠まで戻った。
 峠から地形図の実線の道を少し歩いて見たら水田の廃田のところで引き返した。峠へ登り返して危うい踏み跡を下った。
 実線の道を行けば410mのコブの右の小さな峠を越えたところが与良木だ。水線が複雑に入り組む地形では湧水が豊富なのだろう。だから水田耕作が出来たのだ。又南向きの斜面は作物の生育には良い。米が採れれば建物の記号が固まってあるから結構人が住んでいたのだろう。隣の四谷は棚田で知られる。清崎を流れる豊川の支流の野々瀬川の支谷が境界尾根を越えて四谷の源流部に食い込んでいる。地形図を眺めていると不思議な地形だから再び来てみたい。 
 帰りは道の駅したらに寄って遅い中食にした。絹サーモンを注文したが売り切れという。一日五食というレアなメニューである。あれは豊邦というところで養殖していた気がする。代わりに鮎のフライ定食にした。3尾の鮎が開かずに丸ごと揚げてある。頭からかぶりつくが骨が硬いので食べにくい。味はまあまあ。たっぷりのキャベツも良い。

山岳古道のミーティング2025年12月02日

 今夜は山岳古道のWEBミーティング。これが最後の会合になった。個人的には2023年5月1日に尾鷲古道の踏査を終えてから、色んな雑用が一気に押し寄せてきてストップしたままになっている。年内が締め切りというので入力を急がなくならない。

三ヶ日町平山からの荒廃した平尾山往復2025年11月22日

 計画では本坂峠の静岡県側にマイカーをデポ。姫街道を峠まで40分歩く。峠からは坊ケ峰を越えて平尾山まで縦走約90分、4等三角点のある中山峠乃至旗振山に登る。①東への尾根を辿って三ヶ日町平山へ下山。②4等三角点から南へ尾根の破線路を辿って三ヶ日町本坂へ下り、マイカーのデポ地へ歩く。の二案を考えていた。
 静岡県へ行く前に嵩山に来たのでR362から左折して姫街道の旧道に寄る。ここには本陣の屋敷がある。姫街道の新しい石標も立っている。
 実際には本坂トンネルを抜けて静岡県に入ると上空は厚い冬雲が北へ流れている。つまり太平洋の湿った空気が北の冷たい空気に混じり雲になったのだ。これでは富士山は見えない。もっと冷えて冬型の気圧配置にならないと富士山は見えないだろう。
 というわけで、平尾山と4等三角点の踏査だけに絞った。一旦はR362を下って左から宇利峠を越えて来たR301と出合うところまで来た。前方にバローが見えたので食料品を買い足した。三ケ日ミカンが豊富に並んでいるので一袋買う。
 店を出て三差路に戻り宇利山川に沿ってR301を走る。途中で平山奥へ行く車道に左折。中山峠の東尾根の末端に来た。周囲はたわわに実った蜜柑山だった。軽自動車も一杯止まっている。標高は110m。その一角に停めさせてもらって蜜柑山の作業道へ入って登る。
 作業道はセメントで舗装されている。見た目以上に急坂ですぐに息が切れる。北東には富幕山がどっしり見えている。地形図の実線の終点で標高200mの等高線の手前に道標が見えた。車道から滑りやすい斜めの道とも言い難い道を登る。蜜柑山側は電線なのでうっかり触れることもできない。
 すぐに左への隙間がある。かつては尾根道があったのに蜜柑山の整地で削られたのであろう。手入れのしていない桧の植林の中の廃道というか荒廃した感じのルートを探りつつ登る。倒木あり、枝も散乱する歩きにくい道である。
 幸い赤テープのマーキングはある。等高線がゆるくなると道もはっきりしてきた。息苦しさも慣れてきて約30分のところで一息入れた。すると人工林の中の尾根にも関わらず大径木が林立する。樹木名は知らないが常緑照葉樹林でブナ科の仲間であろう。母樹として伐らずに残されているのだろう。嵩山の山上にも数多見た樹種だ。
 地形図に実線のある林道と交差した。古い道標が割れて落ちていた。林道を見送ると尾根に取り付くが右へ新たな林道が出来ていた。この林道はすぐに大きく段差が掘ってあり車が通行できないようにしてあった。左の尾根に踏み跡を探すとかすかに続くのが見える。明瞭ではないが何とか歩ける。地形図の中山峠の印刷の「中」に着く。赤テープと薄い踏み跡が北と南に別れるので南に振った。一旦は掘割のような地形の鞍部に降りた。これが本来の中山峠であろう。向こうにも踏み跡が続く。破線路の尾根には赤テープが断続的に見えるので容易に4等三角点にたどり着いた。展望はまったくなし。ここがかつては旗振山と呼ばれた場所だろうか。嵩山の山上からここで旗振りの相場の情報を読み取り、また東の方の中継点へ伝えたという。
 南へはかすかに切り開きもありそうな気がするので下山路に使える。下りきれば三ヶ日町本坂に着く。
 踏み跡を戻るが鞍部から左下へ幅のある山路が下って行く。たどると中山自然歩道と県境縦走路の交差する地点だった。ここも中山峠という。ここから5分県境縦走路を登ると先ほど別れた地点に着く。更に20分で平尾山の山頂だった。13時20分登頂。ここも展望なしで詰まらない山頂だ。13時30分下山開始。分岐点に下って「中」からは元の尾根を下った。
 蜜柑山には多数のミカン狩りの女性らがいた。業者もハサミで切り取りながら積み込んでいた。今がミカンの取入れの最盛期なのだろう。ナビで本坂へ下った。愛知県に戻ってまた国道を帰名した。

本坂峠から富士見岩ハイキング2025年11月18日

 10月3日の坊ケ峰に続いて18日も午後からの所用で新城市へ。午前中をフルに使って先月の心残りの本坂峠から富士見岩の間の部分を歩いた。先月は峠直下の旧トンネルまで車で上がったが今日はR362のトンネル手前にP。しばらく車道を歩くとR362の下をくぐってすぐにトイレがある。ここで左が姫街道、右が嵩山の蛇穴へと行く。
 車道を歩くと行き止まりになるので戻って、山側に続く踏み跡をたどると国の史跡に指定された嵩山(すせ)の蛇穴だった。ここには嵩山自然歩道の道標がある。自然歩道は桧の植林で手入れがされて美しい冬木立になっている。歩いて行くと浅間神社への分岐、姫街道への分岐を見送り、頭浅間の古社のある稜線(豊橋自然歩道)に到達した。途端に強い北風が吹きさらされて寒い。
 ここまでが1時間弱でベンチで休むと冷えるのですぐ南に向けて歩き出す。愛知県側は桧の人工林だが静岡県側の境内周辺は常緑照葉樹林が覆う。この植生は427.2m(4等三角点:本坂峠)を越えてもしばらくは続く。かつて日本列島の西南はこのような植生が占めていた。樹齢の古そうな太い幹も多い。保全されているのだろうか。
 柴田明彦『旗振り山と航空灯台』(ナカニシヤ出版。令和3(2021)年出版)によると米相場の情報伝達の場として嵩山の山上とだけの記載があり、427.2mの本坂峠のピークを推定されている。周囲より20m以上高いのでそうかも知れないが現状は愛知県側は桧の人工林が高く、静岡県側は前述の通り照葉樹の高木が生えている。ただ三角点の先が膝くらいの笹原になっている。そして静岡県側に広い地形は想定通りか。ここ以外に良い場所はない。ここから中山峠の南の旗振山(点名:中山峠。393m)につなげるのは無理がない。
 嵩山町側へのバリルート(破線路)の案内もある。常緑照葉樹林から抜け出すとパッと明るくなり、下り気味に歩いて登り返すと富士見岩だった。南側に回って岩に攀じ登り素晴らしい展望を得た。眼下には三ヶ日町の猪鼻湖、広大な浜名湖は冬の太陽に鈍く照り返し光る海に見えた。山の中の山も良いが海の見える山も良い。
 冬晴れには違いないが遠方は冬霞ではっきりしない。それでも黒っぽい富士山が見えた。まだ雪が少ない。これで一応の目標は達成できた。
 下山時は12時30分。新城市の歴研の会合まで1時間あるが昼食を食べている時間は無さそうだ。ナビを見ると27分とあった。信号が殆どないから早い。途中、次郎柿の露天売り場が続くのでつい一袋買った。200円で6個は入っていた。13時20分に無事会場入りできた。
 会議後、100km先の奥大井の山を予定していたが冬型の気圧配置の影響か冷たい雨がぱらついて中止にした。名古屋への帰途はR23に周ったが刈谷市周辺から大渋滞。東名高速も豊田市周辺が大渋滞だったらしい。R301が良かったかな。R23は刈谷で降りて徳重経由で帰った。