俳句7句を書きだす2025年11月02日

 10月中に作った俳句を整理してみた。10/10の山上ヶ岳、坊ケ峰、緑区の毘沙門天と外に出る機会が多くあったので俳句の数は確保できた。

緑濃き毘沙門天や神の留守2025年10月27日

 名古屋市緑区の徳重熊野社の奥に毘沙門の名称の最高点85mがある。地形図では独立標高点に表記されている。
 土日ともぐずついた天気だったが本日は秋晴れが広がった。
 緑区の毘沙門天を目標に自宅からウォーキングを開始。天白川の堤高15m地点から天白公園の近くを抜けてR302の交差点で標高70m、比高55mの緩斜面の車道を登った。さわやかな空気で汗はかかない。ゆるりと下って三叉路で熊野社の境内に突き当たるので細道を探しながら半周した。結局神社とのフェンスで参詣路は無く、反対側にある毘沙門天王参拝路の石碑から直登した。
 ヤマトタケルの様な石像が建っている。今回で2回目の登頂である。社叢は密集していて景色は隙間も無い。但し小鳥の鳴き声が盛んに聞こえる。野鳥の営巣地だろうか。
 ヤマップの高度計は80m、カシオの高度計は100mとバラツキが出た。近くには国土地理院の標柱が落ちているので計測はしたのだろう。
 良い道が熊野社へ向かって下っている。社叢の密な光の差さない道を下ると熊野社の社殿に着いた。毘沙門天への道標まであった。
 社殿に参拝後長い階段を下って街に出て、喫茶店の支留比亜でウォーキングを打ち切った。自宅までは原行きのバスで戻る。1時間50分のウォーキングもバスなら15分で原駅。

あをによし奈良の高市早苗氏は女性で初の総理の座に立つ 拙作2025年10月20日

 公式のプロフィールは以下の通り
〇1961年(昭和36年)3月7日生まれ
〇奈良県立畝傍高校卒業
〇神戸大学経営学部経営学科卒業(経営数学専攻)
〇 (財)松下政経塾卒塾
〇 米国連邦議会Congressional Fellow(金融・ビジネス)
〇 近畿大学経済学部教授(産業政策論・中小企業論)

・・・現在64歳というから政治家として油が乗って来たところ。

 基本理念
 日本を、守り抜きます!
 高市早苗は、国の究極の使命は、「国民の皆様の生命と財産」「領土・領海・領空・資源」「国家の主権と名誉」を守り抜くことだと考えます。

 激甚化している自然災害の被害を軽減するための防災対策の促進、サイバー防御体制の樹立、領土・領海・領空・資源を守り抜ける国防体制の構築、経済安全保障の強化、紛争勃発時における在外邦人の迅速な救出を可能とする体制整備、北朝鮮による拉致被害者の帰国実現、国内外におけるテロリズムや凶悪犯罪・新技術を悪用した犯罪への対策強化など、取り組むべき多くの課題が存在します。

 高市早苗は、引き続き、「リスクの最小化」に資する制度設計に取り組んでまいります。



 直近(2024年)の自民党総裁選挙や衆議院選挙では、「食料安全保障の確立」「エネルギー・資源安全保障の強化」「健康・医療安全保障の構築」「令和の国土強靭化対策」「サイバーセキュリティ対策の強化」「新たな戦争の態様(宇宙・サイバー・電磁波領域、無人機、極超音速兵器、自律型AI兵器)にも対応できる国防体制の構築」「日本の防衛施設の強靭化(電磁波対策・地下化等)」「人工衛星と海底ケーブルの防御」などを重点的に訴えました。

 また、国家の名誉を守るための法制度整備(議員立法:党議決定した刑法92条改正案の国会再提出等)への挑戦も続けます。

 「総合的な国力」を強くします! そのためには「経済成長」が必要です。
 今は、「総合的な国力」を強化するための取組を迅速に進めるべき時だと考えます。

 高市早苗は、「国力」の要素を、「防衛力」「外交力」「経済力」「技術力」「情報力」「人材力」の6つだと考えています。それらの強化に必要な政策を構築していきます。

 この6つの力を強くするためには、「経済成長」が大前提です。

 経済のパイを大きくするために、日本に強みがある多くの技術の社会実装とともに、勝ち筋となる産業分野につき国際競争力の強化と人材育成に資する戦略的支援として、「成長投資」の必要性を訴え続けています。

 日本列島を、強く豊かに! 地方の大きな「伸び代」を活かします。
「47都道府県どこに住んでいても、安全に生活することができ、必要な医療・福祉や高度な教育を受けることができ、働く場所がある」。高市早苗が目指す日本の姿です。

 かけがえのない生命を守るために、全国各地の防災対策・防犯対策を強化します。

 そして、地方には、大きな「伸び代」があります。

 農林水産業・製造業・サービス業をはじめ幅広い産業分野において「新技術立国」に向けた投資を促進するとともに、そのチャレンジを担う人材を増やし、絶え間なくイノベーションが起き、日本列島の隅々まで活発な経済活動が行き渡る国を創るために力を注ぎます。

 「全世代の安心感」を、日本の活力につなげます!
人生100年時代と言われますが、「シニア世代の方々が幸せで輝いて見える」ことは、「若い世代の方々の将来への安心感」に直結します。

 「全世代の安心感」を創出することによって「消費マインド」は改善し、日本経済の活力につながります。

 「経済的事情や障碍によって進学や就職を諦めない」「結婚や出産・子育ての希望を諦めない」「介護離職等でキャリアを諦めない」「更年期や高齢期特有の不調、障碍や難病によって社会活動を諦めない」で済む環境整備を目指します。

 社会保障制度の安定性と継続性を確保するためにも、「経済成長」による強い経済が必要です。

 「自立と勤勉の倫理」が重んじられる「公正な社会」を創ります!
支え合いの制度である社会保障は、勤勉に働いて税金や社会保険料を負担してこられた多くの国民の皆様のご努力によって成り立っています。

 「本当に困った時には十分に活用していただけるセーフティネットを確保すること」「経済成長により、雇用と所得を増やすこと」を前提に、「不正利用」は許しません。

 日本人の矜持である「自立と勤勉の倫理」を取り戻し、法制度の内容や執行の「公正性」を担保し、「努力をした人が報われる社会(働く意欲を阻害しない制度設計等)」を構築するために頑張ります。

 「機会平等」を保障する制度設計への挑戦を続けます!
国の様々な制度設計については、「行き過ぎた結果平等」を廃し、「機会平等」を保障するべきだと考えています。

 「ジェラシーに立脚した法制度」が増え過ぎると、優れた人材も企業も育ちません。

 むしろ、「リスクをとってチャレンジした人や企業が報われる環境作り」「出る杭を伸ばす発想への転換」こそが、可処分所得を増やし、人材流出や産業空洞化を防ぐ鍵だと確信します。

 国家の基本である「教育」を充実させます!
教育は、国家の基本です。

 家庭と教育機関と社会がそれぞれの責任を担い、毅然と教えるべきことを教えることによって、日本が直面する課題の多くが解決に向かうと確信しています。

 第1次安倍内閣が60年ぶりに『教育基本法』の改正を断行したことは、当時の答弁担当閣僚の1人だった高市早苗にとっても大きな喜びでした。

 教育の目標として、「道徳心」「自主及び自律の精神」を培うとともに「勤労を重んずる」「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参加し、その発展に寄与する」「生命を尊び、自然を大切にし」「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」態度を養うことを記しました。「家庭教育」の規定も新設しました。

 『教育基本法』の改正を受けて、関連法の改正や学習指導要領の改訂も実施されましたが、教科書記述内容や教育現場での取組への反映は不十分だと感じます。

 高市早苗は、『改正教育基本法』の崇高な理念が完全に活かされる日まで、教育改革への挑戦を続けます。


 更に、時代の要請に応えられる人材育成に、力を入れます。

 新たな技術領域への対応力を強化するとともに、実学重視のルートの多様化、研究者の処遇改善と活躍の場の確保に取り組みます。

 日本の国際社会におけるプレゼンスを高めるために、国際機関で活躍できる人材の育成にも、注力します。

また、地域ぐるみの「防災教育」「防犯教育」「消費者教育」「情報セキュリティ教育」「食育」「スポーツ」「文化芸術活動」を応援します。

 そして、行政の支援策を活用することができないまま、生活に困窮して亡くなる方や、育児や介護の負担に耐え切れなくなる方や、進学を諦める方を減らすために、学校教育や社会教育の場において「社会制度教育」を充実させることを提唱しています。

 「今を生きる日本人と次世代への責任」を果たします!
高市早苗は、技術革新、安全保障環境や社会生活の変化など、時代の要請に応えられる「日本人の手による新しい日本国憲法」の制定を目指しています。

 天皇陛下の「権威と正統性」の源である「皇統」をお守り申し上げます。

 公務死された方々に、尊崇の念をもって感謝の誠を捧げ続けます。


 政治姿勢
1、議員立法にこだわり抜く
高市早苗の強みは、議員立法です。 

日本が直面する可能性があるリスクについて、誰よりも早く情報収集と分析を行い、「備えとしての法整備」を進めるべく、多くの法律案を起草し続けてきた実績には、自信と誇りを持っています。

しかし、立法作業の過程では、幾度も現行憲法の制約による限界に直面しました。

新たな『日本国憲法』の制定を目指すとともに、これからも議員立法活動に力を尽くします。 

2、信念を貫き、ポピュリズムに抗する
基本的に、任期中は、直近の選挙でお示しした自民党の『政権公約』や候補者として『選挙公報』に記した公約に、忠実に行動します。

しかし、国会では、日々多くの政策判断を求められます。

『政権公約』の記載事項以外に関する判断については、国民の皆様から負託を受けた者として、お示しした基本理念に照らして、信念を貫かせていただきます。

一時的な世論の動向とは違った行動をすることもあるかとは存じますが、何事についても可能な限り多くの情報を集め、様々な立場の方からご意見を伺い、多角的な視点を失わずに、国家国民の利益を最大化するために正しい判断ができるように、努めてまいります。

「次の選挙よりも、次の時代を考える」と、心に決めています。
以上
・・・高市事務所からの入党者が18000人と伝え聞く。凄いことです。支持基盤はポピュリズムというから一般大衆からの声に耳を傾けることと理解する。労働組合、宗教団体からのいわゆる組織票はないので法律を作る能力がいっそう求められる。労組基盤だと貴族化してしまうがポピュリズムは働き続けることになる。

廃線の鉄路錆び行く秋の風 拙作2025年10月19日

 御船湿地での所見。

貧しさを定めに生くるシラヒゲソウ 拙作2025年10月18日

 18日は近場の山へ、と考えたが台風の影響で不順な天候。矢並湿地のシラタマホシクサを見逃したのでシラヒゲソウの御船湿地に行った。開花期の盛りは過ぎていたが若干の花が見られて良かった。
 栽培植物は施肥で作物を育てる。このシラヒゲソウは湿地帯と言う貧栄養の環境でないと生きられない。乾燥化するとライバルの種に負けて消滅する。微妙なバランスの中で保たれている。
 奥へ登ると御船石に到達。その上には三河線の廃線があってちょっとサプライズだった。鉄路も敷設されたままだ。西中金駅と猿投駅間は2004年に廃線。
 足助の街は紅葉期の間は最も賑やかで猿投グリーンロードは大渋滞する。名古屋と足助には直通のアクセスは無いが地下鉄から豊田線梅坪駅乗換で西中金駅まで行けたはずですがバス乗換では利用者は無い。やっぱり足助まで鉄路をのばすべきでした。或いはリニモ八草駅からモノレールを延伸できないかと夢想する。
 狭いのですぐ巡回してしまった。稲武のタカヤド湿地の様子見に行ったが未だ青かった。帰りにはパラパラと雨も降って来た。飲食店に入るためにクルマから降りると座席にマダニが見えた。さては湿地帯でやられたか。廃線から下る際に伐採地を通過した。嫌な予感が当たった。

一袋五つ地物の柿を食ふ 拙作2025年10月16日

 日進のJAの食料品売り場のリニューアルオープン後で初めて買い物をした。野菜、もち米のおこわ弁当、一袋5個入りの柿も買った。今年初の柿を剥いて食べた。

大峰山脈・山上ヶ岳に登る。2025年10月10日

 10/9の夜は大淀町の道の駅吉野路大淀センターで仮眠。軽自動車なので窮屈だったが丸まって寝た。
 10/10の午前5時に出発、R169からR370,R309とナビ任せで泥川温泉に導かれた。ごろごろ茶屋駐車場に着いたがまだ奥があると走ると913.1mの三角点のあるPが広がっていた。店舗はあったが無人、封筒に1日1000円を入れて投函する仕組みだった。支度を整えておにぎり1個をお茶で流し込んで出発。橋を渡ると女人結界の石柱が建っている。1300年の歴史があるから前近代的とは言うなかれ。
 登山道はゆるやかに整備されている。一の世茶屋はすぐに着く。一本松茶屋までは山腹を縫う道で歩き易い。更に先の洞辻茶屋で稜線に上がる。谷間から尾根上に登って明るい。吉野方面から大峰奥駈け道が合わさる。この道は熊のへ続き世界遺産ともなった奥駈け道である。小屋で休んでいたら一人東京から来て奥駈け道を目指したが雨で引き返す途中だった。世間話に花を咲かせていると1時間の長休みになった。
 稜線になると自然も豊になる。左右二手に分かれた道は左へ。先の人が慎重に、とアドバイスしてくれたが、重装備だから慎重になったのだろう。我々は日帰りで軽いから心配はいらない。
 鐘掛岩には鎖場まで立ち寄ったが霧で引き返す。登山道は平坦になった。西ノ覗岩も霧でパス。平坦ながら岩場の通過があるので捗らない。その内宿坊の立ち並ぶ一角に着いた。大峰山寺の手前まで来たのだ。古い宿坊の軒先にザックを置いて空身で山上に登った。境内に着くと左が本堂だった。右の高まりがあるので細道を行くと背の低い笹原の中にお花畑と山頂の看板が立つ。左折して笹の小径を歩くと一等三角点のある山頂だった。その奥は聖蹟、右は湧出岩の石柱が建つ。どうやらこれがシンボルらしい。
 登山者としては一等三角点の大峰山上に関心がある。1887(明治20)年埋設。補点である。奈良県の一等三角点は8座あり、これで6座登った。大峰山系では釈迦ヶ岳、玉置山に次ぐ三座目になる。釈迦ヶ岳は東のコブシ嶺から眺めると三角錐の立派な山容だがこの山は望岳した覚えがない。それも今になった理由である。
 釈迦ヶ岳は三十代に登った。西行法師が小夜の中山で詠んだ和歌
   年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山
 私もまた後期高齢者になってから登りに来れるとは。命があればこそこうして霧を突いて登山出来た。
 霧の中で長居は出来ない。霧しょんべんといってずぶぬれになりそうだ。先の宿坊へ戻ってザックからおにぎりを出して食う。冷涼な自然の中では喉の渇きもないからお茶もまだある。来た道を戻った。二手の道は板の階段道で滑りやすいので慎重に下る。洞辻茶屋で休憩。ここで稜線から谷筋の道へ入る。雰囲気が随分変わる。水飲み場にはソーメンが落ちている。これが不潔感を誘うので手を洗うにとどめた。きれいに使って欲しい。
 歩き易い道になるが先は長い。そんな倦んだ気分を変えてくれたのは鹿の啼き声だった。
    遠くよりな滑りそと啼く鹿の声    拙作
 ※な~その間に連用形、未然形の動詞を入れると軽い禁止になる。
 足もとに気を付けて滑らないように下りなさい、と山の主のような鹿が導いてくれるかに聞こえる。最後の茶屋を見て一段と歩き易い山路まで来るとPに出た。やっぱり我々の車だけあった。支度して動き始めると軽自動車のパトカーが来て我々を見るとUターンしていった。誰かが6時頃から15時30分ごろまで動かない車があうるよ、と警察に通報したんだろうか。ごろごろ茶屋には多数の観光客が居た。さらにくだると昭和レトロな洞川の商店街に出て帰りたくなくなった。結果、柿の葉寿司を購入、洞川温泉に入湯したりとミニ観光で余韻を楽しんだ。
 R309に戻ると奈良の複雑な道路網を抜けてようやく名阪道路に入れた。

名月を見上げれば句が駆け回る 拙作2025年10月05日

 夜になってから用事で外に出るとくっきりと月が浮かぶ。空気が澄んでいて名月の句が駆け巡る。

世にすみし姿をかへて荒川の蘆穂の蓑に身をや隠さん 岩瀬忠震2025年08月16日

 幕末の1861年8月16日死去。別の冊子には7月11日とある。享年44歳。

 明治16年4月に忠震旧臣の白野夏雲が向島白髭神社境内に「岩瀬鴎所君之墓碑」を建立。

 昭和57年11月に横浜本覚寺境内に「横浜港開港の主唱者」の碑が建立された。

 昭和61年4月に忠震ゆかりの地、新城市の勝楽寺に「岩瀬肥後守忠震顕彰之碑」が建立された。

病床にエベレスト記読む立秋忌2025年08月08日

 8/8は普羅忌または立秋忌。前田普羅は明治(1984)年生まれ。少年期から自らを山恋の病というほどで志賀重昂『日本風景論』を愛読して登山を覚えた。
 早稲田の同窓でもあった飯田蛇笏から山梨県の山を詠んだ山岳俳句「甲斐の山々」5句が高評価された。40歳前後の関東大震災後は富山に移り住んだ。戦中は空襲に追われて命からがら生き延びた。
 昭和4年、報知新聞社の記者を退職して、金沢で創刊された「辛夷」の初代主宰を引き受けて俳句指導に乗り出す。昭和5年に『普羅句集』刊行後、地域別の句集『春寒浅間山』(昭和18年)、『飛騨紬』(昭和22年)、『能登蒼し』(昭和25年)を発刊。
 晩年はいなべ市に住居を移す案が弟子らで画策されたが戦後のインフレで敵わず立ち消えになった。東京に転居。病床にあってもエベレスト登山記を弟子に取り寄せてもらって読むなど山岳への憧れは衰えることがなかった。享年70歳。
 昭和29年8月8日死去。

 以来普羅忌が詠まれるようになった。ネットからのコピペ
雀きて滴おとせり立秋忌/井上雪

ひと雨のまた笹に鳴る立秋忌/井上雪

人参木咲いて普羅忌へ孫弟子ら/中西舗土

走り咲く萩に普羅の忌来りけり/飯原雲海

鯉こくの食ひたき日なり普羅忌なり/石田波郷
・・・秋桜子の師系の石田波郷は普羅句の韻律を重んじた。

楢櫟霧呼んで普羅の忌なりけり  石田波郷