『山水の飄客 前田普羅』を読む2016年04月01日

 著者:詩人・正津 勉(しょうづべん)アーツアンドクラフツ刊。
2016年1月31日。1800円+税。

 書名の飄客はひょうかくと読む。飄だけならつむじ風の意味だが、客が付くと、遊里で浮かれ遊ぶ者、放蕩者の意味がある。山水の、とあるので山と渓谷に遊ぶ放蕩者というイメージだろうか。

 これまでに私が知る普羅の関連書は
普羅の師系では
・中島正文編『定本普羅句集』辛夷社 1972年
・・・中島正文は普羅主宰の「辛夷」の2代目の主宰 没

・中西舗土『前田普羅 生涯と俳句』 角川書店 1971年
・中西舗土『鑑賞 前田普羅』 明治書院 1976年
・中西舗土『評伝 前田普羅』 明治書院 1991年
・中西舗土編『雪山 前田普羅句集』ふらんす堂文庫 1992年 
・・・中西舗土は結社「雪垣」主宰 没

・中坪達哉『前田普羅 その求道の詩魂』 桂書房 2010年
・・・中坪達哉は普羅が主宰していた「辛夷」4代目の主宰

・『渓谷を出づる人の言葉』 能登印刷出版部 1994年
・『前田普羅/原石鼎』 新学社近代浪漫派文庫 2007年

師系以外では
・岡田日朗『前田普羅』 (蝸牛俳句文庫)蝸牛社 1992年
・・・岡田日朗は結社「山火」2代目の主宰

 俳句雑誌には度々、出ているが特に切抜きもしていないので分からない。上記を眺めても普羅の俳句は結社を越えて愛されていることが分かる。それだけの魅力があるからである。

 普羅の弟子だった中西舗土は「風」の沢木欣一から勧められてジャーナリストらしく生い立ちから晩年まで詳細に追って普羅研究の第一人者となった。中島正文は富山県のJAC会員で北アルプスの郷土史家であった。普羅死後の「辛夷」を継承。小島烏水と同時代人である。中坪達哉は氷見市出身で「辛夷」直系の俳人。岡田日朗は「山火」の福田蓼汀の弟子。
 2010年の中坪達哉の『前田普羅 求道の詩魂』以来、久しく絶えていた普羅の関係書が出版された。
 この度の正津氏の著作は登山の実践もする行動的な詩人の視点から書かれた。内容的には中西舗土の研究書に負うところだ大きかったらしい。順を追って読み進めるとそう思う。既刊の著とどこが新しいのか。細部はともかく、特別にここが新鮮という箇所はない。興味を覚えた箇所に付箋を付けてみた。

 石橋辰之助との比較においても調査不足からの性急さを感じる。
 岡田日朗『雲表のわが山々』東京新聞 (1987年)には石橋辰之助に言及した部分があるが参照されていない。石橋の友だった俳人はクライミングの実践に疑問を投げかけている。日本初の山岳俳句の句集「山行」は昭和10年、日本初の岩登りテキストは藤木九三『岩登り術』で大正14(1925)年。RCCが発足したのは大正13(1924)年であった。当時の指導体制を考えるとそんなに早く上達するものだろうか。岩登りの俳句に関してはRCCのクライマーを写生していたのではないか。
 1909年生まれで1935年に処女句集『山行』を出版。何と26歳だ。手元にその古書がある。粗末であるが出版は今も当時も金がかかる。但し、辰之助の魅力は近代登山を活写している点で人気が高く疑問視されていない。著者はここも世間の評価をそのまま疑わずに踏襲している。
 辰之助の『山行』を「普羅は、おそらくきっとこれを無視できなかっただろう。」と書くが、普羅は当時51歳である。25年もの年長者がそんな感懐をもつことはないと思う。
 P83の”山吹や寝雪の上の飛騨の径”の寝雪は辛夷社の『普羅句集』では根雪であり、中西舗土の書籍はすべて根雪だ。『前田普羅/原石鼎』 (新学社近代浪漫派文庫)は寝雪になっている。著者は手に入らないことを理由にこれしかない、としてベースにされているので間違いをそのまま踏襲されたのだろう。寝雪を普羅のこだわりとして、文中、寝雪であり、根雪でない、と断っているのは明らかな誤解である。

 この種のミスは多く、以前も、俳句歳時記に引用された普羅の”春尽きて山みな甲斐に走りけり”の山みなが山なみになっていた。

 P178の三重県員弁の龍雲寺の長屋佳山が長尾となっているのも明らかな間違いである。

 結局、飛騨を歩くこともなく、能登を訪ねることもない。数少ない文献を渉猟することだけで書かれたのだろう。だから余り関係のない引用の文献が多い。読者としては一一それにとらわれる。広範な知識を持っていることよりもうっとおしいのだ。著者は福井県出身なのだから里帰りを兼ねてもっと歩いて欲しかったな。

 とはいえ、著者は詩人である。「隣の芝を眺めるようにしてきた」だけという。こんなにいい俳句を残しているのになぜもっと評価されないのかという疑問が消えなかった。主宰誌が小地方誌だからか、という。(有力な弟子が育たなかったから、とは私見である。山口誓子の弟子の鷹羽狩行のごとく)それが本書を著すきっかけになった。
 山岳俳人の評価に満足しない普羅ファンは他にもいる。現在「辛夷」を継承する中坪達哉氏もそうだ。彼は山岳俳句というほどの俳句は詠んでいない、とし、普通の句にこそ真骨頂があるとした。それが「求道の詩魂」を追及する契機になって一書をものにされた。つまり、普羅は凡人に把握できないほど器が大きいのである。
 6年ぶりに普羅関連の書籍が発刊されたことは誠に喜ばしい。本書をきっかけに前田普羅が広く知られることを願う。

春に三日の晴れ間なし2016年04月04日

 昨日は花曇りの一日、天白川の堤防の桜並木の下は花見客でにぎわった。シートを敷いて宴会のグループも多かった。堤防を走るランナーが増えてきた。いよいよ春爛漫である。今朝は雨。文字通り花の雨になる。午後は上がるらしいが、天気予報では当面晴れ間がなさそうだ。

総会の季節2016年04月06日

 4月から6月一杯は総会の季節に入る。昨日は所属する社会人山岳会の総会だった。4/16は上部団体の総会、5月中旬はもう一つの全国規模の山岳会の総会、本業の行政書士の総会も愛知県本部と名古屋市内の支部の2回、1月の新年会の数だけ総会もある。また、株主総会も目白押しとなる。

 昨日の総会は会長と会計が欠席、高齢会員、有力会員も欠席となった。片肺飛行みたいな盛り上がりに欠ける会になった。その代わり、来れないと思っていた会員が出席し、また紹介の見学者も即日入会となった。昨年は12人と風前のともし火であったが今年は16名を超えた。30名の会員数に向けて回復途上にある。

 会員数は多ければいいというものではない。300名以上あった会でも世話役の高齢化と固定化で自然に解散状況と仄聞する。資産はあるが償却済というわけだ。また、JAC東海支部でも下部組織があったが役割が固定化し、旅行会社みたいになった。それで3年限定としたら一気に減った。
 山岳会を目的化すると分かりやすいが、退会も多く、解散の淵に追い込まれる。自由、自主で集まれば烏合の衆になり、路線の対立が起こりやすい。とかく山岳会の運営は難しい。

 新人はこの1年で9人入会、3人退会で差し引き6人増加になる。かつてないことである。手をこまねいていたら解散になるので増加は歓迎だ。9人入会のうち紹介が6人、ネットからが3人になった。ネットはブログのアクセス数が15000件を超えてから山岳会を探している人にヒットしやすくなったと思われる。まめな更新あるのみである。

 登山は一期一会の産物である。良い山、良い友があればこそだ。その貯金をするのが山岳会の目的だ。

各務原市の伊木山で岩登りトレ2016年04月09日

登攀中のSさん
 朝7時30分、名古屋を出る。伊木山は木曽川右岸にある低山で、夕暮れ富士の異称もある景勝の地だ。
 天気は気温が高いせいか、春らしく曇天である。周囲の低山も萌えあがるような新緑に包まれて、まさに山笑う季節になった。木曽川は濁っている。上流では雨が降ったようだ。
 伊木山のPには10分ほど前に着いた。メンバーはすでに到着していた。後から来たメンバーとも合流してゲレンデに向かう。今日はキューピー岩という岩場だった。
 参加者は10名で1名はドタキャンになったが、9名もそろったのは偉観である。うち3名は旧人6名が新人の女性たちだ。岩登りのトレを強く望むのは日本アルプスはいうに及ばず、鈴鹿級の低山でも岩場の通過を無難にこなしたいがためである。殊勝な心がけである。謙虚な心がけを忘れなければ遭難などあるはずがない。
 ベテランでも遭難するのは素直な心を忘れたからだ。○△山岳会の会員ならこのルートは登れて当然と難ルートを攻撃するから痛い目に遭う。わざわざ遭難するためにルートを選んだとしか思えない遭難事故も見聞する。
 初心忘れるべからず。
 クライミングシューズではなくロープで確保しながら登山靴で登攀した。2ルートにロープを張り、一人2回はやれたはずだ。最後はゲレンデから岩稜の痩せ尾根をよじ登り。キューピーの鼻へ登った。電車組とは犬山遊園駅で解散。クルマ組は犬山の秘湯「さら・さくらの湯」に入湯。市営なので500円、65歳以上は300円と嬉しい。快い汗を流して帰名した。

啄木忌2016年04月12日

4/5 山岳会の総会例会
清明や会員増へてにぎやかに

4/8 コスモス愛知の広報活動で
人の縁大切虚子の忌日かな

悪人の我に幸あれ仏生会(悪人=信仰心のない人)

4/10 岩登りトレ
伊木山の遠足めきし岩登り

暖かや四肢伸び伸びと岩を攀づ

岩壁を攀づクライマーに散る桜

ひむがしの尾張三山霞けり

犬山城天守閣見へ山笑ふ

春の川日本ラインは濁りけり

 播隆上人の修業の場だった伊木山
播隆のゲレンデいずこ春深し

温泉の後アイス食ふ花曇り

4/13 庶民はいつの時代も貧しい
定年の後も働く啄木忌

熊本地震の被災者の皆様お見舞い申し上げます。2016年04月18日

九州は火山国なので火山性の地震は覚悟されてきたと思います。
ただ、この度の大地震は未曽有の規模です。
しかも大分県にもまたがり頻発しています。
報道によれば、在来線の鉄道がつながった模様。
新幹線と高速道路の被害が大きく、復旧が急がれます。
ライフラインのの復旧に向けて自衛隊の応援を仰ぎながら進捗しておると思います。
不便な避難生活が1日もはやく収まり、平穏な生活が復活するように祈ります。

エコノミークラス症候群2016年04月19日

読売新聞から
 前略。熊本県を中心に相次いでいる地震で、大規模な土砂災害が起きた同県南阿蘇村では、19日も安否不明者の捜索・救助活動が行われ、新たに2人が見つかった。

 うち女性1人の死亡が確認され、一連の地震による死者は計45人となった。避難所が満杯だったり、余震で建物内にいるのが怖かったりという理由で車に泊まる人も多く、熊本市などは19日、車中泊をしていた女性1人が肺塞栓そくせん症(エコノミークラス症候群)で死亡したと明らかにした。以下略
以上

 エコノミークラス症候群は目新しい用語ではないが、なぜか、被災者の車中泊との関連でこのところ露出頻度の高い語彙になった。

 飛行機での旅行には余り縁がないが、自動車の車中泊でも起こりうることが分かった。新聞記事を読むと女性が多い。

 予防としては水分をこまめにとることが挙げられている。つまり、車内での不自由な避難生活の中でトイレにたつ不便と水の不足の両面から女性ほど水分摂取を控える蓋然性が高いことが伺える。

 校庭や公共のPでの車中泊ではトイレも不足がちだろう。古いテントでもあれば女性用に仮設トイレを設置してもらい、こまめな水分摂取とともに催したら用足しも迷わずできる環境が大切なようだ。

http://matome.naver.jp/odai/2140793725411056501

希代の登山家・伊藤孝一こぼれ話2016年04月26日

背後に鹿島槍が見えることから鷲羽岳と見られる
  伊藤孝一こぼれ話
 伊藤孝一は大正12年3月の立山、針の木峠越え、大正13年3月の真川から薬師岳、上ノ岳から鷲羽岳をスキーで縦走した。これを映画に撮影することで大きな功績を残した。案内人には赤沼千尋、百瀬慎太郎、撮影技師も名古屋から勝野銈四郎が同行。ヒマラヤ遠征に匹敵する1ヶ月に及ぶ登山だった。
 私は2009年1月に北ア・栂池にある赤沼健至氏経営のスキー宿で鑑賞した。その後も何かのイベントで年1回は上映されている。
 東海岳人列伝の候補として瓜生卓造『雪稜秘話 伊藤孝一の生涯』という小説以外の調査研究を進めるうちにとてつもない登山家像が浮かんできた。立山黒部で活躍した登山家なのに登山史から葬られていたとは。知られたのは近年のことだ。
 名古屋市の人だから何とか全体像を知りたかった。山岳映画を通して登山大衆化に貢献したことは疑いない。積雪期の北アルプス登攀記録はもっと高く評価されてもいい。加藤文太郎が活躍するのは数年後のことだ。
 伊藤孝一の学歴は旧制愛知一中だろうか。現在の丸の内三郵便局の敷地が愛知一中の校舎跡だから玉屋町(旧東海銀行本店の本町筋)なら徒歩で10分ほどで通学できる。

   参考資料を渉猟する
1 復刻版『山岳』日本山岳会   住所の事実確認
 入会年月は大正5年7月。弟ともに入会。住所が名古屋市西区玉屋町と知ることで清州越しの御用商人を半ば証明したことになり以後の調査が進んだ。大正3年から在名の会員十数名が納屋橋の料亭で集会を持つ。以後年に1回は集会があったが、八高の学生と半分はダブル。大正4年旧制八高山岳会が発足。大正5年6月には山岳講習会と晩餐会を開催。2500名も集まった。いよいよ名古屋の登山熱が高まる。山岳会も発足してまだ10年余りである。
 ただ、旧制八高の卒業生は昭和14年の名古屋帝国大学発足までは東京か京都などへ進学するしかなかった。八高でならしても他の大学に流出した。法学部ができたのは戦後のことである。東海支部の発足が昭和37年と遅かったのはこの辺の事情もあると思う。八高OBである石岡繁雄が呼びかけたのも歴史のめぐり合わせだ。

『山岳』17年第3号には「雪の上ノ岳へ」と題した榎谷徹蔵の大正12年12月25日から同年13年1月4日までのの紀行文がある。藤木九三ら朝日新聞の登山隊の様子がよく分かる。大多和峠を越えて、有峰へ。そして真川へと山越えする難儀な旅だった。真川には伊藤小屋があり、往時の小屋の贅沢三昧も活写されている。映画技師の勝野も同行している。上ノ岳の付近と黒部五郎岳の鞍部にも小屋がある。
黒部五郎の小屋は冠松次郎が利用している。冠松次郎『黒部渓谷』(平凡社ライブラリー)の双六谷から黒部川への中で、「この小屋は二間半に四間位の大きさでずいぶん太い材料と行き届いた設備で頑丈にできている。炉が二つに切ってあり、風呂もすえ、暖炉までも設けてあった。入り口の掛け板に五郎平ノ小屋としるしてある。名古屋の伊藤孝一氏がこの山稜を冬季に旅行するのを目的に建てられたもので、昨年十一月頃にようやく出来上がったのだということである。氷冷の夜臥を覚悟していた私はこの賚(たまもの)に感謝の意を表さないではいられなかった。」と激賞。大正13年8月5日のことだった。

2安川茂雄『近代日本登山史』
伊藤孝一の登山記録がないことの確認

3『目で見る日本登山史』 山と渓谷社
伊藤孝一の登山記録の記載の確認

4 杉本誠『山の写真と写真家達』ーもう一つの登山史ー  講談社
山岳映画(写真)の歴史

5 林董一『名古屋商人史』 中部経済新聞社
 名古屋城築城以来の有名無名の名古屋商人のルーツと消長を詳述。小説で紹介された京屋吉兵衛(伊藤吉兵衛)が実際に存在したことの事実確認。御用商人のランクの調査に役立つ。この本で秘話の出自の部分で事実と虚構があることが判明した。

6 「名古屋古地図」名古屋市博物館
 幕末の古地図で中区錦三丁目、中区丸の内二丁目、三丁目界隈の調査。清州越しの御用商人は優遇され、敵の襲撃に備えて周辺を尾張藩士の屋敷で取り囲むように配置。明治時代になり、名古屋経済の進展で、一等地になった。
 明治維新後、没落する武士や商人から土地を買い、運用することで資産家になったと想像する。1回の山行に20億円も浪費できた源泉は土地だった。
 これも想像であるが、維新後の激動期には失業武士があふれ、尾張藩への貸付が焦げ付いて、経済は停滞。恐慌状態になっただろう。その後はインフレになったと見られ、幕末の激変を経験した先代は子孫に事業をやらせず、資産運用のみをやらせた。土地(モノ)とカネへの執着の強い名古屋商人の原像が浮かぶ。無借金経営にこだわるのも銀行借入があれば激変に耐えられないことを肌で知ったのだろう。借金の返済原資は利益なので売上が激減すると破産になる。
 余談であるが名古屋コーチンは失業した尾張藩士の起業から生まれた。激動期の今も嘆いてばかりではなく、失業武士のひそみに倣おう。
http://www.nagoya-cochin.jp/02_about/02_01_growth/index.html
  
7 立山博物館 2004年7月企画展解説図録
「山岳映画の先駆者、伊藤孝一没後五〇年『山嶽活寫― 大正末、雪の絶巓にカメラを廻す』」  
 登山史から久しく忘れられた伊藤孝一の名前であるが、山岳映画で検索するとヒットする。こんな企画を立てられたのも伊藤孝一の功績を忘れない人がいたから。記録を立てた大正12年は1月に槇有恒が遭難したので、発表を控えたか、金持ちの道楽として無視されたのか。伊藤孝一の建てた小屋は藤木九三も利用して上ノ岳(北ノ俣岳)にスキー登山している。(榎谷の紀行と同じ。)
 
8 名古屋新聞縮刷版 名古屋市立図書館
 大正12年2月22日の大沢小屋から針の木越え、立山温泉への横断計画の記事の確認。遭難の憶測記事に伊藤自身も困惑し、大沢小屋から撤退後、無事だから新聞記事は信用するなと家族に電報を打つところが当時を思わせる。新聞の捏造記事が遭難騒ぎを起こす。その後も各紙の憶測記事で悩まされている。

9 瓜生卓造『雪稜秘話 伊藤孝一の生涯』  東京新聞
伝記小説の形をとるが、文中のカタカナ表記のメモは遺族から借用されたらしく、事実とみられる。伊藤はメモ魔だったらしく丁寧に書き残した。作品の骨格たる登山記は伊藤のメモとメモをつなぐ。この空白部分が瓜生の登山体験から生まれたリアルな表現で埋められている。事実に忠実な小説であるが、創作にせざるを得なかったところだ。上梓後、瓜生も黄泉の国へ旅立った。

奥三河・天狗棚と1200高地を歩く2016年04月30日

 今朝は気持ちよく早起きした。朝寝は春の季語にもあるくらいだから怠けものではない。昨日は”目覚ましの後一眠り朝寝かな”だった。
 高速はかえって混むのでR153からR257経由で面の木峠まで走る。標高1100mの面の木園地である。トイレを済まし、園地の芝生の道をゆるやかに登るとブナの森の中の道が二岐になる。右へ振ると展望台への近道だ。途中で稜線に上がり、右折すると津具盆地の全景を見下ろす1200mの展望台に着いた。恵那山や大川入山、蛇峠山、茶臼山、三瀬明神山、平山明神などが見渡せて素晴らしい。
 展望台を後に稜線の道を戻ると、先ほどの道をやり過ごし、ちょっと登ると1220mの分岐に着いた。左は園地からの道である。天狗棚の山頂へ向かう。いくらもなく1240mの山頂だ。豊田市になってからは最高峰になった。ブナの古木が何本も残されている。かつての植生をとどめる貴重な森である。1200高地へは山頂から下り気味に歩道を歩く。
 道標も道もしっかり整備されて、されすぎて迷うこともない。左はブナ原生林の生い茂る豊田市、右はおおむね植林の旧津具村である。地形図の1229.7mに近づくと、歩道は山腹を横切るように伸びている。登山道ははっきりしないが、1200高地の道標にここから登れと書いてある。薄く踏み跡が頂上へ伸びている。これが本来の地形図の破線路であったが、多分、山麓にある名古屋市の野外教育センターが歩道を整備した際に山頂への道は等閑視したのであろう。
 踏み跡をたどるといくらもなく1229.7mの三角点のある山頂だった。点名は三方の根という地味なもの。かつてはここに山頂標があったかに記憶するが今は何もない。但し、御料局三角点がそばにあった「宮」をデフォルメして8の字に見える彫、三河国、信濃国とも彫ってある。ここも御料林だった名残である。
 展望台直下には檜原山の御料局三角点があった。依田秋圃の”津具山は今は遙けし萩垂も檜原もなべてもみぢすらしも”と詠んだのは天狗棚のことだった。檜原山がなかなか解明できなかったが、天狗棚の東側に流れる水は愛知県側であるが矢作川水系であり、長野県の檜原の地名があることで分かった。下流では檜原川となる。
 さて、山を下る。反対側の道をしばらく歩くと木橋がある。そこには湧水が流れている。ブナの森は水も豊かなのである。元の道を引き返す。
 井山に登って天狗棚全景を眺める。全山自然林に見える。一部植林も見える。たったこれだけでも貴重な自然である。反対に井山は伐り尽くされて兀山になった。展望は360度広がる。かつては牧場だったが今は風力発電の山に変わった。ここも江戸時代はブナや栃、欅の原生林の山だったと思われる。明治時代に政府から払い下げを受けて、木地師が入り伐採させた。代わりに杉や桧の植林を奨励して人工林の山になった。
 茶臼山高原道路を下って、アグリ名倉でうどんと五平餅をほおばる。エゴマの垂れが美味しい。食後はやがてダムの湖底になる豊川(とよがわ)を走った。田口の町から川に下り、大名倉、宇連の村を見て、浦田に遡り、段戸湖から県道33を走ると足助の町だ。