三ヶ日町平山からの荒廃した平尾山往復2025年11月22日

 計画では本坂峠の静岡県側にマイカーをデポ。姫街道を峠まで40分歩く。峠からは坊ケ峰を越えて平尾山まで縦走約90分、4等三角点のある中山峠乃至旗振山に登る。①東への尾根を辿って三ヶ日町平山へ下山。②4等三角点から南へ尾根の破線路を辿って三ヶ日町本坂へ下り、マイカーのデポ地へ歩く。の二案を考えていた。
 静岡県へ行く前に嵩山に来たのでR362から左折して姫街道の旧道に寄る。ここには本陣の屋敷がある。姫街道の新しい石標も立っている。
 実際には本坂トンネルを抜けて静岡県に入ると上空は厚い冬雲が北へ流れている。つまり太平洋の湿った空気が北の冷たい空気に混じり雲になったのだ。これでは富士山は見えない。もっと冷えて冬型の気圧配置にならないと富士山は見えないだろう。
 というわけで、平尾山と4等三角点の踏査だけに絞った。一旦はR362を下って左から宇利峠を越えて来たR301と出合うところまで来た。前方にバローが見えたので食料品を買い足した。三ケ日ミカンが豊富に並んでいるので一袋買う。
 店を出て三差路に戻り宇利山川に沿ってR301を走る。途中で平山奥へ行く車道に左折。中山峠の東尾根の末端に来た。周囲はたわわに実った蜜柑山だった。軽自動車も一杯止まっている。標高は110m。その一角に停めさせてもらって蜜柑山の作業道へ入って登る。
 作業道はセメントで舗装されている。見た目以上に急坂ですぐに息が切れる。北東には富幕山がどっしり見えている。地形図の実線の終点で標高200mの等高線の手前に道標が見えた。車道から滑りやすい斜めの道とも言い難い道を登る。蜜柑山側は電線なのでうっかり触れることもできない。
 すぐに左への隙間がある。かつては尾根道があったのに蜜柑山の整地で削られたのであろう。手入れのしていない桧の植林の中の廃道というか荒廃した感じのルートを探りつつ登る。倒木あり、枝も散乱する歩きにくい道である。
 幸い赤テープのマーキングはある。等高線がゆるくなると道もはっきりしてきた。息苦しさも慣れてきて約30分のところで一息入れた。すると人工林の中の尾根にも関わらず大径木が林立する。樹木名は知らないが常緑照葉樹林でブナ科の仲間であろう。母樹として伐らずに残されているのだろう。嵩山の山上にも数多見た樹種だ。
 地形図に実線のある林道と交差した。古い道標が割れて落ちていた。林道を見送ると尾根に取り付くが右へ新たな林道が出来ていた。この林道はすぐに大きく段差が掘ってあり車が通行できないようにしてあった。左の尾根に踏み跡を探すとかすかに続くのが見える。明瞭ではないが何とか歩ける。地形図の中山峠の印刷の「中」に着く。赤テープと薄い踏み跡が北と南に別れるので南に振った。一旦は掘割のような地形の鞍部に降りた。これが本来の中山峠であろう。向こうにも踏み跡が続く。破線路の尾根には赤テープが断続的に見えるので容易に4等三角点にたどり着いた。展望はまったくなし。ここがかつては旗振山と呼ばれた場所だろうか。嵩山の山上からここで旗振りの相場の情報を読み取り、また東の方の中継点へ伝えたという。
 南へはかすかに切り開きもありそうな気がするので下山路に使える。下りきれば三ヶ日町本坂に着く。
 踏み跡を戻るが鞍部から左下へ幅のある山路が下って行く。たどると中山自然歩道と県境縦走路の交差する地点だった。ここも中山峠という。ここから5分県境縦走路を登ると先ほど別れた地点に着く。更に20分で平尾山の山頂だった。13時20分登頂。ここも展望なしで詰まらない山頂だ。13時30分下山開始。分岐点に下って「中」からは元の尾根を下った。
 蜜柑山には多数のミカン狩りの女性らがいた。業者もハサミで切り取りながら積み込んでいた。今がミカンの取入れの最盛期なのだろう。ナビで本坂へ下った。愛知県に戻ってまた国道を帰名した。

本坂峠から富士見岩ハイキング2025年11月18日

 10月3日の坊ケ峰に続いて18日も午後からの所用で新城市へ。午前中をフルに使って先月の心残りの本坂峠から富士見岩の間の部分を歩いた。先月は峠直下の旧トンネルまで車で上がったが今日はR362のトンネル手前にP。しばらく車道を歩くとR362の下をくぐってすぐにトイレがある。ここで左が姫街道、右が嵩山の蛇穴へと行く。
 車道を歩くと行き止まりになるので戻って、山側に続く踏み跡をたどると国の史跡に指定された嵩山(すせ)の蛇穴だった。ここには嵩山自然歩道の道標がある。自然歩道は桧の植林で手入れがされて美しい冬木立になっている。歩いて行くと浅間神社への分岐、姫街道への分岐を見送り、頭浅間の古社のある稜線(豊橋自然歩道)に到達した。途端に強い北風が吹きさらされて寒い。
 ここまでが1時間弱でベンチで休むと冷えるのですぐ南に向けて歩き出す。愛知県側は桧の人工林だが静岡県側の境内周辺は常緑照葉樹林が覆う。この植生は427.2m(4等三角点:本坂峠)を越えてもしばらくは続く。かつて日本列島の西南はこのような植生が占めていた。樹齢の古そうな太い幹も多い。保全されているのだろうか。
 柴田明彦『旗振り山と航空灯台』(ナカニシヤ出版。令和3(2021)年出版)によると米相場の情報伝達の場として嵩山の山上とだけの記載があり、427.2mの本坂峠のピークを推定されている。周囲より20m以上高いのでそうかも知れないが現状は愛知県側は桧の人工林が高く、静岡県側は前述の通り照葉樹の高木が生えている。ただ三角点の先が膝くらいの笹原になっている。そして静岡県側に広い地形は想定通りか。ここ以外に良い場所はない。ここから中山峠の南の旗振山(点名:中山峠。393m)につなげるのは無理がない。
 嵩山町側へのバリルート(破線路)の案内もある。常緑照葉樹林から抜け出すとパッと明るくなり、下り気味に歩いて登り返すと富士見岩だった。南側に回って岩に攀じ登り素晴らしい展望を得た。眼下には三ヶ日町の猪鼻湖、広大な浜名湖は冬の太陽に鈍く照り返し光る海に見えた。山の中の山も良いが海の見える山も良い。
 冬晴れには違いないが遠方は冬霞ではっきりしない。それでも黒っぽい富士山が見えた。まだ雪が少ない。これで一応の目標は達成できた。
 下山時は12時30分。新城市の歴研の会合まで1時間あるが昼食を食べている時間は無さそうだ。ナビを見ると27分とあった。信号が殆どないから早い。途中、次郎柿の露天売り場が続くのでつい一袋買った。200円で6個は入っていた。13時20分に無事会場入りできた。
 会議後、100km先の奥大井の山を予定していたが冬型の気圧配置の影響か冷たい雨がぱらついて中止にした。名古屋への帰途はR23に周ったが刈谷市周辺から大渋滞。東名高速も豊田市周辺が大渋滞だったらしい。R301が良かったかな。R23は刈谷で降りて徳重経由で帰った。

青崩峠へ2023年11月18日

11/18 浜松市天竜区は快晴
 名古屋の自宅を6時30分頃出発。R153を走って東名三好ICから新東名経由で浜松北ICで出た。1820円。西鹿島駅へ8時50分頃着。102km。
 9時過ぎ東京のPT7名と合流。青崩峠を目指しR152を北上。青崩トンネルの工事が真っ最中です。
 峠直下まで車道はあるが足神神社でデポ。そこから徒歩40分で峠へ。石畳の遊歩道でした。峠では寒気のために降雪があり、初冬の気候と冬黄葉の残る自然林がマッチして美しい。東京組は峠から信州側へ下山、私は青崩れの地層が見える四阿で別れた。
 車に戻って赤石山脈の兵越えを越えてR152に下った。下った辺りから先は青崩トンネル(2023年5月に貫通)の工事の真っ最中でした。ダンプが行きかうので一般車は立入禁止でしたが恐る恐る入っていくと東京組に出合えた。そこでピックアップして宿のある和田へ向かった。途中でも番所跡を見学したりして有意義なことでした。
 宿はかぐら山荘。飲み代込みで10000円位。宿の風呂が壊れていたので平岡駅まで走って温泉に入湯できました。往復20km。

秋葉街道踏査の計画2023年11月10日

 11/18~11/19の秋葉街道の踏査の計画がまとまった。東京の古道調査PTら7名と私で8名(男4名、女4名)の久々の大人数になった。浜名湖の北で落ち合い、青崩峠を越えて遠山谷で一泊。翌日は和田から小川路峠を越えて飯田市へ出る。
 小川路峠は過去に数回は行った。
①思い出深いのは飯田市と遠山谷の合同で峠まで登ってジンギスカンの焼肉を食わせてもらったこと。
②今は亡きU先生と小川温泉1泊で往復した。この時に松濤明『風雪のビバーク』の春の遠山入りに出てくる街道と知った。
③ある時は『岳人』の”本を片手に”という特集でこの本と街道を取り上げた。取材で登山した。
④また、『ひと味違う名古屋からの山旅』三十三山の1つで曽山1601mを取り上げて登った。
⑤ある時は小川路峠の南のピークである金森山1703mに登るために登山したこともある。
 途中にある木地師の墓が何とも哀れな気がしたものだった。供花一つなき小さな墓は供養する人もないまま時代の推移を見守ってきた。33観音は馬を引いて登る人、秋葉信仰の人への慰みになった。また登山者の安全を見守った。松濤明は登りに、深田久弥は下りに利用した。松濤明の頃はまだ宿があった。しかし、お客が少なくなったと嘆く宿のオーナーの言葉もあはれである。
 青崩峠は豊橋市に住んでいた頃に1回だけ行った。飯田線を利用したからフルに一日かかった。久々に地質学的に特異な地域の山へ行ける。楽しみなことである。

東三河・金山から雨生山を歩く2022年07月10日

戻り梅雨の山へ
 天気予報では午前中は雨、午後から雨は上がるという。それでは午後から登っても無事に下りて来れる低山を考えた。東三河の雨生山313mである。154mの宇利峠なので比高160m未満だから40分程度で簡単に往復できる。これでは芸がないので金山423mを絡めることにした。登山口はちょっと変わった名称の「世界の桜の園」である。標高97mなので金山まで比高326mある。1時間強はある。
        雨の中を東へ
 というわけで名古屋を8時30分過ぎに出発。急ぐことも無いから県道56号からR1で豊川市へ、旧三河一宮へと走る。岡崎市のR1では雨は止んでいた。音羽付近の豊川市まで来ると霧雨になった。旧一宮町辺りでも小雨があり、八名山地は雲がかかっている。
      喫茶店で時間をつぶす
 それで以前に一度入ったことがある喫茶店で時間をつぶした。12時過ぎに再出発した。豊川に来ると濁流である。まさに梅雨の川である。金沢橋を渡る前に吉祥山の山容が良いので写真を撮った。ところがカメラを忘れたことに気が付いた。それでスマホで撮影した。
       俳人・富安風生の故郷
 旧一宮町金沢は俳人の富安風生の故郷である。「富安風生は,ホトトギス派を代表する東三河出身の俳人である。師は高浜虚子。風生は雅号であり、本名は謙次。東大卒業後は、官僚としての恵まれた道を歩むかたわら、俳句の道を志した。句誌「ホトトギス」「若葉」の発刊に携わり、1933年(昭和8)には第一句集「草の花」を出版するなど、大正~昭和期に活躍した。彼の句風は,同志の水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)の言によれば、「軽快で分かりやすく,さらりとして誰にでも親しみやすい」ものです。
故郷の豊川市金沢町を流れる牟呂用水の近くの大坂神社には,「里川の 若木の花もなつかしく」と刻まれた歌碑が建てられています。」
 昔生家を訪ねたら風生の生家との標石が立っていたが、今は親類が住んでいる。風生には子供が居なかったからだ。
      新城市曽根の登山口「世界の桜の園」へ
 東名に沿って走り、左折。富岡の交差点を右折しR301へ。すぐに左折し、曽根から青田の広がる田園に分け入る。登山口はちょっと小高い尾根の端っこに登った。5台くらいは止められるスペースがある。12時24分、身支度して出発。身支度していてふと食料を買うのを忘れた。だがさっきのモーニングサービスでパンを食べたばかりだから持つだろう。水はステンレスのテルモスに入れた900ccの冷水がある。ま良いか。
        蛇紋岩の地質を歩く 
 雨が止んだばかりの登山道は草や小笹に覆われているためにすぐにびしょ濡れになった。いくつもの枝道があるが皆藪っぽいからなるだけお奨めの道を歩く。登山道のところどころに蛇紋岩の露頭が見られる。「蛇紋岩中には植物の成長を阻害するマグネシウムが多く入っているため、蛇紋岩地帯の植生」は他とは違う。不思議なことに松の木立になった。灌木の密度も少ない。松は痩せた土地に生える。つまり蛇紋岩の地質ゆえに杉の植林が定着しなかったのだろう。やがて四阿に着いた。ここからは吉祥山が美しくそびえている。何枚も写真を撮る。そうか、蛇紋岩は植物の育ちが悪いので逆にこうした園地のような雰囲気を作るのだ。
           金山へ
 四阿を辞して登山道に戻る。確かにたくさんの種類の桜の木も植わっている。世界中から集めて植樹したのだろう。この一角を過ぎると杉の植林帯に突入して一気に薄暗い山路になった。緩やかだが長々と尾根を登ると林道にでる。すぐに山路に入る。やや急坂になるが県境稜線に着くと左瓶割峠の案内板がある。右折するとすぐに金山山頂だった。三角点以外はとなりに電波施設があるが休む雰囲気でもないので出発する。だらだらと下るとちょっとした見晴らしのあるピークに着く。宇利峠への道標もある。348mだろう。ここからは樹木の高さが低くなり、行く手を邪魔する。ストックで枝をゆすって葉に溜まった水を落とす。やがて右への分岐も出てくると300mの等高線のあるピークに達した。
         300mピークで小休止し雨生山を往復
 ここも蛇紋岩だろうか。樹高はみな低く見晴らしが良い。吉祥山の姿が何とも言えないくらい素敵である。吉祥天女とは「吉祥とは繁栄・幸運を意味し幸福・美・富を顕す神とされる。また、美女の代名詞として尊敬を集め」ている。ありがたいお山である。
 目を東に転ずれば眼下には浜名湖が見える。厳格には猪鼻湖であろうか。見える町は三ケ日だろう。三ケ日JCTがあり新東名につながる。これだけ見えれば天気のことを考えれば十分か。食うものもなく、飲み物もあと少しなのでちびちびと飲む。すぐ近くに見える姿の良いのが雨生山だ。再び登山道を歩いて登頂した。三角点はない。地形図では円錐形の形で他からはいい姿に見えるが展望は良くない。慰めるかのように一輪の紫色の花が咲いている。桔梗だった。これも蛇紋岩の地質だろうか。
      300mピークに戻って電波反射板への尾根を下る
 当初は東へ少し下って分岐を左折する予定だった。尾根にある破線路があるので下ってみた。250m地点の電波反射板までは石のごろごろした裸地の斜面だった。多分蛇紋岩か。踏み跡はしっかりはないが歩ける。
 反射板以下がヤブになった。ここでコオニユリを発見した。なるほど蛇紋岩の地質は普通なら笹か植林になってもおかしくないのだが生育が悪いから植林の不適地にされたのだろう。だからコオニユリも咲く力が与えられる。
 大体背の高さか、少し高い程度の灌木に笹が混じって、さらに棘のあるイバラ科の植物が半袖の腕を引っ掻く。よほど戻ろうかと思ったが、林道までの比高は150mしかない。約50mも下るころには植林になり林床が土になり藪は無くなった。やれやれと下り、林道に降り立った。後は林道を歩きながら登山口へ戻った。
 帰路は葦毛湿原に寄り道して帰名。岡崎市では疲労回復にうなぎ屋により道した。

小笠山ノート③2021年01月14日

小笠山の直下に立っていた案内板
NPO 静岡県自然史博物館ネットワークのホームページから

1.小笠山の地形と地質

 小笠山丘陵は約100万~数10万年前の大井川系礫層を主とする小笠層群(岩井寺累層・小笠山累層)で構成される。小笠山層群の下位にあたる掛川層群の堆積物(約400万~100万年前の海底堆積物)が低営力・静穏な陸棚環境に堆積した砂泥互層や泥層であることと対照的に、小笠山層群の堆積物は礫層を主体とし、高営力・動的なデルタ環境の堆積物である。この小笠層群の堆積開始時における急激な堆積環境の変化の背景には、当時の海水準の変動や東海地方の構造的変動が関わっており、小笠層群の形成は東海地方の地史を語る上で重要な事件のひとつである。

 小笠山丘陵が位置する東海地域は日本列島周辺でもっとも激しく変動している地域の一つであり、東海沖ではフィリピン海プレートが西南日本を含むプレートの下に沈み込んでおり、海底堆積物が次々と付加し、衝上断層を介してのし上げている。赤石山脈の隆起も、相良-掛川地域に分布する相良層群(約1000万~400万年前の海底堆積物)~掛川層群(約400万~100万年前の海底堆積物)に認められる北東-南西方向に軸を持った波曲構造や小笠山面(小笠層群の推定堆積面)に認められるドーム状曲隆もこうした構造運動によるものである。

 小笠層群が西南西から南南西に緩く傾斜するのも、これらの礫層堆積後に北東側が隆起したためで、現在でもその隆起は継続している。掛川層群から小笠層群への堆積環境(堆積システム)の急変も、このような構造的な変動が後背地の隆起、堆積盆の傾動を引き起こした結果といえる。

 なお、小笠山丘陵の地形の特徴として、丘陵斜面の傾斜が北東側で急で、南西側が緩やかなケスタ様地形を示していることにも触れられ、このような地形の成因は、小笠山一帯に西南西~南南西へ緩く傾いて分布する小笠層群(主に礫層)の方が浸食されにくく、丘陵の北東~東方に広がる掛川層群(主に泥層)の方が浸食されやすいために生じたものと説明されました。

2.小笠山の植物

ウバメガシの林(杉野孝雄氏提供) 小笠山の植物は、種子植物1100種以上(1977年)、シダ植物200種以上(1974年)という植物の宝庫であったが、現在ではその多く(約1/3)が失われている。植物相の特徴として、以下のことが挙げられる。

(a) 山地性のアカガシと海岸性のウバメガシが共存している。

(b) 暖地性種子植物が主に分布しているが、分布の限界地に近い種として、ヤマモガシ、キダチニンドウ、トキワガキ、ヤマビワ、ナナミノキ、トラノオスズカケ、ルリミノキなどがある。

(c) シダ植物は暖地性の種類が豊富である。
(d) ヘビノネゴザ、ツヤナシイノデ、キヨタキシダなど、温帯性シダ植物が分布するが、種類、産量ともに少ない。

アカガシの大木(杉野孝雄氏提供)(e) スジヒトツバ、タカサゴキジノオ、リュウビンタイ、タカノハウラボシ、ナチクジャクなど、亜熱帯性シダ植物が分布している(分布の北縁)。

(f) コバノキフジ、コリンモチツツジ、オガサホトトギスなどの矮小植物が分布している。

 なお、参考資料として配布されたリーフレット「小笠山総合運動公園」のなかには、杉野氏ほかが静岡県に提供された「小笠山の自然」(動植物のカラー写真20点)が掲載されており、小笠山周辺の生物相を理解するのに役立ちます(口絵参照)。
以上
 ①②を総合的にまとめた記事になります。小笠山は標高こそ低いが自然史の学習の場として有益な地域でした。今、大井川源流のトンネルの掘削の許可が下りず、工期が延びるとしてJR東海と静岡県がもめています。確かに源流の水脈を断ち切ることになります。するとこの地域の伏流水も減水する可能性はあるでしょう。その影響はまずは微妙な地下水にささえられた自然の植物群落から枯れてゆくことになる。
 伏流水はサイフォンのような流れ方もありうる。例えば、愛知、岐阜、長野の山県境の三国山は池の平という地名があるように標高1100mの山上でありながら湧水があり、牧畜、養鶏が成り立っている。人も住んでいるのだ。地元で聞くと恵那山の湧き水というのである。確かめようがないのだが、富士山だってあちこちに湧水群がある。
 だからリニアトンネルの掘削は慎重を要する。地元民が不安がるのも無理はない。

小笠山ノート②2021年01月13日

小笠山の原始性のある植生
小 笠 山 の現 存 植生 の成 立史 と植 物 相 の考 察
                           杉 野 孝 雄
1.は じめに
 小笠山は遠州南部にあり,東西約14km ,南北約12km,周囲約40km,最高峰264mの丘陵である。北緯約34°40′ から34° 46′ ,東経約137° 55′ から138° 05′ に位置し,西は太 田川,東 と北は逆川 と菊川で境され、南は遠州灘 に達 している。
 地形は山頂から四方にのびる屋根の間は谷を形成 し,多数の小河川lを生ずる。西から南はゆるやかな斜面で乾燥する。東から北は切立つた崖で谷が特に深い。
  地質的には,西から南側は第四紀洪積世に堆積した小笠礫層で構成されている。地層の下位は第二紀鮮新世の掛川層 群で,砂 岩,泥岩からなり,東から北麓にその露頭がみられる。
 ここでは,小笠山の現存植生の成立史 と植物相の特徴を述べ,現存植生について,植物地理学的,生態的考察を加えたい。尚小笠山の自然保護の重要性についても言及したい。

2.現 存植生 の成 立史
 加藤 (1968),土 (1974)に よれば,小 笠 山を構成する下位の地層は,第二紀鮮新世の掛川層群に属する曽我累層,掛川累層,土方泥層である。その上部を覆い、小笠山の大部分を占める小笠礫層は,第 四紀洪積
世 と推定される上半部の河床堆積物と,下半部の河口堆積物からできでいることから,大井り||に よる堆積物が隆起してできた山地 とされている。
 古大井川の河口は,第 四紀洪積世の頃は掛川附 近にあり,遠州半島を盛 り上げた。この半島は次第に東に移動 し,西方の堆積物が隆起し,小笠山を築いた。また,こ の時期には氷河期のおとずれと共に海面が下が り,間氷期には海面が上昇 し,小笠山地域は海から遠 ざかる時期 と,海水に浸蝕 される時期の繰返しがあり,現在の山容が形成 されたとのことである。
 この地殻変動が小笠山の植生に影響を与えたことはもちろんであるが,気候の変動が植生に与える影響をみのがすことはできない。中村 (1952)及 び塚田 (1967)は ,花粉分析の結果から, 日本における年平均気温の変動 と植生の変遷 を推定 している。それによれば,ヴ ユルム氷期の最盛期 (2.5~ 1.5万年前)に は,現在より年平均気温で約 8℃低かつたとしている。このことから,こ の氷期の頃,小笠山一帯はブナのような夏緑樹林で覆われていたと考えられる。
 小笠山の現在の植生が完成 したのはそのあこの気温の変動により,小笠山の植生 は9,500~ 4,500な いし4,000年 前 頃は照葉樹林で覆われていたと思われる。その後,気 温 が寒冷化 したので4,500年 前頃には山地性,ま たは温帯の 植物が侵入 し分布したであろう。小笠山でその頃からの残存植物 と考えられるものには,モミ,アカガシ,ヒカゲツツジ,ツ クパネ,バイカツツジ,ダ イモンジソウなどの種子植物や,温帯性シダのコケシノブ,オ サシダ,ナ ライシダ,ヘビノネコザ,ハ クモウイノデなどが挙げられる。現在の小笠山の植生 を構成 している暖帯性の植物 は,気温の寒冷化 した時代を生きのびた植物や,気温が上昇 したあと侵入 し、勢力を広げた植物 と考えられる。
 小笠山附近の気温が寒冷化 し,温帯性の植物が分布していたことは,亘理 (1951)も 述べていることである。彼は,小笠山に近い菊川流域の菊川町で弥生式住居址や土器 と共に埋木 を採集 したがその中に,照葉樹のシイ,カ シ類 と共に トチノキの埋木が発見 されている。 トチノキは,「寒冷な気候を指示」するものであり,現在は静 岡県 内では北遠地方にみられるが,2,000年前頃には,こ の地域にも生育していたのである。
 気候とは別に,小笠山の植生の成立に及ぼした人為的要因もみのがすことはできない。小 笠山には昔から人が住みつき,古墳 も発見されている。また,た び重なる山火事 も知 られている。西から南に広がるァヵマツ林の成立には,地形,地質が大きな影響を与えているが,人為的要因も特に強 く介在 していることが考えられる。

3.植 物相 の概 要 と特 徴
 小笠山の植物相を概観すると,西 から南側はアカマツ林が発達 し,林床にはコシダ,ウ ラジロの群落がみられる。東から北側は,お もにシイ,カ シ類が繁茂し,林床にはコバノカナフラビ,ホ ソバカナヮラビの群落が発達 している。スギ,ヒ ノキの植林地も多い人家に近い場所は開墾 され,茶畑、みかん畑になつている.
 山頂には,山地性のアカガシ林 と海岸性のウバメガシ林がよく発達 し,ウバメガシの林床にはヒトッバが多いタ イミンタチバナの群落もみられる。ァカマツ,ソ ヨゴ,ヤ マモモ,ヤ マツツジ,モ チツツジ,ミ ツバツツジ,ナ ツハゼ、ネジキも普通である。小笠神社を中心 とする半径 2kmの地域には,集中的にいちじるしく多様の植物が分布する。

ハ,アカガシ林とウバメガシ林
 小 笠 山の植生の特徴 として,山 地性のアカガシの 林と,海 岸性のウバメガシの 林が山頂に極相林として並存 していることがある。
 アカガシ林は山頂の西側にあり,ツ クバネガシ,オ オツクバネガシを混生する。その東側にウバメガシ林が続 く。いずれもよ く発達 した林で、アカガシは奥の院にみられる最も太いもので胸高直径140㎝もある。
ウバメガシは胸高直径80㎝以上の大木が多数みられ、純林を形成 している。
 アカガシ林は,静 岡県内では低地にも分布するが山地によ く発達するもので八高山 (832m ),粟 ヶ岳 (514m ),光 明山 (540m)の 山頂なとに大きな群 落 がみられる一方,ウバメガシ林は海岸にみられ,静岡県
内では伊豆半島の海岸に多い。南伊豆町子浦には,静 岡県の天然記念物に指定 された林もあるが,そ れに匹敵する大木の群落が,海岸から9励離れた小笠山の山頂に発達 している。両者の生育している環境を比べると,ア カガシ林のある西側の基盤は礫岩であるが,小 さな尾根に囲まれた凹地で,腐植土が堆積 し土壌 もやや深 くなつているoウバメガシ林がみられる東側は礫岩が露出する場所で南面する。
 ァカガシは陰樹で,適潤,ま たはやや乾いた肥沃な深層土を好むoウ メバガシは陽樹で乾燥に強レV性質があるので,他の植物が生育できないような海岸の急斜面の岩上でも生育することができる。この生態 の差が,両者が小笠山の山頂で東西にすみ場所 を分け合つて並存する原因になっていると思われる。
 鈴木 (1952)に よると,ウバメガシ林は植生類型 としては硬葉樹林のウバメ型で,そ の成立の限界はラングの雨 量 係数100に ほぼ一致 し,海岸線が冬の季節風に直角に位置する海岸において発達が顕著になる傾向があるという。小笠山のウバメガシの生育地の気温,雨量の記録はないが,隣接する小笠町のラングの雨量係数は132,袋 井市 のそれは98で あり,小笠山の東側より西側の係数が低いoそれにもかかわ らず東側にウバメガシ林が発達するのは、小笠礫岩の保水力が乏しく,ま た,た えず吹きつける風が乾燥 した環境を形成し,冬雨型の極相林であるウバメガシ林を土地的極相林 として夏雨型の小笠山に発達させたと考えられる。
 このことは,ウバメガシ林が南面する季節風の強い側に繁茂 していることからも裏付けられる。


5.自 然保護 の重要性 と対策
 小笠山は植物学的に各方面から興味深い丘陵である。しかも,狭 い範囲に各種の自然保護上貴重な植物がまとまつて生育 している。これらの植物には,山頂のアカガシ林,ウバ メガシ林,全国的に分布が希な植物,アカウキクサ線を分布の限界とする植物の小笠山をタイプ地 として発表された植物,及び豊富なシダ植物等がある。
 小笠山は山塊そのものが植物見本園的な存在であることか ら,全山を自然公園または森林公園 として永 く子孫に残すべ き,最適 の地域である。その際には,環境の破壊 を防 ぐ意味か ら,自 動車道 を通 す こ となく,山 に入 るには歩道のみ とし,永久に小笠山の自然が保護され ることが望まれる。
以上

・・・・小笠山直下にはアカガシの大木があった。この論考を読むと小笠山を代表する樹種なのなのだ。

小笠山ノート①2021年01月12日

登山道の真下の断崖絶壁は小笠層群の露頭
 静岡県袋井市北方可睡丘陵の小笠層群
                       竹 村 恵 二(京 都大学)
 天竜川と大井川 にはさまれた地域(掛川地方)の新第三系は,慎山次郎 をは じめ とす る多 くの研究があ り,第 四系について も土隆 一の一連の研究があ る。
 筆者は1974年 の京大理学部の課題研究として,袋井市北方の可睡(かすい)丘陵を対象として,層 序学的な調査を行い,堆 積環境の時間的変遷の考察と大阪層群との比較 を試みた 。
 調査地域は掛川層群,曽 我層群,小笠層群,段丘堆積物よりなる。掛川,曽我,小笠の三層群は南西へ緩 く傾く単斜構造 をなす。曽我層群は中部に挾まれる凝 灰質層 を鍵層 として下部,中 部,上 部に三分される。それを不整合 におおって,砂 礫 と泥の互層状を呈す小笠層群 がのる。粘土層 を基準に して,小 笠層群を下部よ り一色層,西 之谷層,可 睡 斎層,可睡層,平 宇 層,久 能層,鶴 松層 に七分 した 。
 掛川層群は海成の砂泥 か らな る。その上の曽我層群 は小笠丘陵 では下位か ら上位に向 って泥質 か ら砂礫質への変化が認 め られ,礫 は粒度 のそろった海浜成 円礫であ る。可唾丘陵では最下部に数米の礫層 を持 ち,そ の上位に円礫 まじりの砂層 が堆積 してい る。北西 方へ行 くに従 い礫が優勢 とな り,磐 田原下部は小笠丘陵地域 よ りも河成相 的であ るこ とを示す 。
 可睡丘陵では,曽 我層群 の上位 に礫泥互層状の小笠層群が重なり,全体 として河成相的様相を呈する 。一般に現在の河川 との比較 によ り磐 田原下部は天 竜川系 の河川 によ る堆積であ り,小 笠丘陵 は大井川系の河川 による堆積 であ る とされ る 。そ の間 に位 置 す る可睡丘陵 の小 笠層 群 には 少 量 とは いえ花 歯岩の礫 があ り天 竜川系 河 川 の影響 が及 ん だ もの と考 えられ る 。
 しか し,可 睡丘 陵 の小 笠層 群 は生成 環境 を細 か く吟 味 す る と,海 成 の 部 分が 存 在 した と考 え られ る 。第 一 に,泥 質 部 に サンドパイプのある層 が存在すること。第 二に淘 汰のよい海浜成 円礫の層 が平宇層および可睡斎層に存在することによる 。
 た だ し,一 色層 か らSaxostrea  sp.を 産 した以 外 に海 棲 貝 化石 が産 して いな いの は海成の証拠 としては 不十 分 であ る 。今 回 の 調査 では,可 睡丘 陵 の小 笠層 群 は,河 成 相 を主体 としつつ も,淡 水,汽 水 の 入 りくん だ複 雑な環 境 下 で形成 され た こ とが結 論され る 。
 時代 に関 して は,鮮 新 一更新統 の境 界 は浮遊 性有 孔 虫 化 石 か ら掛 川層 群 中 に求 め られ る(1973加 藤,1972両 角)。 ま た曽我 層群 の貝 化 石 は現 生 種 が90%以 上 で,か つ掛 川層 群 中 の熱帯 要素 が 消 滅 す る ことか ら,曽 我層 群 は更 新世 であ る と され る(土1961)。
 小笠 層 群 に つ い ては,化 石 に よ る資料 が 乏 しい が,可 睡丘 陵 の 西浦 付 近 よ りMetasequoiadisticha Mikiの 産 出が 報 告 され て お り(土ほ か1967),大 阪層 群 のMa3の 時 代 よ り新 し くな い と考 え られ る。現在 花粉 分 析 を行な って お り,よ り細 か い対 比 の可能 性 もでてくるで あ ろ う 。
以上
 WEBの国土地理院の地形図をなんども縮尺拡大するうちに天竜川と大井川の間には6本の中小河川があり、さらに微細な河川が縦横に網羅的に見られた。これはきっと天竜川と大井川の伏流水が関係しているとにらんでググってゆくうちに引用記事を発見した。
 やっぱり遠州半島は基本的に小笠山と高天神山を結んであったのだ。
 その北の逆川は夜泣き石辺りを水源に西へ流れる。「逆川(さかがわ)は、静岡県の主に掛川市を流れる二級河川。 太田川水系原野谷川の支流。 蛇行が激しく、たびたび水害をもたらしてきた暴れ川である。 堤が欠ける(決壊する)ことから「かけがわ」(欠川→掛川)とも呼ばれ、当地域が「掛川」と呼ばれる由縁となったと伝えられている。」のであるが、古くは大井川の流れではなかったかと想像する。
 すると袋井は「市内を流れる原野谷川・宇刈川・沖之川に囲まれた「袋」のような地形に由来するという。」という。池袋なども同じ由来だろう。袋になるのは川の蛇行で沖積平野になるが、水溜まりの部分が流れを失い袋状に取り残される地形だから。
 天竜川の伏流水もあり湿潤な土地ではないか。しかし水稲には良い環境だろう。水が豊か、水稲栽培が盛ん、子孫繁栄を願って遠州三山がこの地に成立したものともうかがえる。するとあの団子の餅も土地柄を反映した名物なのだ。

遠州・小笠山を歩く2021年01月09日

 朝5時起きし、出発。大高町の丸の内の交差点で県道59号からR23に左折するところをうっかり直進してしまったので戻って入り直す。早朝というのに大型トラックがひっきりなしに疾走してゆく。文字通り日本の大動脈である。ここはスマホのナビに留意しながら右寄りに行く。知多道路、名二環、伊勢湾岸道、最後は豊明でR1に分かれるとR23のみとなる。蒲郡で一旦R247に出て再びR23に合流。豊橋市の外れで豊橋バイパスの高架に入ると豊橋市の南の工業地帯、農村地帯を大きく迂回し静岡県の境で再びR1と合流。小高い丘からは黒い富士山が見える。
 後は静岡県になるとR1を走り潮見坂を経由しながら東進。浜名湖の今切口をまたいぐ浜名バイパスを行く。天竜川に沿って大きく左旋回すると浜松市に入る。天竜川を渡ると磐田バイパス、袋井バイパスと続く。適当な出口で出て、袋井市街地を目指すと吉野家があったので温かい朝食をと思ったが、7時開店なのに7時30分でも開店していない。8時まででもまだ準備中だった。別の牛丼屋へ行った。スマホを法多山に指示して向かう。
 参道の入り口付近は有料駐車場があって手招きで誘う。ハイキングで半日くらいは止めさせてくれるか、と聞くと皆ノーであった。参道に近いところのPで、半日止めても良いか、というとOKを出してくれた。一番奥へと案内された。もう正月は過ぎたというのにひっきりなしに参拝客が押し寄せてくる。

  こんな寒い日でも山麓の法多山尊永寺は多くの参拝者で賑わっていた。参道の入り口で自動で体温チエックし、マスク着用で参道を歩き、参拝しました。途中で団子売りばへ立ち寄った。登山前なので荷物になるものは買えないので後にした。
 本堂の屋根が蒼穹の空に映えて美しい。1300年の歴史を誇るだけのことはある。
 その後登山道を探すために本堂の裏にも回ったが分からない。地形図をよく見ると墓地の間を抜けるようだ。入り口が分かりにくいが奥ではよく踏まれた道になりました。小笠山は尊永寺から北の尾根に取り付き、172mのコブに上がった。ここには宮標石がある。また愛野駅からの道標もありこちらがメインルートと思われる。
 樹齢のある常緑樹のかぶさる登山道を行くと三ッ峯への分岐になり往復。後は小刻みなアップダウンを繰り返す。腹擦峠で一休みした。登り返すと221mに到達。東経138度展望台は富士山を眺められる。浜松市から島田市まで東西の展望が良い。掛川駅からのハイキングルートと合流。小笠山はすぐだった。樹林に囲まれて展望はない。400m下ると小笠神社に行く。戻って、地蔵尾根(中尾根)を下山した。162mとの鞍部から北へ急坂を下る。滑落しそうなくらい滑りやすい。県道へ出て法多山へ登り返すと無事周回登山を果たして下山しました。Pの叔父さんにお礼を述べて帰った。
 後は名物の団子を買うのだが、車では境内に入れさせてもらえず、おじさんに聞くとPから下ると製造元があるからそこで買えるよと教えてくれた。首尾よく買えてほっとした。600円。賞味期限は1/10で日持ちしないのが玉に瑕。
 ヤマップの累積標高は830m、5時間50分で11.1km歩きました。

冬晴れの遠州・常光寺山に登る2018年01月14日

 名古屋・金山駅前発7時、4名で同乗。高辻ICから鳳来峡ICへ。R151から浦川経由水窪を目指す。水窪川に沿う谷底のR473はいつまでも日がささない。かと思えば、上の山腹を見上げれば明るい谷間の村もある。少しでも太陽の恵みを得たくて上へ上へと住んだ。
 高速をでてからも長いドライブが続いてやっと水窪に着いた。山住神社の案内を確認して県道に入る。古い5万図には最奥の山里から山住神社へ破線路があった。登拝の道であった。それは今も大きな鳥居を建てて古道として残しているようだ。
 最奥の山里を離れると道は細くタイトなカーブが続く。上部に上がると太陽が一杯降り注ぐ。やがて山住神社であった。予定は右の井戸口山だったがゲートで閉ざされている。逆に諦めていた常光寺山への車道は家老平まで走れた。本当に平らな高原であり、野鳥観察の施設があった。バードウォッチャーらしい車があり1人だけいた。

 家老平から登山口の案内板があり1時間30分の表示もあった。最初はほとんど高度をあげない。空気は冷たいが風もなく日だまり山行に終始する。野鳥の森らしく雑木林をカケスが飛び交う。右にはスーパー林道が見えたが1173m辺りから離れて高度があがり急登になった。ちらほらあった雪も出てきて数センチに積もって冬山らしい。
 広い尾根からアセビのからまる痩せ尾根になる。一旦緩やかに下って登り返すと1418mのピークになる。手前には地形図にもある大きな崩壊地を通過する。1418mからは意外にも大きな下りが待っていた。北西面のためか雪が凍って滑りやすいので時間がかかった。鞍部から登り返すと山頂だ。点名常光寺の3等三角点である。
 ネット情報では展望がないとのことだったが落葉期の今は360度の大展望だった。仰角の関係か、富士山は見られず残念。20万の地勢図飯田、甲府、豊橋等を広げて山岳同定を楽しむ。(肝心な駿河は紛失した。)伊那山脈や南アルプス深南部の山々(多分麻布山から前黒法師山)、熊伏山の背後の真っ白な木曽駒と中央アルプス、意外な三角錐の恵那山等が遠望できた。南には京丸山が見えたし、遠州灘が鈍く光っていた。往路を下山。

 今年の干支の山犬を守護神とする山住神社に参拝した。御手洗の水も凍結するような厳寒の神社でも宮司が1人居られた。大杉は見ごたえがある。和銅2年(709)伊予の大山祇神(おおやまづみのかみ)を勧請して山住(やまずみ)大権現と称した。当初は、勝坂、あるいは門桁、あるいは宮川に創建された後、現在地に遷座したという。イザナミが祀られている。
 神社の由緒から「徳川家康が武田勢に追われ山住に逃げ込んだ時、山全体が鳴動し、ウォーウォーという山犬の大音声がおこり、武田勢を退散させた。以来、徳川家康の崇敬を受けたという。そのためだろうか、当社の神紋は葵の紋だ。徳川家康を助けた山犬の声でも明白だが、当社は、山犬(狼)信仰の神社。当社の神札には、山犬様が描かれている。
 山犬(狼)は、農作物を荒らす猪や鹿を退治する益獣であり、焼畑の作物の守り神。奥三河一帯には、山住神社の山犬信仰が浸透しているという。昭和27年の佐久間ダム建設の時、
周囲の猪が、いっせいに愛知県東栄町方面へ移動し、作物に多大な被害を与えた。この時にも、猪害をさけるため、小字単位で山住の小祠を作って祀ったという。猪退治の山犬信仰は、その後、悪霊除け、猿除けへと拡大した。」

 参拝後は神社の北の1108mの三角点に詣でた。常光神の入り口から山道を登ると小社がある。その少し尾根を歩くと山住峠の看板があった。ネット地図で検索すると点名は家老峠になっていた。当初予定した井戸口山の点名は山住山という。
 
 水窪ではお買いものをした。栃餅、コンニャク、山の味噌などを購入。ついでに双体道祖神を拝んだ。美男美女の兄妹が互いに縁が薄く旅に出て相手を探すが見つからずついに兄妹で結婚したという。同行者が「兄妹じゃいかんがね」と近親結婚をとがめた。「いとこ同士は鴨の味」という俚諺もあるが兄妹はないな。勝手知ったる相手ならいざこざもない。幸せなら良いじゃないか。帰路も往路を走った。

 干支の山として山犬の段から高塚山を予定したがS林道は冬の通行止めで走れず。開通後は山犬の段から房小山に行く予定。