事務所移転 ― 2014年07月04日
6月のはじめ、開業以来4年目になる事務所の管理会社から年末にビルを閉鎖するため、退去の通告があった。
売上ゼロからのスタートなので自宅開業か、事務所賃貸か、迷ったが幸いに友人知人の伝手で入居できた。家賃は格安、保証金も低廉、保証人もなくすんなり入れた。但し、今年で築50年近い老朽ビルのことゆえ、雨漏りはするし、泥棒には入られて多少の金品を盗まれたこともあった。セキュリティが悪いのが不安ではあった。そんなところへ退去の話なのでレベルアップするいい機会ではある。
しかし、突然のことなので事務所名入りの大小の封筒、名刺などの印刷物は破棄。HP、広告などがやり直しになった。
次ぎの事務所探しの情報収集を手伝ってもらい、近隣に良い物件を見つけた。名古屋城を見下ろすロケーションは良いが、狭いし、割高感がある。内覧したどの物件も連帯保証人を要求する。聞くと、士業でも貸し倒れがあるとのことだった。経営が破綻する前に退去すればいいと思うが、決断を先延ばしにするうちに保証金を食いつぶし、売上が続かなくてはどうにもならんということか。
三の丸の官庁街に徒歩で行けるメリットが今更ながら大きいと感じ、丸の内にこだわって分譲物件も探した。今後10年仕事を続けることを前提に考慮するとほぼ同額になる物件が見つかった。こりゃ、買い、だ。分譲を購入しても建物部分は減価償却費で利益を圧縮できる。光熱水道費、管理費も経費にできる。
早速、仲介業者に電話して内覧させてもらうと、広さは1.5倍で、桜通りに面した一等地だった。地下鉄駅からも2分の便利さ。これなら10年後も売れるだろう。売れた額と購入額の差額が事務所コストになる。これはもう買いである。地震で倒壊、火事で被災でもしない限り、使用できるのだからと自分に納得させて価格交渉に入った。幸い営業社員も頑張って値引きに成功した。地下鉄1区乗れば格安物件もあるのだが、官庁街への至近距離が魅力だったので手付けをうった。
6/28に無事契約に至り、手付金を支払った。所有権移転登記は母校の後輩の司法書士に依頼。若干、市の保証付きで融資も交渉したら快く受け付けてくれた。
仲介の営業マンからは別件の法律相談も受けたがこれは弁護士の扱いなので近くの母校の先輩弁護士に取り次いだ。
今日は銀行へ契約書のコピーを渡して融資手続きを進ませた。融資担当者曰く、私を検索で調べたらしく、山の世界で活動中ということをよく知っていた。
趣味や道楽は実に人間関係の潤滑剤になると肌で知った。私の山の友人には旧東海銀行の人、元日銀レディもいた。人柄と家柄の良い人ばかりだった。銀行員はなあ、つきあいなんだよ、と教えてくれた。趣味を通じてつきあいを深めると社会のウラの仕組みもそれとなく分かるようになった。生きる世界が違うと本音も吐く。実力や能力まして成果主義なんてものではない。
一方で引越しの段取りがあった。うっかり事務機器の会社に見積もらせたらギョとするような凄い金額を出す。
先日、それでインターネットで価格比較のHPにアクセスしたら、10分くらいの間に4社も電話営業があって驚く。うち大手の1社がその日の内に見積もりに来た。今日も朝から3社が見積もりに来て対応した。所詮、人件費とトラックが仕入コストなので似たような金額になった。後は引越し日次第というわけだ。ダメ押しでまた1社電話があった。もうお断りした。
又、前後して、管理会社の幹部も来所されて、退去に対する謝罪と補償金の話があったが金額的には丸く収まった。転居先での経営の不安定さを心配しておられた。そこまで心配してもらえるとは良い大家に当たったものである。
当方は至近距離だし、レベルアップ、イメージアップにもなるので業務拡大のチャンスにしたい。こんなに事がうまく運ぶのも、開業以来毎年行く、商売の神様のお千代保稲荷さんのご利益かも知れない。いずれお礼参りもしなくてなるまい。
売上ゼロからのスタートなので自宅開業か、事務所賃貸か、迷ったが幸いに友人知人の伝手で入居できた。家賃は格安、保証金も低廉、保証人もなくすんなり入れた。但し、今年で築50年近い老朽ビルのことゆえ、雨漏りはするし、泥棒には入られて多少の金品を盗まれたこともあった。セキュリティが悪いのが不安ではあった。そんなところへ退去の話なのでレベルアップするいい機会ではある。
しかし、突然のことなので事務所名入りの大小の封筒、名刺などの印刷物は破棄。HP、広告などがやり直しになった。
次ぎの事務所探しの情報収集を手伝ってもらい、近隣に良い物件を見つけた。名古屋城を見下ろすロケーションは良いが、狭いし、割高感がある。内覧したどの物件も連帯保証人を要求する。聞くと、士業でも貸し倒れがあるとのことだった。経営が破綻する前に退去すればいいと思うが、決断を先延ばしにするうちに保証金を食いつぶし、売上が続かなくてはどうにもならんということか。
三の丸の官庁街に徒歩で行けるメリットが今更ながら大きいと感じ、丸の内にこだわって分譲物件も探した。今後10年仕事を続けることを前提に考慮するとほぼ同額になる物件が見つかった。こりゃ、買い、だ。分譲を購入しても建物部分は減価償却費で利益を圧縮できる。光熱水道費、管理費も経費にできる。
早速、仲介業者に電話して内覧させてもらうと、広さは1.5倍で、桜通りに面した一等地だった。地下鉄駅からも2分の便利さ。これなら10年後も売れるだろう。売れた額と購入額の差額が事務所コストになる。これはもう買いである。地震で倒壊、火事で被災でもしない限り、使用できるのだからと自分に納得させて価格交渉に入った。幸い営業社員も頑張って値引きに成功した。地下鉄1区乗れば格安物件もあるのだが、官庁街への至近距離が魅力だったので手付けをうった。
6/28に無事契約に至り、手付金を支払った。所有権移転登記は母校の後輩の司法書士に依頼。若干、市の保証付きで融資も交渉したら快く受け付けてくれた。
仲介の営業マンからは別件の法律相談も受けたがこれは弁護士の扱いなので近くの母校の先輩弁護士に取り次いだ。
今日は銀行へ契約書のコピーを渡して融資手続きを進ませた。融資担当者曰く、私を検索で調べたらしく、山の世界で活動中ということをよく知っていた。
趣味や道楽は実に人間関係の潤滑剤になると肌で知った。私の山の友人には旧東海銀行の人、元日銀レディもいた。人柄と家柄の良い人ばかりだった。銀行員はなあ、つきあいなんだよ、と教えてくれた。趣味を通じてつきあいを深めると社会のウラの仕組みもそれとなく分かるようになった。生きる世界が違うと本音も吐く。実力や能力まして成果主義なんてものではない。
一方で引越しの段取りがあった。うっかり事務機器の会社に見積もらせたらギョとするような凄い金額を出す。
先日、それでインターネットで価格比較のHPにアクセスしたら、10分くらいの間に4社も電話営業があって驚く。うち大手の1社がその日の内に見積もりに来た。今日も朝から3社が見積もりに来て対応した。所詮、人件費とトラックが仕入コストなので似たような金額になった。後は引越し日次第というわけだ。ダメ押しでまた1社電話があった。もうお断りした。
又、前後して、管理会社の幹部も来所されて、退去に対する謝罪と補償金の話があったが金額的には丸く収まった。転居先での経営の不安定さを心配しておられた。そこまで心配してもらえるとは良い大家に当たったものである。
当方は至近距離だし、レベルアップ、イメージアップにもなるので業務拡大のチャンスにしたい。こんなに事がうまく運ぶのも、開業以来毎年行く、商売の神様のお千代保稲荷さんのご利益かも知れない。いずれお礼参りもしなくてなるまい。
映画『ビヨンド・ザ・エッジ 歴史を変えたエベレスト初登頂』 ― 2014年07月06日
公式サイト
http://tss1962.blog.fc2.com/blog-entry-160.html
7/5に名古屋でも公開。今日鑑賞してきました。地下鉄矢場町駅下車。パルコの東館8F。
いや-!もう退屈する場面が一つもなくて1時間30分緊張感の連続でした。特にヒラリーステップという難所を切り抜けて登頂への場面が圧巻。題名のビヨンドザエッジの意味はこの場面だったのですね。急な岩稜とエッジのような雪の壁にはさまれた場面を攀じ登った。その先には何度もコブのアップダウンがあるが、愚直に一歩一歩下を見て登るのみ。いつしかもうこれ以上高いところがない山頂に立っていた。
1953年5月29日はヒラリーとテンジンの人類初登頂だった。あれから60年というわけだ。それにしてもご本人かと思うほどそっくりな俳優がよくいたものだ。しかもニュージーランド人という。観て損は無い傑作だった。
http://tss1962.blog.fc2.com/blog-entry-160.html
7/5に名古屋でも公開。今日鑑賞してきました。地下鉄矢場町駅下車。パルコの東館8F。
いや-!もう退屈する場面が一つもなくて1時間30分緊張感の連続でした。特にヒラリーステップという難所を切り抜けて登頂への場面が圧巻。題名のビヨンドザエッジの意味はこの場面だったのですね。急な岩稜とエッジのような雪の壁にはさまれた場面を攀じ登った。その先には何度もコブのアップダウンがあるが、愚直に一歩一歩下を見て登るのみ。いつしかもうこれ以上高いところがない山頂に立っていた。
1953年5月29日はヒラリーとテンジンの人類初登頂だった。あれから60年というわけだ。それにしてもご本人かと思うほどそっくりな俳優がよくいたものだ。しかもニュージーランド人という。観て損は無い傑作だった。
大杉谷を歩く ― 2014年07月14日
梅雨晴れや宮川ダムの水碧し
岩盤を削り鎖の登山道
両の手を出し滴りを飲みにけり
滴りに濡れしままなる歩道かな
食欲の無きままさんま寿司を食ふ
天のダム壊れしごとき滝の水
山小屋の夜の涼しさに戸を閉める
溪谷の水音高し登山小屋
万緑の大杉谷に分け入りぬ
出合いなる谷の砂場に汗を拭く
登山こそビールの甘さ味はへり
寂しくとも山の蛇には癒されず
堂倉の滝や飛沫か雨模様
岩盤を削り鎖の登山道
両の手を出し滴りを飲みにけり
滴りに濡れしままなる歩道かな
食欲の無きままさんま寿司を食ふ
天のダム壊れしごとき滝の水
山小屋の夜の涼しさに戸を閉める
溪谷の水音高し登山小屋
万緑の大杉谷に分け入りぬ
出合いなる谷の砂場に汗を拭く
登山こそビールの甘さ味はへり
寂しくとも山の蛇には癒されず
堂倉の滝や飛沫か雨模様
新版『日本三百名山登山ガイド』全3巻発売 ― 2014年07月22日
昨日、名古屋駅前の書店に寄って、山の本のコーナーを見ると表記の本が発売されていた。先に、JACの編集者から届くのは7月下旬と聞いていたが、書店へは優先的に配本されたらしい。
取材の苦労の多い本だった。取材登山も、盛夏の中を往復した。標高2200mを超えていたが、気温は高く、大汗をかいた記憶がある。中でも写真撮影に困難を感じた。担当の奥茶臼山は長野県飯田市と大鹿村の界にある。今回は飯田市から登ったが、この山の全容を撮影する場所探しに伊那谷へ2回も足を運んだ。この山は全山針葉樹に覆われて撮影ポイントが殆どない。南アルプスの巨峰ならば縦走中でも撮影できるのであるが・・・。
気温5℃、10月下旬から11月中旬の絶好期でも水蒸気が揚がり、チエックすると鮮明ではなかった。結局、となりの鬼面山に登った。少しでも朝早く登頂するため前夜発で地蔵峠まで行き、車中泊した。午前8時に山頂に立ったが、鬼面山は奥茶臼山の西に位置し、日の出が逆光となって黒っぽくなった。それでもシルエットははっきり撮影できてはいる。山岳写真は好条件が整うまで粘るわけにはいかない。妥協するしかない、と編者には書き送った。
登山口から往復約8時間も要した。延々樹林の中で奥秩父のような錯覚を起こす。この山は何が売りなのか、なぜ三百名山なのか、よく理解できなかった。選定した人はよほど変人かへそ曲がりだろうに。今も完全に整備された登山道があるわけではない。伊那谷の一角からは特異な茶臼の山容が望めるというが取材中はついぞ、確認できないままになった。赤石岳や聖岳、光岳の赤石山脈直系の優秀な兄弟に比べて、背も低く、伐採跡が醜い山容。傍流でしかない、不遇な存在の奥茶臼山。私なら鬼面山を推したに違いない。
しかし、俳優にも名脇役という賛辞の贈りかたがある。そう、奥茶臼山のキャッチフレーズは赤石岳を引き立てる名脇役とでもすれば良かったかな。
http://tss1962.blog.fc2.com/blog-entry-169.html
取材の苦労の多い本だった。取材登山も、盛夏の中を往復した。標高2200mを超えていたが、気温は高く、大汗をかいた記憶がある。中でも写真撮影に困難を感じた。担当の奥茶臼山は長野県飯田市と大鹿村の界にある。今回は飯田市から登ったが、この山の全容を撮影する場所探しに伊那谷へ2回も足を運んだ。この山は全山針葉樹に覆われて撮影ポイントが殆どない。南アルプスの巨峰ならば縦走中でも撮影できるのであるが・・・。
気温5℃、10月下旬から11月中旬の絶好期でも水蒸気が揚がり、チエックすると鮮明ではなかった。結局、となりの鬼面山に登った。少しでも朝早く登頂するため前夜発で地蔵峠まで行き、車中泊した。午前8時に山頂に立ったが、鬼面山は奥茶臼山の西に位置し、日の出が逆光となって黒っぽくなった。それでもシルエットははっきり撮影できてはいる。山岳写真は好条件が整うまで粘るわけにはいかない。妥協するしかない、と編者には書き送った。
登山口から往復約8時間も要した。延々樹林の中で奥秩父のような錯覚を起こす。この山は何が売りなのか、なぜ三百名山なのか、よく理解できなかった。選定した人はよほど変人かへそ曲がりだろうに。今も完全に整備された登山道があるわけではない。伊那谷の一角からは特異な茶臼の山容が望めるというが取材中はついぞ、確認できないままになった。赤石岳や聖岳、光岳の赤石山脈直系の優秀な兄弟に比べて、背も低く、伐採跡が醜い山容。傍流でしかない、不遇な存在の奥茶臼山。私なら鬼面山を推したに違いない。
しかし、俳優にも名脇役という賛辞の贈りかたがある。そう、奥茶臼山のキャッチフレーズは赤石岳を引き立てる名脇役とでもすれば良かったかな。
http://tss1962.blog.fc2.com/blog-entry-169.html
子規・虚子を訪ねる伊予の旅 ― 2014年07月22日
愛媛県松山市子規記念博物館へ(7/19から7/20)
「何処へなりと遊べ夏山夏の川 子規」の垂れ幕があった。子規らしい大らかな俳句である。
30歳代の頃、正月休みの四国周遊の山旅で皿ヶ嶺登山の帰途、松山市に遊んだ。例の温泉に入湯するためであった。投句箱に”大いなるぶなの枯れ木や皿ヶ嶺”を書いて投句したら佳作に選ばれて、愛媛人形を贈られた。嬉しい旅の記念になった。
今回は定年後に始めた句会のメンバー4人を誘って往復1000kmを越すドライブになった。だから松山市は2回目の再訪となった。
メンバーには松山市出身者もいて懐かしがった。高校までは松山市に住み、東京の音楽系大学に進むも、音楽家とはならず、楽器メーカーの社員となり、定年後の今は音楽指導の生活。感性を持て余すのか、俳句にも首を突っ込んだ由。というより、俳都に生まれたことが原因かも知れません。
朝7時に出発。すぐ高速道路に入ると後は松山ICまで一般道に出ることはないはずだったが、トラベルはトラブルという縁語でも分かる通り、道中色々ありまして、子規記念博物館に着いたのは午後4時過ぎでした。宿に荷を預けて徒歩で子規記念博物館へ行く。午後6時まで開館というのが旅人には嬉しい。一通り子規の人生と活動を眺めた。生まれは漢学者の系統らしいが、東京へ出てからの人間関係の築き方が素晴らしい。特に新聞記者となってペンの力で情報発信できた環境にあったことが決定付けた。
子規に名句らしい句はないじゃないか、との評価もある。彼は早世だったからそれは当たっている。ただ。彼の意を汲んだ弟子の活躍が大きかった。特に虚子が大きい。
伊予の名山・高縄山へドライブ登山
二日目は、早朝の神の湯に入湯。太鼓の音が響く。松山ならではの名物で、午前6時前というのに大勢の観光客が待っている。入湯料も最低410円から1000円を超えるものまでサービスにグレードがあった。一旦宿に戻って、商店街の街中をぶらついた。そこで新湯の存在も知った。椿の湯という。建物も新しい。3度目はここにも来よう。土産物の並ぶ商店街はまだシャッターが下りたままであった。ぶらぶら時間をつぶすうちに皆開店し始めた。
商店街を抜けたところに古風な機関車の設置された道後温泉駅があった。カラクリ時計もあり観光スポットになっている。松山市の出身者は先ほどから盛んに携帯で高校時代の音楽仲間に電話しまくっていて、駅前に呼び出したようだ。名刺を渡された。その会話を聞くと伊予弁であろうか。
懐かしむ伊予の言葉や夏の朝 拙作
を詠んだ。そして宿に戻って出発した。今日の目的地の高縄山にドライブ登山した。R317沿いの石手川の源流の山で、終始川沿いに走る。看板を見て左折。本格的な山岳路になり、羊腸の道を走ると、石ヶ峠に着いた。ここに置いて歩いてもいいが、まだいい道が延びていた。そのまま走るとすぐに高縄寺、更に登ると山頂直下に着いてしまった。石の板を敷いた歩道を登るというでもないほど短い。1等三角点が埋まる山頂だった。傍らのNTTの電波反射塔が景観を台無しにしているが、ここまで楽に登れたのはそのお陰でもある。鉄骨の櫓に登ると瀬戸内海の眺めが素晴らしいはずが、あいにく霧が流れる。この寺のどこにも俳句だらけであった。
高浜虚子の生地を訪ねる
車に戻って、さて帰名の途に着くと思いきや、松山市出身者が虚子の句碑へ案内するという。はて、そんな句碑は知らなかった。石ヶ峠から今度は右折。サイクリストが盛んに登ってきた。道なりに下ると旧北条市になる。R196を横切って、予讃線も渡ると旧のR196に出て右折。河野川の橋を渡ると高浜虚子の句碑と胸像があった。石も新しい。
虚子は鎌倉市、芦屋市、小諸市に記念館があるのは知っているが、生家のある松山市では顕彰もされていない。大虚子にしては冷遇されている。それもまあ、子規の弟子であり、子規をあれだけ売り出している以上は二人も金は掛けられないだろう。質素であるが、虚子の老成した顔のイメージはよく出ている。
その後、鹿島の港のみ立ち寄って、帰名となった。R196を経て山間の広い県道を登ると高縄山への案内があった。笹ヶ峠を越えると今治市に入る。道はころっと変わり、一車線になり、しばらく羊腸の道を下った。再びR317になり、R196に右折。今治湯の浦ICから高速に入る。そこから今度は徳島自動車道を経て淡路道に戻った。往きは淡路道から高松道へ図らずも入ったために意図的に迂回してみたのである。
淡路は大きな島だった。本州へ帰ると長い渋滞に悩まされたが、何とか午後10過ぎ、無事帰名。有意義な旅を終えた。
「何処へなりと遊べ夏山夏の川 子規」の垂れ幕があった。子規らしい大らかな俳句である。
30歳代の頃、正月休みの四国周遊の山旅で皿ヶ嶺登山の帰途、松山市に遊んだ。例の温泉に入湯するためであった。投句箱に”大いなるぶなの枯れ木や皿ヶ嶺”を書いて投句したら佳作に選ばれて、愛媛人形を贈られた。嬉しい旅の記念になった。
今回は定年後に始めた句会のメンバー4人を誘って往復1000kmを越すドライブになった。だから松山市は2回目の再訪となった。
メンバーには松山市出身者もいて懐かしがった。高校までは松山市に住み、東京の音楽系大学に進むも、音楽家とはならず、楽器メーカーの社員となり、定年後の今は音楽指導の生活。感性を持て余すのか、俳句にも首を突っ込んだ由。というより、俳都に生まれたことが原因かも知れません。
朝7時に出発。すぐ高速道路に入ると後は松山ICまで一般道に出ることはないはずだったが、トラベルはトラブルという縁語でも分かる通り、道中色々ありまして、子規記念博物館に着いたのは午後4時過ぎでした。宿に荷を預けて徒歩で子規記念博物館へ行く。午後6時まで開館というのが旅人には嬉しい。一通り子規の人生と活動を眺めた。生まれは漢学者の系統らしいが、東京へ出てからの人間関係の築き方が素晴らしい。特に新聞記者となってペンの力で情報発信できた環境にあったことが決定付けた。
子規に名句らしい句はないじゃないか、との評価もある。彼は早世だったからそれは当たっている。ただ。彼の意を汲んだ弟子の活躍が大きかった。特に虚子が大きい。
伊予の名山・高縄山へドライブ登山
二日目は、早朝の神の湯に入湯。太鼓の音が響く。松山ならではの名物で、午前6時前というのに大勢の観光客が待っている。入湯料も最低410円から1000円を超えるものまでサービスにグレードがあった。一旦宿に戻って、商店街の街中をぶらついた。そこで新湯の存在も知った。椿の湯という。建物も新しい。3度目はここにも来よう。土産物の並ぶ商店街はまだシャッターが下りたままであった。ぶらぶら時間をつぶすうちに皆開店し始めた。
商店街を抜けたところに古風な機関車の設置された道後温泉駅があった。カラクリ時計もあり観光スポットになっている。松山市の出身者は先ほどから盛んに携帯で高校時代の音楽仲間に電話しまくっていて、駅前に呼び出したようだ。名刺を渡された。その会話を聞くと伊予弁であろうか。
懐かしむ伊予の言葉や夏の朝 拙作
を詠んだ。そして宿に戻って出発した。今日の目的地の高縄山にドライブ登山した。R317沿いの石手川の源流の山で、終始川沿いに走る。看板を見て左折。本格的な山岳路になり、羊腸の道を走ると、石ヶ峠に着いた。ここに置いて歩いてもいいが、まだいい道が延びていた。そのまま走るとすぐに高縄寺、更に登ると山頂直下に着いてしまった。石の板を敷いた歩道を登るというでもないほど短い。1等三角点が埋まる山頂だった。傍らのNTTの電波反射塔が景観を台無しにしているが、ここまで楽に登れたのはそのお陰でもある。鉄骨の櫓に登ると瀬戸内海の眺めが素晴らしいはずが、あいにく霧が流れる。この寺のどこにも俳句だらけであった。
高浜虚子の生地を訪ねる
車に戻って、さて帰名の途に着くと思いきや、松山市出身者が虚子の句碑へ案内するという。はて、そんな句碑は知らなかった。石ヶ峠から今度は右折。サイクリストが盛んに登ってきた。道なりに下ると旧北条市になる。R196を横切って、予讃線も渡ると旧のR196に出て右折。河野川の橋を渡ると高浜虚子の句碑と胸像があった。石も新しい。
虚子は鎌倉市、芦屋市、小諸市に記念館があるのは知っているが、生家のある松山市では顕彰もされていない。大虚子にしては冷遇されている。それもまあ、子規の弟子であり、子規をあれだけ売り出している以上は二人も金は掛けられないだろう。質素であるが、虚子の老成した顔のイメージはよく出ている。
その後、鹿島の港のみ立ち寄って、帰名となった。R196を経て山間の広い県道を登ると高縄山への案内があった。笹ヶ峠を越えると今治市に入る。道はころっと変わり、一車線になり、しばらく羊腸の道を下った。再びR317になり、R196に右折。今治湯の浦ICから高速に入る。そこから今度は徳島自動車道を経て淡路道に戻った。往きは淡路道から高松道へ図らずも入ったために意図的に迂回してみたのである。
淡路は大きな島だった。本州へ帰ると長い渋滞に悩まされたが、何とか午後10過ぎ、無事帰名。有意義な旅を終えた。
台高山脈・明神平から桧塚奥峰を歩く ― 2014年07月26日
今日も暑いぞ、そんな予感がする朝だった。ホントは低山ではなく、高山に登るべきなのだが。
午前5時出発の予定が6時になった。昨日までの疲れもあるか。名二環から伊勢湾岸道、東名阪の亀山ICまで走る。R25に入り、針ICを出て、後は東吉野村までは通いなれた道である。最後のコンビニは菟田野にあった。ここで飲み物とおにぎりなどを調達。東吉野村に行けば柿の葉寿司の販売を期待していたが時間的に早いようだ。
登山口の大又までは165kmもある。更に3km奥まで走ると広い駐車場があって数台の先行者がいるようだ。
9:50、炎天の下を歩き出すが、すぐに緑陰の下の林道歩きになった。車止めが本当の登山口らしく登山届けのポストが設置されていた。
ここからしばらくは舗装されているがかなり急な坂道を登った。登りきると緩やかになる。砂利道を行くとまた舗装路となり、左へ曲がって行くが直進する山道に入った。ここから四郷川に沿う険しい沢道になった。最初は右岸だが、すぐに左岸へ渡渉する。滑らないように対岸にロープが渡してある。険しい道を登るとすぐに右岸に渡渉し、小さな梯子で山道に登った。今度は大きな岩がある。これもロープをつかみながら渡渉。ぐんぐん高度を上げてゆく。やがて、落差30m位の明神滝が落ちている箇所を通過。右岸を大きく巻く。水流がやや細くなる。傾斜がきついのでジグザグを大きくとりながら高度を上げてゆく。谷も一跨ぎできる細い流れになった。もうそろそろと思う頃、水場があった。これこそが源流である。湧き水に近いのでビニールパイプを差し込んで呑みやすいようになっている。4箇所もあった。
水場から明神平へはすぐだった。ここでしばし休憩した。薊岳も懐かしい。広々とした緑の高原が美しい。緑をなすのはシダ類である。シダを敷き詰めてあるかのようだ。その中の白い花はバイケイソウである。
12:00、明神平を出発した。シダはきれいに踏み分けられて踏み跡が分かりやすい。すぐに三塚分岐に着いた。左へ歩くとまた道標があり、桧塚は左を指す。県境は明瞭な痩せ尾根になり、ほどなく、穂高明神(明神岳の山頂標が建つ)に着いた。
県境は千石山へと南下して別れる。桧塚奥峰へは西へ地形図にも破線路がないぶな林の中の迷走路である。等高線が緩くなり、わずかな踏み跡と赤テープが頼りになる。日が射さないのはありがたいが風も通らない蒸し暑い森の中の散策路であった。
13:00、桧塚奥峰に着いた。山頂だけは岩の突起があって樹林から開放されていたので南への眺めはいい。まあまあの天気だが、台高山脈の遠望は霞む。
先行者は桧塚を往復するために発って行った。私はここよりも低いピークに行く気が失せた。三角点があるだけの山である。後続が2名来た。中々に登山者が多いじゃないか。しかし、この静寂は素晴らしい。往路を戻った。明神平で長休みしていたら鹿が4頭から5頭、平の草を食み始めた。こっちを警戒しながらも草を食べていた。
下山中に天花寺高校の連中が登ってきた。朝の組と交代らしい。下るに連れて暑くなった。Pに着いた。
帰りがけに温泉に入湯し、汗を流した。四郷川では都会からのレジャーの家族連れが水遊びに興じていた。きれいな水が貴重である。
この村はかつて俳人の原石鼎が住んでいて名作を残している。その縁で句碑歌碑の建立が多い。14体もある。それでも村に根ざした作品かどうかは不明だ。
頂上やことに野菊の吹かれをり 原 石鼎
淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守 同
午前5時出発の予定が6時になった。昨日までの疲れもあるか。名二環から伊勢湾岸道、東名阪の亀山ICまで走る。R25に入り、針ICを出て、後は東吉野村までは通いなれた道である。最後のコンビニは菟田野にあった。ここで飲み物とおにぎりなどを調達。東吉野村に行けば柿の葉寿司の販売を期待していたが時間的に早いようだ。
登山口の大又までは165kmもある。更に3km奥まで走ると広い駐車場があって数台の先行者がいるようだ。
9:50、炎天の下を歩き出すが、すぐに緑陰の下の林道歩きになった。車止めが本当の登山口らしく登山届けのポストが設置されていた。
ここからしばらくは舗装されているがかなり急な坂道を登った。登りきると緩やかになる。砂利道を行くとまた舗装路となり、左へ曲がって行くが直進する山道に入った。ここから四郷川に沿う険しい沢道になった。最初は右岸だが、すぐに左岸へ渡渉する。滑らないように対岸にロープが渡してある。険しい道を登るとすぐに右岸に渡渉し、小さな梯子で山道に登った。今度は大きな岩がある。これもロープをつかみながら渡渉。ぐんぐん高度を上げてゆく。やがて、落差30m位の明神滝が落ちている箇所を通過。右岸を大きく巻く。水流がやや細くなる。傾斜がきついのでジグザグを大きくとりながら高度を上げてゆく。谷も一跨ぎできる細い流れになった。もうそろそろと思う頃、水場があった。これこそが源流である。湧き水に近いのでビニールパイプを差し込んで呑みやすいようになっている。4箇所もあった。
水場から明神平へはすぐだった。ここでしばし休憩した。薊岳も懐かしい。広々とした緑の高原が美しい。緑をなすのはシダ類である。シダを敷き詰めてあるかのようだ。その中の白い花はバイケイソウである。
12:00、明神平を出発した。シダはきれいに踏み分けられて踏み跡が分かりやすい。すぐに三塚分岐に着いた。左へ歩くとまた道標があり、桧塚は左を指す。県境は明瞭な痩せ尾根になり、ほどなく、穂高明神(明神岳の山頂標が建つ)に着いた。
県境は千石山へと南下して別れる。桧塚奥峰へは西へ地形図にも破線路がないぶな林の中の迷走路である。等高線が緩くなり、わずかな踏み跡と赤テープが頼りになる。日が射さないのはありがたいが風も通らない蒸し暑い森の中の散策路であった。
13:00、桧塚奥峰に着いた。山頂だけは岩の突起があって樹林から開放されていたので南への眺めはいい。まあまあの天気だが、台高山脈の遠望は霞む。
先行者は桧塚を往復するために発って行った。私はここよりも低いピークに行く気が失せた。三角点があるだけの山である。後続が2名来た。中々に登山者が多いじゃないか。しかし、この静寂は素晴らしい。往路を戻った。明神平で長休みしていたら鹿が4頭から5頭、平の草を食み始めた。こっちを警戒しながらも草を食べていた。
下山中に天花寺高校の連中が登ってきた。朝の組と交代らしい。下るに連れて暑くなった。Pに着いた。
帰りがけに温泉に入湯し、汗を流した。四郷川では都会からのレジャーの家族連れが水遊びに興じていた。きれいな水が貴重である。
この村はかつて俳人の原石鼎が住んでいて名作を残している。その縁で句碑歌碑の建立が多い。14体もある。それでも村に根ざした作品かどうかは不明だ。
頂上やことに野菊の吹かれをり 原 石鼎
淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守 同
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