鍋山考 ― 2006年08月05日
『旗振り山』の著者から思わぬコメントを頂いてから苦し紛れに返答していくうちに私も巻きこれそうになった。
なぜならば旗振り通信の文化は今は絶えてしまったけれども様々な歴史の深層に潜んでしまっているからである。その文化とは砦、狼煙の選定が根底にあり旗振り通信に繋がれ、一等三角測量につないできたものと想像される。しばらくはそれが平行していた時代があったのである。戦時体制、商品経済の発展、通信技術の発展は測量技術に支えられたものであった。クロスオーバーな点はいたく知的刺激がある。
一等三角点本点の間隔は約40kmある。それは約10里ということなのだ。高速道路ではSAからSAは50kmとなっているが長い間昔の距離感覚が生かされていたのである。
2.5万図の河和をじっと見つめると鍋山は東よりに位置しているが周囲はすとんと標高が下がっている。知多半島の全体を見ると丘陵の地形であるが鍋山周辺がくびれていることがわかる。もし水位が40mあがるとひょうたんの形になり更に50m上がると水没して師崎あたりは島になる。
鍋山に一等三角点本点が置かれたのは一に東西に見切りがいいということであったろう。この好条件は三角測量ばかりか旗振りの中継地としても格好の地であったと推理するのである。
かてて加えて渥美半島の大山の前衛にある雨乞山の北のみはり山は何を見張っていたのか。近くの狼煙山はどこと繋がっていたのか。失われた歴史の深層が少しづつ露頭を表すのはどんな小説よりも面白いのである。
なぜならば旗振り通信の文化は今は絶えてしまったけれども様々な歴史の深層に潜んでしまっているからである。その文化とは砦、狼煙の選定が根底にあり旗振り通信に繋がれ、一等三角測量につないできたものと想像される。しばらくはそれが平行していた時代があったのである。戦時体制、商品経済の発展、通信技術の発展は測量技術に支えられたものであった。クロスオーバーな点はいたく知的刺激がある。
一等三角点本点の間隔は約40kmある。それは約10里ということなのだ。高速道路ではSAからSAは50kmとなっているが長い間昔の距離感覚が生かされていたのである。
2.5万図の河和をじっと見つめると鍋山は東よりに位置しているが周囲はすとんと標高が下がっている。知多半島の全体を見ると丘陵の地形であるが鍋山周辺がくびれていることがわかる。もし水位が40mあがるとひょうたんの形になり更に50m上がると水没して師崎あたりは島になる。
鍋山に一等三角点本点が置かれたのは一に東西に見切りがいいということであったろう。この好条件は三角測量ばかりか旗振りの中継地としても格好の地であったと推理するのである。
かてて加えて渥美半島の大山の前衛にある雨乞山の北のみはり山は何を見張っていたのか。近くの狼煙山はどこと繋がっていたのか。失われた歴史の深層が少しづつ露頭を表すのはどんな小説よりも面白いのである。
宇連山の沢・古峠・廃村 ― 2006年08月08日
8/6にやっと清水沢右股を完全踏破できた。もとより困難な沢ではなかったが単独では無理で諦めかかっていた。おまけに再三試みてきた廃村宇連の峠道も辿ることができた。川売側は以前に1度成功し最近2度失敗しているので一発で下れたことは嬉しい。
期待していた廃屋はもう倒壊してしまったであろう、一戸も見えなかった。代わりに杉が高く伸びて天を塞ぎ薄暗い林を作っている。
海老峠からの峠道は看板の立っているところから少し仏坂峠よりに下り、左よりに山腹を横断していく。最初の尾根では右に曲がる。何と赤いペンキの標まである。踏み跡は比較的確りしている。ジグザグを描きながら高度を落としていくが地形図のイメージで谷沿いの道かと思っていたが山腹の横断がかなり長く続いた。宇連山の方向へ戻っていく感じである。一部崩壊箇所もあったが標があって迷うこともない。水の涸れた沢を渡ると細長い尾根の上を歩き始めた。これは東海自然歩道のピークから下っている長い尾根である。
よく伸びた杉の木立の中を下っていくと右から涸れた大きな沢に出合った。宇連川の源流である。沢沿いのいい道を下ると右へ渡渉する分岐がある。渡渉するとまもなくで車道に出た。諏訪神社前で小休止した。
周囲は石垣が見えるがかつての家のあった跡であろうか。今は杉の林になっている。ぽっかりと明るい空間は川合に在住し出作りに来ている林家の家でかなり大きな構えである。車で訪れたときは林家の母子2人で諏訪神社の清掃をしておられた。信仰心の篤い家は永続するのであろう。
設楽町教育委員会が昨秋出版した『三州神田覚書』によると戦前から請願していた宇連分校は戦後の昭和22年になって建設されたという。そして昭和32年にはもう閉校になったらしい。豊川用水建設のために鳳来湖ができたのは昭和33年であったという。昭和31年には昭和の大合併で旧振草村が解村となり、多くは東栄町になったが宇連と神田は設楽町になった。のんびりした奥三河に訪れた山村の歴史の激動期であった。
宇連川に沿って舗装路を歩いて下る。宇連橋まで小1時間の歩きであった。
期待していた廃屋はもう倒壊してしまったであろう、一戸も見えなかった。代わりに杉が高く伸びて天を塞ぎ薄暗い林を作っている。
海老峠からの峠道は看板の立っているところから少し仏坂峠よりに下り、左よりに山腹を横断していく。最初の尾根では右に曲がる。何と赤いペンキの標まである。踏み跡は比較的確りしている。ジグザグを描きながら高度を落としていくが地形図のイメージで谷沿いの道かと思っていたが山腹の横断がかなり長く続いた。宇連山の方向へ戻っていく感じである。一部崩壊箇所もあったが標があって迷うこともない。水の涸れた沢を渡ると細長い尾根の上を歩き始めた。これは東海自然歩道のピークから下っている長い尾根である。
よく伸びた杉の木立の中を下っていくと右から涸れた大きな沢に出合った。宇連川の源流である。沢沿いのいい道を下ると右へ渡渉する分岐がある。渡渉するとまもなくで車道に出た。諏訪神社前で小休止した。
周囲は石垣が見えるがかつての家のあった跡であろうか。今は杉の林になっている。ぽっかりと明るい空間は川合に在住し出作りに来ている林家の家でかなり大きな構えである。車で訪れたときは林家の母子2人で諏訪神社の清掃をしておられた。信仰心の篤い家は永続するのであろう。
設楽町教育委員会が昨秋出版した『三州神田覚書』によると戦前から請願していた宇連分校は戦後の昭和22年になって建設されたという。そして昭和32年にはもう閉校になったらしい。豊川用水建設のために鳳来湖ができたのは昭和33年であったという。昭和31年には昭和の大合併で旧振草村が解村となり、多くは東栄町になったが宇連と神田は設楽町になった。のんびりした奥三河に訪れた山村の歴史の激動期であった。
宇連川に沿って舗装路を歩いて下る。宇連橋まで小1時間の歩きであった。
秋きぬと ― 2006年08月10日
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
藤原敏行の有名な和歌である。今朝はあつかったけれども今までと何か違う。そこで思い出したのが以上の和歌であった。暑いと今まで以上に早く出社して鍵を開けてエアコンのスイッチを入れる。
8/8は立秋であったから季節の運行の間違いのなさに改めて感嘆する。お盆休みはもうすぐである。この休みが過ぎると年末に向って転げ落ちるような時の流れの速さを思い知る。
友人から後期計画が送信されてきた。一つ一つ実行して行きたい。
帰宅してエアコンをONするとブレーカーが働いて停電した。その度にPCもスイッチが切れる。たまりかねて無停電装置を導入した。最近は毎日となり、中電に問い合わせたり、電気屋に問い合わせたが一致した対処法はコンセントを独立することであった。電気製品が増えて蛸足配線になっていたのをエアコンだけに絞って数日たったがショートしなくなった。原因は蛸足配線だったようだ。
エアコンには外気温を感知する機能があって暑いと目一杯早く冷やそうとアンペアが消費される。その際他の電気製品があると瞬間でも持たないわけだ。
藤原敏行の有名な和歌である。今朝はあつかったけれども今までと何か違う。そこで思い出したのが以上の和歌であった。暑いと今まで以上に早く出社して鍵を開けてエアコンのスイッチを入れる。
8/8は立秋であったから季節の運行の間違いのなさに改めて感嘆する。お盆休みはもうすぐである。この休みが過ぎると年末に向って転げ落ちるような時の流れの速さを思い知る。
友人から後期計画が送信されてきた。一つ一つ実行して行きたい。
帰宅してエアコンをONするとブレーカーが働いて停電した。その度にPCもスイッチが切れる。たまりかねて無停電装置を導入した。最近は毎日となり、中電に問い合わせたり、電気屋に問い合わせたが一致した対処法はコンセントを独立することであった。電気製品が増えて蛸足配線になっていたのをエアコンだけに絞って数日たったがショートしなくなった。原因は蛸足配線だったようだ。
エアコンには外気温を感知する機能があって暑いと目一杯早く冷やそうとアンペアが消費される。その際他の電気製品があると瞬間でも持たないわけだ。
宇連山覚え書き ― 2006年08月12日
8/6の清水沢右俣からの宇連山は印象に残る山行であった。会心の山だった、とHPの掲示板の速報にも書いておいた。ハイキングの山も登り方で秘境的な雰囲気を味わえるのである。今ひとつ書き足りないことがある。
それは単なる遡行記ではなく廃道歩きでもない。地学的知識の裏付けである。地学とは今の現象から過去を実証する学問である。今日は中央の沢への出発を雷雨のため遅らせたのでヒマができた。それで近くの図書館で横山良哲先生の本を片っ端から読んでみた。
我々が歩いた清水沢の地質は1600万年前の設楽火山活動で堆積した溶岩であった。白っぽいのは凝灰岩という。黒い色の滝は水の流量がすくないので黒い苔が付着したものであろう。あるいは松脂岩であろうか。予備知識を持ってみれば都度解決できるが下山してからでは遅い。だがナメ、ナメ滝は凝灰岩であろう。人が工作したんじゃないか、と思う小さなポットホールも見られた。
今の鳳来湖は人口湖である。設楽火山が活発に活動して設楽盆地が誕生した。ここは海底だったともいう。
以前に穴滝という滝があったことを知った。奥三河の本の地図にはあった(三河名所図絵)。しかし現地に来ても看板があるわけではない。だから今まで何回となく通過しながら気がつかなかった。今回帰りがけにちらっと見た第10岩脈の一端がダム湖の水面に顔を出していて気がついた。設楽町と新城市の境界であった。横山先生の本には南北設楽の界、とかいう表現であった。
穴滝はダム湖に埋まってしまったのである。ダム堰堤から数えて10番目の岩脈が宇連川を堰き止めていた。それが侵食で滝の体をなすようになったのであろう。今は滝つぼも埋まったがかつてはウナギが沢山獲れたらしい。
廃村宇連の背後にある山だから宇連山という。かなりな源流に炭焼き窯があったのは意外であった。昔は炭の原木となる落葉広葉樹の林であった。宇連の人たちはせっせと山に通い炭を焼いて海老へ運び出したであろう。
振草村誌では宇連山をガンゾモチフデ山という別名も記載していた。モチフデは村総持筆の略記で入会山の意味らしい。だがガンゾが分からない。設楽町誌村落誌の絵図では宇連山の位置らしい山に「がんぞ(?)う」と書いてあった。?は字体が分からないで多分ということである。
今回清水沢に入って見た後で思ったことはガンゾはガンドのミスではないか、書き間違い、聞き間違いではないか。では「ガンド」とは何か。角川小辞典の『地名の語源』にそれは溶岩という意味が書いてあった。
昔この地域の山人に溶岩=ガンドという語彙があったものか。辞典に記載されるからにはポピュラーな語彙であろう。
8/13追記
先日丹羽基二氏の死亡記事を見た。氏は有名な地名氏名の語源の研究家であった。氏の著書でガンドを見てみるとやはり溶岩とあるがかっこ書きで三宅島とあるから活火山の謂いである。設楽火山は学問的には火山ではないそうだ。
それは単なる遡行記ではなく廃道歩きでもない。地学的知識の裏付けである。地学とは今の現象から過去を実証する学問である。今日は中央の沢への出発を雷雨のため遅らせたのでヒマができた。それで近くの図書館で横山良哲先生の本を片っ端から読んでみた。
我々が歩いた清水沢の地質は1600万年前の設楽火山活動で堆積した溶岩であった。白っぽいのは凝灰岩という。黒い色の滝は水の流量がすくないので黒い苔が付着したものであろう。あるいは松脂岩であろうか。予備知識を持ってみれば都度解決できるが下山してからでは遅い。だがナメ、ナメ滝は凝灰岩であろう。人が工作したんじゃないか、と思う小さなポットホールも見られた。
今の鳳来湖は人口湖である。設楽火山が活発に活動して設楽盆地が誕生した。ここは海底だったともいう。
以前に穴滝という滝があったことを知った。奥三河の本の地図にはあった(三河名所図絵)。しかし現地に来ても看板があるわけではない。だから今まで何回となく通過しながら気がつかなかった。今回帰りがけにちらっと見た第10岩脈の一端がダム湖の水面に顔を出していて気がついた。設楽町と新城市の境界であった。横山先生の本には南北設楽の界、とかいう表現であった。
穴滝はダム湖に埋まってしまったのである。ダム堰堤から数えて10番目の岩脈が宇連川を堰き止めていた。それが侵食で滝の体をなすようになったのであろう。今は滝つぼも埋まったがかつてはウナギが沢山獲れたらしい。
廃村宇連の背後にある山だから宇連山という。かなりな源流に炭焼き窯があったのは意外であった。昔は炭の原木となる落葉広葉樹の林であった。宇連の人たちはせっせと山に通い炭を焼いて海老へ運び出したであろう。
振草村誌では宇連山をガンゾモチフデ山という別名も記載していた。モチフデは村総持筆の略記で入会山の意味らしい。だがガンゾが分からない。設楽町誌村落誌の絵図では宇連山の位置らしい山に「がんぞ(?)う」と書いてあった。?は字体が分からないで多分ということである。
今回清水沢に入って見た後で思ったことはガンゾはガンドのミスではないか、書き間違い、聞き間違いではないか。では「ガンド」とは何か。角川小辞典の『地名の語源』にそれは溶岩という意味が書いてあった。
昔この地域の山人に溶岩=ガンドという語彙があったものか。辞典に記載されるからにはポピュラーな語彙であろう。
8/13追記
先日丹羽基二氏の死亡記事を見た。氏は有名な地名氏名の語源の研究家であった。氏の著書でガンドを見てみるとやはり溶岩とあるがかっこ書きで三宅島とあるから活火山の謂いである。設楽火山は学問的には火山ではないそうだ。
折々のうた ― 2006年08月13日
今朝の朝日新聞朝刊を見てあっと声が出そうになった。
本紙の人気コラムである「折々のうた」の歌集名が『相場振山』(平十八)となっているのを見たからである。滋賀県生まれ、歌人の出生地に聳える山の名前から採用したらしい。早速『旗振り山』を読んで探すとどうも土山町の山らしい。鈴鹿南部は入道ヶ岳、野登山を除くと花崗岩の山である。御影石は産地の名前がそのまま一般名として知られたが花崗岩を指す。
歌人はハンセン病にかかり失明したが健康な子供時代には父親に連れられて仕事場である相場振り山にも登ったであろう。その懐かしい思い出が歌集名となったのではないか。採録された歌は以下。
失明となりて学びしバイオリンの傷みし楽譜今も残れる
森山栄三
この楽譜は点字であろうか。失明の恐怖と不安は健常者には分からない。情報は音だけとなりさぞや不便だったことであろう。ハンセン病治療だけでも大変なのに失明が重なる不幸のどん底でバイオリンの奏でる音に光明を見出したであろう。大正13年生まれというからもはや80歳を越える。ご健吟を祈りたい。
本紙の人気コラムである「折々のうた」の歌集名が『相場振山』(平十八)となっているのを見たからである。滋賀県生まれ、歌人の出生地に聳える山の名前から採用したらしい。早速『旗振り山』を読んで探すとどうも土山町の山らしい。鈴鹿南部は入道ヶ岳、野登山を除くと花崗岩の山である。御影石は産地の名前がそのまま一般名として知られたが花崗岩を指す。
歌人はハンセン病にかかり失明したが健康な子供時代には父親に連れられて仕事場である相場振り山にも登ったであろう。その懐かしい思い出が歌集名となったのではないか。採録された歌は以下。
失明となりて学びしバイオリンの傷みし楽譜今も残れる
森山栄三
この楽譜は点字であろうか。失明の恐怖と不安は健常者には分からない。情報は音だけとなりさぞや不便だったことであろう。ハンセン病治療だけでも大変なのに失明が重なる不幸のどん底でバイオリンの奏でる音に光明を見出したであろう。大正13年生まれというからもはや80歳を越える。ご健吟を祈りたい。
石岡繁雄氏死去他 ― 2006年08月16日
8月15日、登山家で東海支部の顧問であった石岡繁雄氏が亡くなった、と各紙が報じた。ナイロンザイル事件、『氷壁』のモデル、裁判など入会以来こうしたことを聞いてきた。実際にお話を伺ったこともある。宴会で一度安曇野節を歌われたこともあった。登山だけの人ではなかったようだ。高齢のために何時しか宴会でも見かけなくなった。享年88歳。
今年のお盆休みでも北アルプスを中心に多数の山岳遭難が報じられた。特に目が行ったのは沢登りの事故である。15日「わらじの仲間」4人パーティーで新潟の飯豊連峰の北股岳に突き上げる沢登り中に1人水死が報じられている。
沢登り中の水死事故も毎年のように発生し報じられる。登山のジャンルの中ではもっとも危険な部類に入るであろう。岩の崩壊、落石、鉄砲水、落雷、滑落、転落、懸垂下降中の事故などあらゆる分野の事故が集中する。裏を返せば沢登りは総合力が試されるジャンルであろう。
釣の名エッセー『猿猴川に死す』という本では釣の名人が川で死ぬ話がある。猿猴とは河童のことでもある。得意なことで死ぬ、失敗するそして取り返しのつかない結果を招くことをいっている。猿も木から落ちる、類の話である。
「わらじの仲間」といえばトップクラスの山岳会として知られる。どんな事態であったか知りたいものである。ザイルを持つ手を離した云々とあるが。
我々の今回の山行でも初心者がトップを差し置いてリードして行くことが度々あった。ザイルも持たず、リードすると戻るに戻れない事態に陥るんだ、と注意し指導したがはやる心を抑えられなかったんであろう。
以前は私自身もザイルに頼らないことが高度な技術と誤解していた。しかし経験を深めるにしたがって改めざるを得なくなった。登攀力は確保の技術なくしてありえないのである。誤って落ちる、ルートを見出せず引き返す、こんな場面が必ずある。そんな時ザイルに頼るしかない。確保は知性である。
鈴鹿の銚子谷でも銚子大滝の右岸にいい高巻き道があるのに判断を間違って左岸に取り付いて前進も後退もできずに足が震えていた単独の登山者が居た。そこでザイルを持って登山者のところまで行き、木にザイルをかけて降ろしたことがあった。我々が行かなかったらどうなったであろう。たまたま出会った地元の人の話では時々遭難事故があって自分も担ぎ出された、と語っていた。あんたらも気をつけな、と注意してくれたことがあった。
考古学者藤森栄一の著書の中に南アルプスの鋸岳に登った猟師が降りるに降りられないことになってそのまま白骨化した話があった。獲物を追う猟師山を見ず、という言葉が現実味を帯びる話である。別の本にはミノハザワとは抜けられない沢、入ったら二度と戻れない沢の意味があるという。山には陥穽があるということである。
今年のお盆休みでも北アルプスを中心に多数の山岳遭難が報じられた。特に目が行ったのは沢登りの事故である。15日「わらじの仲間」4人パーティーで新潟の飯豊連峰の北股岳に突き上げる沢登り中に1人水死が報じられている。
沢登り中の水死事故も毎年のように発生し報じられる。登山のジャンルの中ではもっとも危険な部類に入るであろう。岩の崩壊、落石、鉄砲水、落雷、滑落、転落、懸垂下降中の事故などあらゆる分野の事故が集中する。裏を返せば沢登りは総合力が試されるジャンルであろう。
釣の名エッセー『猿猴川に死す』という本では釣の名人が川で死ぬ話がある。猿猴とは河童のことでもある。得意なことで死ぬ、失敗するそして取り返しのつかない結果を招くことをいっている。猿も木から落ちる、類の話である。
「わらじの仲間」といえばトップクラスの山岳会として知られる。どんな事態であったか知りたいものである。ザイルを持つ手を離した云々とあるが。
我々の今回の山行でも初心者がトップを差し置いてリードして行くことが度々あった。ザイルも持たず、リードすると戻るに戻れない事態に陥るんだ、と注意し指導したがはやる心を抑えられなかったんであろう。
以前は私自身もザイルに頼らないことが高度な技術と誤解していた。しかし経験を深めるにしたがって改めざるを得なくなった。登攀力は確保の技術なくしてありえないのである。誤って落ちる、ルートを見出せず引き返す、こんな場面が必ずある。そんな時ザイルに頼るしかない。確保は知性である。
鈴鹿の銚子谷でも銚子大滝の右岸にいい高巻き道があるのに判断を間違って左岸に取り付いて前進も後退もできずに足が震えていた単独の登山者が居た。そこでザイルを持って登山者のところまで行き、木にザイルをかけて降ろしたことがあった。我々が行かなかったらどうなったであろう。たまたま出会った地元の人の話では時々遭難事故があって自分も担ぎ出された、と語っていた。あんたらも気をつけな、と注意してくれたことがあった。
考古学者藤森栄一の著書の中に南アルプスの鋸岳に登った猟師が降りるに降りられないことになってそのまま白骨化した話があった。獲物を追う猟師山を見ず、という言葉が現実味を帯びる話である。別の本にはミノハザワとは抜けられない沢、入ったら二度と戻れない沢の意味があるという。山には陥穽があるということである。
中央アルプス・小黒川本谷 ― 2006年08月17日

長い間心に抱いていた思いが実現するのは本当に嬉しい。同行してくれた仲間に感謝したい。
小黒川本谷は将棋頭山に突き上げる谷の一つである。参考にした記録は『日本登山体系』(白水社)と『日本の渓谷97』(白山書房)である。前者が20年前、後者は10年前。
出発後うわっと我々の前に立ちはだかったのは5年前に出来た大堰堤であった。こんなものを越えるのか、と計画がガラガラ音を立てて崩壊しそうになった。記録にはないものが出てくると谷は年年歳歳同じでないことを実感する。
しかし近づいてみればちゃんと立派な高巻き道は作ってありほっとした。相当な山崩れがあったであろうと推定はつく。谷床はゴーロだらけ。一体どうなるやらと心配しながら遡行していった。小さい滝だが足場なく巻いて束の間、登山道が横切っている。これは長尾根ルートである。まだゴーロは続くだろうと登山道で迂回することにした。本谷に戻ったところは丁度二の沢と本谷の落合であった。
遡行を再開していきなり手ごわい滝が現れた。本来の谷の姿になったのである。ここは右岸が攻めきれず左岸を高巻く。もう行くところ滝の連続であった。しかしそこを突破後はちょっと目には手ごわそうでもなんとか突破できた。そしてビバーク地に無事到着。焚き火に成功してやはりよかった。
『山と渓谷』の遡行の喜びには沢登りの楽しさが語られ何度も読み返す。沢登りは滝を突破していくのが醍醐味である。そして夜の焚き火は勲章なのである。煙が谷をさまよっていく様は時を忘れるが今回でもそれはあった。濡れ物だらけだから乾かすのにいい。ご飯こそガスで炊いてしまったが本当は焚き火で炊き、干物をあぶって食べたかった。しかしそれは贅沢というものであろう。
未知の沢が変化を伴って現れる醍醐味は沢しかない。尾根歩きもいいが原始の森を流れる沢歩きこそ登山の原点であろう。
小黒川本谷は将棋頭山に突き上げる谷の一つである。参考にした記録は『日本登山体系』(白水社)と『日本の渓谷97』(白山書房)である。前者が20年前、後者は10年前。
出発後うわっと我々の前に立ちはだかったのは5年前に出来た大堰堤であった。こんなものを越えるのか、と計画がガラガラ音を立てて崩壊しそうになった。記録にはないものが出てくると谷は年年歳歳同じでないことを実感する。
しかし近づいてみればちゃんと立派な高巻き道は作ってありほっとした。相当な山崩れがあったであろうと推定はつく。谷床はゴーロだらけ。一体どうなるやらと心配しながら遡行していった。小さい滝だが足場なく巻いて束の間、登山道が横切っている。これは長尾根ルートである。まだゴーロは続くだろうと登山道で迂回することにした。本谷に戻ったところは丁度二の沢と本谷の落合であった。
遡行を再開していきなり手ごわい滝が現れた。本来の谷の姿になったのである。ここは右岸が攻めきれず左岸を高巻く。もう行くところ滝の連続であった。しかしそこを突破後はちょっと目には手ごわそうでもなんとか突破できた。そしてビバーク地に無事到着。焚き火に成功してやはりよかった。
『山と渓谷』の遡行の喜びには沢登りの楽しさが語られ何度も読み返す。沢登りは滝を突破していくのが醍醐味である。そして夜の焚き火は勲章なのである。煙が谷をさまよっていく様は時を忘れるが今回でもそれはあった。濡れ物だらけだから乾かすのにいい。ご飯こそガスで炊いてしまったが本当は焚き火で炊き、干物をあぶって食べたかった。しかしそれは贅沢というものであろう。
未知の沢が変化を伴って現れる醍醐味は沢しかない。尾根歩きもいいが原始の森を流れる沢歩きこそ登山の原点であろう。
伊那の食べ物 ― 2006年08月19日
お盆休みの山行で今回は高速道路を徹底して利用しなかった。渋滞もあったし時間に余裕もあった。R153で飯田市に来てから一般道の渋滞を懸念してどうするか、と相談したが天竜川の左岸に渡った。
この周辺の山ももうかなり登ったが氏乗山が未踏である。未踏の山が有るとまだ心がつながっている。
もう一つつながっているものに「鯉の甘露煮」がある。山のグルメである。それを思い出して1パック買って夜の酒のつまみにした。JAの店にある。他のスーパーでも売っている。
夕食の段になって早速ビール片手につまんだことはいうまでもない。独特の小骨が多いが美味いものである。山国の人たちの蛋白源として珍重されてきたであろう。伊那といえばよく看板にも馬刺しが出ている。これは余り食したことが無い。山の帰りに伊那市の街で食べた唯一の記憶がある。最近ではダチョウの料理が名物になったらしい。これはかがなものか。
南伊那の根羽にはアメノウオの甘露煮がある。甘いたれが絡まって美味い。美濃白鳥のあまごの甘露煮、はたれはさっぱりして甘味は抑えてあり魚の味がする。共に甲乙つけ難い。
先般の山行では同乗したKさんから馬瀬川の鮎が美味かった、と聞いた。友人のOさんは馬瀬に別荘を建てている。もちろん馬瀬の鮎の味を絶賛している。周囲の山はみな登っているがまだ食べたことがない。異口同音に美味いという鮎が私を誘っている。飛騨萩原の簗で食べた飛騨川の鮎を炊き込んだ鮎飯も美味かった。
根尾の源屋の鮎、あまご、岩魚の刺身、塩焼き、うるかなどをてんこ盛りにした川魚料理も美味い。となりの板取で食べた天然鮎も美味かった。同行した人の好評を得た。最近は行かないから尚も郷愁が募る。たまには皆をさそって行って見たくなった。
この周辺の山ももうかなり登ったが氏乗山が未踏である。未踏の山が有るとまだ心がつながっている。
もう一つつながっているものに「鯉の甘露煮」がある。山のグルメである。それを思い出して1パック買って夜の酒のつまみにした。JAの店にある。他のスーパーでも売っている。
夕食の段になって早速ビール片手につまんだことはいうまでもない。独特の小骨が多いが美味いものである。山国の人たちの蛋白源として珍重されてきたであろう。伊那といえばよく看板にも馬刺しが出ている。これは余り食したことが無い。山の帰りに伊那市の街で食べた唯一の記憶がある。最近ではダチョウの料理が名物になったらしい。これはかがなものか。
南伊那の根羽にはアメノウオの甘露煮がある。甘いたれが絡まって美味い。美濃白鳥のあまごの甘露煮、はたれはさっぱりして甘味は抑えてあり魚の味がする。共に甲乙つけ難い。
先般の山行では同乗したKさんから馬瀬川の鮎が美味かった、と聞いた。友人のOさんは馬瀬に別荘を建てている。もちろん馬瀬の鮎の味を絶賛している。周囲の山はみな登っているがまだ食べたことがない。異口同音に美味いという鮎が私を誘っている。飛騨萩原の簗で食べた飛騨川の鮎を炊き込んだ鮎飯も美味かった。
根尾の源屋の鮎、あまご、岩魚の刺身、塩焼き、うるかなどをてんこ盛りにした川魚料理も美味い。となりの板取で食べた天然鮎も美味かった。同行した人の好評を得た。最近は行かないから尚も郷愁が募る。たまには皆をさそって行って見たくなった。
愛知川再発見 ― 2006年08月22日
8/19夜はJAC東海支部でローツェ冬季遠征登山隊の壮行会に参加。日本でも最強のクライマーが揃った由。先回250m手前で撤退した屈辱を晴らすべく激励が飛んだ。
8/20は久々の愛知川本流を遡行した。LのW君の計画では今日は大瀞までで打ち切り次回に杉峠まで行くとのこと。互いに前夜は私用があって早朝発となった。
いつに変らぬ愛知川であるが今日は水量が多かった。そのことで川も生き生きして見える。滝はしぶきをあげ、青い深潭がそこかしこに出来ている。傾斜の緩い中央アルプスの沢を行くようである。改めて自然の凄さに感動する。
夏の愛知川は沢登りのメッカであろうか。行く人、来る人、岩の上に陣取って弁当を食べたり、岸辺にタープを張ったり、潜水しながら下降していった粋な老婦人もいた。とにかく人が多い。昔はこんなにも多くなかったように思う。
下ってくる人も多い。その中に「岳人」の常連である高桑信一氏一行と会った。ツメカリ谷まで下り、遡行して朝明に戻る予定らしい。
愛知川を挟んで本流と枝谷を結びピークハントも度々こなしてきた。銚子ヶ口から中峠への鈴鹿横断も厳しくも楽しい思い出である。縦走は珍しくないが横断をやった人は余り居ないと思う。北谷尻から上谷尻を通ってわさび峠越えは痛快であった。今回左岸の道を下って急速に記憶が蘇った。お金明神なる道標まで出来ている。奥村さんの地図、西尾さんの本も出て詳細であるが私は「鈴鹿の山」という山口さんのガイドブックがバイブルであった。
ヒロ沢辺りで引き返すか検討したが大瀞までの計画を断行した。しかし、日が長い夏であるがお盆を過ぎると日没は早くなる気がする。今回もまだまだといった気楽な気分があったが最後の深潭で日没となり捕まってしまった。日没となっても河原はまだ明るいが水の深さが読めない。懸垂で下った場所も浅瀬で助かった。深かったら暗い淵を泳ぐしかない。危ないことだ。
ダムを巻く林の中は真っ暗であった。
8/21朝起きると筋肉、膝が痛む。経皮鎮痛湿布薬の買い置きが切れていた。膝は15日以来の中央アルプスの疲れが取れていないからだろう。この所連続していったから膝が音をあげているかも。
8/22湿布薬を貼ってほっとした。夜になって19日にインターネットで注文しておいた『セルボーンの博物誌』が届いた。アマゾンで4800円の本が2000円弱で買えた。暇があれば少しづつでも読み継ぎたい本である。
8/20は久々の愛知川本流を遡行した。LのW君の計画では今日は大瀞までで打ち切り次回に杉峠まで行くとのこと。互いに前夜は私用があって早朝発となった。
いつに変らぬ愛知川であるが今日は水量が多かった。そのことで川も生き生きして見える。滝はしぶきをあげ、青い深潭がそこかしこに出来ている。傾斜の緩い中央アルプスの沢を行くようである。改めて自然の凄さに感動する。
夏の愛知川は沢登りのメッカであろうか。行く人、来る人、岩の上に陣取って弁当を食べたり、岸辺にタープを張ったり、潜水しながら下降していった粋な老婦人もいた。とにかく人が多い。昔はこんなにも多くなかったように思う。
下ってくる人も多い。その中に「岳人」の常連である高桑信一氏一行と会った。ツメカリ谷まで下り、遡行して朝明に戻る予定らしい。
愛知川を挟んで本流と枝谷を結びピークハントも度々こなしてきた。銚子ヶ口から中峠への鈴鹿横断も厳しくも楽しい思い出である。縦走は珍しくないが横断をやった人は余り居ないと思う。北谷尻から上谷尻を通ってわさび峠越えは痛快であった。今回左岸の道を下って急速に記憶が蘇った。お金明神なる道標まで出来ている。奥村さんの地図、西尾さんの本も出て詳細であるが私は「鈴鹿の山」という山口さんのガイドブックがバイブルであった。
ヒロ沢辺りで引き返すか検討したが大瀞までの計画を断行した。しかし、日が長い夏であるがお盆を過ぎると日没は早くなる気がする。今回もまだまだといった気楽な気分があったが最後の深潭で日没となり捕まってしまった。日没となっても河原はまだ明るいが水の深さが読めない。懸垂で下った場所も浅瀬で助かった。深かったら暗い淵を泳ぐしかない。危ないことだ。
ダムを巻く林の中は真っ暗であった。
8/21朝起きると筋肉、膝が痛む。経皮鎮痛湿布薬の買い置きが切れていた。膝は15日以来の中央アルプスの疲れが取れていないからだろう。この所連続していったから膝が音をあげているかも。
8/22湿布薬を貼ってほっとした。夜になって19日にインターネットで注文しておいた『セルボーンの博物誌』が届いた。アマゾンで4800円の本が2000円弱で買えた。暇があれば少しづつでも読み継ぎたい本である。
三河本宮山を歩く ― 2006年08月26日
本宮山を奥三河の山といってはいささか前山に過ぎる気がする。しかしやはり背後に奥三河の山の連なりがあるし前山口山というには格が違いすぎる。また里山でもない。堂々たる奥三河の山としておきたい。
6時半に自宅を出て豊川ICから登山口に着くとウォーキング何とかという施設のPがもう80%は埋まっていた。8時10分に出発すると登山口の鳥居の手前でも満車であった。何ということだ。
登り始めるとなんともう下山してくる人がいた。しかも皆空身である。聞いてみると午前5時から登り始めたという。真夏ゆえの早朝登山を楽しんでいるのである。登る人下る人で結構賑わう登山道であった。
傾斜はかなりきつい。それでも空身の人は早い。追いついて抜かれてしまう。ポイントでは小休止するが彼らは休みなく行く。低山だが水場があるのは嬉しい。また鳥居をくぐる。傾斜は段々きつくなる。
樹相が突然神域に入ったことを教えてくれる。鬱蒼とした社叢である。再び今度は青銅の鳥居をくぐる。上部でもしっかりした水場があった。階段上の尾根道を上り詰めると奥宮であった。10時であった。約1時間50分。
右手に下ると社務所がある。綺麗に清掃が行き届いている。神杉が保護されている。更に奥に赤い大きな鳥居がある。そこをくぐって山頂に向う。山頂には左書きの1等三角点があった。傍らには天測点があった。NO22とある。全国でも47箇所の貴重な場所である。
社務所に戻って中食をとった。社内には年間累計6980回、17年度の年間登山回数711回、1日の回数11回、時間は最速26分などの記録が公表されていた。驚いた。さっきから見た空身の人らはこの回数が楽しみなんだな。
巻き道から往路を戻った。下山後は本宮の湯で汗を流した。
6時半に自宅を出て豊川ICから登山口に着くとウォーキング何とかという施設のPがもう80%は埋まっていた。8時10分に出発すると登山口の鳥居の手前でも満車であった。何ということだ。
登り始めるとなんともう下山してくる人がいた。しかも皆空身である。聞いてみると午前5時から登り始めたという。真夏ゆえの早朝登山を楽しんでいるのである。登る人下る人で結構賑わう登山道であった。
傾斜はかなりきつい。それでも空身の人は早い。追いついて抜かれてしまう。ポイントでは小休止するが彼らは休みなく行く。低山だが水場があるのは嬉しい。また鳥居をくぐる。傾斜は段々きつくなる。
樹相が突然神域に入ったことを教えてくれる。鬱蒼とした社叢である。再び今度は青銅の鳥居をくぐる。上部でもしっかりした水場があった。階段上の尾根道を上り詰めると奥宮であった。10時であった。約1時間50分。
右手に下ると社務所がある。綺麗に清掃が行き届いている。神杉が保護されている。更に奥に赤い大きな鳥居がある。そこをくぐって山頂に向う。山頂には左書きの1等三角点があった。傍らには天測点があった。NO22とある。全国でも47箇所の貴重な場所である。
社務所に戻って中食をとった。社内には年間累計6980回、17年度の年間登山回数711回、1日の回数11回、時間は最速26分などの記録が公表されていた。驚いた。さっきから見た空身の人らはこの回数が楽しみなんだな。
巻き道から往路を戻った。下山後は本宮の湯で汗を流した。
最近のコメント