御嶽スキー行2~三笠山の三角点を探す2025年12月29日

 29日も宿を出て御嶽スキー場で遊ぶ。昼食を食べるレストランでまったりとくつろぐ。もう今以上にスキーをうまくなろうという意欲はない。そんな雰囲気の中でゲレンデスキーに飽きた1人が三笠山に登ろうと言いだした。山やだけにすぐ決まった。
 最終の第七リフトを降りてすぐ田の原に滑走。ここに三笠山への歩道の入り口がある。雪に埋まっているが山スキー専用靴でラッセルしながら登った。やがて山頂の神社に登拝できた。
 ヤマップのGPSを見ると三角点は別の場所に埋設されている。そこでラッセルしながら倒木を跨いだりして三角点の埋まる場所に着いた。雪に埋もれているので盛り上がりを蹴って保護石に当たった。三角点は直ぐ発見できた。思いがけない登山の喜びを味わった。
 三角点探しで約1時間も三笠山でさまよっている内にスキー場の終了時間も迫って来た。車道を滑ってゲレンデをゆっくり滑走。終点でスキーを終えた。帰り支度をしていると雪がパラついてきた。
 帰名の途についた。同行の人が木曽の銘酒を買っていきたいというので牧尾ダムの下流の土産物店に寄る。木曽の銘酒といえば七笑、中乗さん、御嶽山、杣酒など結構ある。水田はないので伊那谷から米を取り寄せて豊富にある水で酒を造るのだろう。木曽には中山道も通っている。旅人も多かったから米の需要もあった。旅人に飲ませる酒も必要だった。
 私は木曽の醤油と味噌を買った。酒とともに醸造、発酵食品である。他の客は百草丸を買っていた。薬も土産になるのだ。
 日没が早い時期は高い山に囲まれた木曽谷はすっかり暗くなった。R19へ戻っても交通量は少なく、店も開いていない。どこか飲食店はないか、大桑に目当ての店を検索したが閉店後だった。近くに台湾料理の店があったので空腹を満たせた。道の駅大桑で1名と別れた。後は中央道を走って休み休みしながら春日井ICで降りた。勝川駅南のコインパーキング(1泊で1000円)でマイカーに荷物を積み替えて友人と別れた。

御嶽スキー行1~おんたけ休暇村に泊まる2025年12月28日

 山のクラブのスキーが好きな3人が「年末はゲレンデスキーに行こう」と相談してたちまちまとまった。行き先は御嶽スキー場。名古屋市民休暇村に宿もとれた。28日は朝早く出発。R19を走る。道の駅大桑で1名をピックアップ。途中、前方に真っ白な中央アルプスが現れた。三ノ沢岳である。道の駅木曽福島を過ぎるとすぐ元橋で木曽川を渡る。ここからは王滝川に沿う、狭く羊腸の道が続く。牧尾ダムの下流を橋で渡って御嶽信仰の拠点のある里宮を経て御嶽高原の北部にある名古屋市民休暇村に一先ず立ち寄って着替えを済ます。道路にも雪が覆うようになってスキーに来た実感が湧く。 
 何年振りかで御嶽スキー場でゲレンデスキーを楽しんだ。幸い晴天に恵まれてスキー場から中央アルプス全山、恵那山、乗鞍岳、穂高岳の吊り尾根もすっきり、遠望すると蓼科山と八ヶ岳も見えた。林道コースに周ると阿寺山脈の小秀山も見える。
 体がスキーというスポーツに慣れないので中々板に乗る感覚が戻らない。午後終了間際になってから谷側に向かって板を向ける感覚を取り戻せた。12/28のハイキングの疲れがとれないまま連ちゃんでスキーというのは老躯にはちと厳しかった。
 名古屋市民休暇村に投宿、豪華な夕食を囲んだ。特注でイワナの骨酒を注文(1500円)した。こんな会食も久々の楽しいものになった。思い付きで決まったことだが歳をとっても良いものである。

風越山に登る2025年08月14日

 中津川市から木曽谷へは小雨でしたが上松では徐々に雲があがって晴れそうな天気模様でした。
 R19の萩原から懐かしさもあって東野の山里経由で風越山登山口まで走りました。(上松町は禁止。)枯れ枝、小石はあったが土砂崩れ等の障害はなく無事に通行できた。以前はちょくちょく来たが今は東野の集落は廃屋化が進んでいる感じでちょっと寂しい雰囲気です。
登山口には先着が5台あった。けっこう来ています。
 9時5分前、出発。Aコースはほぼ直線的に等高線の詰まった斜面を急登させられる。落葉樹林の中ではヤマジノホトトギス、フシグロセンノウ、カワラナデシコ等の折々の花が咲いていて癒された。
 御料局三角点と避難小屋もどきの仮小屋が建つ合流点に着くと草地から来るBコースと交わる。眺めも良くなり、木曽谷の様子が見える。御岳山は五合目以上は雲の中でした。
 花はコオニユリ、フジバカマ、アザミが咲いている。風越の頭を越えて鞍部に下ると先行の登山者が何やら撮影中だった。何と木の根っ子の部分にレンゲショウマが咲いていた。群生地は比高200m下ってまた登り返すが今日はここで見られたから山頂だけで良しとした。カニコウモリを見るのも久しい。山頂は樹林の中で何も見えない。展望所もあるが雲が厚いのでパス。パンを食べてBコースを下山した。
 下山後はねざめホテルに寄ったが日帰り入浴は盆休みで営業していなかった。久々に寝覚めの床の越前屋という蕎麦屋に寄った。R19はお盆帰りのクルマで渋滞中。クルマの量が多いだけではなく南木曽町の交通事故も原因か、車輪が外れるくらいの衝撃があったようだ。

パッキング2025年07月17日

 7/19から7/21の連休は天気も安定しそうなので噴火以後、近づけなかった御嶽山へ行ってみようか、と思案中である。ヤマップの記録を見ると盛んに登られている。五ノ池小屋も営業している。但し料金は2食付き15000円と非常に高い。日帰りで行こう。
 御嶽山の剣ヶ峰は混むだろうから継子岳が良いかも知れない。すると濁河温泉から登ってチャオ御嶽スキーリゾートへ下山、自転車でクルマに戻ろうか、と計画。天気が悪ければ奥三河の近場の山の沢登りでもやろうか。

忘年山行・長者峰&高嶺2024年11月17日

 午前5時に起床。外は暗い。もたもたするうちに6時前に自宅を出た。ようやく東の空が焼け始めた。音聞橋から眺めると雄大に見える。天白の牛丼屋で朝定を食う。6時半に出る。
 今日は東の彼方の南信州の山で山岳会の新人歓迎会と忘年会である。
 R153からR301、そして松平橋を左折、県道を足助に向かう。紅葉期は過ぎたがまだ観光客は多いので早朝に足助の街を駆け抜けた。通行量はやはり多い。
 標高500mの稲武の道の駅「どんぐりの里 いなぶ」でトイレタイム。Pは早朝でも50%は埋まる。ナビをチエックすると残り30分くらいのドライブ。稲武はクロスロードなので飯田、豊橋、恵那へと分散する。飯田方面も少なくはないが今までよりは減った。
 R153は足助からは山坂が多くカーブも多い。オーバードライブのボタンをオフにして走る。エンジンの回転数を高めに保ち、トルクの強いところを維持する。以前の3000ccターボディーゼルは余り考えもしなかったが今のクルマは2500ccと500ccも減らしたからトルクも減ってトップギアの走行が不安定になった。
 日産のND350キャラバンの8年落を購入後、エンジンルームからの異音に気づいてファンベルトとテンショナーの部品を交換してもらった。低速域での使い勝手が悪くなった。最近になって気が付いたことは最小回転半径が4.9mから5.9mに大きくなったことである。だから回転や駐車にちょっと手間取る。
 現在販売中の日産キャラバンは2400CCとさらに100ccダウンサイジングしたために7速の変速機を使わざるを得ないのだろう。
 そうこう考えながら走るうちに根羽村を一気に駆け抜け、標高920mの
道の駅 信州平谷のPに着いた。午前8時30分過ぎだった。毛糸の帽子をかぶったリーダーが目に着いたのでそこへ走った。出発の準備中で私もさっそく支度にとりかかる。
 トイレを済まし、出発したのは午前9時5分。柳川を渡って右岸に諏訪神社を見て右折。しばらく車道を歩き養蜂農家の前を過ぎると左へ大きくカーブする。左から来る小沢の手前に登山口がある。舗装路から別れて砂利道に入るとすぐに1040mの独立標高点のある尾根へ渡渉する。この尾根は最初は植林だが尾根が急登になると自然林になる。足元にはどんぐりの実が一杯落ちている。しかも太っている。
 自然林に日光が当たって美しい。急登に耐えながら行くと山毛欅の古木があった。すぐに舗装された林道に飛び出す。30分ごとに林道を串刺しにしながら長者峰のPに着く。
 そこで先着の会員らが居た。目の前の小屋でさっそくお湯を沸かし肉まん&あんまんを蒸す準備に取り掛かる。小屋では宿泊と火器の禁止を謳うが、今日のイベントでお湯を沸かす許可は事前に断ってある。
 思いがけない冬晴れのお陰で360度のうち180度くらいは丸見えだった。しかも風もなく穏やかで小春日和といったところである。次々蒸し挙がる肉まんあんまんを食べて年忘れである。また車での登山組も3名登ってきた。
 山頂のPにはライダーが多数登ってきている。三角点のある所の展望台はガラス張りになっており先着の山のグループが占領していた。
 肉まんあんまんを食べ終えると高嶺へミニハイキングに行った。登山道は林道で山頂直下で笹薮の切り開きを登る。黒い柴犬を連れた親子夫婦が先着していた。眺めは西にちょっと開ける。
 長者峰に戻って下山である。車で来たグループはお迎えが来て帰って行った。我々は自分の足で登ってきた道を下る。若い60歳代のメンバーは素早い。それでも尾根の中間点で待機してくれていた。
 後期高齢者の私との差はやっぱり足腰と膝のバネだろう。今夏ジャンダルムへ登ってきた60代の女性2名は細い、軽い。足腰のバネがある。あっという間に登りあっという間に下ってしまう。かつて年長の人と富士登山で詠んだ拙句  
   遅れがちの老登山者に歩を合はす
が今では自画像になった。
 最後は待っていてもくれず、ただ一人急峻な尾根をとぼとぼ下る。道の駅のPで再会した。雑談しているとふわふわと白い虫が飛んでいる。雪虫であった。雪虫が飛ぶと1週間以内に降雪を見るという。冬の到来を告げる虫である。
 帰路はR153を辿り途中からR343、またR153,県道58で帰宅した。
 ヤマップのデータでは往復9.9km。登りは約2時間半。高嶺往復は25分。下りは1時間20分だった。平均ペース130~150%で速い。らしい。コース定数は18でふつう。らしい。

御嶽山噴火から10年2024年09月27日

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240927/k10014592781000.html

 死者・行方不明者が63人にのぼり、「戦後最悪の火山災害」となった御嶽山の噴火から27日で10年です。
ふもとの長野県王滝村では追悼式が行われ、遺族らが犠牲者に祈りをささげ、教訓を伝え続けることへの誓いを新たにしました。

 長野と岐阜の県境にある御嶽山では、10年前の2014年9月27日に最高峰・剣ヶ峰の南西側の斜面で突然、噴火が発生し、58人が死亡、5人が行方不明となりました。

 27日は、ふもとの王滝村で遺族や自治体の関係者など70人が出席するなか追悼式が行われ、噴火が起きた時刻と同じ午前11時52分に合わせて犠牲者に祈りをささげ、教訓を伝え続けることへの誓いを新たにしました。

 続いて、同じくふもとの木曽町の原久仁男町長が「噴火から10年の日、改めて人命の安全を第1に考え火山防災対策にまい進していくことを誓います」と述べました。

 また、父親を亡くした神戸市の松井登輝也さんは「長い年月をかけて徐々に気持ちの整理をつけることができたかもしれませんが、この傷は一生治ることはありません。父の思いを伝えていくこと、災害の教訓を伝承していくことが、与えられた使命だと思っています」と述べました。

 そして、遺族ら一人ひとりが、慰霊碑の前に設けられた献花台に花を供えました。

 長野と岐阜の県境にある御嶽山では、10年前の2014年9月27日に最高峰・剣ヶ峰の南西側の斜面で突然、噴火が発生し、58人が死亡、5人が行方不明となりました。

27日は、ふもとの王滝村で遺族や自治体の関係者など70人が出席するなか追悼式が行われ、噴火が起きた時刻と同じ午前11時52分に合わせて犠牲者に祈りをささげ、教訓を伝え続けることへの誓いを新たにしました。

 続いて、同じくふもとの木曽町の原久仁男町長が「噴火から10年の日、改めて人命の安全を第1に考え火山防災対策にまい進していくことを誓います」と述べました。

 また、父親を亡くした神戸市の松井登輝也さんは「長い年月をかけて徐々に気持ちの整理をつけることができたかもしれませんが、この傷は一生治ることはありません。父の思いを伝えていくこと、災害の教訓を伝承していくことが、与えられた使命だと思っています」と述べました。

 そして、遺族ら一人ひとりが、慰霊碑の前に設けられた献花台に花を供えました。

 27日、遺族などは登山者に安全な登山を呼びかけました。

 呼びかけを行ったのは、御嶽山の噴火による犠牲者の遺族などで作る「山びこの会」のメンバー9人です。

 御嶽山は長野と岐阜の県境にあり、27日朝は、長野県王滝村にある登山口で山頂などを目指す登山者に「登山前の情報収集」、「万全な装備」などとメッセージが書かれたキーホルダーを手渡しながら、安全を呼びかけていました。
以下略
・・・・噴火、地震の予測はできない。遺族らは国に訴訟しているがちょっと違うんじゃないか。
 個人的にはスキー場開発の過剰な開発行為だろう。若い頃は標高1900m地点でリフトを降りて、今の三笠山山麓は巨木のシラビソの間をスキーで登った。ここを開発してゴンドラを掛けた。巨木を伐採するだけではなく、根っ子をダイナマイトで吹き飛ばし、クレーターのような穴が空く。そこは雪だまりになるから、解けて地中に浸透して行く。三笠山の山腹だから中は溶岩が溶けている。そこに水が到達すると水蒸気爆発する。
 長野県のスキー場は他に二ヶ所、岐阜県も遅れて千間樽の原生林を伐採してスキー場が開発された。これは2800m近くまで達する。こうした開発を長い期間にやったから丸裸になったわけだ。
 知っていて開発したのか。知らなかったのか、とにかく自然への畏怖が無かったことだけは確かである。

南信州・フロヤ沢遡行②2024年08月19日

 朝5時に起きて朝食を済ます。テントをたたんでフロヤ沢の入渓地に行く。身支度を整えて大きな堰堤を右から越えると平凡な沢に入った。しばらくは滝もなく平流が続き、実線で示す林道の終点にある大きな堰堤を右から巻いた。ちょっと高いので短いロープで懸垂下降して沢に下る。
 両岸が迫りV字形の谷相に変わる。小さな直登できる滝が現れていよいよ沢歩きらしい。特に困難な滝はないままに終わるか、と思っていたら標高1550m付近に直瀑10mの滝が立ちふさがった。遡行は不能、右も左も巻けない。それでも左にけもの道が岩の尾根に続いている。フエルトシューズでは角付けが不安定だがけものの歩いた後は結構しっかり足場になる。上部では岩が脆く支点が頼りないのでお助けロープを出してもらった。
 岩のやせ尾根に乗って先を見るとそこで断崖になるので左の流れのない空谷にそろそろと降りて小岩の散乱する谷を適度に登ってまた尾根に登り返した。40mのロープぎりぎりで懸垂下降で滝の落ち口に立った。再び遡行を再開。二岐を何度もやり過ごし、ついに水流が絶えた。と同時に地形図に表現された土の崖が見えたので笹の斜面を漕いで登山道に出た。リーダーの大声が聞こえる。右へいくとすぐに山頂だった。曇りでもあるのでアルプス展望台は割愛(先週行ったので)した。
山頂にが飯田市から若いカップルが休んでいた。人気の山だが平日はさすがに少ない。
 休憩後12時過ぎに五座小屋峠に向けて下山を開始。阿南町と平谷村の境界尾根である。最初から笹と灌木のからむヤブの尾根を下る。両方とも急峻な源頭だ。転落すると100mくらいはあっという間に滑落するだろう。笹や灌木の枝をつかみながら足元で探りながらゆっくりくだった。それでも登るよりは楽だ。
 途中にあるコブでルートから平谷村側に下る尾根に外れるのでその度に左へ笹の海を泳ぐかのように戻った。
1500mのコブが二つあるところで町村尾根と別れて九十度西に降る。しばらく笹薮を漕いだが鞍部で良い道が突然現れた。しかも赤テープが高い頻度で出てきた。無名の尾根を歩く好事家はいるものである。後は踏み跡を歩くだけだ。まもなく林道終点に着いた。もうRFの苦労から解放された。
 林道の入り口から若干登り返すと五座小屋峠だ。若い頃はこの峠から千本立に登ったが記憶はない。その他源四山にも登ったという記憶はある。
 別荘地への入り口2ヶ所を過ぎるとあとは下るのみ。クルマが見えると9時間45分の長丁場の「バリ山行」も終わった。
 ひまわりの湯に浸かる。またR153を名古屋に向けてハンドルを交代しながら帰った。

南信州・フロヤ沢遡行①2024年08月18日

 8/18(日)の夜8時ごろ平谷村へ向けて出発。目的地は8/13に幼児を連れて登ったばかりの蛇峠山。
 ミニハイキングから今度は芥川賞を受賞した「バリ山行」である。バリ山行が純文学になる。
 矢作川の源流は根羽村の茶臼山であるが長さで言えば平谷村の大川入山に突き上げる柳川である。三河湾まで約200kmある。以前から遡行の機会を狙って記録を調べると一日がかりで私の体力では沢中一泊になる。そこで蛇峠山を、と記録を調べるとヒットしない。それじゃ、とフロヤ沢を遡行して蛇峠山になった。この時期にふさわしい名前の沢だ。
 平谷村に付いてR153から靭にそれる。ここは飯田街道が塩の道と呼ばれたころの古い宿屋がまだ残っている。最奥の村だ。その三差路を右折するとフロヤ沢に沿う県道になる。入渓地点付近で仮泊の適地を探したがないので靭の奥の林道ゲートまで行ってテント設営。12時を回ったのでミニ宴会は止めて就寝。

三階峰と紅葉ドライブ2023年10月29日

 R153の寒原峠を左折、恩田から林道弓丿又線に右折すると頂上直下まで舗装された一本道である。軽く乗り越すと少し広めの道幅にクルマを停める。
 山頂への尾根には笹ヤブがかぶさるがわずかに切り開きがある。強引に笹を引っ張りながら登るとあっという間に山頂に着いた。6分。テレビのアンテナが立っているが意味不明。ヤブでさえぎられて展望はない。林道と平行する尾根にかすかな踏み跡があるので下って見た。林道との段差が縮まった辺りで林道に下る。マイカーに戻る。周回13分。散歩にもならないが2ヵ月のブランクの身にはにはこれで良い。
 せっかくなので紅葉を楽しむ林道ドライブにした。林道名が弓ノ又線という。弓ノ又川は恩田大川入山が源流で園原川の支流に当たる。新しく舗装されているので地形図にはないが園原方面につながっている見たい。12時前後は太陽が上にあり、ちょうど日光が当たり照り紅葉が素晴らしかった。
いつもと違う山が見える。最初は大川入山だろうと思った。大川入山は南西に右へ1900m前後の山なみのはずだ。北西に見えるし左右に均整がとれた山容は恵那山である。
 平谷村から根羽村は明るくなった気がする。多分全山カラマツ林でわずかに黄ばんできたからです。大川入山は全山黄葉に見えた。標高1400m前後が紅葉の真っ最中です。
 足助は来週以降ライトアップが始まる予定です。今日は天気が良かったせいか、車が多く、帰りは4時過ぎでもトンネル内から渋滞していました。

飯田街道の歴史と文化考2023年08月19日

 南北朝の時代には御醍醐天皇の皇子である宗長親王が浜松の井伊宮、大鹿村の信濃宮を拠点にした。その皇子の尹良親王(ゆきよし)は稲武に拠点を設けて三河宮とした。親王と家来が、伊那谷と三河の稲武、豊根村などを往来したであろう。そして浪合の地で襲われて自害。地形図にも印刷された立派な墳墓がある。戦記『浪合記』が残されている。大和政権がなぜ東国の南信州にまで進出したのか。大和政権は朝鮮半島からの襲来に備えて、防人の傭兵、年貢を納めさせて支配下にしたかったのではないか。東国で平和裏に暮らす山民にとっては迷惑な話で故に権力者への抵抗として襲ったのであろう。
 戦国時代には武田信玄が京都を目指して峠を越えた。蛇峠山には狼煙場を設けた。関所も作った。金山を求めて三河にも進出。杣路峠の近くに愛知県と長野県の県境があるが、尾根や沢ではなく、山腹にある。稲武の郷土史家によると根羽村は足助庄だったという。信玄に押されて信州になったという。金山だった設楽町の出来山の足助側には信玄沢の名が残る。近世末期には日本民俗学の草分けとなる『真澄遊覧記』を著す菅江真澄も峠を越えて故郷の豊橋市には帰ることもなく秋田県で死没。角館市には顕彰碑が建つ。塩の道の交易ルートになるのはその頃からであろう。
 3年位前に「山と溪谷」誌が山で食う団子の特集に協力した。愛知県の山なら当然五平餅になる。調べると飯田街道沿線は小判型、恵那地方は団子を串に刺すタイプだった。飯田市でも食える。一番遠方は四阿山の麓にある鳥居峠直下の売店でも五平餅を売っていた。ここは古東山道でもある。塩はたれになる味噌の発酵に欠かせない。
 サラリーマンのサラリーとは塩の事です。塩は身を養う栄養素のみならず、給料にもなった。俳人で東大の先生だった中村草田男は、学徒出陣する教え子に”勇気こそ地の塩なれや梅真白”と詠んだ。地味で目だたないが大切な働きを意味した。聖書に出てくる言葉でキリスト教徒らしい句です。