本日退院! ― 2014年03月05日
去る2月27の午後に入院していました。2/28に手術を施し、以来安静の元で治癒に努めていましたが本日退院できました。入院には違いないが突発的な病気や怪我ではなく、鼻や口の既往症の再生手術でした。53年前の手術痕を再生するので難しい技術を要求されます。そこは名医の呼び声高い先生にお任せするのみです。
今もまだ、糸が出たままの状態で腫れもひかないのですが生活をしながら養生してゆくことになります。
今回の入院では3時間ごとに体温や血圧などを測定されました。体温は平熱でしたが、血圧が高いと指摘を受けていよいよ高齢者モードに入ったことを否応なく自覚した。入院中、測定の度に頭痛はないか、ふらつかないか、と何度も聞かれました。これは高血圧の結果としてそういう現象があるようです。
昨年末から仕事のストレスもあって進捗せず、夕食が遅くになり、運動も不足して体重が3kgも太ってしまった。多分これが原因と内科の先生に言った。降圧剤の投与は断り生活指導を受けることにしました。詰まるところ夜は早目に就寝することや運動を取り入れて体重を落とす以外に方法は無さそうです。
降圧剤を投与されていた友人が2名までも死亡しています。飲まないと元気になるのでつい服薬をサボるようです。服薬を習慣付けるのは恐いものです。
栄養指導の先生と面談しましたが、よく言われる高血圧の原因は塩分の過剰摂取ではないことも申し上げたらやはりそうでした。肉の脂肪やコレステロールを警戒して敬遠する結果血管が弱くなっているのではないか、と私の弁。実は真因は分かっていないのです。しかし、肥満すると体重が増えた分心臓は圧を上げないと血液を送れないから結果として血圧が高くなるのは道理でしょう。だったらまず体重の減少に取り組むと申し上げた次第。しかし、2007年に減量のために肉断ちしたら風邪をひきやすくなり、3月まで咳が長引いた体験も話した。肉は大切です。加齢に伴い基礎代謝が減少するので調整が難しい。
良い肉をちょびっと食べる。
徒歩と地下鉄通勤の機会を増やすことで運動量を生活の中で確保するしかないか。3月からは山行も増える。先生も山に関心がお有りで母もハイキングを楽しんでおるとか。この部分は私が先生役になって色々お話をしました。笑
今もまだ、糸が出たままの状態で腫れもひかないのですが生活をしながら養生してゆくことになります。
今回の入院では3時間ごとに体温や血圧などを測定されました。体温は平熱でしたが、血圧が高いと指摘を受けていよいよ高齢者モードに入ったことを否応なく自覚した。入院中、測定の度に頭痛はないか、ふらつかないか、と何度も聞かれました。これは高血圧の結果としてそういう現象があるようです。
昨年末から仕事のストレスもあって進捗せず、夕食が遅くになり、運動も不足して体重が3kgも太ってしまった。多分これが原因と内科の先生に言った。降圧剤の投与は断り生活指導を受けることにしました。詰まるところ夜は早目に就寝することや運動を取り入れて体重を落とす以外に方法は無さそうです。
降圧剤を投与されていた友人が2名までも死亡しています。飲まないと元気になるのでつい服薬をサボるようです。服薬を習慣付けるのは恐いものです。
栄養指導の先生と面談しましたが、よく言われる高血圧の原因は塩分の過剰摂取ではないことも申し上げたらやはりそうでした。肉の脂肪やコレステロールを警戒して敬遠する結果血管が弱くなっているのではないか、と私の弁。実は真因は分かっていないのです。しかし、肥満すると体重が増えた分心臓は圧を上げないと血液を送れないから結果として血圧が高くなるのは道理でしょう。だったらまず体重の減少に取り組むと申し上げた次第。しかし、2007年に減量のために肉断ちしたら風邪をひきやすくなり、3月まで咳が長引いた体験も話した。肉は大切です。加齢に伴い基礎代謝が減少するので調整が難しい。
良い肉をちょびっと食べる。
徒歩と地下鉄通勤の機会を増やすことで運動量を生活の中で確保するしかないか。3月からは山行も増える。先生も山に関心がお有りで母もハイキングを楽しんでおるとか。この部分は私が先生役になって色々お話をしました。笑
術後の抜糸 ― 2014年03月08日
今日は午前中、入院してた病院に行った。傷口の措置と抜糸をしてもらった。鼻の部分は1ヶ月後に抜糸するようだ。しばらくマスクをしてお忍びスタイルで生活することになる。塗り薬と飲み薬をもらって帰宅した。患部をいじられても余り痛みは感じなくなった。傷の深部はさすがに痛む。かなり切ったよ、と看護師の長らしい人が教えてくれた。神経がつながるまでは腫れも残る。養生の日々が続く。
早春の宮路山から五井山を歩く ― 2014年03月09日
名古屋からは県道、R248、R1を走り登山口の御油に着く。快適なR1をぼんやり走っていると名電赤坂駅で右折するはずが、御油駅の表示に行過ぎたことを知った。右折して江戸時代の面影の残る狭い東海道を走る。すると宮路山の立派な道標があって左折する。あとは登山口まで一本道だった。林道の途中に大きな登山口の看板があり、Pもあった。1台分残っていた。新しいトイレもあってハイカーは多いようだ。
登山口には中型バスが路駐してあり、団体のようだ。11時52分。Pからすぐに山に取り付く。子連れとすれ違う。空身やランナーもいてすれ違う人に挨拶を交わす。12時7分、宮路山頂へは約15分ほどで361mの山頂だった。標高差は60mほどだから早いわけだ。山頂には鍋を囲む若い人で賑わっていたからあのバスは彼らだろう。
三河湾や東三河平野の写真を撮ると、12時10分すぐに五井山への縦走路に入る。道の周囲は樹林に覆われて展望はない。早春の風が時折吹いて体が温まる気がしない。起伏は少ない。65分で五井山頂に着いた。
ここも何やら火器と食材を持ち上げて楽しそうにやっている。みんな若い団体である。山ガール風の2人連れもいた。宮路山よりは五井山の方がより三河湾をワイドに眺められる。下草はカヤトで今は狐色だが5月ともなれば緑に変わる。良い山である。
山頂で会った人に聞くと岡崎市の人で30分くらいで来れそうだった。毎日でも登れるね、と笑った。愛知県の山はみな登ったそうである。山岳同定するうちに、あれが遠望峰というので、それは反対でしょ、というと富幕山だ、と訂正した。今あの山の向こうは高速になっているよね、と話を振った。しばし、三遠南信道路の話になった。よく登っている人のようである。
昼食を済ませて写真をバンバン撮った。今日は見えないが、晴れれば南ア方面も見えるようだ。
13時50分、目的を果たしたので宮路山へ往路を戻る。14時前後、いくらかは早く着いた。正午よりもガスが晴れたので撮影をする。1人、目薬を刺すので聞くと花粉症らしい。往復で山中でマスクをしている人に何人か会ったがみな花粉症なんだ。
宮路山からPに下った。車は4台に減っていた。また御油に下った。御油のイチビキ第一工場の外観を撮影した。御油松並木の資料館を見学した。東海道の家の配置図が掲示してある。その中に大津屋の屋号を見た。イチビキの旧名社名である。係員に大津屋の創業者・中村慶蔵さんの墓を教えて、と尋ねると略図を描いてくれた。
地図を見つつ細い道を縫って行き、御油墓苑のPに着いた。教えられた通り行くと細い階段道があり、辿ると木立に囲まれて一般の墓地と隔離されて代々の墓石があった。想像したよりは地味であった。
中村慶蔵は1883(明治16)年に宮路山の山麓の御油町で生まれた。1919年に大津屋株式会社(昭和36年にイチビキに改称)を設立し、新製法のみそ・しょうゆの生産に乗り出す。1970(昭和45)年に88歳で御油町に没した。
大正10年、38歳でJACに入会(名簿は幼名の慶介)。登山暦は分かっていない。当時の名簿には岡崎の志賀重昂(37番、名誉会員)、柳田國男、福沢桃助(1868-1938、日本の電力王と呼ばれた)、藤山愛一郎、日高六郎、槇有恒、小島久太(烏水)、赤沼千壽、百瀬慎太郎、伊藤孝一(481番)らの錚々たる会員がいた。富裕層、成金、学者、政治家など、当時の山岳会の雰囲気が伝わって来ようというものです。中村慶介は家業のみそ・しょうゆの生産を守りながら、このような人らに混じって大正昭和の時代を生きたのです。
山が好きだったから宮路山や五井山にも登ったであろう。山の気に包まれて安らかに眠る中村慶蔵の墓を後してまたR1を走って帰名。
登山口には中型バスが路駐してあり、団体のようだ。11時52分。Pからすぐに山に取り付く。子連れとすれ違う。空身やランナーもいてすれ違う人に挨拶を交わす。12時7分、宮路山頂へは約15分ほどで361mの山頂だった。標高差は60mほどだから早いわけだ。山頂には鍋を囲む若い人で賑わっていたからあのバスは彼らだろう。
三河湾や東三河平野の写真を撮ると、12時10分すぐに五井山への縦走路に入る。道の周囲は樹林に覆われて展望はない。早春の風が時折吹いて体が温まる気がしない。起伏は少ない。65分で五井山頂に着いた。
ここも何やら火器と食材を持ち上げて楽しそうにやっている。みんな若い団体である。山ガール風の2人連れもいた。宮路山よりは五井山の方がより三河湾をワイドに眺められる。下草はカヤトで今は狐色だが5月ともなれば緑に変わる。良い山である。
山頂で会った人に聞くと岡崎市の人で30分くらいで来れそうだった。毎日でも登れるね、と笑った。愛知県の山はみな登ったそうである。山岳同定するうちに、あれが遠望峰というので、それは反対でしょ、というと富幕山だ、と訂正した。今あの山の向こうは高速になっているよね、と話を振った。しばし、三遠南信道路の話になった。よく登っている人のようである。
昼食を済ませて写真をバンバン撮った。今日は見えないが、晴れれば南ア方面も見えるようだ。
13時50分、目的を果たしたので宮路山へ往路を戻る。14時前後、いくらかは早く着いた。正午よりもガスが晴れたので撮影をする。1人、目薬を刺すので聞くと花粉症らしい。往復で山中でマスクをしている人に何人か会ったがみな花粉症なんだ。
宮路山からPに下った。車は4台に減っていた。また御油に下った。御油のイチビキ第一工場の外観を撮影した。御油松並木の資料館を見学した。東海道の家の配置図が掲示してある。その中に大津屋の屋号を見た。イチビキの旧名社名である。係員に大津屋の創業者・中村慶蔵さんの墓を教えて、と尋ねると略図を描いてくれた。
地図を見つつ細い道を縫って行き、御油墓苑のPに着いた。教えられた通り行くと細い階段道があり、辿ると木立に囲まれて一般の墓地と隔離されて代々の墓石があった。想像したよりは地味であった。
中村慶蔵は1883(明治16)年に宮路山の山麓の御油町で生まれた。1919年に大津屋株式会社(昭和36年にイチビキに改称)を設立し、新製法のみそ・しょうゆの生産に乗り出す。1970(昭和45)年に88歳で御油町に没した。
大正10年、38歳でJACに入会(名簿は幼名の慶介)。登山暦は分かっていない。当時の名簿には岡崎の志賀重昂(37番、名誉会員)、柳田國男、福沢桃助(1868-1938、日本の電力王と呼ばれた)、藤山愛一郎、日高六郎、槇有恒、小島久太(烏水)、赤沼千壽、百瀬慎太郎、伊藤孝一(481番)らの錚々たる会員がいた。富裕層、成金、学者、政治家など、当時の山岳会の雰囲気が伝わって来ようというものです。中村慶介は家業のみそ・しょうゆの生産を守りながら、このような人らに混じって大正昭和の時代を生きたのです。
山が好きだったから宮路山や五井山にも登ったであろう。山の気に包まれて安らかに眠る中村慶蔵の墓を後してまたR1を走って帰名。
歯科外来へ ― 2014年03月11日
午後一番はマイカーに乗り換え、愛知学院大歯学部へ術後の措置を受診。執刀医の夏目長門先生とは1年ぶりに対面した。(手術中は全身麻酔のため分からなかった)昨年3月9日付けで診療申込書を書いてから丁度1年経過した。
夏目長門先生はこんな人
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20120824141047011
私が所属するJAC東海支部の会員に愛知学院大の湯浅教授、故人となったが寺西支部長、OBが多かった。ヒマラヤ遠征には同学の歯学部の先生が随行されることがあった。これも山の縁である。
術前と術後の対比を写真で見せて機能回復手術ではなく、前向きに生きてゆくための手術だよ、と言われた。何か新しい生き方を模索してくれと、医師からは珍しい要望?である。
確かに審美歯科という分野がある。30年前、まず先天的に無かった前歯をもらい、2009年に更新した。前歯は審美的に大きな要素になる。それだけでも満足していたのだった。
今度は鼻の変形の再生で、幼年時代とは審美的に見違える感じに見える。唇のぷくっとした膨らみも消えた。鼻の抜糸は1ヶ月後、全体の再生が完了するのは半年かかるといわれた。
新しい生き方と言われてもなあ、もうすでに会社員生活から脱皮して自営自立しておる。ハイキング講座、俳句会などの地域貢献、成年後見など行政書士の仕事を通じて社会貢献もしている。充分に前向きな生き方だと思うが・・・。その上に今年は山の記事の新聞連載、ガイドブック制作も決まった。仕事もインターネット経由の問い合わせが増えた。今までに無い充実感がある。
然らば語学に再挑戦するか。元々診療の目的は外国語習得のための発音障害の完全な克服だった。先週、外資系の新興企業から会計業務のアウトソーシングの問い合わせを受けた。他の条件はともかくとして、条件の最後に英語対応があった。外国人の幹部に英語で経営内容等を報告することがあるようだ。単なる下請け的な仕事ではなく、丸投げに近い。コスト競争に晒される士業であるが、これなら忙しいだけ、では無いだろう。今回は対応できず、受任は無理だが、国際化の時代を受けて準備するにこしたことは無い。
HPに英語対応と謳えれば競争力が増す。英文会計か、ハードルは高いが、やりがいはある。カタコト英語から脱皮したいがさて、いい教師がいるかしらん。
夏目長門先生はこんな人
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20120824141047011
私が所属するJAC東海支部の会員に愛知学院大の湯浅教授、故人となったが寺西支部長、OBが多かった。ヒマラヤ遠征には同学の歯学部の先生が随行されることがあった。これも山の縁である。
術前と術後の対比を写真で見せて機能回復手術ではなく、前向きに生きてゆくための手術だよ、と言われた。何か新しい生き方を模索してくれと、医師からは珍しい要望?である。
確かに審美歯科という分野がある。30年前、まず先天的に無かった前歯をもらい、2009年に更新した。前歯は審美的に大きな要素になる。それだけでも満足していたのだった。
今度は鼻の変形の再生で、幼年時代とは審美的に見違える感じに見える。唇のぷくっとした膨らみも消えた。鼻の抜糸は1ヶ月後、全体の再生が完了するのは半年かかるといわれた。
新しい生き方と言われてもなあ、もうすでに会社員生活から脱皮して自営自立しておる。ハイキング講座、俳句会などの地域貢献、成年後見など行政書士の仕事を通じて社会貢献もしている。充分に前向きな生き方だと思うが・・・。その上に今年は山の記事の新聞連載、ガイドブック制作も決まった。仕事もインターネット経由の問い合わせが増えた。今までに無い充実感がある。
然らば語学に再挑戦するか。元々診療の目的は外国語習得のための発音障害の完全な克服だった。先週、外資系の新興企業から会計業務のアウトソーシングの問い合わせを受けた。他の条件はともかくとして、条件の最後に英語対応があった。外国人の幹部に英語で経営内容等を報告することがあるようだ。単なる下請け的な仕事ではなく、丸投げに近い。コスト競争に晒される士業であるが、これなら忙しいだけ、では無いだろう。今回は対応できず、受任は無理だが、国際化の時代を受けて準備するにこしたことは無い。
HPに英語対応と謳えれば競争力が増す。英文会計か、ハードルは高いが、やりがいはある。カタコト英語から脱皮したいがさて、いい教師がいるかしらん。
二月尽そして五井山吟詠 ― 2014年03月13日
麻酔より醒めて気がつく二月尽
手術後の痛みに耐へり二月尽
ベッドにて点滴を受け二月尽
執刀の跡腫れてゐし春曇り
伊予柑を食ふ傷癒すべく食ふ
三月や退院の後うなぎ食ふ
宮路山快気祝いの初音聞く
宮路山登れば嬉し初音かな
五井山ゆ眼下におさむ春の海(三河湾)
五井山に座してながむる春の海(三河湾)
春山や頂上で鍋を囲む
歩いても温まらぬまま春の山
大名の行列今は遠足に(御油の松並木にて)
御油の春四百年の松並木(旧東海道)
手術後の痛みに耐へり二月尽
ベッドにて点滴を受け二月尽
執刀の跡腫れてゐし春曇り
伊予柑を食ふ傷癒すべく食ふ
三月や退院の後うなぎ食ふ
宮路山快気祝いの初音聞く
宮路山登れば嬉し初音かな
五井山ゆ眼下におさむ春の海(三河湾)
五井山に座してながむる春の海(三河湾)
春山や頂上で鍋を囲む
歩いても温まらぬまま春の山
大名の行列今は遠足に(御油の松並木にて)
御油の春四百年の松並木(旧東海道)
春の風邪 ― 2014年03月16日
山ほどの仕事抱えて春の風邪
控え目に薬をもらう春の風邪
朝寝して二日静養癒すべく
小康を得て散髪や春の風邪
とんかつも肉より先に春キャベツ
籠に入れし春のブロッコリー一つ
旬のもの食いたし夜は浅蜊汁
控え目に薬をもらう春の風邪
朝寝して二日静養癒すべく
小康を得て散髪や春の風邪
とんかつも肉より先に春キャベツ
籠に入れし春のブロッコリー一つ
旬のもの食いたし夜は浅蜊汁
風邪の効用ー体重減と血圧正常化へ ― 2014年03月21日
入院中、毎日指摘されて計測された血圧と体温。体温はともかく、血圧は170以上あった。それが高いという危機意識はなかった。退院後、手ごろな血圧計を購入して計測し始めた。作動しにくかった血圧計も筐体そのものを一度ねじってみたら一発で反応することが多くなった。内部の接触不良だろう。
当初は150から160台を計示したが、最近は140から150台、時に160を示す流れである。着実に下がっている。原因は体重減少の影響が大きい。入院前、入院中、退院後は78kgで推移。2日くらい絶食していても体重は減らなかった。
退院後、仕事に行ったり、軽いハイキングで動くようになったせいかマイナス2kgの76kg。その後、風邪を引いて寝込み、食べずにいたらぐんぐん減って、一旦、72kg台にまで落ちた。軽い眩暈もあるので急減は危険を感じる。食欲は已然としてなく、それでも仕事で動くから自然な空腹感はある。ベルトを何度か締め直すことも最近になって増えた。
今朝、計ったら74kg台になった。血圧も140ジャスト。医師がいうには120くらいに落とせ、とのことだった。これで食べすぎ、運動不足から体重増になり、血圧があがるとの推測は当たる。
ではなぜ食べすぎるのか、というと孤独感を食欲で癒すこと、同時に付き合いの場でも食べたり飲んだり、が欠かせない。加齢により基礎代謝が減ることとあわせて体重が増えてしまう。これを防げるほど強い意思を維持することは難しい。
風邪を引くのは辛いことだが、1年に1回、風邪を引いて生身のわが肉体を意識することも意義あることだ。癌よりも風邪の段階で生きている実感を味わうのであれば苦痛は少ない。風邪は自然な生理的調整だろう。
当初は150から160台を計示したが、最近は140から150台、時に160を示す流れである。着実に下がっている。原因は体重減少の影響が大きい。入院前、入院中、退院後は78kgで推移。2日くらい絶食していても体重は減らなかった。
退院後、仕事に行ったり、軽いハイキングで動くようになったせいかマイナス2kgの76kg。その後、風邪を引いて寝込み、食べずにいたらぐんぐん減って、一旦、72kg台にまで落ちた。軽い眩暈もあるので急減は危険を感じる。食欲は已然としてなく、それでも仕事で動くから自然な空腹感はある。ベルトを何度か締め直すことも最近になって増えた。
今朝、計ったら74kg台になった。血圧も140ジャスト。医師がいうには120くらいに落とせ、とのことだった。これで食べすぎ、運動不足から体重増になり、血圧があがるとの推測は当たる。
ではなぜ食べすぎるのか、というと孤独感を食欲で癒すこと、同時に付き合いの場でも食べたり飲んだり、が欠かせない。加齢により基礎代謝が減ることとあわせて体重が増えてしまう。これを防げるほど強い意思を維持することは難しい。
風邪を引くのは辛いことだが、1年に1回、風邪を引いて生身のわが肉体を意識することも意義あることだ。癌よりも風邪の段階で生きている実感を味わうのであれば苦痛は少ない。風邪は自然な生理的調整だろう。
句会 ― 2014年03月29日
おだやかな1日。午前中は早出の臨時出社して雑務を片付ける。肉体労働なので全身に軽い疲労感がある。ちょっと横になってから句会に出かけた。天白川の草萌える河川敷では幼児が蝶々をおいかけて遊ぶ。両岸の桜は8分咲きで見頃となった。バーベキューを楽しむグループが桜の下に陣取っている。典型的な春の風景である。
句会では1人が訃報で急に欠席。他のメンバーは全員出席。作品の波をひしひしと感じる。作者の周辺の不幸が増えていることもあり、傾向として叙情に流れやすい。俳句は叙景と言っているのだがそれでも詩の持つ心情の吐露を抑えられない。いい作品のときは周囲の生活も安定しているのだろう。
別の人は空想の世界に遊ぶことがままある。学習した事柄を自句に取り込んで作品をなす。所詮、借り物の発想では限界がある。下手でも自分の本来の心と向き合うことが良い。そこを突っ込みながら話を深めた。すると段々に自分は本当は何を詠みたかったのかが理解されてくる、と言われた。
文学少女になりたかったのに、結婚、出産、子育て、夫の世話と女の一生を生きてきた。今は病弱で老衰した夫に気遣う日々。その間隙をぬって俳句の学習に勤しむ。
以前籍を置いたカルチャーセンターの俳句教室では高名な講師の元で、教養溢れる講話を聴いたのだろう。殆ど理解できなかったらしい。中には17年以上も仕えている女性の受講生もいたとか。一般的に、女性は学習が好きである。講師も心得ていて、追いつかれないようにレベルの高い講話をすることになる。脱落者が出る所以である。
この前は図書館で横井也有の文献を請求して読もうとしたら周囲に職員らがずらっと並んで監視されたらしい。アンネの日記事件の影響か。こんな婆あが何で横井也有のような古典を読もうとするのか怪しいと見られたらしい。嫌な世の中である。
私が話す横井也有の話を糸口にさらに学ぶ。そうして理解を深める。こうした地味な学習でも年月を重ねて打ち込めば突然、高度な理解が得られてくる。ゆえに俳句は老年の文学というべし。
今日は也有の辞世の句を問われた。”短夜やわれには永き夢醒めぬ” 也有。人生50年といわれた江戸時代に82歳の長命を得た。それでも53歳までは尾張藩家老という重鎮にあったから自身の余生は29年ということ。ご臨終の報に集まった肉親や親類縁者を思いながら、多趣味に生きた人生を永き夢と断じた。ああ、好きなことに打ち込めていい人生だったという感懐をよく現わしている。短夜という季語も反語的に働き面白い。
句会では1人が訃報で急に欠席。他のメンバーは全員出席。作品の波をひしひしと感じる。作者の周辺の不幸が増えていることもあり、傾向として叙情に流れやすい。俳句は叙景と言っているのだがそれでも詩の持つ心情の吐露を抑えられない。いい作品のときは周囲の生活も安定しているのだろう。
別の人は空想の世界に遊ぶことがままある。学習した事柄を自句に取り込んで作品をなす。所詮、借り物の発想では限界がある。下手でも自分の本来の心と向き合うことが良い。そこを突っ込みながら話を深めた。すると段々に自分は本当は何を詠みたかったのかが理解されてくる、と言われた。
文学少女になりたかったのに、結婚、出産、子育て、夫の世話と女の一生を生きてきた。今は病弱で老衰した夫に気遣う日々。その間隙をぬって俳句の学習に勤しむ。
以前籍を置いたカルチャーセンターの俳句教室では高名な講師の元で、教養溢れる講話を聴いたのだろう。殆ど理解できなかったらしい。中には17年以上も仕えている女性の受講生もいたとか。一般的に、女性は学習が好きである。講師も心得ていて、追いつかれないようにレベルの高い講話をすることになる。脱落者が出る所以である。
この前は図書館で横井也有の文献を請求して読もうとしたら周囲に職員らがずらっと並んで監視されたらしい。アンネの日記事件の影響か。こんな婆あが何で横井也有のような古典を読もうとするのか怪しいと見られたらしい。嫌な世の中である。
私が話す横井也有の話を糸口にさらに学ぶ。そうして理解を深める。こうした地味な学習でも年月を重ねて打ち込めば突然、高度な理解が得られてくる。ゆえに俳句は老年の文学というべし。
今日は也有の辞世の句を問われた。”短夜やわれには永き夢醒めぬ” 也有。人生50年といわれた江戸時代に82歳の長命を得た。それでも53歳までは尾張藩家老という重鎮にあったから自身の余生は29年ということ。ご臨終の報に集まった肉親や親類縁者を思いながら、多趣味に生きた人生を永き夢と断じた。ああ、好きなことに打ち込めていい人生だったという感懐をよく現わしている。短夜という季語も反語的に働き面白い。
三月尽 ― 2014年03月31日
草萌えやてふてふを追ふ幼子よ
枝垂れ桜大路の角を華やかに
花曇りそれでも宴をにぎやかに
花冷えに励ましあいしごとくなり
満開のここぞと花の命なり
夜桜のことにきれいに咲きにけり
矢の如き歳月過ぎて三月尽
枝垂れ桜大路の角を華やかに
花曇りそれでも宴をにぎやかに
花冷えに励ましあいしごとくなり
満開のここぞと花の命なり
夜桜のことにきれいに咲きにけり
矢の如き歳月過ぎて三月尽
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