研究発表会2026年02月07日

 午後から新城市で研究発表会。午前中に設楽町の古道を歩けないか、と考えていた。咳が酷くて就寝が遅れてしまい、起きるのも遅くなった。そうではあるが道の駅したらを目指して走った。R301からR420に入ると途端に交通量が減る。多くはないが雪も残っている。R420に合流してR257へも同じで閑散として山路を走るとR257だ。道の駅したらはすぐだ。
 観光コーナーの案内所にあったパンフには清崎の里山である天神山が紹介されている。ちょっと歩いて見ようか、と車を向けたが道標はないし、地元のおじさんに聞くが整備はされていないらしい。時間も11時になり延期した。与良木峠を越えて海老へ走った。結果、稲目トンネル寄りの町道を走ったらしい。道中に石仏などの昔のよすがを示すものはなかった。
 標高点182mから下って信号で左折、清水川に沿う道を遡って・216地点で左折すると旧街道になるようだ。またの機会に歩きたい。
 設楽から約30km、30分で新城市。1時間弱あるのでコメダで喫茶を楽しむ。会場入り。
 テーマは東栄町の花祭りの話と豊橋市牟呂地区の相撲神事の研究が発表された。
 花祭りは天竜川水系だけに伝わる民俗芸能であるが、伊勢神楽の流れをくむという。2回ほど見学したことがある。
 花祭りの研究者は『御杣山』の小冊子を頒布されたので1冊購入。伊勢神宮の遷宮の歴史で1回だけ奥三河の「設楽」から御用材が搬出されたというのだが謎に包まれている。それを掘り下げる研究者が居て、継承している人なのである。いずれも豊川に筏を組んで鉄砲流しのような方法で三河湾に流したと思われる。その山は鴨山という説がある。一方で自分の推測ではあるが、鷹ノ巣山から澄川を経て豊川へ、きららの森から椹谷を経て豊川へと。夢のある研究である。
 相撲神事の伝わる豊橋市牟呂は和歌山県にも同じ地名がある。朝鮮文化につながる。日本民俗学の草分けの菅江真澄も牟呂の出身である。
 帰路はR301を経て帰名。エンジンは快調だ。これだけ信号のない国道のドライブはディーゼルエンジン車には快適である。

干支に因んだ山名の駒山を歩く2026年01月25日

 豊田市矢並町の医王寺で前泊。朝の勤行を聴いてありがたい法話を拝聴した。かつて七面山の敬慎院での冬の勤行はもっと厳しい体験だった。だが今回も寒波の中で低温下でミニ修行となった。
 医王寺を出発。R153で稲武の入り口の水別峠で左折。凍結した積雪路の坂道を登って富永調整池のPに停める。
 出発は11時過ぎになった。登山口への車道は雪を利用して急斜面の山林内をショートカット。大きなスポーツ施設の上に到達。そこから植林の中の山道に入る。雪はずっと続き途切れがない。上質の粉雪の道だ。林道と出合ったり離れたりして進む。ハイキングコースの案内板もあって雪の中でも見失うことはない。そのうち、床几の峠に着く。ここから右旋回して下ると又林道に出合う。しばらく林道上を歩くと東に展望が開けた。恵那山は見えないが多数の風力発電の山が見える。あれは上矢作町の大船山か。一方で少ない方の風力発電の山は稲武の井山だ。何となく茶臼山も特定出来た。
 林道の傍らの石仏を見て駒山への信仰の道だったことを思う。そのうち神杉が林立する境内へと登る。かつて朽ちた堂宇があったが最終的には屋根が倒壊、今は撤去された。最高点に回って山頂票を確認。帰路は雪の中で埋もれる墓石群に詣でた。この社を守っていた住職の墓だ。物知りの話では厳しい修行ゆえに40歳台で死んだと言う。手を合わせて辞した。
 屋根付きの休み所で小休止。その後1段下の崩壊の過程にある建物を見学。立派な構えだが朽ちるに任せる。
 久々の駒山を辞して林道を戻った。途中、867mの三角点峰も登った。展望はないが最高点である。以後は往路を戻った。スポーツ施設では雪の斜面で子どもらがソリ遊びに興じていた。調整池のPで散会。

大谷山山麓の古寺に泊まる2026年01月24日

 山仲間に大谷山の山懐にある矢並町の古刹・医王寺の住職がいる。何年か前に名古屋市の日泰寺で長期間の修行を経て僧職の道に入った。檀家は居ないので現在は無住であるが以前から勤行を所望していたらこの程実現した。1月24日夜から25日の朝のお勤めを実現してもらった。
 24日の昼間は自由なので2年ぶりに大谷山に登った。鞍ケ池公園のPは満車で止むなく登山口付近の林道の三叉路から往復した。冬の高曇りで展望は今一だが5日に登った村積山が見えている。下山後は医王寺に向かうと住職が既に居て準備中だった。
 医王寺は鈴木正三(1579〜1655)由来である。どんな人物か。「昔から僧侶は多く、それぞれ宗派もあるが、どの僧侶もよく修めてその道に深くなりその派の権威者には成ろうと励むが、世間のすべての衆生にたいして法に照らして当てはめよう・掬い取ろうとする人は一人も居ない。
 存在したかも知れないが、私はそのような僧侶は聞いたことがない。ざ~と観て、私がその始めかな」
「私は、80年近くの年月生き(教道の)苦労してきたけれども、誰も、真に耳を傾けて私の話を聞くものは居なかった。時流に合わなかったようだ。このままふり返られないまま、わたしは死にこれまでの苦労は徒労となるだろう。
 そう思うと空しい。・・が、今、このように私の話に耳を貸さないとはいえ、後の世に書き記しておけば、ご縁によってこの気持ちに答えてくれる人が居ると信じている。そう思ってこれを書いているのだ。<これこそが、「不退転」の体現者である>
以上。
と言うわけです。異次元の山歩きになった。

磯谷栄一著『消えゆく松平往還を歩く』を入手2026年01月18日

 元旦には名古屋市から鶴舞線・豊田線豊田市駅経由おいでんバスで松平郷へ。そこから岡崎城までウォーキング。中岡崎駅から愛環で帰名の予定。ところが思わぬ風邪でダウン。
 5日に親戚の親子を連れて村積山ハイキング。あいにく奥殿陣屋はまだ休業。メールで本の在庫の有無を確認してあったので18日に書院を訪ねて磯谷栄一氏の労作である『消えゆく松平往還を歩く』を入手。その後渡通津町から滝山寺をドライブで偵察しました。
 当初は大給城址、岩津城址、信光明寺を絡めて歩く予定でしたが松平往還の方が山岳古道の趣きがある。
 さて何時歩こうか。

伊那街道の歩き方2026年01月15日

 年末に駆け込むように登った鞍掛山では多くのヒントが得られた。道の駅したらのPを拠点にして、まずは田口に向かって新しい伊那街道を歩いて登る。石畳もあるらしいので発見があると思う。田口からは荒尾、塩津に下って、小代、かしやげ峠、大代、四谷に下る。そこから216mポイントに下れば与良木峠へ登り返すだけだ。比高170m位なので大したギャップではない。峠を越えたら道の駅したらは近い。これで新旧の伊那街道を踏破できる。

厳寒の鞍掛山を歩く2025年12月27日

 名古屋を朝早く出発。ものすごく寒い。日進市で朝飯を食う。R153、R301、R420、R257と走った。新段戸トンネルを出てすぐの橋は凍結していた。他は順調に飛ばして道の駅したらに着いた。
 先週に引き続き、設楽町清崎の山を探って見たくなった。そこで図書館で明治時代、戦後、高度成長期の五万図をチエックして見た。清崎からかしやげ峠に突き上げる郷沢沿いの地形が緩斜面なので水田でもあろうか、記号が破線路なので歩けるならトレースして見たかった。かしやげ峠に突き上げて鞍掛山に登頂も悪くない。と大まかな案を立てて出発した。
 道の駅からしばらくは車道を歩く。野々瀬川沿いの道を行くと赤松神社を過ぎて郷沢に出合う。適度に踏み込まれた山道を想定していたが、なんだすべて舗装された林道である。橋を渡ると未舗装になる。あそこもここも水田の廃田が続く。
 林道の終点で郷沢沿いから離れて境界尾根と西尾根の間の緩斜面に作られた新しい林道を歩く。この林道からは立派な石組みが見えて来た。(下山後、地元の人に聞くと昔は渡邊いっけいさんの母親が住んでいたそうだ。)かつて生活があったという断片は一切なかった。石垣の上に入っても何も見当たらない。
 林道は石垣の下で終わった。そのまま散乱した上を行くと土管が見えて小代からの林道に突き当たった。白いガードレールも見える。林道歩きから境界尾根474に合うとかしやげ峠の道標があった。ここを登ると踏み跡があり辿ってゆくと鞍部を越えて左折。そのまま歩くと棒沢の源流部が見下ろせる。植林下、ゴーロはないので歩けるだろう。まもなくでかしやげ峠に着いた。
 ものすごく寒い中で一休み。早々休んでも居れず鞍掛山に向かう。ここから坂道が急峻になった。ゆっくりゆっくり高度を上げる。北風がまともに当たって寒い。足元には霜柱が立っている。急登をこなして883mに登頂。三角点が見当たらない。まあ良いか。最高所で一休みするが寒いのですぐに立つ。
 びわくぼ峠までも凍結で固い土をやり過ごしながら下る。峠からは荒れた山道を下る。断崖絶壁から氷柱が下がっている。下部に下っても傾斜がゆるくならず、東海自然歩道にしては手強い。やっと塩津の村に出た。あいにく県道、町道とも工事中だったが人間だけなら通れるよ、と地元民のアドバイスで車道を歩く。塩津温泉の宿が二ヶ所ひっそりと営んでいる。
 植林に囲まれてた車道歩きに飽きた頃、やっと清崎の外れに来た。棒沢の対岸の家に人が居たので聞いたら「郷沢」との回答。あそこが鞍掛山だよ、というので仰ぐとかぶさるような山容だった。郷沢から上って今、あそこから下って来たんです、と。再び道の駅へ歩み始めた。清崎まではいくらもない。

地形図に残された交通史~森林鉄道2025年12月26日

 設楽町の資源は森林と水である。昭和の初めの地形図には明治時代にはなかった田口鉄道のトンネルが印刷される。後には豊橋鉄道田口線に変わる。戦後の石油輸入が盛んになると自働車用に改良されて稲目トンネルに変わった。1958年頃にはスバルのテントウ虫が発売、続いてトヨタのパブリカ、日産のサニー、トヨタのカローラでモータリゼーションの波が来ると鉄道は衰退する。
 田口線の終点は田口から寒狭川に下ったところに田口駅があった。昔は津具村で算出した金鉱山も運んでいた。田口線田峯駅から当貝津川沿いに森林鉄道の支線が張り巡らされた。更に栃洞線、最奥の鰻沢線が伸びた。鰻沢の源流は出来山という。鰻沢を遡行して出来山に登った。この時も源流部には森林軌道の跡が残置されていた。橋脚、沢沿いの軌道は美しいアーチを描く石垣が続いていた。これを見ると伐採作業員、鉄道の機関士、石工等多くの働き口を提供したであろう。
 トラックの時代になるとこれらは一気に何事も無かったかのごとく消え去った。古いトンネルだけは壊さずに残っている。

地形図に残された交通史~伊那街道2025年12月25日

 あいにくの小雨模様だが三の丸のPに停めて、愛知県図書館に向かう。三の丸の道路は南へはしばらく歩かない。これまでは幕で閉ざされていたが知らない内に白いビルが姿を現して来た。耐震補強をしたのかどうか。
 城跡の蔓性の植物も枯れている。そんな風景が枯れ葎の季語を引き出す。小雨で暗い感じが如何にも生命力の衰えた感じを引き出している。
 さて、久々の愛知県図書館に来た。警備員が以前から居たとは思うが強い警戒心を感じさせるのは不審な入館者をチエックしているのだろうか。
 目的は戦前戦後の地形図の閲覧である。3階に上がって地域資料のコーナーに行く。ここには明治時代からの地形図が閲覧できるのでたまに来る。今日はこの前歩いた新城市から設楽町を貫く歴史の山路である伊那街道の資料探しだった。
 まずは設楽町誌の絵図だけを集めた書籍を調べた。明治時代初期までの本格測量の地形図がなかった時代は鳥観図のような手書きの絵図で村の様子を記録していた。以前にも名倉の仏庫裡の古名を調べたら「ぶくりこや」となっていた。段戸山も後に鷹ノ巣山に変更されたが根拠は古名の「たかのす」である。宇連山の古名は「がんどぅ」であり、振草村誌の古名は「がんぞもちふで」というわけである。鳳来湖の奥地は振草村だったが合併で最奥は設楽町に編入、外は東栄町とまたがって整理された。
 つまり地図は散文ではないが、歴史が凝縮されている。見たのは五万図の「田口」。明治44年版、昭和の戦前、戦後の4枚を見た。
 与良木峠は記載されていたが、設楽町側に下った辺りから・412の南の鞍部を越えて、四谷の大代と小代を結んだ旧伊那街道に連絡する破線路がつながっていた。かしやげ峠を経ないで海老へ行く近道のイメージである。四谷には仏坂峠付近に古宿という地名があった。ここは宿場があったのだろう。小代から塩津、荒尾までも険しい山路である。与良木峠経由清崎経由の新道もすでにあって現在のR257の道に伊那街道とルビが降ってある。なおかつ隣の破線路は石畳の道も残っている。
 江戸時代から明治時代になると人口も増えた。輸送する塩の運搬の回数や量が増えてなるだけ楽なルートへと改良が続けられたと読める。

奥三河・冬枯れの無名の山を歩く。2025年12月19日

 明日明後日は悪天候というので気になっていた三角点「連合」のピークハントに来た。与良木峠(370m)は伊那街道の古い峠道である。クルマでトンネル迄走って見た。
 生成AIの回答(一部編集)は「南設楽郡鳳来町(現新城市)の「与良木(よらぎ)」の地名由来は、「与良木」が元々、鳳来寺の氏子圏だった小野村(現在の連合地区)の別称」だそうです。与良木隧道は「明治27年(1894)に作られた。当時の原形を留めており、愛知県最古のトンネルである。長さ35m、道路幅5m、車幅4m、高さ5m。設楽町側の扁額には、草書体で上段に「北設楽」、下段に「よらき隧道」と記される。新城市側の扁額には、楷書体で上段に「南設楽」、下段に「與良木隧道」と記される。新城市側の坑門は明治の頃の姿を残している。内部はコンクリートで修復されているが、元々は素掘りだった。後略」
 三角点の点名の連合も「元々は別の集落や地名だったものが、明治の市町村制施行やその後の合併を経て、この地域一帯の集まり(連合体)のような意味合いで「連合」という名称が使われ、それが大字名として残った」と回答があった。
 設楽町側からトンネルを通過して旧鳳来町側の山側に杣道を探して見た。△494.8mの真東まで実線の林道を走ったが無いので設楽町側まで引き返す。
 峠まで登る山路は残っておらず、危うい踏み跡をたどった。馬頭観音の碑が確かに古い峠だった証を示す。設楽町と新城市の境界尾根に立った。峠から東へは明瞭な踏み跡が登ってゆくのに「連合」へはない。境界尾根は幸いに植林の疎林であり、ヤブもないのでそろそろ歩いていく。「連合」は南北に長い尾根の南端にあり、境界尾根が北端につながったところの獣道を急登すると460mの等高線に達する。ここで約40分なので水を飲もうとしたらペットボトルを忘れた。
 三角点までの約500mの尾根も疎林で多少の低灌木はあるが痩せ尾根のために障害はない。明るいので岩場からの展望を期待したが灌木に囲まれて見えない。東は樹林越しに仏坂峠から宇連山辺りの稜線が見える。西には龍頭山だろう。三角点は土に埋まっていた。地形図では無名なので誰も登って来る人がいないのだろう。しかし、無名であるはずはなく、地元では命名されているだろう。ヤクルトの空容器の分岐まで戻る。登った獣道がこんなに急だったか、と思わせるほどの急斜面を下って鞍部に立つ。峠まで戻っても良いが鞍部から谷を降りてみた。カール状の源流部の急斜面は杉の立木や灌木の根元を支点にゆっくり下る。間伐材が散乱する谷底まで来ると足元は安定する。林道に出て峠まで戻った。
 峠から地形図の実線の道を少し歩いて見たら水田の廃田のところで引き返した。峠へ登り返して危うい踏み跡を下った。
 実線の道を行けば410mのコブの右の小さな峠を越えたところが与良木だ。水線が複雑に入り組む地形では湧水が豊富なのだろう。だから水田耕作が出来たのだ。又南向きの斜面は作物の生育には良い。米が採れれば建物の記号が固まってあるから結構人が住んでいたのだろう。隣の四谷は棚田で知られる。清崎を流れる豊川の支流の野々瀬川の支谷が境界尾根を越えて四谷の源流部に食い込んでいる。地形図を眺めていると不思議な地形だから再び来てみたい。 
 帰りは道の駅したらに寄って遅い中食にした。絹サーモンを注文したが売り切れという。一日五食というレアなメニューである。あれは豊邦というところで養殖していた気がする。代わりに鮎のフライ定食にした。3尾の鮎が開かずに丸ごと揚げてある。頭からかぶりつくが骨が硬いので食べにくい。味はまあまあ。たっぷりのキャベツも良い。

登山は博物学2025年12月17日

 山岳会の友人が岐阜から名古屋へ来るので昼食をというので付き合った。喫茶店で落ち合い、地下街の天ぷら屋で定食を食った。丁度昼食時で行列ができていたが割と早くカウンター席に着いた。定食なので決まりきったネタしかないが油が多いので腹は膨れる。
 友人は地下街の本屋で三島由紀夫の『豊饒の海1 春の雪』を買った。輪廻転生に興味があるという。別れた後は丸善で本を漁るが特に買う本はない。山岳書はスペースがかなり減った。読む人が少ないのだろう。登山が細分化したこととスポーツとして競技になってしまったことが衰退の原因と思われる。
 一方で当方は登山はフィールドワークと思う。歴史、民俗、植物、地学、などの森羅万象を捉えて知ることが楽しい。