幕末史を学ぶ2025年06月11日

 水戸天狗党の事は敦賀市の武田耕雲斎以下352名の斬首で終わっていた。4月20日に揖斐川町歴史資料館で大野郡を調べるうちに天狗党の武田耕雲斎と交渉した棚橋天籟を知って新たな肉付けをした。
 更に5/28は井伊直弼の足跡を追って彦根市へドライブして井伊直弼の歴史上の位置づけを知った。すると芋づる式に岩瀬忠震が出て来た。6/1には岩瀬の故郷の新城市の設楽原歴史資料館と勝楽寺を訪ねた。学芸員から中公新書の松岡英夫『岩瀬忠震』を紹介されたが古書しかなくしかも高価なので鶴舞図書館で借りた。結構多数の本が出されていた。5/26までには読み切れないが列挙しておく。

1 松岡英夫『岩瀬忠震』 日本を開国させた外交家 昭和56(1981)年

2 岸上耿久『光芒遥かなり』 小説岩瀬忠震  忠震会 1998年

3 小野寺龍太『岩瀬忠震』 五州何ぞ遠しと謂わん ミネルヴァ書房 
                                    2018年
4 関 良基『日本を開国させた男、松平忠固』 作品社 2020年

他に蔵書の
5 原田伊織『続・明治維新という過ち 列強の侵略を防いだ幕臣たち』(講談社文庫)原書は2016年、文庫は2018年

6 西尾幹二『維新の源流としての水戸学 』 徳間書店 2015年

7 福地桜痴『幕府衰亡論』 経営科学出版 2024年
も併読しながら理解を進めている。

設楽原歴史資料館に岩瀬忠震を訪ねて2025年06月01日

 5/31の午前中に足助の黍生を登ってからR420、R257経由で新城市に向かった。以前一度は訪ねたことがある設楽原歴史資料館が目的だった。
 まずは入口の前に建つ岩瀬忠震のブロンズ像の撮影を済ませる。館内に入って学芸員に岩瀬忠震のことを尋ねたら色々解説してくれてパンフレットも頒布しているので1冊購入(300円)した。
 解説された中で、安政の大獄で蟄居の理由は将軍の継承問題に巻き込まれたことと言われた。日米修好条約は岩瀬が自主的に進めて良いとの言質を与えたのにそして尊王攘夷派を退けて天皇の勅許なしに条約を成立させた。それなのに蟄居とはの疑問がこれで解消された。
 井伊直弼は歴史に残る大仕事をしたが勅許なしで進めてしまったことで尊王攘夷派の不満が高まる。
 これを抑え込むために安政の大獄を断行する。日本大百科全書は「1858年(安政5)江戸幕府の大老井伊直弼(いいなおすけ)による尊攘運動(そんじょううんどう)への弾圧事件。幕末の尊攘運動に一時期を画した政治的事件」。
 そして2年後、「桜田門外の変は、幕末の1860年(安政7年)3月3日に、江戸城の桜田門外で、江戸幕府の大老である井伊直弼が、水戸藩・薩摩藩の脱藩士らに襲撃され暗殺された事件です。この事件は、幕府の「安政の大獄」と井伊直弼の政治に対する反発が原因とされています。(AI)
 このような大混乱の幕末に陰乍ら日米修好条約締結の功は高評価されないまま死没する。
 愛知エースネットの年表から
<年譜>
1818年 (文政元) 設楽氏の三男として新城に生まれる
1840年 (天保11) 岩瀬市兵衛忠正の養嗣子となり長女と結婚
1843年 (天保14) 26才のとき幕吏登用試験に合格
1858年 (安政5) ハリスと交渉し,全権の一人として日米修好通商条約調印
1859年 (安政6) 前年から始まった安政の大獄により免職となる
1861年 (文久元) 44歳で病没
 設楽原歴史資料館を辞した後は近くの勝楽寺へ向かった。この寺は設楽原で戦死した武田方の将兵の位牌が安置されているそうだ。岩瀬忠震が生まれた設楽家の菩提寺ともいう。そして大きな顕彰碑も建立されて地元の手厚い顕彰ぶりは素晴らしい。
 その後は御津町上左脇の岩瀬家の墓に詣でたが探し切れなかった。GPSでも場所は特定できたが廃寺ということで地元の農家で聞いても首をかしげる。また訪ねよう。帰路は全面開通したR23御津金野ICから渋滞気味の道路に合流した。西尾市の二車線からは快適に走れた。

彦根城と彦根市立図書館を訪ねる2025年05月28日

 水戸天狗党の1000名の武装集団が根尾谷を峠越えして福井県に入り敦賀市に着いたところで352名もの武士が斬首した事件はむごいの一言。その訳を知ろうと、彦根市の彦根城と埋木舎(うもれぎのや)を訪ねたのである。名古屋市から100kmにも満たないからいつでも行けると思っていた。
 敦賀市は遠いが腰が軽い、知った当時すぐに武田耕雲斎の立像やニシン小屋を見学した。それだけ衝撃が大きかった。
 あの大量の斬首は彦根藩の藩士がやった。その遺恨はどこにあったのか。井伊直弼の一連の政策しか知らないと真相は見えてこない。憎しみの応酬ということである。
 水戸藩士は光圀公の『大日本史』で尊王攘夷(鎖国のまま)の精神がしみ込んでいる。ところがペリーは圧力で日米修好条約つまり開国を迫った。ここで徳川幕藩体制は二分する危機に陥る。
 鎖国を貫くと武力で侵略してくることは英国とのアヘン戦争(1839~1842)で清国が敗北したと知っていた。南京条約を結ばされ、香港もとられ、侵略された。このことを岩瀬忠震ら幕末の武士たちは情報をつかんでいた。
 なかでも岩瀬忠震は開国派だった。アメリカだけでなく、植民地にされないように他の欧州諸国とも条約を結ぶ構想だ。そこには天皇の勅許の手続きの問題があった。井伊直弼も開国に傾いていて岩瀬に無勅許で締結を進めて良いとした。1858年無事に日米修好条約は締結。
 これを知った水戸浪士らは反発。井伊直弼はその後弾圧するために安政の大獄が起きた。AIは「1860年(安政7年)3月3日に、江戸城桜田門外で、幕府大老の井伊直弼が、水戸藩士らの浪士によって暗殺された事件」と回答する。46歳の人生だった。
 1864年の水戸天狗党の騒乱はこれへの反発だったのだ。中山道を行くと彦根藩が待ち構えているから同年12月根尾谷から蠅帽子峠越えを選んだ。その翌年に敦賀市で斬首。
 しかし地元彦根市では手厚く顕彰されている。AIは「井伊直弼に対する評価は、歴史的文脈や立場によって大きく異なります。一般的には、強権的な政治で思想犯を弾圧した「悪人」として認識されることが多いですが、一方では、鎖国から日本を開国し近代化の基盤を築いた「開国の恩人」としても評価されています。」と回答。
 実は高評価の陰には岩瀬忠震の実務派の活躍があった。井伊直弼は無勅許で締結したことで尊王攘夷派の反発を喰らって殺害された。何だか割を食う立場になった。しかし手柄を立てたはずの岩瀬も将軍の継承問題に巻き込まれて井伊直弼から蟄居を命じられ名誉を回復することなく44歳で死んで行った。
 敦賀市で斬首されたところで止まっていた歴史がこれでようやく開通した。それにしても複雑極まりない幕末史。次は新城市へ行こう。
   世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は

揖斐川歴史民俗資料館2025年04月20日

 正午から再び美濃へ出かけた。名二環から名古屋高速に入り、R22に降りた。R156沿いのガソリンスタンドで軽油を給油。141円/リットルと激安なので目を付けていた。そこから本巣市の図書館を目指す。探し求めるのは根尾谷の歴史の本だがなかった。
 それで揖斐川歴史民俗資料館へ移動。そこにはすぐにお目当ての資料が見つかった。先ずは発見したのは揖斐川、根尾川などにまたがった江戸時代の絵図である。
 大野郡はやっぱり根尾川と揖斐川に挟まれた、というか能郷白山に端を発する雷倉山脈が大野郡だった。
 近世の根尾谷の大部分は本巣郡のエリアだった。ウィキペディアには「山口村、神海村、佐原村、木倉村、川内村、奥村、金原村、平野村、板所村、市場村、神所村、中村、越卒村、門脇村、長嶺村、天神堂村、長島村、黒津村、越波村、上大須村、下大須村、松田村、西小鹿村、東小鹿村、東板屋村、西板屋村、口谷村、奥谷村、樽見村、内野村、木知原村、日当村」が入っている。
 絵図にない能郷村は旗本領寺社領として徳山出羽守の下にあったので別格だった。同じく大河原村は美濃大垣藩のエリアにある。
 もう一つの目的の水戸天狗党の件は水戸方面から1000人の武装集団は揖斐川町に来たという。彼らの宿泊だけでも大変な世話が必要だった。そこは棚橋天籟の活躍があってのことだった。同館に『筑波の嵐』が復刻版で頒布されていたので購入(500円)した。その中のはじめにを天籟の曽孫(ひまご)の棚橋嘉明氏が書いている。顛末が簡潔に書いてあるので転載しておきたい。
「天狗党の乱というのをご存知だろうか。時は幕末、元治元年常陸国筑波山で挙兵した水戸天狗党千人余の大砲、小銃で武装した軍勢は、京都にいた十四代将軍家茂後見役で水戸藩主六男一橋慶喜を頼って尊王攘夷を訴えるべく中山道を上京。十二月一日、戦を避けて間道を通った一行には幕府より追討命令が出され、行く手を阻まれることとなった。十二月一日揖斐宿で一泊することになった。揖斐宿では近くに大垣藩の鉄砲隊が出陣していて大騒動となったが、天狗党の軍勢と折衝し、双方の応戦次第では宿場が火の海となるところを救い、被害を最小限に止めるため奔走したのが棚橋衡平(こうへい。天籟)である。天狗党の総大将武田耕雲斎はその夜衡平の助言もあって、根尾を抜け、蠅帽子峠の難関を突破。越前の敦賀にたどりついた一行を待ち受けていたのは、頼りとする慶喜が禁裏御守衛総督として天狗党を逆賊としたことに愕然となり加賀藩に投降。逆賊として三百五十二名の斬首という残忍な結末となった。
 これが天狗党の乱といわれる事件だがその悲劇は歴史の表舞台には登場しない。しかし、この事件はやがて歴史の転換期明治維新の先駆けになったともいわれる。
以下略。
 天狗党は苦労して越前へ峠越えしたのにその先の民家は焼き払われていたという。敦賀で命運尽きた悲劇である。その後揖斐川町立図書館にも寄って『棚橋天籟翁』の小冊子を発掘した。

明知鉄道沿線の歴史①2025年03月09日

 『新撰美濃志』の恵奈郡から
阿木村
は富田の北にあり。和名類聚鈔に「恵那郡安岐」とある舊郷・・・以下略。

東野村
は飯沼の北にあり。『花無山』は鍋山の続きなり。西行法師ここに住みて
 思えただ花のなからむ木の本に何をかげにてわが身住まなむ
とよみしいひ伝えたれど、山家集この歌の詞書きに「落花のうたあまたよみにけるに」とありて、ここにてよみしといふ事見えず。また
 花無の峯にすみける鶯のおのれと鳴きて春をしらする
といふ古歌も此の山の歌なるよしいへど、共にただしきつたへなし。
花無山といふ名のふるければ付会せし物なるべし。以下略

 というわけで花無山は西行の歌に詠まれた伝説がある山らしい。機会があれば行きたい。できれば明知鉄道の飯沼駅下車で登り、東野駅へ下る。歌碑も見る。

苗木城址から浅間山を周遊2025年01月25日

 東濃の未踏の里山を探して見た。既登の山の前衛とか、隠れたところに意外な山がある。今回は高峰山(945m)の南西に位置する浅間山(551m)が良さげと思った。等高線が山頂に向かって絞り込まれて尖峰に見える。記録は古くからありヤマップでも城山(苗木城址)とセットで歩かれている。直線距離も約2kmだから周回もできる。
 中央道を恵那山に向かって走る。うっすら雪化粧している。全山黒木で覆われるから真っ白にはならない。むしろ左の方に真っ白な山々が見えている。
 中津川ICを出て、10時過ぎに市街地を走るが遅いついでにコンビニではなく、スーパーで食料と飲み物を買いだした。R257で木曽川に架かる城山大橋を渡るとすぐ右折して苗木城址である。一度は来ているが記憶はない。
 東濃は尾張藩の所領だがここは苗木藩が治めていた。
「苗木藩 財源」の検索でAIは「苗木藩の財源には、藩札や御用金、領地からの収入などがありました。」との回答。藩札は今では県債、公債である。他に山林からの収益があった。小藩といえども城を経営することができたのだろう。決して楽な経営ではなかっただろう。
 恵那山を仰ぐPに停めて天守閣に向かって歩き出した。天守閣に立つと好展望が広がった。恵那山、木曽山脈、周囲には笠置山、二ッ森山などが取り囲む。木曽川、付知川とその支流が無数に流れている。中津川市苗木に生まれた俳人の吉田冬葉は
   岳雪のあざやかなるに麦を踏む 冬葉第一句集 吉田冬葉
と詠んでいる。岳雪とは恵那山の雪であろう。
 城から大手門跡へ四十八曲がりの急坂を下山。地道に出て山の田川にかかる上地橋に行くと右岸沿いに飛騨街道(南北街道)への道標があった。上には旧北恵那鉄道の鉄橋が錆びて冬空に晒されたままだ。
 12時30分、飛騨街道に進んだ。両側ともきれいに刈られて歩き易い。やや登り気味にお化け岩なるところを過ぎると車道に出て案内板は終わった。・374の民家を見て、右折。実線の道を歩いて新谷の里へ行く。やや広い道へ左折、また実線の私道のような道から民家の横を通過して二車線の市道苗木205号線へ出た。浅間山の破線路の登山口へたどるために新谷の田園地帯と・342の民家の私道も通らせてもらって車道に出た。ここから右折、工場のような建物から左折、やっとクランク状の登山口に着いた。
 地形図に破線路は示されているがきちんと整備はされていないいわゆる廃道状態であった。踏み跡へおもむくまま登って行った。先へ踏み跡が続いていたが岩尾根を攀じ登って行ったら「せんげの森」の四阿に付いてGPSを見ると破線路から外れていた。しかし良くしたもので本来の旧遊歩道への連絡路が残っていた。ここからは藪が覆う廃道をRFしながら登った。
 大手門跡を12時30分に出発して約2時間の14時36分に登頂できた。小休止後は北へ踏み跡を追う。雑木林の疎林の中で見失いそうになるとGPSで位置確認。先蹤者の付けた白っぽくなった荷造りひものマーキングが見つかる。510mのコブまで来ると良い道の跡が出て来た。
たどると15時17分、舗装路へ飛び出した。苗木城址のPまで約1時間のウォーキングが待っていた。浅間山だけなら山頂をかすめるだけだが城山と合わせて5時間とはかからない結構ハードなハイキングになった。

『新撰美濃志』に描かれた大湫(村)2025年01月13日

 『新撰美濃志』は尾張藩士の岡田文園(啓)が約30年の歳月を要して編纂した地誌である。期間は天保(てんぽう)の時代(1830年から1844年)から万延(1860年から1861年)の期間になる。江戸時代は1603年に始まり、1867年に終わるから、幕末の美濃の社会を記録している。
 復刻版(本書)の緒言に「尾張藩は十二万八千八百石を美濃に領知し、どの領主よりも最大であった。」という。
注:P557から。漢字は基本的に旧字体だが変換可能な限り変換し、出来ないものは出て来る字体にした。行替えは筆者による。

 大湫村は半原の北にありて遠山荘とも亦稲村荘ともいふ。中山道の宿驛にて京の方細久手宿より一里半餘、江戸の方大井宿より三里半の馬つぎなり。「尾張御領九十石」(略)名古屋まで十六里あり。

 「十三嶺」は宿の東大井宿との間にあり。中山道筋登り下り多き故しか名づく、されども坂道やすらかにて険阻ならず。

 「小牧山」は驛の南にあり。さのみ高からねど諸山に秀でて見るに足れり。

 「野田嶺」は驛の北にあり。千村氏毎年草餅を製して献上する地なり。

 「琵琶坂」は細久手に到る大道の坂をいふ。岩石多く道さがしく登り下り十町ばかりもあり。坂の上より互寅の方に木曽の御嶽見え、北には加賀の白山、飛騨山の間より見ゆ、白山は大山なる故麓まで雪あり。西に伊吹山も見えて好景なり。

 烏丸光栄卿の打出濱記に「大久手という所より琵琶坂といふをこゆ、けふの道すべて山の尾なり、たうげよりかなたこなたを見渡すに、こしの白山峰越に山の腰わづかに見ゆ、見るがうちに雲へだたりぬ(みこしぢのしらねいづくと白雲をふりさけ見れば雲に消えつつ)伊吹山のはるかなれどさだかに見ゆ」と見えたり。
以下略。

・十三嶺は十三峠のこと
・小牧山は稲荷山のこと
・野田嶺は本陣山のこと
・琵琶坂は琵琶峠のこと

殿様街道下調べ②2025年01月07日

 鶴舞図書館の検索機で木下信二著『殿様街私考』があると分かった。郷土資料コーナーで見ると、「昭和61年発行、孔版私家版限定65/冊子P54、 愛知県尾張旭市 樹下文庫第25冊」であった。日本の古本屋では5000円の希少価値が付いている。
 中身を見ると、実際に現地を歩いて、地元の精通者や古老などに聞きいて実証する姿勢である。また古文献、瀬戸市史などにも当たって調査は緻密と思える。それでも私考としたのは謙遜だろう。
 中でも、東光寺から石坂峠までの石畳の検証では、江戸時代以来のものではなく、電話線の保護のためと分かった。尾鷲の熊野古道の石畳は多雨地帯ゆえに道を保護する目的で多方面に亘って敷き詰められている。ここでは部分的というところに著者の注意深さが伺える。
 今となっては約400年の歴史の変遷で改修されたり破壊されて道の形は部分的にしか残っていない。それでも古きを訪ねるのはノスタルジアであろうか。

殿様街道下調べ①2025年01月04日

 元旦の山歩きで偶然に知った殿様街道をネットで調べると殿様とは徳川義直が鷹狩で出かけた定光寺の豊かな自然が気に入ってここに墓を作れと作らせた。山路だが生活道路でもあったという。
 今日は1/2に行ったばかりの尾張旭市の一角に残る殿様街道の案内板を見に行った。その後、森林公園を通りながら瀬戸市へ越えて、中水野の東光寺からの山岳古道への道筋を調べた。奥が行き止まりで入り口までは行けなかった。この先が入り口で石畳の道へ続く。そして石坂峠に登る。そこからは丸根山を経て、東海自然歩道に合流し定光寺へ良い道があるはずである。
 別の機会に『瀬戸市史』や『尾張旭市史』などをチエックしてみたい。

初旅は定光寺から東谷山へ2025年01月01日

庄内川から眺めた東谷山
       <JR中央線で定光寺へ>
 JR鶴舞駅は9:38発の普通に乗車。10:06の定刻通りJR定光寺駅に到着。庄内川の右岸から城嶺橋を渡り、定光寺に向かって歩き始める。県道205号線に進むと谷川の左岸側に東海自然歩道が通じているので移る。やや薄暗いが静かで安全だ。まもなく正伝池に着く。ここで東海自然歩道と別れ、県道を進る。定光寺の参道入口は昨年12月に車で定光寺へ行ったので割愛。まもなく喫茶店が営業していたのでふらふら入ってコーヒーを飲む。すでに11時を回った。
      <定光寺から東海自然歩道の宮刈峠へ> 
 店を出てしばらく山里を歩くと交差点の角に西山自然史博物館なる看板がある。その方向へ進むが博物館に寄る時間はない。林道を緩やかに登ると宮刈池(トンボ池)を右に見て、東海自然歩道の宮刈峠(279m)と出合う。立派なトイレとベンチもある。ここからは再び東海自然歩道を歩く。327.6mの山星山(基準点:山星)を越える。やがて大洞峠を過ぎる。中小企業大学校瀬戸校(労働者研修センター)の敷地に上がった。車道と交差するが東海自然歩道を行くと高根山(290m)を越えて森林交流館に下る。正式には「愛知森林管理事務所 森林交流館」という。
       <定光寺自然休養林>  
 この一帯が林野庁管轄の定光寺自然休養林である。丸根山とも言うらしいがピークは不明。ここからは車道と遊歩道が交錯しているので車道優先、時々遊歩道を下った。車道で石坂峠を越える。
観光案内図の看板にはここから「殿様街道」が東光寺へと南下している。付近には名城大学演習林もあり細道が下るが前途不案内なので引き返す。
    <初代名古屋城主・徳川義直が歩いた殿様街道とは>
 ちょっと長いが検索で得た「瀬戸市歴史文化基本構想を活用した観光拠点形成のための協議会」のサイトから「尾張藩主の行列が通ったことから名づけられた。
 尾張藩初代藩主徳川義直が葬られた定光寺への墓参りの道として、また、水野で行われた狩りのために通う道でもあった。初代尾張藩主義直は、藩主として領国内の民情を把握するために鹿狩や鷹狩を盛んに行った。
 特に水野には元和8年(1622)以降20回以上訪れており、その際に訪れた定光寺の景色に感銘を受け、自らの墓所に定めたとされている。名古屋城から定光寺までは、約6里(24Km)の行程で、瀬戸市内では「中水野」交差点から水野大橋を渡って東光寺、そこから丘陵地帯に入って石坂峠までの区間が道として残っている。」とある。
 つまり江戸時代以来の山岳古道である。一度は歩いて見たい。愛環の中水野駅から定光寺へのルートも良い。
 三角点221.1mの基準点名は玉ヶ峰と言う。今回は割愛。下部では基本的に山路の方を歩いた。そして車道に降り立った。地形図では内田町の一角である。愛環の中水野駅には14時10分頃着いた。これならまだ東谷山を明るいうちに乗り越えられると、続行した。 
       <東谷山へ登拝の参道を登る>
 国道と県道を歩き、住宅の並ぶ十軒町に行くと県道の交差点に案内板があった。地形図には東谷山から真東に石段を表わす記号から実線が伸びている。ここへ誘導されて鳥居をくぐるともう境内の一角である。長い参道の石段を登ると待望の東谷山(198m)の頂上に建つ尾張戸神社である。名古屋市の最高峰である。
 平地を歩く参拝ではなく、登って拝むから登拝である。遠くを眺める場合は遥拝という。苦労した末の登拝が初詣になった。500mlの水を飲みほした。これで今日の目的は果たしたので高蔵寺駅へ下山である。神社の横を通って社務所の管理用の車道へ出た。住宅地からR155、庄内川を渡ると高蔵寺駅だ。16:10の電車に乗れた。正味6時間の初旅になった。