磯谷栄一著『消えゆく松平往還を歩く』を入手2026年01月18日

 元旦には名古屋市から鶴舞線・豊田線豊田市駅経由おいでんバスで松平郷へ。そこから岡崎城までウォーキング。中岡崎駅から愛環で帰名の予定。ところが思わぬ風邪でダウン。
 5日に親戚の親子を連れて村積山ハイキング。あいにく奥殿陣屋はまだ休業。メールで本の在庫の有無を確認してあったので18日に書院を訪ねて磯谷栄一氏の労作である『消えゆく松平往還を歩く』を入手。その後渡通津町から滝山寺をドライブで偵察しました。
 当初は大給城址、岩津城址、信光明寺を絡めて歩く予定でしたが松平往還の方が山岳古道の趣きがある。
 さて何時歩こうか。

雪とグルメと温泉の釜ヶ谷山2026年01月11日

 気象予報では雨が降るようで芳しくない。今回は久々に2名になったので冬の雨は嫌だな、と思いつつ出かけた。名古屋を5時には出る。すき家で朝定をかき込んで名二環に入り、名古屋高速一宮線で北上、R22に降りてR156へ、岩戸トンネルを抜けてすぐ左折、鵜飼い大橋で長良川を渡ると百々ヶ峰に突き当たる。R256に入って如来ヶ岳山麓を北上、県道79号を西へ行くと伊自良川と交差するので県道91号に右折。集合はてんこもり農産物直売所へ午前7時だがチエーンがあっては入れない。まだ薄暗いが相棒はコンビニで待っていていた。すぐ伊自良湖へ向かった。立ち寄りたいたい所があったが下山後だ。
 下山後に江戸時代の地誌『新撰美濃志』を読んでみた。伊自良郷と呼ばれていたが伊自良村はなく、長瀧村の項目があった。伊自良は十郷あってそれぞれ字があった。・・・『釜嶽』は濃陽志略に「里民呼曰釜溪ト連互數里ニ絶頂有池四時不涸、此山雑樹葱岩石岣最爲奇也」と見えたり。『長瀧山、岸見山』伊自良の高山なり。伊自良川は此の山中より出づ。常は水なく、砂川にて洪雨の時水出づ。略。『甘南美寺』は臨済宗にて白華山と號す。開基は高阿彌、名知阿彌。本尊は千手十一面観音、脇立不動毘沙門なり。當國三十三所十三番に配す。引用は以上。
 長瀧村の名残りは伊自良湖のすぐ下流の里の地名に見る。伊自良湖の湖面が見えると多数のボートが浮かんでいた。恋人同士が朝早くからデート?多分公魚釣りか、疑問のまま登山口の臨時Pに着いた。地形図で116m地点。あいにく小雨模様だ。オーバーヤッケで防寒と小雨対応の身支度を整えて出発。最初は舗装路を分け入ると杉の高木が生える森の中である。番号入りの観音の石仏が立っている。バンガローのような施設は今は冬のもの寂しい雰囲気である。しばらくは車道を歩くと二又に別れる。右は釜ヶ谷に沿う林道で赤谷の出合い迄続く。堰堤記号が三か所連続してあった。我々は釜ヶ谷本流に沿いながら直進。左へ上がって四阿などの施設で舗装路は終わった。ここからは未舗装の林道歩きだが次第に山路になった。途端に谷が立って来て傾斜が強まる。岩がごろごろした歩きにくい山路をこなしてゆくと優しい道になり、山頂からの南東尾根の端に立つ四阿に着いた。残念ながら展望はない。途中から小雨が降雪になった。一種の感動とともに不安も伴う。ここで雪に備えて雨具でザックをカバー。尾根の道からみぞれ谷の枝谷の源流を迂回すると奥の院に着いた。社殿は穴だらけだ。中をのぞくと座禅した板間があった。穴は多分風通しを良くして腐食を避けるためか、人が使わない建物は内にこもった湿気で腐る。雨の時は膨張して外からの湿気を防ぎ、乾燥した時は縮んで隙間風を入れてやる校倉造が理想ですが高額の建設費がかかる。
 さて出発だ。左に丁度33番目の石仏が建っていた。美濃三十三観音霊場の十三番目の霊場だ。ここを後に登るとすぐに神社が建っていた。ここはおそらく明治維新で「仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する」という仏教の信仰や施設を否定する運動の影響か。説明を読むと明治3年とある。祖神は皇祖神のアマテラスだった。
 地形図で等高線が密にになり、急登を強いられた。行者岩に到達、上に登ると、最近登った百々ヶ峰と金華山が見えた。ちょっと荒れ気味の登山道を登ると龍神コースへの分岐に着いた。降ったり止んだりしていたが標高640mまで来ると冷気が違う。一面真っ白になった。小さなコブを巻くと待望の山頂だった。千把小屋という避難小屋まである。扉がないので雪が吹き込んで床は白い。小屋の四隅の角は丁度腰掛に良いのがあって少し休めた。
 休憩中にもどんどん降って来る。眺めもなく止みそうにないので往路の下山を決めた。連続的に降雪路を下る。桧の林に下っても断続的に雪がある。滑落しないようにゆっくり慎重に下った。東屋まで下るとやっと落ち葉の道になり安定的に歩ける。車道に着いてほっと一安心。そこから余裕で石仏の番号を見ながら下ってPに戻った。
 帰りは甘南美寺に寄って参拝。池の鯉の大きさに見とれた。もう一ヶ所、「伊自良湖 FISHIG & ADVENTURE PARK」に寄った。公魚(わかさぎ)の天ぷらはあるか、聞いたらフライはあるとの回答。13時だったがラーメンと公魚のフライ(二人で一つ)を注文。朝6時半から釣りボートを営業するから恋人のデートではなかった。疑問が解けた。待っている間にも車にどんどん積もって来た。雪とグルメの冬日和を楽しめた。
 もう一つおまけに帰りがけに約30分の所にある武芸川温泉に寄って入湯した。900円と高くなったにもかかわらず、そして大雪というのに大勢のお客が詰めかけて来た。これには驚いた。

地形図に残された交通史~森林鉄道2025年12月26日

 設楽町の資源は森林と水である。昭和の初めの地形図には明治時代にはなかった田口鉄道のトンネルが印刷される。後には豊橋鉄道田口線に変わる。戦後の石油輸入が盛んになると自働車用に改良されて稲目トンネルに変わった。1958年頃にはスバルのテントウ虫が発売、続いてトヨタのパブリカ、日産のサニー、トヨタのカローラでモータリゼーションの波が来ると鉄道は衰退する。
 田口線の終点は田口から寒狭川に下ったところに田口駅があった。昔は津具村で算出した金鉱山も運んでいた。田口線田峯駅から当貝津川沿いに森林鉄道の支線が張り巡らされた。更に栃洞線、最奥の鰻沢線が伸びた。鰻沢の源流は出来山という。鰻沢を遡行して出来山に登った。この時も源流部には森林軌道の跡が残置されていた。橋脚、沢沿いの軌道は美しいアーチを描く石垣が続いていた。これを見ると伐採作業員、鉄道の機関士、石工等多くの働き口を提供したであろう。
 トラックの時代になるとこれらは一気に何事も無かったかのごとく消え去った。古いトンネルだけは壊さずに残っている。

地形図に残された交通史~伊那街道2025年12月25日

 あいにくの小雨模様だが三の丸のPに停めて、愛知県図書館に向かう。三の丸の道路は南へはしばらく歩かない。これまでは幕で閉ざされていたが知らない内に白いビルが姿を現して来た。耐震補強をしたのかどうか。
 城跡の蔓性の植物も枯れている。そんな風景が枯れ葎の季語を引き出す。小雨で暗い感じが如何にも生命力の衰えた感じを引き出している。
 さて、久々の愛知県図書館に来た。警備員が以前から居たとは思うが強い警戒心を感じさせるのは不審な入館者をチエックしているのだろうか。
 目的は戦前戦後の地形図の閲覧である。3階に上がって地域資料のコーナーに行く。ここには明治時代からの地形図が閲覧できるのでたまに来る。今日はこの前歩いた新城市から設楽町を貫く歴史の山路である伊那街道の資料探しだった。
 まずは設楽町誌の絵図だけを集めた書籍を調べた。明治時代初期までの本格測量の地形図がなかった時代は鳥観図のような手書きの絵図で村の様子を記録していた。以前にも名倉の仏庫裡の古名を調べたら「ぶくりこや」となっていた。段戸山も後に鷹ノ巣山に変更されたが根拠は古名の「たかのす」である。宇連山の古名は「がんどぅ」であり、振草村誌の古名は「がんぞもちふで」というわけである。鳳来湖の奥地は振草村だったが合併で最奥は設楽町に編入、外は東栄町とまたがって整理された。
 つまり地図は散文ではないが、歴史が凝縮されている。見たのは五万図の「田口」。明治44年版、昭和の戦前、戦後の4枚を見た。
 与良木峠は記載されていたが、設楽町側に下った辺りから・412の南の鞍部を越えて、四谷の大代と小代を結んだ旧伊那街道に連絡する破線路がつながっていた。かしやげ峠を経ないで海老へ行く近道のイメージである。四谷には仏坂峠付近に古宿という地名があった。ここは宿場があったのだろう。小代から塩津、荒尾までも険しい山路である。与良木峠経由清崎経由の新道もすでにあって現在のR257の道に伊那街道とルビが降ってある。なおかつ隣の破線路は石畳の道も残っている。
 江戸時代から明治時代になると人口も増えた。輸送する塩の運搬の回数や量が増えてなるだけ楽なルートへと改良が続けられたと読める。

本坂峠から富士見岩ハイキング2025年11月18日

 10月3日の坊ケ峰に続いて18日も午後からの所用で新城市へ。午前中をフルに使って先月の心残りの本坂峠から富士見岩の間の部分を歩いた。先月は峠直下の旧トンネルまで車で上がったが今日はR362のトンネル手前にP。しばらく車道を歩くとR362の下をくぐってすぐにトイレがある。ここで左が姫街道、右が嵩山の蛇穴へと行く。
 車道を歩くと行き止まりになるので戻って、山側に続く踏み跡をたどると国の史跡に指定された嵩山(すせ)の蛇穴だった。ここには嵩山自然歩道の道標がある。自然歩道は桧の植林で手入れがされて美しい冬木立になっている。歩いて行くと浅間神社への分岐、姫街道への分岐を見送り、頭浅間の古社のある稜線(豊橋自然歩道)に到達した。途端に強い北風が吹きさらされて寒い。
 ここまでが1時間弱でベンチで休むと冷えるのですぐ南に向けて歩き出す。愛知県側は桧の人工林だが静岡県側の境内周辺は常緑照葉樹林が覆う。この植生は427.2m(4等三角点:本坂峠)を越えてもしばらくは続く。かつて日本列島の西南はこのような植生が占めていた。樹齢の古そうな太い幹も多い。保全されているのだろうか。
 柴田明彦『旗振り山と航空灯台』(ナカニシヤ出版。令和3(2021)年出版)によると米相場の情報伝達の場として嵩山の山上とだけの記載があり、427.2mの本坂峠のピークを推定されている。周囲より20m以上高いのでそうかも知れないが現状は愛知県側は桧の人工林が高く、静岡県側は前述の通り照葉樹の高木が生えている。ただ三角点の先が膝くらいの笹原になっている。そして静岡県側に広い地形は想定通りか。ここ以外に良い場所はない。ここから中山峠の南の旗振山(点名:中山峠。393m)につなげるのは無理がない。
 嵩山町側へのバリルート(破線路)の案内もある。常緑照葉樹林から抜け出すとパッと明るくなり、下り気味に歩いて登り返すと富士見岩だった。南側に回って岩に攀じ登り素晴らしい展望を得た。眼下には三ヶ日町の猪鼻湖、広大な浜名湖は冬の太陽に鈍く照り返し光る海に見えた。山の中の山も良いが海の見える山も良い。
 冬晴れには違いないが遠方は冬霞ではっきりしない。それでも黒っぽい富士山が見えた。まだ雪が少ない。これで一応の目標は達成できた。
 下山時は12時30分。新城市の歴研の会合まで1時間あるが昼食を食べている時間は無さそうだ。ナビを見ると27分とあった。信号が殆どないから早い。途中、次郎柿の露天売り場が続くのでつい一袋買った。200円で6個は入っていた。13時20分に無事会場入りできた。
 会議後、100km先の奥大井の山を予定していたが冬型の気圧配置の影響か冷たい雨がぱらついて中止にした。名古屋への帰途はR23に周ったが刈谷市周辺から大渋滞。東名高速も豊田市周辺が大渋滞だったらしい。R301が良かったかな。R23は刈谷で降りて徳重経由で帰った。

大峰山脈・山上ヶ岳に登る。2025年10月10日

 10/9の夜は大淀町の道の駅吉野路大淀センターで仮眠。軽自動車なので窮屈だったが丸まって寝た。
 10/10の午前5時に出発、R169からR370,R309とナビ任せで泥川温泉に導かれた。ごろごろ茶屋駐車場に着いたがまだ奥があると走ると913.1mの三角点のあるPが広がっていた。店舗はあったが無人、封筒に1日1000円を入れて投函する仕組みだった。支度を整えておにぎり1個をお茶で流し込んで出発。橋を渡ると女人結界の石柱が建っている。1300年の歴史があるから前近代的とは言うなかれ。
 登山道はゆるやかに整備されている。一の世茶屋はすぐに着く。一本松茶屋までは山腹を縫う道で歩き易い。更に先の洞辻茶屋で稜線に上がる。谷間から尾根上に登って明るい。吉野方面から大峰奥駈け道が合わさる。この道は熊のへ続き世界遺産ともなった奥駈け道である。小屋で休んでいたら一人東京から来て奥駈け道を目指したが雨で引き返す途中だった。世間話に花を咲かせていると1時間の長休みになった。
 稜線になると自然も豊になる。左右二手に分かれた道は左へ。先の人が慎重に、とアドバイスしてくれたが、重装備だから慎重になったのだろう。我々は日帰りで軽いから心配はいらない。
 鐘掛岩には鎖場まで立ち寄ったが霧で引き返す。登山道は平坦になった。西ノ覗岩も霧でパス。平坦ながら岩場の通過があるので捗らない。その内宿坊の立ち並ぶ一角に着いた。大峰山寺の手前まで来たのだ。古い宿坊の軒先にザックを置いて空身で山上に登った。境内に着くと左が本堂だった。右の高まりがあるので細道を行くと背の低い笹原の中にお花畑と山頂の看板が立つ。左折して笹の小径を歩くと一等三角点のある山頂だった。その奥は聖蹟、右は湧出岩の石柱が建つ。どうやらこれがシンボルらしい。
 登山者としては一等三角点の大峰山上に関心がある。1887(明治20)年埋設。補点である。奈良県の一等三角点は8座あり、これで6座登った。大峰山系では釈迦ヶ岳、玉置山に次ぐ三座目になる。釈迦ヶ岳は東のコブシ嶺から眺めると三角錐の立派な山容だがこの山は望岳した覚えがない。それも今になった理由である。
 釈迦ヶ岳は三十代に登った。西行法師が小夜の中山で詠んだ和歌
   年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山
 私もまた後期高齢者になってから登りに来れるとは。命があればこそこうして霧を突いて登山出来た。
 霧の中で長居は出来ない。霧しょんべんといってずぶぬれになりそうだ。先の宿坊へ戻ってザックからおにぎりを出して食う。冷涼な自然の中では喉の渇きもないからお茶もまだある。来た道を戻った。二手の道は板の階段道で滑りやすいので慎重に下る。洞辻茶屋で休憩。ここで稜線から谷筋の道へ入る。雰囲気が随分変わる。水飲み場にはソーメンが落ちている。これが不潔感を誘うので手を洗うにとどめた。きれいに使って欲しい。
 歩き易い道になるが先は長い。そんな倦んだ気分を変えてくれたのは鹿の啼き声だった。
    遠くよりな滑りそと啼く鹿の声    拙作
 ※な~その間に連用形、未然形の動詞を入れると軽い禁止になる。
 足もとに気を付けて滑らないように下りなさい、と山の主のような鹿が導いてくれるかに聞こえる。最後の茶屋を見て一段と歩き易い山路まで来るとPに出た。やっぱり我々の車だけあった。支度して動き始めると軽自動車のパトカーが来て我々を見るとUターンしていった。誰かが6時頃から15時30分ごろまで動かない車があうるよ、と警察に通報したんだろうか。ごろごろ茶屋には多数の観光客が居た。さらにくだると昭和レトロな洞川の商店街に出て帰りたくなくなった。結果、柿の葉寿司を購入、洞川温泉に入湯したりとミニ観光で余韻を楽しんだ。
 R309に戻ると奈良の複雑な道路網を抜けてようやく名阪道路に入れた。

久恋の四阿山に登る2025年09月15日

 朝5時台に起きて外を眺めると雲が低い。余り芳しい気象では無さそうだ。6時にはホテルを出てすき家で朝定を食う。R144で嬬恋村を目指す。8時過ぎには嬬恋パルコールスキーリゾートに着いた。雲が低く暑い。昨日の朝9時過ぎに見たゴンドラはすっきり見えたが今朝はすぐそこまで霧が降っている。結果すぐの出発を見合わせて9時に乗った。往復で3000円。結果ゴンドラを下車、ショートスパッツを付けて9時40分に出発できた。
 最初はゲレンデから右へ少し登って歩道をたどるとリフトの終点に軽く登ってゲレンデを下る。実はここから山路への分岐もあったが見落としてそのまま下ってから歩道へ合流した。標高2060m付近の鞍部から樹林帯の中を歩く。
 情報通り、歩道は泥濘でぬかるんでいた。2180m前後のゆるやかな等高線の稜線に登り緩やかに歩く。水はけが悪いせいかどこも黒い水溜まりだできて歩きにくい。樹林の中の慰めはナナカマドが少し赤っぽく色づき始めていたことだ。足元にはきのこ類、竜胆の花、黄色いミヤマアキノキリンソウ?もたくさん見かけた。山は秋の装いになっている。
 山頂直下の分岐に着いて後25分となった。樹林帯から抜けたので急に明るくなった感じである。幸い雲が高く上がって行く。しかし浅間山は見えてこない。小休止後、最後の登りに挑む。板の階段を快適に登るとまた樹林帯の中の泥濘がある。今までよりは尾根も痩せてきた。岩をつかんで、或いは鉄の鎖、ロープも所々に設置されて険しくなった。
 地形図では山頂周辺は岩の崖になっている。2333.1mの二等三角点は丈の低い笹に埋まっている。点名は吾妻山。ここからは根子岳と四阿山を結ぶ登山道が笹の海にくっきり見下ろせる。2128.2mの一等三角点の根子岳は大昔スキー登山で登頂したことがある。20m毎に鉄のポールが建っていて霧でもRFのミスがない。しかし、また根子岳と結んで登るのも良い。すぐそこに見える山頂にはたくさんの登山者の姿も見える。
 12時、約2時間20分、岩のゴツゴツした尾根を慎重にたどると登頂である。山頂は小さな祠が一つ、山頂標が一本立っている。狭い場所なので足の踏み場もないほど多数の登山者が居た。持ってきた弁当をお茶で流し込む。遠望は雲で隠れて見えない。特に浅間山の大観を見たかったが残念でした。
 実は山麓のパルコールには5年以上前からゲレンデスキーに来ていた。冬は太平洋型の気圧配置なので晴れることも多く雪をかぶった浅間山を欲しいままに眺めて来た。浅間三筋の噴煙も見ている。しかし四阿山は遠望したことがなかった。次の狙いは四阿山を眺めたい。
 約50分滞在後、下山を開始、またぬかるみの歩道をやり過ごしてゲレンデ近くまで戻った。
 ここで同行者と別れて2119mの岩峰に寄り道してゲレンデに戻った。ゴンドラ乗場まですぐのところからも浦倉山2090.7mを往復した。ゴンドラの最後は15時30分だったが15.時15分に乗車できて無事帰還した。

岩津城址をめぐるハイキング案2025年09月10日

 岩津城は豊田市松平町で興った松平氏が岡崎平野に進出する足掛かりになった重要な城だと知った。松平から岩津城、安祥城、そして岡崎城へ。どちらもそんなに離れてはいないので一気に回れるだろう。涼しくなったら行きたい。

遠祖に坂上田村麿 直参の旗本徳山氏の事2025年06月15日

 少し早めに出発した。目的地は揖斐川町交流センター。講師は田中 豊 で86歳、愛教大出身の元数学の教師だった人。今は古文書の解読を通じての歴史研究家として活動中。揖斐川町歴史民俗資料館の古文書講座の講師をしている。 
 根尾谷の奥の根尾能郷にある能郷白山神社の猿楽を拝見した。その舞台の奥の垂れ幕に大野郡 徳山云々との染め抜きの印刷があった。本巣郡なのになぜ大野郡なのかの疑問があった。
 以前に揖斐川町歴史資料館を訪ねた際に大きな絵図で根尾川の右岸が大野郡と判明した。
 講座のメモ書きを列挙しておく。

 徳ノ山五兵衛 元の名前は坂ノ上だった。 
 勅許で変更  勅許は天皇への上納金で下される

 NHK 豊臣兄弟 異父兄弟
 初婚  秀吉 北の政所 やや 古文書 県庁図書館
 再婚  秀長 

 作家は百姓より 出世をさせて 面白がらせる 

 公家上がり
 歴史の真相 古文書の存在  無いものは想像の産物
 古文書とて100%正しいとはいえない

 征夷の夷人 アイヌ人
 中国 漢民族 中華思想 世界の中心
 馬鹿にした
   東夷・・・京都からみて、東国の人、特に無骨で粗野な東国武士をあざけっていった語。東夷 (とうい) 。

   南蛮・・・古代中国では、四夷(東西南北の異民族)の一つとして、南方の異民族を蔑んで「南蛮」と呼んでいました。
日本での意味の変化:
戦国時代以降:ポルトガルやスペインといったヨーロッパ人が日本にやってきて、彼らを「南蛮人」と呼ぶようになりました。
南蛮貿易:南蛮人がもたらした鉄砲やキリスト教、そして彼らとの貿易を「南蛮貿易」と呼びました。
南蛮文化:南蛮人が持ち込んだ文化や、彼らが好んで食べる食材も「南蛮」と呼ばれるようになりました。例えば、ネギや唐辛子、油を使った料理などが挙げられます。

   西戎・・・せい‐じゅう【西戎】
青海・甘粛地域に住んだトルコ族・チベット族、または広く西域の住民をも含めた。 転じて、西方の異民族の称。 西方のえびす。 また、日本では、広く、野蛮人、朝敵をもいう。

   北狄・・・「狄」は、古代中国で北方民族を指す言葉で、野蛮で未開な存在として見なされていました。
夷狄:
「夷狄」は、東方の夷と北方の狄を合わせた言葉で、四方を囲む異民族を指す総称として使われることもあります。
四夷:
「四夷」は、東夷、西戎、南蛮、北狄をまとめた言葉で、中国の四方を囲む異民族を指します。
歴史的背景:
古代中国では、自国を文明の中心とみなし、周囲の民族を野蛮な存在として差別的に見ていました。そのため、「狄」や「夷狄」といった言葉は、そのような差別意識を反映しています。
現代:
現在では、歴史的な文脈以外で「北狄」という言葉が使われることはほとんどありません。

 日本人は感性、情緒優先

 吉田松陰 テロリストを育てた 歴史の裏と表

 流罪  根尾谷の最奥の越波(おっぱ)
 沢田ふじ子『けもの谷』では流罪の場所として設定されている。
 歴史的にも身分の高い人ほど山奥へやられるらしい。
 能狂言もなぜあんな耕地もほとんどない狭い地域で継承されてきたのか、というと高貴な身分の人たちが集団で流刑地になったのか。

幕末史を学ぶ2025年06月11日

 水戸天狗党の事は敦賀市の武田耕雲斎以下352名の斬首で終わっていた。4月20日に揖斐川町歴史資料館で大野郡を調べるうちに天狗党の武田耕雲斎と交渉した棚橋天籟を知って新たな肉付けをした。
 更に5/28は井伊直弼の足跡を追って彦根市へドライブして井伊直弼の歴史上の位置づけを知った。すると芋づる式に岩瀬忠震が出て来た。6/1には岩瀬の故郷の新城市の設楽原歴史資料館と勝楽寺を訪ねた。学芸員から中公新書の松岡英夫『岩瀬忠震』を紹介されたが古書しかなくしかも高価なので鶴舞図書館で借りた。結構多数の本が出されていた。5/26までには読み切れないが列挙しておく。

1 松岡英夫『岩瀬忠震』 日本を開国させた外交家 昭和56(1981)年

2 岸上耿久『光芒遥かなり』 小説岩瀬忠震  忠震会 1998年

3 小野寺龍太『岩瀬忠震』 五州何ぞ遠しと謂わん ミネルヴァ書房 
                                    2018年
4 関 良基『日本を開国させた男、松平忠固』 作品社 2020年

他に蔵書の
5 原田伊織『続・明治維新という過ち 列強の侵略を防いだ幕臣たち』(講談社文庫)原書は2016年、文庫は2018年

6 西尾幹二『維新の源流としての水戸学 』 徳間書店 2015年

7 福地桜痴『幕府衰亡論』 経営科学出版 2024年
も併読しながら理解を進めている。