門玲子『玉まつり』購読2020年06月17日

あの深田先生が何故・・・ 復員後の深田久弥が志げ子夫人と暮らした大聖寺・金沢で親しく夫妻の謦咳に接した著者には、思いがけぬ深田の噂は大きな謎となった。 作品を丹念に読み解くことで昭和文学史の真実に迫る。久弥、八穂、志げ子への鎮魂の書。
幻戯書房刊。2020.5.24

表紙は富士写ヶ岳

副題
深田久弥『日本百名山』と『津軽の野づら』と

門玲子(ウィキペディア)

門 玲子(かど れいこ、1931年3月24日[1]- )は、日本近世文学研究者。
石川県加賀市大聖寺生まれ。1953年金沢大学文学部卒。1980年『江馬細香 化政期の女流詩人』で第8回泉鏡花記念金沢市民文学賞受賞。1998年『江戸女流文学の発見』により毎日出版文化賞受賞。江馬細香など近世の女性漢詩人、只野真葛など近世の女性思想家について研究している。

幻戯書房NEWSから
 
深田久弥と同郷で、復員後の深田と身近に接した著者が、当時を回想し、深田と北畠八穂の作品を丹念に読み込み、昭和文学史の真実に迫る、鎮魂の長篇エッセイ。

●本文より
 深田は長患いの八穂のためにさまざまに心を砕いている。上林暁の《この夫婦は辛い夫婦だつた》という言葉が思い合わされた。

中日新聞書評
深田久弥の謎 読み解く 同郷の門玲子さん 長編エッセー出版
 石川県大聖寺町(現加賀市)出身で「日本百名山」の著者として知られる作家深田久弥(きゅうや)(一九〇三〜七一年)。戦前は鎌倉文士として名をはせた深田が、戦後は大聖寺や金沢市で七年半を暮らし、「山の文学者」となっていったのはなぜか−。同郷の出身で、久弥と妻志げ子とも親交のあった女性史研究家の門玲子さん(89)=愛知県大府市=が、作品を読み解きながらその謎に向き合った長編エッセー「玉まつり 深田久弥『日本百名山』と『津軽の野づら』と」(幻戯書房)を出版した。(松岡等)
 東京帝国大在学中に改造社の編集者となった深田は、懸賞小説の下読みで、後に作家、詩人となる北畠八穂(やほ)(一九〇三〜八二年)の応募してきた作品「津軽林檎」に才能を感じ、八穂の住む青森まで出向く。
 結ばれた二人は、千葉・我孫子、東京・本所、鎌倉と移り住み、深田は文壇で頭角を現していく。しかしその出世作ともいわれる「津軽の野づら」に収められた「あすならう」は「津軽林檎」を元にしており、当時発表された作品のいくつかは八穂の下書きを元にした「共同作業」だった。
 また深田は、初恋の人だった志げ子と再会し、鎌倉でカリエスに悩まされていた八穂を残して、志げ子との間に子をもうける。出征した中国から復員後、深田は文壇を離れ、志げ子との間に生まれた子どもたち家族と故郷に暮らしながら国内の山々に登り、ヒマラヤの文献などを集めて読み込み、「山の文学者」となっていく。
 八穂は深田と離別後に作家として独立。やがて戦前の深田名義の作品の多くが八穂の下書きした作品だったと主張し、それが通説のようになっていく。しかし門さんは、八穂が戦後に自身の名前で発表した作品群にみられる独特の比喩や詩的な飛躍のある文章を読み込み、深田の理知的な作風と比較。「津軽の野づら」「知と愛」「鎌倉夫人」など、八穂が自作であるとする少なくない作品は深田自身のものではと示唆する。
 金沢で暮らしていた間、文化人の中心にいた深田が「僕の心の中に七重に鍵をかけたものはあるが、その他はすべてオープンだ」と語っていたのを聞いていたという門さん。「深田自身は(八穂とのことについて)一言も弁解をしていない。地元の大聖寺でも、深田の傷のようにそっとしているのではないか。しかし、それでは(八穂が主張したことだけが)事実になってしまう。自分が感じたことは書き残しておかなければ、という気持ちを持ち続けていた」と語る。
 書名の「玉まつり」は、松尾芭蕉が寿貞尼をしのんで詠んだ「数ならぬ身となおもひそ玉まつり」から。志げ子さんとの会話の中でふいに出たその句に「ほのかな表現に哀れふかい弔いの心」を感じ取ったという。
 本書は、深田と八穂が暮らした鎌倉と我孫子を訪ねた紀行文で締めくくられる。二人に縁の場所を歩いた旅は、深田が生涯明かさずにいた思いを、門さん自身が納得するためだったようにも読める。
 四六判、二百二十六ページ。二千八百円(税別)。

関連記事
たまゆらの恋なりき君はセルを着て 深田久弥
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/05/21/6817509

深田久弥山の文化館
http://koyaban.asablo.jp/blog/2014/10/16/7459782

『津軽の野づら』の原作と出版の著作権
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/11/21/

北畠親房「一命を以って先皇に報い奉る」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/10/01/

北畠家の系図
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/11/18/9178611

消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき北畠具行
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/12/05/9172795

北畠八穂・・・津軽言葉の文学者
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/05/11/9071166

研究輯録-三遠の民俗と歴史 第8号発刊!
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/08/28/

「日本百名山」
»〈ふたり〉へ深田久弥と志げ子―石川・大聖寺、白山
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200611250173.html

越美国境・笹ヶ峰から下山2019年09月16日

 滝ヶ谷を登り詰めて笹ヶ峰の北方のピーク(ab1270m)でビバークを決断。Wリーダーがビバークに最適な砂地の平な一角を見つけた。そこで二張りのツエルトを設営。濡れたものを乾かすために焚火を試みたが着火に失敗。不快なままだったが疲労困憊の体ですぐ就寝できた。
 夜は多少は寒かった。足の冷えは資源ごみの袋を足ごと包み、ザックにすっぽり入れて寝たら快適だった。防寒としては羽毛のベストが軽くて快適だった。
 朝4時か、目覚ましが朝を知らせる。周囲は濃霧に包まれている。それでも6時ごろになると東の空から太陽が昇るのが見えた。能郷白山、イソクラなども同定できた。(Wさん)気温が上昇すると霧は晴れた。スマホも使えたので午後から天気が悪くなるとの予報は聞こえた。
 さて、6時過ぎ、霧に包まれる笹ヶ峰を目指す。何とか獣道を探しながらも笹と低灌木の藪のからむ稜線の藪漕ぎは著しく体力を消耗させる。我慢我慢の藪漕ぎをすること40分で登頂できた。
 笹ヶ峰の三角点周辺はきれいに刈り込まれているので登山者があるのだろう。ここからロボット(ab1280m)のピークまでは藪山好きの登山者がつけてくれた踏み跡に期待したが、笹と低灌木の藪漕ぎは続いた。ここでもかすかに残る獣道を探しながら越美国境稜線の縦走を続ける。この山の登頂者は残雪期が多く、稜線もスキー向きなほど広いから期待したほどの踏み跡はなかった。
 先頭を行くWリーダーが1294mの夏小屋丸の南のコブから不動山へRFを間違えた。が、Wさんが下がりすぎと、気が付いたのですぐにGPSでチエックしてもらったらやはりミスだった。『秘境奥美濃の山旅』のガイドはここから不動山往復をしている関係で踏み跡ができてしまったのだろう。
 ビバーク地から約6時間後、やっとロボットに着いた。12時10分に廃村大河内に向かって下山する。この尾根道も白谷山までは藪が絡む。しかし獣道ではなく、ロボットのために付けられた登山の道の廃道なので途切れず、下るペースは確保できる。白谷山を過ぎてから尾根は急降下する。途中で熊4頭に遭遇し、Wさんが笛を鳴らして知らせる。疲れた体をかばいながら何とか白谷の水場へ着いた。不足していた水分を思いきり補給して人心地ついた。
 橋を渡るとマイカーのあるPへはすぐだ。時に4時半。着替えて廃村大河内を後にした。帰路、林道に立ちすくむ鹿と遭遇する。登山者が去れば獣天国に還る。今庄の宿で有名な今庄そばを賞味できた。温泉には時間切れで入湯できなかった。沢から山頂を踏んで、稜線を縦走して夢のようだ、とWさん。三度目の正直か。失敗しないと性根が座らないのは私も同じだ。しかし奥美濃でこんなに山深く秘境的雰囲気を楽しめる山は貴重だ。究極の登山であった。

滝ヶ谷から越美国境・笹ヶ峰へ登頂2019年09月15日

 廃村大河内へは何度も来た。30歳代から40歳代でも山スキーが目的で越美国境稜線にスキーを走らせる夢を見ていた。美濃俣丸以外はついに達成はできなかった。GWに気象ロボットのあった1280m峰まで登りそこでツエルトを張って、笹ヶ峰と大河内山を往復した。
 今回は沢登りで「ぎふ百山」をねらうWリーダーの伴走を務めた。昨年は長トコ谷の大滝を越えられずに敗退。その後日時を違えてロボットまでの往復登山を果たした。大河内の林道は終点まで問題なく走れた。熊1頭、鹿2頭に遭遇した。テントはPになっている空き地に張った。先行車のハイエースの釣り師が帰っていくと我々3人だけになった。3連休というのこの静寂さは?
 9/15の朝4時起床、長トコ谷出合までは既知の谷相であるが今回は滝ヶ谷を遡行してみた。名前通り滝が多くててこずった。しかし、長トコ谷の魚止め滝(70m)ほどの難儀はせず、みな直登したり、巻いて遡行できた。3段100mの滝の2段目の草付きの高巻きがいやらしかった。ロープを張ってもらい無難に通過できた。
 標高約900mの分岐の遡行終了点からは水のない空洞になり、チョックストンが塞ぎ、周囲が垂直の壁になる谷に進退極まった。時間が過ぎてゆくばかりなので少し後退して左岸尾根へ攀じ登り、獣道を見出した。明瞭な獣道は途中から谷へ下ったがそのまま笹ヶ峰の北峰へ詰めあがった。背を越す笹薮と根曲がりの低灌木の密叢の藪漕ぎに精力を使い果たした。
 ロボットまでは行ける、あわよくば暗くなる前に大河内に着けるだろうと勝手に思っていたが現実は厳しい。少し漕いでは休み、また漕いでは休むという繰り返しだった。徒労といえば徒労である。もうすぐ70歳を前にする登山者としては限界に挑む感じである。
 平坦になり着いたところは1270mの北峰であった。霧が出ていて視界はなかった。そこでビバークになった。

富山県・南保富士を歩く2019年03月21日

 今年は岐阜県や長野県でも雪が少ない。それでTutomu hirakiさんの記事を見て白鳥山を計画した。
 3/19の夜、愛知岳連の理事会終了後、Wさん宅に車をデポし、10時発で20日の夜2時過ぎに入善町の園家山キャンプ場のPで仮泊。3時間の仮眠後6時に出発。
 園家山は標高17mの1等三角点のある山。これで3回目の訪問か。海の近くでも真水が湧水するので砂丘のような雰囲気のところに設けられたキャンプ場である。
 3/20、R8に出て、コンビニで乾電池などを購入したり、給油したりしながら新潟県境を越える。境川に沿って山奥に走る。山姥の里という。新潟県糸魚川市上路には7時30分ごろに着いた。車道の未除雪地点に1台あった。
 閑散とした上路には雪が道の脇に残る。車道の奥は除雪されていなかった。そこが終点になる。入り口を探すためにまた戻る。里人が1人だけ居られたので聞くと今年はやはり雪が少ないので藪が出てるよとのこと。それでも気持ちを奮い立たせて8時に出発。
 教えられた小脇谷と榀谷の間の林道の廃道を歩き終点から尾根にとりつく。標高300m付近まで登ったものの灌木の茂る藪尾根に断念。スキー板を抱えての登山は無理と9時に撤退。
 下山後は南保富士に転戦した。山頂は簡易トイレが埋まるほどの積雪にびっくりする。南保富士の山頂からの眺めは抜群で、白鳥山、犬ヶ岳、朝日岳、白馬方面まで見えた。すぐ近くの仁王山、黒菱山、初雪山、犬ヶ岳と山スキー向きの緩やかな雪稜が続いている。また剣岳、毛勝三山、僧ヶ岳の眺めも非凡。
 日本海は眼下に見え、入善町の扇状地も素晴らしい。沖には黒い巨船が北に向かって航海中だ。ふと歌謡曲の歌詞が浮かんだ。♪船を見つめていたあ、・・・上海帰りのリルリル♪と断片的ながら。歌手は入善町出身の津村謙のヒット曲。大いに山頂滞在を楽しんだ。
 往路を下山と思ったが、出会った地元の登山者から今年の干支の猪山490m経由を勧められたので540mのコブから北の尾根へ分かれる。道とはいえ、フィックスロープのあるやせ尾根で急降下、急登を繰り返す難路だった。七重滝の上ではカモシカに会った。滝への分岐から西山用水路跡の水平路を歩くがここも残雪でのり面が埋まりキックステップを余儀なくされて緊張した。
 無事に登山口に戻り、宇奈月町のバーデン明日(あけび)で一風呂浴びた。入善町のスーパーで夕食を調達、地下からの湧水を一杯汲んで園家山キャンプ場でテント泊。
 21日午前4時ごろから予報通り降雨。登山は止めて、入善町から魚津にかけてドライブ中、僧ヶ岳が立派に見える。魚津市の埋没林博物館と水族館、米騒動発祥の地を見学後は帰名。好展望の南保富士に登れたことで良しとした。

鹿の角拾えばピイと鳴くなめり2018年11月03日

 11/2夜から11/3にかけて奥美濃の笹ヶ峰(ロボットまで)行って来た。今夏の沢登りでの登山は諦めてヤブ尾根覚悟で行った。
 この界隈の山の名には丸が付く。北から焼小屋丸(笹ヶ峰)、夏小屋丸1294m、ヨセン谷丸(大河内山)1288m、美濃俣丸、バンドー丸、金ヶ丸(三周ヶ岳)、夜叉ヶ丸。ロボットには名前がないので通称ロボットで知られる。
 今ではバイブルとなった『秘境奥美濃の山旅』のP128の「笹ヶ峰」には「日野川の奥深く、濃緑の谷間から望まれる、柔らかいライトグリーンを敷き詰めたような山なみを、流域の人々はいつのころからか「笹ヶ峰」と呼んでいる。
 五万図<冠山>ではそれは1285mの三角点の山に冠せられた名前であるが、、土地の人々は、美濃俣丸をも含む、笹ヶ峰周辺の越美国境稜線を総称する」と定義した。
 今夏は沢から挑んだが跳ね返された。
 それで秋山に再度挑戦した。日の短い時期にこの山はなあ、と思ったがこのところ行けていないので思い切って同行した。 
 私が初めてこの山域に入ったのは約30年前の30歳代のこと。4月初旬に街道の尾の道からスキー登山で美濃俣丸に登ったのが最初だった。続いてGWの連休に70歳代の老兵と身体障害者の2人を誘った。日帰りは無理だったからロボットまでツエルトなど露営1式をボッカした。翌朝、笹ヶ峰を往復、大河内山も往復した。下から追いかけてきた登山者が美濃俣丸まで行くと言って抜いて行った。
 あの頃の大河内はまだ廃屋があり、分校も残っていた。旧住民もいて話を伺ったこともある。
 今回は広野ダムの一角でテントビバーク。オリオンの盾が鮮明に見えた。羽毛のシュラフにもぐり込んでもすぐに明ける。ぬくもりの恋しさを断ち切ってテントを出た。道路はきれいに整備されて問題ない。大河内まで無難に入山。
 登山口には新たに白谷山1050mの札があった。ぬるぬるの滑りやすい木橋を渡る。杉林の中の道を黙々登るとブナも増える。黄葉は中腹以上のブナが良かった。ブナの幹には鮮明な熊の爪痕があった。ガリガリと爪で縦に引っ掻いた痕もあった。尾根の北はまだ青々としていた。急な尾根には落葉も積もっていたから滑りやすい。
 今夏の722m付近までは無難に登ったが、段々ヤブっぽくなった。それでも登りは高みを目指せばいい。ストックもかえって邪魔になる。相棒が下山の目印に赤布を付けてくれる。1050mの等高線を越えると尾根は広くなる。踏み跡も薄くなる。1090mから一旦下って広い所にはヌタ場があり獣の足跡もある。獣臭が終始ただよう。秋山の発酵したような臭いもする。又尾根が細くなる。ロボットらしいピークが見えた。少し先で登頂の喜びの声が上がった。
 ロボットの頂上である。実に30余年ぶりに奥美濃の大パノラマを目にした。次々と山岳道定して楽しみ時間が過ぎて行く。先述したようにロボットでも笹ヶ峰に行って来たことになる。ここで充分な気がする。
 こうして眺めるとすべてとは行かないもののもう登りたい未踏の山は無くなった。あれほどあった未踏のストックが今はもうない。
 すると関東、東北、北海道、九州、中国、四国へ行かねばならないが、そんな余裕もカネもない。結局は近場の既登の山の沢登りか残雪期の尾根のスキー登山である。
 メンバーが変わり、季節が変われば違う山の味がする。
 下山は赤布のお陰であっという間だった。折に触れてふりかえるとロボットが遠ざかってゆく。遥かなる笹ヶ峰の一峰。
 722mを過ぎて鹿の角を探しながら下ったが見落とした。置いて行っておくれということだったのだろう。小さめの角だから若い鹿だろう。メスの獲得合戦に敗れたのだろうか。獣の世界も生存競争が厳しい。
 車に戻ると一安心。帰路、Yさんの出作り小屋を見たが車がなくもう山を降りたのだろう。広野ダム堰堤からまた笹ヶ峰連峰を眺めた。
 今庄ICの入り口でまた今庄蕎麦を賞味した。多分新蕎麦だろう。本物の味がした。

奥越・笹ヶ峰の長トコ谷敗退2018年08月13日

 8/11の朝6時にリーダーのWさん宅を出発。お盆休みの渋滞が始まっているので高速には入らず、地道で行く。木曽三川を渡り、関ヶ原、木之本を通過、栃の木峠越えで南越前町に入った。やがて広野ダムから廃村・大河内に着く。ここまではほとんど渋滞は無く、3時間で来れた。高速とそんなに違わない。
 さてここからどこまで行けるか。土砂の押し出しでやや傾斜面があったので、空車でも2300kgもある重量の重いマイカーがずるっと行く可能性がある。そこでマイカーの入山はストップ。徒歩で行く。
 いくばくもなく砂防ダムの手前の広場まで来れた。軽いクルマなら無難に走れるだろう。ここまでは実は整備されていたのだ。その先は草深い林道が続いていた。入渓地点まで歩いてみた。踏み跡があるので明日の偵察は終わった。先の整備された広場まで戻ると、大河内川を渡る橋があるので入って見た。入り口には笹ヶ峰登山口という消えそうな道標があって、ああ、これがロボットへの尾根コースの入り口であった。橋を渡ってみて偵察すると杉の幹に白っぽい紐が結んである。これが多分ロボットの尾根ルートであろう。予定では下山にとることになっている。
 入山情報の少なさに、湛水のはじまる二ツ家付近で車止め、そこから徒歩も覚悟していた。心配は解消した。
 まだ昼前なので今庄の宿まで行き、おろし蕎麦を食べた。久々に美味い本場の今庄のおろし蕎麦を味わう。また大河内に戻り、車の置いてあった出作り小屋の主人Y氏に声を掛けた。突然の珍客に驚かれたが、笹ヶ峰の登山に来たことを告げると気安く話に応じてくれた。
 大河内の村の歴史から笹ヶ峰一帯の山守をしていたこと、22歳まで村にいたこと、そして山が好きなこと。増永迪男氏の山の本の話もしていくらでも話が続き止まなかった。こちらも林道脇にテントを張って仮眠の予定もあり、離れがたくも話を打ち切って別れた。
 テント適地は特になく、林道脇に張った。近くを小川が流れて炊事が楽である。小さな焚火もした。こんな山なので蚊が多く、蚊取り線香を焚いた。
 8/12の朝4時起床、朝食をかきこむ。テントを片付けて出発すると5時30分になった。林道終点まで歩いて6時入渓。平凡な谷相であるが、周囲は落葉広葉樹に覆われている。ここも奥美濃の沢と同じ雰囲気を持った樹林の山旅の世界である。
 小さな滝を越え、直登のできない滝は左から巻いた。いくらもしないうちに滝谷と長トコ谷との出合に着く。滝谷を見送り、長トコ谷へ入る。うわっと見上げたのは魚止めの滝であった。10mくらいはあり滝壺に落ち、更に小さな滝で2段目の滝壺に落ちている。全体で70mとも言う。
 岩質は一枚岩が浸食されて後退したような滝で見事である。取り付くしまが無い気がする。
 Wは右岸の岩溝をたどって攻めた。そこもスラブの小さな溝になっているらしく高巻を試みるうちに滑落したという。幸い木の枝にスリングでビレイをとってあったので滝壺に落ちずには済んだという。
 いつもより時間がかかり過ぎており、岩場を様子見に攀じ登る。Wに近づけないこともないが、もし下降する場合は厄介だ。待つこと1時間も経過しただろうか。突然後退を告げて、ザイルが投げられた。それに確保して微妙なバランスの岩場を下りた。その後Wも下って来た。途中で岩のスリットにハーケンを1枚打ち、更に下降する。Wはハーケンを抜いて尻を滑らせて下って来た。高巻は困難な状況と知った。
 事前の調べてでは白崎重雄・前川宏隆『屛風山脈の旅ー越美県境稜線の山と渓谷を行く』(1978(昭和53)年)は左岸の高巻で突破している。左岸の方が傾斜が緩く、樹木も生えている。右岸は垂壁に近い。
 Wは高巻に大いにてこずって、続行のモチベーションを無くしてしまったようだ。何分、4週連続で計画が流れ、今日こそはという気が優り過ぎてしまったのだろう。体力や技術もあるのに気が優ると妙に同じ場所にこだわって時間を空費する。
 結果、敗退を決めた。
 しかし、このまま沢を下るよりは、次につなげるようにと、出合からロボットの尾根の722mを目指して北尾根を登った。少し人が歩いた跡はあり、ゴミもあった。激藪でもない。左へ滝上に下る踏み跡も捜しながらヤブ尾根を登った。上から眺める長トコ谷は緑のトンネルに覆われて、流れは見えない。
 懸垂下降2回で降りれそうな気がする。但し大高巻になるが・・・。Wは谷から離れるな、という主義なので首肯しないだろう。
 途中からシャクナゲがからまるようになり全力で登った。そこを過ぎるとしっかりした踏み跡が現れた。またコンクリートの小さな標石もあるし、なた目もある。標高700m付近の平らなところでロボットのコースに着いた。約1時間30分を費やした。
 そこで1時間ほど、涼しい風を楽しむように休んだ。その後、右ブナ等の落葉広葉樹の二次林、左は杉の植林の細道を下った。昨日の偵察の場所に出た。
 昨日の大河内のYさんの話では2年前に白谷の頭(約1000m)までコース整備をしたという。その先は武生山岳会がやったとか。ロボットまでなんとか今も行けるだろう。
 私自身は30歳代に2回GWに登っている。2回目は3人パーティでロボットにツエルトを張り、笹ヶ峰を往復、翌日は大河内山(から美濃俣丸?)を往復した。だから30年ぶりで再訪したのである。
 下山後、片付けてからまたYさんの小屋に寄って報告した。残念ながら敗退でした、と。
 いろいろ質問すると、722mの尾根の要旨を話すとあれは自分が付けた道だという。ロボットの尾根から北尾根の間に広がる山を売ったという。そのための山道の名残だった。天草山から五葉坂の間にも道を付けた。そこも売ったという。それで町で生活する資金を得たのだろう。五葉とは五葉松の意味で、北尾根にも五葉松が若干みつかった。壁小屋谷は岩壁が屹立するところがあると言う。大河内の生き字引みたいに知っていた。
 さて、再び挑戦することはあるだろうか。長トコ谷は遡行に値する気がする。何より、地名に興味がある。長トコは床であろう。滑を想像する。上杉喜寿『続 山々のルーツ』(1987(昭和62)年)には、笹ヶ峰の別称の焼小屋丸の焼小屋とはたたら製鉄の場所ではないかと想像する。Yさんはマンガン鉱山があったとも。しかも戦後のことらしい。鉱物が豊富なのだろう。
 私見では夏小屋丸の夏小屋とは夏になってから蕎麦を蒔いても収穫できるとの意味で木地師の小屋があったのではないか。長トコ谷から大倉谷を経て夏小屋谷になることからの推測である。大倉とは木地師に多い名前である。
 木地師の村には夏焼という地名が散見する。奥三河の稲武の夏焼、三重県松阪の夏明も同じ意味か。同書には大河内は木地師の村だったとの記述がある。これはYさんも認めている。Yさんの話では徳山村の枝郷という説が興味深い。徳山村自体が越前の国に属していたからだ。婚姻関係もあったらしい。下流から来て出来た村ではなかったのである。
 帰路、大河内を離れてすぐに、日露戦争出征の記念碑があった。地形図にも記載されている。まだあったのだ。Yさんの話では数名が出征し、戦死した人もいたらしい。昔は二ツ屋とは山越えでつながっていたから峠道を越える戦士を姿の消えるまで見送ったであろう。
 今庄の宿に戻った。暑い暑い。ドリンクを1本飲み干す。そして、また冷水仕立ての下ろし蕎麦を食べて同じ道を名古屋へ帰った。

白樺を横たうる火に梅雨の風 前田普羅2018年06月05日

FB投稿
 ブログ「隠居の『飛騨の山とある日』
 5/30 男女の神様に会えた=笈破(おいわれ)峠
http://hidanoyama.jugem.jp/?eid=706

 俳人の前田普羅があるいた道でしょう。中々貴重な古を偲ぶ山歩きです。個人的にも一度は行ってみたい笈破です。そうではあるが熊が濃厚に棲息しているので単独で行く度胸はない。
 普羅の『渓谷を出づる人の言葉』にある”白樺を横たふる火に梅雨の風”という句の解説があり、笈破でできたことが分かる。まだ高山線も開通していなかった頃である。地貌を唱えた普羅らしい文章である。
 「飛騨にあこがれて行く人は、北からでも南からでも只まっしぐらに高山町(現高山市)まで飛び込んだだけでは飛騨は本当の姿を見せてくれまい。此等残された太古の飛騨高原を渓谷から渓谷に越す時にのみ「飛騨の細径」は真実の姿と心とを見せて呉れるのである。
 飛騨へ行くのは「飛騨に入る」と云うのが当たる。中略。然し一度この高原には入ってしまえば、黒土の山につけられた細径と小径が高まって出来た峠とは、小鳥の啼く湿原と耕された台地と又樹木に隠された往昔の人の通った飛騨街道とに巡り合わせて呉れる。峠は千尺乃至千二三百尺を出ない。
 馬小屋のある小さな農家は、小径の上に養蚕筵を投げ出して昼食をして居る。杉の造林や桑畑の中で思いがけなく人を見る。其の人達にものを問えば手を休めて径まで出て来ていつまでも話して呉れる。
 笈破は高原川の渓谷右岸千三百尺許りの高台地に残る飛騨高原の一部である。年中霧の深い所で六月の末ごろ通った時も、農家の大炉に白樺の大木が顔を突き込んで、胴体を家中に横たえ、梅雨風は火を煽って白樺の頭はブシブシと燃えて居た。
 主人が新しい筵を炉辺に敷いて呉れたので横になり、つい、うとうとと夢見心地になると、急に水を浴びた様な寒さを感じた。起き上がると直ぐ目についたのは戸口を塞いで走って居る山霧と、其の中に動いて居る濃紫のアヤメの花だった。」
 笈破霧というらしい。
http://outdoor.geocities.jp/so…/climate2/climate3/oiware.htm

 5/10の同ブログの投稿記録にあった狛犬の写真は湖底に沈んだ有峰の狛犬(木製で今は富山市大山民俗資料館に保存)に形状が似ている。地理的に近いので関連がありそうだ。なぜこんな高冷地に住むことになったものか。やはり、緩斜面ということで耕作し易かったのだろう。となりの山之村では中河与一の小説『天の夕顔』の主人公が生活を始めるが大変だった。よそ者には住めるところではなく、何かよほどの覚悟を以って住んだであろう。
 普羅の文中に養蚕莚とある。養蚕は富山県八尾市の産業で、元禄年間から富山藩が奨励し養蚕農家が増えたという。「八尾の蚕種は全国の4分の1を占め」たそうだ。そうか、笈破の経済は八尾とつながっていたんだ。
 「元禄6年(1693)富山藩主2代前田正甫公が若宮八幡社へ祭神誉田別尊の御神体を供奉され、御神霊をご勧請。天明元年(1781)山屋善右衛門が奥州(青森県西津軽郡)から神霊を勧請、城ケ谷に養蚕宮(かいこのみや)を建立。」とあるように養蚕のメッカだったようだ。
 普羅の地域別句集「飛騨紬」には蚕と題した句が7句収録。
 ”雷鳴って蚕の眠りは始まれり” 普羅
またまた思い出した。中アの安平路山の麓に松川入という標高1000Mの廃村がある。ここもかつては炭焼きと養蚕で生業を立てていた。蚕種は風穴山(2058M)の涼しい所に保存したという。すると、笈破も仕方なく、住んだわけではなく、養蚕のためだったのか。
 水原秋桜子の「高嶺星蚕飼の村は寝しづまり」は「高い山々に囲まれた、蚕で生計を立てている閑静な村落に夜が訪れた。空を見上げれば、黒々とした嶺の高みから湧き出たかのように満天の星が明るく見守るように輝いている。」との観賞文がある。高原の山村のイメージである。
 養蚕は実家でもやっていたが早くに止めた。となりはおばあさんが存命中は飼っていたからよく見に行ったものだ。こんなものがあのシルクになるのか。それに製糸工場もあった。中国産の安価なものが輸入されるまでは盛んだったのだ。

富山県・高落場山に登る2017年10月09日

 富山市内のビジネスホテルの朝食は本当に美味い。とくにご飯が美味いため、朝食に時間がかかった。7時過ぎには出る予定が8時20分になったのは昨日の長旅の疲れもあった。
 R41を南行しながらGSを探すが昨日より10円ほどアップして安いところはなくなった。富山県の山際の県道を西へ走った。南砺市でR304に出会うまで道の田舎道を走った。
 R304からは縄ヶ池に向う林道に左折。高落場山へは若杉集落跡が登山口である。かつては五箇山街道の宿場の里として栄えたというが御影石の記念碑以外は何もない。
 『村の記憶』によると、「若杉は江戸時代五箇山と城端を往来する街道の要衝に位置し、物資の中継や宿場として栄えたが、中略、昭和42年五戸の住民は旧大鋸屋小学校校舎跡地へ集団移住した」。続けて「上流の夫婦滝から流れる内尾川のせせらぎの谷間にあって、多い時は30軒の合掌」家屋があったらしい。
 「五箇山往来の利賀の中継地として、また宿場としても栄え、番所などもあって奉行所の役人や二百人に近い五箇山への流刑人もここを通ったと言われる。そして、五箇山への荷物を運搬する牛やボッカの往来が絶えなかった。」のも今はもう幻となった。
 さて、出発の準備中、地元のお巡りさんがパトロールに来た。熊に注意してくれといわれた。春に目撃されたかららしい。ここまできて帰れとでもいうのだろうか。登山者が襲われたことはないらしい。今までも襲われるのは山菜とりがほとんどだ。山菜とりは熊の好物を横取りするけしからん敵なのである。
 10時20分出発。足元は石畳の歴史ある道である。濡れて滑りやすいから注意がいる。20分ほどで唐木峠に着いた。ここから左が高落場山だ。直進は朴峠への旧道であるが、すぐ先は笹刈りも無く藪になっていた。しかも通行禁止の看板もあった。
 ここからが地形図にもある「人喰谷」への道で名前も恐ろしい。他のサイトによれば、「「横渡りの難所」の看板には以下のように書かれている。
 『横渡りとは人喰谷の五重の谷を大きく迂回するこの辺のことをいいます。山崩れやなだれのため、道が崩壊して交通の難所となっています。昔からなだれを防ぐため付近一帯は禁伐林となっています。現在も大雨などにより木が倒れてくるなど危険なところです。』」だそうな。
 唐木峠で喉をうるおすとすぐに急登の尾根に入った。最初は右に杉林を見ながら登るが、しばらくで見事な白ブナの原生林が展開する。低山にしてこのブナの大切にされ方は雪崩防止の禁伐林ゆえだった。
 時折ブナを見上げながら、木肌に熊の爪痕がないか、こずえに熊棚がないか探したがなかった。これだけ急だと熊の棲息には適さないのか。嗅覚も大いに働かせるが獣臭はしない。うん、大丈夫だ、と鼓舞する。
 ブナを堪能した後も坦々とした尾根歩きは続く。先行者らの声が樹林を通して聞こえてくる。車は数台あったから10名位は登っているだろう。分岐に来ると右へが山頂だ。一旦軽く下って登り返すと切り開かれて明るい高落場山頂に着いた。
 アキアアカネが群舞する。アサギマダラが舞う。やがて南方へ旅立つ蝶々である。ナナカマドが赤く秋の山を象徴する。遠望は若干はあるが全体図がないことと、高峰が雲がくれしているので分からない。
 軽い昼食をとったあと下山を開始。途中で男性ばかり5名のパーティに会う、草沼山からの縦走らしい。分岐では来た道を戻った。高清水山はまたの機会にする。今日は暑かった。汗びっしょりになった。ほとんど休まず登山口まで下る。
 着替えて、縄ヶ池へ行く。途中、夫婦滝が見事だ。広い駐車場に着く。ここも熊の注意喚起の看板がある。この春のGWにはここで目撃されたらしい。池は林道の向こうにあった。チエーンがあるので徒歩で数分歩くと山中の池を俯瞰できた。
 神秘的な雰囲気があるが、遊歩道へは進まず、熊への警戒心もあって眺めるだけにする。1979年(昭和 54) 年に泉鏡花の『夜叉ケ池』が映画化された時のロケ地となった。主演は坂東玉三郎、池の中から美しい女の人がヌーッと出てくるシーンだったらしい。
 以前から一度は見てみたかった。小説に出てくる夜叉ヶ池も神秘的だが、深さも浅く、小さいし、車道が通じていないため代替地として縄ヶ池になった。なるほどと思うスケールがある。
 すべての予定を終えた。R304から高落場山の真下のトンネルを通って五箇山に出た。R156を走った。白川温泉でひと風呂浴びた。御母衣ダムの畔を走って荘川村へ。高速は使わずR158へ高山市へ抜ける。給油の後は早目の夕飯をすませ、R41、R19、R302で帰名する。

富山県・牛嶽に登る2017年10月08日

 秋の3連休、高速では朝から渋滞情報をつたえる。7日は北アルプス前衛の猫又山の予定だったが、雨予報で中止した。行く先を牛嶽に変更し、名古屋を出発したのは7日の午後3時。高速ではなく、R41を走った。R302から春日井市のR19へ、街中は大渋滞だった。春日井ICに入る車が多く、渋滞を抜けて、その先はガラガラになり、そして尾張パークウェイからR41へ走る。R41も美濃大田を抜けるとピッチが速まった。
 R41は流れがよく快適に走れる。名古屋では晴れていたが飛騨川流域は小雨模様だった。濡れた路面に気を使う。下呂、飛騨小坂は小雨、宮峠も雨だった。高山市内で夕飯にする。食後ももくもく走り、飛騨古川、神岡と走る。富山県境を見ると間もなく道の駅「細入」だった。今夜のビバーク地である。
 道の駅「細入」のPは60%くらいの入りだった。大型トラックは1台も無く中型トラック数台だけだった。寂しさを感じさせず、しかし、多すぎて騒音が多く眠れないほどではない。仮設トイレで用を済ませて、バンの荷物室を整理してシュラフにもぐったのは午後9時30分だった。しばらくはアイドリングの音がうるさかったが、そのうちに出て行った。
 8日は午前5時に夜明けとともに起きた。6時出発、神通川に沿うR41を下る。事前の調べて、新笹津橋の手前から県道25号に左折。後は山田温泉入り口までひたすら25号の道路をたどればよい。入り口で山田温泉やスキー場の名前を初めて確認できる。
 県道59号、県道346号でスキー場に着く。スキー場は閑散として誰もいない。地図で確認するがスキー場内の斜面の道を走るのは気が引ける。一旦戻って地元民の老婆に聞くとスキー場内を行けばよいとのことだった。山坂ばかりの里の女性はエンジン付きの1人用カートで移動する。近道も教えてくれた。
 スキー場ゲレンデのトップまで走れたが登山口なる案内はない。右往左往するとまた一筋の林道に導かれた。ふたてに分かれたが右が新牛嶽登山口で、2本杉の4等三角点を経て日本杉登山口に至る。左がダイレクトに2本杉の登山口に行ける。
 登山は登山口さえ確認できれば登ったようなものである。
 天気はよろしくないのでモチベーションは低下したままだが、登山口まで来てUターンはない。霧の山だが、40分のことだ、行ってみるか、と気を取り直す。Pは10台は止められる広さがある。人気の山なのだろう。
 熊の出没注意の看板が一際目立つ。熊除けの鈴をとりつけて出発する。杉の木立の中の登山道を歩く。まもなく、階段道が現れて急坂になった。6合目の標識が出てますます急になった。樹相は杉から雑木になり7合目を過ぎて、鍋谷のブナの林になった。太くはなく二次林と思われるが白ブナは美しく気持ちが良い。そこを霧が漂う。
 幻想的な霧のブナ林を歩くと前方が明るくなり牛嶽大明神を祀る牛嶽神社に着く。まだ石の風化も見られず、新しい。工事のためか、ここへも車道が上がってきている。せっかくなので神社に詣でる。オオナムチノミコトを祀る。「牛嶽は、大国主命が牛に乗って登られた山であることからその名が付けられた」そうだ。残念ながら富山平野は霧に隠れて見えない。わずかに山麓だけが見えているだけだった。
 2等三角点へは良い道が下っている。一旦、鞍部まで下ると小牧からの登山道に合う。そこから一登りで登頂だ。黄葉にも早く、ナナカマドのみが赤い。神社まで戻り、またブナ林を歩いて下った。ようやく2人連れや親子連れにも出会った。
 マイカーに戻るとまだ9時30分過ぎだった。今度はゲレンデの車道を下った。牛岳温泉グリーンパレスでひと風呂浴びた。さっぱりして背広に着替えて富山市内へ向かった。俳句結社辛夷社の年次大会は午後1時からだが、12時に市内Pに着いた。1年ぶりの師友と旧交を温めた。大会、懇親会後はビジネスホテルに一泊。

富山・高岡市への雪のドライブ行~奥越の温泉入湯2017年02月22日

 2/21は富山県高岡市でシニア人材の交流会というので参加。富山までは約270kmあり道中は長い。交流会は午後からなので少し早出した。高速代を30%OFFするつもりで午前3時過ぎの出発を予定したが、1時過ぎに交通事故が発生し、東海北陸道の上下とも通行止めになった。吹雪いているらしいので結局午前7時前の出発に落ち着く。
 岐阜県に入るとさすがに降雪と言うほどではないが小雪が飛んでくる。郡上に入ると視界も悪い。白鳥からはもっと悪くなる。不思議なくらいなかった雪が出てきた。ひるがのSAで小休止。午前9時前で、荘川からR156へ出るつもりが雪崩のおそれで通行止めという。五箇山まで走りR156へ出た。高速道路でも路面は完全に除雪されているが凍結を恐れて先行車が時速60km前後でしか走らない。それなら国道でも同じというわけだ。
 ここから高速はR156と乖離して長いトンネルを抜けて一気に城端へ行く。R156は庄川の流れに沿いながらくねくね曲がり道を走る。国道は通行量がほとんどないせいか、雪道になった。1年に1回は雪道ドライブも味わいたい。今は10時前だ。13時まではまだ時間があるので開場した温泉を探した。道の駅で聞くと大崩島の新五箇山温泉 南砺市平ふれあい温泉センターを教えてもらった。(くろば温泉は火曜休み)R156から分岐する道を行くとより深い雪道になった。四輪駆動車が頼もしいと感じる。
 非常に広いPだが、先行者は2台だけだった。510円を券売機で支払う。良いお湯だった。少し温めだが芯まで温まる。30分もしないうちに汗がでてきた。効能書きを見ると膝関節症にも良さげである。そういえば車から降りた瞬間に零下5度くらいだろうか、悪い方の膝に血が通う感覚が無くなった。入湯後は血が通った気がした。長い間けい皮鎮痛薬で誤魔化してきたせいか膝の神経が再生されなくなったのか。血行を促すことは治癒を助けることと思う。ぽかぽかした後は寒い戸外でも平気だ。再び高岡市に向かった。
 庄川の左岸側には最新刊の『富山の百山』に収録された高坪山、袴腰山、高落場山、高清水山、赤祖父山などの1000m級の低山がごろごろしている。右岸側の牛岳もいつかは登らねばなるまい。林道を行けるところまで行って山頂に立つ。その後は安い宿に泊まり入湯するのも良い。
 R156の路面は完全に積雪路でガタガタと状況はよろしくないが行き違う車は殆どない。雪解け水を満々と湛えたダム湖で人家は少なく静まり返っている。庄川町を過ぎると突然、となみ野が広がった。雪は意外にもない。カラカラに乾いた冬田が広がっている。突然携帯が鳴った。中産連の担当からだった。名古屋からの参加なので心配したのだろう。高岡市内に着いて中食後、13時ちょうど、二上山の山麓に建つポリテクノセンター富山に着いた。
 そこは大門山を源流とする小矢部川の氾濫が運んだ沖積平野だった。富山湾の河口近くになると運んだ土砂の流れが停滞して蛇行を繰り返す。以前は水田だったと思われた。庄川も山間部を抜けてとなみ野を形成しながら小矢部川と隣り合う。水害の危険地帯だっただろう。それでも高岡市のような町が発展したのは標高52mの高台で水害を免れたからと思う。地名の高岡もなるほどと思う。水害を承知でこんな場所でも逃げないのは氾濫の度に土地が肥えるかららしい。
 交流会後、二上山をドライブしたかったが冬期は通行止めだった。二上山は万葉集の大伴家持ゆかりの名山である。ここには私が信奉する俳人・前田普羅の自筆の句碑が建つ。
  ”雪山に雪の降り居る夕べかな   前田普羅”
 万葉歴史記念館も今日は工事中だった。雨晴海岸からの立山連峰の眺めも冬型の気圧配置で曇り何も見えない。得るところなくそのまま帰名した。但し、白川郷まではR156を走った。