梅雨空に千木誇らしき奥の院(日野山) 拙作2024年06月26日

 名古屋出発は上小田井駅で6時半合流。地道をナビ任せでR303に導かれて、揖斐川上流の横山ダムからR417へ。徳山ダムを経て冠山トンネルを通過すると福井県だ。足羽川沿いに下り、池田町から越前市へ。
 目指す登山口は北陸道日野山トンネルの北側の荒谷ルートの日野神社である。着いた時刻は11時30分。名古屋から5時間135kmかかった。日の長い時期なのでまあ良いか。
 11時40分出発。日野神社は無人だが、樹齢300年以上はありそうな高い杉木立の境内に立派な構えの本殿が建っている。新しい案内板があり迷うことなく境内の右寄りに流れる荒谷沿いのルートに入って行ける。木立が高いせいで日光が入らず藪はない。よく整備されている。
谷道または尾根道は樹脂製の階段があり鉄塔巡視路がそのまま登山道(登拝道)として利用されている。階段も段差が少ないので高齢で大腿筋の衰えた自分には助かる。大汗をかいたころに山清水が湧いている。魔法瓶の蓋がコップ代わりに置いてあり、ありがたく一杯飲ませてもらう。流れている水はきれいそうでも獣の糞などに汚染されている可能性があるがここは湧いているので安心して飲める。
 尚も続く急登に耐えながら約1時間で北西からの尾根に合流。涼しい風に安らぐ。ここまでが一区切りだが、地形図には表現されない岩尾根の急登が続く。山頂直下で萱谷からの尾根道に合流すると一段と尾根が立ってきてフィックスロープが張ってある。こりゃあ、下りに難儀しそうだ。喘ぐように登りきると最初の社屋が建っていた。ここで休もう、とザックを置いて尚も奥へ行き、山頂の奥の院、三角点、社務所などを経めぐりながら戻って長い滞在時間を楽しんだ。
 展望も良く、梅雨空で白山は雲に閉ざされているが、部子山(へこやま)は見えた。東には冠山と思しき三角錐の山容が目を引く。左は能郷白山と磯倉、右は金草岳だろう。冠山の下をくぐってここに来たんだ。
近くの樹木に鶯が鳴いている。鳥語は口笛で参加したが飛んで行った。嫌われたか。この時期のうぐいすは老鶯という。すでに雌雄が合体して産卵するころである。そのウグイスの巣の卵を放り出してホトトギスやカッコウが産卵する。これを托卵という。そうと知らずに孵化しても育雛する。外国からの長旅で疲れたカッコウやホトトギスはウグイスなどに子育てを託すわけである。
 越前市につながるR417は”良いな”と読める。
 越前市から鯖江市、福井市を流れる日野川の氾濫が作った沖積平野が青々とした田園風景も美しい。日野川は越美山地(三国岳など)の豪雪地帯の水を集めて今庄に流れ、東西の里山級の山地の水が流れ込む。日本海に直接流れ込むのではなく九頭竜川に合流するために北に流れている。流域の山の位置が良く分かる。
 出発が遅れた。昼時も登って一服しておにぎり1個をお茶で流し込んだ。充分な山頂滞在を楽しんだ後はまた急降下するように下山した。フィックスロープは下りにこそ有用だった。滑落を警戒しながら慎重に下ったがビブラム底と岩の食いつきはしっかりしている。遠くにホトトギスの鳴き声を聞きながら無事に日野神社に下山できた。
 帰路はまたR417を選んだ。高速かR365で木之本経由でも距離は変わらない。それでも復路にしたのは交通量の圧倒的な少なさだ。R417,R303で濃尾平野の北端の揖斐川町に来るまでは信号ストップはなし。
 結局JR瑞穂駅で降ろしてもらった。瑞穂駅から金山駅、鶴舞駅はJRで行ける。地下鉄鶴舞線には22時台に乗車できた。疲労したが高速を使わなくても福井の山を堪能できたのである。

池田富士と春日井三山を歩く2024年04月07日

 自宅を1時間早めに出発。地下鉄鶴舞駅でJRに乗換。高蔵寺駅で30分の余裕が生まれ高蔵寺駅構内の喫茶店で香り高いコーヒーと軽い朝食を取りました。
 内々神社行バスの始発は8時ちょうど。内々神社バス停まで約30分。内々神社まで徒歩2分。トイレで用足し後、登山を開始。境内の右側に東海自然歩道が通じている。植生は見事な杉、照葉樹林の高木でした。ジグザグで東屋のあるピークに登る。もう一つ先の四等三角点の北山を踏んで下る。犬山へ行く道と別れて右へ周回後、春日井市と多治見市の境迄歩く。そこには春日井三山の一つ弥勒山437mの登山口がある。
 今日は池田富士370mを経めぐりたいので少し戻ってラブホテルの入り口の左のピンクのテープから植林内に入る。枝が落ちていたり、倒木も未整備であるが踏み跡はなんとか歩ける。左側の金網に沿って歩く。林内は迷いやすいが赤、ピンク、黄色のテープのマーキングがあるので心配はない。金網にどこまでも沿うと無名のコブに出て北の方面の眺めが良い。少し戻って赤テープが多数巻いてある処から東へ行く。踏み跡は頼りないがテープが多数あるので迷わない。
 小さなコブを2つ乗り越すと池田富士に登頂。小さな祠が2つあり、ベンチのある処からは樹木が切り払われて多治見市街地を見下ろせる。霞んでいるが恵那山、南アルプスも見えた。休んでいると八曽山からというトレランのハイカーが登ってきた。凄い肺活量だね。赤テープに導かれて廿原へ下る。途中に鳥居や池田富士への道標も在って地元の人らに愛された里山だと知った。廿原と書いてつづはらと読ませる。
由来はhttps://www.gifu-np.co.jp/articles/-/82703
 多治見市廿原の山里に下るといちご狩りのマイカー客が一杯来ていた。ちょうど12時になったのでその中のmontanaという喫茶店でカレーを食した。
 約30分後、弥勒山へ登山を再開。桧の植林内のしっかりした登山道を弥勒山まで登った。ここでもトレラン1人が追い越していった。トレランブームかな?山頂では改埋された二等三角点が埋まっている。ベンチもある。東屋もありハイカーに人気があるのもうなづける。山頂を辞して急な階段状の登山道を下るうちに膝に痛みが走った。そろそろ下る。大谷山、道樹山と一応三山は踏破できた。
 計画では定光寺駅まで縦走だったが暑いのとひざ痛がぶり返して来たので道樹山で下山した。細野町に下って車道を歩き、15時55分、石尾台東のバス停で登山活動を終えた。本当はキャンプ場から細野のバス停に歩けば車道歩きは少なくて済んだ。石尾台のバス停で2つ目だった。待ち時間の間にストック、カメラなどを仕舞い、パッキング。16時12分のバスに乗って高蔵寺駅まで乗車。16時47分の快速に乗れた。

忘年山行2023年12月03日

 忘年山行の企画で参加者12名で実施。継鹿尾山への12時集合の集中登山でした。天気は今一で、少雨決行の通りに少しだけ降った。山頂ではW会長が本格的な蒸し器とガスコンロを持ち上げて肉まんと餡まんを蒸して待っていた。早速熱々の肉まんをいただいた。寒い中では旨いですね。
 天白区の自宅を7時30分に出て8時5分の地下鉄で鶴舞線終点の上小田井駅へ行く。名鉄急行に乗換で犬山駅へ。運賃は510円。犬山駅東口を出て喫茶店で時間調整後出発。平地から丘陵地へ歩いた。富岡前駅からの道を見送り、次の交差点で左折すると坂道に入る。民家の庭先の南天の実が冬日に鈍く輝いて初冬の弱弱しさを見せている。喫茶店の親父が言った通り、冬紅葉、冬黄葉はしっかり色づいている。
舗装された山路は京大霊長類研究所と日本モンキーセンターをなぞるように登ってゆく。公園内の125mの四等三角点に寄った。多くのハイカーはこの公園までマイカーで来て山に登る。ここからだとほとんど登りではない。その為に駅から歩いたわけだ。
 公園を過ぎると尾張パークウェイをまたぐ橋を渡り、すぐに山路に入る。雑木林の中の明瞭な山路である。登山道はかなりな急傾斜になった。露岩が胸骨のように張り出している。これは地学の本によると中生代のチャートという。犬山の地質図によれば栗栖辺りは砂岩・頁岩で周囲はチャートが分布する。足元にはヤマエンゴサクが咲いている。本来は春の花だが暖冬のせいで狂い咲きしているのだ。
 少しばかりで外からギャーギャー鳴き声が聞こえる。これは多分日本モンキーセンターの園舎の猿の鳴き声だろう。高いところに来るとかえってよく聞こえる。
 左からの道と合うと傾斜も緩み、山頂が近い。
 山上は子供たちで大いに賑わっている。ボーイスカウト風な子供も多数いた。母子のハイカーも微笑ましい。聞けば3歳未満で登ってきた幼児がいた。体重が軽いせいか、飛ぶように動き回る。
 我々おじんおばんのグループは一つのテーブルに陣取って蒸し器で蒸された肉まん餡まんをほおばりながらダベリングする。約二時間の滞在でまたそれぞれのルートに散っていった。私は寂光院は行ったことがないので東海自然歩道を下った。この辺りも栗栖と同じ地質なのか、頁岩の露頭が目に付いた。開花期が4月から6月のツツジの花が咲いている。これも帰り花である。
 下るにつれて継鹿尾山は寂光院の山号と分かった。まだ登ってくるハイカーが多数いる。寂光院は多数の参拝客で賑わっていた。紅葉に彩られてなるほど古刹といわれるだけはあると思った。
賑わいの中をすり抜けて木曽川沿いに出て車道を犬山遊園駅まで歩いた。登りは犬山駅から1時間半、下りは1時間20分程度。軽いハイキングでした。
 西に夕暮富士という伊木山が素晴らしい。木曽川のこの辺りを日本ラインと命名し、犬山城を白帝城とたたえたのは岡崎の志賀重昂だった。15版も売った『日本風景論』を著し、日本の若者を登山ブームに導いた偉人である。灯台下暗し、低山ながら楽しい一日でした。

洲河の岳山に登る2023年02月26日

 快晴ながら東海北陸道の一宮付近から御嶽山は見えなかったが恵那山はよく見えた。伊吹山は雲の中だった。美並IC付近で事故があり渋滞。スマホのナビが美濃ICで出よ、というのでR156を走り、羽佐古の交差点を右折。登山口の洲河に向かいました。上洲河までは1車線の狭い道でした。あちこちに廃屋があり小学校の校舎も廃屋でした。寂れた山村は悲しい。ところが上洲河から先は2車線の立派な道になる。
上洲河の手前の岳山は登山口の看板もあって割と地元に愛されているみたいです。
 午前10時から登り始めたが最近は整備されていないせいか枯れ枝が絡まるので歩きにくかった。地形図を見ると分かりますが稜線まで非常階段のような急登でした。しかも中間に岩場があり迂回する桟道もあるが落葉で滑りそうでヤバい登山道でした。約1時間で稜線に到達。見晴らし台もあったが壊れそうな感じで寄らずに直進。2等三角点美山の埋まる山頂はすぐでした。
 展望は皆無なのですぐに下山開始。南西尾根を下ると700m付近の等高線の処から三方向に分かれる。車道につながる真南の谷を下って林道に下りたかったが源頭は岩場になって急ですので右へ迂回して浅い谷を下る。西尾根の鞍部から谷の源頭を絡んで左回りに迂回して林道に続く南谷の580m付近(水線の辺り)に下った。すると幅広い作業道が上がってきていたのでそのまま下った。やがて林道に下った後、車道を歩いて車に戻れた。下山に手間取ったので黒岳は延期。登山口のみ偵察してきました。
 郡上市八幡町洲河の岳山を下山後は黒岳に登る予定だったが13時を回るので延期。R256をドライブ中に念興寺というお寺を見た。30年くらい前に「鬼の首」見学したことがあった。あの時は150円だった。見た感じでは猿の頭蓋骨と思った。もともとは高賀山に出没する鬼なので高賀山の登山口に藤原高光が鬼を退治するモニュメントがある。あれから首を刎ねられてここに供養された。
 上洲河の岳山の下山後黒岳の登山口のみ偵察。郡上市側の厚波(あつなみ)は「1875年(明治8年) - 田平村、厚波村、東野村が合併し、三庫村とな」ってから後に和良村、今郡上市。厚波は人家もあり道も良いが山里から先は林道になる。2km先に古い登山道の道標があららしいが今日はパス。一方下呂市側の厚曽は”あっそ”と読む。訪れて見ると人影がなく廃村の雰囲気だった。かつてはバスも通ったが水害にあったらしい。
 写真の通り登高欲をそそるピラミダルな山容の黒岳が見える。記録は郡上市側の尾根の往復と厚曽の南東尾根の北に沿う沢登りが1件あった。南東尾根は送電線が走り保守路につなぐ踏み跡がありそうな気がする。

神風の伊勢路に来れば懐かしき伊勢三山の黒き山なみ2022年10月08日

 10/6の出張の折に見た伊勢路の風景は秋の刈り取りが終わり一面の刈田が広がっていた。農家の安堵の見えるような気がした。


・三重県は見渡す限り刈田跡美し国なり御食つ国なり

・神風の伊勢三山は魚獲る船頭達の陸の灯台

・ピラミダルな局ヶ岳に目を惹かれ白猪の山に堀坂の山

あおによし2022年08月24日

 8/20~8/21にかけて奈良県の山野を走った。山岳会で古道調査の事業に参加した4人で向かった。
 名阪国道の針ICからR360を南下します。道中で香酔峠(こうずいとうげ)を越えます。一帯にスズランの群生地がありその香気から命名とか。峠の東に額井岳(ぬかいだけ)があり美しい山容から大和富士の別名があります。昔登ったことがありました。中々思い出せなかったのは万葉歌人の山部赤人の墓(五輪塔)があったことです。

 田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
山部赤人 万葉集 巻3-318

の歌で余りにも有名です。長歌もありますのでよほどの感動があったと思われます。この歌のゆという一字で意味が変わる。これが格助詞というもので「てにをは」の一歩です。万葉集を学ぶ意義はここにあると思います。これを理論化したのは本居宣長の長男の春庭という。他にぞ、し、こそ、げに等一字か二字で意味が左右される言葉があります。降りける、と詠んで終止形ではなく連体形で余韻を持たせる。降ったんだなあ、という。

五輪塔の近くの歌碑には
あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鶯の声
山部赤人 万葉集 巻17-3915
があります。
 大和富士の形に見えたのは帰路でした。赤人の墓にふさわしいと思いました。機会があれば宇陀市の榛原辺りからも眺めて見たい。歌碑の再訪とか奈良県の山にもずいぶん行った積りだが改めて行くのも楽しいことである。

夏焼~夏焼城ヶ山~837m~地蔵峠~塩の道2022年05月03日

  4/20に続いて、稲武の山里を訪れた。今回も飯田街道(塩の道)の踏査が狙いである。但し、今回は城ヶ山の山裾にわずかに残る山路の踏査のみで峠越えはない。往復も芸がないので夏焼城ヶ山に登り、ブナの木峠ルートをたどり、ブナの木峠を確認したら、少し戻って、837mの独立標高点のある北尾根をたどり地蔵峠に降り立った。北尾根は登山道はなく、杣の踏み跡も赤テープもなくGPSで確認しながらのルートファインディングを楽しみながらの下降である。上部で広い尾根が主尾根と思ったが外してしまい、斜面をよじ登って主尾根に戻った。
  地蔵峠は現在は地図からも消えたが、かつては飯田街道の難所だった。多分、拡幅のために7m位切り下げたとある。要するに昔をしのぶ地蔵峠はもうないから消えたのだろう。それでも数体の地蔵様が並んで10mくらい下をひっきりなしに通過する車を見守っている。
 飯田街道の旧道は地蔵の下から始まり、地形に沿いながら沢を渡ったり、尾根を、山腹をたどりながら夏焼へと続いていた。旧道は舗装路に寸断されてしまったがやむを得ない。山口さん宅の前の庭を通過するのでお声がけして通らせてもらった。昔は塩や荷物を積んだ馬が往来していたのである。ここは国道153号だよ、と説明された。車が通れない山路でも国道なのである。
 今でも伊那谷から遠山谷へ越える小川路峠は国道256号の印刷がしてある。車は通れないのにだ。廃林道のような感じで延々歩くと朝方の道に出合った。こてで踏査は終わった。
 時間があったので越田和から林道を行けるだけ行って、4等三角点「夏焼」790.1mに登った。「古橋」の標石も埋まるから持山だろうか。登路はなく、伐採跡の斜面をよじ登った。約10分かかった。下山は急斜面は危ないので尾根を東にたどり林道ともっとも近づいた辺りをそろっと下った。
 帰りはまた中馬資料館に寄った。水草の里のことを聞いたが係りは何も知らなかった。大昔の事はもう忘れられてゆくのみだ。古橋和夫『三河宮尹良親王~稲武の尹良親王そその周辺』も知られていない。
 天気の良いGWのせいでR153は交通量が多く、往きも帰りも混んでいた。久々のコロナ終息過程での外出である。

亀山(越前大野城)に登城②2022年04月11日

 大野市へ戻る際に見た九頭竜川は雪解け水で増水し勢いがあった。小京都といわれるごとく複雑な市街地を経て大野市歴史博物館に入館。城の創建は
「福井県大野市にあった安土桃山時代の山城(やまじろ)。江戸時代には大野藩の藩庁が置かれた城である。大野市街近くの亀山(標高249m)に築かれていた。1573年(天正1)8月16日、戦国大名の朝倉義景は刀禰坂(とねざか)の戦いで織田信長に敗れ、一乗谷館・一乗谷城(福井市)を放棄し大野へ逃れたが、一族の朝倉景鏡の裏切りにより大野六坊の一つである賢松寺にて自刀した。こうして朝倉氏が滅ぼされたのち、その戦いで戦功により、大野市周辺を与えられた金森長近が1576年(天正4)に築いた城である。長近は小規模ながら大天守・小天守を持った堅固な大野城を築き、城下町をつくり上下水道を整備するなど、今日の大野市街の原形をつくった。
 信長の死後、北ノ庄城(福井市)を本拠とした柴田勝家と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が対立し、賎ヶ岳の戦いが起こったが、その際、長近は勝家方として従軍した。戦後、長近は敵方であったものの秀吉から城と領地を安堵され、1586年(天正14)に飛騨高山(岐阜県)に転封した。その後、大野城には長谷川秀一、青木一矩、織田秀雄(信長の孫・信雄の長男)が入城し、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、大野一帯が福井藩の直轄領となったことから、福井城の支城となった。1624年(寛永1)には結城秀康三男の松平直政が5万石の大野藩の藩主として入城、その後、譜代や親藩の大名が城主となり、土井氏4万石の時代に明治維新を迎えた。
 この間、1775年(安永4)に火災により大天守・小天守などを失った。現在、城跡には1968年(昭和43)に建設された鉄筋コンクリート造の復興天守群と天狗櫓(てんぐやぐら)があるが、その石垣は当時のものである。また、城門2基が同市内の光明寺および真乗寺に山門として移築され現存している。JR越美北線越前大野駅から徒歩約20分。山頂まで徒歩約10分(4ヵ所の登城口がある)。◇亀山城ともよばれる。」
 少しは歩こうと越前大野城に登城した。登ると何と三等三角点もあり、249mの山だった。城からは大野盆地を囲む残雪の毘沙門岳、荒島岳、経ヶ岳、銀杏峰(げなんぽ)、部子山(へこやま)などの名山、遠景には姥ヶ岳、堂ヶ辻山、屏風山、取立山などの無名峰が並んだ。ミニハイキングになった。
 下山後は大野市内で名物のおろしそばを食べた。最後は数ある湧水地の本願清水イトヨの里に寄り、取水して土産にした。
 地図を見ると大野市は地下水脈の上に成り立つ水上都市と言える。九頭竜川、真名川などの河川が洪水の度に押し出し、土砂が堆積し、伏流水の豊かな土地が形成された。名古屋市中区の鶴舞もツルマという。水の湧く土地であり、以前はビール会社の工場があった。富山県入善町は黒部川の伏流水が豊富で至る所に湧き水がある。郡上八万市、大垣市もそうだし、外国ではナイロビが水の湧く土地という意味らしい。

比叡山2021年10月24日

 24日は一等三角点の比叡山848mへの記念登山である。往復とも歩くのは私1人で、登るだけの18名、残りは車でドライブして、山頂だけ行く人に分かれた。
 登山口は修学院離宮のあるところで、きらら坂登山口である。2台分のスペースがありそこにP。結構急な尾根歩きに終始したが、多くが80歳超の高齢者にもかかわらず無事登頂した。72歳の私などは若手の部類か。
 こうして2日間ともいい天気に恵まれて秋の古都をめぐる山旅を終えました。京都市内は観光客のマイカーであふれていた。
 帰名には時間に余裕があったので大津市の石山寺も経めぐるが散策には時間がない。「石山寺は『更級日記』『蜻蛉日記』『枕草子』『和泉式部日記』などの文学作品に描かれ、紫式部が『源氏物語』の着想を得た場所とも伝えられます。近江八景の一つ「石山秋月(いしやまのしゅうげつ)」も有名です。」
 紫式部は白楽天の漢詩も愛読していたという。和歌と漢詩にも通じるなんて、多分ですが渡来人と日本人の混血ではないか、とさえ思います。
 瀬田川のゆったりした流れに見とれた。「琵琶湖哀歌」に謳われた瀬田の唐橋も通った。R1とR8が錯綜して分かりにくい。近江富士の右へ反れてやっと帰名の途についた。

東濃・笠置山を歩く2021年04月18日

 珍しく入会見学者1名、何年ぶりかで復会した会員、何ヶ月ぶりかで同行する会員ら7名の会山行になった。それで、名古屋駅前のジャパレンで、トヨタの誇る7人乗りミニヴァン・ヴェルファイアをレンタルした。朝6時45分に集合。乗る前、休憩後も車内の消毒液でシュシュとやり、マスク着用も忘れず励行。
  気圧配置が不安定な1日だった。名古屋市は晴れ、登山口の恵那市笠置姫栗は曇りだった。小雨模様を心配し、山腹にある一段高い登山口にクルマで移動した。
 林道の周囲は新芽が吹き出したばかりの若々しい緑が美しい。二つ目の登山口も雨で、最初から雨具の上着を着た。登山道は階段で整備してある。頂上手前で林道を横切るとすぐに山頂だ。手前からは霰が降り、直下からは雪になった。寒いはずである。
 俳句では、晩春の季節感を表現し、雪の果て、名残雪、忘れ雪、終い雪などと季語になっている。麓なら忘れ霜だろう。
 ガスに包まれて展望はない。有名なヒカリゴケを見に岩を下り、見学、確かに、ビロードのような淡い光が見える。
 まだまだ降って来るので、早々に下山した。時間はたっぷりあるので、恵那駅前の五平餅屋に行く。次々お客さんが来るので、店外で待った。店内に招かれ、熱いお茶が嬉しい。胡桃の香ばしい匂いに食欲を促され、あっと言う間に五本を平らげた。
 まだ時間があるので、清内路峠を越えて、ハナモモ街道をドライブした。ヴェルファイアの登攀力は素晴らしく加速する。峠を越えると、エンジンブレーキの操作が分からず、一旦停止して、操作を確認。DからMに入れて、前後するとエンブレが効くことを確認。楽しいドライブになった。
 かつて、漂泊の俳人・山頭火が越えて、伊那の支持者へと旅した古い街道である。「分けっても分け行っても青い山」が有名な句。園原インターから帰った。ジャパレンへ返す前に給油したが燃費も良かった。こみこみで4000円だったから割安に上がった。帰りは有志で居酒屋で一杯と、マイカーよりは物入りだが偶には良い。