八曽山を歩く2021年05月03日

 5/2は本州上空に有った低気圧が、東に抜け、5/3は東シナ海の高気圧が、本州をおおってきた。少し寒いが、春の青空が広がるGWの中日になった。そのせいで、大勢の行楽客が入鹿池周辺に集まった。小牧東IC経由の県道49号はやや渋滞気味だった。
 五条川に沿う八曽モミの木キャンプ場への道も周辺も路駐の車で一杯だった。キャンプ場も多分満員と諦めて引き返した。池の喫茶店に入り、スマホで東海自然報道を検索すると、内津峠PAからの道が五条川につながっていた。マイカーを走らせると、リニア送電線の工事中らしい。三差路に路駐して出発。
 後から後からマウンテンバイクの人たちが抜いてゆく。グループや単独もいる。このルートは自転車にはちょうどいい幅がありサイクリストには知られているのだろう。
 五条川に降り立つとすぐに丸山橋を経て、黒平谷橋を渡る。ここは八曽キャンプ場らしい。谷沿いの道から八曽滝に着く。急な尾根を登ると別の尾根道に合流する。後は一本道である。
 頂上直下は大抵は傾斜がきつい。この山も例外ではない。登りきると2等三角点のある八曽山または黒平山(点の記は黒平)である。頂上からは伊吹山の眺めが良かった。濃尾平野の右端に座す金華山も良く見えた。入鹿池の向こうは尾張本宮山、右は尾張富士である。中々の良い眺めに満足する。子供連れの登山客も多かった。
 下り始めると左へ道があるので辿ると、元の道に戻った。この周回道は地形図に表現されている。また一段と下ると二股になり、左へ行ってみた。雑木林と裏白の新緑が美しい小径だ。
 しばらくで分岐に着いた。愛岐県境への道を一ノ門というらしい。八曽山の山頂直下も石垣が築かれていた。何かの建造物、例えば山城か、それなら一ノ門の名称はマッチする。それで一ノ門の小径を歩いた。岐阜県境まで来たがそれらしいものはなかった。そこには防火線と小さな案内看板があった。愛岐県境を南へと歩いた。今は雑木林も新緑で覆われたがつい最近までは見通しがよく御嶽や恵那山、中アなど見えただろう。落葉期に歩く価値はある。
 愛岐県境の防火線は幅1m程度の歩道であるが、地形図では実線なので、軽車道になる。この表現は亀割池付近から始まり、八曽の里キャンプ場の近くで終わる。岐阜県側は東建塩河CCでゴルフ場か、芝生が見えている。
 283mの分岐が明瞭ならば尾根を下る案もあったがそのまま県境をたどった。分れ道で、古い石の道標があった。今井村 左たじみみち、右うつつ道か。すると山岳古道ではないか。ウィキによれば、今井村は犬山市にかつてあった村の名前だった。入鹿池の北に今井の大字として名残りをとどめる。内津峠の下街道とつながる古道であった。良いものを見た。
 再び分れ道になったが、左は明瞭な道だが、尾根から外れる。多分北小木町の神社マークに至るだろう。右の尾根道を取った。落ち葉の堆積する道でほとんど歩かれていないが藪ではない。尾根の地形が無くなると山腹の良い道になり、下から人の声が聞こえてきた。下りきった辺りでは踏み跡も消えて荒れている。赤テープが何本もぶら下がる。しかし、駐車場らしい舗装は見えるが道はないので適当に木につかまって下りた。
 そこは愛知県犬山市の八曽の里キャンプ場だった。古い山里を期待したが残念。地形図の222mの北の三差路を確認した。五条川の流れを渡ると岐阜県だった。愛知県はキャンプ場で行き詰まりと思い、岐阜県側の実線が林道なので歩いてみた。この林道はこのまま行くと愛岐県境の谷間をたどって内津峠付近に行ける。しかし、キャンプ場からは離れる。そこで林道から小さな谷を渡り、更に石が水面に出ている五条川の浅瀬を選んでキャンプ場へ渡渉した。左へ行くと無事、対岸に行ける橋があった。大きく北に蛇行した五条川に沿って林道を歩くが奥もキャンプを楽しむ家族がいた。ここにも八曽山への道標があり、これでつながった。地形図ではつながった実線であるが、実際は壊れた橋があるかに思えたが、廃道みたいな林道の看板に微かに八曽山の字が浮かんでいる。その先は小さな谷に粗末な木の橋が架かっていた。渡って急斜面をよじ登ると立派な林道が伸びていた。
 以前は林道級の橋の残骸でもあればともかく何もないから地形図の間違いである。しばらく歩くと東海自然歩道への入り口に着いた。これで周回は果たせた。後は車まで来た道を戻るだけだ。

遠足や守らせたまへ我が国を 拙作2021年04月30日

 4月29日の昭和の日には三ヶ根山の殉国七士廟に関係する話題が多々あった。山田氏のブログにあるように、今は名誉回復されて戦犯は居ない。そして昭和天皇もすぐ近くの宿舎まで来られて、殉国七士廟に向かって拝礼されたという。間違いだらけの東京裁判で犠牲になった人々への弔いであった。「裁判官全員が戦勝国の人々で構成された事や、米軍が行った原爆投下などの民間人への虐殺行為は全く罪に問われていない事、起訴状における「平和に対する罪」が第二次世界大戦当時は存在しなかった事」など、戦勝国側の事後法で処刑されたのである。
 純粋にハイキングで登ったり、ガイドブックの取材などで何度も登りにきた親しい山である。もちろん、殉国七士廟も訪ねた。その周辺には秋であればアサギマダラの群舞が見られて感動した。東南アジアへの旅立ちの準備でここに立ちよるのであろう。春は花も咲く。”遠足や守らせたまへ我が国を”と詠んだ。

奥三河・鷹ノ巣山を歩く2021年04月21日

 鷹ノ巣山の登山口はかつては裏谷がメインだった。新ハイキングの昭和56年4月号に段戸山のガイド紀行があり、それを購入して、すぐ登りに行った。あの時は森林の中の踏み跡程度の道だったと記憶している。人工植林が優勢する山ではあるが、秘境を訪れた感動があった。
 設楽町は今、ダム建設の真っ最中だ。加えて、道路改良も盛んになった。岩古谷山にトンネルが穿たれ、段戸山周辺にも広域農道が延びた。
 私が40年前に未舗装の駒ヶ原宇連林道をノロノロ通行したのもはるか昔になった。広域農道に寸断された駒ヶ原林道にマイカーを置いて、出発。スマホの軌跡を見ながら、澄川橋から返り水林道に入る。
 澄川は760m地点から沢登りしたことがある。水がきれいだった。滝もあり、変化に富む。滝の後は延々続く滑が良い。溯行価値はある。その終了点が澄川橋だ。

http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/06/17/9088190

 澄川の滑を横目に見て楽しみながら歩く。登山口らしい 道標を発見し、鹿避けネットを開けて歩き出す。1124mに突き上げる浅い谷沿いに踏み跡が続く。やがて、二股になり、左に振って尾根に上がると、ネット越しに鷹ノ巣山の全貌が見えた。内側は植栽が終わり、外側は皆伐されて殺風景な谷の風景をさらけ出す。登る途中では奥三河一円の大展望が広がる。一見の価値はある。
 1124mに登って左折し、一旦下り登り返すと良い道にあう。この道は急に確りするので振り返って見ると、少し下で白いテープが張ってあり、通行止めの意味だろう。つまり、皆伐の中に行くので踏み跡が不明瞭になるのだ。かつての裏谷ルートは消失したのも同然だろう。
 山頂が近付くに連れて付近だけは自然林が増えて雰囲気が良くなる。イヌブナががあり、赤っぽい木肌の樹木名を忘れたが、そうそう、ヒメシャラも見えた。今時は葉っぱも茂っていないので遠方の白い山も見える。石標は岡崎高校のもの。
 『日本風景論』を書いた岡崎市出身のジャーナリストの草分け的な志賀重昂の歌「三河男児の歌」に段戸山の山名が謳われている。明治政府は薩長人が重んじられて、徳川幕府の一翼を担った愛知県とりわけ三河人は意気消沈していたから激励したのだろう。名古屋帝国大学は日本で一番遅く設立され、医学と工学系しかなかった。
 しばらく休んで引き返し、東への道を下る。作業道路が2段階で寸断しており、赤テープで確認しながら広域農道に着いた。

仏庫裡を歩く2021年04月11日

『設楽町誌』から
 愛知県の山の中でも難読で由来が分からなかった仏庫裡。『設楽町誌』の村落図にヒントがあった。ぶくり小屋が今の仏庫裡。
 ぶくりはぼっくり、ぽっくり、ぽくりなどという。高下駄のことである。明治期に木地師を導入して原生林の伐採をした。木地屋の店で見ると、お盆、曲げわっぱ、お椀とかの日用品が多いが、中には山中に小屋掛けして高下駄を作る木地師もいたであろう。
 段戸山中の無名の三角点を登った際に、道のないところに草深く埋もれた菊の御紋の墓を見たことがある。山から山へ良材を求めて移動するから先祖の供養もできないまま草に埋もれてゆくのである。

 旧稲武町には木地山という地名があるし、月ヶ平なる山もある。月は槻のことで、ケヤキである。かつて揖斐川町の日坂峠近くにブクリヤの地名があったが、今は地形図からも消えた。同じ意味と思う。

草餅を食ふ山なみを眺めつつ 拙作2021年04月07日

 設楽町の岩岳に行った。朝早く6時前に行ったのは、六所山では朝7時30分ごろで、トヨタ系の工場の始業と重なる時間帯で、R153が大渋滞にあったからだった。ところが、今度は早過ぎた。
 天気予報では午前中曇りだったが、東に行くほど雲が山にかかり重そうな感じである。モチベーションがぐらつく感じである。
 それで、途中の稲武の喫茶店でコーヒーを飲んだり、どんぐりの湯で小休止したが落ち着かない。もう一歩進めて、なぐらの道の駅に着いたが8時前とて、開店には早い。車中で仮眠した。やっと1時間半ほども寝ただろうか。
 なぐらの道の駅も開店したので物色すると、地元産の蓬で作った草餅が美味しそうなので3個買った。売店のおばちゃんと天気の話をしたら午後には晴れるわよ、とのたまう。それで元気を得て、10時には出発。首尾よく山頂で快晴を得た。その時に食べた草餅の美味しかったこと。朝霧は晴れると思った。

奥三河・岩岳を歩く2021年04月05日

 奥三河有数の展望の良さで知られる岩岳。湯谷からの尾根ルートは10年以上前にガイドブックで紹介された。その後多くの登山者に歩かれ、踏み跡もしっかりしてきた。加えて、地元の有志だろうか、道標が新しく設置された。このルートの良さが認められたのだろう。
今日は再踏査し、かつ広域農道に下るルートを歩いた。
岩岳からは尾根を辿り源流に下る。せせらぎの音を聞きながら歩いた。源流の中程で三差路になり、右は湯谷から駒ヶ原への古い峠道を歩けるように整備したのか。左へはゆるやかな山道で中々に風情がある。桧に混じり、松の大木が残る。下生えの笹の緑が美しい。広域農道の標高770m付近に出た。後は農道を1キロメートル歩けば湯谷の登山口(標高680m)に戻る。尚、広域農道はほぼ走れる。工事中の所は旧林道に迂回する形で駒ヶ原に行ける。

三河の霊峰・六所山を歩く2021年03月31日

 3月30日に久々に六所山を軽く歩いた。三河三霊山の1つである。猿投山、六所山、三河本宮山と広範囲にわたる。
 山中に伊勢神宮遥拝所があるのでどの山も古代からの信仰につながるのであろう。猿投山にはヤマトタケルの兄の小碓皇子の墳墓がある。文部省の管轄で管理されていたが今は宮内省になる。
 天白区の自宅から日進市のR153に入り、豊田市方面へ走る。コメダでモーニングコーヒーを楽しみ、東郷から三好市を経て豊田市に向かうが平日の通勤時間帯とあって大渋滞になっている。平日だからガラガラというわけではない。
 天気が良ければ、前方に焙烙山、六所山が並んで見えるはずだが春霞のせいで見えない。市内でR301に入ると一本道になる。松平の橋を渡るとナビには右折させられるが、新道が出来ている。今日はナビにしたがう。昔は川沿いでか急カーブが多いので改良された。
 六所苑のある方向へ左折。今日は表参道は見送り、登山口の豊田市総合野外センターに向かう。表参道の登山口では桜が咲き、木瓜の花が鮮やかだった。
 豊田市総合野外センターの西駐車場からかもしかコースに入り杉やモミの大木の中を登ります。見晴台への分岐に着いて右折すると電波反射板の立つ見晴台に着きますが今日はは中国からの黄砂のせいか、あいにく山霞でぼうっとして見えなかった。
 戻ってしばらく登ると右展望台跡になる。以前は鉄骨の展望台があったが老朽化で撤去されたままである。クマタカの巣があるとかで再建はされないらしい。すぐに山頂に着く。
 少し水を飲んで、表参道へ向かう。伊勢神宮遥拝所、蜂須賀神社、六所神社などを経て、鞍部に着く。モミの大木もあり、六所山を代表する樹種かと思わせる。
 表参道を下ると谷沿いのしっかりした道になる。表参道には杉の大木が多く、如何にも信仰の古さをうかがわせる。みたらし滝で少し休憩。六所神社の鳥居まで下る。六所苑の自販機で缶コーヒーを飲んでからまた鳥居をくぐって登り返す。
 往き掛けには気になった林道コースに行ってみた。地形図の破線路から六所神社へ直登する道が無いか探ったがないので戻る。出合いから5分で鞍部に着いた。そこから六所神社へ元の道を歩く。今度はうさぎコースへ入ってみた。昔と違い、新たな林道が出来ていた。急カーブを曲がったところにうさぎコースの道標が出て来た。そこから下ると谷沿いの道になり、510mのコブとの鞍部を乗り越すとだらだら下る。まもなく管理道に下る。ここがうさぎコースの登山口になる。
 そのまま管理道をキャンプ場に向かって歩く。きつねコースの登山口を見送ると管理棟になる。作業員のおじさんが一人休んでいた。そこから西駐車場はすぐである。
 六所神社の里宮には今を盛りと桜が全開である。山里は今や遅しと赤や黄の花も咲き競う。山村の春は花の開花競争があるかに思う。R301に戻ると新道に自然に導かれてゆく。松平トンネルが穿たれていた。松平の農協に寄り山の幸を求めた。また豊田市街地を抜けて帰ったのである。

白やピンクの彩り、シデコブシの花が見頃 愛知・田原市の藤七原湿地2021年03月22日

白やピンクの彩り、シデコブシの花が見頃 愛知・田原市の藤七原湿地
https://news.yahoo.co.jp/articles/28c02a61f8c1c70861561ca3ee6e41090706cbcf
 愛知、岐阜、三重県内にしか自生していないといわれるシデコブシが例年より早く、白やピンクの花が咲き始めました。

 シデコブシは例年、3月中旬ごろから花が咲き始めますが、愛知県田原市によると、同市田原町の藤七原湿地(とうしちばらしっち)では今年、春先の気温が高かった影響か、今月4日に咲き始めたということです。

 シデコブシの花は、来月上旬まで楽しめるということで、田原市は開花状況を市のホームページで案内しています。
以上

・・・いよいよ開花したようです。東濃のどこかの山へ見に行こうと思います。
1多治見市虎渓山町 虎渓山のシデコブシ群生地

2ー1瑞浪市大湫633m:開発の手が入っておらず、自然状態のシデコブシが観察できる。

2-2瑞浪市釜戸町「竜吟の森」:シデコブシ自生地。竜吟湖の周囲には移植されたシデコブシやタムシバがある。

3恵那市大根山751mの北麓:標高500~600mのところに自生するシデコブシの群落が見られる。比較的自然に近い状態で生育している。

4中津川市千旦林の岩屋堂シデコブシ群生地:モクレン属の落葉低木性植物であるシデコブシ(Magnoliastellata)は、伊勢湾を取り囲む丘陵帯の限られた地域に分布する地域固有種(東海丘陵要素)で、湿地周辺に生育している。しかし、近年、開発等により自生地の消失や分断化が急速に進み、絶滅危惧種に指定されている。
岐阜県の東濃地方は、「土岐砂礫層」の特性から、湿地群が連続し、これら湿地群を中心にシデコブシが生育し、他の分布域にはみられない大きな分布面積の自生地がある。
この群生地も、周囲の段丘部から染み出した地下水によって形成された湿地で、426本(154株)のシデコブシがあり、東濃地方を代表するシデコブシ自生地となっている。

5土岐市泉町:7,500本の県下随一の群落を形成している。

五平餅わが食ふ手つき可笑しとて皆が打ち笑ふわらわば笑へ 依田秋圃2021年01月19日

鳳来寺山 おかめ茶屋の五平餅
 五平餅を口いっぱいにほおばるのは楽しい。

奥三河の山と人を愛した林業技術者にして歌人の依田秋圃に

  ”五平餅わが食ふ手つき可笑しとて
         皆が打ち笑ふわらわば笑へ”

(「歌集 山野」から明治44年)という歌がある。明治44年は1911年なので110年前の歌である。
 たぶん、五平餅の大きさは大人の手のひらくらいはあるから口の周りに味噌だれがついてしまう。それを笑われたのである。なるだけ付けないように持ち方を変える。そこをまた笑われるというのだろう。

鳳来寺山と深田久弥2021年01月17日

 おかめ茶屋の店主は今年91歳という。2021年の91年前は1930年というから昭和5年。そうか私の母親と変わりない年代になる。店内に新聞のスクラップの掲示があったので尋ねると25歳から五平餅を作り始めたらしい。すると1955年になり昭和30年だ。門前町が栄えてていた時代は観光バスが来て旅館も繁盛していた。自分も手伝いに行ったという。
 観光にテコ入れするかのようにパークウェイが開通したのは1971年のことで昭和46年になる。
 参道を歩くと確かに廃業したらしいお店が多かった。わずかに名産の硯石の店は2軒残っていた。旅館の「桔梗屋」さんは休業中の札が下がっていたがこのご時世では廃業に近いだろう。もう一軒も少し奥に大きな合掌造りの建物と別館があり往時の隆盛が偲ばれる。あのお婆さんがお手伝いに行ったのはここだろうか。別のブログ「江戸時代には、代官屋敷があり、旅館60軒、芝居小屋2軒があった」らしい。それも今は昔のこと。
 『山頂の憩い』で深田さんは名古屋での講演会を終えるとともに登山用具店を営むデカさんとジャコさんを誘って鳳来寺山へ行く。当時は東名高速も岡崎ICで降りると後はR1を走る。豊橋市から豊川、新城と北上。長篠で山道に入り、一日がかりで門前町へ着く。「教えられた宿は、坂になった一筋町の一番上にあった。昔の茅葺の建物を改装したらしく、すべての作りが鷹揚で、柱も梁も戸も黒く光って重厚、近代まがいの嫌いな私には心地よかった」と書く。1969年のことである。
 「民芸と山菜」を売り物にしていると書いてあるので多分あの大きな旅館の雲竜荘に泊まったのは間違いない。
 雲竜荘のHP
 http://www.unryuso.co.jp/index.html
 1964年(昭和39年)発刊の『日本百名山』がベストセラーになると山の作家としての知名度が上がった。あれから5年後の1969年には名古屋でも講演会に呼ばれた。
 余談だが、昭和39年3月には朝日新聞カルチャーセンターの登山教室で日本山岳会東海支部の講師に交じって「山の話」を担当している。1903年生まれなので61歳になっていた。そして鳳来寺山に登山したのは66歳になっていた。亡くなったのは1971年のことだからパークウェイが開通した年だった。そうか今年は没後50年になるのだ。