巴川源流の山々シリーズ①三等三角点和合645m2026年05月19日

 午後から新城への所用の前に地形図では無名の山の三角点をタッチ。林道を行けるだけ行って左の緩やかな斜面を登る。はっきりした道はないがよく成長した杉の高木の下でヤブも無いので歩きやすい。
 山頂は平で樹齢は推定50年位の杉に囲まれて展望はない。三等三角点はほとんど土に埋まっていた。周りをちょっと掘って撮影。誰も来ないのだろう。下山路は林道との落差のないところへ適当に下って林道に降りた。往復30分程度だった。
 旧下山村には1000m以上の山は無く、無名の三角点でも旧下山村と設楽町にまたがる867.2m。後は全域全山植林に覆われた600mから700m級の里山である。山の名前すら印刷されていない。しかし地元では呼称があるはずだ。
 松平町と旧下山村にまたがる六所山は611m、焙烙山は683.6mと低いが山名もある。愛環鉄道の車窓から見ると堂々とした山である。
 巴川の源流は旧作手村の巴山にあり、三河湖で一旦貯水される。西へ足助町を通り焙烙山を囲い込みながら南へと流れ岩津付近で矢作川に合流する。今回は巴川源流の多数の里山の三角点を訪ね歩く一つとなった。
 下山後は旧下山村の境界を越えて岡崎市切山町に入り、切山の大杉に寄り道した。

松平郷から二等三角点松平村、城跡2026年05月06日

 松平往還通いが続いたが今日で締めくくる。松平郷のR301に面したPに止める。
 松平郷のおいでんバス停を経て旧国道が取り残された形の道路へ左折。すぐに農道のような市道に左折。仮に根引沢としている舗装路を左折。
 ここで散歩中の人に出会って山の話をせがんだ。
私:松平往還の道を調べているんです、この奥の田圃は廃田で棚田になっていたから今の綺麗な田園は圃場整理されたんですかね。
山人:そうですよ、と相槌を打ってくれた。まだ最近のことです。
私:先だって下高ノ山の大橋家から裏山の鞍部を越えてここを歩いたばかりです。今日は3/15に引き返した地点からR301に抜けて六所山を目指しています。どん詰まりはとても険しいですね。
山人:トヨタが下田代町と蕪木町にかけて山の頂上を造成してテストコースを作っている。トヨタ下山三号館という。そのアクセスのために根引峠の急坂を改良するために現在のR301よりも南側に高架で根引峠直下に掘るトンネルにつなぐ工事がもうすぐ始まる。テストコースは世界中の坂道を集めているとか、地元民を招待して現地を見学した。
豊田章男が愛知県知事に早く着手する旨はっぱをかけた。
私:ほう、それが出来るとこの美しい田園風景が壊されてしまいそうだ。

と話を続けたいが時間もあるので打ち切って先を急いだ。先日車で来てチエックしてあるからスムーズに突破できた。この辺はグーグルマップを見ると「ソンデ、ソデ」という。柳田国男『地名の研究』に出て来る。ネットで見ると「ソデ・ソンデも同様に山の向こう側=二等地を意味する」とか。この辺は南向きの山里は沢連(そうれ)、林添(はやしぞれ)は焼き畑に由来する。ソンデは耕作に不向きだったのか。
 この引き返したところから獣除けフェンスとガードレールの間をR301に出た。R301の端を歩いてこの前はパスした稲荷大神(廃止)の前を通過、山の家に下った。ここも表札がなく廃墟か。庭の前を通って松平往還に合流。再びR301に出て検証は終わった。
 ここからは六所山に向かう。森下という古い山里を歩く。道祖神もある。どん詰まりへ行くと道が途絶えるとかいうので地形図を見ると左折する。最奥の家を通過して右に振ったがこの林道も途中までだった。家まで戻って左折すると車道が奥まで通じているが通せんぼしてある。左から隙間を通過して行くとゴミが散乱。その奥は枯れた竹林で道が埋まっている。否な感じだが、竹は短いので右端を跨いでいくうちに右手から下って来た尾根に明瞭な踏み跡があった。破線路はあるが前途は大きな岩で阻まれているので自然に尾根に振った。急斜面の踏み跡を辿るうちに乗り越して先ほどの沢の上部に出た。上から見ると右岸に道が見えるから竹の散乱地だけが障害だろう。
 尾根の踏み跡はそのまま源流地点へと着いて水流と交わった。本来は右寄りだが、又も山の田圃にフェンスが見えたので一番低そうな山側へ登ってみた。倒木を渡して乗り越えて、再び松平への林道とのフェンスは強引に越えた。ここで降雨となり合羽を着る。
 計画を見直し、381ポイントから二等三角点松平村に変更した。峠から右折、また小さな峠を越えて右折、松平村への林道に入る。二等三角点松平村は植林の中に埋まっていた。三角点以外に何もない。これが本来の山頂だ。と満足させた。
 下山後は水子地蔵のある広大な墓苑に寄った。そのまま引き返す。381ポイントから松平城址へ行く農道を下る。さっきフェンスを越えたばかりだ。雨は止んだのでカッパを脱ぐ。この山田はまだ耕作されておらず廃田か。とぼとぼ下って行くと美しい棚田が見えて来た。背の高いフェンスで囲まれている。
 松平城址へ寄り道して最初のPへ戻った。

松平往還の検証行12026年05月02日

 3/15の復路(南進)の反省をフィードバックして4/29の順路(北進)を実施した。磯谷栄一氏の案内書を読み返すと細部で気がかりなところが残った。特に「桜の道」「松の道」と市街地は多く残った。今日はその検証である。
 まずは「竹の道」の出発地である米河内に来てみた。
 14の東の滝山御神領標が発見できなかった。これは青木川左岸の近藤家の敷地内ということで見つからなかったわけだ。同時に開元通宝出土記念碑も見つかった。明治時代は青木川右岸にあったが昭和38年以後に近藤家に移設された。
 15の松平往還と古大沼街道の分岐点が見えているのに認識できなかった。堂坂は1m幅しかなく、クルマは通れない。左側の車道も軽自動車か4ナンバーがやっとの狭い道だった。常夜灯の先の忠魂碑の前に路駐して、堂坂から登って見た。
 P40に絵図で説明されているがこの変遷が分かりにくい。わずか200m位の距離である。八幡宮を経てヤゲ川沿いに下る道も同じくらい狭い。この時期は松平往還も大沼街道も同じでヤゲ川に下ってから分れた。
 明治25年以前の昔は青木川に崖で落ちていた。このために堂坂を急登して行ったらしい。明治25年に大沼街道が青木川沿いに開通して常夜灯が設置された。岩窪みの馬頭観音もできた。
 昭和38年以後は現在のヤゲ川沿いの大沼街道の旧道から左折して松平往還に行ける。4/29は岩窪みの観音を探しに行ったが見つけられず、変な軌跡になった。これで納得。竹の道は郡界川までほとんど正しくトレースできている。
 松の道の8から14のうち、8の「魂場の道標」はドラッグストアに止めて、魂場の交差点の片隅に埋められていたのを確認できた。
 次は名鉄バス停「老いの狭間」の向かいに緑風台という住宅団地があり、その南東面の実線を辿っていることが分かった。クルマで行って見ると通しでは走れなかった。1m幅の小径が残されている。石仏などのものはない。緑風台の公園とは背の高いネットで仕切があり、名札のある廃屋があった。
 「桜の道」の2から3の道は知らずに通過、6から8の道も迷走した。これはこだわらずとも良いか。時間があれば竜泉寺と足立眼科の道標を見に行きたい。「松の道」の滝山寺から馬頭観音の間の細部もマニアックなので割愛した。
 又、ヤマレコの記録では井田観音堂から真伝町のカフェデリプレッソという喫茶店の南に小川があり、橋のたもとに道標が残っている。ここを経由して大沼街道に合流すると後は同じである。

岡崎城から大樹寺総門を経て松平往還を歩く(順路)2026年04月29日

 3/15は松平郷から大樹寺へ歩いた。廃道あり、消失あり、障害物ありの中々に手強い山岳古道であった。今回はその反省を元に順路を歩いて見た。
 名古屋の自宅の最寄り駅は6時3分の始発に乗車、豊田市駅は定刻通りに着く。下車してペデストリアンデッキを急ぐと新豊田駅には6時37分発の電車に余裕で乗れる。中岡崎駅7時3分に到着。名古屋からは丁度1時間の車窓の旅だった。東側に席をとり、車窓から愛知高原の山々に見入る。天気は高曇りでぱっとしないが焙烙山と六所山の兄弟が並んでいる。
         岡崎城信濃門跡から甲山に道草    
 岡崎城へはR248を通過して伊賀川を渡るとすぐに着く。乙川の流れに沿って県道39号線を左折。喫茶店に飛び込んでモーニングコーヒーとトーストを食べて出発。目指すは信濃門跡だがママさんは知らないそうだ。小ぶりの記念碑はすぐに見つかった。ここをヤマップの出発地にした。
 前回はピークを一つも踏まなかったので今回は岡崎市内にポツンと隆起する甲山64.7mの2等三角点に道草した。但しヤマップは山と認めていないようだ。一座は一座なんだが。
         大樹寺総門へ                  
 下山後はまた39号線に戻る。目指したのは大樹寺総門である。AIは「総門(そうもん)は、寺院や邸宅の敷地外郭に位置する「第一の正門」や「表門」を指し、格式の高さを示す場所」と回答。前回は山門はチエックしたのになぜ総門があるのか、気になった。
 別の回答は「総門と山門の主な違いは、寺院内での位置と役割(格式)です。総門(そうもん): 寺院の境内の一番外側にある正門。俗世と寺域の境界を示す入り口。山門(さんもん): 総門の先、仏殿の手前にある、寺を代表する格式高い門。修行の場へ入る心の準備を示す。一般的に、総門から入って山門へと進む構成になっており、山門の方が格式が上であることが多いです。」大樹寺小学校のグランドと校舎を隔てて山門が見えている。
         ビスタラインを確認
 南へは岡崎城の天守閣が見えるように障害物がない。ビスタラインという。「徳川三代将軍家光が、寛永18年(1641)、家康の十七回忌を機に、徳川家の祖先である松平家の菩提寺である大樹寺の伽藍の大造営を行う際に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、本堂から三門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城が望めるように伽藍を配置したことに由来」。「歴代の岡崎城主は、天守閣から毎日ここに向かって拝礼した」そうだ。
ちょっと詳しくなった。矢作川流域は下流が沃野なので18松平家が遍在している。幸田町の深溝松平家は今も研究されている。松平家の歴史は岡崎市を中心に西三河の文化の底荷になっているのだ。
         松平往還の順路を往く
 さて、総門を拝見後は前回のルートを反対に歩く。磯谷栄一『消えゆく松平往還を歩く』の案内を具にチエックしたが取りこぼしがあった。大沼街道(県道335号線)は立派な県道で交通量が多い。脇道に留意をしたがうっかり通り過ぎた箇所もある。東名高速の下は北に反れる旧道を歩けた。石仏が二ヶ所あった。滝団地の北の旧道は今回も見逃した。交差点を過ぎてすぐ左下に灯籠があったのでチエックすると石仏もあって旧道を確認。南北の新道で道路の落差2mほどが埋まっているのである。青木川の橋を渡るとすぐ朱塗りの瀧山寺三門が建つ。瀧山東照宮を経てすぐ「N'ma cafe」というお洒落な喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ。すぐ先に三界の滝があった。県道は477号線になって米河内町に着いた。
 前回は忠魂碑があるところを旧道としていた。案内書でチエックすると実は松平往還は八幡宮を経由する。一歩手前で左折するようだ。今回は何となくヤゲ川沿いに歩けたがもっと北西から大きく迂回する旧道がある。後日クルマで再度行ってみたい。
 山里を離れるとヤゲ川左林道、右は松平往還になり直進。ヤゲ川は小さな沢で余り清流でもない。セメント舗装だが荒れている。標高180mの小さな峠を越える。左に射撃場のゲート、右は幸果園の果樹園が広がり新東名が見える。幸果園の入り口手前にも石仏がある。すぐ新東名をくぐる。二岐は左折、松平往還の案内板がある。鉄塔が建っているところから地道と舗装路の二岐は右の地道を下ると舗装路と出合う。安戸町への車道は左折、すぐ二岐は右へ、民家の手前に句碑があるので右の地道を辿ると小さな峠を越えて本光寺の右の小径を下る。すると県道339号線(真福寺道)に出合う。ここが駒立町だ。大堰堤が見えるので直進して見ると金属の獣害除けのフェンスが見えて断念。案内書では✖になっている。
      渡通津町への山越え
 やむなく車道を経てマルタ園への道標がある道に入る。山側の田圃では代掻きが終わって苗を植えたばかりだった。6月ころには青田になっているだろう。マルタ園も果樹園である。観光バス用のPもあって団体客を集めている。延々硬い舗装路を歩いてきたが地形図で241ポイント辺りから右に松平往還が現れる。ここからはしばらくは土の道の上を歩ける。一旦は途切れて林道に出るが右に別れていく。車道は左に並行している。中間に細道があるので入る。すると右から来る道に出合う。松平往還は林道で削られたようだ。
 しばらくは快適に歩ける。石の道標がある。下に車道が見える。そのまま山路を進んで下ると左へ曲がって車道に下る。渡津通町の山里が俯瞰できる。そのまま下って行くと十字路に着く。ここにも松平往還の説明板がある。また覚書みたいな帳面がビニールに包まれてあった。車道を北上すると廃屋、廃車が見えて寂れていく雰囲気がある。まもなくお堂があり、右の山路に誘導する道標がある。指示通り山路を登ってゆく。やや急だがすぐに平坦になる。やがて渡通津町と日影町の境の峠に着く。ここにも案内板がある。右へ行く踏み跡は鉄塔巡視路だ。301mの三角点日影に行ける。
 日影町へは法面が狭い山路を慎重に行く。この先はカーブしながら下る。良い感じの自然の中にある。そして問題の県道への下り方が険しい所に来た。注意していると右に鉄塔巡視路の道標が二手に分かれている。これがポイントになる。念のために約数mも下ってみたが県道の拡幅工事で削られた斜面に出る。ここは雨で浸食されないために左下にセメントの溝が掘ってある。一段右下にもセメントの溝が見える。そこへ薄い踏み跡も続いて強引に下れないこともなさそうだ。しかし、さきほどの巡視路の道標迄戻って踏み跡を辿る。前はここを登ったから分かっている。谷まで下ると左折。右は谷間の廃田である。左は竹藪が枯れて鬱陶しい。ピンテープも二つあった。車道が近くなると先ほどのセメントの溝を跨ぐ。溝は落ち葉が詰まっている。そして県道へ下れる。日影町の山里を右に広い県道を歩くと最初の細い橋が見えたら渡る。旧道は山寄りに残っている。
         豊田市瀧脇町へ
 郡界川を渡ると豊田市瀧脇町になる。急な坂道を登り、専光寺の左側の道を行く。左へ反れていくと瀧脇陣屋跡の案内板がある。そのまま車道を直進すると行き止まりだが。民家との間に2m幅の山路が見えるので車道から離れる。これは地形図にも実線で表現されている。前回は降り口が分からず見逃した。県道338号線に合流。上に瀧脇小学校があるせいか、車道と歩道が分離されている。もちろん歩道を登り小学校のある峠を越える。ここに寅の径の道標がある。
         石御堂へ
 緩やかな坂を下って行くと石御堂のモニュメントが建っている。ググって見ると「加茂一揆(かもいっき)は,1836年(天保7)9月,九久平村(くぎゅうだいら:現豊田市)周辺の農民たちの動きを発端として,全松平地域と下山村南西部,足助町全域を巻き込み,さらに挙母(ころも)城下に押し出し,農民1万人以上が加わった三河地方最大の農民闘争であり,江戸幕府の天保の改革(1841年)の原因にもなった一揆である。
 一揆の直接の原因は,「天保の大飢饉(だいききん)」による農民生活の極度の困窮であった。人望があった松平辰蔵(まつだいら たつぞう)は,この一揆の頭取としてかつがれた。辰蔵は強訴(ごうそ)により要求を通そうとして,酒屋・役人との交渉に臨んだ。しかし,足助(あすけ)の農民が加入したころから統制が乱れ,辰蔵の家が打ちこわしに遇う。
 頭取を失った一揆は,打ちこわし本位の世直し一揆へ変化する。5日間にわたる一揆は247町村,13,000人の参加者をみたが,岡崎藩・吉田藩の加勢で鎮圧された。」(豊田市教育委員会 )
 4/18の大給城址から岩谷山へ登った後、松平辰蔵の墓にも参拝してきました。質素な墓でした。世直しといえば31年後の1867年に「東海地方(三河・遠江・尾張)に発した「ええじゃないか」の乱舞が各地に広がる」とある。
 七売(なのうり)の小村も今回は旧道へ回った。そして神明神社への階段を登って「寅の径」の道標を見て山路を歩いた。竹藪が枯れて乱れていたが尾根に登るとなんとか歩ける。尾根伝いに歩いて行くと目印で左折、踏み跡ははっきりしないが林道に降り立つ。大橋家一軒だけの下高ノ山の地名がある山里へ出た。右へ、そして左へ山際の踏み跡を辿ると湿地帯か廃田か。車道に出ると廃屋が一軒ある。クルマも置かれたままだが。右折すると大橋家に突き当たる。
          松平郷への山路(寅の径)を問う
 道標など無いので大橋家の玄関のボタンを押して路を聞いた。父子が応対して下さった。3/15にも七売への路を尋ねた。寅の径は息子さんが小学校へ通う道だったよ、と言うので驚いた。その息子さんが向かって右のヤブの中の踏み跡へ案内してくれた。きっかけを知れば後は大丈夫だ。謝礼を述べて別れた。枯れた竹の倒木が絡んで膝をついてくぐって踏み跡を辿る。昔は家があったのだろうか、お茶碗など家財が散乱した所があった。すぐ鞍部だった。下ると舗装路に降りた。後は水田の苗を植える仕事で忙しい農家の人を見ながら歩く。すべて鉄のフェンスが囲っている。本来の松平往還は三差路で右折、奥の水田記号の所からR301の旧道に上がって松平郷に行けたが鉄のフェンスで遮断されて、案内書でも✖になっている。前回はここで1時間のロスタイムがあった。
 今回は農道からR301に出て松平郷へ歩いた。一休み後、高月院へと重い足を引きづった。家康お手植えと言う枝垂れ桜が今は新緑の噴水みたいにになっている。親氏の墓前にもお参りして下山。時に16時、松平郷のバス停へ歩いた。
 16時50分発のおいでんバスを待った。
     春更けておいでんバスを待つ独り  拙作

大給城址から岩谷山を歩く2026年04月19日

 4月になった。天白川堤防沿いの桜が満開から葉桜、そして散ったというのに中々出掛ける機会がなかった。やっと豊田市郊外の里山を歩けた。
  春更けて山奥深く浸りけり

  ウグイスのしきりに鳴くや城の跡

  廃田を無心に耕す老農夫 

と詩心のおもむくままに作った。
 まず小さな峠から大給城址に登城した。松平家の初期の武家。ここから岡崎平野へと領地を広げていったのだ。城趾の一角からは豊田市街を見下ろせる。道は整備されて険しくなくぶらっと散策に良い。
 地図を見て岩谷山へミニ縦走した。山道は俄然悪くなりコース外れで行きつ戻りつを繰り返した。岩谷山の山名通り山頂付近は大岩が屹立する険路になった。御嶽教の様な山岳宗教の雰囲気がある。修行僧がいたのだろうか。危うく無理して下りかかったがおかしいと気がついて引き返すと普通の山道に戻れた。岩谷山は専用の登山口から登らないとけっこう骨が折れる。
 一旦林道に出て山里につながる車道を戻った。その後九久平の県道39号線に出てお菓子屋で柏餅を購入。
 主目的の松平辰蔵の墓に詣でた。お菓子屋の北のセメントの階段を登って行くと植林内に着く。右行くとヤブ気味で建物がある。何となく左に行けば良さそうだが階段まで戻った。直進すると薄い踏み跡があり奥に墓石が見えて来た。無秩序な感じで墓が建っている。松平辰蔵の墓は上の方にあった。
 1836年の加茂一揆の頭取だった男だ。1万人以上の農民が動員された。松平一体の農民が米価高騰に怒って立ち上がった。挙母藩、岡崎藩に抑え込まれた。1840年のアヘン戦争敗北から植民地化を恐れた幕府は開国に踏み切った。幕末は騒然とするが世直しのきっかけになった一揆だった。取り調べに対して上が腐れば下は猶も腐ると言った。松平の名をいただいた男の気概だろう。
 松平往還を歩いた際に豊田市滝脇町の小学校付近にあった岩御堂が一揆のモニュメントである。
 下山後は豊田市中央図書館に寄って加茂一揆の史料に当たって見た。辰蔵の家は焼かれた。早くに死んだ。取り調べの記録もある。藩は治安のために処分せざるを得なかった。原因はインフレだった。戦が無いと人口は増える。モノが足りない。
 幕府、藩は給与を米で払った。米価は高い方が良い。今も消費税増減税でもめる。公務員の給与は税金だから増税を維持したい。
こうして昔も今も税金を巡る争いの種は尽きない。

歴史街道・松平往還を行く2026年03月15日

  徳川家発祥の地である豊田市松平郷から菩提寺の大樹寺を結ぶ古道を松平往還という。墓参に利用されたらしい。平成30年に磯貝榮一氏が『消えゆく松平往還を歩く』という案内書にまとめて発刊された。奥殿陣屋で入手して読んでみてトレースを試みた。日本版ロングトレイルである。
 ピークは目指さず山里から山里へ歩く。順路は岡崎城または大樹寺から松平郷が終点になる。名鉄東岡崎駅から歩くと街歩きになることと時間の都合で名古屋からは標高270mの松平郷から同18mの大樹寺へ下る形の山旅になった。
 3月半ばになると午前5時半というのに明るくなった。地下鉄鶴舞線・豊田線の始発に乗車、豊田市駅には約30分の6時47分に着いた。豊田市駅はリニューアル工事でごった返していた。駅員に聞いてバス乗り場を教えてもらった。午前7時8分発の下山行きおいでんバスに乗車、R301を走って松平郷に7時38分に着いた。バス停から5分ほど歩いて松平東照宮と松平親氏像を拝観。本当は高月院に詣でたいが割愛してバス停へ戻った。
     松平往還の古道の入り口を迷走
 当初は林添(はやしぞれ)を経由して南下とイメージしていた。案内書の地図にR301を少しもどって稲荷大神を裾を経由して地形図では無名の高ノ山の山里を経由する赤線があった。しかも✖がある。稲荷大神の界隈へ戻って地図通りに行ってみたが沢筋までは古道を下れた。水田に当たって1mの鉄線のフェンスと2m以上ありそうなネットが張ってあり隙間はなく、戻るしかなかった。✖の意味は進めないということだった。
 R301から実線の車道に入った。舗装路ということで民家があるのだろう。狭い谷沿いの道はパッと開けて小さな中山間地に着いた。
 鶯の初鳴きが聞こえてきた。土場の先にマイカーを止めた家が一軒あったが無住という感じだ。さらに奥のどん詰まりに若い人がいて聞くと家人に伝えてくれた。地形図で数戸の人家の記号がある高ノ山は1戸のみだった。家人に聞くとここから松平郷までは歩道があり、また七売は子供の通学路だというのである。家人曰く東海自然歩道の道というが、調べると松平ウォーク「寅の径」というコースに絡んでいると分かった。
      高ノ山から古道を歩いて七売の里へ
 家人に教えてもらった道をたどると行き過ぎたので戻って水田記号との境の林道をたどるとまもなく尾根に登ってゆく印があった。ここが子供の通学路だったというのだ。踏み跡は消え入りそうだったが樹林下なので下草ややぶは茂っていない。すぐに神社記号の元神明神社に着いた。お堂は古びて倒壊しそうな気がした。石段を下ると七売の里だ。下る途中に寅の径の道標があった。これが松平自然歩道の独自のに設定された径だった。
    舗装路を歩いて滝脇へ(ここまでは豊田市)
 一旦は車道に下って淡々と歩く。石御堂、滝脇小学校は見聞したが、豊田市と岡崎市の市境の郡界川を渡る。下流に二畳が滝があるが割愛。案内書ではここまでがあおいの道であるがバスを下車してかなりのロスタイムがあった。
    渡通津町の山里へ松平往還の核心部を歩く
 郡界川からは岡崎市に入る。案内書の竹の道である。読みにくい難読地名だが「松平五代長親の歌の一部即ち「・・・渡り通い津・・・」から家康が名付けた地名」という。
 市道のどこかに渡通津町(わつづ)へ越える山道があるはずと思ったが何も目印はない。GPSの記号が示す所に多分送電線の巡視路と思われるセメントの道が登ってゆくのでそこに入ってみた。足元は荒廃しているが何とか登ってゆける。落ち葉の道について行くと広い巡視路に交わった。鉄塔巡視路の道標がある。下って見たが道路へ下る明瞭な山道は不明。この道を渡通津へ行くと確かに自然がよく残されていて新緑の頃は良いだろう。動画で見たのもこの辺だろう。地形図の実線の道が全コースを通じて自然度が高いという。やがて渡通津の中心地に下る。とはいえ、有人無人の数戸あるだけの過疎の山里である。
    新東名をくぐって米河内へ
 ここで少し腹ごしらえ。車道の急坂を歩いてマルタ園(レジャー施設)に向かう。途中から山の中へ入ってゆく。松平往還の案内板がある。この車道は中間地点で鎖がかかって車は通れない。駒立町に下り、また登り返す。唯生句碑が目印だったが見落とした。幸果園への目印を見落としてまた戻る。新東名の下を通過、幸香園を左に見てゆるり登ると射撃場へのゲートか。左の旧道(実線)へ行く。米河内までは荒廃しているがほぼセメントの道だった。
    大樹寺から愛環鉄道・大門駅へ
 米河内からは大樹寺まで立派な2車線の県道を歩く。今回は登山靴でもなく、スニーカーでもないがビブラム底の固い靴底で車道を歩いたから足裏が痛くなった。案内書では19kmとあるがヤマップの記録では喫茶店での休憩と道間違いの往復、道迷いのロスタイムを含めて、22.4km、8時間21分かかった。登山の原則である早立ち早着きを守って良かった。
 喫茶店で一服したりして無事に大樹寺に着いた。五平餅で小腹を満たし、愛環鉄道大門駅発16時17分の電車に乗れた。車窓からは愛知高原の山並みの突起である焙烙山と六所山が目立った。

干支に因んだ山名の駒山を歩く2026年01月25日

 豊田市矢並町の医王寺で前泊。朝の勤行を聴いてありがたい法話を拝聴した。かつて七面山の敬慎院での冬の勤行はもっと厳しい体験だった。だが今回も寒波の中で低温下でミニ修行となった。
 医王寺を出発。R153で稲武の入り口の水別峠で左折。凍結した積雪路の坂道を登って富永調整池のPに停める。
 出発は11時過ぎになった。登山口への車道は雪を利用して急斜面の山林内をショートカット。大きなスポーツ施設の上に到達。そこから植林の中の山道に入る。雪はずっと続き途切れがない。上質の粉雪の道だ。林道と出合ったり離れたりして進む。ハイキングコースの案内板もあって雪の中でも見失うことはない。そのうち、床几の峠に着く。ここから右旋回して下ると又林道に出合う。しばらく林道上を歩くと東に展望が開けた。恵那山は見えないが多数の風力発電の山が見える。あれは上矢作町の大船山か。一方で少ない方の風力発電の山は稲武の井山だ。何となく茶臼山も特定出来た。
 林道の傍らの石仏を見て駒山への信仰の道だったことを思う。そのうち神杉が林立する境内へと登る。かつて朽ちた堂宇があったが最終的には屋根が倒壊、今は撤去された。最高点に回って山頂票を確認。帰路は雪の中で埋もれる墓石群に詣でた。この社を守っていた住職の墓だ。物知りの話では厳しい修行ゆえに40歳台で死んだと言う。手を合わせて辞した。
 屋根付きの休み所で小休止。その後1段下の崩壊の過程にある建物を見学。立派な構えだが朽ちるに任せる。
 久々の駒山を辞して林道を戻った。途中、867mの三角点峰も登った。展望はないが最高点である。以後は往路を戻った。スポーツ施設では雪の斜面で子どもらがソリ遊びに興じていた。調整池のPで散会。

大谷山山麓の古寺に泊まる2026年01月24日

 山仲間に大谷山の山懐にある矢並町の古刹・医王寺の住職がいる。何年か前に名古屋市の日泰寺で長期間の修行を経て僧職の道に入った。檀家は居ないので現在は無住であるが以前から勤行を所望していたらこの程実現した。1月24日夜から25日の朝のお勤めを実現してもらった。
 24日の昼間は自由なので2年ぶりに大谷山に登った。鞍ケ池公園のPは満車で止むなく登山口付近の林道の三叉路から往復した。冬の高曇りで展望は今一だが5日に登った村積山が見えている。下山後は医王寺に向かうと住職が既に居て準備中だった。
 医王寺は鈴木正三(1579〜1655)由来である。どんな人物か。「昔から僧侶は多く、それぞれ宗派もあるが、どの僧侶もよく修めてその道に深くなりその派の権威者には成ろうと励むが、世間のすべての衆生にたいして法に照らして当てはめよう・掬い取ろうとする人は一人も居ない。
 存在したかも知れないが、私はそのような僧侶は聞いたことがない。ざ~と観て、私がその始めかな」
「私は、80年近くの年月生き(教道の)苦労してきたけれども、誰も、真に耳を傾けて私の話を聞くものは居なかった。時流に合わなかったようだ。このままふり返られないまま、わたしは死にこれまでの苦労は徒労となるだろう。
 そう思うと空しい。・・が、今、このように私の話に耳を貸さないとはいえ、後の世に書き記しておけば、ご縁によってこの気持ちに答えてくれる人が居ると信じている。そう思ってこれを書いているのだ。<これこそが、「不退転」の体現者である>
以上。
と言うわけです。異次元の山歩きになった。

伊那街道の歩き方2026年01月15日

 年末に駆け込むように登った鞍掛山では多くのヒントが得られた。道の駅したらのPを拠点にして、まずは田口に向かって新しい伊那街道を歩いて登る。石畳もあるらしいので発見があると思う。田口からは荒尾、塩津に下って、小代、かしやげ峠、大代、四谷に下る。そこから216mポイントに下れば与良木峠へ登り返すだけだ。比高170m位なので大したギャップではない。峠を越えたら道の駅したらは近い。これで新旧の伊那街道を踏破できる。

岩津天神初詣と村積山ハイキング2026年01月05日

 岩津天神は四神相応の地に勧請されたと謂れにある。
四神相応の理想的な地形
東(青龍:せいりゅう): 清らかな流れのある川や小高い山。
矢作川、巴川
西(白虎:びゃっこ): 大きな道や小高い山。
東海道、今なら東名高速道路と新東名高速道路
南(朱雀:すじゃく): 開けた平地や大きな池・湖。
岡崎平野
北(玄武:げんぶ): 高くそびえる山(背後)。
村積山
 今日は四神相応の地におはす岩津天神への初詣をした後に村積山に登った。メンバーは姪夫婦の娘のSちゃんと4人だった。Sちゃんは6歳になり入学する。岩津天神は学問の神様でもあり意義深い一日になった。
 下山後はスシローで昼食、Sちゃんはサーモンが大好きな子だった。来月始めで6歳になり、4月には小学校へ入学する記念の年になった。丸々した赤ちゃんが四肢が伸びて一緒に山を歩けるまでに成長した。