戸塚宏という人の言葉② ― 2026年05月31日
戸塚宏という人の言葉① ― 2026年05月30日
ユーチューブを見ていたら戸塚ヨットスクールの校長だった戸塚宏の教育論が面白く次ぎ次ぎ出てきて深夜に及んだ。
動画のタイトル
https://www.youtube.com/watch?v=-sP9mcKF5_s
「知識」より「できる」を増やせ。教育の3本柱を再定義【コーナー②】
に見入った。
教育の三本柱
知育・・・偏差値秀才。偏差値が高いのは知っているだけで行動ができない。
論理的思考能力
抽象的思考能力
徳育・・・論理的思考。人間性を高めること。
空:
浩然の気を養う
シュリーマン 世界で一番幸福な顔をしている。日本はユートピア。
欧州はモノを獲得して幸福になる
日本は行動して自分を高めることで幸福になる。カネを目当てにするな、幸福を目当てにせよ。
徳はハードウェア、本能のこと。
体育・・・正しい行動をする能力。集中力が大事。
スポーツは勝つ事が目的。
「Right」が「権利」という翻訳の根本的誤解
権利は受動的な力である。
ライトは力を及ぼされる。
福沢諭吉は
通義:義に通ずると翻訳
自由はフリーとリバティ
リバティは人に迷惑を掛けない自由
動画のタイトル
https://www.youtube.com/watch?v=-sP9mcKF5_s
「知識」より「できる」を増やせ。教育の3本柱を再定義【コーナー②】
に見入った。
教育の三本柱
知育・・・偏差値秀才。偏差値が高いのは知っているだけで行動ができない。
論理的思考能力
抽象的思考能力
徳育・・・論理的思考。人間性を高めること。
空:
浩然の気を養う
シュリーマン 世界で一番幸福な顔をしている。日本はユートピア。
欧州はモノを獲得して幸福になる
日本は行動して自分を高めることで幸福になる。カネを目当てにするな、幸福を目当てにせよ。
徳はハードウェア、本能のこと。
体育・・・正しい行動をする能力。集中力が大事。
スポーツは勝つ事が目的。
「Right」が「権利」という翻訳の根本的誤解
権利は受動的な力である。
ライトは力を及ぼされる。
福沢諭吉は
通義:義に通ずると翻訳
自由はフリーとリバティ
リバティは人に迷惑を掛けない自由
『六所山と六所神社』他を購入 ― 2026年05月30日
昨日は下山後、豊田市役所松平支所に寄って、先回在庫が無くて買えなかった『六所山と六所神社』を購入できた。
目次は
緒言
第一章 由緒と風土記
一 六所神社の由緒と歴代宮司
トピックスはちがみね「社務日記 四方拝から元旦祭へ」
二 献幣使
三 妙昌寺と六所神社(附、開山無染禅師行業記)
トピックスはちがみね「東海学・松平郷と徳川氏 森 浩一」
膨大なので以下は適宜抜粋
第二章 祭り
第三章 自然と歴史・文化
第四章 崇敬・信仰
一 六所山の参拝道と古道 浦野一郎
二 仙台鹽竈神社への参拝
三 六所の大神様に朝な夕な心の中で何百回も柏手を打ち、帰してもらった父
四 原田十吉の六所神社崇敬
五 日明(坂上町)蜂嶺山天王寺の残照
第五章 聞き書き
一 六所山の本殿は南を向いておる。
二 酒井家のこと
三 馬宿、刀洗いの井戸
第六章 資料
第七章 年表
目次は
緒言
第一章 由緒と風土記
一 六所神社の由緒と歴代宮司
トピックスはちがみね「社務日記 四方拝から元旦祭へ」
二 献幣使
三 妙昌寺と六所神社(附、開山無染禅師行業記)
トピックスはちがみね「東海学・松平郷と徳川氏 森 浩一」
膨大なので以下は適宜抜粋
第二章 祭り
第三章 自然と歴史・文化
第四章 崇敬・信仰
一 六所山の参拝道と古道 浦野一郎
二 仙台鹽竈神社への参拝
三 六所の大神様に朝な夕な心の中で何百回も柏手を打ち、帰してもらった父
四 原田十吉の六所神社崇敬
五 日明(坂上町)蜂嶺山天王寺の残照
第五章 聞き書き
一 六所山の本殿は南を向いておる。
二 酒井家のこと
三 馬宿、刀洗いの井戸
第六章 資料
第七章 年表
拳母街道の坂峠 ― 2026年05月14日
5/6に歩いた森下から松平村2等三角点への道は廃道だったが、実は拳母街道の旧道と分かった。そしてあの峠は坂峠ということも分かった。
AIの回答は「挙母街道における「坂峠」とは、現在の愛知県豊田市松平町と花沢町の間(林道松平槇田和線)にある峠を指します。一般の地図にはあまり掲載されていない隠れた古道・峠で、歴史や自然散策を好む方の間で知られるスポットです。
周辺エリアと街道の概要挙母街道(ころもかいどう)は、名古屋から豊田市中心部(旧挙母市)へと向かう街道や、三河地方の山間部から挙母へと通じる道を指す歴史的な呼称です。
坂峠の所在地: 豊田市松平町と花沢町の間に位置しています。付近は東海環状自動車道の豊田松平インターチェンジからアクセスしやすい環境です。周辺の峠: 挙母街道やそれに連なる街道筋には、この「坂峠」のほかに、国道301号沿いの根引峠や伊勢神峠など、歴史深い峠が点在しています。」
六所山への登山道が今は松平郷から通じているが古い地形図にはない。むしろ、旧下山村の方から登っている。今のR301よりも早く通じた古道だった。中根洋治『忘れられた街道』にもこの峠は出て来るらしい。
おいでんバスの終点も大沼だった。確かにこのルートの方が素直に走れる。現在はわざわざ急な根引峠を越えている方が不思議なくらいだ。
AIの回答は「挙母街道における「坂峠」とは、現在の愛知県豊田市松平町と花沢町の間(林道松平槇田和線)にある峠を指します。一般の地図にはあまり掲載されていない隠れた古道・峠で、歴史や自然散策を好む方の間で知られるスポットです。
周辺エリアと街道の概要挙母街道(ころもかいどう)は、名古屋から豊田市中心部(旧挙母市)へと向かう街道や、三河地方の山間部から挙母へと通じる道を指す歴史的な呼称です。
坂峠の所在地: 豊田市松平町と花沢町の間に位置しています。付近は東海環状自動車道の豊田松平インターチェンジからアクセスしやすい環境です。周辺の峠: 挙母街道やそれに連なる街道筋には、この「坂峠」のほかに、国道301号沿いの根引峠や伊勢神峠など、歴史深い峠が点在しています。」
六所山への登山道が今は松平郷から通じているが古い地形図にはない。むしろ、旧下山村の方から登っている。今のR301よりも早く通じた古道だった。中根洋治『忘れられた街道』にもこの峠は出て来るらしい。
おいでんバスの終点も大沼だった。確かにこのルートの方が素直に走れる。現在はわざわざ急な根引峠を越えている方が不思議なくらいだ。
豊田市博物館へ ― 2026年05月04日
初めて入館する。1200円のところ、JAF割引で1100円になった。企画展は「教えて、千田先生! とよたの城も天下の城も」。会期2026年4月25日(土)〜2026年6月28日(日)。入場者は多数で中々の人気があるようだ。山城ブームもあるのだろう。
山歩きではちょくちょく古城に行くことがある。古城山という名前もある。美濃の口山には特に多い。戦国時代は群雄割拠で多数の山城が作られたのだろう。
常設展も意外に面白かった。昭和30年の国産初の乗用車のトヨペットクラウンの展示に目をくぎ付けにされた。今にも動きそうなくらいよく保存されている。
他には蚕の展示、ガラ紡の展示など拳母町、拳母市、豊田市と続く歴史の変遷がモノで分かりやすく展示されていた。
ネットから引用
「愛知県豊田市。トヨタ自動車が本社を置く、いわずと知れた企業城下町だ。この市は元々「挙母(ころも)市」という市名だったことをご存じだろうか?
「クルマのまち」ではなく、「マユのまち」だった
養蚕・製糸業を中心に栄えた挙母町。しかし、昭和の初めころからその需要が減り、当時の町長・中村寿一が町の繁栄を取り戻すために乗り出したのが、豊田自動織機製作所が新設した自動車製造部の工場誘致だった。
誘致成功後の1938年、トヨタの挙母工場が論地ヶ原(現豊田市トヨタ町)に完成。発展を遂げた拳母町は1951(昭和26)年、挙母市として市制を敷く。
たった8年で市名変更
そして1958(昭和33)年、商工会議所から市宛てに、市名を「豊田市」に変更してほしいという請願書が届く。理由は、挙母市が全国有数の「クルマのまち」に成長したことと、地名の「挙母」が読みにくいことから。元の地名に愛着を持つ市民も多く、一時は賛成派と反対派で市を二分するほどの論議が展開されたが、翌1959(昭和34)年には市名を「豊田市」に変更したのだ。」
1964(昭和39)年2月19日に市長に就任した佐藤 保はトヨタの社員だった人。
ネットから引用
「1964年(昭和39年)と年が改まり、豊田市長選挙が刻々と迫っていた。前回選で惜敗した市名変更反対派は次期選挙にすべてを賭けるとし、再度本多鋼治を擁立することを申し合わせていた。本多も日之出町の本多モータースに碁会所を設け、着々地歩を固めつつあった[13]。
保守派の間では現職の長坂貞一では勝算がないと見る向きがあり、田村重三助役や倉知桂太郎県議らが後継候補として取り沙汰された。同年1月、市議会はじめ各種団体で構成する代表者会議は「トヨタ労組を支援グループに引き込む以外に勝つ方法はない」との結論に達し、佐藤に出馬を要請。
関係者の多くは「『足を洗う』と言明した佐藤が受ける可能性は薄く、常識的に言って、2、3日考えさせてほしいと答えるだろう」と考えていたが、佐藤は即座に「お引き受けします」と答えた。
代表者らは呆然とし、のちに「トヨタ議員にしてやられた」と述懐する者もいた[13][14]。トヨタの労組は「我々は自民党支部と相携えて市長選を戦い抜く」と宣言[15]。2月15日に行われた市長選で佐藤は本多との一騎打ちを制し、初当選した(佐藤16,546票、本多12,672票)[16]。
在職中、近隣の町を次々と合併し豊田市の市域を広げた。1965年(昭和40年)9月1日に高岡町を編入、1967年(昭和42年)4月1日に猿投町を編入、1970年(昭和45年)4月1日に松平町を編入した。
猿投地区は豊富な地下資源に恵まれ、耐火粘土、珪砂などその埋蔵量は県下一を誇っていた。猿投町を編入したことにより、豊田市はより大きな発展を遂げることとなった[3]。
1975年(昭和50年)11月、健康上の理由により翌年の市長選への不出馬を表明[17]。佐藤は挙母町立青年学校教諭時代の教え子である助役の西山孝を強く推し[18]、民社党衆議院議員の渡辺武三もこれに賛同したことから、後継候補は西山に決まった(1976年2月の市長選で当選)。
1977年(昭和52年)3月1日、豊田市名誉市民に推挙される。1983年(昭和58年)11月3日、勲四等瑞宝章を受章[19]。
2004年(平成16年)8月1日、肺炎のため死去[2]。90歳没。」
博物館をでえてから、松平町へ向かう。仮称根引沢の奥地のチエックに行ってみた。案内書の「あおいの道」で×印になっている箇所だ。3/15はネットや鉄の獣除けのフェンスで引き返した。4/29の順路では高ノ山の大橋家から裏の鞍部への道を教えてもらった。が、田植えの真っ最中で農機が忙しく働いていたこともあって、そこへは行かず、農道から市道を歩いて高月院に到達した。だからここが気になっていた。
ふるい地形図では破線路になっているが今は市道で舗装路になった。一応の終点に車を止めてチエックする。少し戻って竹藪の谷合いへ踏み跡が続いている。これはR301の鈴木家への道だろう。しかし、鉄のフェンスに阻まれる。
戻って未舗装の林道を行くと、3/15に引き返したポイントでは細い笹薮があるが楽に突破できるだろう。次の奥にも笹薮の中に向こうへ行ける幅がある。どん詰まりでは急斜面で終わった。
奥の田園は北側だけが山と接していたために突破できなかった。この林道からならR301へ抜けられる。
加えて奥の奥は棚田の廃田と知った。下流の広大な田園は圃場整理の結果だ。農機が入りやすくなって合理化された。
後は松平支所の図書館へ立ち寄った。志満屋で柏餅を買った。
山歩きではちょくちょく古城に行くことがある。古城山という名前もある。美濃の口山には特に多い。戦国時代は群雄割拠で多数の山城が作られたのだろう。
常設展も意外に面白かった。昭和30年の国産初の乗用車のトヨペットクラウンの展示に目をくぎ付けにされた。今にも動きそうなくらいよく保存されている。
他には蚕の展示、ガラ紡の展示など拳母町、拳母市、豊田市と続く歴史の変遷がモノで分かりやすく展示されていた。
ネットから引用
「愛知県豊田市。トヨタ自動車が本社を置く、いわずと知れた企業城下町だ。この市は元々「挙母(ころも)市」という市名だったことをご存じだろうか?
「クルマのまち」ではなく、「マユのまち」だった
養蚕・製糸業を中心に栄えた挙母町。しかし、昭和の初めころからその需要が減り、当時の町長・中村寿一が町の繁栄を取り戻すために乗り出したのが、豊田自動織機製作所が新設した自動車製造部の工場誘致だった。
誘致成功後の1938年、トヨタの挙母工場が論地ヶ原(現豊田市トヨタ町)に完成。発展を遂げた拳母町は1951(昭和26)年、挙母市として市制を敷く。
たった8年で市名変更
そして1958(昭和33)年、商工会議所から市宛てに、市名を「豊田市」に変更してほしいという請願書が届く。理由は、挙母市が全国有数の「クルマのまち」に成長したことと、地名の「挙母」が読みにくいことから。元の地名に愛着を持つ市民も多く、一時は賛成派と反対派で市を二分するほどの論議が展開されたが、翌1959(昭和34)年には市名を「豊田市」に変更したのだ。」
1964(昭和39)年2月19日に市長に就任した佐藤 保はトヨタの社員だった人。
ネットから引用
「1964年(昭和39年)と年が改まり、豊田市長選挙が刻々と迫っていた。前回選で惜敗した市名変更反対派は次期選挙にすべてを賭けるとし、再度本多鋼治を擁立することを申し合わせていた。本多も日之出町の本多モータースに碁会所を設け、着々地歩を固めつつあった[13]。
保守派の間では現職の長坂貞一では勝算がないと見る向きがあり、田村重三助役や倉知桂太郎県議らが後継候補として取り沙汰された。同年1月、市議会はじめ各種団体で構成する代表者会議は「トヨタ労組を支援グループに引き込む以外に勝つ方法はない」との結論に達し、佐藤に出馬を要請。
関係者の多くは「『足を洗う』と言明した佐藤が受ける可能性は薄く、常識的に言って、2、3日考えさせてほしいと答えるだろう」と考えていたが、佐藤は即座に「お引き受けします」と答えた。
代表者らは呆然とし、のちに「トヨタ議員にしてやられた」と述懐する者もいた[13][14]。トヨタの労組は「我々は自民党支部と相携えて市長選を戦い抜く」と宣言[15]。2月15日に行われた市長選で佐藤は本多との一騎打ちを制し、初当選した(佐藤16,546票、本多12,672票)[16]。
在職中、近隣の町を次々と合併し豊田市の市域を広げた。1965年(昭和40年)9月1日に高岡町を編入、1967年(昭和42年)4月1日に猿投町を編入、1970年(昭和45年)4月1日に松平町を編入した。
猿投地区は豊富な地下資源に恵まれ、耐火粘土、珪砂などその埋蔵量は県下一を誇っていた。猿投町を編入したことにより、豊田市はより大きな発展を遂げることとなった[3]。
1975年(昭和50年)11月、健康上の理由により翌年の市長選への不出馬を表明[17]。佐藤は挙母町立青年学校教諭時代の教え子である助役の西山孝を強く推し[18]、民社党衆議院議員の渡辺武三もこれに賛同したことから、後継候補は西山に決まった(1976年2月の市長選で当選)。
1977年(昭和52年)3月1日、豊田市名誉市民に推挙される。1983年(昭和58年)11月3日、勲四等瑞宝章を受章[19]。
2004年(平成16年)8月1日、肺炎のため死去[2]。90歳没。」
博物館をでえてから、松平町へ向かう。仮称根引沢の奥地のチエックに行ってみた。案内書の「あおいの道」で×印になっている箇所だ。3/15はネットや鉄の獣除けのフェンスで引き返した。4/29の順路では高ノ山の大橋家から裏の鞍部への道を教えてもらった。が、田植えの真っ最中で農機が忙しく働いていたこともあって、そこへは行かず、農道から市道を歩いて高月院に到達した。だからここが気になっていた。
ふるい地形図では破線路になっているが今は市道で舗装路になった。一応の終点に車を止めてチエックする。少し戻って竹藪の谷合いへ踏み跡が続いている。これはR301の鈴木家への道だろう。しかし、鉄のフェンスに阻まれる。
戻って未舗装の林道を行くと、3/15に引き返したポイントでは細い笹薮があるが楽に突破できるだろう。次の奥にも笹薮の中に向こうへ行ける幅がある。どん詰まりでは急斜面で終わった。
奥の田園は北側だけが山と接していたために突破できなかった。この林道からならR301へ抜けられる。
加えて奥の奥は棚田の廃田と知った。下流の広大な田園は圃場整理の結果だ。農機が入りやすくなって合理化された。
後は松平支所の図書館へ立ち寄った。志満屋で柏餅を買った。
岡崎市図書館へ ― 2026年05月03日
松平往還、三河加茂一揆等の文献を求めて岡崎市図書館に来た。加茂一揆の研究書はあったがやや左翼的な視点が気になった。大学の学者だからだろうか。客観的な見方が知りたい。
この点、豊田市松平支所の図書館には松平中学や松平高校の生徒らが研究した結果をノートにまとめられていて良かった。自分らの先祖にも関係するから余計に真剣に取り組んだのだろう。
この点、豊田市松平支所の図書館には松平中学や松平高校の生徒らが研究した結果をノートにまとめられていて良かった。自分らの先祖にも関係するから余計に真剣に取り組んだのだろう。
豊田市中央図書館へ ― 2026年05月01日
1 鴨の騒立
2 松平町誌
3 豊田市史
4 三河加茂一揆の地をゆく
5 加茂郡村々百姓騒立諸事日記
6 渡辺守綱公顕彰会叢書第十二集
以上を閲覧できた。
2 松平町誌
3 豊田市史
4 三河加茂一揆の地をゆく
5 加茂郡村々百姓騒立諸事日記
6 渡辺守綱公顕彰会叢書第十二集
以上を閲覧できた。
盛本昌広『家康家臣の戦と日常』を買う ― 2026年04月24日
4/18の三遠研の講演会で知った深溝松平の話から18松平家に関心を持った。岡崎城は家康が江戸へ行ってしまうと家臣が守った。すると松平往還は廃道になるかに思った。この講演会で松平信光の子は48人もいてその子孫が三河南部へと進出して行ったのである。
三河湾に到達してもうこれ以上はないという所迄出て行った。その後は全国規模で各地の松平に散在している。多数の子孫がいたということは折に触れて歩かれたであろう。松平往還の案内書にはそんな話は載っていないが誰かが書いている気がする。
三河湾に到達してもうこれ以上はないという所迄出て行った。その後は全国規模で各地の松平に散在している。多数の子孫がいたということは折に触れて歩かれたであろう。松平往還の案内書にはそんな話は載っていないが誰かが書いている気がする。
大給城址から岩谷山を歩く ― 2026年04月19日
4月になった。天白川堤防沿いの桜が満開から葉桜、そして散ったというのに中々出掛ける機会がなかった。やっと豊田市郊外の里山を歩けた。
春更けて山奥深く浸りけり
ウグイスのしきりに鳴くや城の跡
廃田を無心に耕す老農夫
と詩心のおもむくままに作った。
まず小さな峠から大給城址に登城した。松平家の初期の武家。ここから岡崎平野へと領地を広げていったのだ。城趾の一角からは豊田市街を見下ろせる。道は整備されて険しくなくぶらっと散策に良い。
地図を見て岩谷山へミニ縦走した。山道は俄然悪くなりコース外れで行きつ戻りつを繰り返した。岩谷山の山名通り山頂付近は大岩が屹立する険路になった。御嶽教の様な山岳宗教の雰囲気がある。修行僧がいたのだろうか。危うく無理して下りかかったがおかしいと気がついて引き返すと普通の山道に戻れた。岩谷山は専用の登山口から登らないとけっこう骨が折れる。
一旦林道に出て山里につながる車道を戻った。その後九久平の県道39号線に出てお菓子屋で柏餅を購入。
主目的の松平辰蔵の墓に詣でた。お菓子屋の北のセメントの階段を登って行くと植林内に着く。右行くとヤブ気味で建物がある。何となく左に行けば良さそうだが階段まで戻った。直進すると薄い踏み跡があり奥に墓石が見えて来た。無秩序な感じで墓が建っている。松平辰蔵の墓は上の方にあった。
1836年の加茂一揆の頭取だった男だ。1万人以上の農民が動員された。松平一体の農民が米価高騰に怒って立ち上がった。挙母藩、岡崎藩に抑え込まれた。1840年のアヘン戦争敗北から植民地化を恐れた幕府は開国に踏み切った。幕末は騒然とするが世直しのきっかけになった一揆だった。取り調べに対して上が腐れば下は猶も腐ると言った。松平の名をいただいた男の気概だろう。
松平往還を歩いた際に豊田市滝脇町の小学校付近にあった岩御堂が一揆のモニュメントである。
下山後は豊田市中央図書館に寄って加茂一揆の史料に当たって見た。辰蔵の家は焼かれた。早くに死んだ。取り調べの記録もある。藩は治安のために処分せざるを得なかった。原因はインフレだった。戦が無いと人口は増える。モノが足りない。
幕府、藩は給与を米で払った。米価は高い方が良い。今も消費税増減税でもめる。公務員の給与は税金だから増税を維持したい。
こうして昔も今も税金を巡る争いの種は尽きない。
春更けて山奥深く浸りけり
ウグイスのしきりに鳴くや城の跡
廃田を無心に耕す老農夫
と詩心のおもむくままに作った。
まず小さな峠から大給城址に登城した。松平家の初期の武家。ここから岡崎平野へと領地を広げていったのだ。城趾の一角からは豊田市街を見下ろせる。道は整備されて険しくなくぶらっと散策に良い。
地図を見て岩谷山へミニ縦走した。山道は俄然悪くなりコース外れで行きつ戻りつを繰り返した。岩谷山の山名通り山頂付近は大岩が屹立する険路になった。御嶽教の様な山岳宗教の雰囲気がある。修行僧がいたのだろうか。危うく無理して下りかかったがおかしいと気がついて引き返すと普通の山道に戻れた。岩谷山は専用の登山口から登らないとけっこう骨が折れる。
一旦林道に出て山里につながる車道を戻った。その後九久平の県道39号線に出てお菓子屋で柏餅を購入。
主目的の松平辰蔵の墓に詣でた。お菓子屋の北のセメントの階段を登って行くと植林内に着く。右行くとヤブ気味で建物がある。何となく左に行けば良さそうだが階段まで戻った。直進すると薄い踏み跡があり奥に墓石が見えて来た。無秩序な感じで墓が建っている。松平辰蔵の墓は上の方にあった。
1836年の加茂一揆の頭取だった男だ。1万人以上の農民が動員された。松平一体の農民が米価高騰に怒って立ち上がった。挙母藩、岡崎藩に抑え込まれた。1840年のアヘン戦争敗北から植民地化を恐れた幕府は開国に踏み切った。幕末は騒然とするが世直しのきっかけになった一揆だった。取り調べに対して上が腐れば下は猶も腐ると言った。松平の名をいただいた男の気概だろう。
松平往還を歩いた際に豊田市滝脇町の小学校付近にあった岩御堂が一揆のモニュメントである。
下山後は豊田市中央図書館に寄って加茂一揆の史料に当たって見た。辰蔵の家は焼かれた。早くに死んだ。取り調べの記録もある。藩は治安のために処分せざるを得なかった。原因はインフレだった。戦が無いと人口は増える。モノが足りない。
幕府、藩は給与を米で払った。米価は高い方が良い。今も消費税増減税でもめる。公務員の給与は税金だから増税を維持したい。
こうして昔も今も税金を巡る争いの種は尽きない。
三遠研の総会 ― 2026年04月18日
午後からの三遠研の総会まえに岡崎市日影町の松平往還の寸断された現地を三度訪れた。前回は気が付かなかったが、セメントの山路を登って少し周囲を探ると、左の谷側は山田があったと思われる。石垣でパイプがあるので昔は水田耕作をしていた。右の尾根側は狭い平地になって山家が建っていたと思われた。意味不明の3m位の空の穴があった。これはきれいなので井戸の跡か、池か。竹が枯れて踏みしだく。
道路側を覘くとセメントの溝があった。登り口からセメントはすぐ終わる。右へセメントは続いていたが急で滑りやすいので先へ行くのは止めた。想像すると道路拡張工事で削り取った断面は崩壊しやすいので上部にセメントで固めた溝を作り、排水溝にしたのではないか。そして、真ん中辺りに流れるように傾斜をつけて、道路側へ排水路を作ってある。垂直に近い排水路の意味が分かった。また松平往還の上にあって移設された馬頭観音というものは実は普通の観音の石仏だった。
午後は新城市で総会の後、深溝松平家の歴史話の講演を拝聴。内容は予備知識がないので半値半壊で終わった。しかし深溝松平の日記は一般に文庫本になって売っているのでそんなにとっつきにくいことではない。講演者もまだ若いのでこれからだろう。地域史を深めると面白い。
総会後、豊川ICから岡崎ICまで高速を飛ばし、岡崎市図書館で松平往還と加茂一揆の史料に当たった。特に集められていることでもない。というのも徳川家康が政権をとると江戸に移って岡崎城の城主は徳川以外が守った。但し松平家の分家は三河一円に多く存在したから折々歩かれたであろう。
ネットから主要な松平分家(十八松平)の一覧
「十八松平」の数え方には諸説ありますが、代表的な分家は以下の通りです。
1 岩津松平家(いわづ):松平信光の長男・親長が祖。初期は一族の中で最も勢力があったとされる 。
2 竹谷松平家(たけや):信光の子・守家が祖。宝飯郡竹谷(蒲郡市)を拠点とした 。
3 形原松平家(かたのはら):信光の子・与副が祖。形原城(蒲郡市)を拠点とした。
4 大草松平家(おおくさ):信光の子・光重が祖。額田郡大草(幸田町)を拠点とした。
5 五井松平家(ごい):信光の子・元心が祖。宝飯郡五井(蒲郡市)を拠点とした。
6 深溝松平家(ふこうず):光重の子・忠定が祖。額田郡深溝(幸田町)を拠点とした。
7 能見松平家(のみ):信光の子・光親が祖。岡崎市能見付近を拠点とした。
8 長沢松平家(ながさわ):親忠(安祥家)の子・親則が祖。豊川市長沢付近を拠点とした。
9 大給松平家(おぎゅう):親忠の子・乗元が祖。豊田市大給城を拠点とした。
10 滝脇松平家(たきわき):親忠の子・乗清が祖。豊田市滝脇を拠点とした。
11 福釜松平家(ふかま):親忠の子・親盛が祖。安城市福釜を拠点とした。
12 桜井松平家(さくらい):親忠の子・信定が祖。安城市桜井を拠点とし、一時宗家と対立した。
13 藤井松平家(ふじい):親忠の子・利長が祖。安城市藤井を拠点とした。
その他の主な松平家
14 松平郷松平家:松平氏発祥の地(豊田市松平郷)を守り続けた家系 。
15 大河内松平家:名知恵・松平信綱を祖とする。三河吉田藩(豊橋市)などを治めた 。
16 久松松平家:家康の異父弟・定勝を祖とする家系(伊予松山藩や桑名藩など)
AIの概要は「岡崎城の歴代城主は、西郷氏の築城(1455年頃)から廃城(1871年)までに、主に松平・徳川氏や格式の高い譜代大名など26人が務めました。最大の特徴は徳川家康の生誕地であることで、家康以降は江戸幕府の神聖な場所として、本多氏、水野氏、松平氏の有力譜代大名が入れ替わりで城主を務めました。
主な歴代城主・関係者
西郷頼嗣(稠頼):初期の築城者
松平清康:1530年頃、城主となり松平氏の本拠地とする
徳川家康:1542年誕生、桶狭間の戦い後に独立し本拠とした
松平信康:1570年~(家康の長男)
ここから後は必ずしも先祖の墓参りの道としての意味は無くなった。(筆者注)
田中吉政:1590年~(家康の関東移封後)
本多康重:1601年~(本多氏系、譜代)
水野氏:1645年~(水野忠善など、譜代)
江戸時代は、本多氏や水野氏、松平(松井)氏など、徳川家に近い大名が転封を繰り返しながら守りました。」以上
当時は塩の道として発展した足助街道(現在の県道39号線)に重きが移ったと思われる。
道路側を覘くとセメントの溝があった。登り口からセメントはすぐ終わる。右へセメントは続いていたが急で滑りやすいので先へ行くのは止めた。想像すると道路拡張工事で削り取った断面は崩壊しやすいので上部にセメントで固めた溝を作り、排水溝にしたのではないか。そして、真ん中辺りに流れるように傾斜をつけて、道路側へ排水路を作ってある。垂直に近い排水路の意味が分かった。また松平往還の上にあって移設された馬頭観音というものは実は普通の観音の石仏だった。
午後は新城市で総会の後、深溝松平家の歴史話の講演を拝聴。内容は予備知識がないので半値半壊で終わった。しかし深溝松平の日記は一般に文庫本になって売っているのでそんなにとっつきにくいことではない。講演者もまだ若いのでこれからだろう。地域史を深めると面白い。
総会後、豊川ICから岡崎ICまで高速を飛ばし、岡崎市図書館で松平往還と加茂一揆の史料に当たった。特に集められていることでもない。というのも徳川家康が政権をとると江戸に移って岡崎城の城主は徳川以外が守った。但し松平家の分家は三河一円に多く存在したから折々歩かれたであろう。
ネットから主要な松平分家(十八松平)の一覧
「十八松平」の数え方には諸説ありますが、代表的な分家は以下の通りです。
1 岩津松平家(いわづ):松平信光の長男・親長が祖。初期は一族の中で最も勢力があったとされる 。
2 竹谷松平家(たけや):信光の子・守家が祖。宝飯郡竹谷(蒲郡市)を拠点とした 。
3 形原松平家(かたのはら):信光の子・与副が祖。形原城(蒲郡市)を拠点とした。
4 大草松平家(おおくさ):信光の子・光重が祖。額田郡大草(幸田町)を拠点とした。
5 五井松平家(ごい):信光の子・元心が祖。宝飯郡五井(蒲郡市)を拠点とした。
6 深溝松平家(ふこうず):光重の子・忠定が祖。額田郡深溝(幸田町)を拠点とした。
7 能見松平家(のみ):信光の子・光親が祖。岡崎市能見付近を拠点とした。
8 長沢松平家(ながさわ):親忠(安祥家)の子・親則が祖。豊川市長沢付近を拠点とした。
9 大給松平家(おぎゅう):親忠の子・乗元が祖。豊田市大給城を拠点とした。
10 滝脇松平家(たきわき):親忠の子・乗清が祖。豊田市滝脇を拠点とした。
11 福釜松平家(ふかま):親忠の子・親盛が祖。安城市福釜を拠点とした。
12 桜井松平家(さくらい):親忠の子・信定が祖。安城市桜井を拠点とし、一時宗家と対立した。
13 藤井松平家(ふじい):親忠の子・利長が祖。安城市藤井を拠点とした。
その他の主な松平家
14 松平郷松平家:松平氏発祥の地(豊田市松平郷)を守り続けた家系 。
15 大河内松平家:名知恵・松平信綱を祖とする。三河吉田藩(豊橋市)などを治めた 。
16 久松松平家:家康の異父弟・定勝を祖とする家系(伊予松山藩や桑名藩など)
AIの概要は「岡崎城の歴代城主は、西郷氏の築城(1455年頃)から廃城(1871年)までに、主に松平・徳川氏や格式の高い譜代大名など26人が務めました。最大の特徴は徳川家康の生誕地であることで、家康以降は江戸幕府の神聖な場所として、本多氏、水野氏、松平氏の有力譜代大名が入れ替わりで城主を務めました。
主な歴代城主・関係者
西郷頼嗣(稠頼):初期の築城者
松平清康:1530年頃、城主となり松平氏の本拠地とする
徳川家康:1542年誕生、桶狭間の戦い後に独立し本拠とした
松平信康:1570年~(家康の長男)
ここから後は必ずしも先祖の墓参りの道としての意味は無くなった。(筆者注)
田中吉政:1590年~(家康の関東移封後)
本多康重:1601年~(本多氏系、譜代)
水野氏:1645年~(水野忠善など、譜代)
江戸時代は、本多氏や水野氏、松平(松井)氏など、徳川家に近い大名が転封を繰り返しながら守りました。」以上
当時は塩の道として発展した足助街道(現在の県道39号線)に重きが移ったと思われる。

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