由らしむべし知らしむべからず2023年01月19日

民衆は為政者に従わせればよく、施政の詳細を説明する必要はない。また、民衆は法によって従わせることはできるが、その道理を理解させることは難しい。

[解説] 「論語―泰伯」の「民は之これに由らしむべし之を知らしむべからず」によるもので、原典は「べし」を可能の意と解するのが正しいとされますが、日本のことわざでは、賛否とは別に、「べし」を当然の意とする解釈が広く通用しています。

転じて、為政者は人民を施政に従わせればよいのであり、その道理を人民にわからせる必要はない。

山岳古道会議2023年01月14日

 17時からは山岳古道の件で会議を開催。メンバー東京本部から3名、関西1名、東海から4名の8名。約2時間ほど熊野古道のイベントについて議論を交わした。主旨は全国の会員に熊野本宮へと歩かれた時代を偲び、古道の存在をアピールして山岳古道調査事業を盛り上げる。他に小川路峠、青崩峠の合同の踏査も盛り込んだ。その後は中華料理店で反省会をやった。

津島の歴史遺産2023年01月10日

 御醍醐天皇の皇子の宗良親王から孫の尹良親王、その皇子の良王親王の戦記物語である『浪合記』のことを調べたら津島市の良王親王の良王神社を知った。
 舞台は伊那谷の
①大鹿村の信濃宮
②浪合村の尹良親王の墓
③稲武の三河宮などにまたがる。
④良王親王の足跡を追って昨年は津島市を訪ねて街歩きしてみた。
 良王神社は探したが細い路地の中の狭い敷地に肩をすぼめて御座した。PAもない。路地が狭いから車で探索することはできない。おそらく空爆を受けたことがないからだろう。津島市が歴史的に古い面影を残していることを知った。余り知られていない良王親王のことで津島市のHPに問うと観光に活かすとの回答だった。
 この記事を読むと現状を地道に調査されたらしい。加えて歴史上の伝承でも良いから紹介に努めてに欲しいものだ。皇族を預かる津島市のレガシーはもっと知られて良い。
https://www.yomiuri.co.jp/local/aichi/news/20230109-OYTNT50139/?fbclid=IwAR2Zpw_udTgPcvrxPeVD4QlaG6kaEsko1WGdLopQ5pDH_kDj-wmTQNFGG9k

『日本の起源は日高見国にあった 縄文・弥生時代の歴史的復元 (勉誠選書)』と「愛国行進曲」2022年12月28日

 田中英道氏の書籍に遭遇してゆくうちに冒頭の愛国行進曲を知った。戦前の歌である。
 「高い太陽を見る国=日高見国」はどこにあったのか。「古事記」「日本書紀」「風土記」等の詳細な検討と、鹿島・香取神社、三内丸山遺跡、富士山などとの関係から、古墳時代以前約1万年の謎を解き明かす。【「TRC MARC」の商品解説】

「高い太陽を見る国=日高見国」は実在した!
美術史の大家が、生物学、神話学、考古学を縦横無尽に博捜して解き明かす、古代史の謎。
以上がキャッチ。
 著者は日高見国が即ちアマテラスの国とした。気持ちの良いほどの断定である。アマテラスは太陽神だった。そしてこの曲が日高見国の歌として冒頭で紹介している。

東京音楽隊合唱隊が歌う「愛国行進曲」
https://www.google.com/search?q=%E6%84%9B%E5%9B%BD%E8%A1%8C%E9%80%B2%E6%9B%B2&sxsrf=ALiCzsZh68yWm0o3HUXpsnOGO-fAbMX-Dg:1672234097434&source=lnms&tbm=vid&sa=X&ved=2ahUKEwiMie-6tZz8AhVAklYBHZUNCS8Q_AUoAXoECAEQAw&biw=1366&bih=625&dpr=1#fpstate=ive&vld=cid:86aa24e9,vid:F0U6Mly-KMY
1.
見よ東海の 空あけて
旭日(きょくじつ)高く 輝けば
天地の正気(せいき) 溌剌(はつらつ)と
希望は躍る 大八洲(おおやしま)

おお晴朗の 朝雲に
聳(そび)ゆる富士の 姿こそ
金甌無欠(きんおうむけつ) 揺るぎなき
わが日本の 誇りなれ

映画「土を喰らう十二カ月」を鑑賞2022年12月17日

午後から天気が悪くなる予報。見たかった映画に行くことにした。「土を喰らう十二カ月」は以前に水上勉の原作を読んでいたので、料理の内容をどんな内容で画像化した飲んだろうという興味深々だった。
 当初はあちこちでかかっていたが今はミリオン座くらいになった。しかも1日1回の上映という。余り評価が高く無さそうだ。主演は沢田研二と松たか子という華のある俳優なので期待した。
 信州が舞台なのでロケーションは良かったと思う。山家の老作家の独り住まいに東京かららしい松たか子の原稿を催促に訪ねる。そこから料理の数々が展開されてゆく。精進料理である。
 原作にある言葉をセリフに差し込みながらそれなりに退屈はしなかった。但し鳩は映画では山鳩と言っていたがあれは伝書鳩だ。姿、鳴き方、習性を見てもわざとらしい場面だった。
 購入した作品又は映画の原作になった作品
①『土を喰ふ日々』文化出版局 1978 のち新潮文庫(随筆集)

②『精進百撰』岩波書店 1997 のち現代文庫(写真随筆集)、田畑書店 2022に復刊

③『五番町夕霧楼』文藝春秋新社 1963(『別冊文藝春秋』1962年9月号) のち角川文庫、新潮文庫、小学館
『枯野の人』光風社 1963

④『湖の琴』講談社 1966(角川文庫 1968年)(『読売新聞』1965年7月23日-66年6月8日)

⑤『湖北の女』集英社(コンパクト・ブックス)1966(『週刊女性』1965年3-12月) のち文庫

⑥『はなれ瞽女おりん』新潮社 1975(「はなれ瞽女おりん」『小説新潮』1974年2月号、「はなれ瞽女口伝」『小説新潮』1974年8月号)、のち文庫、新編「越後つついし親不知・はなれ瞽女おりん」

⑦『良寛を歩く』日本放送出版協会 1986 のち集英社文庫(紀行文集)

 他に映画作品では「飢餓海峡」などいい作品の原作を手掛けている。

 映画の場面では焼き物の窯に入っているところで心筋梗塞になる。実際は「1989年(平成元年)、訪中作家団の団長として訪れた北京において天安門事件を目の当たりにし、市内の交通が途絶して北京飯店に三日間足止めになるが、東京からの救援機第1号にて帰国。直後に心筋梗塞で倒れ、集中治療室に三日間入り、心臓の三分の二が壊死、1993年「蛍」など療養とリハビリを背景とした作品を執筆、北京滞在時、および闘病の体験は『心筋梗塞の前後』として刊行されている。心筋梗塞後は軽井沢の別荘を売って、長野県北御牧村に家を買い、仕事場を移した。」
 『土を喰う日々』は1978年なので心筋梗塞以前の発刊になる。したがって映画「土を喰らう十二カ月」では創作してある。どちらかと言えば、1989年の心筋梗塞に罹病後の1997年の『精進百撰』に近い。2022年10月28日に復刊したのも映画のベースにしたからだろう。
 田畑書店のHPから
「心筋梗塞で倒れ心臓の3分の2を壊死し失った著者。病身に適した食生活を求めたとき、蘇ったのは少年時代禅寺の侍者として触れた精進料理の世界であった…。

本書は水上勉がすべての料理を手がけ、器は北御牧在住の陶芸家角りわ子が制作した。

今回全写真をリフレッシュし、料理とそれを盛る器の魅力がいっそう楽しめるようになりました。

誰でも何歳からでもここから始められる、精進料理入門の名著復刊。」

 映画でも器を長時間写していた気がする。あれはそんな背景があったのかと、今更思った。器とともに楽しむ映画だったのだ。

東濃・納古山を歩く2022年12月05日

 山岳会の忘年会の会場に東濃随一の大展望を誇る納古山に登山した。登山口は下麻生駅に近い南天の滝への一角の駐車場である。地元のボランティアの尽力で多数の駐車場が整備されていた。南天の滝への道標を見ながら林道を歩くと景行天皇の由来する滝に着く。ここで滝見すると中々に立派であった。ここから急な山道を登ると最近売り出し中の岐阜のグランドキャニオンとかいう遠見山に着く。何とかの何とかは本物よりスケールは小さい。そうか、これがグランドキャニオンか、と見る。

https://www.tokai-tv.com/.../feature/article_20211229_14600

 後は結構長い尾根をアップダウンしながら山頂を目指した。2時間ほどのアルバイトで軽く汗を流した。山頂は大人気の山らしく人だかりだった。リーダーはちょっと下った辺りのテーブルを陣取ってあんまん、肉まんを本格的な蒸し器で蒸して参加者14名にふるまった。リーダーの母親の差入らしい。ありがたい。
 下山は大牧谷川にとった。ここも急な傾斜が続き、崖がありチャートの露頭の上をクライミングの要領で下る。油断のならないルートである。
かなり下ると登山道も土が出てきて安定してきた。傾斜も緩むと長い林道の終点である392mポイントであった。そこからは酒蔵のPまで地道を歩く。
 酒蔵では疲れた足を休めるためと称して、「飲む点滴」のヨーグルト入り甘酒を飲んだ。汗をかいた体には冷たくて美味しかった。店内の土産物コーナーでは新酒も売っていた。もうそんな時期になったのだ。店の人に杉玉は?と尋ねると今週中にも飾るとのことだった。

https://www.sawanotsuru.co.jp/.../knowledge/sugi-dama/

 外に出ると空中に白い浮遊物が飛んでいる。「雪虫」だ。冬の季語にもあるこれが飛ぶとしばらくで降雪があるという。そうかもう12月だ。東濃にも雪が来る兆しである。
 大展望がウリの山頂から冠雪した白山、御嶽山、中アなどは見れなかったが山里の冬の風物詩を見て満足した。

③四国の山旅~小島烏井祭に参加2022年11月19日

 近代登山のパイオニアで知られる小島烏水は登山家であり文化人でもあった。当時のベストセラーである志賀重昂『日本風景論』6版を読んで登山に目覚めた。植物採集(山菜取り、薬草取りなど)鉱山師、宗教登山などの目的を持った山登りから純粋に登ることだけを目的に遊びとしてスポーツとして近代登山は発展してきた。その嚆矢の1人である。
 槍ヶ岳に登山するために沢登りで霞沢岳に登頂後、上高地に下って登った。その後、スタンダード石油に勤務していた友人はW・ウェストン『日本アルプス 登山と探検』の原書の槍ヶ岳の写真を見て驚きます。ウェストンらは島島谷を歩いて徳本峠を越えて上高地入りしている。今でいう英国と日本のインテリジェンスの格差に愕然とするわけです。その秘密を探りたいと交流が始まる。


「第3章 山岳会の設立と登山の普及」から

https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/18/3.html

「日本最初の山岳団体「日本山岳会」(初期は単に「山岳会」という名称でした)は、明治38(1905)年に小島烏水らの手により設立されました。 
 烏水は、横浜正金銀行に勤めながら余暇を利用して登山を楽しみ、多くの紀行文や評論を残すとともに、浮世絵等の美術品のコレクターとしても知られる多才な人物でした。
 明治35(1902)年、『日本風景論』【45-67】に感化された烏水は、友人と二人で槍ヶ岳の登山を試みました。未知の険路をやっとの思いで登頂し「登山の気風」に先鞭をつけたと大きな達成感を得ます。
 ところがその翌年、第2章で紹介したウェストンの著作Mountaineering and exploration in the Japanese Alpsを偶然目の当たりにし、自分たちに先んじて槍ヶ岳に登った西洋人の存在が明らかとなります。
 さらにはその人物が思いもかけず横浜に滞在中であることまで分かりました。烏水は友人と連れ立ってウェストンを訪ね、世界各地に山岳会という登山愛好家のクラブがあることを知ります。
 2年後には、帰国数日前のウェストンからホテルに招かれて山岳会の設立を熱心に勧められ、また、後日ウェストンの仲立ちで英国山岳会からも山岳会設立を激励する書簡が届きました。この後押しを受けて「紙裂けて電火発するを覚えたりき」と奮い立った烏水は、山岳会の設立に精力的に取り組みました。」

 とまあこんな人物を顕彰するために「小島烏水祭」は10年前に尾上昇日本山岳会会長(当時)と地元の会員らが顕彰碑の建立のために動いた。場所は高松市内の峰山公園の一角でした。
 主催者の尾野益大四国支部長、尾上昇元会長、神崎元会長、建立に尽力した地元県議、市議、高松市長代理、小島家の子孫、らの関係者が祝辞を述べた。
 小島烏水には9人の子供がいたが今は孫、玄孫の世代に移っている。小島誠さんは詩吟を披露された。何と正岡子規の「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」を得意の喉で吟じた。様々なエピソードが語られたが記録までできなかった。
 散会後は高松市では一級の宴会場である「花樹海」に移動。夜6時から9時近くまで延々語られて盛会の裡に終えた。
 高松城祉の近くのホテルに投宿できたのは夜10時近かった。

かば焼き2022年10月23日

 午後遅くなってから丸の内に行くがかなりの交通量に引き返そうか、と思った。都心で何かイベントがあったのだろうか。ともかくも三の丸に着いたがやはりPは埋まって余地はない。事務所近くのコインPに行くと1台分開いていた。郵便物をチエックしたが目当てのものはなかった。月曜日以降か。
 事務所内の買い置きの本を読む。馬渕睦夫氏のウクライナ関係の内容だ。面白いので自宅に持ち帰った。産経新聞の気になる記事も再読したが初めて読んだ時よりも覚めた。ちょっと変わった角度から書くとおやっと思わせる。そういう狙いかとと思う。
 夕食は買い置きの鰻のかば焼きを温めて食べた。中国産だが泥抜きをしっかりしてあるので美味い。以前はひとくち噛むと泥臭い味がして安くても買えなかった。ずいぶん改善された。しかし、皮がぱりっとした焼き加減は温め直しのかば焼きでは無理。1100円の中国産にそこまでは要求できない。

虚子嫌いかな女嫌ひの一重帯 杉田久女2022年09月04日

 上掲の俳句の解釈は以下の通り。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14177289579
「かな女のライバルであった杉田久女は、虚子に同人除名という仕打ちにあったずいぶん後で「虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯」と詠んだけれど、虚子の「社會的」(「経営者的」と言える)なバランスを重んじすぎる感覚に無言ながら不満だった人は、けっこういたのではなかろうか。(清水哲男)」

稲武の里山をめぐる2022年08月28日

 古道調査に絡んだ稲武通いもこれで7回目になった。古道踏査は2回で済んだが三河の宮・尹良親王の足跡調査に時間と手間がかかった。
 28日は道の駅「どんぐりの里」を起点にR153を歩いて黒田から正寿寺の道標から右折すると寺洞林道になる。御所屋(峠)の歌碑を確認するのも3回目になった。麓の有志が金50銭を出し合って建立したらしい。御醍醐天皇の孫を思う気持ちが伝わる。
 ほのぼのと明け行く空をながむれば月ひとり住む西の山かげ
中電の道標{REF}に従って破線路の道を登る。麓の黒田の地名の通り、この土も真っ黒である。湿地帯のじめじめした所には木が倒してある。ここを過ぎるとプラスチックの階段がありすぐに4等三角点「貝戸」に着く。中電の反射板があるが樹木で何も見えない。それに施設名の看板は外されているから廃棄されたのか。
 周囲は杉桧の高く育った疎林で気持ちの良い平になっている。緩斜面を東に向かってゆるやかに下る。800mの等高線を過ぎると段々痩せ尾根になり、踏み跡もしっかりしている。松の大木はこれまでもあったが尾根がはっきりすると同時に松尾根になった。『稲武の地名』ではこの辺りはマコと言い、下の方は松淵の地名がある。麓の4等三角点「西乳母が入り」から北へ直登してくる尾根との分岐には一升瓶など10本くらいが刺さっている。これが地元民が真弓山へ登る尾根の分岐の印であろう。
 ちょっとした鞍部から左右に踏み跡がかすかにあるが使えるかは不明。左の谷も顕著に深く見える。720mの真弓山(真弓城という本もあるが砦だろう)を経て矢竹に無事下山できた。杉、桧の植林山だが高く育っているのでヤブ、下草が生えていないので楽に歩けた。矢竹が近づくと下部は作業道が縦横に開かれていた。建設機械でやるので広くて林道みたいだが車は入れない。エスケープもできないことはないが山家とは鹿除けフェンスがあって出られないから作業道を歩く。
 一段落して安堵する。もう一回冬に御所屋から後山まで通して歩けば良いなと思う。
 御所貝津町の郷土史家M氏からも参考資料(コピー)をいただくことができた。ありがたいことである。Mさんに鹿が増えた話を振った。そしてヤマヒルの話になると最近は増えてきたと言われた。ついに稲武にも鹿が増えたせいでヤマヒルが出てくるようになった。

 ヤマップの記録は
① 4/20・・・伊勢神峠と杣路峠と三等三角点畑ヶ洞を往復

② 5/3・・・夏焼城ヶ山から地蔵峠(飯田街道)へ下山し山麓の塩の道を歩く。下山後に4等三角点「夏焼」を往復

③-1 6/12・・・黒田川右岸に腰かけ岩を発見。旧美濃街道の県道からから笹平へドライブ

③-2 6/12・・・再び愛知/長野県境の尹良社を往復。4等三角点「木地山」の登山口を探すが取り付くシマがない。

④ 6/18・・・小雨の日で九沢を調査。4等三角点、ユキヨシ様の祠を発見。

⑤ 6/25・・・熊野洞から後山を登り、美濃街道の地蔵峠を確認し、ユキヨシ様の祠に周回。ユキヨシ様の祠は6/18に発見してあったのでスムーズに周れた。
下山後に旧浪合村の宮の平にある尹良親王の墓を訪ねた。地形図に印刷された立派なお社だった。

⑥ 8/6・・・720mの真弓山を歩く目的で4等三角点「貝戸」を往復。御所屋の歌碑を発見した。もち洗い岩も発見。当日は夕立ちで急遽下山。