東濃・笠置山を歩く2021年04月18日

 珍しく入会見学者1名、何年ぶりかで復会した会員、何ヶ月ぶりかで同行する会員ら7名の会山行になった。それで、名古屋駅前のジャパレンで、トヨタの誇る7人乗りミニヴァン・ヴェルファイアをレンタルした。朝6時45分に集合。乗る前、休憩後も車内の消毒液でシュシュとやり、マスク着用も忘れず励行。
  気圧配置が不安定な1日だった。名古屋市は晴れ、登山口の恵那市笠置姫栗は曇りだった。小雨模様を心配し、山腹にある一段高い登山口にクルマで移動した。
 林道の周囲は新芽が吹き出したばかりの若々しい緑が美しい。二つ目の登山口も雨で、最初から雨具の上着を着た。登山道は階段で整備してある。頂上手前で林道を横切るとすぐに山頂だ。手前からは霰が降り、直下からは雪になった。寒いはずである。
 俳句では、晩春の季節感を表現し、雪の果て、名残雪、忘れ雪、終い雪などと季語になっている。麓なら忘れ霜だろう。
 ガスに包まれて展望はない。有名なヒカリゴケを見に岩を下り、見学、確かに、ビロードのような淡い光が見える。
 まだまだ降って来るので、早々に下山した。時間はたっぷりあるので、恵那駅前の五平餅屋に行く。次々お客さんが来るので、店外で待った。店内に招かれ、熱いお茶が嬉しい。胡桃の香ばしい匂いに食欲を促され、あっと言う間に五本を平らげた。
 まだ時間があるので、清内路峠を越えて、ハナモモ街道をドライブした。ヴェルファイアの登攀力は素晴らしく加速する。峠を越えると、エンジンブレーキの操作が分からず、一旦停止して、操作を確認。DからMに入れて、前後するとエンブレが効くことを確認。楽しいドライブになった。
 かつて、漂泊の俳人・山頭火が越えて、伊那の支持者へと旅した古い街道である。「分けっても分け行っても青い山」が有名な句。園原インターから帰った。ジャパレンへ返す前に給油したが燃費も良かった。こみこみで4000円だったから割安に上がった。帰りは有志で居酒屋で一杯と、マイカーよりは物入りだが偶には良い。

三河の霊峰・六所山を歩く2021年03月31日

 3月30日に久々に六所山を軽く歩いた。三河三霊山の1つである。猿投山、六所山、三河本宮山と広範囲にわたる。
 山中に伊勢神宮遥拝所があるのでどの山も古代からの信仰につながるのであろう。猿投山にはヤマトタケルの兄の小碓皇子の墳墓がある。文部省の管轄で管理されていたが今は宮内省になる。
 天白区の自宅から日進市のR153に入り、豊田市方面へ走る。コメダでモーニングコーヒーを楽しみ、東郷から三好市を経て豊田市に向かうが平日の通勤時間帯とあって大渋滞になっている。平日だからガラガラというわけではない。
 天気が良ければ、前方に焙烙山、六所山が並んで見えるはずだが春霞のせいで見えない。市内でR301に入ると一本道になる。松平の橋を渡るとナビには右折させられるが、新道が出来ている。今日はナビにしたがう。昔は川沿いでか急カーブが多いので改良された。
 六所苑のある方向へ左折。今日は表参道は見送り、登山口の豊田市総合野外センターに向かう。表参道の登山口では桜が咲き、木瓜の花が鮮やかだった。
 豊田市総合野外センターの西駐車場からかもしかコースに入り杉やモミの大木の中を登ります。見晴台への分岐に着いて右折すると電波反射板の立つ見晴台に着きますが今日はは中国からの黄砂のせいか、あいにく山霞でぼうっとして見えなかった。
 戻ってしばらく登ると右展望台跡になる。以前は鉄骨の展望台があったが老朽化で撤去されたままである。クマタカの巣があるとかで再建はされないらしい。すぐに山頂に着く。
 少し水を飲んで、表参道へ向かう。伊勢神宮遥拝所、蜂須賀神社、六所神社などを経て、鞍部に着く。モミの大木もあり、六所山を代表する樹種かと思わせる。
 表参道を下ると谷沿いのしっかりした道になる。表参道には杉の大木が多く、如何にも信仰の古さをうかがわせる。みたらし滝で少し休憩。六所神社の鳥居まで下る。六所苑の自販機で缶コーヒーを飲んでからまた鳥居をくぐって登り返す。
 往き掛けには気になった林道コースに行ってみた。地形図の破線路から六所神社へ直登する道が無いか探ったがないので戻る。出合いから5分で鞍部に着いた。そこから六所神社へ元の道を歩く。今度はうさぎコースへ入ってみた。昔と違い、新たな林道が出来ていた。急カーブを曲がったところにうさぎコースの道標が出て来た。そこから下ると谷沿いの道になり、510mのコブとの鞍部を乗り越すとだらだら下る。まもなく管理道に下る。ここがうさぎコースの登山口になる。
 そのまま管理道をキャンプ場に向かって歩く。きつねコースの登山口を見送ると管理棟になる。作業員のおじさんが一人休んでいた。そこから西駐車場はすぐである。
 六所神社の里宮には今を盛りと桜が全開である。山里は今や遅しと赤や黄の花も咲き競う。山村の春は花の開花競争があるかに思う。R301に戻ると新道に自然に導かれてゆく。松平トンネルが穿たれていた。松平の農協に寄り山の幸を求めた。また豊田市街地を抜けて帰ったのである。

山と渓谷2021年4月号発売2021年03月16日

 3月15日発売。3月号のだんごの山特集に続き、4月号も独立峰45座の企画で乗鞍岳と恵那山を執筆したので掲載号を14日に一足先に受領した。いつもながら拙稿がきれいに編集されて眺めるのは楽しみなことである。売れると良いが。

山岳古道③秋葉街道ー小川路峠を越えたアルピニスト2021年02月15日

松濤明の遺稿集『風雪のビバーク』の中の春の遠山入りの中にこの秋葉街道の紀行が名文で紹介される。深田久弥も南アルプスからの帰りに下っている。木地師の墓がある。三十三体の観音様の石仏がある。
 遠山側の歩道は踏査していないのでこの機会に歩きたい。遠山谷の民宿に泊まったら、かつての馬宿だった。庭には名古屋コーチンが飼ってあった。文化は関東圏、経済は名古屋圏らしい。飯田線が開通するとあっという間に寂れた。
 北には中央道から分岐した三遠南信道路が開通を待つ。今は秋葉街道の入り口付近が工事中で、先に矢筈峠の下にトンネルが開通させている。矢筈峠は深田久弥が遠山谷へ入る際に越えた。

鳳来寺山と深田久弥2021年01月17日

 おかめ茶屋の店主は今年91歳という。2021年の91年前は1930年というから昭和5年。そうか私の母親と変わりない年代になる。店内に新聞のスクラップの掲示があったので尋ねると25歳から五平餅を作り始めたらしい。すると1955年になり昭和30年だ。門前町が栄えてていた時代は観光バスが来て旅館も繁盛していた。自分も手伝いに行ったという。
 観光にテコ入れするかのようにパークウェイが開通したのは1971年のことで昭和46年になる。
 参道を歩くと確かに廃業したらしいお店が多かった。わずかに名産の硯石の店は2軒残っていた。旅館の「桔梗屋」さんは休業中の札が下がっていたがこのご時世では廃業に近いだろう。もう一軒も少し奥に大きな合掌造りの建物と別館があり往時の隆盛が偲ばれる。あのお婆さんがお手伝いに行ったのはここだろうか。別のブログ「江戸時代には、代官屋敷があり、旅館60軒、芝居小屋2軒があった」らしい。それも今は昔のこと。
 『山頂の憩い』で深田さんは名古屋での講演会を終えるとともに登山用具店を営むデカさんとジャコさんを誘って鳳来寺山へ行く。当時は東名高速も岡崎ICで降りると後はR1を走る。豊橋市から豊川、新城と北上。長篠で山道に入り、一日がかりで門前町へ着く。「教えられた宿は、坂になった一筋町の一番上にあった。昔の茅葺の建物を改装したらしく、すべての作りが鷹揚で、柱も梁も戸も黒く光って重厚、近代まがいの嫌いな私には心地よかった」と書く。1969年のことである。
 「民芸と山菜」を売り物にしていると書いてあるので多分あの大きな旅館の雲竜荘に泊まったのは間違いない。
 雲竜荘のHP
 http://www.unryuso.co.jp/index.html
 1964年(昭和39年)発刊の『日本百名山』がベストセラーになると山の作家としての知名度が上がった。あれから5年後の1969年には名古屋でも講演会に呼ばれた。
 余談だが、昭和39年3月には朝日新聞カルチャーセンターの登山教室で日本山岳会東海支部の講師に交じって「山の話」を担当している。1903年生まれなので61歳になっていた。そして鳳来寺山に登山したのは66歳になっていた。亡くなったのは1971年のことだからパークウェイが開通した年だった。そうか今年は没後50年になるのだ。

鳳来寺山を歩く2021年01月16日

 鳳来寺山の歴史は古い。ネットで断片的な情報を集めてみた。

  鳳来寺は、歴史ある「真言宗五智教団」の寺院。703年「利修仙人」が祈祷により天皇の御病気を治し、そのお礼として創建されたと伝わるお寺です。1648年には、鳳来寺を家康誕生ゆかりの地として崇める徳川家光によって、日本三大東照宮とも言われる鳳来寺山東照宮が建設されました。(ヤマハックのHPから)

・・・愛知県のうちの三河の三霊山は猿投山、六所山、三河本宮山である。「三河国三霊山とは、三河国、今の愛知県豊田市・豊川市にある三つの山の総称で、古来より御神体あるいはそれに準じる神聖な山として、信仰の対象になってきた山々。本宮山・猿投山・六所山の三つで、それぞれの山頂や山麓には砥鹿神社・猿投神社・六所神社が鎮座する。
 三河国なので当然ではあるが、松平氏、徳川氏との関わりが深く、徳川家康などが崇敬した、あるいは参拝したことでも知られる古社となっている。」以下に列挙すると。

1 猿投山
 『日本書紀』には、大碓命は景行天皇に東征を命じられたが、これを恐れて逃亡したため美濃国に封じられたとある。宝亀10年(779年)に編纂された縁起書によれば、大碓命は景行天皇52年に猿投山中で蛇毒のために42歳で死去し、山上に葬られたという。猿投山西峯にある西宮の背後に大碓命の墓がある。社伝によれば、仲哀天皇元年に勅願により現在地に創建。

2 六所山
 六所山は古来より猿投山・本宮山と共に三河国三霊山のひとつとされ、山自体が神体とされて大山積神(オオヤマツミ)など6柱の祭神が奉祀されていた。現在でも字金姓の小台地にたたずむ一の鳥居は、六所山を遙拝するのに最も適した場所にあり、古代、この地に最初期の遙拝所が建てられたものとも推察し得る。後に社殿の築造という仏教文化に由来する概念が国内に浸透し、六所山山頂にも社殿が築かれることになるのは遅くとも平安時代末期頃。

3 三河本宮山
 砥鹿神社は,文武天皇(もんむてんのう)の時代,701年(大宝元)天皇の使者としてこの地に来た草鹿砥公宣卿(くさかどきんのぶきょう)が本宮山の山中で不思議な老人に会い,その指示で創建されたものと伝わっている。本宮山頂には砥鹿神社の奥宮がまつられている。その神は大己貴命(おおなむちのみこと)でいつのころからか三河国の一宮とされ,10世紀初頭に書かれた延喜式(えんぎしき)の中にも記載されている。

・・・今回登った鳳来寺山は703年とあり、三河三霊山に入るべき歴史がある。立松和平『百霊峰巡礼』(東京新聞出版局)には本宮山と鳳来寺山は入っているが猿投山と六所山は除外された。

4 鳳来寺山
 文武天皇が病にかかられたときには、鳳凰に乗って都に行き、祈祷によって天皇のご病気を治したため、大宝3年(703年)に天皇からお礼に寺を立てられ、この寺を鳳来寺と命名し鳳来寺が誕生したとされています。 大宝3年(703年)、理趣(利修)仙人によって開かれた真言宗の古刹。
 ウィキペディアでは「寺伝では大宝2年(702年)に利修仙人が開山したと伝える。利修は霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したとも伝わる。文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名及び山名の由来となっている。利修の17日間の加持祈祷が功を奏したか、天皇は快癒。この功によって伽藍が建立されたという。」
 鳳来寺山のメインコースとなる表参道の特徴は、なんと言っても1425段もの石段を越えていくところ。そのため標高は低いですが、登りごたえは十分です。山中では霊山らしい史跡や寺社をはじめ松尾芭蕉や若山牧水の句碑や歌碑も多く点在。見どころが多いので、登山客を飽きさせることのないコースになっています。
以上

・・・どの山もいずれ劣らぬ古い歴史を誇る。中でも本宮山は標高も高く、山麓から見えることが信仰を集める大きな要素であろう。三河富士の秀麗な山容も大きい。猿投山も三河の山とはいえ、尾張からランドマークのようによく見える。名古屋のテレビ塔のような存在に等しい。しかしながら鳳来寺山は今でこそドライブウェイで簡単に行けるが往時は深山の趣があったであろう。4座の中では一番険路である。六所山は存在感が一番希薄である。
1本宮山789m
2鳳来寺山684m
3猿投山630m
4六所山611m
と標高でも歴史でも見劣りする。何で霊山と崇められたか、といえば徳川(松平)発祥の地ということが大きいだろう。つまり政治的なバックアップがあったのでしょう。
 この四霊山の中で門前町を構えたほどの盛り上がりがあったのは鳳来寺山だけだった。本宮山は何ら痕跡はない。猿投山もない。六所山もない。そしてドライブウェイが出来たのも鳳来寺山と本宮山だけだった。
 しかし、禍福は糾える縄のごとし、たくさんの参拝客が増えたので東照宮や鳳来寺はお賽銭が増えただろう。社屋の改築も車道で楽にできるようになった。ところが1971年(昭和46年)の鳳来寺パークウェイの開通と同時に門前町は寂れてゆくことになった。
 1969年(昭和44年)というから開通する2年前に作家の深田久弥が登っている。『山頂の憩い』という本の中に鳳来寺山の紀行がある。1425段の石段を登り切って、鳳来寺の新設の堂を見ている。
 ウィキには「大正3年(1914年)に本堂を焼失したが、昭和49年(1974年)に再建」とある。5年ほどのずれがある。パークウェイの建設と本堂の再建は同時進行していた気がする。まず物資を運ぶ道路を建設させて堂を建設にかかる。作業員も通いやすい。道路を作業のためにだけではもったいないから観光道路化しようというアイデアかも知れん。
 歴史的には徳川のバックアップで東照宮も作られた。その管理は鳳来寺の住職らが担っていた。ところが明治維新でいきなり廃仏毀釈の洗礼を浴びる。鳳来寺は廃れ、東照宮は延命する。石段の途中には数多くの僧坊跡があったが衰退の一途をたどったのである。
 門前町の入り口にあたる「三の門」の駐車場は実は田口鉄道の鳳来寺駅跡だったのである。今も名残りをとどめるのは角にある「おかめ茶屋」さんである。

遠州・小笠山を歩く2021年01月09日

 朝5時起きし、出発。大高町の丸の内の交差点で県道59号からR23に左折するところをうっかり直進してしまったので戻って入り直す。早朝というのに大型トラックがひっきりなしに疾走してゆく。文字通り日本の大動脈である。ここはスマホのナビに留意しながら右寄りに行く。知多道路、名二環、伊勢湾岸道、最後は豊明でR1に分かれるとR23のみとなる。蒲郡で一旦R247に出て再びR23に合流。豊橋市の外れで豊橋バイパスの高架に入ると豊橋市の南の工業地帯、農村地帯を大きく迂回し静岡県の境で再びR1と合流。小高い丘からは黒い富士山が見える。
 後は静岡県になるとR1を走り潮見坂を経由しながら東進。浜名湖の今切口をまたいぐ浜名バイパスを行く。天竜川に沿って大きく左旋回すると浜松市に入る。天竜川を渡ると磐田バイパス、袋井バイパスと続く。適当な出口で出て、袋井市街地を目指すと吉野家があったので温かい朝食をと思ったが、7時開店なのに7時30分でも開店していない。8時まででもまだ準備中だった。別の牛丼屋へ行った。スマホを法多山に指示して向かう。
 参道の入り口付近は有料駐車場があって手招きで誘う。ハイキングで半日くらいは止めさせてくれるか、と聞くと皆ノーであった。参道に近いところのPで、半日止めても良いか、というとOKを出してくれた。一番奥へと案内された。もう正月は過ぎたというのにひっきりなしに参拝客が押し寄せてくる。

  こんな寒い日でも山麓の法多山尊永寺は多くの参拝者で賑わっていた。参道の入り口で自動で体温チエックし、マスク着用で参道を歩き、参拝しました。途中で団子売りばへ立ち寄った。登山前なので荷物になるものは買えないので後にした。
 本堂の屋根が蒼穹の空に映えて美しい。1300年の歴史を誇るだけのことはある。
 その後登山道を探すために本堂の裏にも回ったが分からない。地形図をよく見ると墓地の間を抜けるようだ。入り口が分かりにくいが奥ではよく踏まれた道になりました。小笠山は尊永寺から北の尾根に取り付き、172mのコブに上がった。ここには宮標石がある。また愛野駅からの道標もありこちらがメインルートと思われる。
 樹齢のある常緑樹のかぶさる登山道を行くと三ッ峯への分岐になり往復。後は小刻みなアップダウンを繰り返す。腹擦峠で一休みした。登り返すと221mに到達。東経138度展望台は富士山を眺められる。浜松市から島田市まで東西の展望が良い。掛川駅からのハイキングルートと合流。小笠山はすぐだった。樹林に囲まれて展望はない。400m下ると小笠神社に行く。戻って、地蔵尾根(中尾根)を下山した。162mとの鞍部から北へ急坂を下る。滑落しそうなくらい滑りやすい。県道へ出て法多山へ登り返すと無事周回登山を果たして下山しました。Pの叔父さんにお礼を述べて帰った。
 後は名物の団子を買うのだが、車では境内に入れさせてもらえず、おじさんに聞くとPから下ると製造元があるからそこで買えるよと教えてくれた。首尾よく買えてほっとした。600円。賞味期限は1/10で日持ちしないのが玉に瑕。
 ヤマップの累積標高は830m、5時間50分で11.1km歩きました。

愛知県の石巻山は神山(みわやま)と呼び、三輪山と同じ大己貴命を祀る2020年05月08日

ソース:https://iyakukeizai.com/beholder/article/1436

(2)『日本書紀』の第1回目の疫病大流行

『日本書紀』の崇神天皇・即位5年(3世紀前半か)に疫病が大流行し、人口の半分が亡くなった、と記されてある。原文は「五年、国内多疾疫、民有死亡者、且大半矣」である。疫病大流行の原因は、神様の意に背いたからであり、疫病対策は、神様の意に従うことであった。八百万の神々の中の「どの神様か」というと、「三輪山=大物主(大国主)=大神」である。念のため言っておきますが、天照大神ではありません。そのことは、『昔人の物語(62)・崇神天皇』をご参照ください。

 ともかくも、疫病対策とは、祈祷、神事であった。

ソース:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%89%A9%E4%B8%BB

崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れ、「こは我が心ぞ。意富多多泥古(大田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げた。天皇は早速、活玉依毘売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。これが現在の大神神社である。

ソース:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB

大国主は多くの別名を持つ。(※名義は新潮社神名釈義[要説明]から) 同名の記載順は『古事記』、『日本書紀』、『風土記』、その他祝詞や神社とする。

・大物主神(おおものぬし-)
・地津主大己貴神(くにつぬしおおなむち の かみ)
・国作大己貴神(くにつくりおおなむちのかみ)

大国主神を祀る神社は非常に多く、全国の一宮を中心に無数に存在するため、ここでは主な神社を列挙する。

・南宮大社 境内 樹下神社(岐阜県不破郡)
摂末社
境内社
本殿回廊内

樹下神社
祭神:大己貴命
摂社。本殿に向かって右隣に鎮座。社殿は重要文化財。

・飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)
摂末社祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)

・日吉大社 西本宮(滋賀県大津市坂本)
日吉大社は神代より比叡山にいらっしゃる神(大山咋神)として崇められ、崇神天皇7年、八王子山の麓にお迎えし創祀(東本宮)されました。その後、天智天皇が飛鳥より近江大津宮へ遷都した翌年である天智天皇7年(668)に、大和朝廷の守護神であった大和国三輪山より大己貴神(西本宮)を勧請しました。

西本宮のご祭神である大己貴神は、別名を大国主神・大物主神と呼ばれ、島根県の出雲大社や、奈良県の大神神社などで祀られる国造りの神様であり、我が国で最も貴い神様の1柱であると考えられます。

・建部大社(滋賀県大津市)
主祭神は次の通り。

本殿:日本武尊(やまとたけるのみこと)
本殿相殿神:天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
相殿神は、天照皇大神でなく天明玉命(あめのあかるたまのみこと)とする場合も見られる[1]。
権殿:大己貴命(おおなむちのみこと)
大神神社(大和国一宮)からの勧請。

・砥鹿神社(愛知県豊川市)・・・・奥宮は三河・本宮山
 里宮(奥宮も)本社には、大己貴命(おおなむちのみこと)をお祀りする。大国様(だいこくさま)と慕われる御祭神は、福徳の神・国土開拓の神・縁結びの神として尊崇せられ、交通安全・家運隆昌・厄難消除等の御神徳は、三河地方はもとより各方面からの篤い崇敬を受けている。

 というわけで、、大物主神は大国主であり、大己貴命なのです。

豊田市・蚕霊山を目指して2020年05月05日

 名古屋市を14時過ぎに出発。豊田市の猿投公園へ行く。クルマはそこにデポして、14時半ごろに自転車に乗り替えて出発。ネットで指示したルートを走るがアップダウンが激しく引き返したくなる。
 西広瀬工業団地への4車線の良い道だがアップダウンが大きくて自転車で走るにはペダルが忙しい。その上、自粛の中で体中に脂肪が回り太めになったから切れも悪い。それで自転車を降りて徒歩で稼ぐはめになった。トホホだ。
 工場はみな休業中でトラックは1台も通らない。だから安全ではある。T字路で右折、飯野川に豪快にダウンする。気持ちは良いがブレーキ操作が重要だ。すぐに右折して、名古屋グリーンゴルフ場入り口までまた降りて高度を稼ぐ。入り口からダウンすると犬伏川に下る。ここで標高120m。ここから緩やかな山村の田園風景の中を犬伏川上流にさかのぼる。R419との合流地で217mあるので比高97mを登ることになった。基本的に山里はゆるやかで漕げるが、離れると急坂になり、降りることしばしばだった。
 R419の蔵屋敷に着いてすぐ冷えたドリンクを買って飲み干す。猿投公園からこの間は自販機が無かった。持参すべきでした。R419mo基本緩やかでなるだけ乗って進むが降りたところもあった。小原町は旧役所のあったところでコンビニもありドリンクを買って一休みした。
 ここからは小字が「登り」とあるごとくR419も急で、最初から降りて歩いた。「登り」で矢作川へ行く村道に右折するとまた一段と急坂になり、峠を越す。これが下りが危険なほど急でカーブもきつい。
 西細田町の地点で三差路になり道標がある。神社マークのここで右折する。お堂が神社の意味だろう。石碑に蚕の文字が浮かぶのでここが登山口と思われる。比高60mほど歩いて峠道を登ると分かれ道があり、右へ蚕霊神社の道標があった。キジの雄が大きな声で逃げてゆく。今はもう午後5時を回り時間切れなので登拝はカットした。
 二つ田という山間の小里に下り、左折、平畑町まで急坂を下る。矢作川右岸の町道をしばらく走るが、川原では多くの人がBQを楽しんでいた。簗平で笹戸から来る県道11に出て矢作川沿いに走るだけになる。
県道11は下り一辺倒かと思うが少しは登りもあった。概ね快適な道である。枝下(しだれ)からは少しづつ登りがあって降りた。御船川沿いに北へ行き、東海環状道の下をくぐると朝走った道を反対に行く。Pまでは少し歩かされるが気持ちの良い疲労感に襲われる。少しは脂肪を燃焼しただろうか。

近江・清滝山を歩く2020年02月03日

 2/2の朝はあまりにも天気が良いので思い付きで行ける山として清滝山に行った。朝の出発も遅く、登山口の清滝を出発したのは11時を回った。但し清滝神社から急登にあえぐまもなく尾根に着いてしまい、少し緩やかになった尾根を歩くともう山頂に着いた。
 NHKと琵琶湖放送の電波塔がたっていて少し広くなっている。とはいえ、車道は通じていない点が良い。今は枯れた芝生の丸くなった気持ちのいい頂上である。片隅には三角点、杉の木立、石仏がある。その近くに松明のために火口のように掘り下げた穴に枯れ枝が山積していた。杉の木立にあった2リットルのペットボトルの水は消火用らしい。毎年8月14日と15日に行事としてやる。この時は女人禁制、地元民以外は入山も禁止という。
 山頂からの展望は意外なほど秀逸である。南北には伊吹山、霊仙山がどかっと座る。霊仙山の前に重なるのは昨年苦労させられた阿弥陀ヶ峰である。濃尾平野の方向は中央アルプス、恵那山が見える。湖北は曾遊の七尾山、金糞岳と白倉岳が白い。肝心の伊吹山は5合目から上は雲の中だった。
 ハイカーも多数登ってきた。50分粘っても伊吹山は晴れず下山した。山の神への尾根を下ったがよく整備されている。30分もかからず登山口に近づいた。スマホで写真を撮ろうとすると無い。しまったな、山頂付近に忘れた。と空身で戻って心当たりを2時間近く探したが見つからず。3時になったので下山し出直すことにした。
 そして、今日、早朝発で同じ山に登った。言わば行方不明のスマホの捜索である。友人に時刻を定めて電話してもらうことにしたが、山頂から一段下がったところにあった。昨日はもう一段下がった所のみをさがしたからないはずだ。やれやれだった。いつもと違う持ち方をしたためにころっと忘れたのだった。それにしても30分で登れる山で良かった。今日はもう霞がかかって昨日の大展望はなかった。その代わりに伊吹山は見えた。良かったなあ、と微笑んでいるかに思えた。
 昨日は境内で節分会だったらしい。徳源院のPはバス用に閉鎖されていた。団体さんが来訪したのだろう。そして明日は立春である。私のチョンボに伊吹山も笑ったのだ。
   忘れ物見つかり伊吹山笑う  拙作