愛されしホームドラマや麦秋忌 小津安二郎生誕120周年2023年12月12日

小津安二郎生誕120年記念プロジェクト特別映像
https://www.youtube.com/watch?v=tUTo1Hgh8u0

 今日は小津安二郎の誕生日にして命日である。

宮崎駿ノート2022年11月04日

 ジブリの宮崎駿氏を知ったのは「風の谷のナウシカ」(1982年)が話題になった時だったと思い出した。
 孫引きですが、「産業革命で科学技術の発展した人類社会が、「火の7日間」と呼ばれる最終戦争によって滅びてからさらに1000年余りが経過した未来の地球が舞台。
 以下、第1話の冒頭文を引用する。」「ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は数百年のうちに全世界に広まり巨大産業社会を形成するに至った。大地の富をうばいとり大気をけがし、生命体をも意のままに造り変える巨大産業文明は1000年後に絶頂期に達しやがて急激な衰退をむかえることになった。
 「火の7日間」と呼ばれる戦争によって都市群は有毒物質をまき散らして崩壊し、複雑高度化した技術体系は失われ地表のほとんどは不毛の地と化したのである。その後産業文明は再建されることなく永いたそがれの時代を人類は生きることになった。」

 現代は右肩上がりの夢のある時代から本当に黄昏になった。堺屋太一氏は『「大変」な時代 常識破壊と大競争』の中で「うつむき加減」の時代と表現していた。
 宮崎氏のアニメの世界は1の子供向けのファンタジーから2と3の小難しい世界に迷走したんだろう。この作品で左翼傾向と見ていたがソ連の崩壊(1991年)を見てしまったから懐疑的にならざるを得ない。アニメでありながら今は歌舞伎にも取り込まれた。ジブリパークはとりあえず5つのエリアだが風の谷のナウシカは構想中らしい。見たいような見たくないような作品です。

 ソース:https://www.fenet.or.jp/opinion/id/70
「批判されない宮崎アニメ」から

・宮崎駿は左翼主義者である。「心情的左翼だった自分が、経済的繁栄と社会主義国の没落で自動的に転向し、続出する理想のない現実主義者の仲間にだけはなりたくありませんでした」(『時代の風音』)と自らの「転向」を語っているが、左翼体質は抜けていない。
アニメを観、見せるのは各自の自由にしても、以下の言動を踏まえ、薄甘い左翼主義者の作品を観、また見せているという自覚くらいは必要ではなかろうか。

・「憲法を変えることについては、反対に決まっています。選挙をやれば得票率も投票率も低い、そういう政府がどさくさに紛れて、思いつきのような方法で憲法を変えようなんて、もってのほかです。」(『熱風』2013年7月)宮崎駿の政治発言は多い。スタジオジブリ発行の『熱風』には数多くの迷言が登場する。
「慰安婦の問題も、それぞれの民族の誇りの問題だから、きちんと謝罪してちゃんと賠償すべきです。」(同)朝日新聞が誤報を認める以前の発言だが、そもそものスタンスが左翼だ。

・労働組合書記長・宮崎駿

 学習院大学政経学部卒。1963年、東映動画に入社、翌年労働組合の書記長となる。60年代の空気は若者の多くを左傾化したので宮崎一人を責めるわけにはいかない。ただ「理想のない現実主義者」を拒否した「心情的左翼」が、原始共産社会を理想とする夢想家として形作られていったことは、その後の彼の作品で想像できる。

・作品が良ければ良いでは無いか、とも言える。確かに「血沸き肉躍る冒険、はらはらどきどきのストーリー展開。奇想天外な形状をした飛行機械と、辺りを一瞬にして火の海と化す破壊兵器。天高く駆け抜ける飛翔感と、それ以上に蠱惑的な墜落感。あるいは純朴な少年と高潔な少女の恋とも言えぬ淡い想い」(青井汎『宮崎アニメの暗号』)等々エンターテインメントとしての面白さは抜群だ。ところが観終わると「少なからぬ人々が『面白かったんだけど……』と、何かしらのわだかまりを『……』に忍ばせながら帰途に着く」(同)

・カリオストロやラピュタ等エンターテイナーとしての面目躍如だった宮崎作品も、だんだん意味がわからなくなってきた。あの金魚は何だったのか。なぜ城が歩かなくてはならないのか。顔の無い化け物に追いかけられていたヒロインが、直後にその化け物と一緒に電車に乗っている。観客は「ファンタジーだから」と意味不明を無理に飲み込む。あるいは隠された暗号を読み解こうと躍起になる。

・ ハイジでもコナンでも面白いものは面白い。ただジブリの先輩・高畑勲が明確に共産党支持を打ち出しているのに対して、宮崎駿は今ひとつはっきりしない。そんな人物の作品が「単なるアニメじゃないか」と切って捨てられないほど巨大な影響力を持つに至った。
公開の度に観客動員数は増、興行収入もうなぎ登り。「悪口を言うなんてとんでもない!」―現役引退したとはいえ、世界的巨匠に対してもはや批判そのものを世間が許さない。今の日本で宮崎アニメの洗礼を受けていない人は先ずいない。家でも学校でも宮崎アニメは垂れ流し。ジブリグッズの氾濫を大人と子供とで競い合っている。そもそも生まれたと同時に宮崎アニメに取り囲まれて育っている。となりのトトロを子守歌で聞き、ポニョポニョつぶやきながら大きくなった。薄甘い左翼幻想が個人の生活圏の深層に喰い入り、日常の思考レベルの音階を形作ってきた経緯がある。

・左翼系作品の特徴は、権力者や上位階級者は絶対悪(反天皇・反武家・反貴族)、戦争は悪(エセ平和主義)、戦争で死んでも犬死に(命をかけて戦うべき時があることを否定)・・・など。

宮崎駿、実は東映の労組書記長までやった筋金入り左翼。
しかも、ホントの苦労をしたことないボンボン。鳩ポッポと似たようなところがある。

マスコミが宮崎の経歴をほとんど報道しないので、このことは一般に知られていない。
宮崎のイデオロギーは日教組とほぼ同じ。だからマスコミや学校は、それを隠して、宮崎アニメを盛り上げようと囃し立てる。

藤沢周平の小説に学ぶ2022年06月19日

 映画「たそがれ清兵衛」を見た。江戸末期の下級武士の高潔な姿を描き、日本アカデミー賞などを総なめした山田洋次監督の名作であり、真田広之も宮沢りえの演技もすばらしかった。

 下記のやりとりが印象に残った。
娘は家で『論語』を素読している。江戸時代には論語や儒教を学ぶことが「学問する」ことで、そこで論語が説くのは「人生をいかに生きるべきか」であった。

 そこで娘には疑問が浮かぶ。そこで父、清兵衛に聞いた。

 娘「お父はん。針仕事ならって上手になれば、いつかは着物や浴衣が縫えるようになるだろう?んだば、学問したら(即ち論語を学んだら)、何の役に立つんだろう?」
 
 父「学問は針仕事のようには役だたねえかもの。」(沈黙)
 「学問しぇば、自分の頭でものを考えられるようになる。考える力がつく。この先、世の中がどう変わっても考える力、持っていれば、何とかして生きていくことができる。これは男っこも、女んこも同じことだ。わかるか?」

 清兵衛は、幕末という激動の時代を予感してか、針仕事のような直接役に立つことではなく、自分の頭で考える能力をつける学問の重要性を説いた。これは今の時代に我々に必要なことでもあると思う。

 今、世界はますます予測不能に変化する。この中で、直接役立つようなスキルではなく、生きるために自分の頭で考える力をつけなければならない。その核心の問いは「人生をいかに生きるべきか」である。そしてこの問いの根底には「幸せとは何か」を問うことにつながる。

 小手先のスキルを学ぶことを超えて、今、人生をいかに生きるべきかを問い、そして、幸せとは何かを問うことが必要である。
以上
・・・学問の本来の姿です。

いつだって夢を持つべし春満月 拙作2021年03月27日

今夕は名駅前のミッドランドで映画「名もない日」の特別試写会があり、縁あって私も鑑賞する機会を得た。
 テーマは自死だった。しかも日比遊一監督の弟の孤独死を描いた重いコンテンツになっている。ただ、舞台は名古屋市にこだわった。日比監督は熱田神宮から5分くらいの場所に生まれた。自身は長子でありながら生まれ故郷を捨てて写真家への道を歩んだ。そして行き着いた先はニューヨークであり、31年も過ごして来たのである。だから自画像ともいえるし、文章なら一人称の私小説である。
 シーンは家族で会食の場面があるが、隠れてしまう人物もいるので小津映画のようなこだわりは感じなかった。堀川あり、熱田神宮あり、熱田の渡しあり、町工場の作業風景あり、場末の居酒屋ありと下町風景をてんこ盛りに描いている。展開に物語性は余りない。人物像は最初は把握しがたいが少しづつ謎解きされてゆくが明解ではない。
 診察の場面で、自死の原因は眼病らしいことが分かる。それも完治不能なように見えた。私の従兄弟も2人病気で自死したから身につまされる。若い時の病気は絶望感が募る。仕事の不遇なら転職の選択もあるが、病魔は何ともしがたい。その点で救いがたい映画になっている。
 仕事仲間にも孤独死の住居の清掃業をやる人がいる。腐乱死体はウジ虫だらけであろう。臭いもきつい。「男やもめに蛆がわき女やもめに花が咲く」というが、妻と死別、離婚した男性は特にひどいだろう。自分の下着の在処さえ分からず、料理もできず、掃除もおろそかになりやすいからだ。
 男のものぐさは今だけではない。江戸時代の俳人の横井也有も中区上前津にある別邸を「ものぐさな自分が部屋の掃除をする日もあればしない日もあることから“半掃庵”と名づけ」たくらいだから掃除機のある現代でもスイッチを押すことすらも面倒なことである。
 それで最後はどうしたか。やはり堀川が描かれた。背後は夕焼けの鈴鹿連峰だろうか。提灯をぶら下げた屋形船を浮かべるシーンもあるが、何か切ない。恋人同士の語らいなどもなく、心に重い感動を残して終わる。
 映画が終わると日比監督があいさつされた。続いて大村愛知県知事も簡単な感想を述べられた。館を出ると通路には何と横井利明氏が選挙運動をしておられた。
 ミッドランドの外へ出ると小寒い。高層ビルの脇の夜桜の上には煌々と春満月が輝いていた。重い心持がすっと晴れた。

飛騨の山と「高校三年生」の歌詞のハルニレ2020年09月12日

 猪臥山の原稿を書いているとき、不図思い出したのが、下山路で見た「ハルニレ」の木だった。これは中学2年か3年のころ大ヒットした「高校三年生」の歌詞の2節目に出てくる♯ニレの木陰に♪のニレであると知った。それで『東海・北陸の200秀山』を読むと何と私が書いていた。そしてニレのことも書いているではないか。
 今度の原稿にも是非書いておかねばなるまい。作詞したのは丘灯至夫(1917年2月8日 - 2009年11月24日)で、福島県田村郡小野新町(現小野町)の出身なので、ニレが普通に生えているのだろう。
 小野町ではきちんと「丘灯至夫記念館」とホームページを設けて顕彰している。
 略歴をコピペさせてもらう。
大正 6年 0歳 2月8日福島県田村郡小野新町(現小野町)に西田屋旅館(現存)に西山亀太郎、モトの六男として生まれる
昭和 4年 12歳 福島県郡山市金透小学校尋常科を卒業
昭和 7年 15歳 福島県郡山市立郡山商工学校(現・福島県立郡山商業高等学校)商業科を卒業
昭和10年 18歳 詩人・西條八十に師事 詩、歌謡、童謡などの作詞の道に入る
昭和16年 24歳 日本放送協会(NHK)郡山放送局に入局 17年退社
昭和17年 25歳 毎日新聞社(東京)に入社 福島支局記者として勤務
昭和24年 32歳 日本コロムビア株式会社専属作詞家となる
昭和38年 46歳 「高校三年生」(舟木一夫・歌)他の作詞により日本レコード大賞作詞賞を受賞
昭和39年 47歳 童謡「ワン・ツー・スリー・ゴー」(交通安全の歌)補作により日本レコード大賞童謡賞を受賞
昭和47年 55歳 毎日新聞社を定年退職 出版局特別嘱託となる(終身名誉職員)
昭和57年 65歳 地方自治功労により福島県田村郡小野町特別功労表彰を受ける
昭和63年 71歳 芸術文化功労により勲四等瑞宝章受賞
平成 2年 74歳 県外在住功労者知事表彰を受ける
平成13年 85歳 福島県小野町 名誉町民第1号
平成21年 92歳 11月24日永眠
以上
 次はハルニレです。
 国土交通省北海道開発局のHPには
「ハルニレは北海道を代表する木のひとつで、「エルム」ともよばれる落葉樹。川沿いなどの湿った土地によく育ちます。豊頃町を流れる十勝川河川敷に立つハルニレは、樹齢が130年以上にもなり、まちのシンボルとなっています。紅葉も終わり、すっかり葉を落としたハルニレは、どこかホッとしているように見えました。」とありました。
 どうやら北の木なんですね。

 木の情報発信基地には
「ニレ科ニレ属。落葉高木。北海道、本州、四国、九州さらにサハリン、朝 鮮、中国などに分布する。高さ20-25m、直径50-60cmになる。大きなものは高さ30m、直径100cmに達する。ハルニレは、アイヌのユーカラ神話では、美しい女神とされていて、それにみとれた雷神が足をすべらせ、その上に落ち、女神は身ごもり、人の祖先であるアイヌラックが生まれたとされている。
 また、別名アカダモとも呼ばれ、元来東北地方から入った方言名である。ヤチダモあるいはアオダモの類ではと勘違いしかねないが、まったく関係はない。葉は互生、長さ3-12cm、葉縁に二重きょ歯がある。花は早春に黄緑色の小さい花を葉に先立って古枝の先に咲かせる。翼果は長さ10-16mmの膜質の倒卵形で、種子は翼上部にある。年輪が明瞭な環孔材。心材は暗褐色、辺材は褐色をおびた灰白色である。木理がはっきりしているので、コブや根に近い箇所にはとくに美しい杢が出る。重く硬い。切削・加工はやや困難であるが、曲げに強いので、曲木には適している。耐朽・保存性は高くない。用途として、家具、器具、車輌、単板などがある。淡泊な木材が好まれる場合には、ムクの木材として、また天然木化粧単板の材料としても使われる。」

訃報 渡哲也さん 享年782020年08月14日

NHKニュースから

 渡哲也さんが亡くなったことについて、石原プロモーションは「長きにわたり病との闘いの末去る令和2年8月10日午後6時30分に肺炎のため都内の病院にて旅立ちました。ここに生前のご厚誼を深く感謝いたしますとともに、謹んでお知らせ申し上げます」とするコメントを14日午後7時半すぎ公式のツイッターに掲載しました。

 この中で、葬儀については静かに送ってほしいという故人の強い希望により、14日、家族葬という形で執り行い、お別れの会やしのぶ会なども行わないとしています。

 また、香典や弔電などの儀も故人の遺志により、辞退するとのことです。

 そのうえで、「何卒、故人の遺志をご理解いただけますようお願いいたします。皆様のお心の中にて故人への祈りを捧げていただけますことを心よりお願い申し上げます」としています。
以上

・・・つい先だって、FBの友達が「くちなしの花」をアップしたので「渡哲也のヒット曲の「くちなしの花」の動画をアップしたばかりだった。
 お悔やみ申し上げます。
 裕次郎が石原プロを作った際に渡哲也も入社した。すると裕次郎は無名の新人の渡哲也にもお辞儀して丁重に扱ってくれたことに感動したらしい。あの有名な裕次郎さんが自分に頭を下げて迎えてくれたというのだ。そんなエピソードを何かで読んだ。
 78歳とは早いとも言えないがもう少し活躍してくれても良かったと思う。

認知症サポーター養成講座を受講2020年07月03日

 夕方6時から東区生涯学習センターで認知症サポーター養成講座を受講した。
内容:認知症サポーター養成講座

講師:東いきいき支援センター 認知症サポーターキャラバン・メイト 2名

概要:●認知症を理解する(1)

●認知症を理解する(2)

●認知症サポーターとは

●認知症サポーターのできること
以上。
 すでに知っていることも多々あったしごく常識的な内容でもあった。認知症の動画を見たが何となく不自然で作為的な内容だったので、受講後、メイトさんには映画「ふるさと」を紹介した。
 ダム湖に沈んだ徳山村を舞台にした。認知症の老人と孫(子供)、家族のきづなをテーマにした。ウィキには「『ふるさと』は、1983年公開の神山征二郎監督、加藤嘉主演の日本映画。揖斐川の上流部、徳山ダムの建設でやがて湖底に沈みゆこうとしている岐阜県揖斐郡徳山村(現揖斐郡揖斐川町)を描く。
 徳山村の出身で、同地で分校の先生をしていた平方浩介の著書『じいと山のコボたち』(童心社)を映画化したもの。痴呆症の老人と少年の親交を描きながら、消え行く徳山村の美しい自然を表現している。」と紹介された。老人は名優加藤嘉、長門裕之、樫山文枝、樹木希林、前田吟らが主演した。
 封切り当時は徳山村が永遠に消えてしまうことへのノスタルジーで見たが、今は認知症が身近になり、その視点で再評価されてもいい映画になった。

大西暢夫『ホハレ峠』を読む2020年06月20日

彩流社刊

著者は  アマゾンから
大西/暢夫
1968年、岐阜県揖斐郡池田町育ち。東京綜合写真専門学校卒業後、写真家・映画監督の本橋成一氏に師事。1998年にフリーカメラマンとして独立。ダムに沈む村、職人、精神科病棟、障がい者など社会的なテーマが多い。2010年より故郷の岐阜県に拠点を移す。『ぶた にく』(幻冬舎)で第58回小学館児童出版文化賞、第59回産経児童出版文化賞大賞。映画監督作品:『水になった村』(第16回EARTH VISION地球環境映像祭最優秀賞受賞)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

出版社側のねらいは
編集者が明かす、ダムに沈んだ徳山村の本を出した理由 ―そこから見え隠れする近現代
https://note.com/sairyusha/n/naeff5f3e8d72

朝日新聞の書評は
(書評)『ホハレ峠 ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡』
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14511895.html?pn=3

 ■現金がのみ込んだ大地との生活

 ダムの底に沈んだ岐阜県揖斐郡徳山村。一五〇〇人ほど暮らしていた村民が次々と出ていく中、そのもっとも奥の集落・門入(かどにゅう)で、最後まで暮らしていた廣瀬ゆきえさん。

ここから続き
 山に入り、山菜を採り、日が暮れれば寝る。夫を村で看取(みと)り、たった一人で大地の恵みと呼吸するような生活に、強制的に終止符が打たれる。ダム建設に伴い立ち退きを余儀なくされた日、漬物小屋を解体する重機から目をそらすように遠くを見つめる写真が全てを物語る。「村の清流だった揖斐川の水が、自らこの大地を飲み込もうとしている」

 約三〇年前から村に通い、ゆきえさんと向き合い、その足跡を記録した。門入の住民は街に出るために、ホハレ峠を越えた。早朝に出たとしても着くのは夕方。わずか一四歳、家で育てた繭を運びながら峠へ向かう。峠の頂上から初めて「海」を見た。それは、初めて見る琵琶湖だった。

 北海道真狩村に嫁ぎ、やがて村に戻ると、山林伐採、ダム建設が忍び寄っていた。ダムの説明会に参加するだけでお金が支給され、集落の繋(つな)がりを巧妙に札束で崩していく国。「みんな一時の喜びはあっても、長い目で見たらわずかなもんやった。現金化したら、何もかもおしまいやな」

 転居した先のスーパーで特価品のネギを見て、「農民のわしが、なんで特価品の安いネギを買わなあかんのかなって考えてな。惨めなもんや」と漏らす。村を最後まで見届けたゆきえさんの人生は「点」でしかないが、その点は長く繋がってきた尊いもの。誰よりも本人がそのことを知っていた。

 台所で倒れ、亡くなったゆきえさん。口の中から一粒の枝豆が出てきた。ゆでた枝豆をつまみながら、ご飯を作っていたのだろう。時折さしこまれる写真の数々が、村の歴史、ゆきえさんの足跡を伝える。読みながら、本のカバーを何度も見返す。「現金化したら、何もかもおしまいやな」と繰り返し聞こえてきた。

 評・武田砂鉄(ライター)

徳山村は映画「ふるさと」にもなった。
以上

 個人的には、昨夜で粗方読破してしまった。奥美濃の山は登山の開始と同時進行である。山岳会に入会したのが昭和53(1978)年(28歳)であった。『鈴鹿の山』とか『秘境 奥美濃の山旅』を買って読んで山行のヒントにした。『ぎふ百山』を知るのはもう少し後になる。次々と登った山が増えてゆくのが楽しみになった。この後、サンブライト出版から森本次男『樹林の山旅』の復刻版が出た。すぐに買った。たちまち愛読書となった。
 足は月1回のレンタカーであった。入会した年の10月にトヨタ・スターレットというレンタカーで、馬越峠を越えた。初めての徳山村探訪になった。早暁、薄いガスの中に徳山谷が見え、紫色の煙が昇っていた。その時は冠山に登った。特に岐阜の山が面白く、当時は守山区に住んでいて、中日新聞の購読に加えて、岐阜新聞の東濃版を配達してもらった。昭和55(1980)年3月4日から『続・ぎふ百山』の連載が始まっていた。それが目的だった。昭和60(1985)年1月までのスクラップが残っている。切り抜きしたものを友人に託したらきれいな海賊版にしてくれた。何冊も印刷して仲間に配布したが後に岐阜新聞社から立派な装丁の『続 ぎふ百山』が出版された。海賊版は100山目で止まっていたが新版は130山もあった。
 昭和55(1980)年(30歳)にマイカーを買った。その車で、金ヶ丸谷の偵察に出掛けた。この時は揖斐川沿いに走り、西谷川を遡った。初めての門入との遭遇である。着いた門入では家の取り壊し中だった。墓には白い布をかぶせてあった。こんな情けない姿を先祖に見られたくないからだという。それで村人に金ヶ丸谷の熊の生息状況を聞いたら、いつぞやは京都の若い人が夜叉ヶ池から金ヶ丸谷を下降して遭難死したという。京都から親御さんがきて息子が帰らないから探してくれというので探したら谷の中で死んでいた。「あんたね、熊よりも谷の方が怖い。行かん方が良い」と諭してくれた。その日はそこで帰った。これが門入とのなれそめである。『ホハレ峠』P236には「たしかに昭和55年ということは、そろそろ徳山村から移転地へ引っ越しが具体的になってくるとき」とあるから記憶にまちがいはない。
 金ヶ丸谷の遡行は平成17(2005)年9月になった。偵察から実に25年の歳月が流れ、ダムの湛水が始まる前年だった。我ながらしつこく追いかけたものである。
 門入の予備知識としては安藤慶一郎編著『東海 ムラの生活誌』(昭和55年9月刊 中日新聞社)がある。5番目に「西美濃山村の生活と親族組織」がある。学者が書いただけに綿密に調査したのだろう。門入の特殊性は通婚関係と指摘している。閉ざされた狭いムラ社会ではそうせざるを得ないだろう。
 乙川優三郎『脊梁山脈』は木地師が主人公の小説である。しかも東亜同文書院の学生のまま兵隊にとられた設定。小説では長野県売木村の木地師と主人公が復員列車の中で出会うのだが、復員列車で親切を受けたお礼に売木村を訪ねると本人は居るのだが別人であった。出会った人は東北に住んでいたというトリックにも使われている。つまり東北の兄が結婚してすぐに出征したが戦死した。弟は無事で帰国できたので戸籍上は兄に成りすましたまま、兄の嫁と子を養う人生を送る。そんな筋書きだった。木地師の社会も他と交わりが少ないから近親婚になるのだろう。要するに限られた山奥の閉ざされた社会での家を守ったのである。
 著者も門入の婚姻関係の理解には相当な苦労をしている。P182辺りから明らかにされている。
 廣瀬ゆきえさんは大正7(1918)年生まれ。昭和7(1932)年14歳で初めてホハレ峠を越えたと、本書にある。昭和8年にはまたホハレ峠を越えて、更に鳥越峠を越えて彦根市のカネボウの紡績工場へ働きに出た。16歳までの冬はそこで働いた。17歳から24歳まで一宮市、名古屋市の紡績会社で働いた。
 著者の大西暢夫さんは門入が越前藩の領域だったことまでは調査されていないようだ。越前から見て最初のムラが門入、次は戸入、本郷である。古くはお坊さんも越前から迎えていた。福井県の日野川源流の廃村・大河内へ行く途中に二つ屋があり、そこから夜叉ヶ池に向かって登る尾根が街道の尾と言った。登りきると金ヶ丸谷の源流部に下る。そこからどのように道があったのかは明らかではない。
 ゆきえさんは昭和17(1942)年頃、24歳で結婚し北海道に渡った。『ぎふ百山』の千回沢山・不動山の項に入谷の人らは大正の初めに北海道へ渡ったことが書いてある。門入では明治36年から移住が始まっていたのである。戦争を経て昭和28年に北海道を引き揚げた。34歳になっていた。八ヶ岳山麓に一時的に身を置き、昭和30(1955)年に徳山村へ戻った。13年間はまさに転変流転の人生だ。廣瀬家から橋本家に嫁いだはずなのに夫がまた廣瀬家に戻した。もともと親戚同士の結婚だった。これが親族組織で成り立つ門入の特殊性である。
 愛読書の『樹林の山旅』には黄蘗(きはだ)の村(千回沢山と不動山)の項で門入が紹介される。きはだは薬になる木のことで、徳山会館で売っていた。
 森本は昭和10年頃の記録をまとめて昭和15年に発刊した。だから廣瀬ゆきえさんは18歳頃になり同時代を生きていたことになる。但しゆきえさんは一宮市の紡績工場に住み込みで働いているので遭遇はしなかった。森本は大滝屋という旅館に泊まって門入のめぼしい山と谷を跋渉した。ホハレ峠の話も出てくる。「あへぎあへぎ登る急な坂路は、太陽の光を顔に受けて峠に着いた時分には日焼けで頬がはれている。だから、ここはホヽハレ峠だという話を聞いたが、この峠の名前は街で信じてもらうにはふざけすぎている。だが私達は嘘だとは思わない。」
 栃や欅の原木を板に挽いてホハレ峠まで来ると余りの力仕事に頬が腫れるというのが由来のようだ。
 湛水が始まったころは遊覧船が浮かぶとか、門入へは県道が通るとかは仄聞したが今も実現していない。

哀悼!登山が好きだった八千草薫さん死去2019年10月28日

若かりし頃の八千草薫さん
 往年の美人女優の八千草薫さんが24日に88歳で死去と報じられた。ご冥福をお祈り申し上げます。
 八千草薫さんの出演された映画で今も記憶にあるのは1957年豊田史郎監督の「雪国」(原作:川端康成)。主演は池辺良(島村役)と岸恵子(駒子)で駒子の義妹役が八千草薫さんだった。ちょっとくらい役目だが活き活きと演じる姿は印象に残る。あの当時はまだ冬のスポーツのスキーも活発ではなかったから雪国の生活は大変だった。そういう貧しい雪国の愛の物語である。
 川端が逗留し執筆していた高半旅館(現:雪国の宿 高半)の部屋も保存されて見学したことがある。
 映画のはじめは国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。という書き出しの通り、蒸気機関車に引っ張られた客車の中に池部良と八千草薫が座っている場面がある。

【「雪国」 川端康成】
 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん」
 明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
 もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ」
「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ」
以上
 この中の葉子役である。「駅長さあん」と叫ぶのが八千草さんだった。段々思い出してきた。1957年封切りなのであの頃で26歳だった。ちょうど谷口監督と結婚し山歩きをし始めたころだ。DVDが出てきたらまた観てみよう。

Never too late.・・・・映画「Edie(エディー)」から2019年10月25日

 2020年1月に83歳の主婦がスイルベン山頂へ!映画「イーディ、83歳 はじめての山登り」が公開される。何と83歳である。

 歌は世につれ、世は歌につれ、じゃないけど映画も高齢社会の影響を受ける。アメリカ映画「ロングトレイル」は60歳の男性作家が3000kmを超えるトレイラーとして挑戦するが挫折する話。今度は83歳の女性初心者の話。

 私の山岳会にも60歳代から70歳台の元主婦は多くいる。男性は80歳代に達した。中でも60代半ばで入会してきた某は元日銀OLで夫も日銀支店長として全国を転勤していた転勤族である。妻として身の回りの世話のためにあちこち転居してきた。日々の生活に明け暮れて、2人の子育てもきっちりやった。夫の定年退職を機に遊び始めた。まずは卓球だった。その友達が入会してきた縁で連れ立って入会した。
 名古屋近郊の低山歩きにはしっかり参加して熱心に歩いたので力が付いた。予定がなくても催促があると適当に設定して連れて行った。ある年、三泊四日の夏山縦走の計画が持ち上がった。男性2名女性1名だったが寂しいのでもう1人誘うことにして某に声掛けすると乗ってきた。途中でバテたら小屋の荷揚げのヘリで救助を依頼しますからと。
 折立、薬師岳、五色ヶ原、立山と縦走して無事に下山。まるで発狂するかに興奮した。達成感で感動を越えてしまったのである。室堂の土産物店で物色していると何でも買いなさい、お勘定は私が払う、と言って聞かない。気丈な性格は承知であるがこの時は申し入れをありがたく受け入れた。
 その後、主婦仲間にこの縦走を話すと羨ましがられたという。某には誇らしい人生経験になったのだ。平凡とばかりに思っていた老後にこんな素晴らしい経験ができるとは思わなかったと感謝された。
 某は伊那の低山で不覚にも転倒し右腕を骨折したのを機に退会し登山からも引退された。夫は妻の骨折が直る間は自分で家事をこなすことになったからもう止めてくれと泣きつかれたのだろうか。
 何事も始めるのに遅すぎることはないが、リスクもある。
 映画「エディー」はどんな話になるのか。高齢社会は世界の趨勢であるから注目されるだろう。

以下はニュージーランド在住の日本人女性「自然大好きトレッキング大好き写真大好きなニュージーランド在住のネイチャーフォトグラファーyumiM」の映画の感想記の一部です。2018の夏の記載です。英国では2017年に公開されています。

https://ameblo.jp/izumi-483/entry-12394709489.html

映画のあらすじはというと、

舞台は現在のイギリス。

支配的な夫と結婚して以来、自分の魂の声、自由な心、情熱、夢を失って生きてきたエディー。

30年の介護生活の末に夫の死を迎え、今まで「妻」でいたという義務感だけで生きてきた彼女にとっては生きる意味さえもわからない日々。

夫の死後3年後に、娘がエディーをお年寄りの施設に入居させようとするがエディーは気に入らない。

そんな時、幼少時代に父から送られてきた一枚の絵ハガキを手にしてスコットランドのSuilvenという有名な山に登るという、封印してきた夢を思い出す。

ある日、町のフィッシュアンドチップス屋さんでランチを食べ後終わりそうな頃、「今からフライドポテトを注文しても良い?」と注文したエディーに対し、「手遅れなんてことは全然ないよ。(Never too late)」と答えた店員。

Never too late.

この言葉にピンときたエディーは、山に登る決意をし、行動を起こすのであった。
以上