揖斐川歴史民俗資料館2025年04月20日

 正午から再び美濃へ出かけた。名二環から名古屋高速に入り、R22に降りた。R156沿いのガソリンスタンドで軽油を給油。141円/リットルと激安なので目を付けていた。そこから本巣市の図書館を目指す。探し求めるのは根尾谷の歴史の本だがなかった。
 それで揖斐川歴史民俗資料館へ移動。そこにはすぐにお目当ての資料が見つかった。先ずは発見したのは揖斐川、根尾川などにまたがった江戸時代の絵図である。
 大野郡はやっぱり根尾川と揖斐川に挟まれた、というか能郷白山に端を発する雷倉山脈が大野郡だった。
 近世の根尾谷の大部分は本巣郡のエリアだった。ウィキペディアには「山口村、神海村、佐原村、木倉村、川内村、奥村、金原村、平野村、板所村、市場村、神所村、中村、越卒村、門脇村、長嶺村、天神堂村、長島村、黒津村、越波村、上大須村、下大須村、松田村、西小鹿村、東小鹿村、東板屋村、西板屋村、口谷村、奥谷村、樽見村、内野村、木知原村、日当村」が入っている。
 絵図にない能郷村は旗本領寺社領として徳山出羽守の下にあったので別格だった。同じく大河原村は美濃大垣藩のエリアにある。
 もう一つの目的の水戸天狗党の件は水戸方面から1000人の武装集団は揖斐川町に来たという。彼らの宿泊だけでも大変な世話が必要だった。そこは棚橋天籟の活躍があってのことだった。同館に『筑波の嵐』が復刻版で頒布されていたので購入(500円)した。その中のはじめにを天籟の曽孫(ひまご)の棚橋嘉明氏が書いている。顛末が簡潔に書いてあるので転載しておきたい。
「天狗党の乱というのをご存知だろうか。時は幕末、元治元年常陸国筑波山で挙兵した水戸天狗党千人余の大砲、小銃で武装した軍勢は、京都にいた十四代将軍家茂後見役で水戸藩主六男一橋慶喜を頼って尊王攘夷を訴えるべく中山道を上京。十二月一日、戦を避けて間道を通った一行には幕府より追討命令が出され、行く手を阻まれることとなった。十二月一日揖斐宿で一泊することになった。揖斐宿では近くに大垣藩の鉄砲隊が出陣していて大騒動となったが、天狗党の軍勢と折衝し、双方の応戦次第では宿場が火の海となるところを救い、被害を最小限に止めるため奔走したのが棚橋衡平(こうへい。天籟)である。天狗党の総大将武田耕雲斎はその夜衡平の助言もあって、根尾を抜け、蠅帽子峠の難関を突破。越前の敦賀にたどりついた一行を待ち受けていたのは、頼りとする慶喜が禁裏御守衛総督として天狗党を逆賊としたことに愕然となり加賀藩に投降。逆賊として三百五十二名の斬首という残忍な結末となった。
 これが天狗党の乱といわれる事件だがその悲劇は歴史の表舞台には登場しない。しかし、この事件はやがて歴史の転換期明治維新の先駆けになったともいわれる。
以下略。
 天狗党は苦労して越前へ峠越えしたのにその先の民家は焼き払われていたという。敦賀で命運尽きた悲劇である。その後揖斐川町立図書館にも寄って『棚橋天籟翁』の小冊子を発掘した。

明知鉄道沿線の歴史①2025年03月09日

 『新撰美濃志』の恵奈郡から
阿木村
は富田の北にあり。和名類聚鈔に「恵那郡安岐」とある舊郷・・・以下略。

東野村
は飯沼の北にあり。『花無山』は鍋山の続きなり。西行法師ここに住みて
 思えただ花のなからむ木の本に何をかげにてわが身住まなむ
とよみしいひ伝えたれど、山家集この歌の詞書きに「落花のうたあまたよみにけるに」とありて、ここにてよみしといふ事見えず。また
 花無の峯にすみける鶯のおのれと鳴きて春をしらする
といふ古歌も此の山の歌なるよしいへど、共にただしきつたへなし。
花無山といふ名のふるければ付会せし物なるべし。以下略

 というわけで花無山は西行の歌に詠まれた伝説がある山らしい。機会があれば行きたい。できれば明知鉄道の飯沼駅下車で登り、東野駅へ下る。歌碑も見る。

苗木城址から浅間山を周遊2025年01月25日

 東濃の未踏の里山を探して見た。既登の山の前衛とか、隠れたところに意外な山がある。今回は高峰山(945m)の南西に位置する浅間山(551m)が良さげと思った。等高線が山頂に向かって絞り込まれて尖峰に見える。記録は古くからありヤマップでも城山(苗木城址)とセットで歩かれている。直線距離も約2kmだから周回もできる。
 中央道を恵那山に向かって走る。うっすら雪化粧している。全山黒木で覆われるから真っ白にはならない。むしろ左の方に真っ白な山々が見えている。
 中津川ICを出て、10時過ぎに市街地を走るが遅いついでにコンビニではなく、スーパーで食料と飲み物を買いだした。R257で木曽川に架かる城山大橋を渡るとすぐ右折して苗木城址である。一度は来ているが記憶はない。
 東濃は尾張藩の所領だがここは苗木藩が治めていた。
「苗木藩 財源」の検索でAIは「苗木藩の財源には、藩札や御用金、領地からの収入などがありました。」との回答。藩札は今では県債、公債である。他に山林からの収益があった。小藩といえども城を経営することができたのだろう。決して楽な経営ではなかっただろう。
 恵那山を仰ぐPに停めて天守閣に向かって歩き出した。天守閣に立つと好展望が広がった。恵那山、木曽山脈、周囲には笠置山、二ッ森山などが取り囲む。木曽川、付知川とその支流が無数に流れている。中津川市苗木に生まれた俳人の吉田冬葉は
   岳雪のあざやかなるに麦を踏む 冬葉第一句集 吉田冬葉
と詠んでいる。岳雪とは恵那山の雪であろう。
 城から大手門跡へ四十八曲がりの急坂を下山。地道に出て山の田川にかかる上地橋に行くと右岸沿いに飛騨街道(南北街道)への道標があった。上には旧北恵那鉄道の鉄橋が錆びて冬空に晒されたままだ。
 12時30分、飛騨街道に進んだ。両側ともきれいに刈られて歩き易い。やや登り気味にお化け岩なるところを過ぎると車道に出て案内板は終わった。・374の民家を見て、右折。実線の道を歩いて新谷の里へ行く。やや広い道へ左折、また実線の私道のような道から民家の横を通過して二車線の市道苗木205号線へ出た。浅間山の破線路の登山口へたどるために新谷の田園地帯と・342の民家の私道も通らせてもらって車道に出た。ここから右折、工場のような建物から左折、やっとクランク状の登山口に着いた。
 地形図に破線路は示されているがきちんと整備はされていないいわゆる廃道状態であった。踏み跡へおもむくまま登って行った。先へ踏み跡が続いていたが岩尾根を攀じ登って行ったら「せんげの森」の四阿に付いてGPSを見ると破線路から外れていた。しかし良くしたもので本来の旧遊歩道への連絡路が残っていた。ここからは藪が覆う廃道をRFしながら登った。
 大手門跡を12時30分に出発して約2時間の14時36分に登頂できた。小休止後は北へ踏み跡を追う。雑木林の疎林の中で見失いそうになるとGPSで位置確認。先蹤者の付けた白っぽくなった荷造りひものマーキングが見つかる。510mのコブまで来ると良い道の跡が出て来た。
たどると15時17分、舗装路へ飛び出した。苗木城址のPまで約1時間のウォーキングが待っていた。浅間山だけなら山頂をかすめるだけだが城山と合わせて5時間とはかからない結構ハードなハイキングになった。

『新撰美濃志』に描かれた大湫(村)2025年01月13日

 『新撰美濃志』は尾張藩士の岡田文園(啓)が約30年の歳月を要して編纂した地誌である。期間は天保(てんぽう)の時代(1830年から1844年)から万延(1860年から1861年)の期間になる。江戸時代は1603年に始まり、1867年に終わるから、幕末の美濃の社会を記録している。
 復刻版(本書)の緒言に「尾張藩は十二万八千八百石を美濃に領知し、どの領主よりも最大であった。」という。
注:P557から。漢字は基本的に旧字体だが変換可能な限り変換し、出来ないものは出て来る字体にした。行替えは筆者による。

 大湫村は半原の北にありて遠山荘とも亦稲村荘ともいふ。中山道の宿驛にて京の方細久手宿より一里半餘、江戸の方大井宿より三里半の馬つぎなり。「尾張御領九十石」(略)名古屋まで十六里あり。

 「十三嶺」は宿の東大井宿との間にあり。中山道筋登り下り多き故しか名づく、されども坂道やすらかにて険阻ならず。

 「小牧山」は驛の南にあり。さのみ高からねど諸山に秀でて見るに足れり。

 「野田嶺」は驛の北にあり。千村氏毎年草餅を製して献上する地なり。

 「琵琶坂」は細久手に到る大道の坂をいふ。岩石多く道さがしく登り下り十町ばかりもあり。坂の上より互寅の方に木曽の御嶽見え、北には加賀の白山、飛騨山の間より見ゆ、白山は大山なる故麓まで雪あり。西に伊吹山も見えて好景なり。

 烏丸光栄卿の打出濱記に「大久手という所より琵琶坂といふをこゆ、けふの道すべて山の尾なり、たうげよりかなたこなたを見渡すに、こしの白山峰越に山の腰わづかに見ゆ、見るがうちに雲へだたりぬ(みこしぢのしらねいづくと白雲をふりさけ見れば雲に消えつつ)伊吹山のはるかなれどさだかに見ゆ」と見えたり。
以下略。

・十三嶺は十三峠のこと
・小牧山は稲荷山のこと
・野田嶺は本陣山のこと
・琵琶坂は琵琶峠のこと

殿様街道下調べ②2025年01月07日

 鶴舞図書館の検索機で木下信二著『殿様街私考』があると分かった。郷土資料コーナーで見ると、「昭和61年発行、孔版私家版限定65/冊子P54、 愛知県尾張旭市 樹下文庫第25冊」であった。日本の古本屋では5000円の希少価値が付いている。
 中身を見ると、実際に現地を歩いて、地元の精通者や古老などに聞きいて実証する姿勢である。また古文献、瀬戸市史などにも当たって調査は緻密と思える。それでも私考としたのは謙遜だろう。
 中でも、東光寺から石坂峠までの石畳の検証では、江戸時代以来のものではなく、電話線の保護のためと分かった。尾鷲の熊野古道の石畳は多雨地帯ゆえに道を保護する目的で多方面に亘って敷き詰められている。ここでは部分的というところに著者の注意深さが伺える。
 今となっては約400年の歴史の変遷で改修されたり破壊されて道の形は部分的にしか残っていない。それでも古きを訪ねるのはノスタルジアであろうか。

殿様街道下調べ①2025年01月04日

 元旦の山歩きで偶然に知った殿様街道をネットで調べると殿様とは徳川義直が鷹狩で出かけた定光寺の豊かな自然が気に入ってここに墓を作れと作らせた。山路だが生活道路でもあったという。
 今日は1/2に行ったばかりの尾張旭市の一角に残る殿様街道の案内板を見に行った。その後、森林公園を通りながら瀬戸市へ越えて、中水野の東光寺からの山岳古道への道筋を調べた。奥が行き止まりで入り口までは行けなかった。この先が入り口で石畳の道へ続く。そして石坂峠に登る。そこからは丸根山を経て、東海自然歩道に合流し定光寺へ良い道があるはずである。
 別の機会に『瀬戸市史』や『尾張旭市史』などをチエックしてみたい。

初旅は定光寺から東谷山へ2025年01月01日

庄内川から眺めた東谷山
       <JR中央線で定光寺へ>
 JR鶴舞駅は9:38発の普通に乗車。10:06の定刻通りJR定光寺駅に到着。庄内川の右岸から城嶺橋を渡り、定光寺に向かって歩き始める。県道205号線に進むと谷川の左岸側に東海自然歩道が通じているので移る。やや薄暗いが静かで安全だ。まもなく正伝池に着く。ここで東海自然歩道と別れ、県道を進る。定光寺の参道入口は昨年12月に車で定光寺へ行ったので割愛。まもなく喫茶店が営業していたのでふらふら入ってコーヒーを飲む。すでに11時を回った。
      <定光寺から東海自然歩道の宮刈峠へ> 
 店を出てしばらく山里を歩くと交差点の角に西山自然史博物館なる看板がある。その方向へ進むが博物館に寄る時間はない。林道を緩やかに登ると宮刈池(トンボ池)を右に見て、東海自然歩道の宮刈峠(279m)と出合う。立派なトイレとベンチもある。ここからは再び東海自然歩道を歩く。327.6mの山星山(基準点:山星)を越える。やがて大洞峠を過ぎる。中小企業大学校瀬戸校(労働者研修センター)の敷地に上がった。車道と交差するが東海自然歩道を行くと高根山(290m)を越えて森林交流館に下る。正式には「愛知森林管理事務所 森林交流館」という。
       <定光寺自然休養林>  
 この一帯が林野庁管轄の定光寺自然休養林である。丸根山とも言うらしいがピークは不明。ここからは車道と遊歩道が交錯しているので車道優先、時々遊歩道を下った。車道で石坂峠を越える。
観光案内図の看板にはここから「殿様街道」が東光寺へと南下している。付近には名城大学演習林もあり細道が下るが前途不案内なので引き返す。
    <初代名古屋城主・徳川義直が歩いた殿様街道とは>
 ちょっと長いが検索で得た「瀬戸市歴史文化基本構想を活用した観光拠点形成のための協議会」のサイトから「尾張藩主の行列が通ったことから名づけられた。
 尾張藩初代藩主徳川義直が葬られた定光寺への墓参りの道として、また、水野で行われた狩りのために通う道でもあった。初代尾張藩主義直は、藩主として領国内の民情を把握するために鹿狩や鷹狩を盛んに行った。
 特に水野には元和8年(1622)以降20回以上訪れており、その際に訪れた定光寺の景色に感銘を受け、自らの墓所に定めたとされている。名古屋城から定光寺までは、約6里(24Km)の行程で、瀬戸市内では「中水野」交差点から水野大橋を渡って東光寺、そこから丘陵地帯に入って石坂峠までの区間が道として残っている。」とある。
 つまり江戸時代以来の山岳古道である。一度は歩いて見たい。愛環の中水野駅から定光寺へのルートも良い。
 三角点221.1mの基準点名は玉ヶ峰と言う。今回は割愛。下部では基本的に山路の方を歩いた。そして車道に降り立った。地形図では内田町の一角である。愛環の中水野駅には14時10分頃着いた。これならまだ東谷山を明るいうちに乗り越えられると、続行した。 
       <東谷山へ登拝の参道を登る>
 国道と県道を歩き、住宅の並ぶ十軒町に行くと県道の交差点に案内板があった。地形図には東谷山から真東に石段を表わす記号から実線が伸びている。ここへ誘導されて鳥居をくぐるともう境内の一角である。長い参道の石段を登ると待望の東谷山(198m)の頂上に建つ尾張戸神社である。名古屋市の最高峰である。
 平地を歩く参拝ではなく、登って拝むから登拝である。遠くを眺める場合は遥拝という。苦労した末の登拝が初詣になった。500mlの水を飲みほした。これで今日の目的は果たしたので高蔵寺駅へ下山である。神社の横を通って社務所の管理用の車道へ出た。住宅地からR155、庄内川を渡ると高蔵寺駅だ。16:10の電車に乗れた。正味6時間の初旅になった。

蛇峠山ファミリーハイキング2024年08月13日

 午前6時50分に尾張旭市のGさん宅に着いた。4歳になる長女Sちゃんは寝起きが悪く泣いている。大荷物を車に積み込んで出発。瀬戸市の市街地を通過して昔の中馬街道を行く。R363を走るだけ走ると恵那市周辺をナビの指示に従うと上矢作町のR418を経由して平谷村だ。R153へ左折すると道の駅でトイレ休憩後治部坂峠へ。ここが登山口だが今日は4歳児と暑いのでズルして馬の背1450mへ車で登った。着くとすぐに虻が飛んできたが1匹だけで済んだ。身支度を整えて出発。
 ゲートの左にある樹林の山路に入る。これの方が直射日光を浴びずに済むからだ。但し風の通りは悪く涼しい感じはない。ゆっくりゆっくり幼児の初山行のペースを探りながら登る。身長がない分大人は一跨ぎの段差でも母親に手を引っ張ってもらって乗り越える。
 30分も登ると車道に出合うので樹林の中で水を飲んだりして休憩。するとすぐに虫が寄ってくる。都会と違い幼児は虫に一々反応するので持ってきた虫除けスプレーを噴霧しておく。
 車道にはホタルブクロの花を見た。マツムシソウの花も見た。すぐに山路に戻る。これを後1回繰り返す。後は車道を歩く。コオニユリの鮮やかなオレンジ色の花に目を引き付けられる。空気のきれいな信州の高原の山だなあと思う。
 電波塔が林立する山頂部に来た。二岐で左へ行くと展望台の草地に着いた。今日はここが山頂である。三角点は割愛した。雲が厚く遠望は利かないが湿気の少ない空気は爽やかだ。
 下山は車道のみを辿った。こっちの方が日陰にならないので花も多い。ウマノアシガタかシナノキンバイか、信州ならではのミニハイキングでした。

梅雨空に千木誇らしき奥の院(日野山) 拙作2024年06月26日

 名古屋出発は上小田井駅で6時半合流。地道をナビ任せでR303に導かれて、揖斐川上流の横山ダムからR417へ。徳山ダムを経て冠山トンネルを通過すると福井県だ。足羽川沿いに下り、池田町から越前市へ。
 目指す登山口は北陸道日野山トンネルの北側の荒谷ルートの日野神社である。着いた時刻は11時30分。名古屋から5時間135kmかかった。日の長い時期なのでまあ良いか。
 11時40分出発。日野神社は無人だが、樹齢300年以上はありそうな高い杉木立の境内に立派な構えの本殿が建っている。新しい案内板があり迷うことなく境内の右寄りに流れる荒谷沿いのルートに入って行ける。木立が高いせいで日光が入らず藪はない。よく整備されている。
谷道または尾根道は樹脂製の階段があり鉄塔巡視路がそのまま登山道(登拝道)として利用されている。階段も段差が少ないので高齢で大腿筋の衰えた自分には助かる。大汗をかいたころに山清水が湧いている。魔法瓶の蓋がコップ代わりに置いてあり、ありがたく一杯飲ませてもらう。流れている水はきれいそうでも獣の糞などに汚染されている可能性があるがここは湧いているので安心して飲める。
 尚も続く急登に耐えながら約1時間で北西からの尾根に合流。涼しい風に安らぐ。ここまでが一区切りだが、地形図には表現されない岩尾根の急登が続く。山頂直下で萱谷からの尾根道に合流すると一段と尾根が立ってきてフィックスロープが張ってある。こりゃあ、下りに難儀しそうだ。喘ぐように登りきると最初の社屋が建っていた。ここで休もう、とザックを置いて尚も奥へ行き、山頂の奥の院、三角点、社務所などを経めぐりながら戻って長い滞在時間を楽しんだ。
 展望も良く、梅雨空で白山は雲に閉ざされているが、部子山(へこやま)は見えた。東には冠山と思しき三角錐の山容が目を引く。左は能郷白山と磯倉、右は金草岳だろう。冠山の下をくぐってここに来たんだ。
近くの樹木に鶯が鳴いている。鳥語は口笛で参加したが飛んで行った。嫌われたか。この時期のうぐいすは老鶯という。すでに雌雄が合体して産卵するころである。そのウグイスの巣の卵を放り出してホトトギスやカッコウが産卵する。これを托卵という。そうと知らずに孵化しても育雛する。外国からの長旅で疲れたカッコウやホトトギスはウグイスなどに子育てを託すわけである。
 越前市につながるR417は”良いな”と読める。
 越前市から鯖江市、福井市を流れる日野川の氾濫が作った沖積平野が青々とした田園風景も美しい。日野川は越美山地(三国岳など)の豪雪地帯の水を集めて今庄に流れ、東西の里山級の山地の水が流れ込む。日本海に直接流れ込むのではなく九頭竜川に合流するために北に流れている。流域の山の位置が良く分かる。
 出発が遅れた。昼時も登って一服しておにぎり1個をお茶で流し込んだ。充分な山頂滞在を楽しんだ後はまた急降下するように下山した。フィックスロープは下りにこそ有用だった。滑落を警戒しながら慎重に下ったがビブラム底と岩の食いつきはしっかりしている。遠くにホトトギスの鳴き声を聞きながら無事に日野神社に下山できた。
 帰路はまたR417を選んだ。高速かR365で木之本経由でも距離は変わらない。それでも復路にしたのは交通量の圧倒的な少なさだ。R417,R303で濃尾平野の北端の揖斐川町に来るまでは信号ストップはなし。
 結局JR瑞穂駅で降ろしてもらった。瑞穂駅から金山駅、鶴舞駅はJRで行ける。地下鉄鶴舞線には22時台に乗車できた。疲労したが高速を使わなくても福井の山を堪能できたのである。

美濃・船来山緑陰の小径を歩く2024年06月19日

 朝7時、金山駅前で合流。とはいえ参加者は1名なので2名で出発。たまたま知り合いが信州の山へ行くので集合していた。総勢18名と大勢だった。知り合いも何人かいた。
 高速を乗り継いで、もう1名と瑞穂市役所付近で合流。1台に3名が乗って目指したのは船来山である。標高は116mの超低山ながら2等三角点を置く。道の駅のPに停めて出発。梅雨入りはまだ発表されていないがすでに天候不順は続いている。そんな合間の梅雨晴れの晴天で今日は暑い。
 ヤマップをオンして舗装路から山道に入ると湿り気のあるふわっとした感触が良い。それに里山とはいえ、人工植林ではなく、相当な樹齢の喬木が多い。東海地方の山々は開墾される前はすべてこんな照葉樹林で覆われていたはずだ。以前に登った鶴形山と同様に植生でも保存されたい山である。
 まず最初に見た人工物は次の歌碑だった。

 いかなれば船木の山のもみじ葉の
   秋は 過ぐれどこがれざるらん,

右大弁通俊(後拾遺和歌集)

 何でこんなものがあるのか不思議であった。検索してみたが経緯は良く分からない。違和感があるので、できれば撤去して欲しい。この無雑作なよく言えば多様性のある森の保存に努めるべきで、古代の遺構や遺跡の保存は必要であるが後世の人工的なものは無用である。
 船来山に登頂したが森の中故に展望はない。2等三角点が埋まっている。ということは明治初期の五万図のための測量時代は高い櫓を建てて測量していただろう。
 下り始めるとウォーキングの人に会った。近くに住む人らしい。こんな山が散歩圏にある人がうらやましい。立ち話するとこの辺は私有林とのことで一部舗装路があった。昔は平地は水田で柿のような果樹園は山の斜面にあったのだ。今でも実は成るが肥料をやらないから渋柿化しているだろう。人間も捨てられると甘くは無くなる。
 どんどん下って登り返すと群部山に着いた。ここで引き返すつもりが南端まで歩いてしまった。南端にこそ船木山古墳があった。竹林の中にあったからあやうく開発を逃れたんだろう。先に会った人の話ではD土木が買い占めてゴルフ場を企画したが倒産、別の会社が買いたたいたとか。生臭い話になった。
 歩道を下ってゆくと寺院に出た。山麓の車道を歩き始めると猛暑である。炎天下の道をとぼとぼ歩いた。すると目の前の高速道路の工事現場を通った。東海環状道であろう。郡府山の下をトンネルで抜ける。なんとも無粋な風景だ。
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