松平郷から二等三角点松平村、城跡 ― 2026年05月06日
松平往還通いが続いたが今日で締めくくる。松平郷のR301に面したPに止める。
松平郷のおいでんバス停を経て旧国道が取り残された形の道路へ左折。すぐに農道のような市道に左折。仮に根引沢としている舗装路を左折。
ここで散歩中の人に出会って山の話をせがんだ。
私:松平往還の道を調べているんです、この奥の田圃は廃田で棚田になっていたから今の綺麗な田園は圃場整理されたんですかね。
山人:そうですよ、と相槌を打ってくれた。まだ最近のことです。
私:先だって下高ノ山の大橋家から裏山の鞍部を越えてここを歩いたばかりです。今日は3/15に引き返した地点からR301に抜けて六所山を目指しています。どん詰まりはとても険しいですね。
山人:トヨタが下田代町と蕪木町にかけて山の頂上を造成してテストコースを作っている。トヨタ下山三号館という。そのアクセスのために根引峠の急坂を改良するために現在のR301よりも南側に高架で根引峠直下に掘るトンネルにつなぐ工事がもうすぐ始まる。テストコースは世界中の坂道を集めているとか、地元民を招待して現地を見学した。
豊田章男が愛知県知事に早く着手する旨はっぱをかけた。
私:ほう、それが出来るとこの美しい田園風景が壊されてしまいそうだ。
と話を続けたいが時間もあるので打ち切って先を急いだ。先日車で来てチエックしてあるからスムーズに突破できた。この辺はグーグルマップを見ると「ソンデ、ソデ」という。柳田国男『地名の研究』に出て来る。ネットで見ると「ソデ・ソンデも同様に山の向こう側=二等地を意味する」とか。この辺は南向きの山里は沢連(そうれ)、林添(はやしぞれ)は焼き畑に由来する。ソンデは耕作に不向きだったのか。
この引き返したところから獣除けフェンスとガードレールの間をR301に出た。R301の端を歩いてこの前はパスした稲荷大神(廃止)の前を通過、山の家に下った。ここも表札がなく廃墟か。庭の前を通って松平往還に合流。再びR301に出て検証は終わった。
ここからは六所山に向かう。森下という古い山里を歩く。道祖神もある。どん詰まりへ行くと道が途絶えるとかいうので地形図を見ると左折する。最奥の家を通過して右に振ったがこの林道も途中までだった。家まで戻って左折すると車道が奥まで通じているが通せんぼしてある。左から隙間を通過して行くとゴミが散乱。その奥は枯れた竹林で道が埋まっている。否な感じだが、竹は短いので右端を跨いでいくうちに右手から下って来た尾根に明瞭な踏み跡があった。破線路はあるが前途は大きな岩で阻まれているので自然に尾根に振った。急斜面の踏み跡を辿るうちに乗り越して先ほどの沢の上部に出た。上から見ると右岸に道が見えるから竹の散乱地だけが障害だろう。
尾根の踏み跡はそのまま源流地点へと着いて水流と交わった。本来は右寄りだが、又も山の田圃にフェンスが見えたので一番低そうな山側へ登ってみた。倒木を渡して乗り越えて、再び松平への林道とのフェンスは強引に越えた。ここで降雨となり合羽を着る。
計画を見直し、381ポイントから二等三角点松平村に変更した。峠から右折、また小さな峠を越えて右折、松平村への林道に入る。二等三角点松平村は植林の中に埋まっていた。三角点以外に何もない。これが本来の山頂だ。と満足させた。
下山後は水子地蔵のある広大な墓苑に寄った。そのまま引き返す。381ポイントから松平城址へ行く農道を下る。さっきフェンスを越えたばかりだ。雨は止んだのでカッパを脱ぐ。この山田はまだ耕作されておらず廃田か。とぼとぼ下って行くと美しい棚田が見えて来た。背の高いフェンスで囲まれている。
松平城址へ寄り道して最初のPへ戻った。
松平郷のおいでんバス停を経て旧国道が取り残された形の道路へ左折。すぐに農道のような市道に左折。仮に根引沢としている舗装路を左折。
ここで散歩中の人に出会って山の話をせがんだ。
私:松平往還の道を調べているんです、この奥の田圃は廃田で棚田になっていたから今の綺麗な田園は圃場整理されたんですかね。
山人:そうですよ、と相槌を打ってくれた。まだ最近のことです。
私:先だって下高ノ山の大橋家から裏山の鞍部を越えてここを歩いたばかりです。今日は3/15に引き返した地点からR301に抜けて六所山を目指しています。どん詰まりはとても険しいですね。
山人:トヨタが下田代町と蕪木町にかけて山の頂上を造成してテストコースを作っている。トヨタ下山三号館という。そのアクセスのために根引峠の急坂を改良するために現在のR301よりも南側に高架で根引峠直下に掘るトンネルにつなぐ工事がもうすぐ始まる。テストコースは世界中の坂道を集めているとか、地元民を招待して現地を見学した。
豊田章男が愛知県知事に早く着手する旨はっぱをかけた。
私:ほう、それが出来るとこの美しい田園風景が壊されてしまいそうだ。
と話を続けたいが時間もあるので打ち切って先を急いだ。先日車で来てチエックしてあるからスムーズに突破できた。この辺はグーグルマップを見ると「ソンデ、ソデ」という。柳田国男『地名の研究』に出て来る。ネットで見ると「ソデ・ソンデも同様に山の向こう側=二等地を意味する」とか。この辺は南向きの山里は沢連(そうれ)、林添(はやしぞれ)は焼き畑に由来する。ソンデは耕作に不向きだったのか。
この引き返したところから獣除けフェンスとガードレールの間をR301に出た。R301の端を歩いてこの前はパスした稲荷大神(廃止)の前を通過、山の家に下った。ここも表札がなく廃墟か。庭の前を通って松平往還に合流。再びR301に出て検証は終わった。
ここからは六所山に向かう。森下という古い山里を歩く。道祖神もある。どん詰まりへ行くと道が途絶えるとかいうので地形図を見ると左折する。最奥の家を通過して右に振ったがこの林道も途中までだった。家まで戻って左折すると車道が奥まで通じているが通せんぼしてある。左から隙間を通過して行くとゴミが散乱。その奥は枯れた竹林で道が埋まっている。否な感じだが、竹は短いので右端を跨いでいくうちに右手から下って来た尾根に明瞭な踏み跡があった。破線路はあるが前途は大きな岩で阻まれているので自然に尾根に振った。急斜面の踏み跡を辿るうちに乗り越して先ほどの沢の上部に出た。上から見ると右岸に道が見えるから竹の散乱地だけが障害だろう。
尾根の踏み跡はそのまま源流地点へと着いて水流と交わった。本来は右寄りだが、又も山の田圃にフェンスが見えたので一番低そうな山側へ登ってみた。倒木を渡して乗り越えて、再び松平への林道とのフェンスは強引に越えた。ここで降雨となり合羽を着る。
計画を見直し、381ポイントから二等三角点松平村に変更した。峠から右折、また小さな峠を越えて右折、松平村への林道に入る。二等三角点松平村は植林の中に埋まっていた。三角点以外に何もない。これが本来の山頂だ。と満足させた。
下山後は水子地蔵のある広大な墓苑に寄った。そのまま引き返す。381ポイントから松平城址へ行く農道を下る。さっきフェンスを越えたばかりだ。雨は止んだのでカッパを脱ぐ。この山田はまだ耕作されておらず廃田か。とぼとぼ下って行くと美しい棚田が見えて来た。背の高いフェンスで囲まれている。
松平城址へ寄り道して最初のPへ戻った。
岡崎市図書館へ ― 2026年05月03日
松平往還、三河加茂一揆等の文献を求めて岡崎市図書館に来た。加茂一揆の研究書はあったがやや左翼的な視点が気になった。大学の学者だからだろうか。客観的な見方が知りたい。
この点、豊田市松平支所の図書館には松平中学や松平高校の生徒らが研究した結果をノートにまとめられていて良かった。自分らの先祖にも関係するから余計に真剣に取り組んだのだろう。
この点、豊田市松平支所の図書館には松平中学や松平高校の生徒らが研究した結果をノートにまとめられていて良かった。自分らの先祖にも関係するから余計に真剣に取り組んだのだろう。
豊田市中央図書館へ ― 2026年05月01日
1 鴨の騒立
2 松平町誌
3 豊田市史
4 三河加茂一揆の地をゆく
5 加茂郡村々百姓騒立諸事日記
6 渡辺守綱公顕彰会叢書第十二集
以上を閲覧できた。
2 松平町誌
3 豊田市史
4 三河加茂一揆の地をゆく
5 加茂郡村々百姓騒立諸事日記
6 渡辺守綱公顕彰会叢書第十二集
以上を閲覧できた。
岡崎城から大樹寺総門を経て松平往還を歩く(順路) ― 2026年04月29日
3/15は松平郷から大樹寺へ歩いた。廃道あり、消失あり、障害物ありの中々に手強い山岳古道であった。今回はその反省を元に順路を歩いて見た。
名古屋の自宅の最寄り駅は6時3分の始発に乗車、豊田市駅は定刻通りに着く。下車してペデストリアンデッキを急ぐと新豊田駅には6時37分発の電車に余裕で乗れる。中岡崎駅7時3分に到着。名古屋からは丁度1時間の車窓の旅だった。東側に席をとり、車窓から愛知高原の山々に見入る。天気は高曇りでぱっとしないが焙烙山と六所山の兄弟が並んでいる。
岡崎城信濃門跡から甲山に道草
岡崎城へはR248を通過して伊賀川を渡るとすぐに着く。乙川の流れに沿って県道39号線を左折。喫茶店に飛び込んでモーニングコーヒーとトーストを食べて出発。目指すは信濃門跡だがママさんは知らないそうだ。小ぶりの記念碑はすぐに見つかった。ここをヤマップの出発地にした。
前回はピークを一つも踏まなかったので今回は岡崎市内にポツンと隆起する甲山64.7mの2等三角点に道草した。但しヤマップは山と認めていないようだ。一座は一座なんだが。
大樹寺総門へ
下山後はまた39号線に戻る。目指したのは大樹寺総門である。AIは「総門(そうもん)は、寺院や邸宅の敷地外郭に位置する「第一の正門」や「表門」を指し、格式の高さを示す場所」と回答。前回は山門はチエックしたのになぜ総門があるのか、気になった。
別の回答は「総門と山門の主な違いは、寺院内での位置と役割(格式)です。総門(そうもん): 寺院の境内の一番外側にある正門。俗世と寺域の境界を示す入り口。山門(さんもん): 総門の先、仏殿の手前にある、寺を代表する格式高い門。修行の場へ入る心の準備を示す。一般的に、総門から入って山門へと進む構成になっており、山門の方が格式が上であることが多いです。」大樹寺小学校のグランドと校舎を隔てて山門が見えている。
ビスタラインを確認
南へは岡崎城の天守閣が見えるように障害物がない。ビスタラインという。「徳川三代将軍家光が、寛永18年(1641)、家康の十七回忌を機に、徳川家の祖先である松平家の菩提寺である大樹寺の伽藍の大造営を行う際に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、本堂から三門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城が望めるように伽藍を配置したことに由来」。「歴代の岡崎城主は、天守閣から毎日ここに向かって拝礼した」そうだ。
ちょっと詳しくなった。矢作川流域は下流が沃野なので18松平家が遍在している。幸田町の深溝松平家は今も研究されている。松平家の歴史は岡崎市を中心に西三河の文化の底荷になっているのだ。
松平往還の順路を往く
さて、総門を拝見後は前回のルートを反対に歩く。磯谷栄一『消えゆく松平往還を歩く』の案内を具にチエックしたが取りこぼしがあった。大沼街道(県道335号線)は立派な県道で交通量が多い。脇道に留意をしたがうっかり通り過ぎた箇所もある。東名高速の下は北に反れる旧道を歩けた。石仏が二ヶ所あった。滝団地の北の旧道は今回も見逃した。交差点を過ぎてすぐ左下に灯籠があったのでチエックすると石仏もあって旧道を確認。南北の新道で道路の落差2mほどが埋まっているのである。青木川の橋を渡るとすぐ朱塗りの瀧山寺三門が建つ。瀧山東照宮を経てすぐ「N'ma cafe」というお洒落な喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ。すぐ先に三界の滝があった。県道は477号線になって米河内町に着いた。
前回は忠魂碑があるところを旧道としていた。案内書でチエックすると実は松平往還は八幡宮を経由する。一歩手前で左折するようだ。今回は何となくヤゲ川沿いに歩けたがもっと北西から大きく迂回する旧道がある。後日クルマで再度行ってみたい。
山里を離れるとヤゲ川左林道、右は松平往還になり直進。ヤゲ川は小さな沢で余り清流でもない。セメント舗装だが荒れている。標高180mの小さな峠を越える。左に射撃場のゲート、右は幸果園の果樹園が広がり新東名が見える。幸果園の入り口手前にも石仏がある。すぐ新東名をくぐる。二岐は左折、松平往還の案内板がある。鉄塔が建っているところから地道と舗装路の二岐は右の地道を下ると舗装路と出合う。安戸町への車道は左折、すぐ二岐は右へ、民家の手前に句碑があるので右の地道を辿ると小さな峠を越えて本光寺の右の小径を下る。すると県道339号線(真福寺道)に出合う。ここが駒立町だ。大堰堤が見えるので直進して見ると金属の獣害除けのフェンスが見えて断念。案内書では✖になっている。
渡通津町への山越え
やむなく車道を経てマルタ園への道標がある道に入る。山側の田圃では代掻きが終わって苗を植えたばかりだった。6月ころには青田になっているだろう。マルタ園も果樹園である。観光バス用のPもあって団体客を集めている。延々硬い舗装路を歩いてきたが地形図で241ポイント辺りから右に松平往還が現れる。ここからはしばらくは土の道の上を歩ける。一旦は途切れて林道に出るが右に別れていく。車道は左に並行している。中間に細道があるので入る。すると右から来る道に出合う。松平往還は林道で削られたようだ。
しばらくは快適に歩ける。石の道標がある。下に車道が見える。そのまま山路を進んで下ると左へ曲がって車道に下る。渡津通町の山里が俯瞰できる。そのまま下って行くと十字路に着く。ここにも松平往還の説明板がある。また覚書みたいな帳面がビニールに包まれてあった。車道を北上すると廃屋、廃車が見えて寂れていく雰囲気がある。まもなくお堂があり、右の山路に誘導する道標がある。指示通り山路を登ってゆく。やや急だがすぐに平坦になる。やがて渡通津町と日影町の境の峠に着く。ここにも案内板がある。右へ行く踏み跡は鉄塔巡視路だ。301mの三角点日影に行ける。
日影町へは法面が狭い山路を慎重に行く。この先はカーブしながら下る。良い感じの自然の中にある。そして問題の県道への下り方が険しい所に来た。注意していると右に鉄塔巡視路の道標が二手に分かれている。これがポイントになる。念のために約数mも下ってみたが県道の拡幅工事で削られた斜面に出る。ここは雨で浸食されないために左下にセメントの溝が掘ってある。一段右下にもセメントの溝が見える。そこへ薄い踏み跡も続いて強引に下れないこともなさそうだ。しかし、さきほどの巡視路の道標迄戻って踏み跡を辿る。前はここを登ったから分かっている。谷まで下ると左折。右は谷間の廃田である。左は竹藪が枯れて鬱陶しい。ピンテープも二つあった。車道が近くなると先ほどのセメントの溝を跨ぐ。溝は落ち葉が詰まっている。そして県道へ下れる。日影町の山里を右に広い県道を歩くと最初の細い橋が見えたら渡る。旧道は山寄りに残っている。
豊田市瀧脇町へ
郡界川を渡ると豊田市瀧脇町になる。急な坂道を登り、専光寺の左側の道を行く。左へ反れていくと瀧脇陣屋跡の案内板がある。そのまま車道を直進すると行き止まりだが。民家との間に2m幅の山路が見えるので車道から離れる。これは地形図にも実線で表現されている。前回は降り口が分からず見逃した。県道338号線に合流。上に瀧脇小学校があるせいか、車道と歩道が分離されている。もちろん歩道を登り小学校のある峠を越える。ここに寅の径の道標がある。
石御堂へ
緩やかな坂を下って行くと石御堂のモニュメントが建っている。ググって見ると「加茂一揆(かもいっき)は,1836年(天保7)9月,九久平村(くぎゅうだいら:現豊田市)周辺の農民たちの動きを発端として,全松平地域と下山村南西部,足助町全域を巻き込み,さらに挙母(ころも)城下に押し出し,農民1万人以上が加わった三河地方最大の農民闘争であり,江戸幕府の天保の改革(1841年)の原因にもなった一揆である。
一揆の直接の原因は,「天保の大飢饉(だいききん)」による農民生活の極度の困窮であった。人望があった松平辰蔵(まつだいら たつぞう)は,この一揆の頭取としてかつがれた。辰蔵は強訴(ごうそ)により要求を通そうとして,酒屋・役人との交渉に臨んだ。しかし,足助(あすけ)の農民が加入したころから統制が乱れ,辰蔵の家が打ちこわしに遇う。
頭取を失った一揆は,打ちこわし本位の世直し一揆へ変化する。5日間にわたる一揆は247町村,13,000人の参加者をみたが,岡崎藩・吉田藩の加勢で鎮圧された。」(豊田市教育委員会 )
4/18の大給城址から岩谷山へ登った後、松平辰蔵の墓にも参拝してきました。質素な墓でした。世直しといえば31年後の1867年に「東海地方(三河・遠江・尾張)に発した「ええじゃないか」の乱舞が各地に広がる」とある。
七売(なのうり)の小村も今回は旧道へ回った。そして神明神社への階段を登って「寅の径」の道標を見て山路を歩いた。竹藪が枯れて乱れていたが尾根に登るとなんとか歩ける。尾根伝いに歩いて行くと目印で左折、踏み跡ははっきりしないが林道に降り立つ。大橋家一軒だけの下高ノ山の地名がある山里へ出た。右へ、そして左へ山際の踏み跡を辿ると湿地帯か廃田か。車道に出ると廃屋が一軒ある。クルマも置かれたままだが。右折すると大橋家に突き当たる。
松平郷への山路(寅の径)を問う
道標など無いので大橋家の玄関のボタンを押して路を聞いた。父子が応対して下さった。3/15にも七売への路を尋ねた。寅の径は息子さんが小学校へ通う道だったよ、と言うので驚いた。その息子さんが向かって右のヤブの中の踏み跡へ案内してくれた。きっかけを知れば後は大丈夫だ。謝礼を述べて別れた。枯れた竹の倒木が絡んで膝をついてくぐって踏み跡を辿る。昔は家があったのだろうか、お茶碗など家財が散乱した所があった。すぐ鞍部だった。下ると舗装路に降りた。後は水田の苗を植える仕事で忙しい農家の人を見ながら歩く。すべて鉄のフェンスが囲っている。本来の松平往還は三差路で右折、奥の水田記号の所からR301の旧道に上がって松平郷に行けたが鉄のフェンスで遮断されて、案内書でも✖になっている。前回はここで1時間のロスタイムがあった。
今回は農道からR301に出て松平郷へ歩いた。一休み後、高月院へと重い足を引きづった。家康お手植えと言う枝垂れ桜が今は新緑の噴水みたいにになっている。親氏の墓前にもお参りして下山。時に16時、松平郷のバス停へ歩いた。
16時50分発のおいでんバスを待った。
春更けておいでんバスを待つ独り 拙作
名古屋の自宅の最寄り駅は6時3分の始発に乗車、豊田市駅は定刻通りに着く。下車してペデストリアンデッキを急ぐと新豊田駅には6時37分発の電車に余裕で乗れる。中岡崎駅7時3分に到着。名古屋からは丁度1時間の車窓の旅だった。東側に席をとり、車窓から愛知高原の山々に見入る。天気は高曇りでぱっとしないが焙烙山と六所山の兄弟が並んでいる。
岡崎城信濃門跡から甲山に道草
岡崎城へはR248を通過して伊賀川を渡るとすぐに着く。乙川の流れに沿って県道39号線を左折。喫茶店に飛び込んでモーニングコーヒーとトーストを食べて出発。目指すは信濃門跡だがママさんは知らないそうだ。小ぶりの記念碑はすぐに見つかった。ここをヤマップの出発地にした。
前回はピークを一つも踏まなかったので今回は岡崎市内にポツンと隆起する甲山64.7mの2等三角点に道草した。但しヤマップは山と認めていないようだ。一座は一座なんだが。
大樹寺総門へ
下山後はまた39号線に戻る。目指したのは大樹寺総門である。AIは「総門(そうもん)は、寺院や邸宅の敷地外郭に位置する「第一の正門」や「表門」を指し、格式の高さを示す場所」と回答。前回は山門はチエックしたのになぜ総門があるのか、気になった。
別の回答は「総門と山門の主な違いは、寺院内での位置と役割(格式)です。総門(そうもん): 寺院の境内の一番外側にある正門。俗世と寺域の境界を示す入り口。山門(さんもん): 総門の先、仏殿の手前にある、寺を代表する格式高い門。修行の場へ入る心の準備を示す。一般的に、総門から入って山門へと進む構成になっており、山門の方が格式が上であることが多いです。」大樹寺小学校のグランドと校舎を隔てて山門が見えている。
ビスタラインを確認
南へは岡崎城の天守閣が見えるように障害物がない。ビスタラインという。「徳川三代将軍家光が、寛永18年(1641)、家康の十七回忌を機に、徳川家の祖先である松平家の菩提寺である大樹寺の伽藍の大造営を行う際に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、本堂から三門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城が望めるように伽藍を配置したことに由来」。「歴代の岡崎城主は、天守閣から毎日ここに向かって拝礼した」そうだ。
ちょっと詳しくなった。矢作川流域は下流が沃野なので18松平家が遍在している。幸田町の深溝松平家は今も研究されている。松平家の歴史は岡崎市を中心に西三河の文化の底荷になっているのだ。
松平往還の順路を往く
さて、総門を拝見後は前回のルートを反対に歩く。磯谷栄一『消えゆく松平往還を歩く』の案内を具にチエックしたが取りこぼしがあった。大沼街道(県道335号線)は立派な県道で交通量が多い。脇道に留意をしたがうっかり通り過ぎた箇所もある。東名高速の下は北に反れる旧道を歩けた。石仏が二ヶ所あった。滝団地の北の旧道は今回も見逃した。交差点を過ぎてすぐ左下に灯籠があったのでチエックすると石仏もあって旧道を確認。南北の新道で道路の落差2mほどが埋まっているのである。青木川の橋を渡るとすぐ朱塗りの瀧山寺三門が建つ。瀧山東照宮を経てすぐ「N'ma cafe」というお洒落な喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ。すぐ先に三界の滝があった。県道は477号線になって米河内町に着いた。
前回は忠魂碑があるところを旧道としていた。案内書でチエックすると実は松平往還は八幡宮を経由する。一歩手前で左折するようだ。今回は何となくヤゲ川沿いに歩けたがもっと北西から大きく迂回する旧道がある。後日クルマで再度行ってみたい。
山里を離れるとヤゲ川左林道、右は松平往還になり直進。ヤゲ川は小さな沢で余り清流でもない。セメント舗装だが荒れている。標高180mの小さな峠を越える。左に射撃場のゲート、右は幸果園の果樹園が広がり新東名が見える。幸果園の入り口手前にも石仏がある。すぐ新東名をくぐる。二岐は左折、松平往還の案内板がある。鉄塔が建っているところから地道と舗装路の二岐は右の地道を下ると舗装路と出合う。安戸町への車道は左折、すぐ二岐は右へ、民家の手前に句碑があるので右の地道を辿ると小さな峠を越えて本光寺の右の小径を下る。すると県道339号線(真福寺道)に出合う。ここが駒立町だ。大堰堤が見えるので直進して見ると金属の獣害除けのフェンスが見えて断念。案内書では✖になっている。
渡通津町への山越え
やむなく車道を経てマルタ園への道標がある道に入る。山側の田圃では代掻きが終わって苗を植えたばかりだった。6月ころには青田になっているだろう。マルタ園も果樹園である。観光バス用のPもあって団体客を集めている。延々硬い舗装路を歩いてきたが地形図で241ポイント辺りから右に松平往還が現れる。ここからはしばらくは土の道の上を歩ける。一旦は途切れて林道に出るが右に別れていく。車道は左に並行している。中間に細道があるので入る。すると右から来る道に出合う。松平往還は林道で削られたようだ。
しばらくは快適に歩ける。石の道標がある。下に車道が見える。そのまま山路を進んで下ると左へ曲がって車道に下る。渡津通町の山里が俯瞰できる。そのまま下って行くと十字路に着く。ここにも松平往還の説明板がある。また覚書みたいな帳面がビニールに包まれてあった。車道を北上すると廃屋、廃車が見えて寂れていく雰囲気がある。まもなくお堂があり、右の山路に誘導する道標がある。指示通り山路を登ってゆく。やや急だがすぐに平坦になる。やがて渡通津町と日影町の境の峠に着く。ここにも案内板がある。右へ行く踏み跡は鉄塔巡視路だ。301mの三角点日影に行ける。
日影町へは法面が狭い山路を慎重に行く。この先はカーブしながら下る。良い感じの自然の中にある。そして問題の県道への下り方が険しい所に来た。注意していると右に鉄塔巡視路の道標が二手に分かれている。これがポイントになる。念のために約数mも下ってみたが県道の拡幅工事で削られた斜面に出る。ここは雨で浸食されないために左下にセメントの溝が掘ってある。一段右下にもセメントの溝が見える。そこへ薄い踏み跡も続いて強引に下れないこともなさそうだ。しかし、さきほどの巡視路の道標迄戻って踏み跡を辿る。前はここを登ったから分かっている。谷まで下ると左折。右は谷間の廃田である。左は竹藪が枯れて鬱陶しい。ピンテープも二つあった。車道が近くなると先ほどのセメントの溝を跨ぐ。溝は落ち葉が詰まっている。そして県道へ下れる。日影町の山里を右に広い県道を歩くと最初の細い橋が見えたら渡る。旧道は山寄りに残っている。
豊田市瀧脇町へ
郡界川を渡ると豊田市瀧脇町になる。急な坂道を登り、専光寺の左側の道を行く。左へ反れていくと瀧脇陣屋跡の案内板がある。そのまま車道を直進すると行き止まりだが。民家との間に2m幅の山路が見えるので車道から離れる。これは地形図にも実線で表現されている。前回は降り口が分からず見逃した。県道338号線に合流。上に瀧脇小学校があるせいか、車道と歩道が分離されている。もちろん歩道を登り小学校のある峠を越える。ここに寅の径の道標がある。
石御堂へ
緩やかな坂を下って行くと石御堂のモニュメントが建っている。ググって見ると「加茂一揆(かもいっき)は,1836年(天保7)9月,九久平村(くぎゅうだいら:現豊田市)周辺の農民たちの動きを発端として,全松平地域と下山村南西部,足助町全域を巻き込み,さらに挙母(ころも)城下に押し出し,農民1万人以上が加わった三河地方最大の農民闘争であり,江戸幕府の天保の改革(1841年)の原因にもなった一揆である。
一揆の直接の原因は,「天保の大飢饉(だいききん)」による農民生活の極度の困窮であった。人望があった松平辰蔵(まつだいら たつぞう)は,この一揆の頭取としてかつがれた。辰蔵は強訴(ごうそ)により要求を通そうとして,酒屋・役人との交渉に臨んだ。しかし,足助(あすけ)の農民が加入したころから統制が乱れ,辰蔵の家が打ちこわしに遇う。
頭取を失った一揆は,打ちこわし本位の世直し一揆へ変化する。5日間にわたる一揆は247町村,13,000人の参加者をみたが,岡崎藩・吉田藩の加勢で鎮圧された。」(豊田市教育委員会 )
4/18の大給城址から岩谷山へ登った後、松平辰蔵の墓にも参拝してきました。質素な墓でした。世直しといえば31年後の1867年に「東海地方(三河・遠江・尾張)に発した「ええじゃないか」の乱舞が各地に広がる」とある。
七売(なのうり)の小村も今回は旧道へ回った。そして神明神社への階段を登って「寅の径」の道標を見て山路を歩いた。竹藪が枯れて乱れていたが尾根に登るとなんとか歩ける。尾根伝いに歩いて行くと目印で左折、踏み跡ははっきりしないが林道に降り立つ。大橋家一軒だけの下高ノ山の地名がある山里へ出た。右へ、そして左へ山際の踏み跡を辿ると湿地帯か廃田か。車道に出ると廃屋が一軒ある。クルマも置かれたままだが。右折すると大橋家に突き当たる。
松平郷への山路(寅の径)を問う
道標など無いので大橋家の玄関のボタンを押して路を聞いた。父子が応対して下さった。3/15にも七売への路を尋ねた。寅の径は息子さんが小学校へ通う道だったよ、と言うので驚いた。その息子さんが向かって右のヤブの中の踏み跡へ案内してくれた。きっかけを知れば後は大丈夫だ。謝礼を述べて別れた。枯れた竹の倒木が絡んで膝をついてくぐって踏み跡を辿る。昔は家があったのだろうか、お茶碗など家財が散乱した所があった。すぐ鞍部だった。下ると舗装路に降りた。後は水田の苗を植える仕事で忙しい農家の人を見ながら歩く。すべて鉄のフェンスが囲っている。本来の松平往還は三差路で右折、奥の水田記号の所からR301の旧道に上がって松平郷に行けたが鉄のフェンスで遮断されて、案内書でも✖になっている。前回はここで1時間のロスタイムがあった。
今回は農道からR301に出て松平郷へ歩いた。一休み後、高月院へと重い足を引きづった。家康お手植えと言う枝垂れ桜が今は新緑の噴水みたいにになっている。親氏の墓前にもお参りして下山。時に16時、松平郷のバス停へ歩いた。
16時50分発のおいでんバスを待った。
春更けておいでんバスを待つ独り 拙作
三河国の東西の比較 ― 2026年04月20日
西三河 対 東三河
流域: 矢作川 豊川
乙川 大千勢川
巴川 (天竜川水系)
宗教: 浄土真宗 曹洞宗
道教(家康)
精神風土: 儒教
歴史的事件: 三河一向一揆 設楽原の戦い
加茂一揆 ええじゃないか
英雄: 徳川家康 無し
偉人: 岩瀬忠震
東照宮: 松平東照宮 鳳来山東照宮
滝山東照宮
名古屋東照宮
岡崎東照宮
法蔵寺山内 東照宮
三州大濱東照宮
流域: 矢作川 豊川
乙川 大千勢川
巴川 (天竜川水系)
宗教: 浄土真宗 曹洞宗
道教(家康)
精神風土: 儒教
歴史的事件: 三河一向一揆 設楽原の戦い
加茂一揆 ええじゃないか
英雄: 徳川家康 無し
偉人: 岩瀬忠震
東照宮: 松平東照宮 鳳来山東照宮
滝山東照宮
名古屋東照宮
岡崎東照宮
法蔵寺山内 東照宮
三州大濱東照宮
大給城址から岩谷山を歩く ― 2026年04月19日
4月になった。天白川堤防沿いの桜が満開から葉桜、そして散ったというのに中々出掛ける機会がなかった。やっと豊田市郊外の里山を歩けた。
春更けて山奥深く浸りけり
ウグイスのしきりに鳴くや城の跡
廃田を無心に耕す老農夫
と詩心のおもむくままに作った。
まず小さな峠から大給城址に登城した。松平家の初期の武家。ここから岡崎平野へと領地を広げていったのだ。城趾の一角からは豊田市街を見下ろせる。道は整備されて険しくなくぶらっと散策に良い。
地図を見て岩谷山へミニ縦走した。山道は俄然悪くなりコース外れで行きつ戻りつを繰り返した。岩谷山の山名通り山頂付近は大岩が屹立する険路になった。御嶽教の様な山岳宗教の雰囲気がある。修行僧がいたのだろうか。危うく無理して下りかかったがおかしいと気がついて引き返すと普通の山道に戻れた。岩谷山は専用の登山口から登らないとけっこう骨が折れる。
一旦林道に出て山里につながる車道を戻った。その後九久平の県道39号線に出てお菓子屋で柏餅を購入。
主目的の松平辰蔵の墓に詣でた。お菓子屋の北のセメントの階段を登って行くと植林内に着く。右行くとヤブ気味で建物がある。何となく左に行けば良さそうだが階段まで戻った。直進すると薄い踏み跡があり奥に墓石が見えて来た。無秩序な感じで墓が建っている。松平辰蔵の墓は上の方にあった。
1836年の加茂一揆の頭取だった男だ。1万人以上の農民が動員された。松平一体の農民が米価高騰に怒って立ち上がった。挙母藩、岡崎藩に抑え込まれた。1840年のアヘン戦争敗北から植民地化を恐れた幕府は開国に踏み切った。幕末は騒然とするが世直しのきっかけになった一揆だった。取り調べに対して上が腐れば下は猶も腐ると言った。松平の名をいただいた男の気概だろう。
松平往還を歩いた際に豊田市滝脇町の小学校付近にあった岩御堂が一揆のモニュメントである。
下山後は豊田市中央図書館に寄って加茂一揆の史料に当たって見た。辰蔵の家は焼かれた。早くに死んだ。取り調べの記録もある。藩は治安のために処分せざるを得なかった。原因はインフレだった。戦が無いと人口は増える。モノが足りない。
幕府、藩は給与を米で払った。米価は高い方が良い。今も消費税増減税でもめる。公務員の給与は税金だから増税を維持したい。
こうして昔も今も税金を巡る争いの種は尽きない。
春更けて山奥深く浸りけり
ウグイスのしきりに鳴くや城の跡
廃田を無心に耕す老農夫
と詩心のおもむくままに作った。
まず小さな峠から大給城址に登城した。松平家の初期の武家。ここから岡崎平野へと領地を広げていったのだ。城趾の一角からは豊田市街を見下ろせる。道は整備されて険しくなくぶらっと散策に良い。
地図を見て岩谷山へミニ縦走した。山道は俄然悪くなりコース外れで行きつ戻りつを繰り返した。岩谷山の山名通り山頂付近は大岩が屹立する険路になった。御嶽教の様な山岳宗教の雰囲気がある。修行僧がいたのだろうか。危うく無理して下りかかったがおかしいと気がついて引き返すと普通の山道に戻れた。岩谷山は専用の登山口から登らないとけっこう骨が折れる。
一旦林道に出て山里につながる車道を戻った。その後九久平の県道39号線に出てお菓子屋で柏餅を購入。
主目的の松平辰蔵の墓に詣でた。お菓子屋の北のセメントの階段を登って行くと植林内に着く。右行くとヤブ気味で建物がある。何となく左に行けば良さそうだが階段まで戻った。直進すると薄い踏み跡があり奥に墓石が見えて来た。無秩序な感じで墓が建っている。松平辰蔵の墓は上の方にあった。
1836年の加茂一揆の頭取だった男だ。1万人以上の農民が動員された。松平一体の農民が米価高騰に怒って立ち上がった。挙母藩、岡崎藩に抑え込まれた。1840年のアヘン戦争敗北から植民地化を恐れた幕府は開国に踏み切った。幕末は騒然とするが世直しのきっかけになった一揆だった。取り調べに対して上が腐れば下は猶も腐ると言った。松平の名をいただいた男の気概だろう。
松平往還を歩いた際に豊田市滝脇町の小学校付近にあった岩御堂が一揆のモニュメントである。
下山後は豊田市中央図書館に寄って加茂一揆の史料に当たって見た。辰蔵の家は焼かれた。早くに死んだ。取り調べの記録もある。藩は治安のために処分せざるを得なかった。原因はインフレだった。戦が無いと人口は増える。モノが足りない。
幕府、藩は給与を米で払った。米価は高い方が良い。今も消費税増減税でもめる。公務員の給与は税金だから増税を維持したい。
こうして昔も今も税金を巡る争いの種は尽きない。
東濃の鶴岡山(すわがね)を歩く ― 2026年03月08日
午前中の所用を済ませて名鉄電車で犬山駅に向かった。布袋駅辺りから東の車窓に雪嶺の御嶽山と中央アルプスが見えて良かった。約束の時間通り12時に合流できた。
行先は東濃の明智駅の北西に座す「近年は人が近寄らず荒れ果ててしまっていましたが、地元の吉田地域活性化委員会が中心となり、2015年頃から整備を開始。この程、登山道や山頂などの整備が完了しました。」という鶴岡山(すわがね)と言う山へ向かう。
先週の定例会で候補に上がった山でてっきり愛知県豊田市と岐阜県土岐市の県境にまたがる鶴岡山(愛知県からは西山、岐阜県では曽良山)かと思ったら違う。
長年の沈黙から突然鶴岡山を名乗り出たニューフェイスと言うわけです。地形図で見ると確かに三角点もあって732mと里山にしては高い方だろう。ヤマップの記録では往復2時間とはかからない手軽さに午後から山歩きになった。
三河湾の吉良が見えるので吉良見という地名がある。道は少し先の小泉からと大泉からの2本。どちらも登りが1時間以内。
小泉登山口に行く手前に山頂への道標があり舗装された林道へ左折。新しい林道を走って行くと新しい黄色い旗のある登山口に着いた。往復はいくらもないので空身で散策。広い未舗装の林道を歩くと直ぐに展望台が見えて2等三角点の埋まる山頂に立った。三角点は改埋されて右書きでした。
但し東への展望が素晴らしい。愛知県と長野県にまたがる茶臼山と萩太郎山が見える。良く晴れれば三河湾の吉良の方も見えるのだろう。
案内板によれば織田信長が築いた砦趾という。2013年に兵庫県の竹田城祉が紹介されて以来の山城ブームの今、街おこしで十年前から整備。6年前の「2020年11月28日には、明智町の新たな観光名所としてPRするための開山式が行われ、明智太鼓保存会による出陣太鼓や戦国狼煙(のろし)が、すわがねの門出に花を添えました。」と。
個人的には地形図に名前のある山はほとんど登った。三角点だけの無名の山も等高線が円錐形になった形が良い所を選んで登ってきた。この山は地形的に締まりが無いため食わず嫌いで見落としていた。4等三角点と思っていたが2等だったこともサプライズであった。
埋もれた良い山がまだまだある。登山家にして生物学者の今西錦司は登山という道楽を畳のようなものと言った。叩いても叩いても埃の様に出て来ると解したが友人は登った山はみんな良い山と解した。死ぬまで止められない。
行先は東濃の明智駅の北西に座す「近年は人が近寄らず荒れ果ててしまっていましたが、地元の吉田地域活性化委員会が中心となり、2015年頃から整備を開始。この程、登山道や山頂などの整備が完了しました。」という鶴岡山(すわがね)と言う山へ向かう。
先週の定例会で候補に上がった山でてっきり愛知県豊田市と岐阜県土岐市の県境にまたがる鶴岡山(愛知県からは西山、岐阜県では曽良山)かと思ったら違う。
長年の沈黙から突然鶴岡山を名乗り出たニューフェイスと言うわけです。地形図で見ると確かに三角点もあって732mと里山にしては高い方だろう。ヤマップの記録では往復2時間とはかからない手軽さに午後から山歩きになった。
三河湾の吉良が見えるので吉良見という地名がある。道は少し先の小泉からと大泉からの2本。どちらも登りが1時間以内。
小泉登山口に行く手前に山頂への道標があり舗装された林道へ左折。新しい林道を走って行くと新しい黄色い旗のある登山口に着いた。往復はいくらもないので空身で散策。広い未舗装の林道を歩くと直ぐに展望台が見えて2等三角点の埋まる山頂に立った。三角点は改埋されて右書きでした。
但し東への展望が素晴らしい。愛知県と長野県にまたがる茶臼山と萩太郎山が見える。良く晴れれば三河湾の吉良の方も見えるのだろう。
案内板によれば織田信長が築いた砦趾という。2013年に兵庫県の竹田城祉が紹介されて以来の山城ブームの今、街おこしで十年前から整備。6年前の「2020年11月28日には、明智町の新たな観光名所としてPRするための開山式が行われ、明智太鼓保存会による出陣太鼓や戦国狼煙(のろし)が、すわがねの門出に花を添えました。」と。
個人的には地形図に名前のある山はほとんど登った。三角点だけの無名の山も等高線が円錐形になった形が良い所を選んで登ってきた。この山は地形的に締まりが無いため食わず嫌いで見落としていた。4等三角点と思っていたが2等だったこともサプライズであった。
埋もれた良い山がまだまだある。登山家にして生物学者の今西錦司は登山という道楽を畳のようなものと言った。叩いても叩いても埃の様に出て来ると解したが友人は登った山はみんな良い山と解した。死ぬまで止められない。
早春の古城山を歩く ― 2026年02月22日
2月になってやっと山に来れた。ゴホンゴホンと咳き込んで絶不調が続いて一ヶ月ぶりのハイキングは美濃には3ヶ所ある古城山のうちの長良川左岸に聳える437mの山。
今回は犬山遊園駅で合流。こっちは上小田井駅まで地下鉄鶴舞線で往き犬山線に乗換。約1時間と車よりも早く交通費も安い。
登山口の運動場のPに止めて歩き出す。古城山への道標が無いのでヤマップを見て最初は運動場の端を歩き車道に降りた。そこに道標があった。先へ行くと毛鹿洞池があるが渇水期の今を利用して何やら工事中だった。俳句歳時記の冬の季語に池普請がある。
いよいよ登山道らしいところに道標があった。植林内を歩くと林道に合い左折、二俣は谷筋へ直進した。道標はマメにあるから安心だ。岩山のせいか水涸れるの季語通り小さな谷にも流れがない。谷から出て本格的な山道に入る。少し身体が温まってきたので衣服を調整した。
一ヶ月のブランクで鈍った身体の血液が循環して全身を巡る。温かい血液が足の筋肉の収縮でポンプになり全身に運ばれる。体温が上がると免疫力も上がる。気分も高揚してくる。山歩きの健康効果である。
最初の東屋に着いた。ここからはわずかに南方面にひらけている。風もなく穏やかだ。”のどかさや”・・・と一句詠みたいが後がでない。
ここから階段の道を連続的に登るようになった。登って下ってを繰り返すと2等三角点のある山上だった。城趾らしく広い。
永禄、天正年間にできた山城という案内板が建っている。
「古城山の古名は鉈尾山(なたおやま)。 この山の山頂に、戦国末期の佐藤氏三代の城(鉈尾山城)の城跡がございます。この城は永禄六年(1563)に佐藤六左衛門清信により築かれたといわれています。鉈尾山の由来は、四方を釣壁で構えられ、鉈一丁で壁を切り落とせば何千騎も防ぐことができたことに由来するといわれています。」
尾張藩が編纂した江戸時代末期の地誌『新撰美濃志』に当たると「上有知村」の項目に「鉈尾山」は直高十五町程、根廻り二里八町餘の山なり。と簡単に紹介。ちょっと後に「佐藤氏古城は鉈尾山にあり。佐藤將監、其の子六左衛門、其の子才二郎、三代すみしが、慶長五年の亂れに才二郎岐阜中納言秀信に随ひ、岐阜没落しければ此城を退きしのち廃して小倉山にうつせり。その後は「金森五郎が織田豊臣の両公に従ひ、数度戦功をあらわして飛騨国と共に領して鉈尾山の上に城をうつせり」とある。しかし金森氏の子孫は郡上一揆で失策。改易された。
ネットからのコピペですが
中世の主な元号(年号)
鎌倉時代:建久、建仁、承久、貞永、文永、弘安
室町時代:建武、延文、応安、明徳、応永、永享、嘉吉、応仁、文明
戦国時代:大永、天文、永禄、天正
※この期間は、武士の力が増大し、荘園制が崩壊して寄生地主制へと変化した、日本の大きな転換期です。
以上
人の世は虚し=1467年の応仁の乱以後、天皇家の権威をバックにした宮廷の政治から武家の政治へと大転換。日本中世史には宮廷が武家を冷遇したからだと解説。藤原氏も政治が巧みだったわけではなかった。つまり身分の低い武士でも武力で政権の座に付けるチャンスと見られた。乱世を究めた下剋上の戦国時代は1603年の徳川幕府成立まで100年以上も続いた。
春浅し佐藤氏三代夢の跡 拙作
南西に展望が広がる。美濃は長良川が作った沖積平野だ。その奥には金華山らしい山が見えた。すると手前の右は百々ヶ峰か。船伏山、兎走山も見えているはず。伊吹山は春霞で見えない。
充分な休憩後、下山開始。山で会った人は階段が多かったと言いながら元の道を戻った。確かに急で階段が多く疲れるが早い。運動場に着いて登って来た山を見上げた。
こんな里山にも「しかるに何事ぞ、天変甚速にして、かくのごとく盛大をいたせし」鉈尾山も「ついに槿花一朝の栄に過ぎざりしや。」の歴史に思いを致した。
今回は犬山遊園駅で合流。こっちは上小田井駅まで地下鉄鶴舞線で往き犬山線に乗換。約1時間と車よりも早く交通費も安い。
登山口の運動場のPに止めて歩き出す。古城山への道標が無いのでヤマップを見て最初は運動場の端を歩き車道に降りた。そこに道標があった。先へ行くと毛鹿洞池があるが渇水期の今を利用して何やら工事中だった。俳句歳時記の冬の季語に池普請がある。
いよいよ登山道らしいところに道標があった。植林内を歩くと林道に合い左折、二俣は谷筋へ直進した。道標はマメにあるから安心だ。岩山のせいか水涸れるの季語通り小さな谷にも流れがない。谷から出て本格的な山道に入る。少し身体が温まってきたので衣服を調整した。
一ヶ月のブランクで鈍った身体の血液が循環して全身を巡る。温かい血液が足の筋肉の収縮でポンプになり全身に運ばれる。体温が上がると免疫力も上がる。気分も高揚してくる。山歩きの健康効果である。
最初の東屋に着いた。ここからはわずかに南方面にひらけている。風もなく穏やかだ。”のどかさや”・・・と一句詠みたいが後がでない。
ここから階段の道を連続的に登るようになった。登って下ってを繰り返すと2等三角点のある山上だった。城趾らしく広い。
永禄、天正年間にできた山城という案内板が建っている。
「古城山の古名は鉈尾山(なたおやま)。 この山の山頂に、戦国末期の佐藤氏三代の城(鉈尾山城)の城跡がございます。この城は永禄六年(1563)に佐藤六左衛門清信により築かれたといわれています。鉈尾山の由来は、四方を釣壁で構えられ、鉈一丁で壁を切り落とせば何千騎も防ぐことができたことに由来するといわれています。」
尾張藩が編纂した江戸時代末期の地誌『新撰美濃志』に当たると「上有知村」の項目に「鉈尾山」は直高十五町程、根廻り二里八町餘の山なり。と簡単に紹介。ちょっと後に「佐藤氏古城は鉈尾山にあり。佐藤將監、其の子六左衛門、其の子才二郎、三代すみしが、慶長五年の亂れに才二郎岐阜中納言秀信に随ひ、岐阜没落しければ此城を退きしのち廃して小倉山にうつせり。その後は「金森五郎が織田豊臣の両公に従ひ、数度戦功をあらわして飛騨国と共に領して鉈尾山の上に城をうつせり」とある。しかし金森氏の子孫は郡上一揆で失策。改易された。
ネットからのコピペですが
中世の主な元号(年号)
鎌倉時代:建久、建仁、承久、貞永、文永、弘安
室町時代:建武、延文、応安、明徳、応永、永享、嘉吉、応仁、文明
戦国時代:大永、天文、永禄、天正
※この期間は、武士の力が増大し、荘園制が崩壊して寄生地主制へと変化した、日本の大きな転換期です。
以上
人の世は虚し=1467年の応仁の乱以後、天皇家の権威をバックにした宮廷の政治から武家の政治へと大転換。日本中世史には宮廷が武家を冷遇したからだと解説。藤原氏も政治が巧みだったわけではなかった。つまり身分の低い武士でも武力で政権の座に付けるチャンスと見られた。乱世を究めた下剋上の戦国時代は1603年の徳川幕府成立まで100年以上も続いた。
春浅し佐藤氏三代夢の跡 拙作
南西に展望が広がる。美濃は長良川が作った沖積平野だ。その奥には金華山らしい山が見えた。すると手前の右は百々ヶ峰か。船伏山、兎走山も見えているはず。伊吹山は春霞で見えない。
充分な休憩後、下山開始。山で会った人は階段が多かったと言いながら元の道を戻った。確かに急で階段が多く疲れるが早い。運動場に着いて登って来た山を見上げた。
こんな里山にも「しかるに何事ぞ、天変甚速にして、かくのごとく盛大をいたせし」鉈尾山も「ついに槿花一朝の栄に過ぎざりしや。」の歴史に思いを致した。
磯谷栄一著『消えゆく松平往還を歩く』を入手 ― 2026年01月18日
元旦には名古屋市から鶴舞線・豊田線豊田市駅経由おいでんバスで松平郷へ。そこから岡崎城までウォーキング。中岡崎駅から愛環で帰名の予定。ところが思わぬ風邪でダウン。
5日に親戚の親子を連れて村積山ハイキング。あいにく奥殿陣屋はまだ休業。メールで本の在庫の有無を確認してあったので18日に書院を訪ねて磯谷栄一氏の労作である『消えゆく松平往還を歩く』を入手。その後渡通津町から滝山寺をドライブで偵察しました。
当初は大給城址、岩津城址、信光明寺を絡めて歩く予定でしたが松平往還の方が山岳古道の趣きがある。
さて何時歩こうか。
5日に親戚の親子を連れて村積山ハイキング。あいにく奥殿陣屋はまだ休業。メールで本の在庫の有無を確認してあったので18日に書院を訪ねて磯谷栄一氏の労作である『消えゆく松平往還を歩く』を入手。その後渡通津町から滝山寺をドライブで偵察しました。
当初は大給城址、岩津城址、信光明寺を絡めて歩く予定でしたが松平往還の方が山岳古道の趣きがある。
さて何時歩こうか。
雪とグルメと温泉の釜ヶ谷山 ― 2026年01月11日
気象予報では雨が降るようで芳しくない。今回は久々に2名になったので冬の雨は嫌だな、と思いつつ出かけた。名古屋を5時には出る。すき家で朝定をかき込んで名二環に入り、名古屋高速一宮線で北上、R22に降りてR156へ、岩戸トンネルを抜けてすぐ左折、鵜飼い大橋で長良川を渡ると百々ヶ峰に突き当たる。R256に入って如来ヶ岳山麓を北上、県道79号を西へ行くと伊自良川と交差するので県道91号に右折。集合はてんこもり農産物直売所へ午前7時だがチエーンがあっては入れない。まだ薄暗いが相棒はコンビニで待っていていた。すぐ伊自良湖へ向かった。立ち寄りたいたい所があったが下山後だ。
下山後に江戸時代の地誌『新撰美濃志』を読んでみた。伊自良郷と呼ばれていたが伊自良村はなく、長瀧村の項目があった。伊自良は十郷あってそれぞれ字があった。・・・『釜嶽』は濃陽志略に「里民呼曰釜溪ト連互數里ニ絶頂有池四時不涸、此山雑樹葱岩石岣最爲奇也」と見えたり。『長瀧山、岸見山』伊自良の高山なり。伊自良川は此の山中より出づ。常は水なく、砂川にて洪雨の時水出づ。略。『甘南美寺』は臨済宗にて白華山と號す。開基は高阿彌、名知阿彌。本尊は千手十一面観音、脇立不動毘沙門なり。當國三十三所十三番に配す。引用は以上。
長瀧村の名残りは伊自良湖のすぐ下流の里の地名に見る。伊自良湖の湖面が見えると多数のボートが浮かんでいた。恋人同士が朝早くからデート?多分公魚釣りか、疑問のまま登山口の臨時Pに着いた。地形図で116m地点。あいにく小雨模様だ。オーバーヤッケで防寒と小雨対応の身支度を整えて出発。最初は舗装路を分け入ると杉の高木が生える森の中である。番号入りの観音の石仏が立っている。バンガローのような施設は今は冬のもの寂しい雰囲気である。しばらくは車道を歩くと二又に別れる。右は釜ヶ谷に沿う林道で赤谷の出合い迄続く。堰堤記号が三か所連続してあった。我々は釜ヶ谷本流に沿いながら直進。左へ上がって四阿などの施設で舗装路は終わった。ここからは未舗装の林道歩きだが次第に山路になった。途端に谷が立って来て傾斜が強まる。岩がごろごろした歩きにくい山路をこなしてゆくと優しい道になり、山頂からの南東尾根の端に立つ四阿に着いた。残念ながら展望はない。途中から小雨が降雪になった。一種の感動とともに不安も伴う。ここで雪に備えて雨具でザックをカバー。尾根の道からみぞれ谷の枝谷の源流を迂回すると奥の院に着いた。社殿は穴だらけだ。中をのぞくと座禅した板間があった。穴は多分風通しを良くして腐食を避けるためか、人が使わない建物は内にこもった湿気で腐る。雨の時は膨張して外からの湿気を防ぎ、乾燥した時は縮んで隙間風を入れてやる校倉造が理想ですが高額の建設費がかかる。
さて出発だ。左に丁度33番目の石仏が建っていた。美濃三十三観音霊場の十三番目の霊場だ。ここを後に登るとすぐに神社が建っていた。ここはおそらく明治維新で「仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する」という仏教の信仰や施設を否定する運動の影響か。説明を読むと明治3年とある。祖神は皇祖神のアマテラスだった。
地形図で等高線が密にになり、急登を強いられた。行者岩に到達、上に登ると、最近登った百々ヶ峰と金華山が見えた。ちょっと荒れ気味の登山道を登ると龍神コースへの分岐に着いた。降ったり止んだりしていたが標高640mまで来ると冷気が違う。一面真っ白になった。小さなコブを巻くと待望の山頂だった。千把小屋という避難小屋まである。扉がないので雪が吹き込んで床は白い。小屋の四隅の角は丁度腰掛に良いのがあって少し休めた。
休憩中にもどんどん降って来る。眺めもなく止みそうにないので往路の下山を決めた。連続的に降雪路を下る。桧の林に下っても断続的に雪がある。滑落しないようにゆっくり慎重に下った。東屋まで下るとやっと落ち葉の道になり安定的に歩ける。車道に着いてほっと一安心。そこから余裕で石仏の番号を見ながら下ってPに戻った。
帰りは甘南美寺に寄って参拝。池の鯉の大きさに見とれた。もう一ヶ所、「伊自良湖 FISHING & ADVENTURE PARK」に寄った。公魚(わかさぎ)の天ぷらはあるか、聞いたらフライはあるとの回答。13時だったがラーメンと公魚のフライ(二人で一つ)を注文。朝6時半から釣りボートを営業するから恋人のデートではなかった。疑問が解けた。待っている間にも車にどんどん積もって来た。雪とグルメの冬日和を楽しめた。
もう一つおまけに帰りがけに約30分の所にある武芸川温泉に寄って入湯した。900円と高くなったにもかかわらず、そして大雪というのに大勢のお客が詰めかけて来た。これには驚いた。
下山後に江戸時代の地誌『新撰美濃志』を読んでみた。伊自良郷と呼ばれていたが伊自良村はなく、長瀧村の項目があった。伊自良は十郷あってそれぞれ字があった。・・・『釜嶽』は濃陽志略に「里民呼曰釜溪ト連互數里ニ絶頂有池四時不涸、此山雑樹葱岩石岣最爲奇也」と見えたり。『長瀧山、岸見山』伊自良の高山なり。伊自良川は此の山中より出づ。常は水なく、砂川にて洪雨の時水出づ。略。『甘南美寺』は臨済宗にて白華山と號す。開基は高阿彌、名知阿彌。本尊は千手十一面観音、脇立不動毘沙門なり。當國三十三所十三番に配す。引用は以上。
長瀧村の名残りは伊自良湖のすぐ下流の里の地名に見る。伊自良湖の湖面が見えると多数のボートが浮かんでいた。恋人同士が朝早くからデート?多分公魚釣りか、疑問のまま登山口の臨時Pに着いた。地形図で116m地点。あいにく小雨模様だ。オーバーヤッケで防寒と小雨対応の身支度を整えて出発。最初は舗装路を分け入ると杉の高木が生える森の中である。番号入りの観音の石仏が立っている。バンガローのような施設は今は冬のもの寂しい雰囲気である。しばらくは車道を歩くと二又に別れる。右は釜ヶ谷に沿う林道で赤谷の出合い迄続く。堰堤記号が三か所連続してあった。我々は釜ヶ谷本流に沿いながら直進。左へ上がって四阿などの施設で舗装路は終わった。ここからは未舗装の林道歩きだが次第に山路になった。途端に谷が立って来て傾斜が強まる。岩がごろごろした歩きにくい山路をこなしてゆくと優しい道になり、山頂からの南東尾根の端に立つ四阿に着いた。残念ながら展望はない。途中から小雨が降雪になった。一種の感動とともに不安も伴う。ここで雪に備えて雨具でザックをカバー。尾根の道からみぞれ谷の枝谷の源流を迂回すると奥の院に着いた。社殿は穴だらけだ。中をのぞくと座禅した板間があった。穴は多分風通しを良くして腐食を避けるためか、人が使わない建物は内にこもった湿気で腐る。雨の時は膨張して外からの湿気を防ぎ、乾燥した時は縮んで隙間風を入れてやる校倉造が理想ですが高額の建設費がかかる。
さて出発だ。左に丁度33番目の石仏が建っていた。美濃三十三観音霊場の十三番目の霊場だ。ここを後に登るとすぐに神社が建っていた。ここはおそらく明治維新で「仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する」という仏教の信仰や施設を否定する運動の影響か。説明を読むと明治3年とある。祖神は皇祖神のアマテラスだった。
地形図で等高線が密にになり、急登を強いられた。行者岩に到達、上に登ると、最近登った百々ヶ峰と金華山が見えた。ちょっと荒れ気味の登山道を登ると龍神コースへの分岐に着いた。降ったり止んだりしていたが標高640mまで来ると冷気が違う。一面真っ白になった。小さなコブを巻くと待望の山頂だった。千把小屋という避難小屋まである。扉がないので雪が吹き込んで床は白い。小屋の四隅の角は丁度腰掛に良いのがあって少し休めた。
休憩中にもどんどん降って来る。眺めもなく止みそうにないので往路の下山を決めた。連続的に降雪路を下る。桧の林に下っても断続的に雪がある。滑落しないようにゆっくり慎重に下った。東屋まで下るとやっと落ち葉の道になり安定的に歩ける。車道に着いてほっと一安心。そこから余裕で石仏の番号を見ながら下ってPに戻った。
帰りは甘南美寺に寄って参拝。池の鯉の大きさに見とれた。もう一ヶ所、「伊自良湖 FISHING & ADVENTURE PARK」に寄った。公魚(わかさぎ)の天ぷらはあるか、聞いたらフライはあるとの回答。13時だったがラーメンと公魚のフライ(二人で一つ)を注文。朝6時半から釣りボートを営業するから恋人のデートではなかった。疑問が解けた。待っている間にも車にどんどん積もって来た。雪とグルメの冬日和を楽しめた。
もう一つおまけに帰りがけに約30分の所にある武芸川温泉に寄って入湯した。900円と高くなったにもかかわらず、そして大雪というのに大勢のお客が詰めかけて来た。これには驚いた。
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