梅雨空に千木誇らしき奥の院(日野山) 拙作2024年06月26日

 名古屋出発は上小田井駅で6時半合流。地道をナビ任せでR303に導かれて、揖斐川上流の横山ダムからR417へ。徳山ダムを経て冠山トンネルを通過すると福井県だ。足羽川沿いに下り、池田町から越前市へ。
 目指す登山口は北陸道日野山トンネルの北側の荒谷ルートの日野神社である。着いた時刻は11時30分。名古屋から5時間135kmかかった。日の長い時期なのでまあ良いか。
 11時40分出発。日野神社は無人だが、樹齢300年以上はありそうな高い杉木立の境内に立派な構えの本殿が建っている。新しい案内板があり迷うことなく境内の右寄りに流れる荒谷沿いのルートに入って行ける。木立が高いせいで日光が入らず藪はない。よく整備されている。
谷道または尾根道は樹脂製の階段があり鉄塔巡視路がそのまま登山道(登拝道)として利用されている。階段も段差が少ないので高齢で大腿筋の衰えた自分には助かる。大汗をかいたころに山清水が湧いている。魔法瓶の蓋がコップ代わりに置いてあり、ありがたく一杯飲ませてもらう。流れている水はきれいそうでも獣の糞などに汚染されている可能性があるがここは湧いているので安心して飲める。
 尚も続く急登に耐えながら約1時間で北西からの尾根に合流。涼しい風に安らぐ。ここまでが一区切りだが、地形図には表現されない岩尾根の急登が続く。山頂直下で萱谷からの尾根道に合流すると一段と尾根が立ってきてフィックスロープが張ってある。こりゃあ、下りに難儀しそうだ。喘ぐように登りきると最初の社屋が建っていた。ここで休もう、とザックを置いて尚も奥へ行き、山頂の奥の院、三角点、社務所などを経めぐりながら戻って長い滞在時間を楽しんだ。
 展望も良く、梅雨空で白山は雲に閉ざされているが、部子山(へこやま)は見えた。東には冠山と思しき三角錐の山容が目を引く。左は能郷白山と磯倉、右は金草岳だろう。冠山の下をくぐってここに来たんだ。
近くの樹木に鶯が鳴いている。鳥語は口笛で参加したが飛んで行った。嫌われたか。この時期のうぐいすは老鶯という。すでに雌雄が合体して産卵するころである。そのウグイスの巣の卵を放り出してホトトギスやカッコウが産卵する。これを托卵という。そうと知らずに孵化しても育雛する。外国からの長旅で疲れたカッコウやホトトギスはウグイスなどに子育てを託すわけである。
 越前市につながるR417は”良いな”と読める。
 越前市から鯖江市、福井市を流れる日野川の氾濫が作った沖積平野が青々とした田園風景も美しい。日野川は越美山地(三国岳など)の豪雪地帯の水を集めて今庄に流れ、東西の里山級の山地の水が流れ込む。日本海に直接流れ込むのではなく九頭竜川に合流するために北に流れている。流域の山の位置が良く分かる。
 出発が遅れた。昼時も登って一服しておにぎり1個をお茶で流し込んだ。充分な山頂滞在を楽しんだ後はまた急降下するように下山した。フィックスロープは下りにこそ有用だった。滑落を警戒しながら慎重に下ったがビブラム底と岩の食いつきはしっかりしている。遠くにホトトギスの鳴き声を聞きながら無事に日野神社に下山できた。
 帰路はまたR417を選んだ。高速かR365で木之本経由でも距離は変わらない。それでも復路にしたのは交通量の圧倒的な少なさだ。R417,R303で濃尾平野の北端の揖斐川町に来るまでは信号ストップはなし。
 結局JR瑞穂駅で降ろしてもらった。瑞穂駅から金山駅、鶴舞駅はJRで行ける。地下鉄鶴舞線には22時台に乗車できた。疲労したが高速を使わなくても福井の山を堪能できたのである。

美濃・船来山緑陰の小径を歩く2024年06月19日

 朝7時、金山駅前で合流。とはいえ参加者は1名なので2名で出発。たまたま知り合いが信州の山へ行くので集合していた。総勢18名と大勢だった。知り合いも何人かいた。
 高速を乗り継いで、もう1名と瑞穂市役所付近で合流。1台に3名が乗って目指したのは船来山である。標高は116mの超低山ながら2等三角点を置く。道の駅のPに停めて出発。梅雨入りはまだ発表されていないがすでに天候不順は続いている。そんな合間の梅雨晴れの晴天で今日は暑い。
 ヤマップをオンして舗装路から山道に入ると湿り気のあるふわっとした感触が良い。それに里山とはいえ、人工植林ではなく、相当な樹齢の喬木が多い。東海地方の山々は開墾される前はすべてこんな照葉樹林で覆われていたはずだ。以前に登った鶴形山と同様に植生でも保存されたい山である。
 まず最初に見た人工物は次の歌碑だった。

 いかなれば船木の山のもみじ葉の
   秋は 過ぐれどこがれざるらん,

右大弁通俊(後拾遺和歌集)

 何でこんなものがあるのか不思議であった。検索してみたが経緯は良く分からない。違和感があるので、できれば撤去して欲しい。この無雑作なよく言えば多様性のある森の保存に努めるべきで、古代の遺構や遺跡の保存は必要であるが後世の人工的なものは無用である。
 船来山に登頂したが森の中故に展望はない。2等三角点が埋まっている。ということは明治初期の五万図のための測量時代は高い櫓を建てて測量していただろう。
 下り始めるとウォーキングの人に会った。近くに住む人らしい。こんな山が散歩圏にある人がうらやましい。立ち話するとこの辺は私有林とのことで一部舗装路があった。昔は平地は水田で柿のような果樹園は山の斜面にあったのだ。今でも実は成るが肥料をやらないから渋柿化しているだろう。人間も捨てられると甘くは無くなる。
 どんどん下って登り返すと群部山に着いた。ここで引き返すつもりが南端まで歩いてしまった。南端にこそ船木山古墳があった。竹林の中にあったからあやうく開発を逃れたんだろう。先に会った人の話ではD土木が買い占めてゴルフ場を企画したが倒産、別の会社が買いたたいたとか。生臭い話になった。
 歩道を下ってゆくと寺院に出た。山麓の車道を歩き始めると猛暑である。炎天下の道をとぼとぼ歩いた。すると目の前の高速道路の工事現場を通った。東海環状道であろう。郡府山の下をトンネルで抜ける。なんとも無粋な風景だ。
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三遠研の総会2024年04月20日

 豊橋市方面に向かう時に県道56号から片側2車線のR155に右折。このままでは知立へ行くので左折、地道を抜ける内に三河線をまたぐ。伊勢湾岸道へ左折して並行線から離れてようやく矢作川を渡った。
 岡崎市市街地も混雑気味である。岡崎IC手前でR1に合流。その先で喫茶店で一休み。モーニングサービスはオプションだったがコーヒー代プラス180円、360円、500円とうぉっという価格設定だった。しっかり腹づくりしたい人には良いかも。赤坂付近から東の空を見るとどんより雲が厚そうである。今日も黄砂が降っているのだろうか。
 R1から左折して御油駅周辺の渋滞を回避。山間部を迂回して本宮山の山懐を走り、豊川を渡った。秀麗な山容の吉祥山が目の前に見える。13時まではまだ時間があるので新城市図書館へ寄った。地域資料コーナーの中で研究輯録の創刊以来のバックナンバーをチエックした。2号の目次に響くものがあったので閉架図書の開示請求をして閲覧。読んでみると資料解釈が精細すぎてこなれていない。研究者の域を出て作家的な視点で書いてないと素人には読みづらい。
 時間が迫ったので富岡ふるさと会館に行く。総会なので令和5年度の事業報告と会計報告、次年度の事業計画と予算案の読みあげと説明があった。特に会計では現金不足が深刻である。印刷した『研究輯録10』が売れて資金回収できないとカネが回らない。
 これは山岳会の上部団体でも資金不足で幹部は資金調達に苦労している。どこもコストダウンに知恵を絞る。
 続いて、「ええじゃないかの始まりと広がり」と題して、豊橋市二川宿本陣資料館館長の和田 実氏の講演があった。江戸時代の末期に全国規模で起きた狂乱的な民衆運動だった。その中でも豊橋市に的を絞っている。

 余談メモ

名古屋市博物館のHPから
https://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/owari_joyubi_news/eejyanaika/index.html

 「ええじゃないか150年
平成29年9月27日(水)~10月22日(日)
 いまから150年前の慶応3年(1867)7月14日、三河国渥美郡牟呂村(現豊橋市)へ伊勢神宮のお札が降り、二夜三日の祭礼が行われました。人々はお札降りを神仏の出現ととらえて祭礼を行います。お札降りが連続するとお祭りも連続し、日常生活が麻痺する熱狂的な騒ぎへ発展します。これが幕末に流行した「ええじゃないか」です。

 全国に伝播した「ええじゃないか」ですが、名古屋へは8月末に伝わり11月まで続きました。名古屋では、お札が降ると町奉行所へ届けて祭礼を行います。町奉行で集計されたお札は三千枚を超え、いかに「ええじゃないか」の騒ぎが大きかったかがうかがえます。加えて、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は七日七夜にわたり、降札による祭礼の連続、祭礼の長期化が城下を祝祭空間に変えてしまったのです(図1)。

 こうしてみると「ええじゃないか」は、お札降りを口実に人々が勝手に遊びくるったようなイメージをもつかもしれません。しかし、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は、地域の伝統的な祭礼のルールのもとで行いました。名古屋城下茶屋町をみてみると、町で管理する屋根神の中へ「ええじゃないか」のお札を納め、関係の寺社へとお礼参りをして「ええじゃないか」の一連の行事は終了しました。」以下略。

 慶応3(1867)年は日本が近世(封建制)から近代に生まれ変わった年でした。
・坂本竜馬、新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)を起草
・大政奉還(たいせいほうかん)
・王政復古(おうせいふっこ)の大号令
 慶応4(1868)年は
・鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)を機に戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まる
・江戸を東京と改称し、年号を明治とする

 今の日本の世相と幕末はよく似ていると思います。消費税率が打出の小槌のようにアップしてきた。大企業には減税しているし、諸外国にカネをばらまくわでいい顔したがる岸田政権。江戸時代の大衆も重税に悩んでいた。
 昨年春から長良川や津保川流域の里山を歩いていると郡上一揆の石碑を多数発見します。
 郡上一揆は18世紀半ばに起きた農民の減税運動でした。
 農民は結束し秘密裏にことを進めめ公事(今の弁護士で宿泊所付きの法律事務所)に頼んで籠訴を準備。しかし籠訴は首謀者は獄門晒し首の掟がある。首謀者の実家の墓に行ったこともある。
 これは大衆への見せしめには効果があった。権力に逆らうと只では済まんぞ。というわけだ。その後に下流の美濃市で流行った大衆芸能の「美濃流しにわか」では時事、世相批判が材料で藩(支配者)をチクる。証拠を残さないために一回限りとした。おそらくですが権力への忖度があったのでしょう。
 さらに時代が下がると「ええじゃないか」が起こる。権力者を批判するでもない。戦後の学生運動は左翼運動でしたから大衆の支持を得られないままに終焉した。ええじゃないかは徳川幕府をつぶすためでもなかった。
 マルクスは「万国の労働者よ団結せよ」、と共産党宣言(1848年)を書いたが、そんな高邁な思想はない。
 江戸時代の大衆は絶望感の共有から変革への願望がええじゃないかにつながり、明治維新が生まれた。変わるべくして変わった。

中濃の里山歩き2024年03月10日

 3月10日 今までR156を往来する度に気になっていた美濃市の鶴形山にようやく登れた。
 車を停めた洲原神社からは見上げるような岩壁が見える。登山道は道標があり整備されていた。植生は鬱蒼とした常緑照葉樹林が占める。冬でも青々としている。
 長良川の水を引いた用水路があり、しばらくは樹林の中を岩壁を避けるようにジグザクに登る。下からはR156の騒音が聞こえてくる。
 急登もあり思いのほか難コースだった。神社跡の二ヶ所を経て、鶴形山へは道も未整備となる。少し雪の残る山頂からの展望は樹林に囲まれて皆無。足元にはヒカゲノカズラが繁茂している。周囲の植生は植林の下に照葉樹の灌木が生えて青い。
 そこから高山への縦走路に行く。今までと違い未整備な踏み跡で赤テープをチエックしながら歩く。鉄塔の周辺のみ樹林が伐採されて見通しが良い。一旦鞍部迄下がって登り返す。高山へはかなりな急登でフィックスロープもあったからまったく整備されていないこともない。ここで親子連れにあった。ちょっと家族連れには不向きな気がするが山慣れしているんだろう。
 高山は三山の中で唯一展望があった。濃尾平野に前山が立ち並び、彼方には名古屋駅前の巨大ビル群が見えた。御岳山は樹林に邪魔されるが真っ白にかがやき、白い。恵那山は良く見えた。恵那山の左側の白い山なみは南アルプスだろう。
 高山を下山し、母野洞の分岐点は明瞭ではないが、GPSで確認して左折。地形図で破線のある397mの鞍部迄一気に下る。野田洞という村への古道は明瞭に残って見える。ここからも明瞭な尾根歩きになった。この道はところどころにある高圧電線の鉄塔巡視路だろう。長い尾根の登りに耐えて母野洞三角点に登頂。しかし樹林の中で展望は皆無。
 一休みした後、急な落葉と雪にまみれた踏み跡をたどった。鉄塔巡視路へ行く踏み跡へ引き込まれそうになり、GPSで確認して引き返す。この踏み跡は明瞭だが南へ垂れ下がるように曲がる尾根に引き込まれそうになった。GPSで確認して引き返す。その後も簡単には歩かせてくれない山路でした。
 昨年の2月から登り残した中濃の山のピークハントをしていますが、里山といえども侮れない山々です。

熱田宝物館「熊野三山と紀伊半島の神話」の見学2024年01月22日

 久々に熱田さんにお参りしてきました。三が日に参拝すると牛歩見たいなゆったりした動きでした。どこもそうですが。以来混雑期は行ってない。
 本日は熱田宝物館のイベントで「熊野三山と紀伊半島の神話」の見学が目的です。今年は山岳会の120周年の山岳古道事業の締めくくりで熊野神社に集中登山があります。GW以後5月18日が打ち上げ。
 私も個人的に大峰山脈主峰に足跡を残したい。というわけで熊野古道の予備知識を仕入れにきた。しかし展示品は専門性が高く学芸員の案内が欲しいと感じた。

八草駅から猿投山へ縦走2024年01月04日

白山連峰
 電車とバスで山々を跋渉したい。日照時間の短い時期なので猿投山の縦走を企てて見た。三角点「西広見」を経由して物見山に行き、猿投山へ縦走する計画である。
 リニモ終点の八草駅を8時40分ごろ下車。8時50分、身支度して駅から愛工大の南をなぞると椀貸池に着く。日本のあちこちにある椀貸伝説の池である。今は水を抜いて池さらえの最中。俳句歳時記に池普請という冬の季語がある。
 胸形神社への参道を登ると終点に本殿があった。道迷いも含めて約1時間ちょっとかかった。せっかくなので参拝させてもらった。
 右端にトイレがあり、脇から尾根に取り付く。ヤブこぎというほどの密植ではない。尾根の分岐には篤志家の付けたテープがある。あるかないかの踏み跡をたどるとやがて二等三角点「西広見」に着く。瀬戸市と豊田市の市界には破線があり微かな踏み跡が続く。
 里山の常で小さなコブには四方に枝道がありどれにもテープがある。その度にヤマップで方向を確認。しかし時には濃厚なテープにだまされてしまい、下がり過ぎて戻ること2回あった。海上の森からの道と合流するとハイカーに出会った。さすがに海上の森である。高速道路のようにアクセルを踏むだけで何の迷いもなく、快適に移動できる。最初のピークである物見山に登頂。麓や山中で迷ったのでロスタイムがあり予定より1時間遅れになった。
 先が長いので12時に出発。この先の道も昔は難路だった記憶がある。今は快適な高速道路である。猿投方面から続々ハイカーやトレランのランナーが丸腰か軽装で走ってくる。小休止しておにぎり1個とお茶を飲む。赤猿峠がエスケープルート選択の分岐点になる。延々続く稜線の道をたどってようやく赤猿峠に着いた。ここでアンパンを半分、ミルクでエネルギーを補給。時計を見ると15時前なので1時間で着けば日没の16時50分までに猿投神社に下れる。
 13時50分赤猿峠着、14時過ぎ出発。猿投山へは14時45分に着いた。単独のハイカーが一人居ただけだった。冠雪した伊吹山、能郷白山、白山、御嶽山と名峰が並ぶ。カメラに収めるとまた4人組の若者らが来た。入れ替わるように多数のハイカーが遅めの登頂を目指す。東の宮の入り口で15時40分になった。日没を考慮して車道コースを下った。16時53分に日没。猿投神社には17時ジャスト。薄暗い中、結構多くの善男全女が居る。おみくじには行列していた。私も参拝を済ませた。参道にはたこ焼きなどの多数の露店が並ぶ。そこをを通って山門を出た先にバス停がある。17時10分にバス停を見ると17時34分のバスがあった。たこ焼きを食べながら時間を過ごす。バスに乗ると西の空が赤く焼けて見える。名鉄豊田線上豊田南バス停を降りるともう真っ暗だった。道行くおばさんに駅を聴くと今から行くというのでついて行った。いわゆる駅前らしくない田舎駅だった。地下鉄の階段を下りるような感じである。18時11分の上小田井行に乗車すると植田駅までは意外に近かった。

秋葉街道踏査の計画2023年11月10日

 11/18~11/19の秋葉街道の踏査の計画がまとまった。東京の古道調査PTら7名と私で8名(男4名、女4名)の久々の大人数になった。浜名湖の北で落ち合い、青崩峠を越えて遠山谷で一泊。翌日は和田から小川路峠を越えて飯田市へ出る。
 小川路峠は過去に数回は行った。
①思い出深いのは飯田市と遠山谷の合同で峠まで登ってジンギスカンの焼肉を食わせてもらったこと。
②今は亡きU先生と小川温泉1泊で往復した。この時に松濤明『風雪のビバーク』の春の遠山入りに出てくる街道と知った。
③ある時は『岳人』の”本を片手に”という特集でこの本と街道を取り上げた。取材で登山した。
④また、『ひと味違う名古屋からの山旅』三十三山の1つで曽山1601mを取り上げて登った。
⑤ある時は小川路峠の南のピークである金森山1703mに登るために登山したこともある。
 途中にある木地師の墓が何とも哀れな気がしたものだった。供花一つなき小さな墓は供養する人もないまま時代の推移を見守ってきた。33観音は馬を引いて登る人、秋葉信仰の人への慰みになった。また登山者の安全を見守った。松濤明は登りに、深田久弥は下りに利用した。松濤明の頃はまだ宿があった。しかし、お客が少なくなったと嘆く宿のオーナーの言葉もあはれである。
 青崩峠は豊橋市に住んでいた頃に1回だけ行った。飯田線を利用したからフルに一日かかった。久々に地質学的に特異な地域の山へ行ける。楽しみなことである。

秋刀魚はまだある2023年10月12日

 スーパーに行ったら秋刀魚が出ていたので3匹550円で買った。少し前はどのスーパーでも無かった。いつまでもあると思うな新秋刀魚。これは自宅で冷凍に回したい。

飯田街道の歴史と文化考2023年08月19日

 南北朝の時代には御醍醐天皇の皇子である宗長親王が浜松の井伊宮、大鹿村の信濃宮を拠点にした。その皇子の尹良親王(ゆきよし)は稲武に拠点を設けて三河宮とした。親王と家来が、伊那谷と三河の稲武、豊根村などを往来したであろう。そして浪合の地で襲われて自害。地形図にも印刷された立派な墳墓がある。戦記『浪合記』が残されている。大和政権がなぜ東国の南信州にまで進出したのか。大和政権は朝鮮半島からの襲来に備えて、防人の傭兵、年貢を納めさせて支配下にしたかったのではないか。東国で平和裏に暮らす山民にとっては迷惑な話で故に権力者への抵抗として襲ったのであろう。
 戦国時代には武田信玄が京都を目指して峠を越えた。蛇峠山には狼煙場を設けた。関所も作った。金山を求めて三河にも進出。杣路峠の近くに愛知県と長野県の県境があるが、尾根や沢ではなく、山腹にある。稲武の郷土史家によると根羽村は足助庄だったという。信玄に押されて信州になったという。金山だった設楽町の出来山の足助側には信玄沢の名が残る。近世末期には日本民俗学の草分けとなる『真澄遊覧記』を著す菅江真澄も峠を越えて故郷の豊橋市には帰ることもなく秋田県で死没。角館市には顕彰碑が建つ。塩の道の交易ルートになるのはその頃からであろう。
 3年位前に「山と溪谷」誌が山で食う団子の特集に協力した。愛知県の山なら当然五平餅になる。調べると飯田街道沿線は小判型、恵那地方は団子を串に刺すタイプだった。飯田市でも食える。一番遠方は四阿山の麓にある鳥居峠直下の売店でも五平餅を売っていた。ここは古東山道でもある。塩はたれになる味噌の発酵に欠かせない。
 サラリーマンのサラリーとは塩の事です。塩は身を養う栄養素のみならず、給料にもなった。俳人で東大の先生だった中村草田男は、学徒出陣する教え子に”勇気こそ地の塩なれや梅真白”と詠んだ。地味で目だたないが大切な働きを意味した。聖書に出てくる言葉でキリスト教徒らしい句です。

『飛騨國中案内 (大正6年の復刻版)』受領2023年08月13日

 飛騨國中案内 (大正6年の復刻版)からP115の5の3

   角川村より二ツ屋村え   一里

[角川村]高・反別共に先書に記置。角川より二ツ屋村迄之間道並、谷越所々有之、道の左右は山高く谷合故道悪敷候。
   二ツ屋村より国境迄    二里

[二ツ屋村]高四石六斗二升六合、内田高二斗五合、畑高四石四斗一升六合、此反別三町九反一畝二十四歩、内一反三畝十四歩田方、三町七反八畝十歩畑方なり、田は稗田なり、非平地山畑同様の地面なり、中田二・下一・上畑二・中一・下一・下々一・山畑一、桑三十束、此反別二畝歩、十束に一、屋敷二の位、高に一ッ三分七厘内、屋敷大、小五軒あり、寺・宮森なし、

[口留番所]一ヶ所あり、高八合、此反別十二歩あり、高山より二ツ屋村迄七里三十一町有、二ツ屋村より国境迄二里二町有り、此間一里、行くて大峠あり、字[楢か峠]といふ、楢ヶ峠より境谷迄の間を原といふ、且又、古人の曰く、高麗に檳榔子(びんろうじ)きれたれは飛騨の白木ヶ原に有へし、かうらいに肉桂きれたらは白木か原に有へし、高麗に人参きれたらは飛騨の角川有峯に有へし。此角川有峯とは此境谷原の事なり、此白木か原は則此所の原にて候、左手の大山は[金剛ヶ嶽]右手の大山は[白木ヶ嶽]なり、上白木・下白木二山あり、唐の川とは前に記し置候通り、小鷹利郷の内谷村より、谷川上信包村より奥にて、黒内村山内なり、此二ヶ所を尋ね度もの歟(や)、古人の言傳は予より外に此事聞傳申間敷者也、穴賢々々。右原の内道より左手の山に[金山]一ヶ所あり、九十年餘以前に金山稼いたし候事なり、国境に石塚あり、字[境谷]といふ、二ツ屋村より楢ヶ峠まて一里、此間谷越八ヶ所あり、楢ヶ峠より境谷原の小屋場迄一里半、此間谷越三十三ヶ所あり、此小屋場は先年越・飛両国の境論有之節より山番小屋あり、その砌(みぎり)より往来の[改番所]も此所にあり、口留番所は其後二ツ屋村へ引る、山番所は御料所に成り、元禄九子の年引る、金山間歩ある所は此小屋場より左手の山にあり、此際に青兀といふはげ山あり、山の犬といふ獣晝夜に此所へ来、此兀山の土を喰ふことなり、此所に小谷あり、白水谷といふ、常に此水白し、小屋場の前に白き石磨一ッ有り、是は金土をひきたる磨の由、此所より境谷石塚ある所まて十丁餘、境石より越中切詰村迄二里、此間大難所の道筋なり、切詰よりすが平此次庵谷、此次に番所あり、此次はなつまい、此次は東原、此次は荒屋、次は西ヶ原、次は田の頭、次は水無、次は内名、次は島地、次はいちごぞうれ、次は二ツ屋、此次は横平、次は大だも、次は小畑、次は三ツ松、次はにんぶ、次はしんめう、次は元坂、此次は八尾なり、切詰より八尾迄五里、二ツ屋より以上八里有之候。先年飛騨國荒城郡小豆澤村・桑ヶ谷村・三川原村・角川村・二ツ屋村と、越中國婦負郡桐谷村・布谷村・荒屋村・須郷村と國境論有之、干時延寶二寅年の事、公儀御吟味の上國境相極、其節御評定之衆中両國の村々共に御朱印之寫、我等手前に所持す、外に繪圖一枚共有之候。
[二ツ屋]越中國長谷切詰え出る、高山より境迄十里三十町あり、二ツ屋村より切詰まで四里。
二ツ屋村より大無雁村へ戻り、下山中筋を記す。

・・・・・大正6年に出版された飛騨のガイドブックでした。8/5に車で通過した楢峠とか白木峰の様子がうかがえる。楢峠を越えても続くから二ツ屋はかなり広域の村だった。水系は富山側に流れるが岐阜県の中でした。
 やはり国境論争があったのです。楢峠が国境かと思うのですが当時の力関係で万波川一帯が飛騨に組み込まれた。現在は白木峰が富山県と岐阜県の県境になっている。これはこれでそれらしい。金山があったからでしょう。