中濃の里山歩き2024年03月10日

 3月10日 今までR156を往来する度に気になっていた美濃市の鶴形山にようやく登れた。
 車を停めた洲原神社からは見上げるような岩壁が見える。登山道は道標があり整備されていた。植生は鬱蒼とした常緑照葉樹林が占める。冬でも青々としている。
 長良川の水を引いた用水路があり、しばらくは樹林の中を岩壁を避けるようにジグザクに登る。下からはR156の騒音が聞こえてくる。
 急登もあり思いのほか難コースだった。神社跡の二ヶ所を経て、鶴形山へは道も未整備となる。少し雪の残る山頂からの展望は樹林に囲まれて皆無。足元にはヒカゲノカズラが繁茂している。周囲の植生は植林の下に照葉樹の灌木が生えて青い。
 そこから高山への縦走路に行く。今までと違い未整備な踏み跡で赤テープをチエックしながら歩く。鉄塔の周辺のみ樹林が伐採されて見通しが良い。一旦鞍部迄下がって登り返す。高山へはかなりな急登でフィックスロープもあったからまったく整備されていないこともない。ここで親子連れにあった。ちょっと家族連れには不向きな気がするが山慣れしているんだろう。
 高山は三山の中で唯一展望があった。濃尾平野に前山が立ち並び、彼方には名古屋駅前の巨大ビル群が見えた。御岳山は樹林に邪魔されるが真っ白にかがやき、白い。恵那山は良く見えた。恵那山の左側の白い山なみは南アルプスだろう。
 高山を下山し、母野洞の分岐点は明瞭ではないが、GPSで確認して左折。地形図で破線のある397mの鞍部迄一気に下る。野田洞という村への古道は明瞭に残って見える。ここからも明瞭な尾根歩きになった。この道はところどころにある高圧電線の鉄塔巡視路だろう。長い尾根の登りに耐えて母野洞三角点に登頂。しかし樹林の中で展望は皆無。
 一休みした後、急な落葉と雪にまみれた踏み跡をたどった。鉄塔巡視路へ行く踏み跡へ引き込まれそうになり、GPSで確認して引き返す。この踏み跡は明瞭だが南へ垂れ下がるように曲がる尾根に引き込まれそうになった。GPSで確認して引き返す。その後も簡単には歩かせてくれない山路でした。
 昨年の2月から登り残した中濃の山のピークハントをしていますが、里山といえども侮れない山々です。

熱田宝物館「熊野三山と紀伊半島の神話」の見学2024年01月22日

 久々に熱田さんにお参りしてきました。三が日に参拝すると牛歩見たいなゆったりした動きでした。どこもそうですが。以来混雑期は行ってない。
 本日は熱田宝物館のイベントで「熊野三山と紀伊半島の神話」の見学が目的です。今年は山岳会の120周年の山岳古道事業の締めくくりで熊野神社に集中登山があります。GW以後5月18日が打ち上げ。
 私も個人的に大峰山脈主峰に足跡を残したい。というわけで熊野古道の予備知識を仕入れにきた。しかし展示品は専門性が高く学芸員の案内が欲しいと感じた。

八草駅から猿投山へ縦走2024年01月04日

白山連峰
 電車とバスで山々を跋渉したい。日照時間の短い時期なので猿投山の縦走を企てて見た。三角点「西広見」を経由して物見山に行き、猿投山へ縦走する計画である。
 リニモ終点の八草駅を8時40分ごろ下車。8時50分、身支度して駅から愛工大の南をなぞると椀貸池に着く。日本のあちこちにある椀貸伝説の池である。今は水を抜いて池さらえの最中。俳句歳時記に池普請という冬の季語がある。
 胸形神社への参道を登ると終点に本殿があった。道迷いも含めて約1時間ちょっとかかった。せっかくなので参拝させてもらった。
 右端にトイレがあり、脇から尾根に取り付く。ヤブこぎというほどの密植ではない。尾根の分岐には篤志家の付けたテープがある。あるかないかの踏み跡をたどるとやがて二等三角点「西広見」に着く。瀬戸市と豊田市の市界には破線があり微かな踏み跡が続く。
 里山の常で小さなコブには四方に枝道がありどれにもテープがある。その度にヤマップで方向を確認。しかし時には濃厚なテープにだまされてしまい、下がり過ぎて戻ること2回あった。海上の森からの道と合流するとハイカーに出会った。さすがに海上の森である。高速道路のようにアクセルを踏むだけで何の迷いもなく、快適に移動できる。最初のピークである物見山に登頂。麓や山中で迷ったのでロスタイムがあり予定より1時間遅れになった。
 先が長いので12時に出発。この先の道も昔は難路だった記憶がある。今は快適な高速道路である。猿投方面から続々ハイカーやトレランのランナーが丸腰か軽装で走ってくる。小休止しておにぎり1個とお茶を飲む。赤猿峠がエスケープルート選択の分岐点になる。延々続く稜線の道をたどってようやく赤猿峠に着いた。ここでアンパンを半分、ミルクでエネルギーを補給。時計を見ると15時前なので1時間で着けば日没の16時50分までに猿投神社に下れる。
 13時50分赤猿峠着、14時過ぎ出発。猿投山へは14時45分に着いた。単独のハイカーが一人居ただけだった。冠雪した伊吹山、能郷白山、白山、御嶽山と名峰が並ぶ。カメラに収めるとまた4人組の若者らが来た。入れ替わるように多数のハイカーが遅めの登頂を目指す。東の宮の入り口で15時40分になった。日没を考慮して車道コースを下った。16時53分に日没。猿投神社には17時ジャスト。薄暗い中、結構多くの善男全女が居る。おみくじには行列していた。私も参拝を済ませた。参道にはたこ焼きなどの多数の露店が並ぶ。そこをを通って山門を出た先にバス停がある。17時10分にバス停を見ると17時34分のバスがあった。たこ焼きを食べながら時間を過ごす。バスに乗ると西の空が赤く焼けて見える。名鉄豊田線上豊田南バス停を降りるともう真っ暗だった。道行くおばさんに駅を聴くと今から行くというのでついて行った。いわゆる駅前らしくない田舎駅だった。地下鉄の階段を下りるような感じである。18時11分の上小田井行に乗車すると植田駅までは意外に近かった。

小川路峠へ2023年11月19日

 遠山谷も昨夜は凍て雲が山にまとわりついて寒かったが朝から快晴でした。6時50分に和田の宿を出発。7時30分に清水地区にある秋葉街道登山口を出発。野生のシカの頭蓋骨が落ちていた。人工林の中の道は不明瞭でしばしばRFで渋滞気味になる。それでも石の地蔵があるのでかつての街道には違いない。一旦皆伐してしまうとイバラ、タラなどが繁茂し、いわゆるヤブ道になる。植林すると日陰になって雑草は枯れてしまう。この間に人が歩かないと廃道になる。現在は森林は密植されており、間伐を待っている。道も廃道状態に近い。一旦は林道に上がって横切る。再び人工林の中を登るがやはり不明瞭である。最終的に林道に上がった。1062.8mの三等三角点上村の尾根の先に地蔵などが設置されている。昔は建物でもあった跡である。
 ここから本格的な秋葉街道になった。15番の観音から始まる。しばらくは人工林だが疎林になっただけ、見通しが良く明るくなった。遠くに白い山も見える。観音様の番号が増えることで着実に登っていく実感がある。雪も出てきた。29番を過ぎると山抜けの沢の渡渉が待っていた。かつては桟橋もあったが朽ちている。虎ロープも切れて巻いてあった。リーダーがロープを出して女性らを確保して渡渉した。三点支持の基本技術があれば怖くない。そこから地蔵がずらっと並んだところにきてすぐ先に茶屋址と熊の檻があった。地形図では急な尾根だが九十九折れで優しく登って行ける。
 12時45分にうっすらと雪のある小川路峠に到着した。昼食後、体が冷えない内に1人で13時30分に来た道を引き返す。途中、4回足に痙攣が走った。都度68を飲んで対応した。下山後約2時間の15時25分に林道に着く。太陽は隣の山にかかってすぐに日没しそうだ。帰路は樹林帯は薄暗いので林道を歩き通した。約1時間でクルマのおいてある入口に着いた。
 小川路峠は上久堅からは5回も往復しているが遠山谷側は初見でしたので満足できた。秋葉街道は南西面に付けられているので西日が当たり午後も明るい。林道に下りた地点で3時30分位でしたが日が伊那山脈に沈んだ。山の中は飯田市の日没4時40分よりも1時間以上早い。
 残照があるので4時半までマイカーまでは明るかくヘッデンは点けずに済んだ。
 マイカーで矢筈トンネルを通過、下氏乗から中宮でR256に合流、左折して富士山之神社(スマホのナビの目標)へ向かうと5時20分ちょうど東京組と合流できた。後は飯田駅へ送って別れた。飯田から園原まで地道。20kmほど。中央道園原ICから帰名。2000円。102km。
 名古屋から周回の距離は約380km位でした。山間ドライブは正味150km位。極端なタイトなカーブが多いので山よりもドライブに疲れた。3ヶ月のブランクがあったので足腰が久々に痛んだ。
※すでに完成している矢筈トンネルと青崩トンネルが高規格の道路に生まれ変わると鳳来峡ICにつながる。観光客も増えて秘境のイメージも無くなるかも知れません。

秋葉街道踏査の計画2023年11月10日

 11/18~11/19の秋葉街道の踏査の計画がまとまった。東京の古道調査PTら7名と私で8名(男4名、女4名)の久々の大人数になった。浜名湖の北で落ち合い、青崩峠を越えて遠山谷で一泊。翌日は和田から小川路峠を越えて飯田市へ出る。
 小川路峠は過去に数回は行った。
①思い出深いのは飯田市と遠山谷の合同で峠まで登ってジンギスカンの焼肉を食わせてもらったこと。
②今は亡きU先生と小川温泉1泊で往復した。この時に松濤明『風雪のビバーク』の春の遠山入りに出てくる街道と知った。
③ある時は『岳人』の”本を片手に”という特集でこの本と街道を取り上げた。取材で登山した。
④また、『ひと味違う名古屋からの山旅』三十三山の1つで曽山1601mを取り上げて登った。
⑤ある時は小川路峠の南のピークである金森山1703mに登るために登山したこともある。
 途中にある木地師の墓が何とも哀れな気がしたものだった。供花一つなき小さな墓は供養する人もないまま時代の推移を見守ってきた。33観音は馬を引いて登る人、秋葉信仰の人への慰みになった。また登山者の安全を見守った。松濤明は登りに、深田久弥は下りに利用した。松濤明の頃はまだ宿があった。しかし、お客が少なくなったと嘆く宿のオーナーの言葉もあはれである。
 青崩峠は豊橋市に住んでいた頃に1回だけ行った。飯田線を利用したからフルに一日かかった。久々に地質学的に特異な地域の山へ行ける。楽しみなことである。

秋刀魚はまだある2023年10月12日

 スーパーに行ったら秋刀魚が出ていたので3匹550円で買った。少し前はどのスーパーでも無かった。いつまでもあると思うな新秋刀魚。これは自宅で冷凍に回したい。

飯田街道の歴史と文化考2023年08月19日

 南北朝の時代には御醍醐天皇の皇子である宗長親王が浜松の井伊宮、大鹿村の信濃宮を拠点にした。その皇子の尹良親王(ゆきよし)は稲武に拠点を設けて三河宮とした。親王と家来が、伊那谷と三河の稲武、豊根村などを往来したであろう。そして浪合の地で襲われて自害。地形図にも印刷された立派な墳墓がある。戦記『浪合記』が残されている。大和政権がなぜ東国の南信州にまで進出したのか。大和政権は朝鮮半島からの襲来に備えて、防人の傭兵、年貢を納めさせて支配下にしたかったのではないか。東国で平和裏に暮らす山民にとっては迷惑な話で故に権力者への抵抗として襲ったのであろう。
 戦国時代には武田信玄が京都を目指して峠を越えた。蛇峠山には狼煙場を設けた。関所も作った。金山を求めて三河にも進出。杣路峠の近くに愛知県と長野県の県境があるが、尾根や沢ではなく、山腹にある。稲武の郷土史家によると根羽村は足助庄だったという。信玄に押されて信州になったという。金山だった設楽町の出来山の足助側には信玄沢の名が残る。近世末期には日本民俗学の草分けとなる『真澄遊覧記』を著す菅江真澄も峠を越えて故郷の豊橋市には帰ることもなく秋田県で死没。角館市には顕彰碑が建つ。塩の道の交易ルートになるのはその頃からであろう。
 3年位前に「山と溪谷」誌が山で食う団子の特集に協力した。愛知県の山なら当然五平餅になる。調べると飯田街道沿線は小判型、恵那地方は団子を串に刺すタイプだった。飯田市でも食える。一番遠方は四阿山の麓にある鳥居峠直下の売店でも五平餅を売っていた。ここは古東山道でもある。塩はたれになる味噌の発酵に欠かせない。
 サラリーマンのサラリーとは塩の事です。塩は身を養う栄養素のみならず、給料にもなった。俳人で東大の先生だった中村草田男は、学徒出陣する教え子に”勇気こそ地の塩なれや梅真白”と詠んだ。地味で目だたないが大切な働きを意味した。聖書に出てくる言葉でキリスト教徒らしい句です。

『飛騨國中案内 (大正6年の復刻版)』受領2023年08月13日

 飛騨國中案内 (大正6年の復刻版)からP115の5の3

   角川村より二ツ屋村え   一里

[角川村]高・反別共に先書に記置。角川より二ツ屋村迄之間道並、谷越所々有之、道の左右は山高く谷合故道悪敷候。
   二ツ屋村より国境迄    二里

[二ツ屋村]高四石六斗二升六合、内田高二斗五合、畑高四石四斗一升六合、此反別三町九反一畝二十四歩、内一反三畝十四歩田方、三町七反八畝十歩畑方なり、田は稗田なり、非平地山畑同様の地面なり、中田二・下一・上畑二・中一・下一・下々一・山畑一、桑三十束、此反別二畝歩、十束に一、屋敷二の位、高に一ッ三分七厘内、屋敷大、小五軒あり、寺・宮森なし、

[口留番所]一ヶ所あり、高八合、此反別十二歩あり、高山より二ツ屋村迄七里三十一町有、二ツ屋村より国境迄二里二町有り、此間一里、行くて大峠あり、字[楢か峠]といふ、楢ヶ峠より境谷迄の間を原といふ、且又、古人の曰く、高麗に檳榔子(びんろうじ)きれたれは飛騨の白木ヶ原に有へし、かうらいに肉桂きれたらは白木か原に有へし、高麗に人参きれたらは飛騨の角川有峯に有へし。此角川有峯とは此境谷原の事なり、此白木か原は則此所の原にて候、左手の大山は[金剛ヶ嶽]右手の大山は[白木ヶ嶽]なり、上白木・下白木二山あり、唐の川とは前に記し置候通り、小鷹利郷の内谷村より、谷川上信包村より奥にて、黒内村山内なり、此二ヶ所を尋ね度もの歟(や)、古人の言傳は予より外に此事聞傳申間敷者也、穴賢々々。右原の内道より左手の山に[金山]一ヶ所あり、九十年餘以前に金山稼いたし候事なり、国境に石塚あり、字[境谷]といふ、二ツ屋村より楢ヶ峠まて一里、此間谷越八ヶ所あり、楢ヶ峠より境谷原の小屋場迄一里半、此間谷越三十三ヶ所あり、此小屋場は先年越・飛両国の境論有之節より山番小屋あり、その砌(みぎり)より往来の[改番所]も此所にあり、口留番所は其後二ツ屋村へ引る、山番所は御料所に成り、元禄九子の年引る、金山間歩ある所は此小屋場より左手の山にあり、此際に青兀といふはげ山あり、山の犬といふ獣晝夜に此所へ来、此兀山の土を喰ふことなり、此所に小谷あり、白水谷といふ、常に此水白し、小屋場の前に白き石磨一ッ有り、是は金土をひきたる磨の由、此所より境谷石塚ある所まて十丁餘、境石より越中切詰村迄二里、此間大難所の道筋なり、切詰よりすが平此次庵谷、此次に番所あり、此次はなつまい、此次は東原、此次は荒屋、次は西ヶ原、次は田の頭、次は水無、次は内名、次は島地、次はいちごぞうれ、次は二ツ屋、此次は横平、次は大だも、次は小畑、次は三ツ松、次はにんぶ、次はしんめう、次は元坂、此次は八尾なり、切詰より八尾迄五里、二ツ屋より以上八里有之候。先年飛騨國荒城郡小豆澤村・桑ヶ谷村・三川原村・角川村・二ツ屋村と、越中國婦負郡桐谷村・布谷村・荒屋村・須郷村と國境論有之、干時延寶二寅年の事、公儀御吟味の上國境相極、其節御評定之衆中両國の村々共に御朱印之寫、我等手前に所持す、外に繪圖一枚共有之候。
[二ツ屋]越中國長谷切詰え出る、高山より境迄十里三十町あり、二ツ屋村より切詰まで四里。
二ツ屋村より大無雁村へ戻り、下山中筋を記す。

・・・・・大正6年に出版された飛騨のガイドブックでした。8/5に車で通過した楢峠とか白木峰の様子がうかがえる。楢峠を越えても続くから二ツ屋はかなり広域の村だった。水系は富山側に流れるが岐阜県の中でした。
 やはり国境論争があったのです。楢峠が国境かと思うのですが当時の力関係で万波川一帯が飛騨に組み込まれた。現在は白木峰が富山県と岐阜県の県境になっている。これはこれでそれらしい。金山があったからでしょう。

柳川源流域の塩の道を探る2023年07月22日

 朝6時過ぎに出発。吉野家で朝定を食べてR153で平谷村に向かった。平谷村最奥の靭に向かう。足元にはウツボグサも生えている。だから靭の地名になったのだろうか。靭は矢を入れる細長い筒をいうらしい。地形的には柳川本流に峠川とフロヤ沢が合流する地点でもある。
 峠川は横岳と治部坂峠の山稜の南側の水と峠と馬の背の西側の水を集めている。集水面積はそんなに広くはない。
 林道と旧道の分岐点にマイカーを止めて気になっていた林道を歩く。ゲートは1070m地点にあり峠川と並行して歩く。途中で地形図にない車道が右へ別れた。終点には橋を渡った先に建物があった。林道から降りて橋を渡って行って見たが利用されている気配はない。別荘のようにも思える。これだけ川に近いと洪水の恐れがある。
 林道の終点まで歩いたが塩の道につながる痕跡は無かったので戻った。山側はえぐられた斜面が続くが沢が来ているところで入って見た。明瞭な踏み跡とモトクロスバイクのタイヤ痕があった。何か知らないがSOとかのマークの札も立っている。バイクの連中が遊んでいるのだろうか。沢は平流で水位も低く登山靴でも歩ける。途中で右に急階段の歩道があった。送電巡視路だろう。
 相変わらず平易な沢歩きになった。夏は暑熱から逃れるにはこれが一番である。たとえじゃぶじゃぶできなくても涼しい。結局左右に塩の道が横断するとの期待は外れて源流域まで来たら植林帯へきれいな踏み跡が続いていたので沢から上がった。登りつくと工事現場ですぐにR153だった。7/8に目星を着けた栄太橋を確認した。つまり登ってきた沢は栄太沢だった。これで平谷村誌の地図にあった沢の1つは確認できた。
 次は峠川になる。平谷村誌の地図は峠川が清水沢になっている。文の紹介は峠川に沿って塩の道があるとの記述を頼りにまた歩いて見た。トンネルの出口付近に峠川が流れている。ちょっとした台地に上がって見た。道に見える平地があるが下部は笹のヤブで分からない。やみくもには歩けない。峠川の流れまで下って歩いて見た。左岸右岸に沖積した陸地はあるが道の痕跡ではない。途中に巡視路の道が左右に上がってゆく。少し登ったが狭く巡視路の域を出ないのでまた川をどんどん下った。清水沢の出合いを通過、林道の橋で川から上がった。何も痕跡を見いだせなかった。マイカーに戻った。4km、2時間半の沢歩きで終わった。
 ちょうど昼になったので治部坂峠の大川入山の登山口の蕎麦屋に入って休憩。美味しい蕎麦を賞味したらまた再開する意欲が湧いた。先週に一度行った別荘地の車道を下り、巡視路を峠川に向かって歩いて見た。清水沢に面したのり面が崩れているからとても塩の道には見えない。清水沢の掘れこんだ渓相をどのようにして往来したものか。とにかく危うい橋を渡ってみた。すると少しは幅が広い。是ならと思うがその先でまた細くなり峠川が少し上がりかけた道になった。
 諦めて戻る前に平谷村誌の記述を思った。清水沢の橋の手前に痩せ尾根があり踏み跡が続いていたので登って見た。少しばかり歩くと幻の塩の道の跡が現れた。全体は植林だがそこだけは植林していない。その道を下って見たらさっき引き返した地点に着いた。ここでヤマップをスイッチオンして軌跡を残すことにした。巡視路から左へカーブしまた右回りにカーブしてあとは地形通りに緩やかに登って行った。比高70mほどである。後半は笹薮が覆って歩きにくかったが、前回ここじゃないか、と推理した場所だった。上からでは分からなかったのだ。これで目的の一部は達成できた。
 後は石仏が2体あるという中の土山である。別荘地の巡視路から右に振ればまた栄太沢に出合う。推測では1100mの等高線をなぞるようにゆっくり高度を下げてゆくのではないか。

ござっらせ温泉へ2023年07月09日

 午後からお出かけ、昨日のロングドライブで疲れた。おまけに平谷温泉に入湯できず疲れが抜けなかった。行く先はまず春日井市立図書館で平谷村誌、阿智村史、浪合村史を閲覧。山口村史は無かった。以前あった東海学の本は別の図書館に収蔵したらしく当館ではなかった。別の機会に行く。
 次は長久手市のござらっせ温泉に行った。平谷温泉に入れなかったので疲れが残る。温泉は良いです。さっぱりするし広い浴槽でリラックスするからだ。少し買い物もした。
 次は日進市の給油スタンドに寄る。まだ133円/㍑で給油できる。38リットル入って約5000円弱。昨日の信州ドライブの経費である。コメダの喫茶店で休んで帰宅。