八風街道の文献調査2022年10月05日

 10月2日は秋日和でした。
 中央アルプスの寂峰を予定していたがキャンセルに。八風街道の文献調査の宿題を片付けるために菰野町と東近江市の図書館をはしごするドライブに行く。
 先ずは菰野町図書館へ。午前中というのに既に暑い。司書さんに来館の目的を告げると親切に立ち合って出してくれた。菰野町史はコピーを依頼、後はスマホに撮影。
 次はいなべ市のR421から石榑トンネルをくぐり東近江市湖東町へ。道の駅はごった返していたのでパス。R307から西堀栄三郎記念館へ。湖東町に何の縁か、親が近江商人でこの地で商売していたらしい。知恩院で西堀さんの墓を見たことがあったが近江の人だったのだ。
 八風峠について書いた文だったか「峠は高い程良い。高い分高く売れる。」と近江商人の心意気を書いた文を思い出した。数ある鈴鹿の峠でも高く険しい。
 ビジネスとアルピニズムは一脈通じる。リスクとは日々の糧を得るという意味のアラビア語だが、高い程リスクもあるが満足感や儲けも大きい。
 盟友の今西さんも展示されていた。
 隣の湖東町図書館で調べたが核心的な史料はない。永源寺町図書館へ移動。やはり永源寺町史は核心を突くのでコピーを依頼した。
 R421を走ると永源寺そばを謳う蕎麦屋に吸い込まれた。昼ご飯を食べていなかったからだ。天ざる蕎麦1300円也。この蕎麦は美味しい。
 杠葉尾の山家をぬうように狭い旧街道を走ると八風街道の面影を残す「左 いせ」の道しるべを発見。伊勢参りにはこんな険しい八風峠も越えたんだ。来た甲斐があった。

青嵐八風峠風止まず 拙作2022年05月14日

 朝7時金山駅前に集合。8人で2台に分乗して出発。往きは東名阪が工事中で混むので伊勢湾岸経由で行く。1台は菰野ICから田光を経て八風峠登山口へ、もう1台は大安ICから石榑トンネルを経て近江側の登山口へ向かった。
 私は伊勢側の旧知の街道を歩いた。田光川に沿う山道を行くと新緑の今は山が一番美しい季節に思う。キャンプ場を過ぎると、小鳥が叫び、飛び交う山奥に入る。全山生命力にあふれている。登山口まで乗り入れるて、準備を終え、ヤマップのGPSを作動させてからゆっくりと歩き出す。
 当面は林道の廃道のような広いが石ころが多い道が続く。後続があさっそくヤマヒルが出てきたと騒いでいる。広い山路にふさわしくない鳥居もある。今までなら無関心で通り過ぎたが今回は古道調査なので写真を撮影しておく。結構いくつもの被写体があった。お旅所旧跡なんて今まであったのかと思う。
 左手の栗木谷を見ながら歩くがいくつもの砂防堰堤が見える。580m付近で大きな堰堤は終り、そこから右岸に渡り細い山路に入った。この細道にも旧跡があり、撮影していった。何よりも喜ばせたのはシロヤシオの花盛りだったことだ。少しだがシャクナゲの花も見える。足元には岩鏡の小花が咲き乱れている。
 天気予報では午前6時からは20%の降雨率で晴れる見込みだったが、登山口から峠までずっと曇りであり、山霧が風に吹かれて流れていく。少し寒いから北からの風であろうか。南に梅雨前線が並び、中国大陸の高気圧が張り出し、北には低気圧がある。鈴鹿山脈は低気圧圏内にあるから北から風が吹き込みやすいのだろう。
 久々の八風峠だ。20年ぶりだろうか。記憶にない新しい鳥居が建っている。昔、友人と登ったとき、友人が足元で古銭を拾った。江戸時代のものだったと記憶している。
 滋賀県との県境稜線に立つと日本海側の低気圧からの強風で小さな嵐だった。俳句歳時記では青嵐に相当する。登山口から約2時間後の11時に登頂だ。
 近江側のパーティを待った。霧と強風で安楽な気がしない。それでも軽い中食と飲み物を飲んで休んだ。峠周辺はシロヤシオの林であった。待っても中々来ないから大声でコールして見た。くる気配はしなかった。1時間後に道中で会うことにして下山を開始した。
 県境から鞍部に下ると八風谷の道標があった。ここはもの凄く寒かった。こここそ本当の峠(鞍部)なので風を集めるからだ。合羽を着こんで置いて良かった。誰かが低体温症になるぞ、と警告している。本当だ。こんなところで60歳代から70歳代のおじさんおばさんが低温で倒れたら、だから言わんこっちゃない、と散々叩かれるだろう。
 少し下った辺りで近江側と合流できた。ほっとした。伊勢側の運転者は戻り、近江側の運転者も八風峠は初めてゆえに頂上を踏みに行った。
 近江側も伊勢側と同様の風化花崗岩の崩れやすい地質だった。崩れやすく滑りやすい路肩に留意しながらゆっくり下った。ある程度まで来たら運転者が戻ってきた。下るにつれて渓相も安定し、沢登りしたくなるような美しい渓谷になった。
 杉の植林帯に入ると踏み跡も安定してきた。道も平坦になり、歩きやすくなる。旧跡というものは見当たらなかった。広い氾濫川原が見えた。砂防堰堤で河原が広がったらしい。対岸へ渡渉するところがあったが、右岸の破線路が街道だろうと、廃道同然の破線路にしたがった。踏み跡は殆どないが迷うと現れるから不思議だ。路肩が崩壊しているところもあるし、倒木もあるしで難路である。とかく谷沿いの山道は壊れやすい。
 舗装道路へ出た時はほっとした。確かにこの辺りは分かりにくい。歴史の古道として整備することはないのだろう。八風谷橋でR421のPに着いた。石榑トンネルはすぐ右だ。峠を越えていた時代には想像もつかないくらいのクルマが往来している。しかもすごいスピードである。
 八風街道はわずかに残された歴史の断片である。

近江湖西・蛇谷ヶ峰スキー登山2022年02月26日

 2月26日滋賀県の蛇谷ヶ峰に登った。4時出発、5時にあま市の同行者と合流、久々に名神、北陸道から木之本へ、R8へ、塩津からはR303、マキノ町からはR161、今津からは又R303(若狭街道)に分かれる。若狭に向けて走ると雪の多さに驚く。田園地帯は雪原だ。
 R303は小浜市への道から京都方面のR367へ左折、山間の峠道はアイスバーンになっている。峠を越えると朽木の中心街に着く。京へ往く道から地道へ左折、朽木スキー場へ。7時30分に着く。四区画あるPの2つは埋まっていた。登山届を投函して、身支度を整える。
 8時10分出発。ゲレンデの山際の先行者のトレースをたどる。やがて桧の植林地帯に急登する。汗がふきだすのでヤッケを脱ぐ。急登は817の手前まで続いた。緩斜面になると植林から雑木林に変わり明るい。
 頂上へ登山者が登って行くのが見える。2時間40分で登頂。真っ先に武奈ヶ岳が飛び込んできた。野坂山地も白い。百里ヶ岳、近江駒ヶ岳も視野にあるが同定はできなかった。高島市の田園地帯は真っ白だ。琵琶湖の向こうにぼんやりと伊吹山が見えた。右隣は霊仙山だろう。
次々登山者が登って来ては下って行く。ドローンを飛ばしている人もいる。初めて見た。
 360度の大展望を楽しみ、けっこう長居した。さて11時45分、下山だ。スキー場へ下る尾根までは何とか滑れた。817mからは植林と雑木林の境だ。密植された植林や雑木林はスキー向きにはならず。シールを着けて下ることにした。スピードは出せない。中間まで来ると疎林になるが、気温も上がり雪が腐っていて体重をかけても滑れない。滑れないので疲労困憊、徒労だなぁ、と休み休みスキー場トップに着く。シールを剥がし、仇を打つようにゲレンデを駆け抜けた。
 帰路はグリーンパークの朽木温泉に入る。道の駅で栃餅、鯖寿司を買う。時間があるので白髭神社に道草した。近江最古の神社という。さっそく膝が傷むが我慢して参拝した。R161を戻り、マキノ海津からR8への道も東山経由で永原へ走った。途中で琵琶湖の彼方の山並みの夕焼けに目を引かれた。さっき登った蛇谷ヶ峰、武奈ヶ岳が見えたからだ。「ローマの休日」のアン王女じゃないがやっぱり近江の山は良い。

比叡山2021年10月24日

 24日は一等三角点の比叡山848mへの記念登山である。往復とも歩くのは私1人で、登るだけの18名、残りは車でドライブして、山頂だけ行く人に分かれた。
 登山口は修学院離宮のあるところで、きらら坂登山口である。2台分のスペースがありそこにP。結構急な尾根歩きに終始したが、多くが80歳超の高齢者にもかかわらず無事登頂した。72歳の私などは若手の部類か。
 こうして2日間ともいい天気に恵まれて秋の古都をめぐる山旅を終えました。京都市内は観光客のマイカーであふれていた。
 帰名には時間に余裕があったので大津市の石山寺も経めぐるが散策には時間がない。「石山寺は『更級日記』『蜻蛉日記』『枕草子』『和泉式部日記』などの文学作品に描かれ、紫式部が『源氏物語』の着想を得た場所とも伝えられます。近江八景の一つ「石山秋月(いしやまのしゅうげつ)」も有名です。」
 紫式部は白楽天の漢詩も愛読していたという。和歌と漢詩にも通じるなんて、多分ですが渡来人と日本人の混血ではないか、とさえ思います。
 瀬田川のゆったりした流れに見とれた。「琵琶湖哀歌」に謳われた瀬田の唐橋も通った。R1とR8が錯綜して分かりにくい。近江富士の右へ反れてやっと帰名の途についた。

近江湖北・行市山から三方ヶ岳ミニ縦走2021年07月18日

 梅雨明けのこんな暑い時期に600m級の低山歩きはないだろう。左様、標高の高い亜高山帯が良いnああと思いながらも、雨で流れた5月初めの計画にこだわり、万緑に染まる湖北の山歩きを挙行した。
 行市山は毛受兄弟の墓から登った。案内板によると愛知県春日井市の出だ。尾張旭市とも書いてある。

 詳細は「毛受氏」に拠られたい。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/menzyu_k.html

 獣除けのゲートから登山道に入るといきなりの急登で始まる。山麓から遠望してなだらかな山容の通り、すぐ緩やかになる。アップダウンを繰り返しながら登頂した。南側が伐採されて余呉の山郷が見える。見えるのは良いが、カンカン照りなので日陰が欲しい。
 三方ヶ岳へは目印まで少し戻る。踏み跡はあるが心もとない。ルートを外さないように要所では地形図、GPSを確認した。さすがに福井滋賀の県境であるばかりでなく、日本中央分水嶺だ、少ないがブナもある。
 県境は一旦福井側の源流に食い込む林道に下り、再び尾根に取り付く。新しい林道に出てしまったので終点まで歩いて、尾根に戻って進む。△588mのコブから三方ヶ岳へ県境通りに踏み跡があり、ヤマップの赤線通りのルートは回避した。あっけなく三方ヶ岳に登頂。縦走の目的は果たした。
 下山ルートは少し戻って、三方ヶ岳の東のコブ(東三方と命名)から塩津への尾根にとる。踏み跡程度の路が続く。下りこそ、ルートを外さないようにGPSのチェックが必要だ。ヤマップの真価はこれだ。中間地点にある四等三角点は尾根が平らで、やや低い所に埋設されるから分かりにくい。倒木に隠れていたのを発見した。
 最後の下りも尾根が広がり、GPSの出番が頻繁になる。地形図にある赤線には大抵は赤テープなどのマーキングがあるものだが、最後は無くなった。獣道をたどり、地形上の弱点を探りながら廃林道に下れた。もう安心。林道も確り、歩いて、最後は獣避けのゲートを通過。
 塩津の山郷の集福寺に着いた。疲れもあり下塩津神社参拝はパス。雪が深いであろう集福寺の山郷を離れると国道8号だ。大型トラックなどクルマやバイクが激しく往来している。
 近江塩津駅までは約1km15分の道のりだ。16:07の発車まで、いくらも待ち時間はなく、冷たい飲み物で渇きを癒した。一駅先の余呉駅まではいくつものトンネルを抜けた。空間に湖が広がるともう余呉駅だ。
 毛受兄弟の墓までは約5kmあり、Wさんに予めデポした自転車でクルマの回収に行ってもらった。こうして美しい庭園のような湖北の山旅を堪能した。誰にも会わず、自分たちだけの山、あ、ニホンシカの子供がいたか。今度はどんな計画を立てるか。「早もせかるる次の山かな」

賤ケ岳から山本山へ2021年05月23日

 既登の山と山を結んで縦走したかった。行市山から賤ヶ岳へ、余呉湖を囲む尾根をC形に歩く予定だが、関ヶ原から近江入りすると伊吹山に雨雲がまとわりつく。
 ためらいながら行市山の登山口に行けば小雨と濃霧だ。何と言う天気だ。天気図はちょうど低気圧が居座るがその影響だろう。やがて東シナ海の移動性高気圧の範囲になる。登るに連れて晴れるだろうと、しかし濃霧は嫌だな。
 結局、賤ヶ岳以南の山本山への縦走に変更した。木之本辺りが気圧の分岐点見たいに晴れている。リフト沿いに賤ヶ岳に登る。戦国の歴史好きな多数のハイカーがいた。観光の山だなぁ。湖北は麦秋の季節らしく、植田、代田との色ちがいがはっきりわかる。行市山らしい山も雲がとれて見えている。
 山本山縦走へ出発した。落葉期は眺めはありそうだが今はない。みどりの中のトンネルを突き進む。古墳群の案内看板が多い。ほぼ水平の山道は山本山で終わった。

若狭駒ヶ岳の山旅余情2020年11月26日

 若狭駒の余情を楽しんでいる。筋肉痛が時間の経過でほぐれていくのと反対に、山旅の余韻は終わった後から後から湧いてくる。
 この山の紹介文の書誌学考察
A 昭和45(1970)年 伏木貞三『近江の山々』 (白川書院)

B 昭和47(1972)年 伏木貞三『近江の峠』(白川書院)

C 昭和59(1984)年 草川啓三『近江の山』(京都山の会出版局)

D 平成4(1992)年  山本武人『近江朽木の山』(ナカニシヤ出版)

F 平成11(1999)年 近江百山之会編著『近江百山』(ナカニシヤ出版)

G 令和2(2020)年 竹内康之「山と渓谷」誌11月号202Pのガイド記事

  駒ヶ岳の由来は

 Aは蔵書になく、検索で目次がヒットしたので見ると項目がない。

 Bには木地山から若狭へ越える峠道は3つあったと紹介し、木地山峠の項目を重点的に解説。駒ヶ岳については記載がなく、駒ヶ越と河内越の2本を簡単に紹介。下る予定だった尾根道は昔は池河内(木地山の真北)へ越えた峠道だったのだろう。河内越が2か所もあるので一方を駒ヶ越にしたのか。

 Cの本は駒の連想から駒ヶ岳由来を説く。したがって馬も通れる道だったと想像する。しかし、馬を通らせるにはS字形の道が必須であり、重量が重いから痕跡は残るだろう。奥三河の山間部の街道跡には残っている。(寺山)書きで寺山としてある。著者は若狭側から藪漕ぎで登っている。様子は今と大違いである。当時でも森林公園からの切り開きはあった。

 Dは写真のリアルさが際立つ良書。ここでは登山ルートとして上中町へ越えた河内越を紹介する。尚、若狭町は小浜市とばかり思っていたが、「2005年(平成17年)3月31日 - 三方郡三方町・遠敷郡上中町が合併し、三方上中郡の自治体として発足。」とあるので独立した自治体である。
 五万図熊川に残る破線路をトレースしているが藪漕ぎである。
麻生谷にかかる橋を渡るのは今も同じだが、杉は植えて20年くらいの若杉であり風景が違う。略図を見ると焼尾谷の対岸の道標にあった「ろくろ橋」は麻生川にかかる橋で昔はそこに登山口の道標もあったと思われる。
 ブナの疎林の落葉を踏みしめて歩いたが、写真で見ると当時は背の低い笹が茂っている。ブナも若く、日光が差し込んでいたのだろう。ここでも由来に触れているが、不明。
 寺山は若狭側の地名。ちなみに三角点の点名は寺山。木地山では河内越が正しい。駒ヶ岳山頂の写真は下は笹に覆われ、灌木が茂り、展望は皆無だろう。三角点は今は盛土の上に埋まるが当時は平地に埋まっていたと思われる。周囲の土砂が削られたのだろうか。Cでも三角点の周囲だけは同じである。

 Fでも由来に触れるが不明とする。ブナ林は千古斧鉞の森ではなく、炭焼きの際に切り残したという。つまり、ブナは良い炭にならず、意図的にブナを残して択伐していたのだ。
 確かに、ブナの文字は山毛欅、橅、椈、桕、橿と多い。2番目は国字ですが、木では無い、と有用な樹種ではなかった意味が込められている。水分が多いので曲がりやすく建築材にはならず、戦後はパルプ材になった。
 すると植林と同じ原理で間引き(間伐)することによって残ったブナは成長し易くなる。ブナは一番背が高くなるので成長とともに周囲の木や笹も発芽できず、ブナの純林になるのだろう。それを知らずに見て「ブナ林は良いなあ」と感動しているのである。
 今の登山口の近くにあるろくろ橋も昔は少し下流の分校跡から入山したらしいが、草深くなって今のところに移動した。するとあの道標は朽ちてもおらず、新しいように見えたが20年以上は経ったのか。
 結局駒ヶ岳の由来はどの本も言及されず、不明でした。それどころか、山名などなかったし、駒ヶ岳なんて初めて聞くと地元の人の話を紹介している。

 以下は駒ヶ岳異聞というか小説である。
 金達寿『日本の中の朝鮮文化』(講談社文庫)シリーズの長野県か山梨県辺りのどこかに駒ヶ岳は高麗ヶ岳という説を紹介している。いつの時代か、渡来人が大挙して日本に来たのだろう。ウィキペディアには「10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだが、1259年に高宗の時代に複数に渡る元の侵略で降伏・皇帝号喪失で元の属国になった。」とあるから乱世を逃れて日本に来たのかも知れない。
 確かに山梨県には北巨摩郡があり、甲斐駒がある。埼玉県には高麗神社がある。高麗の地名は意外に多い。但し、全国の駒ヶ岳の場所からのイメージでは一つにくくれない。北海道の駒は説明できないからだ。朝鮮人作家ならではの視点ではある。
 私の連想では、若狭には熊川宿(くまがわ)があり、韓国の釜山には熊川(ウンチョン)がある。百里ヶ岳は韓国の釜山とは500kmの距離にある。江戸時代の蕪村の俳句に「方百里」という言葉があるが、多分中国由来だろう。今の日本の換算では1里は約4kmなので400kmになる。実際は500kmもあるが誤差の範囲に入れても良い。
 昔の戦乱や乱世を嫌った職能集団は渡来人として対馬海流に任せて若狭湾にたどり着き、山越えで近江に流れ込んだ。
 他方で敦賀湾からも渡来人が流入してきた。敦賀はおつむの意味という。仏教徒や文人も来たのだろう。湖東にも朝鮮文化がある。
 演歌歌手の前田卓司の「小浜旅情」の歌詞には「御食国」の語彙があるが、皇室などへ海産物などを貢いでいた地域という。そういうルーツを持つ人々が遠い朝鮮半島の故郷を思い命名したのか。
 日本語の文字が発明され、普及するのは平安時代以降になる。和紙の普及も一般人には手に入らないから書き残すことはできず、口伝のみでは伝承できなかったのだろう。

鯖寿司を食う2020年11月23日

 11月22日は若狭駒ヶ岳に登山後、旧朽木村の中心だった高島市朽木市場に行った。朽木温泉に入湯するためだ。
 R367は若狭小浜から続くいわゆる鯖街道である。市場までは狭隘な山岳路が一気に広がる。南から流れてきた安曇川がここで東に直角に曲がる。しかも狭いので市場は氾濫河原となって土砂が堆積したであろう。水が引けば利用しやすい平地だから、人々は洪水を恐れながらも住み着いた。
 こんな山間部で信号待ち、渋滞とは。目指す温泉は蛇谷ヶ峰901、5m の北麓にあった。Pは満車。マスクを着け、検温されて入館。温泉は温まりゆったりした。
 入湯後、折角だからと道の駅の売店で鯖寿司を買った。鯖街道に来たからにはこれだ。栃餅も買ってしまった。またR367を戻った。R161の今津から木之本までは大渋滞になった。名神も渋滞なのでほとんど地道で帰名。
 一晩冷蔵庫には入れずに置いて、23日の遅い朝食と早めの昼食の時間帯に食べた。旨かった。鯖は余り厚みはないが、酸っぱさがなく、よくなれた感じ。すし飯が多くて大変だが醤油をつけると美味しい。下味に昆布をつかっているのだろうか。

晩秋の若狭駒ヶ岳を歩く2020年11月22日

 山と渓谷誌11月号に若狭駒ヶ岳のガイド記事が掲載された。以前から気になっていた山の1つである。ダム側から登り予定だったが木地山側からだと周回登山ができるというので3連休でもあり行ってみた。
 5時起き、6時出発と好調にスタート。名2環に入り、一宮ICから関ヶ原ICで出てR365に。木之本から湖北、湖西へと走った。R161、R303から分かれてR367へ。朽木村までは山間の道だが朽木村の中心地からは安曇川に沿ういわゆる鯖街道である。
 注意しながら麻生川に沿う県道23号に入るともう一本道になる。しばらくはバイパスのような2車線の立派な道路である。この道が尽きると一気に1車線の狭い道になる。上を見ると電線と電話線が奥まで続いているので不安ながらも走り通した。川沿いには名残りの紅葉が美しい。バードウォッチャーが大勢で何かを見ていた。
 そのうち、池原山登山口を見つけた。まだ奥に山里がありそうなので行ってみた。バスの終点は木地山という。最奥の村に着いた。木地山でうろうろしていると福井ナンバー3人、徳島ナンバー4人のパーティも来て一気に人が増えた。登山口の表示はないが福井ナンバーの人らが橋を渡って対岸に消えていった。地形図で確認するとその通りである。予定では池原山から駒の池を経由であったが焼尾東谷から登り、山頂を往復後池原山経由で下山することにした。
 このルートは渡渉が多かった。踏み跡も明瞭ではなく、余り歩かれている様子はない。但しポイントには赤テープがあるし道標もあるにはある。沢沿いに歩けば道に迷うことはなかった。焼尾谷が二股になり奥に行くと杉の植林が無くなりブナの森が広がった。その中には名残りの紅葉もあり美しい。ブナの黄葉も見事であろうが今はすべて落葉してしまった。
 谷も立ってきた。そのうち徳島ナンバーのパーティが追い付いて来た。60歳代の男性1名と3名の女性らである。谷の詰めからは尾根に上がった。急登になった。そいて高島トレイルといわれる稜線にたどり着いた。ブナの疎林が広がる素晴らしい尾根である。ここでしばし休憩後、徳島隊は駒ヶ池を見に行くという。私は山頂を目指した。
 ブナの巨木の風倒木に驚きながら馬の背のような広い尾根は歩きやすい。
 駒ヶ越という地点を過ぎた。五万図熊川には木地山(地形図には中小屋)とダム湖に沈んだ河内を結んでいた峠道があった名残りである。焼尾谷の西谷を源流まで詰めてここに上がり、駒ヶ岳寄りに登ってまた谷を下る破線路があった。森林公園との分岐があり、すぐに谷へ下ったのだろう。
 山頂はすぐだった。山頂はただ一人静寂に包まれていた。標高が低い割には自然は豊かである。山頂もブナの疎林で360度大展望ではない。しかし一部から琵琶湖も見える。ブナ越しに若狭湾も見えた。そうかここは日本中央分水嶺なのです。日本海と太平洋側への脊梁山脈でもある。
 12時ちょうどに下山開始、単独行に出会う。徳島隊にも出会った。高島トレイルは下りも快適である。30分で谷道の分岐も過ぎて駒ヶ池に向かう。いい感じでブナ林が続く。駒ヶ池は今にも埋まりそうな感じであった。周辺は高島市側は杉の植林が迫り、小浜市側が辛うじてブナが残されていた。
 駒ヶ池は美しい。いい雰囲気であるがポツリときた。今日は夜は降雨の予報であるが山は早くも時雨模様になりそうだ。池を半周する感じで踏み跡がある。これは地形図にもオームの記号のような破線路で表現されている。
 駒ヶ池を過ぎると杉の植林との境界を歩く。これが高島トレイルかと思うような未整備状態になった。作業道が交差してくるので尾根を外して歩いてみた。すると744mの独立標高点を迂回するように池原山の枝尾根を寸断していた。但し赤テープが巻いてあり、尾根の下り口は何とか分かる。この尾根にも作業道が交差している。池原山へは作業道から赤テープで誘導するようにピークに向かった。三角点を確認できた。そこを下るとささやかながらブナ林に出た。道標が立っている。明確な登山道はないが赤テープが続く方向にくだった。地形図では尾根が二股になったところである。ここからは急降下になった。踏み跡も明瞭ではないが赤テープが頻繁にあるので迷うことはなかった。最後は横向きに下りながら車道に降り立った。
 休む間もなく、木地山に向かって歩き出した。約2kmはあり、40分の見込み。池の原というバス停があったが1軒あるだけ。木地山まであと10分というところで徳島隊の車が帰っていく。ちょっと挨拶したら木地山まで送ってやるというので親切に甘えた。マイカーまで戻れてやれやれだった。
 R367まで走り、朽木温泉に向かった。蛇谷ヶ峰901.5mという山の麓を開発したグリーンパークというリゾート地の一にである。Pはほとんど埋まっていた。3連休のせいで大勢が集まった。入口では検温された。マスク着用も当然。700円払って奥へ。湯船でゆったりした。登山後の温泉は温まるので疲労回復に良い。
 R367沿いの道の駅で栃餅、鯖寿司を購入した。鯖街道だから良い土産になる。これで皆終わったので帰名するのみである。良い1日になった。

湖北の東山595mを歩く2020年04月04日

 琵琶湖の地図を眺めると、北部に二つの半島が突き出ている。右は葛籠尾崎、左は海津大崎という。東山を境に東西は高島市と長浜市にまたがる。400m~500m級の南北に長い稜線は敦賀市との境まで伸びて、野坂山地につながっている。敦賀市は若狭国、長浜市と高島市は近江国でその国境は江若国境になり、日本中央分水嶺になる。
 
 今日歩いたのは江若国境から東山に伸びた稜線の一部である。

 実はビワイチのコース研究をしていて、偶然に知った山だった。ビワイチのルートは基本的に湖岸に沿って走るが湖北の一部は湖岸から離れる。まず高月町では片山トンネルを抜けて田園地帯に入る。賤ケ岳から南下する稜線を迂回するように、余呉川沿いに北上し、R8を横断して、賤ケ岳隧道の旧道を走る。つまり国道8号の賤ケ岳隧道は回避しながらまた合流する。藤ヶ崎トンネルの手前で藤ヶ崎の半島の湖岸道路を走る。塩津浜の街を北上し、R8を横断して、岩熊へ農道を西進、R303に合流して、岩熊第二トンネルを通過、しばらくはR303to並行する。大浦に来たところで又南下する。再び湖岸に接したところから海津大崎を経て海津マキノ町まで走り、そこからはほぼ湖岸から離れることはない。
 つまり葛籠尾崎の半島はカットされるわけである。そこは湖岸道路も半分しかなく、菅浦からは山の上に登り、18.8kmの奥琵琶湖パークウェイになる。菅浦しか出発できない一方通行であるが自転車も通行は可能。しかし、ビワイチの流れに逆らうのでバリエーションルートになる。これでビワイチのコースの概念は得られたので後は実施するのみだ。

 さて、ハイキングの方は、名古屋を6時に出発するつもりが就寝が遅かったせいで、8時過ぎの出発になった。いつもなら関ケ原ICで米原経由をショートカットするがフルに使って、永原駅には9時40分に到着。準備して10時丁度に出発した。湖西線の下をくぐって、黒山集落に向かう。中ほどから西へ振って、万路越を目指す。田園地帯と山際には獣除けの柵があり、カギを外して入る。そこからはずっと林道か作業道のような良い道が続く。終点からは古い峠道の道型が残っていた。良い雰囲気で歩ける。明るくなってようやく峠に着いた。地蔵が祀ってある。
 トレースは道標のない稜線であるが、北から来る作業道に入ってみた。地形図の実線である。終点から三つ目のコブにかすかな踏み跡があり、辿ると赤テープでマーキングがあり、稜線に乗ったことを示す。一つ目のコブを越えて、峯山へ着いた。ここで12時になった。永原駅から2時間ジャスト。それにしても倒木だらけの稜線である。
 峯山を後にして二つ目のコブで3人パーティに会った。まさか人に会うとは思わなかった。彼らの話では平成29年の風倒木らしい。道標代わりの赤テープの木も倒れているから厄介だ。東山から40分かかったという。彼らと別れて下ると、今までの杉の植林帯から落葉広葉樹の林になった。最低鞍部から等高線の緩い、明るい森の中に春の日差しを浴びながら登り返すと反射板の建つ566mに着いた。ここは竹生島の展望台の名前があった。
 566mからコブ一つアップダウンすると東山に登頂。2時30分だった。ここから483mまでは等高線の緩やかな森の中を赤テープを探しながら下る。483mからは尾根が急峻になり、蟹の立て這いのように靴のエッジを利かせながら下る。尾根の分岐では、ダイレクトに南下しそうになるが、赤テープがしっかりつけられていてロスもなくルートを辿れた。ここまで下ると下界から音楽が聞こえてきた。忠実に尾根のテープを辿ってポンと遊歩道に出た。大崎寺に通じる遊歩道で岬の展望台があるが倒壊中で立入禁止だった。寺の横から歩道を下るとソメイヨシノ600本の桜並木に着いた。車は片側通行に規制中だった。
 サイクリスト用の青い線内が歩道代わりになっていたのでテクテク歩きが始まった。桜は満開で素晴らしい。どこにでもあるとはいえ、素直に美しい桜並木である。歩きながらの花見になった。マキノ駅までは4km。R161に出て、マキノ駅へ。4時30分になった。一応ここで終わった。電車は16:51に乗車、先ほど歩いた峯山の直下のトンネルをくぐると永原駅までは5分。16:56に着いた。移動、休憩も含めておよそ7時間弱のハイキングになった。
 帰路は奥びわスポーツ公園などをチエックしながら湖岸道路を南下してみた。湖面はさざ波が美しい。桜並木もある。中々に良いロケーションの道だ。ビワイチをやろう。