嬬恋村スキー行④2023年01月27日

万葉防人歌碑
 朝7時起床。朝食は今日も豪華。その後帰宅の準備、エンジンは一発とはいかないがかかった。9時30分には宿の前で記念撮影。
 宿から高原の道路を下り、R144に出る。積雪路の鳥居峠を越える。峠の下の茶屋で五平餅を食す。クルミだれだそうです。
 R144から上田市に近づいたところからGPSのナビでR18への近道を走る。R18を長野へ向かう。上田市と坂城町の境界を越えたらすぐに神社があった。そこに万葉歌碑と札が建っていた。次の信号で会地早雄神社(おうちはやおじんじゃ)の裏へ回り込みP。まさしく防人の歌が漢字のみで彫ってあった。

 原文  知波夜布留 賀美乃美佐賀尓 奴佐麻都<里> 伊波<布>伊能知波 意毛知々我多米

 滝沢公庵により天保年間( 1830年から1844年までの期間を指す。 この時代の天皇は仁孝天皇。(に建立されたという。)

「右に文政8年(1825)当地の国学者:瀧沢公庵が建立した「万葉歌碑」(右)、横に明治20年(1890)建立「芭蕉付句碑」が並びます。
※文政:天保の前。1818年から1830年
天平勝宝7歳(755)神人部子忍男が防人として筑紫に派遣される際、詠んだ歌。
「ちはやふる神の御坂に幣奉り 斎ふ命は父母がため」」
 早々に目的を達成。諏訪に向かう。途中でかっぱ寿司で昼食。地方道65から山越えしてR254へ。更にR152に出た。これで往路のルートに戻った。岡谷市の市街地を通り抜けて天竜川の左岸の地方道を走る。駒ケ根市に越える火山峠の直下に芭蕉の句碑があり見学。
http://urawa0328.babymilk.jp/nagano/hiyama.html
 それからもひたすら左岸を走行。天竜川を右に見下ろす断崖の上を通過。その後右岸に渡りR153に合流。渋滞を見てまもなくナビは農免道路へ回避した。松川を渡る手前の飯田市砂払の砂払温泉で一風呂浴びた。ナビは街中を迂回して山沿いに走り飯田山本ICの南でR153に合流。後は雪の治部坂峠を越えて帰還。約586kmでした。

嬬恋村スキー行②2023年01月25日

 1/24夕方から一日中吹雪になった。スキーは中止。宿の中で過ごす。朝食、夕食とも豪華なことが慰めになる。榾の宿はいいね。一日中暖炉を燃やして楽しめる。標高1400m以上の高原の宿は天国。

嬬恋村スキー行①2023年01月24日

小野神社(信濃二之宮)
 朝4時40分出発。R153を走る。治部坂峠を越える。中央本線小野駅の近くにある小野神社に向かう。辰野町から塩尻市に越えてすぐだった。塩尻市にあって信州の二の宮というのに無人で閑散としている。

https://blog.nagano-ken.jp/matsuchi/culture/124.html
塩尻であって、塩尻でない場所~小野神社・矢彦神社~


 地形図を見ると何と霧訪山の山懐に抱かれたような小野神社でした。
目的を果たして満足。

 その後小野から諏訪に迂回する地方道を走りR20へ。すぐにR142に合流。和田峠を越える。R152になり上田市に向かった。昼食後坂城町に向かったら降雪が始まったので中止。R144に行き、降雪は本格的になる中鳥居峠を越えた。
 R144をどんどん下って近道の愛妻の丘ラインは通行止めなので別の道から宿に向かった。宿の寸前から雪道が深くなる。どこかで見た顔がいたので挨拶したら幹事のTさんだった。クルマがスタック。坂道でチェーンを装着しがたいので宿まで牽引した。
 1年ぶりか2年ぶりの顔合わせで豪華な夕食を楽しんだ。

道志村行方不明の愛娘骨とならばや沢をただよう 拙作2022年04月28日

 山梨県道志村のキャンプ場で行方不明になった小倉美咲さんは2019年9月21日当時7歳だった。どこをどうやって不明になったものかは分からないまま早も2年半も経過した。当時大動員して捜索が行われた。微力ながら私も半日ほど捜索に参加した。
 令和元年12月初めも東京へ行った帰路、わざわざ道志村経由で帰名した。道志村の道の駅によると、小倉さんの母が捜索の手掛かりになる情報を求めてチラシを配っていた。母としては諦めきれない。
 ここにきて突然捜索ボランティアが骨を発見して再び大騒ぎになっている。現在ではDNA鑑定をして美咲さんのものか調べている。母は聞かされた際に美咲のものではないと否定した。キャンプ場から東へ600m離れた山中の水の流れのない沢という。当然そこも何人もの人の捜索が行われた場所だった。
 有名な尾畑さんの記事を読み直すと子供はなぜか山は下らず、山に登るという。尾畑さんは体験的に30分登って瀬戸内海の島の行方不明事件の解決に貢献した。そういうものかと思う。
 すると美咲さんも母の意に反して登ったのであろう。当時は大勢の人の声も聞こえていたんじゃないか。神隠しにあって身動きができなかったのか。美咲さんはうずくまったまま遺体となった。山の一部になったのだ。たまたま沢の中だったから下流に移動した。300m上流には靴も発見された。今、鑑定中だ。

冠雪の富士を眺めし菜畑山 拙作2019年12月08日

 12/7の夜は年次晩餐会だった。せっかく上京して手ぶらで帰名することはない。どこか関東の山をと物色した。9/28には小倉美咲ちゃんの捜索で来たことがある道志村経由だと神奈川県を通過して渋滞にはまる心配はない。宿は府中市にあるのでむしろ山梨県経由に好都合な位置になる。
 デニーズで朝食後は多摩ニュータウンを通り抜けた。府中市は欅の黄葉だったが多摩は銀杏の並木の黄葉が真っ盛りだった。ナビはR413へと導いてくれる。ところが山間部に入ってすぐの青根で通行止めと分かった。一旦戻って県道518号に入り、山越えで道志村へ戻った。
 とりあえず道の駅{どうし}まで行く。登山の服装に着替えた。トイレの近くで9/21に行方不明になった小倉美咲ちゃんの両親がビラ配りしていた。私も9/28には捜索にきましたとご挨拶した。残念ながらまだ何ら手掛かりがない。激励の言葉がけするしかない。ひょっとすると誘拐かも知れず、それだと生存の可能性もある。希望を失わずにと激励するほかない。
 今日は帰りがけの駄賃に菜畑山(読みはなばたけうら)に登ってみたかった。山梨百名山の一つ。帰りがけだから本格的な登りではないことが条件であり、往復1時間もあれば頂上を踏める山である。道の駅から少し下り、山家の奥へ急坂の車道を上る。狭いので小型車が有利だ。カーブもタイトで小型でも切り返した。終点に電波のアンテナがあり車道はこれの管理のためだろう。ここまで車が入れれば1080mに達する。山頂は1283mなので比高200mほどだ。しかし、いきなり胸を突く急登である。
 道志川右岸側に鳥の胸山(読みはとんのむねやま)があるが等高線が詰まっているので急登の意味であろう。大町市の鳩峰も松本市のハト峰も等高線が詰まっている。急登のことを胸を突くと表現する。胸突き八丁ともいう。菜畑はどんな意味か、沢の名前から由来ともいう。なばたけ沢のウラすなわち高いところの意味か。
 直線的な尾根の登りは途中でジグザグに登山道が作り直されていた。これで傾斜が和らぐ。雑木の尾根を喘ぐと山頂だ。カヤトの少し平なところ。かつてはここにもアンテナがあったのか、コンクリの礎石がありイスもある。ここからは富士山が良く見えるが今は逆光でテラテラ光っている。夜になるとアイスバーンになる。
 縦横に縦走路があり道標もある。またいつしか民宿にでも泊まって白い富士山を眺めつつの縦走も良いなと思う。今日は登りは本格的ではないがちょっとした道志村の山の味を知った。
 下山すると気になって居た燃料計メーターがガクッと減っているそうなので山中湖村経由から都留市経由に変更してGSに急いだ。都留市へは峠道を下りきったところにGSがあり満タンにできた。
 帰路はR139から富士山の西麓の県道71号に走り富士宮市、富士市と南下。R1のバイパスに入り、清水ICから東名で帰名した。夜10時過ぎたが、忘年会良し、山良しのまあまあ満足な2日の旅だった。

浅田次郎『神坐す山の物語』を読む2018年01月08日

 浅田次郎。双葉文庫。2017.12.17刊。単行本は2014年に双葉社から刊行。
 東京都の御嶽山が舞台。母が御師の娘だったせいで昔話を聞かされて育ったという。それを浅田流の怪異な小説に仕立てた。言わば母が語り部であり、浅田が書き手になった。遠野物語も原作(種本)があり柳田国男が韻文で著した。
 大衆小説家の第一人者の浅田次郎がなぜこんな小説を、と思うが山岳書の世界で怪異な物語本がロングセラーになっていることが影響しているかに思う。例えば山と渓谷社の『山怪 山人が語る不思議な話』は増刷に増刷を重ねている。続編も刊行された。続けて『定本 黒部の山賊 アルプスの怪』も復刊された。
 本書もその流れに乗ったのだと思う。
 私も小学生の時代、住んでいた小さな農村では狐憑きにあって山へ逃げ込んだ人がいて、火事で鳴らす半鐘を叩いて村人を集めて夜中に山狩り(捜索)がされたことがいまでも記憶の底にある。あるいは2つ3つ年下の近所の男の子が神隠しに遭いこれも大騒動することがあった。山は怖いところだという印象をその自分に叩きこまれたのである。 
 今でも単独行で山中で相手も1人というときは緊張する。女性だと尚さらに警戒心が働く。山をひとりで彷徨う人間ほど怖いものはない。
 さて、過去の日記か報告書のような文体である。登山でもいつしか迷い易い平を歩いていて、とんでもない道に入ることがある。だから気をつけていないと何が書いてあるのか脈絡がとれなくなる気分である。それでまた丁寧に虚実の分かれ目をたどるように読み直すことがしばしばであった。
 中でも「兵隊宿」は傑作であろう。東京都の山奥から遥かなる中国大陸の日露戦争の戦場へと導かれる。知ったが終いなのでそれは読んでのお楽しみである。
 『鉄道員』の中盤にも赤ちゃんのままで死んだ娘の亡霊が成長した姿で主人公にまとわりつく場面がある。本書と併せて読んでみてははん、浅田次郎の小説の真骨頂はこれなんだな、と納得する。たくましい想像力と子供のころに培った御嶽山の昔話とがないまぜになって浅田ワールドを構築しているんだ。たった2冊を読んだくらいで分かったふりするなと紙つぶてが飛んできそうだ。
 
 話は代わるが俳人の岡田日朗は御嶽山の俳句を多く残している。都民には親しい山なのであろう。
 山上に御師の町あり月照らす
 老鶯や裏道抜け道御師部落
 春暁の雲に埋まりし御師部落

 御師部落とは山の神に仕える神官のことで、その神官の村。東海地方では岐阜県白鳥町の石徹白が知られる。全戸神官で名字帯刀が許されたという。白山への登拝を代わりにする代参をしたという。

初冬の富士を見る山行・箱根・神山を歩く2014年12月09日

 12/7(日)はゆっくり起きた。酒の勢いでよく眠れた。今日は予定では奥多摩の山だった。昨夜のニュースで降雪がありそうなので中止して、箱根の神山にした。往路と同じ道を引き返すように箱根に走った。箱根の近くに来てから、同行者の1人が途中で朝食を取るためにはいったガストにスマホを忘れたことに気づいた。連絡をとって宅配便で送り返してもらう交渉に手間取った。先を急ぎたいのに大きな時間のロスになった。
 登山口の箱根園に着いたのは11時過ぎになった。ロープウェイに乗車し、7分で駒ケ岳山頂に行ける。簡単すぎて何の感動も無い。駒ケ岳神社に型通りの参拝を済ませてから笹の山頂を下った。足元は霜柱が解けたせいで泥んこになっている。神山への最低鞍部に下ると良い道が交差している。そのまま神山へ岩のゴロゴロした登山道を登った。その際、硫黄臭が漂っていることに気づいた。ここも噴火の危険が迫っているような気がする。東北大震災をきっかけに各地の火山活動が活発化しておるようだ。
 神山へはあっけなく登頂できた。周囲は樹林越しに見えるだけで、富士山も最初は見えたがそのうちすっぽり雲に覆われた。山頂付近は霜柱ではなく降雪があったようだ。富士山が見えないと興趣はそがれる。再び往路を下った。交差点では右に坊ヶ沢を下った。笹が刈り払われて歩きやすい道である。
 下りきったところは県道だった。県道を歩いてロープウェイ駅まで戻った。予期しないアクシデントで時間切れになった。楽しみにしていた温泉もそばもカットして御殿場ICに向かった。


 箱根の山では硫黄臭があるとの情報がインターネットにアップされているので引用する。以下を読むと金時山から眺めた神山の山腹の噴煙は最近のものだと分かった。御嶽山だけではないのだ。人災にならねば良いが・・・。

2チャンネルから孫引き
2014年12月08日(月)

東日本大震災後、体に感じる地震の回数も減り、落ち着いたかに思えた日本列島。だが、長野での地震、御嶽山・阿蘇山の噴火など、大地の動きはつづいていた。そしていま、さらなる地殻変動が?。

■70年近くいて初めて見た

「なんだ、あれは……」

11月下旬、神奈川県と静岡県の県境にまたがる金時山でのことだ。ここは、富士山麓に連なる箱根山のすぐ近くに位置する。「金太郎」こと、「坂田の金時」伝説ゆかりの地でもある。

登山が趣味の本誌記者は、この山に100回以上登っている。麓の町から山道を歩くこと1時間半ほど。山頂付近にある山小屋の人々もすっかり顔なじみだ。

しかしこの日、見慣れたはずの風景を何気なく眺めていると、奇妙なものが目に飛び込んできたのだった。

「箱根山から、煙が……出てる?」

あいにくの天気で雲も低く垂れこめているが、丸で囲んだ部分、中腹の山並みの間から白い煙があがっている。

箱根の山は、言わずと知れた温泉観光地だ。地中に溜まったマグマの熱で地下水が温められ、温泉として噴き出している。

常に活発に噴気をあげている大涌谷は温泉たまごなども有名で、ピーク時には一日約2000人の観光客が詰めかけ、火山の生み出す特徴的な風景を楽しんでいるという。ちなみに大涌谷に向かうロープウェイの
年間乗客数は世界一であり、昨年度は220万人。ギネスブックにも載っている。

世界で一番、身近な火山とも言える箱根山。そこで噴気があがったと聞いても、「箱根ではいつでも噴気が出ているんじゃないの?」と思われるかもしれない。

しかし今回発見したのは、大涌谷から尾根ひとつ越えた、北西側の斜面だ。しかも、その噴気は大量で、離れた場所からもはっきり目視できるものだった。

この金時山頂上の山小屋で1947年、14歳のときから働いている「金時娘」こと、小見山妙子さん(81歳)に訊ねてみた。

「あの噴気のこと?あれは私も驚いてんのよ。噴気なんか出るようなところじゃないと思ってたから。最初は誰かゴミでも焼いてるのかと思ったの。はじめは細い煙みたいに見えたけど、日が経つにつれてだんだん
大きくなってきた」

(記事の続きや関連情報はリンク先で)
引用元:現代ビジネス http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41336

初冬の富士を見る山行・箱根・金時山を歩く2014年12月08日

 行けそうで行けない関東周辺の山。箱根の山は観光気分が強くて、先送りして行くうちに、定年後の今になった。余り体力も要らず、ルートファインディングといった煩わしい技術も不要のハイキングの山である。名物の蕎麦と温泉を味わえれば、と未明の名古屋を発った。刈谷で1名を拾い、岡崎ICから東名に入る。三ケ日JCTから新東名に入ると後は富士山を見ながらのドライブとなった。
 静岡を過ぎて、富士川を渡る直前から雄大な富士山が目一杯に広がる。愛鷹連峰の南端を回って御殿場ICに向かう。この付近で東名と新東名が合流する。すぐに高速から降りた。降りてからも分かりやすく、乙女峠に行ける。トンネルをくぐって若干下ったところに金時神社がある。Pはすでに満車状態で、日本三百名山だけあってナンバーも全国区である。そこに車を置いて歩き始めた。道標には75分とあるから軽い気分で歩く。
 左にコンクリート製のマサカリをかたどったモチーフがある。公時神社(キントキジンジャ)である。山名の由来の元らしい。登山道は多くのハイカーが歩く。岩が露出していて歩きにくい。境内を過ぎると車道を横切り、傾斜も急になった。ぐんぐん高度を上げて行くと大きな割れ目のある岩に着いた。更に登ると植林の道から低潅木の道になった。明るくなり、周囲の山が見え出す。山腹をからむ道から尾根道と合流して更に傾斜が増す。足元は悪いが、富士山への期待がいや増す。木の根のからむ急な道を登り終えると狭い山上に茶屋が2軒もある山頂だった。
 1軒は元祖を名乗る金時娘の茶屋で『強力伝』のモデルになった小宮山正の娘・小宮山妙子さんの店。もう1軒は金太郎茶屋。小宮山妙子さんは昭和22年以来、14歳から茶屋を切り盛りしているとか。今年で67年になる。ということは81歳になる。飲み物を頼んだが息子さんが居ないということで出来なかった。後姿は見た。ここへ自力で登ってくるだけでも大変なことだ。
 さて、ここからの富士山は前山がなく裾野からコニーデ型に伸び上がる山容が素晴らしい。金時山も富士山のこの眺望あっての名山である。富士山の別称を芙蓉の峰というが、厳冬期はそう見えるかも知れない。眺望を堪能して下山した。
 同行者が是非にでも蕎麦を食いたいというので強羅の温泉街の一角でやっと探し当てて食べた。温泉の臭いの立ち込めるいかにも箱根の風情が漂うところだ。今回は明日、東京で行われる山岳会の年次晩餐会に参加するため神奈川県鎌倉市大船の宿に向かった。
<iframe width=500 height=400 frameborder=0 scrolling="no" marginheight=0 marginwidth=0 src="http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/index.html?lat=35.281873&lon=138.938419&z=12&did=std&ifr=1&fsc=1&sca=0&zmc=0"></iframe>

實川欣伸著『富士山に千回登りました』2011年07月14日

 ついこの前にも『まいにち富士山』の本のことを書いたが今日も書店を覗いたらこの本が目に留まった。富士登山ブームが起きていることは仄聞しているがその頂点にいる人による相次ぐ出版である。
 日経プレミアムシリーズ。新書版。2011.7.8刊行。著者は1943年生まれで68歳。日本山岳会会員。静岡県沼津市在住。
 どちらも富士山が好きなことでは人後に落ちない。佐々木氏は64歳から始めて800回を達成、實川氏1985年に初の富士登山をして以来というから42歳から始まったことになる。1000回目は2010年10月10日に達成。
 本書には佐々木氏のことも出てくる。顔なじみになるのだろう。全編が体験記に満ちている。富士登山を道楽にしてしまった変人クラブでもあるのだろう。交流記にもなっている。つまり自慢会のようなもので誰かの賞賛を励みにしている気がした。
 話題を変えると山登りにもいろいろあるものだ。
 日本百名山
 日本二百名山
 日本三百名山
 1等三角点百名山
 日本の3000m以上の山を全部登る
 ガイドブックにある山を全部登る
 日本分水嶺を歩く人
 日本の2000m以上の山に全部登った男
 日本の1等三角点968座を全部踏破した男
 みんなすごい人ばかり。しかしこうした記録が山岳雑誌で採り上げられることは余りない。山岳界では初登頂、初登攀が重んじられているからだ。つまりマスコミ受けしないと題材にならなかった。
 もともと山は静かに歩いて楽しむものだった。
 いまどきのニッポンのフジさんに起きた超変な登山ブーム。
 ふっと思いついたのは江戸時代に起きたおかげ参りとええじゃないか、という伊勢神宮への集団巡礼運動である。あの時代も幕末で政治の行き詰まりがあった。
 今もまた国政が行き詰まっている。コロコロ変わるニッポンの首相さんたち。富士山に登ることで濁世、浮世の憂さ晴らしかな。
 しかし本書にそんな視点などあるわけではない。純粋な登山記である。

佐々木重良著『まいにち富士山』2011.6.20刊2011年06月25日

 定年後、サンデー毎日になる人が増える一方。もてあますヒマを富士登山に費やす人が居る。しかも本になった。富士山に一度も登らぬ馬鹿、三度登る馬鹿、という根拠不明の言葉があるがこの人は度を越している。
 著者は昭和15年生まれで今年71歳になる。64歳で富士山に初登頂して以来、富士山にとりつかれてしまった。本書は厳冬期以外は”まいにち富士山”に登ることになった顛末記である。
 その回数は819回という。大阪の金剛山に毎日登るとか、鈴鹿の藤原岳に800回登る短歌も読んだことがあるがこの人は日本一高い富士山である。
 5合目の標高は新富士宮5合で2400m、御殿場で1450m、富士吉田で2304m、須走口で1959mあり、一番楽な標高差でも3776-2400=1376mある。標高差300mにつき1時間はかかるのでおよそ4時間半は見ておきたい計算だ。
 この著者はこれを2時間40分で登っているそうだ。早い。これが鍛錬というものだろう。ちなみに『50歳からのヒマラヤ』の著者の石川富康氏はヒマラヤ登山のトレーニングで5合目から4回登ったうち、最初の2回は3時間を切れなかったが3回目で2時間を切ったそうだ。まだ50歳の始めだからといえる。
 以前に富士山は8合目からが苦しいと聞いたことがある。急な山道が災いするのだろうか。薄い酸素に体が慣れるまでは危険である。酸欠で死亡する人もいる。小屋には酸素も売っているほどだ。その負荷ゆえに下山後の体重は2kgも減るとか。著者も73kgあった体重が減り始めて60kgを割ってしまい、栄養補給に努めてほぼ60kgをベスト体重として維持しているそうだ。
 体験記であるがガイドブックにもなるし、読み物としても面白い。特に銃後を守る奥様のポーカーフェースぶりに抱腹絶倒してしまう。すごいわね、頑張ってね、よくやったわね、などと激励しようものなら調子にのって協力させられることを恐れているのだろう。
 著者は元教員だけに事があって新聞に出たら恥ずかしい。山の事故はことさら大げさに報道される傾向がある。教え子も心配するだろう。妻にすれば単独で登山して無事に帰宅すればそれでよし。夫の清遊を優しく見守っているのだ。
 そんな夫婦間の雰囲気も客観的に描写されて流石は元国語教員と思った次第。それと新田次郎の『強力伝』を読んで富士山登山を意識していたというのも先生らしいきっかけであった。