野伏ヶ岳の捜索は?2021年05月09日

 早朝5時30分に名古屋を出発。石徹白へは8時30分に着いた。高速道路のおかげで早いものである。石徹白は何年振りかで訪れる。アルペンスキー場はウイングヒルズ白鳥リゾートスキー場に名を変えてやっている。石徹白スキー場は閉鎖し、白山スキー場はスノーウェーブパーク白鳥高原スキー場に名が変わった。
 以前との違いは別荘がとても増えたことである。以前に来た際に石徹白川右岸に別荘が並んでいて驚いたものだった。こんな豪雪地帯なので利用できるのは6カ月くらいだろう。
 白山中居神社に着いてみたが、Pには車2台あるのみ。対岸に渡ると品川ナンバーが1台置いてあった。これが行方不明者のマイカーだろうか。他には誰もいない。時折、釣り人らしいのが通りかかる。捜索本部があり、多数の捜索隊をイメージしていたが、これではどうしようもない。
 中居神社の社務所の人に聞くと5/5に一度ヘリコプターは飛んだがすぐに解散してしてしまったらしい。今は山頂への尾根も藪が出ているので、山菜とりと同じで捜索隊の二次遭難を考慮したとも言われた。どこで聞いても同じだと、自信ありげにいう。これではモチベーションが一気にしぼんだ。
 北陸へのドライブに切り替えた。中在所まで戻ると、鮎川信夫への詩碑への案内板があったので見に行った。

     山を想う          鮎川信夫

 帰るところはそこしかない
 自然の風景の始めであり終りである
 ふるさとの山
 父がうまれた村は山中にあり
 母がうまれた町は山にかこまれていて
 峰から昇り尾根に沈む日月

 おーいと呼べば
 精霊の澄んだ答えが返ってくる
 その谺のとどく範囲の明け暮れ
 在りのままに生き
 東洋哲人風の生活が
 現代でも可能であるのかどうか

 時には朝早く釣竿を持ち
 清流をさかのぼって幽谷に魚影を追い
 動かない山懐につつまれて
 残りすくない瞑想の命を楽しむ
 いつかきみが帰るところは
 そこにしかない

 石徹白は父親の出生地らしい。
http://itoshiro.net/map/map0310.html

 詩碑に佇んでいると、ぽつりと冷たいものが降ってきた。今日は雨になるのか。長良川流域では晴れていたが、日本分水嶺を越えると日本海側の気候になり、じめじめと湿った雨が降り、悪いのである。

野伏ヶ岳で登山の67歳男性が遭難か 捜索も手がかりなし2021年05月05日

https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagoya/20210504/3000016511.html?fbclid=IwAR05bMiE4dVKFSv9Dt1vh-zlvM2FNWpz2_yyUhHB7ZnIZfSomIS4v9eubmM

 登山道が無い山なので捜索隊も途方に暮れているでしょう。捜索隊は頑張ってください。
 4/30に妻宛てに電話で野伏ヶ岳に行くと伝えた。5/3になっても下山の電話が無く、妻が警察に届けた。5/4に警察で捜索活動がされたが、発見されず。5/5は朝から雨で、現地でも捜索は困難だろう。この山に登る前は猿ヶ馬場山に登っている。野伏ヶ岳もともに日本三百名山であるから、GWに集中的に登りに来られたんだろう。どちらも無雪期は登山道が無く、登れないから残雪期を選んだと思います。なので道迷いに備えて、ツエルト、非常食、コンロなどを携帯し、ビバークの準備くらいはしていると思いたい。
 GWに入る前に、知人から野伏ヶ岳の状況の問い合わせがあった。今年はFBなどの仲間内の記録から雪解けが早く、残雪を踏んでの登頂は困難でしょうと、伝えた。山岳会の仲間も願教寺山への渡渉地点で撤退していることなど教えてあげた。多分中止していると思う。
 不明の男性も林道を歩き、あの広い和田山牧場までは登れたに違いない。そこからどう登るか。
 ヤマップの記録では4/30が近い。ダイレクト尾根を登り、北東尾根を下っている。
 バンビさんの日記から「いろいろ試練があり山の怖さ甘くみたら痛い目にあうのがわかった山行きとなりました😅
 薮こぎが激しすぎるのと、下山すごい豪雨になって見えなく薮でストック無くすし携帯充電切れ道迷いにあうし。最悪なのは道迷いで池にたどり着いて雪の池を膝まで入り渡ってようやく道に出て下山。雨は大丈夫だろうと雨具、着替え持ってかなかったから凍えそうになるし山を甘くみてました🙏反省し今後気をつけないと遭難しかねないですね😅」と報告されている。
 不明の男性もルートファインディングに苦労していると思う。しかし、ベテランだろうから、推高谷の源流部に回り込んで、1481mの稜線なら雪が残っているかも知れません。そして留意すべきは福井県側の広い緩斜面に迷い込んでいないかどうか。または橋立峠に周回して、激やぶの斜面で疲労困憊しているか。などと想像しています。
 関東圏の登山者は奥美濃のヤブの濃さを甘く見ない方が良い。藪漕ぎできないくらいに雪で押されて曲がっている。
 まだ不明後5日間であり、食料はないと思うが頑張れる限界だろう。

大西暢夫『ホハレ峠』を読む2020年06月20日

彩流社刊

著者は  アマゾンから
大西/暢夫
1968年、岐阜県揖斐郡池田町育ち。東京綜合写真専門学校卒業後、写真家・映画監督の本橋成一氏に師事。1998年にフリーカメラマンとして独立。ダムに沈む村、職人、精神科病棟、障がい者など社会的なテーマが多い。2010年より故郷の岐阜県に拠点を移す。『ぶた にく』(幻冬舎)で第58回小学館児童出版文化賞、第59回産経児童出版文化賞大賞。映画監督作品:『水になった村』(第16回EARTH VISION地球環境映像祭最優秀賞受賞)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

出版社側のねらいは
編集者が明かす、ダムに沈んだ徳山村の本を出した理由 ―そこから見え隠れする近現代
https://note.com/sairyusha/n/naeff5f3e8d72

朝日新聞の書評は
(書評)『ホハレ峠 ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡』
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14511895.html?pn=3

 ■現金がのみ込んだ大地との生活

 ダムの底に沈んだ岐阜県揖斐郡徳山村。一五〇〇人ほど暮らしていた村民が次々と出ていく中、そのもっとも奥の集落・門入(かどにゅう)で、最後まで暮らしていた廣瀬ゆきえさん。

ここから続き
 山に入り、山菜を採り、日が暮れれば寝る。夫を村で看取(みと)り、たった一人で大地の恵みと呼吸するような生活に、強制的に終止符が打たれる。ダム建設に伴い立ち退きを余儀なくされた日、漬物小屋を解体する重機から目をそらすように遠くを見つめる写真が全てを物語る。「村の清流だった揖斐川の水が、自らこの大地を飲み込もうとしている」

 約三〇年前から村に通い、ゆきえさんと向き合い、その足跡を記録した。門入の住民は街に出るために、ホハレ峠を越えた。早朝に出たとしても着くのは夕方。わずか一四歳、家で育てた繭を運びながら峠へ向かう。峠の頂上から初めて「海」を見た。それは、初めて見る琵琶湖だった。

 北海道真狩村に嫁ぎ、やがて村に戻ると、山林伐採、ダム建設が忍び寄っていた。ダムの説明会に参加するだけでお金が支給され、集落の繋(つな)がりを巧妙に札束で崩していく国。「みんな一時の喜びはあっても、長い目で見たらわずかなもんやった。現金化したら、何もかもおしまいやな」

 転居した先のスーパーで特価品のネギを見て、「農民のわしが、なんで特価品の安いネギを買わなあかんのかなって考えてな。惨めなもんや」と漏らす。村を最後まで見届けたゆきえさんの人生は「点」でしかないが、その点は長く繋がってきた尊いもの。誰よりも本人がそのことを知っていた。

 台所で倒れ、亡くなったゆきえさん。口の中から一粒の枝豆が出てきた。ゆでた枝豆をつまみながら、ご飯を作っていたのだろう。時折さしこまれる写真の数々が、村の歴史、ゆきえさんの足跡を伝える。読みながら、本のカバーを何度も見返す。「現金化したら、何もかもおしまいやな」と繰り返し聞こえてきた。

 評・武田砂鉄(ライター)

徳山村は映画「ふるさと」にもなった。
以上

 個人的には、昨夜で粗方読破してしまった。奥美濃の山は登山の開始と同時進行である。山岳会に入会したのが昭和53(1978)年(28歳)であった。『鈴鹿の山』とか『秘境 奥美濃の山旅』を買って読んで山行のヒントにした。『ぎふ百山』を知るのはもう少し後になる。次々と登った山が増えてゆくのが楽しみになった。この後、サンブライト出版から森本次男『樹林の山旅』の復刻版が出た。すぐに買った。たちまち愛読書となった。
 足は月1回のレンタカーであった。入会した年の10月にトヨタ・スターレットというレンタカーで、馬越峠を越えた。初めての徳山村探訪になった。早暁、薄いガスの中に徳山谷が見え、紫色の煙が昇っていた。その時は冠山に登った。特に岐阜の山が面白く、当時は守山区に住んでいて、中日新聞の購読に加えて、岐阜新聞の東濃版を配達してもらった。昭和55(1980)年3月4日から『続・ぎふ百山』の連載が始まっていた。それが目的だった。昭和60(1985)年1月までのスクラップが残っている。切り抜きしたものを友人に託したらきれいな海賊版にしてくれた。何冊も印刷して仲間に配布したが後に岐阜新聞社から立派な装丁の『続 ぎふ百山』が出版された。海賊版は100山目で止まっていたが新版は130山もあった。
 昭和55(1980)年(30歳)にマイカーを買った。その車で、金ヶ丸谷の偵察に出掛けた。この時は揖斐川沿いに走り、西谷川を遡った。初めての門入との遭遇である。着いた門入では家の取り壊し中だった。墓には白い布をかぶせてあった。こんな情けない姿を先祖に見られたくないからだという。それで村人に金ヶ丸谷の熊の生息状況を聞いたら、いつぞやは京都の若い人が夜叉ヶ池から金ヶ丸谷を下降して遭難死したという。京都から親御さんがきて息子が帰らないから探してくれというので探したら谷の中で死んでいた。「あんたね、熊よりも谷の方が怖い。行かん方が良い」と諭してくれた。その日はそこで帰った。これが門入とのなれそめである。『ホハレ峠』P236には「たしかに昭和55年ということは、そろそろ徳山村から移転地へ引っ越しが具体的になってくるとき」とあるから記憶にまちがいはない。
 金ヶ丸谷の遡行は平成17(2005)年9月になった。偵察から実に25年の歳月が流れ、ダムの湛水が始まる前年だった。我ながらしつこく追いかけたものである。
 門入の予備知識としては安藤慶一郎編著『東海 ムラの生活誌』(昭和55年9月刊 中日新聞社)がある。5番目に「西美濃山村の生活と親族組織」がある。学者が書いただけに綿密に調査したのだろう。門入の特殊性は通婚関係と指摘している。閉ざされた狭いムラ社会ではそうせざるを得ないだろう。
 乙川優三郎『脊梁山脈』は木地師が主人公の小説である。しかも東亜同文書院の学生のまま兵隊にとられた設定。小説では長野県売木村の木地師と主人公が復員列車の中で出会うのだが、復員列車で親切を受けたお礼に売木村を訪ねると本人は居るのだが別人であった。出会った人は東北に住んでいたというトリックにも使われている。つまり東北の兄が結婚してすぐに出征したが戦死した。弟は無事で帰国できたので戸籍上は兄に成りすましたまま、兄の嫁と子を養う人生を送る。そんな筋書きだった。木地師の社会も他と交わりが少ないから近親婚になるのだろう。要するに限られた山奥の閉ざされた社会での家を守ったのである。
 著者も門入の婚姻関係の理解には相当な苦労をしている。P182辺りから明らかにされている。
 廣瀬ゆきえさんは大正7(1918)年生まれ。昭和7(1932)年14歳で初めてホハレ峠を越えたと、本書にある。昭和8年にはまたホハレ峠を越えて、更に鳥越峠を越えて彦根市のカネボウの紡績工場へ働きに出た。16歳までの冬はそこで働いた。17歳から24歳まで一宮市、名古屋市の紡績会社で働いた。
 著者の大西暢夫さんは門入が越前藩の領域だったことまでは調査されていないようだ。越前から見て最初のムラが門入、次は戸入、本郷である。古くはお坊さんも越前から迎えていた。福井県の日野川源流の廃村・大河内へ行く途中に二つ屋があり、そこから夜叉ヶ池に向かって登る尾根が街道の尾と言った。登りきると金ヶ丸谷の源流部に下る。そこからどのように道があったのかは明らかではない。
 ゆきえさんは昭和17(1942)年頃、24歳で結婚し北海道に渡った。『ぎふ百山』の千回沢山・不動山の項に入谷の人らは大正の初めに北海道へ渡ったことが書いてある。門入では明治36年から移住が始まっていたのである。戦争を経て昭和28年に北海道を引き揚げた。34歳になっていた。八ヶ岳山麓に一時的に身を置き、昭和30(1955)年に徳山村へ戻った。13年間はまさに転変流転の人生だ。廣瀬家から橋本家に嫁いだはずなのに夫がまた廣瀬家に戻した。もともと親戚同士の結婚だった。これが親族組織で成り立つ門入の特殊性である。
 愛読書の『樹林の山旅』には黄蘗(きはだ)の村(千回沢山と不動山)の項で門入が紹介される。きはだは薬になる木のことで、徳山会館で売っていた。
 森本は昭和10年頃の記録をまとめて昭和15年に発刊した。だから廣瀬ゆきえさんは18歳頃になり同時代を生きていたことになる。但しゆきえさんは一宮市の紡績工場に住み込みで働いているので遭遇はしなかった。森本は大滝屋という旅館に泊まって門入のめぼしい山と谷を跋渉した。ホハレ峠の話も出てくる。「あへぎあへぎ登る急な坂路は、太陽の光を顔に受けて峠に着いた時分には日焼けで頬がはれている。だから、ここはホヽハレ峠だという話を聞いたが、この峠の名前は街で信じてもらうにはふざけすぎている。だが私達は嘘だとは思わない。」
 栃や欅の原木を板に挽いてホハレ峠まで来ると余りの力仕事に頬が腫れるというのが由来のようだ。
 湛水が始まったころは遊覧船が浮かぶとか、門入へは県道が通るとかは仄聞したが今も実現していない。

西台山の行方不明事故は無事救出!2020年06月05日

NHニュースから
https://www3.nhk.or.jp/lnews/gifu/20200605/3080003935.html

 6月2日に岐阜県揖斐川町の山に入り行方がわからなくなっていた、愛知県春日井市の79歳の男性が5日午後、無事に警察に救助されました。

 春日井市高蔵寺の79歳の男性は、6月2日、揖斐川町の標高949メートルの西台山に登山に出かけたまま戻らず、警察や消防が捜索していました。
 その結果、5日午後2時ごろ、ヘリコプターで捜索していた警察官が、山頂から1.2キロ離れた谷で男性を見つけ、男性はまもなく救助されました。
腰や足に痛みを訴え病院に運ばれましたが、目立ったけがはなく、会話もできる状態だということです。
 警察官に対し、男性は「山に入った日に道に迷い、その翌日、5メートルぐらいの高さから滑落し動けなくなった」と話しているということです。
 警察は経験や体力に応じた無理のない計画を立て、十分な装備で登山に臨むよう注意を呼びかけています。

・・・ご無事で良かった。3ヶ月に及ぶ外出自粛の影響であろうと思う。登山に必要な何かが欠けるまま登山してしまい、下山できなくなった。何が欠けたのだろうか。今まで積み上げてきた登山の心得的なものかも知れません。何分低山ですから技術や体力がいるわけではない。登山道ははっきりしないところがある山ではあるが注意すれば迷うことはない。地形図とコンパスはあったのか。
 記事によれば山頂から1,2km離れた谷というからこの方も無駄に動き回ったことになる。左門岳でも迷ったと自覚したら山頂へ戻ることだった。西台山の登山者も同じである。
<iframe frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" width="500" height="400" src="https://maps.gsi.go.jp/?hc=hic#15/35.581786/136.565809/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0"></iframe>
縮尺は300mで2センチなので、
1.2km=1200m  300m=2センチ  2センチx(1200÷300)=8センチ
山頂から8センチポイントまで谷を下ったのだろう。一番悪いケースである。想像だが谷汲の飛鳥川源流に下ったのだろうか。もう少しで林道に出る辺りが約8センチくらいになる。

左門岳で道に迷った岐阜市の夫婦発見される!2020年05月29日

 昨日5/28の午後4時ごろ、24日以来、左門岳から下山できずに行方不明だった岐阜市の夫婦が4日ぶりに捜索中のヘリで発見された。場所は山頂から3.5km東の銚子滝の下で手を振る夫婦をヘリに発見され救助された。幸い軽傷で済んだという。
 なぜそんな見当違いの場所へ行ったのかは本人以外は不明である。地形図から考えられるのは
①山頂から南の尾根を忠実にたどり、明神山との鞍部まで下り、箱洞を下降した。
②山頂から北の銚子洞への踏み跡をたどりそのまま滝上まで来て強引に下降した。
③山頂から尾根と並行する大平への沢を下ってしまい、銚子洞に合流して下降した。
と思われる。
 4日間の天気は太平洋上に前線が張り出し、そこに吹く北からの風と南からの湿気で雨か霧だったと思われる。越美国境は日本分水嶺なので日本海の気候と太平洋の気候とがぶつかり合い、豪雨か豪雪になりやすい。当日は雨が多かったのではないか。したがって目視で山の同定はできず、地形図とコンパスで自分の位置をチエックする必要がある。
 しまった、迷ったぞ、と自覚すると気が動顛することがありやたら動き回り体力を消耗する。足腰が弱り、食料と水も尽きるので焦る。当日に下山できないと捜索隊が出動するので、基本は迷ったら山頂に戻ればいいのだが、動き回ってしまったらしい。
 今時は樹木の葉が茂り、ヘリから見下ろすと樹海に見える。上からの発見は容易ではない。銚子滝はその空間があるので発見されたわけだ。尾根でも沢の中でも樹海の下なのでヘリが飛び回っても空振りに終わったのだろう。
 それでも軽傷で済んだのは登山が共通の趣味の夫婦なので仲間割れせず、行動したからだ。山中でバラバラになるともっと悲惨である。外野席からは何でも言える。当人たちの道迷いの顛末を知りたい。

緊急事態宣言解除後の登山の心得2020年05月17日

 ニューズウィークWEB版はロイターの記事「安倍晋三首相は<5月>14日夕に会見し、東京など8都道府県を除く全国39県で緊急事態宣言を解除すると正式発表した。8都道府県についても21日にも専門家の見解を踏まえ、可能であれば緊急事態宣言の期限である31日を待たずに解除する意向を示した。

解除に当たっては1週間当たりの新規感染者が10万人あたり0.5人以下に低下したなど医療体制、検査体制を目安に判断したと説明。39県は今後、感染者の小集団(クラスター)対策で感染拡大を防止できるとの判断を示した。

もっとも、解除された地域でも、外出自粛は要請しないが「人との接触は減らして欲しい。県をまたいだ移動も控えて欲しい」と訴えた。」と報じた。

 39県には愛知県、岐阜県、三重県が入っているので、5月18日から徐々に経済活動が正常化を目指してゆく。それでも他県への移動はまだ控えて、という要望である。

 そこで足元の愛知県の山で過密ではない山を経験でピックアップしてみようと思ったが、逆に人気のある山をアップすることでそれ以外は過密な登山者の居ない山歩きができるだろうと思う。

*都会近郊の山は人気が高いので回避しよう。
尾張地区

瀬戸市/豊田市       猿投山

春日井市/多治見市    道樹山

*三河地区の山は車でほとんど登れてしまう。

岡崎市/豊川市       本宮山

新城市             鳳来寺山

根羽村/豊根村        茶臼山と萩太郎山

*人気があり、且つ遭難も多い山である。
設楽町             岩古谷山

豊田市             六所山と焙烙山

蒲郡市             五井山

*心得と作法
1 下山後は汗をかけば、帰り道の温泉場へ行きたくなるがしばらくは控える。コンビニ、公衆トイレに寄ったならば、帰宅後は手を洗うこととウガイすることである。衣服類も全部洗濯し、ザックはベランダに干す。

2 医師、登山の指導者など識者の指導では登山中でもマスク着用を呼びかけるが非現実的である。別の障害が出るおそれがある。少人数で歩き、距離を置く。

3 目的の山は上記の人気の山は回避してガイドブックで不人気の山を探してみよう。ガイドブック以外に地形図を用意し、登る前に自宅でルートをチエックして置くことである。

4 道迷いを防止するには、地形図と実際の眼に見える地形とを常時チエックしておくことである。リーダー任せにしないでメンバーが各自責任を持つことである。
例えば何をチエックするかと言えば
a 地形図に描かれた崖、山の中の池、大きな岩、峠、小屋、鉄塔、電波塔、送電線等

・・・ここが地図に表現された崖崩れですよね。と他の人に声掛けすると関心を共有できる。

b 地形図に描かれた谷、沢の渡渉地点、尾根から沢、又はその逆に登山道が切り替わる地点

・・・暗くなると、登山道から沢を道と勘違いして上り下りしてしまうことがある。渡渉地では水場であることも多いので休むと同時に地図を確認する。

c 登山道の途中にある突起、コブ、三角点、凹地、

d 遠望した際、見えないはずの山や川が見える場合

・・・あら、あの山は何なの。見えたかしら。とつぶやくのも良い。

e 見えて当然の山や川が見えない場合

・・・もうそろそろあの山が見えるはずなのにまだ見えないね。とつぶやく。

f どれだけ歩いても目的地に着かない場合

g ずっと尾根道をたどってきたのに突然崖になり登山道が消失した場合はかなり手前で山腹に回り込むことが多い。その場合でも強引に尾根を辿ると戻れないことがある。

・・・分岐のポイントには赤布、ケルン、マーキングなどがある。

h これまで順調に歩いて来たのにどこからか、木の枝が顔に当たるようになったり、足元の踏み跡もしっかりしているのに、深い草や笹やぶがかぶって歩きにくくなった場合。

・・・獣道に迷い込んだ可能性を疑う。

i 登るときは遊歩道みたいに広かったのに、どこからか砂利道で歩きにくくなった場合

・・・メインの登山道から枝道に入ってしまった可能性がある。

※先ずは道に迷わないこと。道に迷った結果、石や木の根っこに躓いて転落する。焦ると時間が経過するのが早く感じて急ぎ足になり滑落しやすくなる。

※迷ったら、いったん休憩すること。そして頭脳の栄養分の糖分を補給する。飴、ブドウ糖、お茶、ジュース、はちみつ。

※携帯電話が通じれば親などに連絡する。110番通報でも良い。

※最悪はビバークする。持って居るものを全部着込む。上からはカッパを着る。足が寒ければザックを空にして足を突っ込む。買い物袋を靴下の上からかぶせてもいい。

※動き回らないこと。救助を待つこと。

※道に迷ったらメンバーは離れ離れにならないこと。

奥美濃・高丸(1200mまで)2020年03月01日

 2/29の夕方、小雨の中、メンバー3名で出発。夕食の食材と酒を買い込む。地道で揖斐川奥のR303へ。道の駅さかうちで仮眠の予定だったが昨年の」バイクランドもありで行ってみた。ここの方が人家がなく過ごしやすい。テントを張って夕食を共にする。早目に就寝。
 午前4時半、起床。朝食の準備などであわただしく過ぎてゆく。幸い空は晴れてゆく。残り1km余りを走ると椀戸谷に着く。ここで身支度して午前7時に出発した。林道にほとんど雪はない。周辺の山肌も斑雪で春の終わりの様相である。椀戸林道を詰めると標高730mの終点に着く。約1時間かかった。ここから尾根に取りつく。杉林の間はやや危険な崖っぷちをたどりブナ林へと進む。ブナ林は二次林だろう。やや急な尾根にかすかな踏み跡を求めるがやがて雪が出てきた。
 急斜面を喘ぎながら登る。すると若い登山者が追い付いて来た。スノーシューで烏帽子岳を目指してきたという。雪は段々深くなり、1114m付近で私はワカンを付け、2人はスノーシューを装着した。上部では藪を抑えるだけのまあまあの積雪にはなる。周囲の景色も良く見えてきた。近くの烏帽子岳、目的の高丸は三角錐の秀麗な山容を見せる。能郷白山が堂々と見える。明るい春日の差し込むブナ林を歩く。1200mのジャンクションピークで12時を回ってしまった。ワカンの私はここで撤退し、スノーシューの若い2人は高丸をトライしてもらった。ここからでも美濃俣丸、大河内山、笹ヶ峰、伊吹山、金糞岳、蕎麦粒岳などが見えた。すべて曾遊の山々になった。
 12時40分に下山を開始。雪上の踏み跡と赤い布を確認しながら安気に下れる。ワカンは登りの機動力でスノーシューに劣るが、下りでは爪があり、登山靴の踵の蹴り込みを使えるのでスノーシューよりは早いと思う。
 元のトレースを忠実にたどって林道に降り立った。後は林道を淡々と下るのみだ。途中で山菜採りの夫婦に出会った。彼らも奥美濃の山々を愛する人たちだった。話を投げ返すと再び投げ返されて長話になった。そのうちに若い登山者も烏帽子岳登頂してきたと話の間に入った。わが仲間は待っても来ないので下山した。帰路、道の駅で温泉に入湯して帰名した。

越美国境・笹ヶ峰から下山2019年09月16日

 滝ヶ谷を登り詰めて笹ヶ峰の北方のピーク(ab1270m)でビバークを決断。Wリーダーがビバークに最適な砂地の平な一角を見つけた。そこで二張りのツエルトを設営。濡れたものを乾かすために焚火を試みたが着火に失敗。不快なままだったが疲労困憊の体ですぐ就寝できた。
 夜は多少は寒かった。足の冷えは資源ごみの袋を足ごと包み、ザックにすっぽり入れて寝たら快適だった。防寒としては羽毛のベストが軽くて快適だった。
 朝4時か、目覚ましが朝を知らせる。周囲は濃霧に包まれている。それでも6時ごろになると東の空から太陽が昇るのが見えた。能郷白山、イソクラなども同定できた。(Wさん)気温が上昇すると霧は晴れた。スマホも使えたので午後から天気が悪くなるとの予報は聞こえた。
 さて、6時過ぎ、霧に包まれる笹ヶ峰を目指す。何とか獣道を探しながらも笹と低灌木の藪のからむ稜線の藪漕ぎは著しく体力を消耗させる。我慢我慢の藪漕ぎをすること40分で登頂できた。
 笹ヶ峰の三角点周辺はきれいに刈り込まれているので登山者があるのだろう。ここからロボット(ab1280m)のピークまでは藪山好きの登山者がつけてくれた踏み跡に期待したが、笹と低灌木の藪漕ぎは続いた。ここでもかすかに残る獣道を探しながら越美国境稜線の縦走を続ける。この山の登頂者は残雪期が多く、稜線もスキー向きなほど広いから期待したほどの踏み跡はなかった。
 先頭を行くWリーダーが1294mの夏小屋丸の南のコブから不動山へRFを間違えた。が、Wさんが下がりすぎと、気が付いたのですぐにGPSでチエックしてもらったらやはりミスだった。『秘境奥美濃の山旅』のガイドはここから不動山往復をしている関係で踏み跡ができてしまったのだろう。
 ビバーク地から約6時間後、やっとロボットに着いた。12時10分に廃村大河内に向かって下山する。この尾根道も白谷山までは藪が絡む。しかし獣道ではなく、ロボットのために付けられた登山の道の廃道なので途切れず、下るペースは確保できる。白谷山を過ぎてから尾根は急降下する。途中で熊4頭に遭遇し、Wさんが笛を鳴らして知らせる。疲れた体をかばいながら何とか白谷の水場へ着いた。不足していた水分を思いきり補給して人心地ついた。
 橋を渡るとマイカーのあるPへはすぐだ。時に4時半。着替えて廃村大河内を後にした。帰路、林道に立ちすくむ鹿と遭遇する。登山者が去れば獣天国に還る。今庄の宿で有名な今庄そばを賞味できた。温泉には時間切れで入湯できなかった。沢から山頂を踏んで、稜線を縦走して夢のようだ、とWさん。三度目の正直か。失敗しないと性根が座らないのは私も同じだ。しかし奥美濃でこんなに山深く秘境的雰囲気を楽しめる山は貴重だ。究極の登山であった。

滝ヶ谷から越美国境・笹ヶ峰へ登頂2019年09月15日

 廃村大河内へは何度も来た。30歳代から40歳代でも山スキーが目的で越美国境稜線にスキーを走らせる夢を見ていた。美濃俣丸以外はついに達成はできなかった。GWに気象ロボットのあった1280m峰まで登りそこでツエルトを張って、笹ヶ峰と大河内山を往復した。
 今回は沢登りで「ぎふ百山」をねらうWリーダーの伴走を務めた。昨年は長トコ谷の大滝を越えられずに敗退。その後日時を違えてロボットまでの往復登山を果たした。大河内の林道は終点まで問題なく走れた。熊1頭、鹿2頭に遭遇した。テントはPになっている空き地に張った。先行車のハイエースの釣り師が帰っていくと我々3人だけになった。3連休というのこの静寂さは?
 9/15の朝4時起床、長トコ谷出合までは既知の谷相であるが今回は滝ヶ谷を遡行してみた。名前通り滝が多くててこずった。しかし、長トコ谷の魚止め滝(70m)ほどの難儀はせず、みな直登したり、巻いて遡行できた。3段100mの滝の2段目の草付きの高巻きがいやらしかった。ロープを張ってもらい無難に通過できた。
 標高約900mの分岐の遡行終了点からは水のない空洞になり、チョックストンが塞ぎ、周囲が垂直の壁になる谷に進退極まった。時間が過ぎてゆくばかりなので少し後退して左岸尾根へ攀じ登り、獣道を見出した。明瞭な獣道は途中から谷へ下ったがそのまま笹ヶ峰の北峰へ詰めあがった。背を越す笹薮と根曲がりの低灌木の密叢の藪漕ぎに精力を使い果たした。
 ロボットまでは行ける、あわよくば暗くなる前に大河内に着けるだろうと勝手に思っていたが現実は厳しい。少し漕いでは休み、また漕いでは休むという繰り返しだった。徒労といえば徒労である。もうすぐ70歳を前にする登山者としては限界に挑む感じである。
 平坦になり着いたところは1270mの北峰であった。霧が出ていて視界はなかった。そこでビバークになった。

神又谷異聞2019年06月10日

 20万地勢図「岐阜」を見ていたら、池ノ又林道通行止め地点から尾根に上がり、747mを越えて中ツ谷に下り、1048mへの独立標高点に登り、1196m(左千方)まで行って、尾羽梨川へ下る破線路があります。『坂内村誌』によれば中尾嶺越というようだ。1050.2mは中尾嶺ともいう。(滋賀県地名大辞典)
 私のは昭和48年12月現在の地図です。田戸の奥の尾羽梨は廃村です。昔は近江の村と結ぶ山道があったのです。

 坂内村誌(民俗編)には
 神又谷は昭和10年代は木材搬出の道があったそうです。古くは江州谷とよばれたほど滋賀県側から木炭や、薪材を切り出しに来ていたらしい。近江は金糞岳があり、土倉鉱山もあり金属精錬が盛んだった。魚を焼く、お茶を淹れる、暖房、炊事など需要は旺盛だった。
 それで近江だけでは足りず、山越えで炭を生産したのでしょう。そしてリッカ谷から1050.2mの南の鞍部を越えて、神又谷と往来があったらしい。あの見事なブナ林は二次林なんですね。それにしては注意していたが炭焼き窯跡は見つからなかった。

 皆さんと眺めたブナ原生林は他の樹種が混じらない純林と呼ばれる。
 ウィキぺディアには「森林の樹木群集がほとんど陰樹で構成されるようになり、それ以降樹種の構成がさほど変化しない状態になったことを「極相に達した」といい、極相に達した森林を極相林という。 また、主に極相林で生育する樹木種を極相種という。」
 つまり下山の際に見た無尽蔵に林立していたあのブナ林は極相に達しているのです。
 だから眺めて美しいし、青森県の白神山地も同じく極相林でしたから、あそこにいる限りは白神山地と変わりない環境だったのです。
 
 滋賀県の廃村・奥川並(おくこうなみ)は川上の人等が峠を越えてつくった村でした。ですから中津谷との交流の道もあったのです。1060mは多分ですが、中津山かも知れません。するとあの尾根は中津尾かな。坂内村誌はそこまで記載はないが詳細な山名考証がある。昔は近江と美濃の山村民は縦横に山を歩いていたのでしょう。

 点名の大岳は滋賀県側の名称です。前述したように中尾嶺も文献に出ている。

 木炭の生産は江戸時代から盛んだった。秀吉は薪炭材の本数を把握するために1000本の紐を作り、山の木に巻いて残った本数を引いて実際の本数を把握したという。知恵者です。

 古くはヤマトタケルの時代、伊吹山の魔物を征伐するために出かけますが、死に至るケガをさせられて退散します。伊吹神は金属の神様で南宮大社も金属の神様を祭っています。伊吹山の北には金糞岳があります。金属の精錬には木炭が必須です。長浜市は鉄砲の生産で有名です。鉄砲鍛冶にも大量の木炭が必要です。大量の木炭を消費する環境だったことは想像できます。今と違って往時は山に多くの人が入っていたでしょう。今は野生動物の天国です。

 戦後に石油の輸入が再開されると木炭の生産は急激に淘汰されてしまいます。この山も需要の急減した木炭の原料として利用価値のない(文字どうり、ブナは木で無い、橅があてらる)山になった。伸びるままに伸びて、戦後は74年間に他の樹種を抑えて極相に達した。