新穂峠のこと2024年06月02日

 6/1の新穂峠の歴史を調べて見た。『坂内村誌』民俗編のP91に
 ”新穂峠の地蔵堂は、峠を下った甲津原側にある。昔から坂内へ牛の来る道、”西牛”といって良い仔牛を江州・関西から坂内へ移入したのである。繭の道・紙の道であり、教如様お廻りもこの峠を往き来した。風流芸能や俳壇も、この道があることで江濃一体であった。諸家から峠の上りも甲津原への下りも炭窯の跡がいくつもある。
 近世初期から焼き続けてきた山であった。坂内側の炭も向こうへ出していたことは浅又山と同様である。”
・・・今よりも昔の方が峠を往来した物資の流通のお陰で人影はずっと多かった。獣の気配におびえる自分には想像もできない豊かな街道だった。その中には富を蓄積して俳句の会を催した成功者もいた。言わば俳諧を介した異業種交流会のような文化交流も盛んだった。明治15年頃の観察記では製紙で潤っている、とあった。楮三椏のような商品作物がよく売れたのだろう。それが今は廃屋の目立つ寒村になっている。
 白川沿いの水田は植えたばかりで鏡面のように美しい風景である。こんな奥山でも稲作ができるようになったことは進歩であろう。

旧坂内村の新穂峠を歩く2024年06月01日

 先週の殿又谷の沢登りで坂内川の支流・白川の源流の殿又谷を遡行して自然の良さを満喫した。谷歩きのみならず諸家もまだ行ったことがなかったので心残りでした。坂内村の名前の通り外から入村するには峠越えが条件という厳しい環境だった。数ある峠の中の一つである新穂峠を歩いてきた。
 梅雨入り前の晴天が期待できたので6/1に新穂峠往復のみ実施できた。計画では新穂山往復でしたが高速道路の工事と事故の渋滞での遅れもあったが早朝なので割と早く抜けだせた。
 先週の疲れも抜けきらず、老体ではピッチが上がらず。新穂峠のみで下山した。
 ヤマップの報告で峠までは舗装路で落石もあまりない。純粋な山路よりもむしろ歩き易い。人工植林があるが、新緑の落葉広葉樹が多く、美しい自然が保たれている。新穂谷は上から見ると花崗岩の美しい溪谷だった。ここも沢登りの対象として楽しめそうだ。
 栃の花、藤の花、谷空木、空木など木の花が目立った。峠付近で2ヶ所路肩決壊があり危険個所があった。何のために舗装したのか想像すると風化花崗岩の特長で崩壊し易いと考えた。建設してすぐに舗装しないと路肩決壊があちこちで起きただろう。
 新穂峠へも車道建設でえぐられて段差があった。段差を登るのにスムーズには行かず、木の枝などで確保して登った。昔を偲ぶ情緒はなし。むしろ近江側の方が道形が保たれている様子です。
 結局峠往復のみにとどめて前途の計画は中止して近江側から周回の形で出直すことにした。下山時にちかごろニホンシカに追われて見なくなったカモシカを見た。体形が黒いので一瞬熊かと身構えた。路上ではとぐろを巻いているまむしを見た。枯れ葉色になっているので分からない。まむしは注意喚起の看板もあったので多いのでしょう。
ヤマッパー上級生の報告を読むと昔乍らの古道の存在があった。往きも帰りも注意しながら歩いたが糸口は見いだせず舗装路のまま下山した。
 午前中に下山できたので道の駅「さかうち」に寄り、道の駅「ふじはし」ではふじはしの湯に入湯して村を出た。平野に出たら高速道路のあちこちで交通事故や工事の渋滞が起きていた。名神は工事で13kmの大渋滞でした。当面利用できません。

奥美濃の大日ヶ岳~鮎走古道を歩く2021年11月06日

 奥美濃の名山である大日ヶ岳。大抵は積雪期にスキーで登った。今回はふとしたことで鮎走古道を知った。白山を開山した僧泰澄が開いたという山岳古道という。
 ブナの森の黄葉が素晴らしいとのことで登ってみた。R156を左折すると中山間地の田畑が広がり豊かな山村と知った。山里の中間に鮎走白山神社があった。一礼後、大洞林道に入り、標高1200m超まで走ると林道終点。駐車する際に藪に隠れた穴へ脱輪してしまった。4輪駆動でも脱出は出来ず、スノーモードにしてみたらすっと脱出できた。
 ここから前谷に並行する尾根の枝尾根に取り付く。
 最初は杉の植林であるが、次第にブナ林が広がる。足元には天辺を赤く塗った標石が埋まる。これは宮標石で昔は御料林だったことが分かる。今は国有林だろう。登るにつれて山毛欅も太くなった。やがて前谷からの尾根に合流するが、前谷の下部へは藪が阻んで登山道はない。右折すると良い道が続く。突然、下山者に会った。Pのクルマの人だ。もう降りてきたから早くに行動したんだろう。情報を交換して別れる。
 彼が指摘していたスキー場からの登山道との分岐まではコブを巻く道が笹を刈ったばかりで足場も少なく、急斜面ではロープが渡してあった。500mはあるだろうか。やがて分岐に着く。
 スキー場からの登山道は歩きやすい。手前のコブに立つと展望が広がる。更に先のコブへ急登すると真の山頂が見えた。多数の登山者が休んでいた。ひるがの高原からの登山者が多いように見えた。
 ここからは白山や別山が見える。さらに奥越、奥美濃、奥飛騨と360度の大展望である。雪のない山頂は記憶がないので多分初めて登ったのだろう。
 写真に収めた後はわっぱに詰めた自製の弁当を食べた。ウインナと卵焼き、牛肉のすき焼きの惣菜だった。ところが腹筋が締まってそうは食えない。半分は残してしまった。
 しばらくは大展望に酔わせてもらった。その後、往路を戻った。心配した熊には遭遇しなかった。林道で真っ黒なカモシカを見た。熊かと思う。朝方寄った白山神社にまた寄った。しっかりした神社だ。R156に戻った。

野伏ヶ岳の捜索は?2021年05月09日

 早朝5時30分に名古屋を出発。石徹白へは8時30分に着いた。高速道路のおかげで早いものである。石徹白は何年振りかで訪れる。アルペンスキー場はウイングヒルズ白鳥リゾートスキー場に名を変えてやっている。石徹白スキー場は閉鎖し、白山スキー場はスノーウェーブパーク白鳥高原スキー場に名が変わった。
 以前との違いは別荘がとても増えたことである。以前に来た際に石徹白川右岸に別荘が並んでいて驚いたものだった。こんな豪雪地帯なので利用できるのは6カ月くらいだろう。
 白山中居神社に着いてみたが、Pには車2台あるのみ。対岸に渡ると品川ナンバーが1台置いてあった。これが行方不明者のマイカーだろうか。他には誰もいない。時折、釣り人らしいのが通りかかる。捜索本部があり、多数の捜索隊をイメージしていたが、これではどうしようもない。
 中居神社の社務所の人に聞くと5/5に一度ヘリコプターは飛んだがすぐに解散してしてしまったらしい。今は山頂への尾根も藪が出ているので、山菜とりと同じで捜索隊の二次遭難を考慮したとも言われた。どこで聞いても同じだと、自信ありげにいう。これではモチベーションが一気にしぼんだ。
 北陸へのドライブに切り替えた。中在所まで戻ると、鮎川信夫への詩碑への案内板があったので見に行った。

     山を想う          鮎川信夫

 帰るところはそこしかない
 自然の風景の始めであり終りである
 ふるさとの山
 父がうまれた村は山中にあり
 母がうまれた町は山にかこまれていて
 峰から昇り尾根に沈む日月

 おーいと呼べば
 精霊の澄んだ答えが返ってくる
 その谺のとどく範囲の明け暮れ
 在りのままに生き
 東洋哲人風の生活が
 現代でも可能であるのかどうか

 時には朝早く釣竿を持ち
 清流をさかのぼって幽谷に魚影を追い
 動かない山懐につつまれて
 残りすくない瞑想の命を楽しむ
 いつかきみが帰るところは
 そこにしかない

 石徹白は父親の出生地らしい。
http://itoshiro.net/map/map0310.html

 詩碑に佇んでいると、ぽつりと冷たいものが降ってきた。今日は雨になるのか。長良川流域では晴れていたが、日本分水嶺を越えると日本海側の気候になり、じめじめと湿った雨が降り、悪いのである。

野伏ヶ岳で登山の67歳男性が遭難か 捜索も手がかりなし2021年05月05日

https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagoya/20210504/3000016511.html?fbclid=IwAR05bMiE4dVKFSv9Dt1vh-zlvM2FNWpz2_yyUhHB7ZnIZfSomIS4v9eubmM

 登山道が無い山なので捜索隊も途方に暮れているでしょう。捜索隊は頑張ってください。
 4/30に妻宛てに電話で野伏ヶ岳に行くと伝えた。5/3になっても下山の電話が無く、妻が警察に届けた。5/4に警察で捜索活動がされたが、発見されず。5/5は朝から雨で、現地でも捜索は困難だろう。この山に登る前は猿ヶ馬場山に登っている。野伏ヶ岳もともに日本三百名山であるから、GWに集中的に登りに来られたんだろう。どちらも無雪期は登山道が無く、登れないから残雪期を選んだと思います。なので道迷いに備えて、ツエルト、非常食、コンロなどを携帯し、ビバークの準備くらいはしていると思いたい。
 GWに入る前に、知人から野伏ヶ岳の状況の問い合わせがあった。今年はFBなどの仲間内の記録から雪解けが早く、残雪を踏んでの登頂は困難でしょうと、伝えた。山岳会の仲間も願教寺山への渡渉地点で撤退していることなど教えてあげた。多分中止していると思う。
 不明の男性も林道を歩き、あの広い和田山牧場までは登れたに違いない。そこからどう登るか。
 ヤマップの記録では4/30が近い。ダイレクト尾根を登り、北東尾根を下っている。
 バンビさんの日記から「いろいろ試練があり山の怖さ甘くみたら痛い目にあうのがわかった山行きとなりました😅
 薮こぎが激しすぎるのと、下山すごい豪雨になって見えなく薮でストック無くすし携帯充電切れ道迷いにあうし。最悪なのは道迷いで池にたどり着いて雪の池を膝まで入り渡ってようやく道に出て下山。雨は大丈夫だろうと雨具、着替え持ってかなかったから凍えそうになるし山を甘くみてました🙏反省し今後気をつけないと遭難しかねないですね😅」と報告されている。
 不明の男性もルートファインディングに苦労していると思う。しかし、ベテランだろうから、推高谷の源流部に回り込んで、1481mの稜線なら雪が残っているかも知れません。そして留意すべきは福井県側の広い緩斜面に迷い込んでいないかどうか。または橋立峠に周回して、激やぶの斜面で疲労困憊しているか。などと想像しています。
 関東圏の登山者は奥美濃のヤブの濃さを甘く見ない方が良い。藪漕ぎできないくらいに雪で押されて曲がっている。
 まだ不明後5日間であり、食料はないと思うが頑張れる限界だろう。

大西暢夫『ホハレ峠』を読む2020年06月20日

彩流社刊

著者は  アマゾンから
大西/暢夫
1968年、岐阜県揖斐郡池田町育ち。東京綜合写真専門学校卒業後、写真家・映画監督の本橋成一氏に師事。1998年にフリーカメラマンとして独立。ダムに沈む村、職人、精神科病棟、障がい者など社会的なテーマが多い。2010年より故郷の岐阜県に拠点を移す。『ぶた にく』(幻冬舎)で第58回小学館児童出版文化賞、第59回産経児童出版文化賞大賞。映画監督作品:『水になった村』(第16回EARTH VISION地球環境映像祭最優秀賞受賞)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

出版社側のねらいは
編集者が明かす、ダムに沈んだ徳山村の本を出した理由 ―そこから見え隠れする近現代
https://note.com/sairyusha/n/naeff5f3e8d72

朝日新聞の書評は
(書評)『ホハレ峠 ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡』
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14511895.html?pn=3

 ■現金がのみ込んだ大地との生活

 ダムの底に沈んだ岐阜県揖斐郡徳山村。一五〇〇人ほど暮らしていた村民が次々と出ていく中、そのもっとも奥の集落・門入(かどにゅう)で、最後まで暮らしていた廣瀬ゆきえさん。

ここから続き
 山に入り、山菜を採り、日が暮れれば寝る。夫を村で看取(みと)り、たった一人で大地の恵みと呼吸するような生活に、強制的に終止符が打たれる。ダム建設に伴い立ち退きを余儀なくされた日、漬物小屋を解体する重機から目をそらすように遠くを見つめる写真が全てを物語る。「村の清流だった揖斐川の水が、自らこの大地を飲み込もうとしている」

 約三〇年前から村に通い、ゆきえさんと向き合い、その足跡を記録した。門入の住民は街に出るために、ホハレ峠を越えた。早朝に出たとしても着くのは夕方。わずか一四歳、家で育てた繭を運びながら峠へ向かう。峠の頂上から初めて「海」を見た。それは、初めて見る琵琶湖だった。

 北海道真狩村に嫁ぎ、やがて村に戻ると、山林伐採、ダム建設が忍び寄っていた。ダムの説明会に参加するだけでお金が支給され、集落の繋(つな)がりを巧妙に札束で崩していく国。「みんな一時の喜びはあっても、長い目で見たらわずかなもんやった。現金化したら、何もかもおしまいやな」

 転居した先のスーパーで特価品のネギを見て、「農民のわしが、なんで特価品の安いネギを買わなあかんのかなって考えてな。惨めなもんや」と漏らす。村を最後まで見届けたゆきえさんの人生は「点」でしかないが、その点は長く繋がってきた尊いもの。誰よりも本人がそのことを知っていた。

 台所で倒れ、亡くなったゆきえさん。口の中から一粒の枝豆が出てきた。ゆでた枝豆をつまみながら、ご飯を作っていたのだろう。時折さしこまれる写真の数々が、村の歴史、ゆきえさんの足跡を伝える。読みながら、本のカバーを何度も見返す。「現金化したら、何もかもおしまいやな」と繰り返し聞こえてきた。

 評・武田砂鉄(ライター)

徳山村は映画「ふるさと」にもなった。
以上

 個人的には、昨夜で粗方読破してしまった。奥美濃の山は登山の開始と同時進行である。山岳会に入会したのが昭和53(1978)年(28歳)であった。『鈴鹿の山』とか『秘境 奥美濃の山旅』を買って読んで山行のヒントにした。『ぎふ百山』を知るのはもう少し後になる。次々と登った山が増えてゆくのが楽しみになった。この後、サンブライト出版から森本次男『樹林の山旅』の復刻版が出た。すぐに買った。たちまち愛読書となった。
 足は月1回のレンタカーであった。入会した年の10月にトヨタ・スターレットというレンタカーで、馬越峠を越えた。初めての徳山村探訪になった。早暁、薄いガスの中に徳山谷が見え、紫色の煙が昇っていた。その時は冠山に登った。特に岐阜の山が面白く、当時は守山区に住んでいて、中日新聞の購読に加えて、岐阜新聞の東濃版を配達してもらった。昭和55(1980)年3月4日から『続・ぎふ百山』の連載が始まっていた。それが目的だった。昭和60(1985)年1月までのスクラップが残っている。切り抜きしたものを友人に託したらきれいな海賊版にしてくれた。何冊も印刷して仲間に配布したが後に岐阜新聞社から立派な装丁の『続 ぎふ百山』が出版された。海賊版は100山目で止まっていたが新版は130山もあった。
 昭和55(1980)年(30歳)にマイカーを買った。その車で、金ヶ丸谷の偵察に出掛けた。この時は揖斐川沿いに走り、西谷川を遡った。初めての門入との遭遇である。着いた門入では家の取り壊し中だった。墓には白い布をかぶせてあった。こんな情けない姿を先祖に見られたくないからだという。それで村人に金ヶ丸谷の熊の生息状況を聞いたら、いつぞやは京都の若い人が夜叉ヶ池から金ヶ丸谷を下降して遭難死したという。京都から親御さんがきて息子が帰らないから探してくれというので探したら谷の中で死んでいた。「あんたね、熊よりも谷の方が怖い。行かん方が良い」と諭してくれた。その日はそこで帰った。これが門入とのなれそめである。『ホハレ峠』P236には「たしかに昭和55年ということは、そろそろ徳山村から移転地へ引っ越しが具体的になってくるとき」とあるから記憶にまちがいはない。
 金ヶ丸谷の遡行は平成17(2005)年9月になった。偵察から実に25年の歳月が流れ、ダムの湛水が始まる前年だった。我ながらしつこく追いかけたものである。
 門入の予備知識としては安藤慶一郎編著『東海 ムラの生活誌』(昭和55年9月刊 中日新聞社)がある。5番目に「西美濃山村の生活と親族組織」がある。学者が書いただけに綿密に調査したのだろう。門入の特殊性は通婚関係と指摘している。閉ざされた狭いムラ社会ではそうせざるを得ないだろう。
 乙川優三郎『脊梁山脈』は木地師が主人公の小説である。しかも東亜同文書院の学生のまま兵隊にとられた設定。小説では長野県売木村の木地師と主人公が復員列車の中で出会うのだが、復員列車で親切を受けたお礼に売木村を訪ねると本人は居るのだが別人であった。出会った人は東北に住んでいたというトリックにも使われている。つまり東北の兄が結婚してすぐに出征したが戦死した。弟は無事で帰国できたので戸籍上は兄に成りすましたまま、兄の嫁と子を養う人生を送る。そんな筋書きだった。木地師の社会も他と交わりが少ないから近親婚になるのだろう。要するに限られた山奥の閉ざされた社会での家を守ったのである。
 著者も門入の婚姻関係の理解には相当な苦労をしている。P182辺りから明らかにされている。
 廣瀬ゆきえさんは大正7(1918)年生まれ。昭和7(1932)年14歳で初めてホハレ峠を越えたと、本書にある。昭和8年にはまたホハレ峠を越えて、更に鳥越峠を越えて彦根市のカネボウの紡績工場へ働きに出た。16歳までの冬はそこで働いた。17歳から24歳まで一宮市、名古屋市の紡績会社で働いた。
 著者の大西暢夫さんは門入が越前藩の領域だったことまでは調査されていないようだ。越前から見て最初のムラが門入、次は戸入、本郷である。古くはお坊さんも越前から迎えていた。福井県の日野川源流の廃村・大河内へ行く途中に二つ屋があり、そこから夜叉ヶ池に向かって登る尾根が街道の尾と言った。登りきると金ヶ丸谷の源流部に下る。そこからどのように道があったのかは明らかではない。
 ゆきえさんは昭和17(1942)年頃、24歳で結婚し北海道に渡った。『ぎふ百山』の千回沢山・不動山の項に入谷の人らは大正の初めに北海道へ渡ったことが書いてある。門入では明治36年から移住が始まっていたのである。戦争を経て昭和28年に北海道を引き揚げた。34歳になっていた。八ヶ岳山麓に一時的に身を置き、昭和30(1955)年に徳山村へ戻った。13年間はまさに転変流転の人生だ。廣瀬家から橋本家に嫁いだはずなのに夫がまた廣瀬家に戻した。もともと親戚同士の結婚だった。これが親族組織で成り立つ門入の特殊性である。
 愛読書の『樹林の山旅』には黄蘗(きはだ)の村(千回沢山と不動山)の項で門入が紹介される。きはだは薬になる木のことで、徳山会館で売っていた。
 森本は昭和10年頃の記録をまとめて昭和15年に発刊した。だから廣瀬ゆきえさんは18歳頃になり同時代を生きていたことになる。但しゆきえさんは一宮市の紡績工場に住み込みで働いているので遭遇はしなかった。森本は大滝屋という旅館に泊まって門入のめぼしい山と谷を跋渉した。ホハレ峠の話も出てくる。「あへぎあへぎ登る急な坂路は、太陽の光を顔に受けて峠に着いた時分には日焼けで頬がはれている。だから、ここはホヽハレ峠だという話を聞いたが、この峠の名前は街で信じてもらうにはふざけすぎている。だが私達は嘘だとは思わない。」
 栃や欅の原木を板に挽いてホハレ峠まで来ると余りの力仕事に頬が腫れるというのが由来のようだ。
 湛水が始まったころは遊覧船が浮かぶとか、門入へは県道が通るとかは仄聞したが今も実現していない。

西台山の行方不明事故は無事救出!2020年06月05日

NHニュースから
https://www3.nhk.or.jp/lnews/gifu/20200605/3080003935.html

 6月2日に岐阜県揖斐川町の山に入り行方がわからなくなっていた、愛知県春日井市の79歳の男性が5日午後、無事に警察に救助されました。

 春日井市高蔵寺の79歳の男性は、6月2日、揖斐川町の標高949メートルの西台山に登山に出かけたまま戻らず、警察や消防が捜索していました。
 その結果、5日午後2時ごろ、ヘリコプターで捜索していた警察官が、山頂から1.2キロ離れた谷で男性を見つけ、男性はまもなく救助されました。
腰や足に痛みを訴え病院に運ばれましたが、目立ったけがはなく、会話もできる状態だということです。
 警察官に対し、男性は「山に入った日に道に迷い、その翌日、5メートルぐらいの高さから滑落し動けなくなった」と話しているということです。
 警察は経験や体力に応じた無理のない計画を立て、十分な装備で登山に臨むよう注意を呼びかけています。

・・・ご無事で良かった。3ヶ月に及ぶ外出自粛の影響であろうと思う。登山に必要な何かが欠けるまま登山してしまい、下山できなくなった。何が欠けたのだろうか。今まで積み上げてきた登山の心得的なものかも知れません。何分低山ですから技術や体力がいるわけではない。登山道ははっきりしないところがある山ではあるが注意すれば迷うことはない。地形図とコンパスはあったのか。
 記事によれば山頂から1,2km離れた谷というからこの方も無駄に動き回ったことになる。左門岳でも迷ったと自覚したら山頂へ戻ることだった。西台山の登山者も同じである。
<iframe frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" width="500" height="400" src="https://maps.gsi.go.jp/?hc=hic#15/35.581786/136.565809/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0"></iframe>
縮尺は300mで2センチなので、
1.2km=1200m  300m=2センチ  2センチx(1200÷300)=8センチ
山頂から8センチポイントまで谷を下ったのだろう。一番悪いケースである。想像だが谷汲の飛鳥川源流に下ったのだろうか。もう少しで林道に出る辺りが約8センチくらいになる。

左門岳で道に迷った岐阜市の夫婦発見される!2020年05月29日

 昨日5/28の午後4時ごろ、24日以来、左門岳から下山できずに行方不明だった岐阜市の夫婦が4日ぶりに捜索中のヘリで発見された。場所は山頂から3.5km東の銚子滝の下で手を振る夫婦をヘリに発見され救助された。幸い軽傷で済んだという。
 なぜそんな見当違いの場所へ行ったのかは本人以外は不明である。地形図から考えられるのは
①山頂から南の尾根を忠実にたどり、明神山との鞍部まで下り、箱洞を下降した。
②山頂から北の銚子洞への踏み跡をたどりそのまま滝上まで来て強引に下降した。
③山頂から尾根と並行する大平への沢を下ってしまい、銚子洞に合流して下降した。
と思われる。
 4日間の天気は太平洋上に前線が張り出し、そこに吹く北からの風と南からの湿気で雨か霧だったと思われる。越美国境は日本分水嶺なので日本海の気候と太平洋の気候とがぶつかり合い、豪雨か豪雪になりやすい。当日は雨が多かったのではないか。したがって目視で山の同定はできず、地形図とコンパスで自分の位置をチエックする必要がある。
 しまった、迷ったぞ、と自覚すると気が動顛することがありやたら動き回り体力を消耗する。足腰が弱り、食料と水も尽きるので焦る。当日に下山できないと捜索隊が出動するので、基本は迷ったら山頂に戻ればいいのだが、動き回ってしまったらしい。
 今時は樹木の葉が茂り、ヘリから見下ろすと樹海に見える。上からの発見は容易ではない。銚子滝はその空間があるので発見されたわけだ。尾根でも沢の中でも樹海の下なのでヘリが飛び回っても空振りに終わったのだろう。
 それでも軽傷で済んだのは登山が共通の趣味の夫婦なので仲間割れせず、行動したからだ。山中でバラバラになるともっと悲惨である。外野席からは何でも言える。当人たちの道迷いの顛末を知りたい。

緊急事態宣言解除後の登山の心得2020年05月17日

 ニューズウィークWEB版はロイターの記事「安倍晋三首相は<5月>14日夕に会見し、東京など8都道府県を除く全国39県で緊急事態宣言を解除すると正式発表した。8都道府県についても21日にも専門家の見解を踏まえ、可能であれば緊急事態宣言の期限である31日を待たずに解除する意向を示した。

解除に当たっては1週間当たりの新規感染者が10万人あたり0.5人以下に低下したなど医療体制、検査体制を目安に判断したと説明。39県は今後、感染者の小集団(クラスター)対策で感染拡大を防止できるとの判断を示した。

もっとも、解除された地域でも、外出自粛は要請しないが「人との接触は減らして欲しい。県をまたいだ移動も控えて欲しい」と訴えた。」と報じた。

 39県には愛知県、岐阜県、三重県が入っているので、5月18日から徐々に経済活動が正常化を目指してゆく。それでも他県への移動はまだ控えて、という要望である。

 そこで足元の愛知県の山で過密ではない山を経験でピックアップしてみようと思ったが、逆に人気のある山をアップすることでそれ以外は過密な登山者の居ない山歩きができるだろうと思う。

*都会近郊の山は人気が高いので回避しよう。
尾張地区

瀬戸市/豊田市       猿投山

春日井市/多治見市    道樹山

*三河地区の山は車でほとんど登れてしまう。

岡崎市/豊川市       本宮山

新城市             鳳来寺山

根羽村/豊根村        茶臼山と萩太郎山

*人気があり、且つ遭難も多い山である。
設楽町             岩古谷山

豊田市             六所山と焙烙山

蒲郡市             五井山

*心得と作法
1 下山後は汗をかけば、帰り道の温泉場へ行きたくなるがしばらくは控える。コンビニ、公衆トイレに寄ったならば、帰宅後は手を洗うこととウガイすることである。衣服類も全部洗濯し、ザックはベランダに干す。

2 医師、登山の指導者など識者の指導では登山中でもマスク着用を呼びかけるが非現実的である。別の障害が出るおそれがある。少人数で歩き、距離を置く。

3 目的の山は上記の人気の山は回避してガイドブックで不人気の山を探してみよう。ガイドブック以外に地形図を用意し、登る前に自宅でルートをチエックして置くことである。

4 道迷いを防止するには、地形図と実際の眼に見える地形とを常時チエックしておくことである。リーダー任せにしないでメンバーが各自責任を持つことである。
例えば何をチエックするかと言えば
a 地形図に描かれた崖、山の中の池、大きな岩、峠、小屋、鉄塔、電波塔、送電線等

・・・ここが地図に表現された崖崩れですよね。と他の人に声掛けすると関心を共有できる。

b 地形図に描かれた谷、沢の渡渉地点、尾根から沢、又はその逆に登山道が切り替わる地点

・・・暗くなると、登山道から沢を道と勘違いして上り下りしてしまうことがある。渡渉地では水場であることも多いので休むと同時に地図を確認する。

c 登山道の途中にある突起、コブ、三角点、凹地、

d 遠望した際、見えないはずの山や川が見える場合

・・・あら、あの山は何なの。見えたかしら。とつぶやくのも良い。

e 見えて当然の山や川が見えない場合

・・・もうそろそろあの山が見えるはずなのにまだ見えないね。とつぶやく。

f どれだけ歩いても目的地に着かない場合

g ずっと尾根道をたどってきたのに突然崖になり登山道が消失した場合はかなり手前で山腹に回り込むことが多い。その場合でも強引に尾根を辿ると戻れないことがある。

・・・分岐のポイントには赤布、ケルン、マーキングなどがある。

h これまで順調に歩いて来たのにどこからか、木の枝が顔に当たるようになったり、足元の踏み跡もしっかりしているのに、深い草や笹やぶがかぶって歩きにくくなった場合。

・・・獣道に迷い込んだ可能性を疑う。

i 登るときは遊歩道みたいに広かったのに、どこからか砂利道で歩きにくくなった場合

・・・メインの登山道から枝道に入ってしまった可能性がある。

※先ずは道に迷わないこと。道に迷った結果、石や木の根っこに躓いて転落する。焦ると時間が経過するのが早く感じて急ぎ足になり滑落しやすくなる。

※迷ったら、いったん休憩すること。そして頭脳の栄養分の糖分を補給する。飴、ブドウ糖、お茶、ジュース、はちみつ。

※携帯電話が通じれば親などに連絡する。110番通報でも良い。

※最悪はビバークする。持って居るものを全部着込む。上からはカッパを着る。足が寒ければザックを空にして足を突っ込む。買い物袋を靴下の上からかぶせてもいい。

※動き回らないこと。救助を待つこと。

※道に迷ったらメンバーは離れ離れにならないこと。

奥美濃・高丸(1200mまで)2020年03月01日

 2/29の夕方、小雨の中、メンバー3名で出発。夕食の食材と酒を買い込む。地道で揖斐川奥のR303へ。道の駅さかうちで仮眠の予定だったが昨年の」バイクランドもありで行ってみた。ここの方が人家がなく過ごしやすい。テントを張って夕食を共にする。早目に就寝。
 午前4時半、起床。朝食の準備などであわただしく過ぎてゆく。幸い空は晴れてゆく。残り1km余りを走ると椀戸谷に着く。ここで身支度して午前7時に出発した。林道にほとんど雪はない。周辺の山肌も斑雪で春の終わりの様相である。椀戸林道を詰めると標高730mの終点に着く。約1時間かかった。ここから尾根に取りつく。杉林の間はやや危険な崖っぷちをたどりブナ林へと進む。ブナ林は二次林だろう。やや急な尾根にかすかな踏み跡を求めるがやがて雪が出てきた。
 急斜面を喘ぎながら登る。すると若い登山者が追い付いて来た。スノーシューで烏帽子岳を目指してきたという。雪は段々深くなり、1114m付近で私はワカンを付け、2人はスノーシューを装着した。上部では藪を抑えるだけのまあまあの積雪にはなる。周囲の景色も良く見えてきた。近くの烏帽子岳、目的の高丸は三角錐の秀麗な山容を見せる。能郷白山が堂々と見える。明るい春日の差し込むブナ林を歩く。1200mのジャンクションピークで12時を回ってしまった。ワカンの私はここで撤退し、スノーシューの若い2人は高丸をトライしてもらった。ここからでも美濃俣丸、大河内山、笹ヶ峰、伊吹山、金糞岳、蕎麦粒岳などが見えた。すべて曾遊の山々になった。
 12時40分に下山を開始。雪上の踏み跡と赤い布を確認しながら安気に下れる。ワカンは登りの機動力でスノーシューに劣るが、下りでは爪があり、登山靴の踵の蹴り込みを使えるのでスノーシューよりは早いと思う。
 元のトレースを忠実にたどって林道に降り立った。後は林道を淡々と下るのみだ。途中で山菜採りの夫婦に出会った。彼らも奥美濃の山々を愛する人たちだった。話を投げ返すと再び投げ返されて長話になった。そのうちに若い登山者も烏帽子岳登頂してきたと話の間に入った。わが仲間は待っても来ないので下山した。帰路、道の駅で温泉に入湯して帰名した。