美濃・船来山緑陰の小径を歩く2024年06月19日

 朝7時、金山駅前で合流。とはいえ参加者は1名なので2名で出発。たまたま知り合いが信州の山へ行くので集合していた。総勢18名と大勢だった。知り合いも何人かいた。
 高速を乗り継いで、もう1名と瑞穂市役所付近で合流。1台に3名が乗って目指したのは船来山である。標高は116mの超低山ながら2等三角点を置く。道の駅のPに停めて出発。梅雨入りはまだ発表されていないがすでに天候不順は続いている。そんな合間の梅雨晴れの晴天で今日は暑い。
 ヤマップをオンして舗装路から山道に入ると湿り気のあるふわっとした感触が良い。それに里山とはいえ、人工植林ではなく、相当な樹齢の喬木が多い。東海地方の山々は開墾される前はすべてこんな照葉樹林で覆われていたはずだ。以前に登った鶴形山と同様に植生でも保存されたい山である。
 まず最初に見た人工物は次の歌碑だった。

 いかなれば船木の山のもみじ葉の
   秋は 過ぐれどこがれざるらん,

右大弁通俊(後拾遺和歌集)

 何でこんなものがあるのか不思議であった。検索してみたが経緯は良く分からない。違和感があるので、できれば撤去して欲しい。この無雑作なよく言えば多様性のある森の保存に努めるべきで、古代の遺構や遺跡の保存は必要であるが後世の人工的なものは無用である。
 船来山に登頂したが森の中故に展望はない。2等三角点が埋まっている。ということは明治初期の五万図のための測量時代は高い櫓を建てて測量していただろう。
 下り始めるとウォーキングの人に会った。近くに住む人らしい。こんな山が散歩圏にある人がうらやましい。立ち話するとこの辺は私有林とのことで一部舗装路があった。昔は平地は水田で柿のような果樹園は山の斜面にあったのだ。今でも実は成るが肥料をやらないから渋柿化しているだろう。人間も捨てられると甘くは無くなる。
 どんどん下って登り返すと群部山に着いた。ここで引き返すつもりが南端まで歩いてしまった。南端にこそ船木山古墳があった。竹林の中にあったからあやうく開発を逃れたんだろう。先に会った人の話ではD土木が買い占めてゴルフ場を企画したが倒産、別の会社が買いたたいたとか。生臭い話になった。
 歩道を下ってゆくと寺院に出た。山麓の車道を歩き始めると猛暑である。炎天下の道をとぼとぼ歩いた。すると目の前の高速道路の工事現場を通った。東海環状道であろう。郡府山の下をトンネルで抜ける。なんとも無粋な風景だ。
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沢始め・旧坂内村の沢を歩く②2024年05月26日

 26日は4時起床。バタバタと朝飯などを済ませてテント撤収。沢仕度を整えて出発。
 竹林の下に降りて殿又谷の遡行開始。最初の二股で尾根の先に上がると石垣が見える。右の滝谷本流から踏み跡が左へ行くので登って見たら草の生えた平地だった。何かの植栽地か隠し田か。はてまた木地師の小屋掛けでもあったのか。
 沢に戻る。入渓地から赤布などの目印は一切ない。流れに従いながら遡る。周囲は新緑の闊葉樹に覆われている。大きな七葉樹(栃)、欅、山毛欅が素晴らしい。その中を小さな滝の続く沢相が嬉しい。小滝を次々に突破する喜び。圧倒する大滝はないが遡行の喜びに違いはない。
 ふと夢を見た。所々にある平地でツエルトビバークしたらいいだろう。そして焚き火を囲む。肴は炙ったエイのひれでいい。持参の焼酎は沢水で割る。アマゴが釣れたら木の枝に刺して焼く。
 こんな沢旅こそ田部重治の世界だ。否、『樹林の山旅』を著した森本次男の世界である。森本は北アルプスに登れないから奥美濃に来たのではない、北アとは違う世界が良いと高評価した登山家だった。久々の野生的な登山を楽しめる自分を覚える。
 高巻きもした。リーダーは突破したがどうしても足場が滑るので左岸の尾根を小さく巻いて沢身に腹ばいで滑り降りた。巻けば安全と言うわけでもないが。
 水が絶えて源頭に到達。稜線に上がると爽やかな風が吹く。今日の最高点まで登って大休止。沢で死んでいた鹿の頭蓋骨を安置した。鹿の糞だらけの山頂である。いい供養になることだろう。
 下り気味に804mの三角点内谷に着く。埋まっているので掘り出すと三等の文字が見えた。点名の内谷は北へ流れる谷名らしい。
下降はそのまま南へ沢芯をたどる。最初は水が無いが段々水量が増えた。中流部は上から見ると足場が分からないから懸垂で下降した。滝の落差も長くなり、何度も懸垂下降を続ける。10回はやっただろう。本当は互いに撮影したかったが下降時はカメラを構える余裕もなかった。緊張感で喉がカラカラになる。
 それでも終わりはある。謎の平地が現れた。殿又谷もみおろせるがまだ高い。笹や木の枝、根っこ、蔓に捉まりながら下降をつづけ林道に戻った。スパッツを外すとヤマヒルがポトリ落ちた。血を吸って丸々太った奴だ。自宅に戻ったらTシャツの腹部にも血痕があった。2匹に献血した。

沢始め・旧坂内村の沢を歩く①2024年05月25日

 25日夕方発。奥美濃の山も久しぶりのことだ。旧坂内村の中心地の手前の坂本を左折。白川に沿う県道を走る。かつては揖斐高原スキー場へ走った道である。諸家で新穂谷に行くと新穂峠を越えて近江に行ける。言わば山岳古道であった。通りで路傍に石仏があったはずだ。
 今日はその手前の323m付近で白川をまたぐ橋を渡って殿又林道に入った。
 殿又林道で突然野生のシカが横切る。一応最終的なテンア場を探すために堰堤まで行って見たが少し戻って空き地に幕営。久々にテントで仮眠。

郡上の歴史調査行・・・岐阜県図書館へ行く②2024年05月05日

 郡上郡史は大正11年1月25日発行。昭和45年1月25日覆刻。P119から始まる
・相生村の項目のP128に

 一人娘は嫁にはやらぬ那比の宇留良や亀尾島へ

という俗謡があった。亀尾島はきびしまと読む。

那比ノ宇留良ヤ大字亀尾島ハ道路悪シク交通不便ナリ(宇留良ハ郡道ヨリ三里以上亀尾島ハ郡道ヨリ一里以上寺坂ヲ越セバ半里以上)社会生活ニ不便ナル意土地ノ悪シキヲ歌エルナリ然レ共今日ニテハソレ程ニモナシ

 那比の宇留良ものう亀尾島も住めば都じゃのやとのさ

前ノ歌ニ對シテ如何ニ土地ノ悪シキ處ニテモ自分ノ住所ト定ムレハ愉快アリ楽シミモアルヲ歌ヘリ

・崇田村(たけだむら)は「村名は、合併した三つの村の名前に由来し、山田村の「山」、高砂村の「高」、上田村の「田」をあわせた合成地名である。」
「歴史
江戸時代、この地域は郡上藩領であった。
1875年(明治8年) -
赤池村、杉原村、鬮本村(くじもとむら)、門福手村が合併し、山田村[1]となる。
高原村と粥川村が合併し、高砂村となる。
下田村、木尾村、繁在村、根村が合併し、上田村となる。
1889年(明治22年)7月1日 - 山田村、高砂村、上田村が合併し、嵩田村となる。
1954年(昭和29年)11月1日 - 下川村と合併し美並村が発足。同日嵩田村廃止。」

地勢
本村ノ西部一帯ノ高賀山脈ハ高地ニシテ瓢ヶ岳、根村ヶ岳ハ其ノ最モ高俊ナルモノナリ

とあるので瓢ヶ岳の南の1086mのコブは単に南岳とされるが根村ヶ岳と分る。ただし根村はすでに消えた地名であり、山名としても短期間だったから根付かなかったと思われる。

郡上・水晶山からナカザコを経て縦走2024年04月28日

 登山計画書では
2 行程
名古屋天白自宅5時~高速~美濃IC7:00~R156~母野駅前P8:00
・・・P・・・上河和9:00・・・水晶山12:30・・・ナガザコ三角点13:00・・・尾根通し又は林道歩き約2km・・・馬越峠14:00・・・県道325号約5km~長良川鉄道・大矢駅
大矢駅15:32~長良川鉄道乗車6.3km~15:43母野駅・・・P

 実際は1時間程度早く名古屋を出たので母野駅(はんのえき)に着いたのは7時前。近くの空き地にPして出発したのが7時でした。なので三等三角点州原から山稜歩きに変化の無さに冗長さを感じた。
 水晶山登頂は11時12分はかなり早かった。何となく早足になっていたのだろう。ナガザコは13時登頂でしたが実際は12時30分とここでも30分早い。ところが馬越峠到着は13時57分。ナガザコからの下りが、尾根は岩場が大きなギャップとなっていて、道の無い谷を下った。しかも間伐材を水平に配置してボサを作ろうとしてあった。なので乗り越しに手間取り、これまでの貯金を食いつぶしてしまった。
 県道325号も長いし、暑いしでペースダウンした。大矢駅に着いたのは15時26分ですが列車の発車時刻は15時32分なので5分前となりギリギリだった。しかし、偶然に観光列車に乗れたのはラッキーだった。大矢駅はホームが別々になり、昭和の風景を思う。
 今日は気温が日本各地で30℃と予想されていたように暑かった。このために後半はピッチが鈍った。周回ではなく、縦走の形式で遊んでみた。列車を下山口と登山口で結んで完成させたわけである。前回の大野三山縦走に続く2弾目である。

三遠研の総会2024年04月20日

 豊橋市方面に向かう時に県道56号から片側2車線のR155に右折。このままでは知立へ行くので左折、地道を抜ける内に三河線をまたぐ。伊勢湾岸道へ左折して並行線から離れてようやく矢作川を渡った。
 岡崎市市街地も混雑気味である。岡崎IC手前でR1に合流。その先で喫茶店で一休み。モーニングサービスはオプションだったがコーヒー代プラス180円、360円、500円とうぉっという価格設定だった。しっかり腹づくりしたい人には良いかも。赤坂付近から東の空を見るとどんより雲が厚そうである。今日も黄砂が降っているのだろうか。
 R1から左折して御油駅周辺の渋滞を回避。山間部を迂回して本宮山の山懐を走り、豊川を渡った。秀麗な山容の吉祥山が目の前に見える。13時まではまだ時間があるので新城市図書館へ寄った。地域資料コーナーの中で研究輯録の創刊以来のバックナンバーをチエックした。2号の目次に響くものがあったので閉架図書の開示請求をして閲覧。読んでみると資料解釈が精細すぎてこなれていない。研究者の域を出て作家的な視点で書いてないと素人には読みづらい。
 時間が迫ったので富岡ふるさと会館に行く。総会なので令和5年度の事業報告と会計報告、次年度の事業計画と予算案の読みあげと説明があった。特に会計では現金不足が深刻である。印刷した『研究輯録10』が売れて資金回収できないとカネが回らない。
 これは山岳会の上部団体でも資金不足で幹部は資金調達に苦労している。どこもコストダウンに知恵を絞る。
 続いて、「ええじゃないかの始まりと広がり」と題して、豊橋市二川宿本陣資料館館長の和田 実氏の講演があった。江戸時代の末期に全国規模で起きた狂乱的な民衆運動だった。その中でも豊橋市に的を絞っている。

 余談メモ

名古屋市博物館のHPから
https://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/owari_joyubi_news/eejyanaika/index.html

 「ええじゃないか150年
平成29年9月27日(水)~10月22日(日)
 いまから150年前の慶応3年(1867)7月14日、三河国渥美郡牟呂村(現豊橋市)へ伊勢神宮のお札が降り、二夜三日の祭礼が行われました。人々はお札降りを神仏の出現ととらえて祭礼を行います。お札降りが連続するとお祭りも連続し、日常生活が麻痺する熱狂的な騒ぎへ発展します。これが幕末に流行した「ええじゃないか」です。

 全国に伝播した「ええじゃないか」ですが、名古屋へは8月末に伝わり11月まで続きました。名古屋では、お札が降ると町奉行所へ届けて祭礼を行います。町奉行で集計されたお札は三千枚を超え、いかに「ええじゃないか」の騒ぎが大きかったかがうかがえます。加えて、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は七日七夜にわたり、降札による祭礼の連続、祭礼の長期化が城下を祝祭空間に変えてしまったのです(図1)。

 こうしてみると「ええじゃないか」は、お札降りを口実に人々が勝手に遊びくるったようなイメージをもつかもしれません。しかし、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は、地域の伝統的な祭礼のルールのもとで行いました。名古屋城下茶屋町をみてみると、町で管理する屋根神の中へ「ええじゃないか」のお札を納め、関係の寺社へとお礼参りをして「ええじゃないか」の一連の行事は終了しました。」以下略。

 慶応3(1867)年は日本が近世(封建制)から近代に生まれ変わった年でした。
・坂本竜馬、新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)を起草
・大政奉還(たいせいほうかん)
・王政復古(おうせいふっこ)の大号令
 慶応4(1868)年は
・鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)を機に戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まる
・江戸を東京と改称し、年号を明治とする

 今の日本の世相と幕末はよく似ていると思います。消費税率が打出の小槌のようにアップしてきた。大企業には減税しているし、諸外国にカネをばらまくわでいい顔したがる岸田政権。江戸時代の大衆も重税に悩んでいた。
 昨年春から長良川や津保川流域の里山を歩いていると郡上一揆の石碑を多数発見します。
 郡上一揆は18世紀半ばに起きた農民の減税運動でした。
 農民は結束し秘密裏にことを進めめ公事(今の弁護士で宿泊所付きの法律事務所)に頼んで籠訴を準備。しかし籠訴は首謀者は獄門晒し首の掟がある。首謀者の実家の墓に行ったこともある。
 これは大衆への見せしめには効果があった。権力に逆らうと只では済まんぞ。というわけだ。その後に下流の美濃市で流行った大衆芸能の「美濃流しにわか」では時事、世相批判が材料で藩(支配者)をチクる。証拠を残さないために一回限りとした。おそらくですが権力への忖度があったのでしょう。
 さらに時代が下がると「ええじゃないか」が起こる。権力者を批判するでもない。戦後の学生運動は左翼運動でしたから大衆の支持を得られないままに終焉した。ええじゃないかは徳川幕府をつぶすためでもなかった。
 マルクスは「万国の労働者よ団結せよ」、と共産党宣言(1848年)を書いたが、そんな高邁な思想はない。
 江戸時代の大衆は絶望感の共有から変革への願望がええじゃないかにつながり、明治維新が生まれた。変わるべくして変わった。

次の山行は水晶山からナカザコ2024年04月12日

 長良川左岸の山はほとんど登っていない。そこでこの前の洲原神社から対岸に渡って上河和から水晶山、ナカザコと周回し、馬越峠への北上を考えて見た。ナカザコの北面が岩尾根で厳しいらしい。しかし里山の事だ、何とかなるだろう。馬越峠からは大矢駅まで歩き、長良川鉄道でマイカーのある洲原神社へ行く案。

池田富士と春日井三山を歩く2024年04月07日

 自宅を1時間早めに出発。地下鉄鶴舞駅でJRに乗換。高蔵寺駅で30分の余裕が生まれ高蔵寺駅構内の喫茶店で香り高いコーヒーと軽い朝食を取りました。
 内々神社行バスの始発は8時ちょうど。内々神社バス停まで約30分。内々神社まで徒歩2分。トイレで用足し後、登山を開始。境内の右側に東海自然歩道が通じている。植生は見事な杉、照葉樹林の高木でした。ジグザグで東屋のあるピークに登る。もう一つ先の四等三角点の北山を踏んで下る。犬山へ行く道と別れて右へ周回後、春日井市と多治見市の境迄歩く。そこには春日井三山の一つ弥勒山437mの登山口がある。
 今日は池田富士370mを経めぐりたいので少し戻ってラブホテルの入り口の左のピンクのテープから植林内に入る。枝が落ちていたり、倒木も未整備であるが踏み跡はなんとか歩ける。左側の金網に沿って歩く。林内は迷いやすいが赤、ピンク、黄色のテープのマーキングがあるので心配はない。金網にどこまでも沿うと無名のコブに出て北の方面の眺めが良い。少し戻って赤テープが多数巻いてある処から東へ行く。踏み跡は頼りないがテープが多数あるので迷わない。
 小さなコブを2つ乗り越すと池田富士に登頂。小さな祠が2つあり、ベンチのある処からは樹木が切り払われて多治見市街地を見下ろせる。霞んでいるが恵那山、南アルプスも見えた。休んでいると八曽山からというトレランのハイカーが登ってきた。凄い肺活量だね。赤テープに導かれて廿原へ下る。途中に鳥居や池田富士への道標も在って地元の人らに愛された里山だと知った。廿原と書いてつづはらと読ませる。
由来はhttps://www.gifu-np.co.jp/articles/-/82703
 多治見市廿原の山里に下るといちご狩りのマイカー客が一杯来ていた。ちょうど12時になったのでその中のmontanaという喫茶店でカレーを食した。
 約30分後、弥勒山へ登山を再開。桧の植林内のしっかりした登山道を弥勒山まで登った。ここでもトレラン1人が追い越していった。トレランブームかな?山頂では改埋された二等三角点が埋まっている。ベンチもある。東屋もありハイカーに人気があるのもうなづける。山頂を辞して急な階段状の登山道を下るうちに膝に痛みが走った。そろそろ下る。大谷山、道樹山と一応三山は踏破できた。
 計画では定光寺駅まで縦走だったが暑いのとひざ痛がぶり返して来たので道樹山で下山した。細野町に下って車道を歩き、15時55分、石尾台東のバス停で登山活動を終えた。本当はキャンプ場から細野のバス停に歩けば車道歩きは少なくて済んだ。石尾台のバス停で2つ目だった。待ち時間の間にストック、カメラなどを仕舞い、パッキング。16時12分のバスに乗って高蔵寺駅まで乗車。16時47分の快速に乗れた。

西濃・本巣駅から雁又山~大谷山下山後揖斐駅へ2024年03月30日

 名古屋駅7時発の電車は区間快速であるが通勤電車並みに混んでいた。行楽シーズン入りしてお客が増えたんだろう。33分で大垣駅着。大垣駅で樽見鉄道に乗り換え本巣駅下車。
 田園地帯の中でのんびりした田舎の風景を歩いた。喫茶店が営業している。2つ目の喫茶店では1日中モーニングサービスありと謳う。3つ目の喫茶店のモーニングサービスが気に成り、入店。朝飯を抜いたので、トースト、サラダ、茶碗蒸し、が美味しかった。30分のロスが出てしまった。
 大野町寺内の西外れの山麓の家並みを抜けて山腹奥深くに歩く。三差路で左は大谷スカイライン、右は金尾滝の案内があり、右へ。舗装路から砂利道に変わり奥まで行くと金尾滝に着いた。ここでも左は滝谷山、右の送電鉄塔の道標に従えば雁又山に行く。どちらも指導票はないので地図での判断である。GPSを見ると右側の道を歩いたから滝谷山への道標は見落としたかも知れない。
 鉄塔巡視路を登り始める。最初の鉄塔は眺めが良い。尾根の切り分けを行くと木に結び付けた布切れ、テープの類が左右にあるから迷わされる。尾根に忠実に行くと滝谷山へ直登するので右のやや下り気味の踏み跡を下る。すると谷にまで下ってしまうが数メートル下ってから横へ行くと再び鉄塔巡視路の道標があった。ここからは浅い水の無い谷の地形をゆっくり登った。すると又明るい尾根に出て、又谷を横切ることを繰り返しながら雁又山の鉄塔に着いた。ここで2人連れに出会った。
 左折してけっこう急な町界尾根を喘いで登ると430mの雁又山だった。三角点はない。新聞で見た展望台があった。ベンチもある。田園風景を見下ろす良い山である。土曜日というのに静寂な雰囲気は意外な気もする。
 自家製の弁当を食う。卵焼きとハムの焼いたもの数切れ。しかし腹筋に負荷をかけているために半分も食べきれなかった。お茶だけはがぶがぶ飲める。
 山頂を後にしてゆっくり下る。350mの鞍部迄下って登り返すと400mの展望丘に着く。北への見晴らしが良い。三角点398、1mは少し下って登り返すとあった。南から遠望すると双耳峰に見えるだろう。ここからは南に少し開けるが見えない。途中にはコブがいくつもありアップダウンする。350mの大谷山に着いたが城跡でもあった。ここからも大野町を俯瞰する展望台が設けられていた。
 大谷山からはやや急な尾根を下った。途中で二岐に分かれるが右は花立峠というのでパスしてしまった。地形図では野村坂としか認識が無かった。ここからは主要道に見える南尾根を下って分岐に着いた。このまま下ると運動公園に行く。間違ったと気が付いた。ハイキングが終わるので大谷スカイライン経由で花立峠に迂回することにした。
 地形図を見ると野村坂の印刷はあるが花立峠はない。しかし立派な花立峠の石碑がある。検索して見ると昔は谷汲山への参詣道だったらしい。揖斐川町へ下ると華厳寺へまっすぐの道だった。時間が迫るので権現山への縦走は牛洞坂で前途中止にした。
 野村山の頂上もパスしてう回路を歩いた。出合いで合流、少し下へ下ってまた別の道と合流するがヘアピンカーブのように右折。そのまま歩くと牛洞坂に降り立った。
 鳥坂から南へまっすぐな車道をひたすら歩くと仲之元でR303と出合う。更に南へ行く。右折すると真西へ三町大橋へ直進。途中で名鉄揖斐線の線路址があった。昔は2001(平成13)年に廃止されるまで終点本揖斐駅があった。他に谷汲線もあった。今朝通過した稲富にも駅があったはずである。マイカーでの参拝が凌駕したわけである。
 揖斐川町、大野町、池田町の三町大橋を渡ると揖斐川をまたぐ。東瀬古、溝口を経て揖斐駅到着。足が棒になるくらい歩いた。18時直前になった。いっぱいやりたかったが駅前には飲食店はなし。
 18時16分に乗車。大垣駅までは上下に跳ねるような乗り心地の養老線の旅でした。

中濃の里山歩き2024年03月10日

 3月10日 今までR156を往来する度に気になっていた美濃市の鶴形山にようやく登れた。
 車を停めた洲原神社からは見上げるような岩壁が見える。登山道は道標があり整備されていた。植生は鬱蒼とした常緑照葉樹林が占める。冬でも青々としている。
 長良川の水を引いた用水路があり、しばらくは樹林の中を岩壁を避けるようにジグザクに登る。下からはR156の騒音が聞こえてくる。
 急登もあり思いのほか難コースだった。神社跡の二ヶ所を経て、鶴形山へは道も未整備となる。少し雪の残る山頂からの展望は樹林に囲まれて皆無。足元にはヒカゲノカズラが繁茂している。周囲の植生は植林の下に照葉樹の灌木が生えて青い。
 そこから高山への縦走路に行く。今までと違い未整備な踏み跡で赤テープをチエックしながら歩く。鉄塔の周辺のみ樹林が伐採されて見通しが良い。一旦鞍部迄下がって登り返す。高山へはかなりな急登でフィックスロープもあったからまったく整備されていないこともない。ここで親子連れにあった。ちょっと家族連れには不向きな気がするが山慣れしているんだろう。
 高山は三山の中で唯一展望があった。濃尾平野に前山が立ち並び、彼方には名古屋駅前の巨大ビル群が見えた。御岳山は樹林に邪魔されるが真っ白にかがやき、白い。恵那山は良く見えた。恵那山の左側の白い山なみは南アルプスだろう。
 高山を下山し、母野洞の分岐点は明瞭ではないが、GPSで確認して左折。地形図で破線のある397mの鞍部迄一気に下る。野田洞という村への古道は明瞭に残って見える。ここからも明瞭な尾根歩きになった。この道はところどころにある高圧電線の鉄塔巡視路だろう。長い尾根の登りに耐えて母野洞三角点に登頂。しかし樹林の中で展望は皆無。
 一休みした後、急な落葉と雪にまみれた踏み跡をたどった。鉄塔巡視路へ行く踏み跡へ引き込まれそうになり、GPSで確認して引き返す。この踏み跡は明瞭だが南へ垂れ下がるように曲がる尾根に引き込まれそうになった。GPSで確認して引き返す。その後も簡単には歩かせてくれない山路でした。
 昨年の2月から登り残した中濃の山のピークハントをしていますが、里山といえども侮れない山々です。