坊ケ峰ミニハイキング ― 2025年10月03日
新城市に4日午後に急用ができた。明日は雨模様、今日は辛うじて曇天、坊ヶ峰なら午前中に登れそう。と東三河に来たが金曜日なので交通量が多く更に東名高速道路の工事渋滞に冷や冷やしながら豊川ICを出て本坂峠に向かった。
八名弓張山地は北へ行くほど登山者の数が少ない。一等三角点を置く富幕山を除くと人と会うことが稀だった。未踏峰としてストックしてあった坊ヶ峰も姫街道と絡めて歩きたかった。
R362のトンネル付近から左折しそこねて遠州側に出てしまったのでUターンして旧道に入る。つづら折れの狭い車道を行くと旧トンネルまで来てしまった。幸い姫街道につなぐ歩道があったので今日はここが登山口になる。
周囲の植生は檜の人工林で照葉樹の灌木が混じる。途中弘法大師様の湧水があった。コンコンと湧くイメージではない。夏ならひと掬いでも重宝する。峠にはあっと言う間に着いた。
峠からは急登が待っていた。岩が混じるのでちょっと大変だ。やがて祠が見えてきた。北へ回り込むと2等三角点が埋まる坊ヶ峰頂上だ。但し樹林の中で展望はない。歩道は北へ続いていてここが目標とされる山頂ではない感じ。祠前で水を飲んで下山した。
峠からは足元の地質が気になる。チャートの様な褶曲が露頭して居る。滑落しない様に下った。あっと言う間にPに着いた。
往復1時間弱のミニハイキングでした。443mと低いがさわやかな秋の空気のお陰で汗をかくこともなかった。
冒頭の八名はかつてあった八名郡の名残りだ。弓張山地は地殻変動で東側に弓状に湾曲させられたと想像する。赤石山脈の南部というがもっと北の佐久間町で天竜川も東へ流路を変える。秋葉街道に沿って南流する不思議。大井川も平野部まで南流しながら小笠山で東に折れ曲がって居る。何故か法多山がある。地殻変動は想像力を掻き立てる。
豊川沿いには中央構造線が走り豊橋で西に折れて渥美半島につながる。古道歩きで気付いたことは地殻変動のあった辺りには古刹名刹が多いと思った。中央構造線では三河は本宮山奥宮砥鹿神社、豊川稲荷、伊勢は伊勢神宮、遠州では秋葉山、法多山。信州では諏訪四社。今日の帰りには豊川の国分寺尼寺跡に寄った。壮大な寺院跡が発掘、一部が再現されていた。
八名弓張山地は北へ行くほど登山者の数が少ない。一等三角点を置く富幕山を除くと人と会うことが稀だった。未踏峰としてストックしてあった坊ヶ峰も姫街道と絡めて歩きたかった。
R362のトンネル付近から左折しそこねて遠州側に出てしまったのでUターンして旧道に入る。つづら折れの狭い車道を行くと旧トンネルまで来てしまった。幸い姫街道につなぐ歩道があったので今日はここが登山口になる。
周囲の植生は檜の人工林で照葉樹の灌木が混じる。途中弘法大師様の湧水があった。コンコンと湧くイメージではない。夏ならひと掬いでも重宝する。峠にはあっと言う間に着いた。
峠からは急登が待っていた。岩が混じるのでちょっと大変だ。やがて祠が見えてきた。北へ回り込むと2等三角点が埋まる坊ヶ峰頂上だ。但し樹林の中で展望はない。歩道は北へ続いていてここが目標とされる山頂ではない感じ。祠前で水を飲んで下山した。
峠からは足元の地質が気になる。チャートの様な褶曲が露頭して居る。滑落しない様に下った。あっと言う間にPに着いた。
往復1時間弱のミニハイキングでした。443mと低いがさわやかな秋の空気のお陰で汗をかくこともなかった。
冒頭の八名はかつてあった八名郡の名残りだ。弓張山地は地殻変動で東側に弓状に湾曲させられたと想像する。赤石山脈の南部というがもっと北の佐久間町で天竜川も東へ流路を変える。秋葉街道に沿って南流する不思議。大井川も平野部まで南流しながら小笠山で東に折れ曲がって居る。何故か法多山がある。地殻変動は想像力を掻き立てる。
豊川沿いには中央構造線が走り豊橋で西に折れて渥美半島につながる。古道歩きで気付いたことは地殻変動のあった辺りには古刹名刹が多いと思った。中央構造線では三河は本宮山奥宮砥鹿神社、豊川稲荷、伊勢は伊勢神宮、遠州では秋葉山、法多山。信州では諏訪四社。今日の帰りには豊川の国分寺尼寺跡に寄った。壮大な寺院跡が発掘、一部が再現されていた。
渡部昇一『決定版 日本史』 ― 2025年09月28日
目次の中の中世の理解に役立つ。
宮城谷昌光『古城の風景』Ⅰ ― 2025年09月27日
愛知県にある古城を40ヶ所取り上げてある。松平の城跡もあるのでリアルな歴史の学びになる。本書を手にある時はルーツの松平町の親氏を訪ねて天下峰に登ったり高月院を訪ねて見る。岡崎市の岩津城址の松平信光と信光明寺にお参りする。安城市の安祥城址を訪ねて松平清康、広忠を偲ぶ。良い本である。
1467年の応仁の乱から地方へと波及していった。天正三河の大乱もそのひとつ。松平家も戦乱の中から生まれた新興勢力だった。中世は約150年で貴族化して既得権は戦国時代に焼き払われてしまった。新たな政治勢力が台頭したターニングポイントになった時代だった。松平は波乱の中から天下を取ったのである。
1467年の応仁の乱から地方へと波及していった。天正三河の大乱もそのひとつ。松平家も戦乱の中から生まれた新興勢力だった。中世は約150年で貴族化して既得権は戦国時代に焼き払われてしまった。新たな政治勢力が台頭したターニングポイントになった時代だった。松平は波乱の中から天下を取ったのである。
嶋津義忠『小説 松平三代記 清康・広忠・家康、三河から天下へ』 ― 2025年09月27日
戦国乱世を完全に終わらせ、天下泰平の時代を切り開いた徳川家康。その偉業の陰には、祖父・松平清康、父・松平広忠の二代にわたって続いた悲劇の歴史があった。
松平清康はわずか十三歳で宗家の家督を継ぐと、疾風のごとく大地を駆け巡り、三河全域の統一をなしとげた英傑だった。しかし、戦陣で家来に襲われて思いがけない最期を遂げ、三十五歳にして天下を目指す覇業は挫折してしまった。
清康の突然の死は嫡男・広忠に命の危険と苦難の人生をもたらした。その不遇に耐え、自立を模索して苦闘した広忠もまた家来の手にかかって若い命を落とした。
人質の境遇から戦国の世に人生の第一歩を踏み出した家康は、二代続いた負の連鎖を断ち切り、戦国大名として飛翔する。そして、祖父、父が示した二つの生き方を我が身のうちで一つにまとめあげ、「戦のない時代」の礎を築いた。
乱世の波に翻弄されながら、戦い続けた松平三代の男たちを描き出した力作長編小説。
松平清康はわずか十三歳で宗家の家督を継ぐと、疾風のごとく大地を駆け巡り、三河全域の統一をなしとげた英傑だった。しかし、戦陣で家来に襲われて思いがけない最期を遂げ、三十五歳にして天下を目指す覇業は挫折してしまった。
清康の突然の死は嫡男・広忠に命の危険と苦難の人生をもたらした。その不遇に耐え、自立を模索して苦闘した広忠もまた家来の手にかかって若い命を落とした。
人質の境遇から戦国の世に人生の第一歩を踏み出した家康は、二代続いた負の連鎖を断ち切り、戦国大名として飛翔する。そして、祖父、父が示した二つの生き方を我が身のうちで一つにまとめあげ、「戦のない時代」の礎を築いた。
乱世の波に翻弄されながら、戦い続けた松平三代の男たちを描き出した力作長編小説。
司馬遼太郎『覇王の家』上 ― 2025年09月26日
徳川家康のルーツとなった松平親氏からの八代を描いた小説である。小説だけに矢作川を三河と尾張の国境に見立てたり、そこかしこに事実ではない記述もある。ネガティブな書き方も気になる。
伊藤賀一『三河物語』メモ ― 2025年09月25日
『三河物語』は、家康の側近・大久保彦左衛門が、そばに仕える中で見聞きしたエピソードを書きつづった、家康研究の一級史料。そこに語られる天下人・ 家康の生涯は、試練とピンチの連続だった…!(版元から)
東葉経済オンラインから
家臣の家康への皮肉が書かれた「三河物語」の中身
「主君を裏切る者が出世している」と憤慨
伊藤 賀一 : 「スタディサプリ」社会科講師
松平・徳川家と大久保家の事績
徳川家康に長年仕えた旗本の大久保忠教は、「彦左衛門」の通称と「天下のご意見番」として広く知られています。『三河物語』は忠教が著した書物で、家康を中心とした松平・徳川家の歴史と、大久保家歴代の事績がつづられています。
全3巻で構成され、上巻は(松平家始祖という建前の)清和源氏の由来にはじまり、初代・松平親氏から8代目である家康の父・広忠まで、中巻は家康の人質時代から織田信長との清洲同盟の成立を経て、信長の比叡山延暦寺の焼き討ちまでが記されています。
下巻は武田家との抗争から本能寺の変、豊臣秀吉への臣従を経て、関ヶ原の戦いでの勝利、大坂夏の陣までが記されています。後半には忠教の子孫に向けた教訓も記されており、下巻は分量が多くなっています。
大久保彦左衛門忠教は、1560年に三河国(現在の愛知県東部)で生まれました。父の忠員(ただかず)は家康の祖父・松平清康から3代にわたり松平家・徳川家に仕えた重臣です。忠教の長兄・忠世(ただよ)は「徳川十六神将」に数えられ、次兄の忠佐(ただすけ)も戦場で活躍し、ともに江戸幕府の成立後は譜代大名となっています。
彼らの異母弟にあたる忠教も、少年時代から松平(徳川)家に仕え、初陣以降は家康の合戦のほとんどに参加しています。いわゆる武断派の武将(武官・番方)の1人であり、戦場における槍働きで家康の信任を得ていきました。
東葉経済オンラインから
家臣の家康への皮肉が書かれた「三河物語」の中身
「主君を裏切る者が出世している」と憤慨
伊藤 賀一 : 「スタディサプリ」社会科講師
松平・徳川家と大久保家の事績
徳川家康に長年仕えた旗本の大久保忠教は、「彦左衛門」の通称と「天下のご意見番」として広く知られています。『三河物語』は忠教が著した書物で、家康を中心とした松平・徳川家の歴史と、大久保家歴代の事績がつづられています。
全3巻で構成され、上巻は(松平家始祖という建前の)清和源氏の由来にはじまり、初代・松平親氏から8代目である家康の父・広忠まで、中巻は家康の人質時代から織田信長との清洲同盟の成立を経て、信長の比叡山延暦寺の焼き討ちまでが記されています。
下巻は武田家との抗争から本能寺の変、豊臣秀吉への臣従を経て、関ヶ原の戦いでの勝利、大坂夏の陣までが記されています。後半には忠教の子孫に向けた教訓も記されており、下巻は分量が多くなっています。
大久保彦左衛門忠教は、1560年に三河国(現在の愛知県東部)で生まれました。父の忠員(ただかず)は家康の祖父・松平清康から3代にわたり松平家・徳川家に仕えた重臣です。忠教の長兄・忠世(ただよ)は「徳川十六神将」に数えられ、次兄の忠佐(ただすけ)も戦場で活躍し、ともに江戸幕府の成立後は譜代大名となっています。
彼らの異母弟にあたる忠教も、少年時代から松平(徳川)家に仕え、初陣以降は家康の合戦のほとんどに参加しています。いわゆる武断派の武将(武官・番方)の1人であり、戦場における槍働きで家康の信任を得ていきました。
安祥城址へ行く ― 2025年09月21日
今日も朝遅く起きてしまった。県内なら急ぐこともあるまいと正午前に出発した。目的地は安祥城祉を目指す。天白からはR153から県道56号に入りしばらく東郷町を走ると境川の橋を渡ると三河入りする。県道56号を東進すると矢作川を渡って岩津に行く。今日はナビに安祥城址を仕掛けて在り南下を始めた。昨日と違って丘すらもない平野部で刺激が少ない。
それでも西尾線南安城駅に近いところに安祥城址はあった。但し大乗寺の境内に飲み込まれているから城らしい雰囲気はない。砦ですらない。安城歴史博物館へ回り込んでP。だだっ広い中に停めて入口を探しながら歩くと安祥公民館に入って見たがここは会合の場だった。出て博物館に入り直すが子供らが大勢屯している。何やら来るところではない気がする。土産物コーナーをのぞくと書籍も展示してあるので『家康と松平一族』(令和3年開館30周年記念の発行)が目に付いた。これが今日来た目的だったので1600円で購入した。
博物館を出て大乗寺の境内を散策してみたが城らしさはない。学芸員、地元ボランティアガイドでもあればありがたい。とにかくこことが松平町に興った初代松平親氏から初代松平乗元が治めた大給城(おぎゅうじょう)、初代は松平信光の岩津城と岡崎平野に進出してきた。安祥城は信光の子の親忠が初代城主である。
松平家初代松平親氏、二代目松平泰親、三代目松平信光(岩津)、四代目松平親忠は信光の三男で安城城主、五代目松平長親は親忠の子で安城松平の二代目、六代目松平信忠は長親の子で安城松平の三代目、七代目松平清康は信忠の子で安城松平の四代目、八代目松平広忠は清康の子。
清康は家康の祖父で「天文4年(1535)に織田信秀を攻略するために尾張守山に出陣したところ、家臣の阿部弥七郎に殺され、松平氏の三河領国支配は瓦解した。」とある。家康の父の広忠も「広忠は天文10年水野忠政の娘である於大と結婚し、翌年家康が生まれた。しかし、同12年水野氏が織田方になったために於大を離縁、翌年 田原城主戸田康光の娘真喜姫と結婚した。同18年織田方の佐久間全孝の刺客岩松八弥に岡崎城内で殺された。」と波乱の生涯を生きた。
応仁の乱は人の世は空し、で1467年から10年間争いが続き、京都の町は焼け野原になったという。京都だけにとどまらず、三河でも永正三河の大乱があって地方へと拡散された。そのまま戦国時代となって1615年の徳川幕府開府で決着した。
家康の祖父の清康(1511~1535)は25歳で家臣に殺された。父の広忠(1526~1549)は24歳で刺客に殺されている。
それでも西尾線南安城駅に近いところに安祥城址はあった。但し大乗寺の境内に飲み込まれているから城らしい雰囲気はない。砦ですらない。安城歴史博物館へ回り込んでP。だだっ広い中に停めて入口を探しながら歩くと安祥公民館に入って見たがここは会合の場だった。出て博物館に入り直すが子供らが大勢屯している。何やら来るところではない気がする。土産物コーナーをのぞくと書籍も展示してあるので『家康と松平一族』(令和3年開館30周年記念の発行)が目に付いた。これが今日来た目的だったので1600円で購入した。
博物館を出て大乗寺の境内を散策してみたが城らしさはない。学芸員、地元ボランティアガイドでもあればありがたい。とにかくこことが松平町に興った初代松平親氏から初代松平乗元が治めた大給城(おぎゅうじょう)、初代は松平信光の岩津城と岡崎平野に進出してきた。安祥城は信光の子の親忠が初代城主である。
松平家初代松平親氏、二代目松平泰親、三代目松平信光(岩津)、四代目松平親忠は信光の三男で安城城主、五代目松平長親は親忠の子で安城松平の二代目、六代目松平信忠は長親の子で安城松平の三代目、七代目松平清康は信忠の子で安城松平の四代目、八代目松平広忠は清康の子。
清康は家康の祖父で「天文4年(1535)に織田信秀を攻略するために尾張守山に出陣したところ、家臣の阿部弥七郎に殺され、松平氏の三河領国支配は瓦解した。」とある。家康の父の広忠も「広忠は天文10年水野忠政の娘である於大と結婚し、翌年家康が生まれた。しかし、同12年水野氏が織田方になったために於大を離縁、翌年 田原城主戸田康光の娘真喜姫と結婚した。同18年織田方の佐久間全孝の刺客岩松八弥に岡崎城内で殺された。」と波乱の生涯を生きた。
応仁の乱は人の世は空し、で1467年から10年間争いが続き、京都の町は焼け野原になったという。京都だけにとどまらず、三河でも永正三河の大乱があって地方へと拡散された。そのまま戦国時代となって1615年の徳川幕府開府で決着した。
家康の祖父の清康(1511~1535)は25歳で家臣に殺された。父の広忠(1526~1549)は24歳で刺客に殺されている。
岩津城址と信光明寺 ― 2025年09月20日
遅めの朝食後、県道56号を東進して矢作川を渡った。9/6の学習で岩津城址はすぐ行けた。岩津天満宮さんのPに置かせてもらって東名高速道路の橋を渡って城址に行く。全体的には竹藪が覆われた中に踏み跡があり左回りに歩いた。ところどころの石仏は何の意味だろうか。土塁などの説明書きの看板がある。ちょっと下がると中央に円座があるがこれは愛好家らのものだろう。
ボックスに「岩津城址の見どころ」のA4のガイド文1枚が束で入っていたので一枚いただいた。「岩津松平輝きの600年」推進懇話会が作成した。
URL
https://www.iwazujo.com/
一回り後は信光明寺へ行く。城址へ来る前に正面から入ったが奥へは入りづらい。ところが車で走っているうちに2ヶ所の裏道があることが分かってきた。天満宮に車をおいたまますぐに裏口が降りて境内をみたが案内板があるわけでもないからどれが松平家のものかは不明だった。何となくここだろうとは分かるものの不案内に終わった。
岩津界隈の目的は一応は果たしたので大給城址へ行ってみることにした。巴川沿いの県道39号を北上。旧道のR301を右折、バイパスと合流する辺りがまだ工事中で分かりにくく、いったんは行き過ぎて戻ってようやくPに着いた。しかし小雨模様で歩いてまでも行く気が失せた。そのまま九久平町まで下った。山中に不似合いな二車線の道路があったりして分かりにくく、巴川に出てほっとした。そのまま帰名。
ボックスに「岩津城址の見どころ」のA4のガイド文1枚が束で入っていたので一枚いただいた。「岩津松平輝きの600年」推進懇話会が作成した。
URL
https://www.iwazujo.com/
一回り後は信光明寺へ行く。城址へ来る前に正面から入ったが奥へは入りづらい。ところが車で走っているうちに2ヶ所の裏道があることが分かってきた。天満宮に車をおいたまますぐに裏口が降りて境内をみたが案内板があるわけでもないからどれが松平家のものかは不明だった。何となくここだろうとは分かるものの不案内に終わった。
岩津界隈の目的は一応は果たしたので大給城址へ行ってみることにした。巴川沿いの県道39号を北上。旧道のR301を右折、バイパスと合流する辺りがまだ工事中で分かりにくく、いったんは行き過ぎて戻ってようやくPに着いた。しかし小雨模様で歩いてまでも行く気が失せた。そのまま九久平町まで下った。山中に不似合いな二車線の道路があったりして分かりにくく、巴川に出てほっとした。そのまま帰名。
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