六所山への登拝の古道を歩く ― 2026年05月29日
5/6は松平往還の最後の不明な部分の踏破が目的だった。次は1377年に松平親氏が手厚く寄進を行い、高月院と命名。後に徳川家康からも寺領を寄進されるなど、手厚い保護を受けました。高月院と同年に六所神社も建立した。
「社伝によれば、永和3年(1377)松平(徳川)氏の始祖松平太郎左衛門親氏が、吉木山(現在の六所山)の山頂に陸奥国一宮鹽竈(しおがま)六所明神を勧請し、 松平氏の氏神として、奉祀したことに創まると伝えられています。
《隠居神様》
往古は、吉木山そのものを神体山とし、大山祇神を祀り、産土神として奉拝していましたが、客人神である鹽竈六所明神にその社地を譲り、 同じ山頂の東北にある峰に遷り、蜂ヶ峰神社となりました。里人たちが「隠居神様」と呼んでいるのは、この事情を物語っています。」
というわけで、登拝を試みたが雨で断念した。
又、拳母街道の森下という山里から登って見たが間違いだった。古い地形図をよく見ると拳母街道は下りに歩いた道であった。二等三角点松平村へは下山村と松平村との境界にある坂峠から登った。峠名は中根洋治『忘れられた街道』に記載されていた。
『六所山と六所神社』(松平親氏公顕彰会、平成29年発行で309ページ)の大著を読むとP187の浦野一郎氏の「六所山と参拝道」の論考を読むと六所山は南から登拝されていたと知った。
今日は南からの古い登拝の道を歩く続きである。松平郷のPに車を停めたのが9時28分。大沼行きのおいでんバス松平郷9時35分はぎりぎり間に合った。約10分で次のバス停の切二木(きふたぎ)で下車。そこから歩いて小さな峠を越えると槇ヶ田和に下る。正面に見える鳥居が六所神社の鳥居である。昭和21年版の地形図に一番近いイメージの破線路は左折して、途中から右へと山深く入っている。現在の地名ではグーグルマップで見ると鳥下という。
最奥の民家を訪ねると畑仕事の家人から六所山の話を聞けたが名古屋から転居してきたとのことだった。この家の奥へと沢沿いに遡る。水の流れはせせらぎ程度。踏み跡もしっかりあるので藪漕ぎは避けられた。最初の林道を横断、2回目も林道終点から何となくある踏み跡を適当に登っていくと整備された林道に出て、松平郷からの登拝の道と合流した。
ここからは何度か歩いた道なので一安心だった。伊勢神宮遥拝所に立つと昔は伊勢方面を眺めたであろう。六所神社に参拝、蜂ヶ峰神社(隠居神様)からすぐの山頂を踏んだ後、松平郷へ下る尾根を歩いた。 稜線だけに爽やかな風が吹き抜けて気持ち良い。
昔歩いた古い記憶では伐採後で眺めは良かったが今は植林が成長したので人工林の中を歩くのみだ。展望台まで来たので登ってみた。村積山が見えた。その東には松平往還がうねうねと続いているはずだ。名駅の巨大ビル群も見えた。下って林道を横切ると東照宮、高月院のある松平郷に着く。東照宮に参拝後、Pに下った。
「社伝によれば、永和3年(1377)松平(徳川)氏の始祖松平太郎左衛門親氏が、吉木山(現在の六所山)の山頂に陸奥国一宮鹽竈(しおがま)六所明神を勧請し、 松平氏の氏神として、奉祀したことに創まると伝えられています。
《隠居神様》
往古は、吉木山そのものを神体山とし、大山祇神を祀り、産土神として奉拝していましたが、客人神である鹽竈六所明神にその社地を譲り、 同じ山頂の東北にある峰に遷り、蜂ヶ峰神社となりました。里人たちが「隠居神様」と呼んでいるのは、この事情を物語っています。」
というわけで、登拝を試みたが雨で断念した。
又、拳母街道の森下という山里から登って見たが間違いだった。古い地形図をよく見ると拳母街道は下りに歩いた道であった。二等三角点松平村へは下山村と松平村との境界にある坂峠から登った。峠名は中根洋治『忘れられた街道』に記載されていた。
『六所山と六所神社』(松平親氏公顕彰会、平成29年発行で309ページ)の大著を読むとP187の浦野一郎氏の「六所山と参拝道」の論考を読むと六所山は南から登拝されていたと知った。
今日は南からの古い登拝の道を歩く続きである。松平郷のPに車を停めたのが9時28分。大沼行きのおいでんバス松平郷9時35分はぎりぎり間に合った。約10分で次のバス停の切二木(きふたぎ)で下車。そこから歩いて小さな峠を越えると槇ヶ田和に下る。正面に見える鳥居が六所神社の鳥居である。昭和21年版の地形図に一番近いイメージの破線路は左折して、途中から右へと山深く入っている。現在の地名ではグーグルマップで見ると鳥下という。
最奥の民家を訪ねると畑仕事の家人から六所山の話を聞けたが名古屋から転居してきたとのことだった。この家の奥へと沢沿いに遡る。水の流れはせせらぎ程度。踏み跡もしっかりあるので藪漕ぎは避けられた。最初の林道を横断、2回目も林道終点から何となくある踏み跡を適当に登っていくと整備された林道に出て、松平郷からの登拝の道と合流した。
ここからは何度か歩いた道なので一安心だった。伊勢神宮遥拝所に立つと昔は伊勢方面を眺めたであろう。六所神社に参拝、蜂ヶ峰神社(隠居神様)からすぐの山頂を踏んだ後、松平郷へ下る尾根を歩いた。 稜線だけに爽やかな風が吹き抜けて気持ち良い。
昔歩いた古い記憶では伐採後で眺めは良かったが今は植林が成長したので人工林の中を歩くのみだ。展望台まで来たので登ってみた。村積山が見えた。その東には松平往還がうねうねと続いているはずだ。名駅の巨大ビル群も見えた。下って林道を横切ると東照宮、高月院のある松平郷に着く。東照宮に参拝後、Pに下った。
拳母街道の坂峠 ― 2026年05月14日
5/6に歩いた森下から松平村2等三角点への道は廃道だったが、実は拳母街道の旧道と分かった。そしてあの峠は坂峠ということも分かった。
AIの回答は「挙母街道における「坂峠」とは、現在の愛知県豊田市松平町と花沢町の間(林道松平槇田和線)にある峠を指します。一般の地図にはあまり掲載されていない隠れた古道・峠で、歴史や自然散策を好む方の間で知られるスポットです。
周辺エリアと街道の概要挙母街道(ころもかいどう)は、名古屋から豊田市中心部(旧挙母市)へと向かう街道や、三河地方の山間部から挙母へと通じる道を指す歴史的な呼称です。
坂峠の所在地: 豊田市松平町と花沢町の間に位置しています。付近は東海環状自動車道の豊田松平インターチェンジからアクセスしやすい環境です。周辺の峠: 挙母街道やそれに連なる街道筋には、この「坂峠」のほかに、国道301号沿いの根引峠や伊勢神峠など、歴史深い峠が点在しています。」
六所山への登山道が今は松平郷から通じているが古い地形図にはない。むしろ、旧下山村の方から登っている。今のR301よりも早く通じた古道だった。中根洋治『忘れられた街道』にもこの峠は出て来るらしい。
おいでんバスの終点も大沼だった。確かにこのルートの方が素直に走れる。現在はわざわざ急な根引峠を越えている方が不思議なくらいだ。
AIの回答は「挙母街道における「坂峠」とは、現在の愛知県豊田市松平町と花沢町の間(林道松平槇田和線)にある峠を指します。一般の地図にはあまり掲載されていない隠れた古道・峠で、歴史や自然散策を好む方の間で知られるスポットです。
周辺エリアと街道の概要挙母街道(ころもかいどう)は、名古屋から豊田市中心部(旧挙母市)へと向かう街道や、三河地方の山間部から挙母へと通じる道を指す歴史的な呼称です。
坂峠の所在地: 豊田市松平町と花沢町の間に位置しています。付近は東海環状自動車道の豊田松平インターチェンジからアクセスしやすい環境です。周辺の峠: 挙母街道やそれに連なる街道筋には、この「坂峠」のほかに、国道301号沿いの根引峠や伊勢神峠など、歴史深い峠が点在しています。」
六所山への登山道が今は松平郷から通じているが古い地形図にはない。むしろ、旧下山村の方から登っている。今のR301よりも早く通じた古道だった。中根洋治『忘れられた街道』にもこの峠は出て来るらしい。
おいでんバスの終点も大沼だった。確かにこのルートの方が素直に走れる。現在はわざわざ急な根引峠を越えている方が不思議なくらいだ。
盛本昌広『家康家臣の戦と日常』を買う ― 2026年04月24日
4/18の三遠研の講演会で知った深溝松平の話から18松平家に関心を持った。岡崎城は家康が江戸へ行ってしまうと家臣が守った。すると松平往還は廃道になるかに思った。この講演会で松平信光の子は48人もいてその子孫が三河南部へと進出して行ったのである。
三河湾に到達してもうこれ以上はないという所迄出て行った。その後は全国規模で各地の松平に散在している。多数の子孫がいたということは折に触れて歩かれたであろう。松平往還の案内書にはそんな話は載っていないが誰かが書いている気がする。
三河湾に到達してもうこれ以上はないという所迄出て行った。その後は全国規模で各地の松平に散在している。多数の子孫がいたということは折に触れて歩かれたであろう。松平往還の案内書にはそんな話は載っていないが誰かが書いている気がする。
三河国の東西の比較 ― 2026年04月20日
西三河 対 東三河
流域: 矢作川 豊川
乙川 大千勢川
巴川 (天竜川水系)
宗教: 浄土真宗 曹洞宗
道教(家康)
精神風土: 儒教
歴史的事件: 三河一向一揆 設楽原の戦い
加茂一揆 ええじゃないか
英雄: 徳川家康 無し
偉人: 岩瀬忠震
東照宮: 松平東照宮 鳳来山東照宮
滝山東照宮
名古屋東照宮
岡崎東照宮
法蔵寺山内 東照宮
三州大濱東照宮
流域: 矢作川 豊川
乙川 大千勢川
巴川 (天竜川水系)
宗教: 浄土真宗 曹洞宗
道教(家康)
精神風土: 儒教
歴史的事件: 三河一向一揆 設楽原の戦い
加茂一揆 ええじゃないか
英雄: 徳川家康 無し
偉人: 岩瀬忠震
東照宮: 松平東照宮 鳳来山東照宮
滝山東照宮
名古屋東照宮
岡崎東照宮
法蔵寺山内 東照宮
三州大濱東照宮
大給城址から岩谷山を歩く ― 2026年04月19日
4月になった。天白川堤防沿いの桜が満開から葉桜、そして散ったというのに中々出掛ける機会がなかった。やっと豊田市郊外の里山を歩けた。
春更けて山奥深く浸りけり
ウグイスのしきりに鳴くや城の跡
廃田を無心に耕す老農夫
と詩心のおもむくままに作った。
まず小さな峠から大給城址に登城した。松平家の初期の武家。ここから岡崎平野へと領地を広げていったのだ。城趾の一角からは豊田市街を見下ろせる。道は整備されて険しくなくぶらっと散策に良い。
地図を見て岩谷山へミニ縦走した。山道は俄然悪くなりコース外れで行きつ戻りつを繰り返した。岩谷山の山名通り山頂付近は大岩が屹立する険路になった。御嶽教の様な山岳宗教の雰囲気がある。修行僧がいたのだろうか。危うく無理して下りかかったがおかしいと気がついて引き返すと普通の山道に戻れた。岩谷山は専用の登山口から登らないとけっこう骨が折れる。
一旦林道に出て山里につながる車道を戻った。その後九久平の県道39号線に出てお菓子屋で柏餅を購入。
主目的の松平辰蔵の墓に詣でた。お菓子屋の北のセメントの階段を登って行くと植林内に着く。右行くとヤブ気味で建物がある。何となく左に行けば良さそうだが階段まで戻った。直進すると薄い踏み跡があり奥に墓石が見えて来た。無秩序な感じで墓が建っている。松平辰蔵の墓は上の方にあった。
1836年の加茂一揆の頭取だった男だ。1万人以上の農民が動員された。松平一体の農民が米価高騰に怒って立ち上がった。挙母藩、岡崎藩に抑え込まれた。1840年のアヘン戦争敗北から植民地化を恐れた幕府は開国に踏み切った。幕末は騒然とするが世直しのきっかけになった一揆だった。取り調べに対して上が腐れば下は猶も腐ると言った。松平の名をいただいた男の気概だろう。
松平往還を歩いた際に豊田市滝脇町の小学校付近にあった岩御堂が一揆のモニュメントである。
下山後は豊田市中央図書館に寄って加茂一揆の史料に当たって見た。辰蔵の家は焼かれた。早くに死んだ。取り調べの記録もある。藩は治安のために処分せざるを得なかった。原因はインフレだった。戦が無いと人口は増える。モノが足りない。
幕府、藩は給与を米で払った。米価は高い方が良い。今も消費税増減税でもめる。公務員の給与は税金だから増税を維持したい。
こうして昔も今も税金を巡る争いの種は尽きない。
春更けて山奥深く浸りけり
ウグイスのしきりに鳴くや城の跡
廃田を無心に耕す老農夫
と詩心のおもむくままに作った。
まず小さな峠から大給城址に登城した。松平家の初期の武家。ここから岡崎平野へと領地を広げていったのだ。城趾の一角からは豊田市街を見下ろせる。道は整備されて険しくなくぶらっと散策に良い。
地図を見て岩谷山へミニ縦走した。山道は俄然悪くなりコース外れで行きつ戻りつを繰り返した。岩谷山の山名通り山頂付近は大岩が屹立する険路になった。御嶽教の様な山岳宗教の雰囲気がある。修行僧がいたのだろうか。危うく無理して下りかかったがおかしいと気がついて引き返すと普通の山道に戻れた。岩谷山は専用の登山口から登らないとけっこう骨が折れる。
一旦林道に出て山里につながる車道を戻った。その後九久平の県道39号線に出てお菓子屋で柏餅を購入。
主目的の松平辰蔵の墓に詣でた。お菓子屋の北のセメントの階段を登って行くと植林内に着く。右行くとヤブ気味で建物がある。何となく左に行けば良さそうだが階段まで戻った。直進すると薄い踏み跡があり奥に墓石が見えて来た。無秩序な感じで墓が建っている。松平辰蔵の墓は上の方にあった。
1836年の加茂一揆の頭取だった男だ。1万人以上の農民が動員された。松平一体の農民が米価高騰に怒って立ち上がった。挙母藩、岡崎藩に抑え込まれた。1840年のアヘン戦争敗北から植民地化を恐れた幕府は開国に踏み切った。幕末は騒然とするが世直しのきっかけになった一揆だった。取り調べに対して上が腐れば下は猶も腐ると言った。松平の名をいただいた男の気概だろう。
松平往還を歩いた際に豊田市滝脇町の小学校付近にあった岩御堂が一揆のモニュメントである。
下山後は豊田市中央図書館に寄って加茂一揆の史料に当たって見た。辰蔵の家は焼かれた。早くに死んだ。取り調べの記録もある。藩は治安のために処分せざるを得なかった。原因はインフレだった。戦が無いと人口は増える。モノが足りない。
幕府、藩は給与を米で払った。米価は高い方が良い。今も消費税増減税でもめる。公務員の給与は税金だから増税を維持したい。
こうして昔も今も税金を巡る争いの種は尽きない。
三遠研の総会 ― 2026年04月18日
午後からの三遠研の総会まえに岡崎市日影町の松平往還の寸断された現地を三度訪れた。前回は気が付かなかったが、セメントの山路を登って少し周囲を探ると、左の谷側は山田があったと思われる。石垣でパイプがあるので昔は水田耕作をしていた。右の尾根側は狭い平地になって山家が建っていたと思われた。意味不明の3m位の空の穴があった。これはきれいなので井戸の跡か、池か。竹が枯れて踏みしだく。
道路側を覘くとセメントの溝があった。登り口からセメントはすぐ終わる。右へセメントは続いていたが急で滑りやすいので先へ行くのは止めた。想像すると道路拡張工事で削り取った断面は崩壊しやすいので上部にセメントで固めた溝を作り、排水溝にしたのではないか。そして、真ん中辺りに流れるように傾斜をつけて、道路側へ排水路を作ってある。垂直に近い排水路の意味が分かった。また松平往還の上にあって移設された馬頭観音というものは実は普通の観音の石仏だった。
午後は新城市で総会の後、深溝松平家の歴史話の講演を拝聴。内容は予備知識がないので半値半壊で終わった。しかし深溝松平の日記は一般に文庫本になって売っているのでそんなにとっつきにくいことではない。講演者もまだ若いのでこれからだろう。地域史を深めると面白い。
総会後、豊川ICから岡崎ICまで高速を飛ばし、岡崎市図書館で松平往還と加茂一揆の史料に当たった。特に集められていることでもない。というのも徳川家康が政権をとると江戸に移って岡崎城の城主は徳川以外が守った。但し松平家の分家は三河一円に多く存在したから折々歩かれたであろう。
ネットから主要な松平分家(十八松平)の一覧
「十八松平」の数え方には諸説ありますが、代表的な分家は以下の通りです。
1 岩津松平家(いわづ):松平信光の長男・親長が祖。初期は一族の中で最も勢力があったとされる 。
2 竹谷松平家(たけや):信光の子・守家が祖。宝飯郡竹谷(蒲郡市)を拠点とした 。
3 形原松平家(かたのはら):信光の子・与副が祖。形原城(蒲郡市)を拠点とした。
4 大草松平家(おおくさ):信光の子・光重が祖。額田郡大草(幸田町)を拠点とした。
5 五井松平家(ごい):信光の子・元心が祖。宝飯郡五井(蒲郡市)を拠点とした。
6 深溝松平家(ふこうず):光重の子・忠定が祖。額田郡深溝(幸田町)を拠点とした。
7 能見松平家(のみ):信光の子・光親が祖。岡崎市能見付近を拠点とした。
8 長沢松平家(ながさわ):親忠(安祥家)の子・親則が祖。豊川市長沢付近を拠点とした。
9 大給松平家(おぎゅう):親忠の子・乗元が祖。豊田市大給城を拠点とした。
10 滝脇松平家(たきわき):親忠の子・乗清が祖。豊田市滝脇を拠点とした。
11 福釜松平家(ふかま):親忠の子・親盛が祖。安城市福釜を拠点とした。
12 桜井松平家(さくらい):親忠の子・信定が祖。安城市桜井を拠点とし、一時宗家と対立した。
13 藤井松平家(ふじい):親忠の子・利長が祖。安城市藤井を拠点とした。
その他の主な松平家
14 松平郷松平家:松平氏発祥の地(豊田市松平郷)を守り続けた家系 。
15 大河内松平家:名知恵・松平信綱を祖とする。三河吉田藩(豊橋市)などを治めた 。
16 久松松平家:家康の異父弟・定勝を祖とする家系(伊予松山藩や桑名藩など)
AIの概要は「岡崎城の歴代城主は、西郷氏の築城(1455年頃)から廃城(1871年)までに、主に松平・徳川氏や格式の高い譜代大名など26人が務めました。最大の特徴は徳川家康の生誕地であることで、家康以降は江戸幕府の神聖な場所として、本多氏、水野氏、松平氏の有力譜代大名が入れ替わりで城主を務めました。
主な歴代城主・関係者
西郷頼嗣(稠頼):初期の築城者
松平清康:1530年頃、城主となり松平氏の本拠地とする
徳川家康:1542年誕生、桶狭間の戦い後に独立し本拠とした
松平信康:1570年~(家康の長男)
ここから後は必ずしも先祖の墓参りの道としての意味は無くなった。(筆者注)
田中吉政:1590年~(家康の関東移封後)
本多康重:1601年~(本多氏系、譜代)
水野氏:1645年~(水野忠善など、譜代)
江戸時代は、本多氏や水野氏、松平(松井)氏など、徳川家に近い大名が転封を繰り返しながら守りました。」以上
当時は塩の道として発展した足助街道(現在の県道39号線)に重きが移ったと思われる。
道路側を覘くとセメントの溝があった。登り口からセメントはすぐ終わる。右へセメントは続いていたが急で滑りやすいので先へ行くのは止めた。想像すると道路拡張工事で削り取った断面は崩壊しやすいので上部にセメントで固めた溝を作り、排水溝にしたのではないか。そして、真ん中辺りに流れるように傾斜をつけて、道路側へ排水路を作ってある。垂直に近い排水路の意味が分かった。また松平往還の上にあって移設された馬頭観音というものは実は普通の観音の石仏だった。
午後は新城市で総会の後、深溝松平家の歴史話の講演を拝聴。内容は予備知識がないので半値半壊で終わった。しかし深溝松平の日記は一般に文庫本になって売っているのでそんなにとっつきにくいことではない。講演者もまだ若いのでこれからだろう。地域史を深めると面白い。
総会後、豊川ICから岡崎ICまで高速を飛ばし、岡崎市図書館で松平往還と加茂一揆の史料に当たった。特に集められていることでもない。というのも徳川家康が政権をとると江戸に移って岡崎城の城主は徳川以外が守った。但し松平家の分家は三河一円に多く存在したから折々歩かれたであろう。
ネットから主要な松平分家(十八松平)の一覧
「十八松平」の数え方には諸説ありますが、代表的な分家は以下の通りです。
1 岩津松平家(いわづ):松平信光の長男・親長が祖。初期は一族の中で最も勢力があったとされる 。
2 竹谷松平家(たけや):信光の子・守家が祖。宝飯郡竹谷(蒲郡市)を拠点とした 。
3 形原松平家(かたのはら):信光の子・与副が祖。形原城(蒲郡市)を拠点とした。
4 大草松平家(おおくさ):信光の子・光重が祖。額田郡大草(幸田町)を拠点とした。
5 五井松平家(ごい):信光の子・元心が祖。宝飯郡五井(蒲郡市)を拠点とした。
6 深溝松平家(ふこうず):光重の子・忠定が祖。額田郡深溝(幸田町)を拠点とした。
7 能見松平家(のみ):信光の子・光親が祖。岡崎市能見付近を拠点とした。
8 長沢松平家(ながさわ):親忠(安祥家)の子・親則が祖。豊川市長沢付近を拠点とした。
9 大給松平家(おぎゅう):親忠の子・乗元が祖。豊田市大給城を拠点とした。
10 滝脇松平家(たきわき):親忠の子・乗清が祖。豊田市滝脇を拠点とした。
11 福釜松平家(ふかま):親忠の子・親盛が祖。安城市福釜を拠点とした。
12 桜井松平家(さくらい):親忠の子・信定が祖。安城市桜井を拠点とし、一時宗家と対立した。
13 藤井松平家(ふじい):親忠の子・利長が祖。安城市藤井を拠点とした。
その他の主な松平家
14 松平郷松平家:松平氏発祥の地(豊田市松平郷)を守り続けた家系 。
15 大河内松平家:名知恵・松平信綱を祖とする。三河吉田藩(豊橋市)などを治めた 。
16 久松松平家:家康の異父弟・定勝を祖とする家系(伊予松山藩や桑名藩など)
AIの概要は「岡崎城の歴代城主は、西郷氏の築城(1455年頃)から廃城(1871年)までに、主に松平・徳川氏や格式の高い譜代大名など26人が務めました。最大の特徴は徳川家康の生誕地であることで、家康以降は江戸幕府の神聖な場所として、本多氏、水野氏、松平氏の有力譜代大名が入れ替わりで城主を務めました。
主な歴代城主・関係者
西郷頼嗣(稠頼):初期の築城者
松平清康:1530年頃、城主となり松平氏の本拠地とする
徳川家康:1542年誕生、桶狭間の戦い後に独立し本拠とした
松平信康:1570年~(家康の長男)
ここから後は必ずしも先祖の墓参りの道としての意味は無くなった。(筆者注)
田中吉政:1590年~(家康の関東移封後)
本多康重:1601年~(本多氏系、譜代)
水野氏:1645年~(水野忠善など、譜代)
江戸時代は、本多氏や水野氏、松平(松井)氏など、徳川家に近い大名が転封を繰り返しながら守りました。」以上
当時は塩の道として発展した足助街道(現在の県道39号線)に重きが移ったと思われる。
三遠研役員会 ― 2026年04月02日
午前中は早めに出発。県道58号で岡崎市日影町に行く。松平往還の出入り口が不明瞭なので再度現地調査である。案内書を読みながら現地を観察。3/15は迷いながらもなんとか往還の道につながった。結局、よく読むと県道が拡幅されて削られてしまった。鍋蓋のような道路を山を削って直線的に切通しにしてある。見ただけでは分からないわけだ。
この際県道338の旧道も走って見た。郡界川沿いの一車線の細い道だった。二畳ヶ瀧も見えたが降水後で濁っていた。どこまでも行くと奥殿陣屋の三差路へ出た。一周したわけだ。また瀧脇を経て林夫添のR301の信号に出て新城に向かった。
午後から新城市民文化会館で役員会を開催。4/18の総会の段取りを話し合う。
この際県道338の旧道も走って見た。郡界川沿いの一車線の細い道だった。二畳ヶ瀧も見えたが降水後で濁っていた。どこまでも行くと奥殿陣屋の三差路へ出た。一周したわけだ。また瀧脇を経て林夫添のR301の信号に出て新城に向かった。
午後から新城市民文化会館で役員会を開催。4/18の総会の段取りを話し合う。
歴史街道・松平往還を行く ― 2026年03月15日
徳川家発祥の地である豊田市松平郷から菩提寺の大樹寺を結ぶ古道を松平往還という。墓参に利用されたらしい。平成30年に磯貝榮一氏が『消えゆく松平往還を歩く』という案内書にまとめて発刊された。奥殿陣屋で入手して読んでみてトレースを試みた。日本版ロングトレイルである。
ピークは目指さず山里から山里へ歩く。順路は岡崎城または大樹寺から松平郷が終点になる。名鉄東岡崎駅から歩くと街歩きになることと時間の都合で名古屋からは標高270mの松平郷から同18mの大樹寺へ下る形の山旅になった。
3月半ばになると午前5時半というのに明るくなった。地下鉄鶴舞線・豊田線の始発に乗車、豊田市駅には約30分の6時47分に着いた。豊田市駅はリニューアル工事でごった返していた。駅員に聞いてバス乗り場を教えてもらった。午前7時8分発の下山行きおいでんバスに乗車、R301を走って松平郷に7時38分に着いた。バス停から5分ほど歩いて松平東照宮と松平親氏像を拝観。本当は高月院に詣でたいが割愛してバス停へ戻った。
松平往還の古道の入り口を迷走
当初は林添(はやしぞれ)を経由して南下とイメージしていた。案内書の地図にR301を少しもどって稲荷大神を裾を経由して地形図では無名の高ノ山の山里を経由する赤線があった。しかも✖がある。稲荷大神の界隈へ戻って地図通りに行ってみたが沢筋までは古道を下れた。水田に当たって1mの鉄線のフェンスと2m以上ありそうなネットが張ってあり隙間はなく、戻るしかなかった。✖の意味は進めないということだった。
R301から実線の車道に入った。舗装路ということで民家があるのだろう。狭い谷沿いの道はパッと開けて小さな中山間地に着いた。
鶯の初鳴きが聞こえてきた。土場の先にマイカーを止めた家が一軒あったが無住という感じだ。さらに奥のどん詰まりに若い人がいて聞くと家人に伝えてくれた。地形図で数戸の人家の記号がある高ノ山は1戸のみだった。家人に聞くとここから松平郷までは歩道があり、また七売は子供の通学路だというのである。家人曰く東海自然歩道の道というが、調べると松平ウォーク「寅の径」というコースに絡んでいると分かった。
高ノ山から古道を歩いて七売の里へ
家人に教えてもらった道をたどると行き過ぎたので戻って水田記号との境の林道をたどるとまもなく尾根に登ってゆく印があった。ここが子供の通学路だったというのだ。踏み跡は消え入りそうだったが樹林下なので下草ややぶは茂っていない。すぐに神社記号の元神明神社に着いた。お堂は古びて倒壊しそうな気がした。石段を下ると七売の里だ。下る途中に寅の径の道標があった。これが松平自然歩道の独自のに設定された径だった。
舗装路を歩いて滝脇へ(ここまでは豊田市)
一旦は車道に下って淡々と歩く。石御堂、滝脇小学校は見聞したが、豊田市と岡崎市の市境の郡界川を渡る。下流に二畳が滝があるが割愛。案内書ではここまでがあおいの道であるがバスを下車してかなりのロスタイムがあった。
渡通津町の山里へ松平往還の核心部を歩く
郡界川からは岡崎市に入る。案内書の竹の道である。読みにくい難読地名だが「松平五代長親の歌の一部即ち「・・・渡り通い津・・・」から家康が名付けた地名」という。
市道のどこかに渡通津町(わつづ)へ越える山道があるはずと思ったが何も目印はない。GPSの記号が示す所に多分送電線の巡視路と思われるセメントの道が登ってゆくのでそこに入ってみた。足元は荒廃しているが何とか登ってゆける。落ち葉の道について行くと広い巡視路に交わった。鉄塔巡視路の道標がある。下って見たが道路へ下る明瞭な山道は不明。この道を渡通津へ行くと確かに自然がよく残されていて新緑の頃は良いだろう。動画で見たのもこの辺だろう。地形図の実線の道が全コースを通じて自然度が高いという。やがて渡通津の中心地に下る。とはいえ、有人無人の数戸あるだけの過疎の山里である。
新東名をくぐって米河内へ
ここで少し腹ごしらえ。車道の急坂を歩いてマルタ園(レジャー施設)に向かう。途中から山の中へ入ってゆく。松平往還の案内板がある。この車道は中間地点で鎖がかかって車は通れない。駒立町に下り、また登り返す。唯生句碑が目印だったが見落とした。幸果園への目印を見落としてまた戻る。新東名の下を通過、幸香園を左に見てゆるり登ると射撃場へのゲートか。左の旧道(実線)へ行く。米河内までは荒廃しているがほぼセメントの道だった。
大樹寺から愛環鉄道・大門駅へ
米河内からは大樹寺まで立派な2車線の県道を歩く。今回は登山靴でもなく、スニーカーでもないがビブラム底の固い靴底で車道を歩いたから足裏が痛くなった。案内書では19kmとあるがヤマップの記録では喫茶店での休憩と道間違いの往復、道迷いのロスタイムを含めて、22.4km、8時間21分かかった。登山の原則である早立ち早着きを守って良かった。
喫茶店で一服したりして無事に大樹寺に着いた。五平餅で小腹を満たし、愛環鉄道大門駅発16時17分の電車に乗れた。車窓からは愛知高原の山並みの突起である焙烙山と六所山が目立った。
ピークは目指さず山里から山里へ歩く。順路は岡崎城または大樹寺から松平郷が終点になる。名鉄東岡崎駅から歩くと街歩きになることと時間の都合で名古屋からは標高270mの松平郷から同18mの大樹寺へ下る形の山旅になった。
3月半ばになると午前5時半というのに明るくなった。地下鉄鶴舞線・豊田線の始発に乗車、豊田市駅には約30分の6時47分に着いた。豊田市駅はリニューアル工事でごった返していた。駅員に聞いてバス乗り場を教えてもらった。午前7時8分発の下山行きおいでんバスに乗車、R301を走って松平郷に7時38分に着いた。バス停から5分ほど歩いて松平東照宮と松平親氏像を拝観。本当は高月院に詣でたいが割愛してバス停へ戻った。
松平往還の古道の入り口を迷走
当初は林添(はやしぞれ)を経由して南下とイメージしていた。案内書の地図にR301を少しもどって稲荷大神を裾を経由して地形図では無名の高ノ山の山里を経由する赤線があった。しかも✖がある。稲荷大神の界隈へ戻って地図通りに行ってみたが沢筋までは古道を下れた。水田に当たって1mの鉄線のフェンスと2m以上ありそうなネットが張ってあり隙間はなく、戻るしかなかった。✖の意味は進めないということだった。
R301から実線の車道に入った。舗装路ということで民家があるのだろう。狭い谷沿いの道はパッと開けて小さな中山間地に着いた。
鶯の初鳴きが聞こえてきた。土場の先にマイカーを止めた家が一軒あったが無住という感じだ。さらに奥のどん詰まりに若い人がいて聞くと家人に伝えてくれた。地形図で数戸の人家の記号がある高ノ山は1戸のみだった。家人に聞くとここから松平郷までは歩道があり、また七売は子供の通学路だというのである。家人曰く東海自然歩道の道というが、調べると松平ウォーク「寅の径」というコースに絡んでいると分かった。
高ノ山から古道を歩いて七売の里へ
家人に教えてもらった道をたどると行き過ぎたので戻って水田記号との境の林道をたどるとまもなく尾根に登ってゆく印があった。ここが子供の通学路だったというのだ。踏み跡は消え入りそうだったが樹林下なので下草ややぶは茂っていない。すぐに神社記号の元神明神社に着いた。お堂は古びて倒壊しそうな気がした。石段を下ると七売の里だ。下る途中に寅の径の道標があった。これが松平自然歩道の独自のに設定された径だった。
舗装路を歩いて滝脇へ(ここまでは豊田市)
一旦は車道に下って淡々と歩く。石御堂、滝脇小学校は見聞したが、豊田市と岡崎市の市境の郡界川を渡る。下流に二畳が滝があるが割愛。案内書ではここまでがあおいの道であるがバスを下車してかなりのロスタイムがあった。
渡通津町の山里へ松平往還の核心部を歩く
郡界川からは岡崎市に入る。案内書の竹の道である。読みにくい難読地名だが「松平五代長親の歌の一部即ち「・・・渡り通い津・・・」から家康が名付けた地名」という。
市道のどこかに渡通津町(わつづ)へ越える山道があるはずと思ったが何も目印はない。GPSの記号が示す所に多分送電線の巡視路と思われるセメントの道が登ってゆくのでそこに入ってみた。足元は荒廃しているが何とか登ってゆける。落ち葉の道について行くと広い巡視路に交わった。鉄塔巡視路の道標がある。下って見たが道路へ下る明瞭な山道は不明。この道を渡通津へ行くと確かに自然がよく残されていて新緑の頃は良いだろう。動画で見たのもこの辺だろう。地形図の実線の道が全コースを通じて自然度が高いという。やがて渡通津の中心地に下る。とはいえ、有人無人の数戸あるだけの過疎の山里である。
新東名をくぐって米河内へ
ここで少し腹ごしらえ。車道の急坂を歩いてマルタ園(レジャー施設)に向かう。途中から山の中へ入ってゆく。松平往還の案内板がある。この車道は中間地点で鎖がかかって車は通れない。駒立町に下り、また登り返す。唯生句碑が目印だったが見落とした。幸果園への目印を見落としてまた戻る。新東名の下を通過、幸香園を左に見てゆるり登ると射撃場へのゲートか。左の旧道(実線)へ行く。米河内までは荒廃しているがほぼセメントの道だった。
大樹寺から愛環鉄道・大門駅へ
米河内からは大樹寺まで立派な2車線の県道を歩く。今回は登山靴でもなく、スニーカーでもないがビブラム底の固い靴底で車道を歩いたから足裏が痛くなった。案内書では19kmとあるがヤマップの記録では喫茶店での休憩と道間違いの往復、道迷いのロスタイムを含めて、22.4km、8時間21分かかった。登山の原則である早立ち早着きを守って良かった。
喫茶店で一服したりして無事に大樹寺に着いた。五平餅で小腹を満たし、愛環鉄道大門駅発16時17分の電車に乗れた。車窓からは愛知高原の山並みの突起である焙烙山と六所山が目立った。
研究発表会 ― 2026年02月07日
午後から新城市で研究発表会。午前中に設楽町の古道を歩けないか、と考えていた。咳が酷くて就寝が遅れてしまい、起きるのも遅くなった。そうではあるが道の駅したらを目指して走った。R301からR420に入ると途端に交通量が減る。多くはないが雪も残っている。R420に合流してR257へも同じで閑散として山路を走るとR257だ。道の駅したらはすぐだ。
観光コーナーの案内所にあったパンフには清崎の里山である天神山が紹介されている。ちょっと歩いて見ようか、と車を向けたが道標はないし、地元のおじさんに聞くが整備はされていないらしい。時間も11時になり延期した。与良木峠を越えて海老へ走った。結果、稲目トンネル寄りの町道を走ったらしい。道中に石仏などの昔のよすがを示すものはなかった。
標高点182mから下って信号で左折、清水川に沿う道を遡って・216地点で左折すると旧街道になるようだ。またの機会に歩きたい。
設楽から約30km、30分で新城市。1時間弱あるのでコメダで喫茶を楽しむ。会場入り。
テーマは東栄町の花祭りの話と豊橋市牟呂地区の相撲神事の研究が発表された。
花祭りは天竜川水系だけに伝わる民俗芸能であるが、伊勢神楽の流れをくむという。2回ほど見学したことがある。
花祭りの研究者は『御杣山』の小冊子を頒布されたので1冊購入。伊勢神宮の遷宮の歴史で1回だけ奥三河の「設楽」から御用材が搬出されたというのだが謎に包まれている。それを掘り下げる研究者が居て、継承している人なのである。いずれも豊川に筏を組んで鉄砲流しのような方法で三河湾に流したと思われる。その山は鴨山という説がある。一方で自分の推測ではあるが、鷹ノ巣山から澄川を経て豊川へ、きららの森から椹谷を経て豊川へと。夢のある研究である。
相撲神事の伝わる豊橋市牟呂は和歌山県にも同じ地名がある。朝鮮文化につながる。日本民俗学の草分けの菅江真澄も牟呂の出身である。
帰路はR301を経て帰名。エンジンは快調だ。これだけ信号のない国道のドライブはディーゼルエンジン車には快適である。
観光コーナーの案内所にあったパンフには清崎の里山である天神山が紹介されている。ちょっと歩いて見ようか、と車を向けたが道標はないし、地元のおじさんに聞くが整備はされていないらしい。時間も11時になり延期した。与良木峠を越えて海老へ走った。結果、稲目トンネル寄りの町道を走ったらしい。道中に石仏などの昔のよすがを示すものはなかった。
標高点182mから下って信号で左折、清水川に沿う道を遡って・216地点で左折すると旧街道になるようだ。またの機会に歩きたい。
設楽から約30km、30分で新城市。1時間弱あるのでコメダで喫茶を楽しむ。会場入り。
テーマは東栄町の花祭りの話と豊橋市牟呂地区の相撲神事の研究が発表された。
花祭りは天竜川水系だけに伝わる民俗芸能であるが、伊勢神楽の流れをくむという。2回ほど見学したことがある。
花祭りの研究者は『御杣山』の小冊子を頒布されたので1冊購入。伊勢神宮の遷宮の歴史で1回だけ奥三河の「設楽」から御用材が搬出されたというのだが謎に包まれている。それを掘り下げる研究者が居て、継承している人なのである。いずれも豊川に筏を組んで鉄砲流しのような方法で三河湾に流したと思われる。その山は鴨山という説がある。一方で自分の推測ではあるが、鷹ノ巣山から澄川を経て豊川へ、きららの森から椹谷を経て豊川へと。夢のある研究である。
相撲神事の伝わる豊橋市牟呂は和歌山県にも同じ地名がある。朝鮮文化につながる。日本民俗学の草分けの菅江真澄も牟呂の出身である。
帰路はR301を経て帰名。エンジンは快調だ。これだけ信号のない国道のドライブはディーゼルエンジン車には快適である。
干支に因んだ山名の駒山を歩く ― 2026年01月25日
豊田市矢並町の医王寺で前泊。朝の勤行を聴いてありがたい法話を拝聴した。かつて七面山の敬慎院での冬の勤行はもっと厳しい体験だった。だが今回も寒波の中で低温下でミニ修行となった。
医王寺を出発。R153で稲武の入り口の水別峠で左折。凍結した積雪路の坂道を登って富永調整池のPに停める。
出発は11時過ぎになった。登山口への車道は雪を利用して急斜面の山林内をショートカット。大きなスポーツ施設の上に到達。そこから植林の中の山道に入る。雪はずっと続き途切れがない。上質の粉雪の道だ。林道と出合ったり離れたりして進む。ハイキングコースの案内板もあって雪の中でも見失うことはない。そのうち、床几の峠に着く。ここから右旋回して下ると又林道に出合う。しばらく林道上を歩くと東に展望が開けた。恵那山は見えないが多数の風力発電の山が見える。あれは上矢作町の大船山か。一方で少ない方の風力発電の山は稲武の井山だ。何となく茶臼山も特定出来た。
林道の傍らの石仏を見て駒山への信仰の道だったことを思う。そのうち神杉が林立する境内へと登る。かつて朽ちた堂宇があったが最終的には屋根が倒壊、今は撤去された。最高点に回って山頂票を確認。帰路は雪の中で埋もれる墓石群に詣でた。この社を守っていた住職の墓だ。物知りの話では厳しい修行ゆえに40歳台で死んだと言う。手を合わせて辞した。
屋根付きの休み所で小休止。その後1段下の崩壊の過程にある建物を見学。立派な構えだが朽ちるに任せる。
久々の駒山を辞して林道を戻った。途中、867mの三角点峰も登った。展望はないが最高点である。以後は往路を戻った。スポーツ施設では雪の斜面で子どもらがソリ遊びに興じていた。調整池のPで散会。
医王寺を出発。R153で稲武の入り口の水別峠で左折。凍結した積雪路の坂道を登って富永調整池のPに停める。
出発は11時過ぎになった。登山口への車道は雪を利用して急斜面の山林内をショートカット。大きなスポーツ施設の上に到達。そこから植林の中の山道に入る。雪はずっと続き途切れがない。上質の粉雪の道だ。林道と出合ったり離れたりして進む。ハイキングコースの案内板もあって雪の中でも見失うことはない。そのうち、床几の峠に着く。ここから右旋回して下ると又林道に出合う。しばらく林道上を歩くと東に展望が開けた。恵那山は見えないが多数の風力発電の山が見える。あれは上矢作町の大船山か。一方で少ない方の風力発電の山は稲武の井山だ。何となく茶臼山も特定出来た。
林道の傍らの石仏を見て駒山への信仰の道だったことを思う。そのうち神杉が林立する境内へと登る。かつて朽ちた堂宇があったが最終的には屋根が倒壊、今は撤去された。最高点に回って山頂票を確認。帰路は雪の中で埋もれる墓石群に詣でた。この社を守っていた住職の墓だ。物知りの話では厳しい修行ゆえに40歳台で死んだと言う。手を合わせて辞した。
屋根付きの休み所で小休止。その後1段下の崩壊の過程にある建物を見学。立派な構えだが朽ちるに任せる。
久々の駒山を辞して林道を戻った。途中、867mの三角点峰も登った。展望はないが最高点である。以後は往路を戻った。スポーツ施設では雪の斜面で子どもらがソリ遊びに興じていた。調整池のPで散会。
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