大雪で雪山遭難が相次ぐ2022年02月06日

JPCZ(日本海寒帯気団収束帯)
 報道によると大雪のために山岳遭難が相次いでいる。主にバックカントリーと呼ばれて、スキー場のゲレンデを起点に登山する形態と最初から登山口から山頂を目指す形態がある。昔は山スキーと言っていたが今はスキー人口が減ってボーダーが多くなった。それにつれてボーダーの遭難も激増中である。
 今、日本列島の若狭湾と周辺に向かって大陸から寒気団が押し寄せている。天気情報によれば

「「JPCZ」ってなんだ? 大雪をもたらす雪雲のライン メカニズムを解説」
https://tenki.jp/suppl/tenkijp_labo/2022/01/13/30864.html

JPCZとは…

Japan sea=「日本海」
Polar air mass=「寒帯気団」
Convergence=「収束」
Zone=「帯」
の頭文字をとったものです。

冬型の気圧配置が強まると、シベリア大陸から冷たい風が日本海に流れ込みます。この冷たい風は、朝鮮半島北部に位置する長白山脈(最高峰:白頭山2744メートル)によって、いったん二分されますが、その風下である日本海で再び合流し、収束帯(雪雲が発達しやすいライン)が形成され、雪雲が発達しやすくなります。

この収束帯のことを「日本海寒帯気団収束帯(JPCZ)」と言います。こうしたJPCZの影響を受けるのは、主に東北南部や北陸、山陰などです。JPCZによって雪雲が発達しやすくなり、その雪雲が次々と流れ込むため、大雪となることが多々あります。
以上
・・・今、多発中なのは主に鳥取県地方である。中国山地の西から東にかけての地域である。JPCZが集中的に流れ込んで未曽有の大雪をもたらしている。伯耆大山で2/6に2名中1名凍死した。氷ノ山では年末年始に5人が大雪で閉じ込められて1名が凍死。
 たった今、1名が氷ノ山で下山しないとのことで7日に捜索に入ると報じられている。
 北海道、関東甲信越でもバックカントリー、山スキーに限らず、雪山登山全般で多発している。
 70歳代の登山者が脆くも遭難死していく現状は、気象情報へのリテラシーが無さ過ぎて、無知なまま入山するのは残念、との気がする。加えて登山用の衣服についてもこれだけ厳しいから吟味が必須である。下山できないのは雪で覆われた尾根は何も目印がないから当然である。基本的に往復すると良いが、BCは違ったルートを下るのも原因である。

1 ナイロンテント(ツエルト)は防風にはなるが、細かい隙間から寒風が浸透してくるからそのままじっとしていたら持たないだろう。内張をすれば防寒になるが、コンロを炊いて暖房しないと持たないだろう。避難小屋でツエルトなりテントを張ればいくばくかは保温できるだろう。

2 下着は厚手のオールウールなら防寒に寄与するが化学繊維では頼りない。古い毛のセーターを下着におろしても良いから身に付けるものを再検討すると良い。毛の繊維には中空になっているのでその中の空気が保温の役目をする。化繊は中空がないから冷たい。その代わり汗は吸い取り、放出する。毛は汗や水分で濡れても保温力がある。これが大きな違いである。生死を分ける知識である。

3 バックカントリー(山スキー、ボーダー)の登山者は登る際に赤い布などを下山時の目印に付けているのだろうか。今時はGPSがあるとはいえ、携帯電話と共用だと電池の消耗が早い。これだけ雪が多い年は不測の事態に備えて赤い布、旗を目印に利用したいと思う。

一に風と寒さに耐える防寒と保温のためのツエルト、衣服、スコップ、鋸も要るかも知れない。二に十分な水と食料、燃料、三に連絡手段の確保である。

中国山地の山旅③ 三国山1252m2007年05月05日

 5/5は雨か、と思った。北の高気圧の勢力が強く南の低気圧の接近が遅れているらしい。つまりまだ天気はもちそうである。5/6の雨は必至であろう。1山を登ってから帰ろうと選んだのは当初の三国山であった。
 伯耆因幡美作の三国堺にある。1等三角点のあるピークは岡山県境からは離れている。そのために三国山北嶺と呼ばれている。この山はガイドブックで調べても登り難い場所である。三国堺の1213mは恩原三国山というらしい。登山道はなく積雪期の登山が行われている。
 登山口は鳥取市佐治町の中という小さな山里にある。ここから始まる林道を8km走ると丸太作りの避難小屋のある登山口に着く。少し先に丸太の階段の道が山頂まで整備されている。
 登山道は丸太の階段でありがた迷惑なことである。周囲はブナの巨木が惜しげもなく林立する。目に見える部分はブナであるがすかしてみると杉の植林は主である。急な階段の登山道を息を切らしながら登ると1006mのコブに着く。一旦は下って稜線へ山腹のトラバースが始まる。目的の三国山はブナがびっしり残されている。下部は植林が迫る。
 ガイドブックでV字谷越え、と表現されている所は中々険しいアップダウンがある。フィックスされたトラロープも利用させてもらう。残雪も若干見た。サンカヨウの白い花が咲いている。ここを過ぎると稜線まではわずかだ。
 道なりに稜線に達するが左へは踏み跡すらない。それでもヤブ覚悟で恩原三国山を目指すのか新しい赤テープがついている。三角点に向うと前方に素晴らしいブナ原生林が広がった。何枚も何枚もシャッターを押した。
 足元にはカタクリの花が咲いている。ブナが新緑で覆われると花も終る。花の命は短い。もう1週間先には新緑のブナ原生林が展開しているはずである。山頂は一段盛り上がったピークにあった。そこは切開かれていて広い。約1時間半の登りである。
 1等三角点と展望台があったが展望台は壊れかかっていた。そおと登ると北に眺望が広がった。春霞で大山方面は見えない。天気が保たれているだけましである。やがてNさんが登ってきてぶな林でフィルムを何本か消費したらしい。
 半そでの腕にはもう夏虫が寄って来た。すでに初夏の陽気であった。小腹を満たした後はいよいよ下山であった。3、4、5日と順調な1等三角点の山旅のフィナーレである。
 Pまでは一目散に下った。1時間であった。中まで戻る。帰名は作用ICからにした。途中温泉で汗を流した。作用ICから中国道に入った。午後4時半。しばらくは順調に流れたが神戸付近から渋滞が始まった。名古屋ICまで断続的な渋滞と休憩でICをくぐったのは午前零時過ぎであった。

中国山地の山旅② 船通山と花見山2007年05月04日

 関金温泉は弘法大師ゆかりの古湯であった。開湯は1200年以上まえという。旅館は泊まった鳥飼旅館ともう一軒あるだけ。温泉ブームの昨今にしては寂れた感がある。ところが我々山やにはこれは秘湯と見える。忘れられたような雰囲気の山とお湯こそ我々が求めて止まないものである。
 泉源は自宅内にあり、かけ流し。泉温は40度から50度と適温。沸かしもしないし循環もしない源泉そのものである。泉質はラジューム泉で無臭。よく温まる。近辺の三朝温泉もラドン、ラジューム泉でほぼ同じ。近くにウラン鉱石の出る人形峠があり有名。鉱物の影響を受けているのかも。
 本日は明日の天気が悪くなるとの予報に従い、船通山を繰り上げた。関金から登山口のある日南町までは2時間のドライブの大移動になった。 
 登山口までは比較的スムーズに行った。県内の交通量は渋滞を起こすほど余り多くも無い。日南町矢戸では偶然に松本清張の文学碑を発見した。車内でこの辺りの矢戸という地名は松本清張「或る小倉日記伝」(新潮文庫)の中の「父系の指」の舞台ですよ、と話していたら目の前に文学碑の看板があって早速見学したのはいうまでもない。船通山の島根県側の奥出雲には名作「砂の器」の文学碑もあり清張の臭いがする。
 船通山へはR183から県道15、林道を走って整備されたPの近くに登山口があった。山頂へは約1時間以内と昨日の3時間半たっぷりの登山に比較するとお散歩程度。
 日本神話に因む伝説に彩られた名山である。現在は山頂付近に咲き誇るカタクリの山として知られる。登山道で行き交う人、山頂にたむろする人で一杯であった。カタクリも山頂の平坦面の半分を占める群落をなしている。足元にはキクザキイチゲ、イカリソウ、スミレ、キケマンなどの草花も多い。イチイの大木も見ごたえがある。
 深田さんは山格、標高、歴史を名山の基準としたがこの山も入選していて当然の資格がある。中国山地からは大山一つきりであった。ところが深田クラブ編『日本二百名山』JAC選定『日本山三百名山』とも入っていない。関係者の何たる不見識、不勉強か。
 下山後は日南町にある1等三角点の花見山に向った。ここも山麓から8合目付近までスキー場が開発されていた。入口で500円とられた。周囲は山名どおり花だらけ。八重桜、スイセンは道の脇からゲレンデの最上部までびっしり咲いている。その入山料というわけである。
 ゲレンデの中腹のPにクルマを止めた。平坦なところはスイセンの花園であった。多くの家族連れで賑わう。スキーのコースを登るとゲレンデ終点になり、そこからは山道となった。空身のハイカーが多い。前山を山頂と思って駆け上がったら息切れしてしまった。山頂は先のほうに見えてがっくり。約40分で1等三角点の埋まる山頂だった。東屋もある。周囲は春霞で遠望は効かない。
 下山後は宿泊先の「ふるさと日南邑」に向った。すぐ近くである。2年前は町営であったが個人経営に変ったそうだ。温泉こそないが食事はまずまずで中々サービスがいい。素泊まり3800円、2食で2700円締めて6500円である。
 明日はどこにするか、TVの天気予報に気をかけながら検討した。やはり登り難い三国山1252mにすることになった。

中国山地の山旅① 矢筈ヶ山2007年05月03日

 5/2夜9時、同行のNさん宅を中国山地に向けて出発。東名名神高速は通行量多く時速80km以下でゆっくり走行。特に関西圏に入ると渋滞気味。5/3午前12時半、止む無く西宮名塩SAで車中泊とした。
 5/3朝午前5時目覚める。P内も売店も人と車でごった返している。起き抜けに出発した。中国道はまだ朝早いせいで交通量はやや多めといったところ。本日の晴天率は高く、以後は悪化を辿りそうなので急遽当初予定の三国山を本命の矢筈ヶ山に繰り上げた。
 米子道に入り湯原ICから登山口に向う。朝霧は晴れるの諺通り、蒜山三山、烏ヶ山、大山などがすっきりと青空にスカイラインを描く。午前8時、一向平の登山口はまだ朝早いせいかがらんとしている。
 大山みちは伯耆三山(大山・船上山・三徳山)のうち大山から三徳山を結んでいた修験道の一部で大山滝までは家族連れのハイキングコースとして整備されているが一部遊歩道の崩壊があって名目は通行止めになっている。自己責任でなら入山可能と係の人の弁。
 車道のような遊歩道を行き、自己責任で決壊場所を高く巻いて通過した。鮎返りの滝を見て釣り橋を渡る。深い渓谷である。左岸側に渡る。大山滝まではあまり傾斜もない。加勢蛇川の上流にある高さ37mの大山随一の滝と宣伝されていて堂々としている。ハイカーはここまで、この先は登山者の領域との警告を書いた看板がある。
 登山道に踏み込むと眠り足らない体がしゃんとするようなブナの美林のなかに分け入っていく。素晴らしい。Nさんと感嘆の声を発しながら登る。大山隠岐国立公園の大山のブナ林は西日本最大級の規模とのこと。垂直の気温分布で下は新緑の盛り、上のブナは芽吹いたばかり。大きな尾根をジグザグを繰り返しながら高度を上げる。
 大休峠の手前からは大山、烏ヶ山がよく見えた。谷筋の残雪がまだ冬の名残を惜しんでいるかのよう。
  大山の春惜しむごと谷の雪      拙作
足元の草花も増えるが名も知らない。それが残念だ。大休峠は矢筈ヶ山への分岐。ここは大山へ行く登山道、川床に下る道(中国自然歩道)への拠点でもある。ごじんまりとした避難小屋もある。文字通り大休みしたくなる。
 矢筈へは笹、潅木の中の道で整備された中国自然歩道から整備状況は悪くなる。倒木あり、石のごろごろした所もある。前山への急な道をやり過ごすと傾斜は緩くなる。しかしながら周囲はブナの原生林であり芽吹きさえ覚束ない。タムシバの花が裏日本的な自然を象徴する。
 イチイの潅木を分けて登ると山頂に立つ。6畳程度の狭い山頂の一角に1等三角点があった。『1等三角点百名山』で坂井久光氏は昭和44年4月中旬に登った当時はまだ櫓があったこと、峠でも1mの残雪があったことなどを書いている。今は櫓は撤去されて大勢の登山者が登ってきている。Nさんが来るまでに小矢筈を往復しておいた。
 山頂からの展望は絶品である。大山、烏ヶ山、蒜山三山などが聳える。特に大山は仰角の関係で立派に見える。地元の登山者の一人は3回目でやっと大山を眺めることが出来ました、という。この山は日本海が近く雲に覆われることが多いせいだろう。我々は幸運にも初登山で好晴に恵まれた。
 山頂を堪能した後は元来た道を下山した。登山口に戻ると大勢の家族連れが来ていた。キャンプ場ではいくつかのテントも張ってあった。我々は予約した関金温泉の旅館に向った。