『山と溪谷』誌受領2022年07月20日

 山と溪谷誌に会員募集の広告を出稿しておいた。見本誌は14日ごろに届くはずだが昨日請求してやっと届いた。担当者も在宅勤務のせいか、細かい事務が停滞しているようだ。送金だって4月に送ったのに領収書が届かないのでこれも請求したら送ってきた。
 WEBミーティングには神経を尖らすがこんなアナログ的な事務管理には無神経なのだろう。
 さて、今月は南アルプスの特集だった。そんななかで大武川が甲斐駒への古道だったことを資料を添えて書いてある。この溪谷は俳人の前田普羅が横浜から汽車に乗って甲斐の大自然の中に遊んだ。
    春尽きて山皆甲斐に走りけり    普羅
 人生の悩みを大武川の渓谷に遊んで晴らしていったのだろう。当時は横浜の裁判所の書記官だったから犯罪を犯した人、家族関係のもつれなど人間の不幸が集まってくるところであるから楽しい仕事ではない。自分も他人の不幸に染まってしまうだろうから、つまり仕事のストレス解消になったのだ。
 大武川もどんな溪谷なのか一度は入ってみたい。執筆者の花谷さんはあるいている記録をFBで見た記憶がある。

望岳(岳を望む) 杜甫2021年03月24日

『杜甫詩選』(岩波文庫)から

岱宗 夫れ如何     
たいそう それいかん

斉魯 青未だ了らず  
せいろ せいいまだおわらず

造花は神秀を鍾め   
ぞうかはしんしゅうをきわめ

陰陽は昏暁を割く   
いんようはこんぎょうをさく

胸を盪して曾雲生じ  
むねをうごかしてそううんしょうじ

眥を決して帰鳥入る  
まなじりをけっしてきちょういる
  
会ず当に絶頂を凌ぎて   
かならずまさにぜっちょうをしのぎて

一たび衆山の小なるを覧るべし  
ひとたびしゅうざんのしょうなるをみるべし

・・・五岳の1つである泰山を遠望して作った詩。いつかはきっと山頂に立って足元の山々の小さく見えるのを眺めるであろう。

※衆山は漢語である。前田普羅の主宰する「辛夷」の雑詠欄の題名は「衆山皆響」とするからには愛読書であっただろう。

群馬県嬬恋村スキー行珍道中( 山梨県立文学館へ行く)③2021年01月31日

 スキー宿を出て、R144へ右折。鳥居峠を越えると上田市に戻った。往路と同じ県道で大屋へ戻る。R152へとナビに従う。どこへ行くのかと地図を見ると白樺湖を越える。茅野へ出る道だった。先般降った雪は除雪されていて乾燥路に近く難なく越えられた。茅野からは八ヶ岳の山麓を走り甲府へ向かう。富士川に沿う谷底のR20へ下ると快適な甲州街道である。
 甲府へはナビの計算通り12時半くらいになった。宿から140km、3時間半のドライブになった。結構なロングドライブである。山梨県立文学館で飯田龍太生誕100年のイベントを見学した。1996年には普羅の関係するイベントもあった。そのパンフの在庫はなく、資料室で閲覧した。蛇笏、龍太の俳句展は過去にもあったようだ。
 文学館をでるとナビを設定せずに走ったらいつの間にか富士川右岸へ渡ってしまった。右往左往して結局右岸の県道を走って甲府盆地が狭くなる辺りでR20と合流した。後は茅野までのんびりドライブする。茅野、諏訪からは有賀峠を越えて伊北へ迂回した。伊北からは権兵衛トンネルを抜けて木曽へ走った。中津川市で中央道に入り帰名。700kmを越えるドライブになった。

浅間嶺の空の蒼さよ今朝の秋 山元 誠2020年10月14日

句集『春星』からP228
・・・群青色の空を蒼天という。立秋の日の朝、浅間山の巨体が蒼天に突き出している。浅間三筋の煙を吐きながら活火山のすごさを見せる。足元を見ると立木はなく、草も生えず、荒涼とした溶岩地帯が広がっている。

秋冷の岳揃い立つ甲斐信濃 山元 誠2020年10月13日

句集『春星』よりP187
・・・さてどこからの山岳同定であろう。もちろん上信国境の山の一角に立ってのことに違いない。
 例えば浅間山は北が上州(群馬県)で南と西が信州(長野県)だから間近に高峰を仰ぐことができる。群馬県といえば、最高峰が日光白根山の2578mだから浅間山とは10m違いでほぼ互角である。群を抜いて高い山はない。
 一方で浅間山のすぐ南には赤岳2899mが聳える。揃い立つという表現だから八ヶ岳連峰の眺めは壮観であろう。直線距離にして約90km西には槍ヶ岳も見えるだろう。北アルプスの眺めも峰々が雪で白くなれば鋸の歯に見えてくる。日本でここでしか見られない山岳風景である。
 作者の目はいつしかふるさとの立山の姿を追っていることだろう。三角錐が剣岳、端正な山容は立山か。実家を継いだものの先立たれた弟への思いも募るだろう。今は亡き父母と弟、句に秘められた郷愁と山恋の重なる想いを読み取りたい。

くっきりと浅間の煙今朝の秋 山元 誠2020年10月12日

山元 誠句集『春星』から。これも以前に「辛夷」連載コラムの「好句考」の鑑賞文を転載する。2017年

 つい最近木曽の御嶽山を間近に眺めたがもう噴煙は収まっていた。しかし、浅間山の噴煙は絶えることがない。だから江戸時代に中山道が開通し、馬子が職業として成立すると「小諸馬子唄」が民謡として唄われた。その一番を引く。
♪小諸出て見りゃ 浅間の山に
今朝も三筋の 煙立つ♪
 掲句は「小諸馬子唄」を俳句にしたような気がした。
 ちなみに前田普羅の句集「春寒浅間山」をみた。普羅の俳句にも浅間山の煙が詠まれていた。 
  春星や女性浅間は夜も寝ねず 
  春星を静かにつつむ噴煙か 
  つかの間の春の霜置き浅間燃ゆ 
・・・浅間山のやわらかな山容に女性を見たという句意。普羅はごつごつした険しい山よりも女性的な山容の山が好きだった。
 長谷川伸の戯曲「沓掛時次郎」。義理と人情の股旅ものと呼んだ。「沓掛小唄」の作詞も手掛けた。♪浅間三筋の煙の下で♪と唄う。これを土台に演歌にもオマージュが産まれた。橋幸夫が「沓掛時次郎」で同じフレーズを唄う。沓掛は中軽井沢となって消滅したが浅間山の煙は永遠だろう。


小諸馬子唄
https://www.youtube.com/watch?v=8ZdplEEr6Mc

大衆に親しまれた沓掛小唄
村田英雄の沓掛小唄
https://www.youtube.com/watch?v=JBxXCjuQkmY

橋幸夫の「沓掛時次郎」
https://www.youtube.com/watch?v=JV98WVbzPYg

 これ以降もバリエーションはありますが、島津亜矢の「沓掛時次郎」には浅間は辛うじてあるが、最近の福田こうへい「あれが沓掛時次郎」には浅間三筋の言葉は継承されませんでした。後になると人間同士の絡みが残されるのみ。やっぱりあの噴煙をあげる浅間山の風景のイメージで歌わないと。
 日本の文学と芸能の融合が文芸を産んだ。俳句はその最たるもの。芸能は伝統的な民謡や文学をちょいと切り取って分かりやすく腑分けする。民謡から歌謡曲へ、そして演歌へと受け継がれた。いくら演歌であっても写実的な歌詞は必要です。そこに行かないと得られない風景描写が人心を引き付けるのです。風景と物語が日本文芸の核心です。
あっ、句集名の「春星」は普羅句集『春寒浅間山』の句に見る春星の句へのオマージュかも知れませんね。

普羅の徒を迎へ花咲く父祖の山 山元 誠2020年10月11日

山元 誠句集『春星』から。これも以前に「辛夷」連載コラムの「好句考」の鑑賞文を転載する。

 平成二十二年四月十七日十八日の『辛夷』一千号記念大会は有意義な大会であり、特別な二日間であった。掲句は二日目の立山山麓での吟行で得られた。好天のもとで数十名が山野に散ってコブシや桜の花を、雪解け水がほとばしる谷を、それぞれが詠んだ。中でも出色の一句と思う。
 作者は立山山麓の産である。記念大会に馳せ参じた十七日には「春光や山河溢るるバスの窓」と詠んでふるさとの山河への挨拶をかわした。そして春風に乗ってきたかのごとく続々と会場に集結した『辛夷』の会員たちを作者は特別な思いで眺めた。
 それが「普羅の徒」という表現に結びついたであろう。普羅の声に接した人はもうきわめて少ないはずである。本来は鳴風先生のような直弟子を指すことばのはずである。左様、今日は一千号到達を祝う特別な意味があるのだ。すべての参加者への賛辞である。
 立山山麓は作者の生家があり、普羅は度々訪ねて吟行をしたという。辛夷一家なのである。『辛夷』一千号を寿ぐかのように桜も咲いてこんなにも沢山の普羅の徒を迎えましたよ、と父母に報告する作者である。

恵贈 山元誠句集『春星』(言叢社)2020年10月10日

 台風が反れてくれたおかげで午後から雨が止んだ。部屋に閉じこもっているばかりではいけないので買い物に出かけた。まずはホームセンターでロッカータンスのパイプの支持金具を探した。10月にもなると気温も20℃前後になり肌寒い。それで長袖の服を出そうとロッカーを開いたらパイプの支持具が壊れて衣服が落ちていた。支持具はパイプ受けまたはソケットというらしい。それがプラスチックだったので経年変化と重さでちぎれていた。
 アマゾンにもあるが実物を持って行って直径をノギスを借りて計測してから買った。もう1本ステンレスのセットを購入。これまではフックに掛けていたが多いので1m幅のパイプを付けて洋服などを架けることにした。二つともネジを巻くだけで一汗かいた。
 さて、出かける際にポストボックスに投函されていた書籍小包は近くの喫茶店「コメダ」で開封した。すると立派な句集が出て来た。著者は山元誠氏で、出身は富山市、今は前橋市在住の俳人である。辛夷社所属。これは第二句集になる。立山山麓に生まれて雪の中で育った人だから山岳俳句が多い。近年では海外詠もある。何しろ、実家では父親が前田普羅と交わっていたのである。純粋の辛夷人と言っても良い。明日から徒然に一日一句を鑑賞していきたい。

 以前に書いた「辛夷」に連載のコラム「好句考」の鑑賞文を思い出したので再掲しておこう。

   遥かなるマカルー・ローツェ初日射す    山元 誠

 特別作品「カンチェンジュンガ」の群作の一句。作者はこの年末年始をインドのダージリンに旅した。ネパールとブータンの間に位置する北インドの町である。時々飲むダージリンティーの香りがするような異国情緒を満喫させた作品群であった。
 深田久弥『ヒマラヤ登攀史』によると、カンチェンジュンガが古くから有名になったのは人間の住む所から一番近くに聳えていたからという。直線距離にして50kmほどというから呉羽山から立山間にほぼ等しい。
 インドの暑熱に倦んだ人達は保養にやってきて、未明のタイガー・ヒルに登り、空高くバラ色に輝く荘厳なカンチェンジュンガの威容に接する、という。2590mから神々の座を仰ぐように眺める。まして初日出であるから作者の感動たるや筆舌に尽くし難い体験であった。
 掲句には筆者の所属する日本山岳会東海支部に縁のある山々が詠まれている。70年にマカルー東南稜から初登攀。06年に田辺治らがローツェ南壁の冬季初登攀を果たす。田辺はヒマラヤに通う理由をただ美しいから、と答え、今はダウラギリの雪の中に眠る。山は訳もなく美しいのだ。  2016.5.3 2016年5月号「辛夷」から

初代主宰・普羅しのぶ 高岡市城光寺の二上霊苑普羅塚2020年08月08日

ソース:https://news.yahoo.co.jp/articles/7ea2346bdc2a5e8fd1dc6863410c68133663f3e9
■俳句「辛夷社」立秋忌供養

 県内に拠点を置く俳句結社「辛夷(こぶし)社」(中坪達哉主宰)は7日、初代主宰の前田普羅(ふら)(1884~1954年)をしのぶ立秋忌供養を、高岡市城光寺の二上霊苑にある普羅塚で営んだ。

 普羅は、大正期の高浜虚子門下四天王の一人に数えられる。立秋忌供養は普羅の命日の8月8日に合わせ、毎年この時期に行っている。今回は約20人が参加し、花や果物を供え、般若心経を唱えた。

 北日本新聞西部本社に移動し、記念俳句大会を開いた。1人3句ずつ詠み、互選で入賞句を決めた。天位に二俣れい子さん(砺波)の「普羅の忌の雨に色足す供花あまた」を選んだ。

 立秋忌供養と記念俳句大会は北日本新聞社共催。

 ◇記念俳句大会▽地位=野中多佳子▽人位=川渕田鶴子▽4位=浅野義信▽5位=杉本恵子

・・・・ 8/8 普羅忌
拙稿の掲載誌読む普羅忌かな

春尽きて山みな甲斐に走りけり 普羅2020年04月27日

 前田普羅(まえだふら)。1884年(明治17年)4月18日 - 1954年(昭和29年)8月8日)は、俳人。高浜虚子に師事。「辛夷」主宰。本名は忠吉(ちゅうきち)。別号に清浄観子。(以上Wikipediaより)

 桜はすっかり散って、路上には花びらが舞う。風情も何もあったものではない。名古屋の街は晩春の候とあいなった。
 
 さて、掲載の句は、山岳俳人の面目躍如とした切れのいい作品である。普羅は横浜の裁判所に勤めていた頃、中央線で山梨県の大武川を歩いたという。大武川は甲斐駒に発する中小河川である。水がきれいだろうとは想像する。
 甲斐に走る、という表現は今一だが、大武川の位置から見て、どの山もみな甲斐駒ヶ岳に収斂する様を描いたものか。晩春でもまだ残雪をいただく山々への賛辞である。もう一つ別の句からもうかがい知れる。

春更けて諸鳥啼くや雲の上